八五郎の顔の広さ、足まめに江戸中を駆け廻って、いたるところから、珍奇なニュースを仕入れて来るのでした。
江戸の新聞は落首と
「お早うございます。良い陽気になりましたね、親分」
八五郎といえども、腹がいっぱいで、でっかい紙入に、二つ三つ小粒が入っていると、こんな尋常の挨拶をすることもあります。
「たいそう機嫌が良いじゃないか、||お前の大変が飛び込まないと、||今日は大きな夕立でも来やしないかと、ツイ空模様を見る気になるよ」
「ヘッ、天下は
「馬鹿野郎、
「親分の縄張り内はろくな夫婦喧嘩もねえが、
「チョイとしたこと||というと」
平次に取っては、八五郎の『大変』よりは、この『チョイとした事』の方に興味を
「橋場の金持の息子が、土左衛門になったんで、いっこうにつまらない話で」
「まだ桜が散ったばかりだぜ、||泳ぎには早いし、金持の息子が、身投げするのも変じゃないか」
平次はこの短い報告の中から、幾つかの
「あっしも、変だと思ったから、昼過ぎに覗いて見ました。死んだ息子の親許の、橋場の伊豆屋ものぞいて見ましたがね||」
「待ってくれ、橋場の伊豆屋の
その頃は江戸八百八町と言っても、人口にして百万に充たず、有名な物持や大町人や、筋の通った家柄は、御用聞の平次ならずとも大方
橋場というところは、いちおう江戸の場末のようですが、吉原という不夜城を控え、向島と相対して、今戸から橋場へかけて、なかなかの繁昌であったことは想像に難くありません。
その橋場の中ほど、
「大した金持なんですってね、こちとらには付き合いはねえが」
「当り前だ。||尤も、伊豆屋の名前は聴いているが、主人は何んと言うか、伜はどんな男か、お前の言い草じゃねえが、俺も付き合いはねえ」
「主人は、
「たいそう悪く言うぜ、
「質を置きに行って断られたわけじゃないから、恩も怨みもありゃしません、||その色息子の菊次郎が、自分の家の潮入の池から笹舟のような小さな釣舟を漕ぎ出し、隅田川の真ん中で引っくり返して、舟は両国の中程の橋
「それは気の毒な」
「死んで見れば気の毒見たいなもので、そのうえ菊次郎には許嫁の娘があったんですよ」
「フーム」
「伊豆屋に引取られて、あっしもちょいと逢って来ましたが、とんだ良い娘でした。近いうちに祝言させることになっていたが、息子の菊次郎はそれを嫌って、向島あたりの凄いのに通いつめ、父親の伊豆屋徳兵衛は腹を立てて、押し籠め同様にしているという噂でした」
「よくあることだな」
「向島の凄いのは、あっしも見ませんが、許嫁というのは、伊豆屋の主人が若い時世話になったとかの武家の娘で、
「フーム」
「少し武家風かも知れないが、それはそれは良い娘でした。あの娘を嫌ったりして、罰の当った話じゃありませんか」
「若い男と女が、いっしょに育ったりすると、反って兄妹見たいな心持になってしまって、夫婦の情は湧かないものらしいな」
「いっこうつまらねえ話でしょう。伊豆屋の若旦那が土左衛門になったと聴いて、橋場まで行って見ましたが、三輪の親分が
八五郎の報告はたったそれだけ、何んの変哲もなく話を結びました。
「あの、お客様ですが」
平次の女房のお静は、障子を開けて、そっと取次ぐのです。
「どなただ?」
「あの、お名前は
「どれ、あっしが行って見ましょう」
若いお嬢さんと聴くと、八五郎は早くも立ち上がって、お静を掻いのけるように。入口へ顔を出すのです。
「あわてた野郎だ」
苦笑いする平次の前へ、八五郎はニヤニヤしながら戻って来ました。
「来ましたよ、親分、とうとう」
「何が来たんだ、少し
「伊豆屋の若旦那の許嫁ですよ。お夏さんとか言った、そりゃ良い娘で」
