「妙なことを頼まれましたよ、親分」
ガラッ八の八五郎、
明神下の平次の家へ、手で格子戸を開けて
||これは
滅多にないことで、
大概は足で開けるのですが
||ニヤリニヤリと入って来ました。
十月の
素袷、
平手で水っ
洟を
撫で上げながら、突っかけ草履、前鼻緒がゆるんで、左の親指が少し
蝮にはなっているものの、
十手を後ろ腰に、
刷毛先が
乾の方を向いて、とにもかくにも、馬鹿な
威勢です。
「
顎の
紐を少し締めろよ、馬鹿馬鹿しい」
口小言をいいながらも、平次は座布団を引寄せて、八五郎のために座を作ってやるのでした。
「でも、若い娘に忍んで来てくれと頼まれたのは、あっしも生れて初めてで」
八五郎はこう言って、
顎を撫でたり、
襟を
掻き合せたりするのです。
「願ったり
叶ったりじゃないか、相手は誰だ」
「親分も知っていなさるでしょう。相手は
本郷二丁目の平松屋源左衛門の義理の娘ですが、まずその
親父のことから話さなきゃわかりません」
「知っているとも。昔は武家だったそうだな、
松平という祖先の姓を名乗っては、
相済まないというので、松平を引っくり返して平松屋は、
義理堅いようなふざけた話だ」
「その平松屋源左衛門というのは、本郷一番の
金貸で、五年前に亡くなった、松前屋三郎兵衛の
跡だということも、御存じでしょうね」
「そんな事も聴いたようだな」
「松前屋三郎兵衛は、松前様のお金を
融通して、一代に万という金を
拵えたが、主人三郎兵衛は、女房のお駒と、小さい娘のお君を
遺して五年前に病死
||それにも変な
噂がありますが、ともかくも、用心棒においた居候の浪人、松平源左衛門というのが、ズルズルべったり、
祝言なしで
後家のお駒といっしょになり、平松屋と
暖簾を染め直して、金貸
稼業をつづけたが、不思議なことに、先代の松前屋三郎兵衛が
溜めておいた
筈の、一万両近い金が、どこに隠してあるかわからない」
「フーム」
「一万両の金の見付からない
自棄もあったでしょう。平松屋源左衛門は三年前から女道楽をはじめ、年上の女房お駒が
嫌になって、
茶汲あがりのお万というのを引入れ、女房のお駒と、先代松前屋の娘お君を邪魔にし、
離屋へ別に住まわせることにした」
「薄情な野郎だな」
「一万両の金が目当ての
入婿だから、金が無いとわかると、年上の女は邪魔にもなるでしょうよ。ところが、女房のお駒はきかん気の女で
||少しは気も変になったでしょうが、
||私は
此家の
心棒だから、
梃でも動かないと言い出し、
離屋の窓々に
頑丈な格子を打ち付け、四方の戸に
錠をおろして、鍵は自分の手に持ったのが一つだけ、娘のお君のほかには、誰も離屋に寄せつけない。
後添の主人源左衛門は、元は武家で腕に覚えがあるから、私を殺しに来るに違いない
||というのだそうで」
「なるほど、そんな事もあるだろうな」
「三度の食事も娘が運んで、下女のお鉄でさえも、
滅多に
離屋へは寄せつけないというから大変でしょう」
「で、その娘がお前を
口説こうというのか」
「そうなんで、ヘッ、ヘッ」
「よっぽどの
不きりょうか」
「と、とんでもない。江戸一番と言っちゃ
嘘になるが、本郷通りで三番とは下りませんよ。昔話の同じ町に生れた八百屋お七だって、あれ
程ではないだろうと、町内の年寄は言いますが」
「そんな娘がねえ」
「あっしには
勿体ないというんでしょう、親分」
「ヒガむなよ。そんなわけじゃねえ、わけがありそうだと思っただけの話さ」
「娘のお君は十八、少し淋しいけれど、可愛い娘ですよ、でも、気の変になった母親の
介抱をして、
降るほどの縁談にも首を縦に振らないのが、あっしに逢いたいというから面白いでしょう」
