「親分、たまらねえ事があるんで、これから日本橋まで出かけますよ、いっしょに行って見ちゃ何うです」
「頼むから日蔭にならないでおくれ、貧乏人の日なたぼっこだ、||ところでお前は日本橋まで何をしに行くんだ、気のきいた
銭形平次は気のない顔を振り向けました。
「冗談じゃありません、
「神武以来は大きいな、尤もお前に言わせると、隣の猫の子が、三毛を産んでも、江戸開府以来だ」
「そんな下らない話じゃありませんよ、通り一丁目の
「呆れた奴らだ、その野次馬の中へ、思いっ切り水でもぶっかけてやりたい位のものだ」
平次は江戸っ子の呑気さと、その物見高さに驚きました。
「ところがその娘は、お琴と言って、たった十七ですぜ、逆立ちをして日本橋を渡って、何ういうことになります。久米の仙人が
八五郎の
そのころ女の子の逆立ちは、思いのほか
「ところが、親分、こいつはわけのある事で、沢屋に取ってはのるかそるかの大仕事、千番に一番の
「恐ろしい事になりやがったな」
平次はまだ茶化し気分でした。女の子の逆立ちと天下の御政道とは関係がありそうもありません。
「こいつは深いわけがあります。まだ時刻は早いから、一度は聴いて下さいよ親分」
八五郎は尤もらしく語り進みます。
「||||」
平次は黙って、煙草に火をつけました。八五郎の物語を聴くには、こんな閑なポーズが反って良かったのです。
「日本橋通り一丁目の沢屋||親分も御存じでしょう」
「
「その物持の沢屋が三代にわたる不運つづきですっかりいけなくなったとしたら、どんなものでしょう?」
「江戸の金持も三代つづくとたいてい変なことになるよ、
「その上沢屋の旦那は、代々の病人だ、悪い奉公人があった日には、一とたまりもあったものじゃない、借金は
「それがどうしたのだ」
八五郎の話は、娘の逆立ちとは、だいぶ縁が遠くなりそうです。
「そのうちで、同じ通り二丁目の金貸、
「||||」
「浅田屋にして見れば、諸方に散っている沢屋の証文を、出来るだけ手に入れ、
「馬鹿にしちゃいけない、叔母さんの部屋借りを追い立てたって、何んの足しになるものか」
「その通りで」
「それから沢屋の方はどうなった」
「沢屋の主人は生れながらの半病人で、近頃は身動きも出来ないで、総領の大三郎は、たった十五でその上念入りの弱虫だ。畳の上に両手を突いて拝んでは見たが、金貸が商売の浅田屋は勘弁してくれそうもない、心掛けた一丁目の表店を、このはずみに、手に入れたくってうじうじしている。この世話場を見せたかったな、親分」
「沢屋には女房もあるだろう、それは何うしたんだ」
「気の毒なことに、沢屋の女房は三年前に死んで、残るのは、主人の三郎兵衛と、倅の大三郎と、娘のお琴だけ、あとは奉公人ばかりですが、主人の難儀は眼に見えていても、誰も口を利く者もない」
八五郎の話は、
「その御難場へ飛び出して、
八五郎は話題が
「それがどうしたんだ」
「そんなに金が欲しくなってもない者に出せるわけはない。せめて暮とか、盆まで待ったら何んとかなるだろう。証文の表が、今月で期限が来るなら、せめてその日まで待ってくれ、もしその日にも払えなかったら、この私が、ちょっとでも日本橋の欄干の上を、
「||||」
「喜んだのは、浅田屋の
「期限は昨日で切れたと言うのか、昨日は三月の
「一日待ったのは、浅田屋の慈悲だ、翌日は四月の一日、矢の催促で、今日という今日、
こんな馬鹿気たことを、明神下まで教えにくる八五郎だったのです。三ヵ
八五郎が夢中になって飛び出して、それからざっと
「さあ、大変、親分はどうしました」
「庭にいますよ、何うしたんです、八さん」
取次いでくれたのは、何時までも若い、恋女房のお静でした。
「親分、沢屋の主人は殺されましたよ、早く行って見て下さい」