「それがどうした?」
「橋場から、
「
「水死に何んの疑いもないからと、帰ってしまったそうで、||お嬢さんは路地にいますよ。呼んで来ましょうか」
「ともかく逢って見よう」
平次が引受けると、八五郎はさっそく格子戸をガタピシさせながら路地に飛び出し、
「さアさア此方へ、ズイと入って下さい。遠慮することはない」
などと
八五郎に追っ立てられるように、平次の家へ入って来たのは、噂の通りの良い娘で、十九というには若々しく、
「どうなすった、お嬢さん。伊豆屋さんに何か変ったことでも」
平次は誘いの水を向けるように声を掛けました。
「いえ、何んにも変ったことはございませんが、私の
ピタリと膝に手をおいて、静かに仰ぐ浅黒い顔は、刻みがはっきりして、唇の線の美しさも、
「どんなことが変だと思いました。お嬢さん」
平次は八五郎のモヤモヤするのを縁側に追い
「伊豆屋の総領、菊次郎さんが水死したことは、御存じでしょうね」
「それは今しがた八五郎から聞きました」
「その水死した菊次郎さんは、隅田川に夜中に舟を出して溺れた様子ですが、菊次郎さんは、よく舟が漕げなかったのです」
「?」
「そのうえ、両国の水除けに引掛った死骸の首に、紫色になった大きな
「で」
「死骸になった菊次郎さんが、水除けに引っ掛ったとき、首筋を
さすがは武家の娘で、この十九の娘の、眼の届くには驚きました。首筋と言うのは多分、頸部の
「それだけで?」
「まだございます、||菊次郎様は、五百両の大金を持出したことは判っておりますが、舟にも、橋場近い川底にも、両国近くにも、菊次郎様の
「フーム」
「それだけの大金を持っていらっしゃれば、船は沈んでも、御自分は溺れても、お金の始末はしたことと存じますが」
「その金は、どうした金で」
「昼のうちに、奥蔵から出して、翌日は朝のうちに、人様に払うお金だったそうでございます」
「若旦那が持出したのは?」
「さア、そこまではわかり兼ねますが」
お夏はそれだけは言い兼ねた様子です。おそらく若旦那の菊次郎が、向島とやらにいる女に
「で、お嬢さんのお望みは、私に何をさせようと仰しゃるので」
「菊次郎さんは人手にかかって、
お夏は
「お心当りは、下手人の?」
「私は何んにも存じません」
これ以上は、無理に訊いても、お夏の口を開ける見込みはなかったでしょう。平次はしばらく考えておりましたが、
「参りましょう。三輪の親分には悪いが、どうも放っておけないような気がする」
「有難うございます、親分。それで私の気も済みます」
お夏は、首を垂れて、始めてホロリとするのです。この娘は何を考え、何を目論んでいるのか、平次にも見当はつきません。たった十九の娘が、こんなに利巧な筈はなく、こんなに思いきった行動をとれそうもなく、それよりも、こんなに非人情な筈はないように思えるのです。
お夏の
「ね、親分、良い娘でしょう。
「無駄を言うな、それ、もう伊豆屋だ。大した構えだな、お前が先に入って、御主人に逢いたいと言って見ろ、||お夏さんに逢ったなどと言ちゃならねえ、宜いか」
「ヘエ」
八五郎は心得て店から飛び込みましたが、しばらくすると恐ろしく
「こいつは親分も見当はずれでしたよ。お嬢さんがもう四半刻も前に戻って、旦那の徳兵衛に打ちあけ、御主人が自分で出迎えましたよ」
「そんなことか」
これは平次も少し予想外だったようです。
「これはこれは銭形の親分さん、娘が飛んだ御無理を申上げたそうで、申訳もございません。いやもうこの節の若い者と来ては」
と、