八五郎はまた
長んがい
顎を
撫で廻すのです。
「
良い気のものだよ」
「母親のお駒が、殺されそうな気がして
叶わないと、
湯島の吉に頼んで来たから、この間から折を見て二三度行ってみるうちに、娘のお君の方がなんか物を言いたそうにしているから、
昨日店の前で逢ったとき、思い切ってそっと
訊いてみると、
||親分、
明後日の晩は義理の父親の源左衛門が留守だから、そっと
亥刻(十時)ごろ裏口から入って、土蔵の蔭へ来て下さい
||とこう言うじゃありませんか」
「で?」
「行ってやったものでしょうか。ね、親分」
「お、気味が悪い。人の膝なんかゆすぶりやがって、金の相談なら引受けるが、
情事の相談はお
門違いだよ。たって
訊きたかったら明神様の
境内にいる、白い
髯の
小父さんに訊くが
宜い」
「あの
易者は当りませんよ。このあいだ
紙入を落したとき十二文の
見料を出して訊くと、水に縁があり、木に縁があるところを
捜せというから、一生懸命ドブを引っ掻き廻していると、伯母さんが仏壇の中から見付けてくれましたよ。婆アに縁があり、線香に縁があるとでも
吐かしゃ
宜いのに」
「話はそれっきりか」
「おまけがありますよ。
||番頭の為之助というのは、平松屋源左衛門が、武家だった頃の
味噌摺用人だったそうで、五十年輩のニヤニヤした
爺仁ですが、あっしとお君が話しているのを見かけて、
||後で、お嬢さんも可哀そうだ、親分は幸い仲が良いようだから、なんとか言ってやって下さいよ。あの人が嫁にでも行けば、世話の仕手がなくなって、
内儀のお駒さんも自分で
拵えた座敷牢から出て来る気になるかもしれません
||と、こんなことを言っていましたが」
「フーム、面白いな。番頭の言い草は『娘を
口説け』と言わぬばかりだ。
岡っ
引なんてものは、あまり人様に好かれる
稼業じゃないが」
平次は何やら考えております。
月のない、生暖かい晩でした。十月になったばかり、街々から
霧が
湧いて、長屋もドブ板も、生け垣も、妙に物々しく見える本郷の一角、開けておいたらしい裏木戸を押して、やや広い庭へ入ると、霧でぼかされた土蔵の壁を
手捜りに、その
庇の蔭へスルリと入りました。
申すまでもなく、八五郎の忍び姿、恋にしては、ひどく
野暮な
拵えです。
それから
小半刻(一時間ほど)、上野の鐘が、霧に
濡れて、びっくりするほど近く聴えました。その捨て鐘が
撞き終った頃。
「もしへ、八五郎親分さん」
耳もとにささやく柔らかい声、聞き覚えのお君の、少し甘えた訴えです。
「お嬢さんか」
「お待ちになったでしょう」
「いや、今来たばかりさ」
八五郎はツイ、恋するもののように、軽い
嘘をついてしまいました。
「で話というのは」
少し寄り添うようにすると、娘の体温が、ほんのりと夜の大気を
温ませて、八五郎をこよなくロマンチックにしてしまいます。
「私は
怖いんです、八五郎親分」
「怖い、どうしたわけだ」
「お母さんは、殺されるに違いないと、自分で
座敷牢のようなものを
拵えて
入り込み、私のほかは誰も入れません。それで、お母さんは御無事でも、こんどは私が
||」
お君は夜の霧の中に、自分を
狙う
魔性のものでも
潜んでいるように、ぞっと身をふるわせて、
四方を見廻すのです。
「お嬢さんに、どんなことがあったんで」
八五郎はそれを
労わるように、小腰を
屈めて、
白々と夜霧に包まれた娘の顔を
覗きました。
「なんともいえない、無気味なことばかりなんです。私は
離屋の入口の、お母さんの隣の部屋に
寝んでいますが、夜中に変な物音がしたり、雨戸の外で人の声がしたり、私をここから追い出そうとしている様子なんです。番頭の為之助どんに相談すると、離屋に泊っていちゃ危ないから、