庭へ飛び込んだのは、汗みどろになった八五郎でした。
「そいつは大変だ、手を洗ってすぐ行くからそこで話せ」
「それっ切りの事ですよ、今日はお琴が逆立ちで日本橋を渡るんだと言って、通り一丁目から
「お前見たいなあわて者は、どこへ行っても多勢あることだな」
「十七になる出来たての

「呆れた野次馬だ」
「正午の刻の少し前から、橋の上は人通り止めで、江戸橋へかけていっぱいの舟だ、落ちこぼれの娘さんを拾おうと言うのだから、
「芸子が舟べりに逆立ちをするのを、物好きな衆は見物するわけだ」
「時刻はよしと、沢屋の娘のお琴が、日本橋の欄干の南詰へ登りました。不断着だけれど黄八丈に赤い帯、小裾を両
「勝手にしやがれ」
平次は井戸端で手を洗って、手軽に着換えました。
「お琴はちょいと逆立ちをして見せただけ、あとは大した苦労もなく、ツ、ツと真一文字に欄干を伝わりましたよ、扇子も掛け声もなく、素人娘は地味でしたが、欄干の半ばに行くと、お琴は打ち
「沢屋はそれから何うしたんだ、もう支度は出来ているぜ」
平次はせっかちらしく
「もう少し訊いて下さい、沢屋の三郎兵衛は二た時も前に、虫のように殺されているんだ。あわてたところで、生き返る
「仕様のない野郎だ」
「日本橋の欄干は広いから、少し器用なものは誰でも渡れますよ。ところが、お琴に日本橋を渡らせた当の
「ところで、話はそれっ切りか」
「まだありますよ、日本橋の欄干の真ん中で、お琴が落ちかけたわけだ。欄干の中ほどの木の割れ目に、釘が逆様に植えてありましたよ」
「何んだと」
「お琴は、落ちなかったのは不思議なくらいで、しかも痛いのを我慢して、あの子は向う岸まで欄干を渡ってしまいましたよ、足袋を脱いで素足のまんまだ、あの子は釘を踏んで血だらけになっているくせに、表店を取られたくなかったばかり、その血だらけの足で、欄干を踏んでしまったと聴いたら驚くでしょう」
「||||」
「浅田屋も飛んだ罪を作ったり、恥を掻いたり、それでおしまいになりましたが、店からは番頭の宇吉という男が、主人の治平の代りに来ていました。お琴の欄干渡りが済むと、どっと店へ帰ったが、その後が大変で」
「お前も沢屋へ行って見たのか」
「欄干の逆立ち渡りをした、お琴の様子が見たくなりましたよ、広くたって狭くたって、足で渡るのも楽じゃない、それが一寸でも逆立ちで渡るのは、大変でしょう」
「待ってくれ、お琴が怪我をしたのは足じゃなかったのか」
平次は妙なところで知恵を
「そいつは無理です、たった十七の女の子に、逆立ちをして欄干を渡れるわけはありません。お琴は身体の軽い子だが、角兵衛
「沢屋の方は?」
「通り一丁目に帰って見ると、奥の一と間で主人の三郎兵衛が死んでるじゃありませんか、それからが大騒動で」
「とにかく、行って見よう、放ってもおけない」
平次が先に立って、日本橋へ急ぎました。
平次は八五郎といっしょに通り一丁目の沢屋に着きました。主人が死んだ後で、煮えこぼれるような騒ぎです。
沢屋の番頭の喜八郎は、年配の男ですが、腹の底からの江戸の町人で、こんな
「あ、銭形の親分さん、御待ち申しておりました。主人は飛んだ災難で、私どもまで途方に暮れております」
落目になったとは言っても、番頭の喜八郎、手代の佐吉、伊太郎などを従えて、取込み最中の店に働いています。
平次はその中から番頭の喜八郎を呼びました。
「番頭さんも見物に行ったというのか」
「ヘエ、年甲斐もございません、||尤も私ばかりでなく、手代の佐吉も、伊太郎も、小僧の
「下女の何んとか言うのはいる筈だが」
「相模女で、お徳と申します、これは年も取っておりますし、女だてらに見物にも参りませんが、お勝手に残っただけで、昼の支度で忙しかったことと思います」
「||||」