「飛んだことでしたね、お嬢さんが仰っしゃるのもいちおう尤もで。ともかく、いちおう調べたうえ、諦めて頂くものなら諦めて頂くようにしなきゃなりません」
「尤もなことで、ではまア、
主人の徳兵衛は平次と八五郎を引いて、土蔵の前の、人目に遠い小座敷に案内しました。娘のお夏は冷たいほど素気ない挨拶をしたっきり、お茶を運んで来て、あとは顔を見せないのは、八五郎をがっかりさせます。
「何より先に、あのお夏さんというお嬢さんのことを伺いたいのですが」
「飛んだ出過ぎたことをしたそうで、ああいった気性者も親譲りでございます。あの娘の父親と申すのは、立派な御家人でした。良いお役まで付いたのを、私の粗相を
「若旦那の菊次郎さんとは?」
「親同士の許嫁で、本人もその気でいるようですが、伜の菊次郎は、お夏の気性を嫌って、祝言をする気にもならず、しだいに
「飛んだ事というのは」
「向島にお銀の茶屋というのがございます。
「||||」
「だが、若い男と女は、どんな工夫をしても思いのたけを言い交します。伜も、どうして鍵を持出したか、座敷牢を抜け出し、表も裏も見張りが厳重で出られないので、庭の池から、水門をくぐって隅田川へ出た様子です。庭の池は潮入で、水門一つで隅田川に通じます。池には小さい釣舟がありましたので、それを漕いで出たようで、まったく
主人徳兵衛の話はかなり長いものでしたが、
「お店の様子では、お
「検屍に手間取って、伜を引取ったのは
「それでは、仏様を拝まして下さい」
「どうぞ」
主人の徳兵衛に案内されて、平次と八五郎は奥の部屋に入って見ました。親類の人達や近所の衆で、家の中はなかなか混雑しております。
仏様の前はいちおう整えられて、線香が部屋一パイに
平次はいちおう拝んだ上で、早桶を開けさせました。水死人並みの不気味に
死骸には傷の痕はなく、物馴れた平次の眼には、これは溺れたものではなく、首の大動脈を激しく
伊豆屋の店の者をいちおうは調べました。が、これはまったくの無駄骨折りでした。伜の菊次郎の
それに質両替という商売は、多勢の奉公人を必要とするわけではなく、暗くなってから外へ出たのは、下男の元吉たった一人、これは宵のうちに帰って、菊次郎が外へ出たのは、それから大分経ってから、おそらく橋場の渡し舟が停ってずっと後、たぶん真夜中近い刻限だったでしょう。
「引き潮が
主人の徳兵衛はそう言うのです。こうして下男元吉の疑いは、綺麗に
その元吉というのは、喰えそうもない三十男で、伜菊次郎とは一番よく馬が合いそうでしたが、時間の喰い違いが大きいので、まったく問題になりません。
「さて、雲をつかむようなことになったぜ、八」
平次が少し持て余すと、
「まだありますよ、親分、この家の二番目息子、徳三郎に当って見ちゃどうです、兄の菊次郎と違って、堅い一方の評判の良い男ですが、||
八五郎は平次を誘って店へ引返しました。暗い廊下を曲って、
「||||」
八五郎はソッと平次の袖を引くのです。
「||||」
平次も妙にギョッとした心持で立ち
「あ、親分さん」
立ち竦んだのは、女の方||菊次郎の許嫁のお夏でした。男の方は軽く一礼して、身をかわすように、隣の部屋にヒラリと避けてしまいます。それはお夏よりは一つ二つ上の二十歳そこそことも見られる、色の浅黒い、確りした男で。何んとなく手答えのある、確とした感じを与えます。
「お嬢さん||何んかわけがありそうですね、差支がなかったら、話して下さい」
「ハイ」
お夏は少したじろぎましたが、悪びれた色もなく平次に従って、納戸の隣の長四畳に入りました。八五郎は心得て、その入口を見張ったことは言うまでもありません。
「ここなら大丈夫でしょう。さア、聴きましょう、お嬢さん」