母家へ移った方が無事だろうと言いますが」
「それから」
「
昨夜なんか、窓から不気味なものが見えたり」
娘心を
脅かすものは、なかなかに怪奇でお君はその正体を説明する
由もありません。
「お母さんには、それを話さないのかえ」
「言ったところで、心配させるばかりですもの。そうでなくてさえ、お母さんも、いつ殺されるかもしれないと、そればかり気にしているんですもの」
「ところで、お嬢さんには、縁談がたくさんあるということだが、一つも気に入ったのはありませんか」
八五郎は話題を変えました。
「でも、みんな変な話ばかり」
お君は
極り悪さよりは、腹立たしさがいっぱいの様子です。
「たとえば、どんな」
「近頃は金三郎さんが、変なことばかり言います、けれども」
それは平松屋源左衛門の弟で、
自堕落と、不道徳と、
汚辱の中に育った美少年であることは八五郎も知っておりました。
そんなのが、
仇同士のようなお君に言い寄るということは、なんか容易ならぬ含みのあるべき筈です。
お君の話のテンポの遅さと、八五郎の
逢曳? を享楽する
心持に
引き
摺られて、いつの間にやら
四半刻(三十分)ほどの時間は
経ちました。
「あ、あれは?」
八五郎の耳には、何やら変な声が聴えたのです。
「ときどき、
離屋の窓の外であんな声がするんです」
「容易ならぬ声だが」
「そうね、いつもの
脅かしと違ってるかもしれません」
二度目の押し
潰されたような声に、お君も少し不安になったらしく、土蔵の
庇の下を
潜って、大廻りに、裏口の前を通り、母親の住んでいる離屋の入口へ出ました。
「お母さん、お母さん」
自分の部屋に入ったお君は、廊下を
距てた母親の部屋に声を掛けました。二枚の厳重な板戸は、内から
錠がおりて、外からは開ける工夫もありません。
「お母さん、どうかしました? お母さん」
内からは返事がなく、板戸を
叩くと、何やら、うめく声が
応えるばかり。
「お母さん、開けて」
お君は息を
弾ませました。次第に
募る不安に、とうとう板戸にしがみつくように、
叩いたり、ゆす振ったりするのです。
「鍵は?」
「お母さんが持っているんです」
「ほかにどこか」
八五郎も板戸に手を掛けましたが、これは思いのほか厳重で、
引手も
桟もなく、力のほどこしようもありません。
「お母さん」
お君は八五郎の
問には答えず、廊下にヘタヘタと
崩折れてしまいました。内から応じたうめき声も、ついには絶えてしまった様子。
外へ飛出した八五郎は、忙しく
離屋をひと廻りしました。六畳に八畳、お勝手も便所も付いた
纏まった建物ですが、窓には
牢格子のような厳重な格子を打って、内には雨戸を閉めているので、
覗いてみる工夫もありません。
元の廊下に戻ると、お君は
精も
根も尽き果てて、板戸を掻きむしりながら、ヒイ、ヒイと悲鳴をあげておりました。廊下の
有明に照らされて、それは哀れにも痛々しい姿ですが、今はそんなものに取合っている
隙もなく、八五郎は精いっぱいの智恵を絞りました。
この上は道具を持って来て壁に穴をあけるか、二枚の板戸をモロに倒すか、土台下を掘るか、屋根を
剥ぐよりほかに工夫もありません。
「お嬢さん、
退いた」
お君を退かせておいて、二三歩
退った八五郎は、
渾身の力を肩にこめて、一方の板戸に突きをくれました。が、大男の八五郎が力一ぱい身体を叩きつけても、板戸は貧乏ゆるぎもしない。
「畜生ッ、これでもかッ」
続け
様に二つ三つやったところへ、
「いったいどうしたことだ、冗談じゃない」