「ヘエ、何しろあの騒ぎでございます、お嬢様が、真昼を合図に日本橋の欄干を逆立ちで渡るという噂で、店中の者は皆んな出払ってしまいました」
五十近い番頭は、見事な
縁側で泣いているのは娘のお琴でしょう、十七と言うにしては、背丈も伸び、江戸娘らしく、存分に負けん気らしいのが、大きい悲しみに
「お嬢さん、
「||||」
すれ違いざま声を掛けた平次に見向きもせず、お琴はしくしくと泣いております。昼のままの黄八丈に、赤い帯が娘らしく、その
橋の上で怪我をしたらしく、足の
「足は何んともありませんか」
娘の答えも待たず、平次は奥へ進みました。八五郎はきな臭い顔をして後をついて来たのは言うまでもありません。
奥の部屋、||一方口でお勝手とはむつかしい通路のあるところ。そこに主人の死骸がおいてあります。
敷いた座布団の上に、胸を
平次はお勝手へ足を運んで、お徳に訊いて見ました。
「
「生れ付きの
そう言われると、それっきりの事です。
通り一丁目に建てた家は、狭いながらなかなかに実用的で、狭い中庭があり、そこから主人の部屋へも通えますが、お勝手口の方はまったく別になっており、下女のお徳がここへ籠った
総領が住んでいるという離屋は小さいながら別棟になっており、これはお勝手からの通路はありますが、店や母屋とは庭と垣根を隔てております。
平次はこの間取りを念入りに調べ、血だらけの
「親分、面白いことを聴きましたよ」
そう考えている平次の前へ、八五郎の
「何だ、八か、どこへ行っていたんだ」
平次はその顔から、新しい情報を
「家中の者に一わたり逢って来ましたよ、小僧の良松と、お嬢さんのお琴さんは、すっかり
人
「で、何んか変ったことでも
「小僧の良松は飛んだおしゃべりですよ、ここからは日本橋は近いにしても、朝早くから、今までに三度も覗いたんだそうで、昨夜二度も行って見たから、皆んなで五度も覗いたということで」
「達者な野郎だな」
「子供ですもの、お嬢さんの逆立ちは、江戸開府以来の
「それから何うしたのだ」
「あの橋の欄干の割れ目へ、釘を植えた野郎がわかりましたよ」
「誰だ、それは、大変なことだが」
「手代の伊太郎ですよ、二十一になったばかり、この野郎がそっと抜け出して昨夜の闇に
「翌る日はお琴さんがあの橋の欄干を踏むんだ、そんな危ないものを、抜きも捨てもせずにそのまま帰って来たのか」
「その釘がどんな事になるか、それを見たかったんですって。お嬢さんが橋の欄干から引っくり返るのを、小僧に取っちゃ、見ておきたかったんでしょう」
「呆れ返った奴らだ、||手代の伊太郎は何んだって、そんな事をしたんだ」
平次は改めて訊きました。
「へ、ヘッ、親分にもそれは見当が付かないでしょう、伊太郎は二十一だ。若くて良い男で、十七のお嬢さんにぞっこん参っている、||お嬢さんのお琴さんが、首尾よく日本橋の欄干を渡ったら、それから何うなると思います」
「||||」
「沢屋の借金は延びて、一日伸ばしに身上は立ち直り、お嬢さんはどこかへ嫁に行くかも知れない」
「?」
「と、一季半季の奉公人の手代は、どう歯ぎしりしたって、お嬢さんへ手の届く筈もなくなるでしょう」
「||||」
「沢屋が身代限りをして、お嬢さんが外へ
「わかったよ、八、そんな企みもあったのか」
「夢中になると男の子も女の子も、何をやり出すものか、見当も付かないでしょう、||憚りながらこの道ばかりは、親分も御存じない」
「勝手にしやがれ」
「ところで、もう一つ大事な話がありましたよ」
「それは何んだい」
「お嬢さんに食い下がって、
八五郎はこんな途方もない
平次はそれから、残る家族の者に逢って見ました。手代の佐吉は、四十年配のお屋敷まわり。高
あとは、ひどい片輪でどんな事があっても外へ出ない総領の大三郎、これは間違っても父親を殺す筈もなく、下女のお徳も