許嫁の菊次郎の死骸が、まだ
「御尤もですが、これには深いわけがあります」
「||||」
お夏は端麗な顔を挙げました。まだ頬が上気して、
「私と徳三郎さんは、五年前から幼な
「||||」
「私と許嫁の披露があってからも、菊次郎さんの遊びが止まなかったので、私もつい白い歯も見せず、親しい気持になれなかったので、だんだん
「?」
平次は黙ってその後を
「でも、菊次郎さんが亡くなって、その手文庫を調べますと、お気の毒なことに、私のことが、いろいろ書いてございました。菊次郎さんは、決して私を嫌ったわけでもなく、私が他所他所しくするので、ついたまり兼ねて放埒に身を持ち崩し、向島のお銀さんとやらに通い出したようで」
「||||」
「私はそれを知って、本当に菊次郎さんにすまないと思いました。今さら気がついても、後の祭りですが、せめては菊次郎さんを殺した下手人を挙げ、それから身を退きたいと存じ、明神下の親分さんのところへ参りました」
「||||」
「ところが、徳三郎さんは」
平次にもその消息はよくわかるような気がするのです。お夏に対して冷淡だったと思い込んだ兄の菊次郎が死んだ上は、お夏という獲物はもう、自分のものと思い込んだのでしょう。
「で、お嬢さんは、大方見当がついていることと思うが、菊次郎さんが釣舟で庭の池から出るのは、この間の晩に限ったことではなかった筈だと思うが||」
「三月過ぎになると、時々そんなことはあったようでございます」
「それを知ってるのは?」
「私と、弟の徳三郎さんくらいのもの。あとは奉公人たちは遠くにいるので、一人も知ったものはない筈でございます」
「菊次郎さんは舟は漕げなかったと聞きましたが||」
「私も、それが不思議でなりません」
「この家で舟の漕げるのは?」
「父は自慢でございますが、あとは元吉くらいのものでしょうか」
お夏の答えははっきりしております。
「親分、これからどこへ行くんで」
伊豆屋の店を出ると、八五郎は平次の後を追います。
「向島へ行って見ようよ。菊次郎はそっと夜中にぬけ出して、ときどきそのお銀とやらに逢っていたようだ」
「そいつはたまらねえね、||そのお銀とやらは、大変な女だそうで」
八五郎はまた、
橋場の渡しを越えて、水神の森にかかると、お銀の茶屋はすぐでした。花時が過ぎて葉桜が毛虫だらけになると、暫らくは暇で仕様のないように見えますが。
だが、この葉桜の季節が、お銀の本当の稼ぎでした。お銀の魅力にあこがれた若い男たちは、灯に寄る夏の
その一人が、伊豆屋の菊次郎であったことは言うまでもなく、これがまた、第一等の
「ご免よ」
「あ、銭形の親分さん」
平次が葭簾の中に顔を突っ込むと、お銀は少しあわてて飛んで出ました。二十一、二、
すべてが細々として、頼りないようですが、どこかに
「逢ったことはない筈だが、俺を平次と知っているのか」
「あら、銭形の親分を知らない者はありゃしません。江戸中の人で」
「
平次はちょっと舌打ちをしたい心持でした。一方から言えば、江戸中の悪い人間は、皆んな平次を知っているとも取れるのです。
「用事はもうわかるだろうが、伊豆屋の若旦那のことだ」
「溺れたんですってね。私も長いこと
お銀はちょっと
「いや、若旦那は殺されたのだよ」
「まア」
「お前のところへ、チョイチョイ来るそうじゃないか」
「いえ、近ごろは親旦那がやかましくて、座敷牢とかに入れられているそうで、この春からはお目にかかりません」
「座敷牢に入ってると、どうして知った」
「それはもう、世間の噂で」