店から番頭の為之助が、二階から主人の弟の金三郎が、そしてお勝手から下女のお鉄が一ぺんに飛んで来ました。八五郎の体当りと掛け声が、町内一ぱいに響きわたるほどの
凄まじさだったのです。
「変な声がするんだ、ここをブチ破るほかに
術はねえ」
「あ、八五郎親分」
番頭の為之助は、薄暗いうちでも、八五郎とわかったらしく、一緒になって板戸を押しましたが、これがまた恐ろしく
頑丈で、大の男二人の力でも、打ち破る見込みもありません。
「こんなことじゃ駄目だよ、待ってくれ、道具を持って来る」
飛出した金三郎は、物置へ行ったらしく、まもなく手頃な
金梃を持って来ました。それを戸と
敷居の間に
噛ませて、三人の力を
併せると、板戸はさすがにメリメリと音を立てながら、敷居から二枚もろに
外れてしまい、
行燈の灯で照らされた、中はまさに血の海。
「あッ」
内儀のお駒は、その中に
俯伏せに崩折れているではありませんか。
「こんなわけだ、親分、ともかくも行って見て下さい」
八五郎が平次の家へ飛んで来たのは、まだ
夜半前、馬のように達者なくせに、息せき切って、これだけ説明するのもかなり手間取ります。
「それだけの話じゃ間違いもなく
自害じゃないか。お前一人で御検死まで
埒を明けるが
宜い。この真夜中に俺を引っぱり出すのは
殺生だぜ」
叩き起された平次は、はなはだ
以て不服そうです。
横着をきめているようですが、実は十手
捕縄を預かっている八五郎に、たまには
独り立ちの仕事をさせてみたかったのでしょう。
「でも、
腑に落ちないことはたくさんあるんですぜ、親分。あっしもずいぶん自害をした女も見たが、あんなのは、どう考えたって自害じゃありませんよ」
「フーム」
「第一、自害にしちゃもがき過ぎだし、刃物がまるっきり違います」
八五郎は
躍起となるのです。
「だが、そんなに
閉りの厳重な部屋へ、人殺し野郎は
入れるわけはないだろう」
「だから変なんですよ、あの部屋は鼠一匹
入れやしません。どこか
隙間から、鉄砲なら
射込めるかもしれないが、傷は間違いもなく突き傷だ。死骸の
傍にはヒョロヒョロの細い短刀が
転げているが、血も付いちゃいません」
「はてね?」
平次も首を
捻りました。
「それに、中年の女が自害でもしようという時、あんな
恰好はしていませんよ。人に見られちゃ
極りが悪いから、晴着くらいは引っかけて、化粧かなんかして、それから取りかかるのが、
死出の旅路とやらでしょう」
「たいそう高慢なことを知ってるんだな」
「
浄瑠璃で聴いた文句ですよ、
||ところが平松屋の内儀のお駒は、部屋の真ん中に
床を敷いて、自分は奥の方の壁寄りに、少し
継の当った寝巻を着て、見栄も
気取もなくブッ倒れているじゃありませんか」
「短刀はどこにあったんだ」
「死骸とは
二間も離れて、これも閉めたままの窓の下、間に
床が敷いてあるし、自害をしたものなら、あんなところへ刃物を投げるわけはありません。第一傷が
物凄くて、あんなヒョロヒョロの短刀なんかじゃありませんよ」
「どこを切ったんだ」
「
喉笛、少し右寄り、前から後ろへ突き抜けるほどの傷で
||部屋の中には血の気もない短刀が一つ」
「フーム、だいぶ変っているな、行ってみよう」
「そいつは有難い」
平次はさっそく
仕度に取かかり、本郷二丁目に向いました。明神下からは遠くないところですが、それでも、ゆくゆく八五郎の知ってるだけの話は引出せます。
「そのとき家中の者はみんな
揃っていたのか」
「主人の平松屋源左衛門だけは留守でした。内儀が死ぬ少し前に出かけたそうで」
「どこへ行ったんだ」
「さいしょはみんな顔を見合せて言いませんでしたよ、
妾のお万に遠慮したんですね。でも、下女のお鉄がとうとう口を割りましたよ。近ごろ