その間に平次は徹底的に四方の様子を調べました。沢屋の
「この上は、外から入った人間を調べるほかはないが||」
「一とわたり近所で訊いて見ましたが、あの騒ぎの中では日本橋の真ん中で誰が通ったか、わかるわけはありませんよ」
八五郎が最初から
「場所を変えて見るのだよ、日本橋の欄干の見える場所、小料理屋の二階から、浅田屋の主人は眺めていたと言うじゃないか」
「行って見ましょう」
平次と八五郎は、そこからすぐ橋の上に引返しました。川岸は
二人の御用聞は、それを一軒ずつ調べて行きます。たいがいは何んの関係もありませんが、一軒だけ、川に臨んだ小さい家から、心得顔の女が顔を出します。
「今日の昼頃、あの騒ぎの真っ最中ですが、お客様がありましたよ。どこの方ともわかりませんが、この
「それだよ、その人に間違いもない、もう少し
平次は思わず飛付きました。場所柄ですけれども客のない時で、女ものんびりして打ちあけてくれます。
「
「その間、暫らく待たした事だろうな」
「いえ、ほんの四半時だけ、欄干渡りが済んでしばらくすると、私は
江戸にはこう言った不思議な客もあるのでしょう、女は大して気にもしていない様子です。昔のフランスには、死刑を見物するために、高い桟敷料を払う客もあったのですから、十七娘のお琴が、日本橋を渡るのに、見物人がない方が反って不思議なくらいです。
「八、お前は眼が良いだろう、||あの石垣の下に、手拭のようなものが浮いているようだ、ちょいと引揚げてくれないか」
そう言う平次の方がよほど眼が良かったのでしょう。
「待って下さい、親分」
飛び出した八五郎は、近所に掛け合って、やがて一隻の小舟を出しました。場所柄だけに竿と
「親分、変なものがありましたよ、さいしょはお
八五郎の差出すのを、平次は手に取って見ました。浅ましい濡れ手拭ですが、どこかに血の跡のような赤いものの付いているのを、平次は見のがす筈もありません。
「八、これは血の跡だよ」
「エッ」
「水へ
「その手拭はどこから来たんでしょう」
「田舎縞の羽織を着た、覆面の客だ、そんな人はないか、八」
「そんな野郎は、江戸中には三万人もいますよ」
「一々当って見るわけにも行くまい、その客の下足を見なかったか、姐さんはそんな事にぬかりはあるまい。勘定を払う客か、値切る客か、只呑みの客か、下足を見ただけで見当は付くだろう」
平次は妙なことを聞きました。下足一つで人柄や
「そう言えば変でしたよ、小料理屋の部屋から、欄干を見物するだけあって、身なりに似合わず、立派な履物でしたよ、
八五郎はすぐ様そんな事まで気が付いていたのです。仙台の殿様が
「八、来い」
平次は日本橋を出ると、いきなり通り二丁目の方へ進みました。
「どこへ行くんです、親分」
「あの百姓
「||||」
「その浅田屋に行くんだ、来い、八」
平次は通り二丁目の裏通りへ入って、金はあるくせにまだ裏店住いの浅田屋を訪ねました。
「親分、私が飛び込みましょう」
八五郎は小さい声で張り切ります。
「用心しろ、相手は、日本橋から裏通りを選って、通り一丁目まで駆けて行く奴だ」
がしかし、八五郎も捕物には馴れておりました。玄関へ廻って、表戸を引っ
忙しい中で見ると、袷は無双になって、地味な老人縞の
表へ飛び出した浅田屋の治平は、八五郎の働きでその場で
× ×
浅田屋は旧悪露見して処刑されました。浅田屋はどうして沢屋を殺す気になったか、八五郎の質問に平次はこう教えてやりました。
「諸方から集めた沢屋の証文の中には、まったくの
平次はそう言って、春たけなわな、美しい陽を楽しみながら相変らず無精煙草を吸っております。それにしても、その頃は大江戸の真ん中の日本橋を利用する人が、何んと多かったことでしょう。