店の者にも口留めして、世間には知らせなかった筈||と思いながら、平次はそこまでは素破抜きませんでした。
「若旦那は、夜中に釣舟で来ることはなかったのか」
「そんなことはありません。嘘だと思ったら、いっしょに此処に泊っているお松に訊いて下さい。若旦那はもう、二た月もここへいらっしゃらないんですもの」
お銀は妙に
店の中は思いのほか貧しそうで、若旦那が滅多に来ないというのも嘘ではないかも知れません。
「すまねえが、ちょいと、家の中を見せて貰いたいが」
「え、え、どうぞ、金の
お銀はそう言って、粋な着流しのまま、気取ったポーズで外へ出てしまいました。
平次と八五郎は、その留守で、手いっぱいに家中を捜し廻りましたが、なかなかに
「ちょっとちょっと、お前はいつ頃からここに居るんだ」
平次はお松に訊ねました。
「去年の春からおりますよ」
「たいそう繁昌するようだな」
「それ程でもありませんが」
「伊豆屋の若旦那はチョイチョイ来たようだな」
「去年の秋から、今年の春へかけてよく来ましたよ。三月になってからは、押し籠められたそうで、一度も顔を見せません」
「本当に一度も来ないのか」
「それは確かですよ。来ると、私が追い出されて、その代り小粒一つずつ貰いましたから、忘れるわけはありません」
「なるほどそれは忘れっこはない、||ところでお銀は外へ出ないのか」
「滅多に出ませんよ」
「伊豆屋の店の者は誰か来ないのか」
「下男の元吉さんは、チョイチョイやって来ますよ」
「弟の徳三郎さんは?」
「噂は聴いてるけれど、顔を見たこともありません」
「
「ちょいと出たようです。頭痛持ちで
「||||」
そんな話のうちに、
「あら、もう済みましたの、||千両箱でも見付かりまして」
お銀は葉桜の下を笑いながら戻って来ました。深い表情ですが、いかにも邪念のない姿です。
「飛んだ邪魔したよ、それじゃお銀」
「あれ、もうお帰りですか、せめて商売物のお茶でも上げるのに」
平次はそれを
「お銀、いやさ、お銀さん、邪魔したね。これをご縁に、ちょいちょい来るぜ」
立ち戻ってお世辞を言います。
「ま、飛んだご縁ね」
「ところで、その近づきの印に、
「あらまア、そんな事なら、||お安い御用ね、頬っぺたを
お銀が素直に手を出すと、八五郎はその手をムズと握りました。
「ま、痛い、大変な力ね」
「済まねえ済まねえ、ツイ力が入ったんだ。美い女はとくだぜ」
「とくだか災難だか」
「あばよ」
八五郎は桜の土手を、平次の跡を追いました。
「どうした八」
「とんだ役得で、思いきり柔かい手を握って来ましたよ」
「タコがなかったか」
「
平次はそれを聞くと小首を
「親分、見当はついたようですね」
「いや、まだまだそう手軽には行かない。お前は、お銀の
「あっしは知りませんが、原の郷に
「それじゃ頼むから、お前はそこへ廻ってお銀の前身を訊いて来てくれ」
「親分は?」
「明神下の家で待っているよ。
「ヘエ?」
八五郎は何が何やら、わけもわからずに本所へ廻り、平次はもういちど橋場の渡しを越して、伊豆屋に引返しました。
伊豆屋は
「元吉、もうわかったよ」
「ヘエ?」
元吉のけげんな顔は見事でした。
「お前はいくら貰った?」
「何を仰しゃるんです、親分?」
「
「ヘエ」
何が何やらわからぬ様子の元吉を後に残して、平次は真っすぐに明神下に引揚げました。
八五郎が原の郷から帰ったのはその夕方。
「親分、何も彼もよくわかりましたよ。あのお銀という女の背中の
「そんなことはどうでも宜い」
「あれは
「何が大変なんだ」
「泳ぎの名人で||尤も手は恐ろしく柔かいから、舟は漕げませんね」