妻恋町に新しく
囲った女があるんですって。さっそく
使をやって呼び戻しましたがね。お万という女はまた、妾の
癖に女房気取りで、途方もない焼餅ですね」
「主人が出かけた時刻を、確かに知ってる者があったのか」
「お君さんが知っていましたよ。
亥刻(十時)の鐘が鳴りはじめると一緒に、源左衛門が出かけたから、それを見定めて、そっと蔵の蔭に廻り、あっしに逢いに来たというんで」
八五郎は肩を
縮めた様子です、またも逢引らしい心持を思い出したのでしょう。
「その源左衛門が、妻恋坂の女のところへ行き着いたのは?」
「そいつはまだ訊きませんでしたよ」
「大事のことだ、廻り路になるが、妻恋坂へ行ってみよう、女の家を知っているのか」
「踊りの師匠のお
雛の家で」
「それならわけはない」
平次と八五郎は、妻恋坂のとある格子戸を叩きました。
「ハイ、ハイ、どなた」
夜半近いのにまだ起きていたらしく、お雛は自分で格子の内に、
手燭を持った顔を見せました。寝乱れてはいるが、なかなか豊満な
良い年増です。
「明神下の平次だが」
「あ、銭形の親分さん」
「いや、ここで
宜い、格子を開けるまでもないが
||今晩平松屋の旦那が
此家から帰ったのは、
何刻だった」
「平松屋さんに、とんだ騒ぎがあったんですってね、
使の人から聴きましたよ、一体あのお万さんが悪いんだわ、
御内儀のお駒さんを、座敷牢なんかに追い込んで」
この女は源左衛門の妾のお万を、自分の
敵のように思っているのでしょう。
「そんな事はどうでも
宜い、俺は旦那の帰った時刻が聴きたいんだよ」
「
亥刻半(十一時)近かったと思いますが」
「
此家へ来たのは?」
平次にとっては、この後の
問の方が大事だったのです。
「
亥刻(十時)の鐘を聴いて、大分経ったようでした」
「鐘を聴いてから、
四半刻(三十分)も経ったように思うか」
「前からのお約束で、
亥刻からお酒の
仕度をしたり、いろいろしましたが、それから
暫くはお待ちしました」
本郷二丁目からここまで、四半刻とかかる筈はありません。
平次はここを
宜い加減に切り上げて、二丁目までの
途々、二カ所の
辻番と、一丁目の
町木戸に訊いてみましたが、源左衛門は、表通りを避けて、ゆっくり歩いた様子で、どちらも気が付かなかったというのです。
言うまでもないことですが、旧幕時代の江戸の治安は、なかなかよく気を配られたもので、今日から考えたほどだらしのないものではなく、辻番所の数にしても、今の交番などよりは
遥かに多く、
駕籠のほかには交通機関というものがなかっただけに、
取締の目は届いたわけです。
平松屋には、湯島の吉が待っていました。土地の
下っ
引で、八五郎と馬の合いそうな、忠実な男です。
内儀のお駒の死を、自害でないと言い出した、八五郎の考え方は、たったひと目、現場を見ただけで、平次にもわかりました。これは
全く、自害であるべき筈はありません。が、内儀の死んでいる
離屋の一室は、完全に外からの通路を
遮断されて、内儀の作った座敷牢、言葉を換えて言えば、『黄色い部屋』(密室)になっているのでした。
「ヘエ、ヘエ、銭形の親分さんで、とんだお手数を相かけます。御覧の通り、外からは鼠一匹入れないところですから」
案内に立った番頭の為之助は、五十近い仁体、着実そうで腰が低くて、少しばかり
卑下慢な調子で、これが主人松平源左衛門
世に
在りしころの
味噌摺用人であったとは思われないほどです。薄い唇、
睡そうな眼、
甲の高い声、
恰幅はなかなかよく、そればかりは
曾て二本差したこともあるらしい人柄です。
「お前さんはそのとき
何処に居なすった」
「
母家の店におりました、少しばかり
帳合の残りがございまして」
「ここに泊るのか」
「月のうち、五六度は泊りますが、すぐ近所に私の家がございます。家内や
伜はそこに住んでおります、ヘエ」
「主人は居なかったそうだが、毎晩家を明けるのか」
「いえ、そんなことはございません、お万さんがいらっしゃるので、外へのお泊りは、せいぜい三日に一度、七日に一度」
番頭の為之助はクスリと笑った様子ですが、場合が場合だけに、その笑いを噛み殺してしまいました。
平次は
提灯を借りて、ザッと外廻りを調べました。
離屋は母屋からは完全に離れておりますが、母家の二階と離屋の屋根とは、スレスレに接しております。が、そこを飛び越して、母家の二階から離屋の屋根へ来たところで、屋根を
剥いで入る工夫はない筈です。
念のため提灯を差し込んで、離屋の縁の下を覗いて見ましたが、床下には巨大な土台をめぐらし、人間は愚か、小犬の
這い込む隙間もありません。わずかに頑丈な窓の上に、幅五寸ほどの
欄間はありますが、そこにも厳重な格子を打ってあるほかに、内側は三寸ほどの狭い板を並べた
蔀になっており、よしやその引き違いの蔀を開けたところで、
息抜にはなりますが、小猫の入るほどの隙間にもならないのです。
番頭と八五郎の案内で牢格子のような外側を
見窮めたうえ、平次は
離屋の中に入りました。入口の六畳、
母家のお勝手に向いた方には、娘のお君が、恐怖と悲嘆に打ちひしがれながらも、精いっぱいの緊張で平次を迎えます。
十八というにしては、少しふけて見えるのは、言うに言われぬ苦労をしたせいでしょう。青白く
引緊った
頬や、思いのほか粗末な
身扮も痛々しく、
紅や
白粉とは縁のなさそうな顔は、娘らしい可愛らしさを押し
潰していながらも、生れつきの美しさは
覆うべくもありません。
「気の毒なことだな、お嬢さん」
平次が
面を
俯せると、お君の眼にはサッと影が差します。
「有難うございます」
精いっぱいの我慢が崩れて、ドッと青白い頬を洗う涙、平次は自分の口から出た、世間なみの
悔みの言葉を後悔するばかりです。
隣の部屋
||母親のお駒の死骸を置いてある部屋とは、廊下で
距てられ、コジ開けた二枚の戸は片寄せてありますが、廊下に立つともう、プーンと血の臭い、
疎い
灯の下に、
惨憺たる
有様が展開するのです。
窓とは反対側の壁に
凭れて、
俯伏せに崩折れた死骸は、八五郎の手でしずかに
起されました。ひと眼見た平次が、ギョッとしたほどの、それは凄まじい
相好です。
四十五六の青黒く痩せた顔、眼はカッと宙を
睨んで、頬から
額に化石した苦悩の
皺、眼鼻立は立派で、決して醜い方ではありませんが、ヒステリックで、
陰惨で、
偏執狂などによくある、
歪んだ顔からくる不気味さは、二度と見る勇気がなくなります。
右寄の
喉笛、今日の知識でいえば、見事に
頸動脈をつらぬいた刃物は、やや細くて鋭利で、後ろ首まで
切っ
尖が抜けているのは、恐ろしい力で打ち込んだもので、決して女の自害ではありません。
従って満身に浴びた血、粗末な寝巻も、畳の床の上も、まさに血の海です。その身体が後ろから突きのめしたように、前に倒れているのは、
断末魔の苦悩のせいでしょうか。
八五郎が言ったように、顔には化粧の跡もなく、寝巻も
至って粗末で、取乱し放題に乱しているのは、中年女の覚悟の
体ではなく、窓の方
二間も先へ放り出した短刀とともに、一つ一つが疑問の種です。
短刀はかなり
業物らしく、
焼刃の色も見事ですが、畳の上へ一寸ばかり突っ立っているのと、刃に血の跡もないのが不思議です。
尤も
鞘もすぐ傍に
転がっております。
「これは誰のだ、見覚えはないか。番頭さん」
と
訊くと、