「お前も飛んだところへ気がつく、||よしよし、それでわかった。今夜は少し面白いぞ」
「何があるんです」
「下っ引を三四人狩り集めてくれ。橋場の伊豆屋を取巻くんだ。
「ヘエ」
それから日が暮れるまで、平次と八五郎は退屈な時を過しました。そして、暗くなるとともに、もう一度、橋場へ引返したのです。
「ヘエ? また橋場へ行くんで?」
「それも
「ヘエ?」
橋場へ行くと、伊豆屋へは入らず、裏から廻って、かねて用意したらしい、一艘の
「八、頭から、その
「変な匂いがしますね、親分」
「黙っていろ、舟を少し川の真中へ出して貰うから、物を言っちゃならねえ」
「ヘエ」
それは
「月はないんですね」
「黙っていろ、今晩に限ってお月様は邪魔だ」
「あ、何んか、水の音が?」
「シッ」
二人は息を殺しました、どこからともなく微かに水の音が響きます。
それから暫らくのあいだ、八五郎は生れて初めての長い時間を経験しました。向島の方から一艘の小舟が、灯もなく静かに近づくのです。やがてその舟が、平次と八五郎の乗った舟に近づくと、闇をすかして此方を見ている様子でしたが、何事もないと見きわめがつくと、舟足をピタリと停めて、
「もう少し傍へ寄りましょうか、親分」
平次の耳の側で、八五郎は
「いや、動くな||川の中に
平次の声も、微風のようにそよぎます。
それからまた、やや暫らく経ちました。何やら水の音がして、相手の舟にドッシリした物が投げ込まれます。
やがて物音が大きくなって、闇の中にも何やら、飛躍的なものを感ずると、平次の手から一道の
「あッ」
八五郎は思わず声をあげました。泥棒がん燈の丸い光の中に浮んだのは、何んと、
その美しくも無気味な
が、その泥棒がん燈の光を合図に、舟は八方から集まりました。
舟の中に残ったのは男一人、それは飛び込んだ八五郎に取って押えられました。水に跳び込んだ女の姿は、十数艘の船を動員し、八方から、
船の中の男は、伊豆屋の下男元吉、船の中には、風呂敷に包んだ、五百両の小判が転がっておりました。そして人魚のような女は||言うまでもなく水神の森の茶店の女、お銀の姿だったことは言うまでもありません。
× ×
それより半
「お松さん、開けておくれ、||私だよ」
晩春の水の冷たさに、お銀もさすがに
内ではコトコトと音がして、お銀の前にガラリと戸が開きました。
「あッ」
それは思いもよらぬ銭形平次の姿だったのです。
「ここへ来るだろうと思ったよ。サア、着物を着るうちだけは待ってやろう」
平次はそう言って、逃げる思案もつかず、ぼんやり立っているお銀の手に、一とかさねの
「ありがとう、礼を言ったものか知ら、銭形の親分」
お銀はそう言って濡れたままの身体に
お銀も元吉も
八五郎が絵解きをせがむと、平次は、
「わからないところは一つもないだろう。お銀は菊次郎を嫌って、五百両の金だけほしかったのさ。菊次郎が座敷牢に入ると、裏から小舟を出して、すぐ庭の裏の川で、向島から泳いで来るお銀と逢引していたのだよ。五百両持出させた晩、
「ところで徳三郎はどうなりましょう」
「兄を殺したも同様さ、悪い奴だ。元吉を使って、菊次郎が五百両持って出るのを、お銀に知らせたのだろう、||可哀想なのはお夏さ。良い娘だが、少し我が強くて菊次郎といっしょになる気がしなかったのだろう、||でも自分が好きになれないばかりに、菊次郎があんなことになった、罪亡ぼしのために明神下まで飛んで来たに違いない」
「でも、あの女は大した女でしたね。人魚と言うのは、あんなものでしょう」
「何をつまらねえ、||あれは竹竿で男を撲り殺す女だ。化物だよ」
「それに
どこまで行っても、八五郎の女人