「まったく見当もつきません、主人も見覚えがないそうで、たぶん
御内儀さんが隠して持っていたものでしょう」
と番頭の為之助は答えます。
「主人の源左衛門を呼んでくれ、ここで訊きたいことがある」
平次が言いつけると、湯島の吉は黙って
母家へ行きました。やがて、
「とんだ御苦労様で、私は主人の源左衛門でございます」
四十前後の、小柄ではあるが、なんとなく精力的な男が入って来ました。元は松平某と名乗った武家が、番頭の為之助ほどではなくとも、すっかり町人になりきって、
町方御用聞の平次に対しても、なかなか
慇懃なところがあります。
「とんだことでしたね、御内儀さんのこんな事になったに
就て、なんか心当りはありませんか」
平次は穏やかに問い進みました。
「私も
面喰っておりますよ、
||尤も、番頭や弟の金三郎には、時々、死にたい
||と
漏らしたそうですが、自分でこんな座敷牢みたいなものを
拵えて入ったくらいですから、
配偶の私も寄せつけなかったのです」
「殺されるかもしれないと言っていたと聴きましたが
||いったい誰に殺されそうだったので?」
「さア、そんな筈はないと思いますが、
何分、少し気も変になっておりましたから」
「ところで、これは大事なことですが、旦那は、松前屋三郎兵衛の跡を継いだのでしょうか、それとも
||」
「いや、私は先代の亡くなった後、人のすすめで、
入婿に入ったとは言っても、
表向祝言をしたわけではありません」
「では、お嬢さんのお君さんは、平松屋の
跡取ではないわけでしょうな」
「その通りで、
尤も平松屋の店は、先代の松前屋から、私が買受けたことになっております。念のために、番頭の為之助が証人で松前屋三郎兵衛の判を
捺した
証文があります。お目にかけましょうか」
「いや、それには及びません。ところで、この
離屋の持主はどういうことになっております」
「証文には店、蔵、一式となっているが、離屋のことは書き漏らしております。家内はそれを言い立てて、離屋は松前屋が娘に
遺したものだと申し、自分で
造作を直して、ここに立て
籠ってしまいました」
内儀の死に暗い影があるとわかって、主人の源左衛門は妙に逃げ腰になります。
尤も、寺に
戸籍のあった時代で、祝言も
仲人もなく、勝手に
後家といっしょになった場合は、世間への名聞も
憚って、表向は
後取りと言えないわけで、それを
慮って、源左衛門は店や蔵の
譲受を、証文にしておいたのでしょう。
五年前、松前屋三郎兵衛の急死に、悪い噂も立ったくらいですから、この証文なども、三郎兵衛が生きているうちに書いたのか、死んだ後で、三郎兵衛の女房だったお駒に判を取出させて作ったのか、お駒が死んだ今となっては、
詮索の
途もなくなったわけです。
「ところで、
母家を見せて
貰いたいが」
「私が御案内いたしましょう、どうぞ
此方へ」
提灯が二
梃、平次と八五郎は、番頭の為之助に案内させて、お勝手から入りました。
板敷に小さくなっているのは、中年者の下女のお鉄、働きものではあるでしょうが、いかにも愚直そうで、何を
訊いても
埒があきません。
「
御内儀さんが可哀想でなりません。見る人をみんな怖がって、とうとうあんな座敷牢を
拵えて、自分で入ってしまいましたが、離屋へ入るのはお嬢さんと私だけでございましたよ」
そんな事を言うのです。
「今晩主人の出た時刻を知ってるか」
「
亥刻(十時)そこそこでした。お勝手のお
仕舞が
済んで、私は隣の三畳へ引揚げた時で」
「ほかの人は」
「番頭さんは店で帳合をしていて、うるさがって私などを寄せつけません。金三郎さんは店二階に早寝で」
「お万とかは」
「
階下の御自分の部屋でした。旦那が妻恋坂へ出かけると、きまってブリブリしておりました」
「旦那とお万はそこへ
寝むのか」
「ヘエ、土蔵の前の六畳で、
||番頭の為之助さんが仕事のことで遅れると、裏二階へ
床を取ります。今晩もお泊りの筈で、早くから私が床を敷きましたが」
店には主人の弟の金三郎が、店火鉢の火のないのに
凭れて、この騒ぎの中に寝るわけにもいかず、ぼんやりしておりました。二十五六の道楽者らしいちょいと
良い男で、これは後で聴いたことですが、お君にちょっかいを出しても、一向に通じないので、
可笑しいほどヤキモキしているということです。
お君はまだ十八、源左衛門の弟の金三郎を、
敵同士のように思っているのですから、これはどんなに骨を折っても通じないのが本当でしょう。
「金三郎さんと言ったね、お前はどう思う
||御内儀さんの死んだことを」
平次は素直に
訊くと、
「姉さんがお気の毒ですよ、兄はあの通りクセが悪いのですから」
少しニヤニヤしているのです。道楽者の自分にも兄の
放埒が眼に余ったのでしょう。
「その御内儀さんは、人に殺されたのかもしれない、お前に心当りはないのか」
「とんでもない、あの
離屋へ入って、殺せるわけはありません」
金三郎はそれを信じようともしないのです。妾のお万は、自分の部屋でフテ寝をしておりました。下女のお鉄に
叩き起させると、
「こんな夜中に、なんの用事があるというのさ。冗談じゃない」
寝巻の上に
半纏を引っかけて、ぷんぷんとして出て来るのでした。三十前後の
頽廃的なポーズと声とを持った女で、いちおう美しくあるにしても、それ以上に悩ましく厄介な感じです。
「
御新さま、
||銭形の親分ですよ」
「銭形がどうしたというのさ、悪い事をした覚えのないものが、ビクビクしてたまるものかねえ、馬鹿馬鹿しい」
水茶屋の
茶汲女で年を喰って、酔っ払いも武家も、御用聞も
博奕打も、物の数とも思わぬ
面魂です。
「
||」
平次はその
自堕落な顔をジッと見ておりましたが、なんにも言わずに引揚げてしまいます。
「どこへ行くんです。親分。あの女は?」
「あの女は馬鹿だよ。男というものを手玉に取って、この世の中に自分ほど
悧巧なものはないと思っている女の見本だよ。男は手玉に取られたような顔をしているだけの事さ。そして、幾人も幾人もの男から捨てられていく女だよ。
||あんな細工をして人を殺せる
柄じゃない」
平次は番頭の為之助を案内に、二階へ登って、表二階の金三郎の部屋から、裏二階の為之助のときどき泊るという部屋まで、念入りに調べました。そして提灯を振り照らしたまま、庭へ降り立ったのです。
「八、その窓の下あたりに、
梯子を掛けた跡がある筈だ、見てくれ」
「
||」
八五郎は提灯を振り照らして念入りに庭を調べておりましたが、やがて、奇声をあげます。
「ありますよありますよ、四角な跡が二つ。一尺くらい離れて、
斜に土に喰い込んで」
「それで
宜い。ところで、梯子はどこにある、番頭さん」
「ツイそこの物置にある筈で」
「それを持って来てくれ」
「これでしょう、親分」
八五郎は
九つ
梯子を一丁、物置の軒から持って来て、庭の四角な跡に
据えました。ピタリと梯子の跡が合います。
「窓の上の
欄間の
蔀が外からでも開くだろう、やってみてくれ」
「あ、なるほど、わけもなく開きますね、そこを
開けると、三寸ほどの隙間から、部屋の中はよく見えますが、
||この狭い隙間からじゃ人は殺せませんね」
八五郎は
梯子の上から声を張り上げます。
「死骸までそんなに遠いのか」
「
二間半はありますね」
「フーム」
平次は何やら考えておりましたが、
「あッ、血、
||梯子の中ほどに、血が付いていますよ、親分」
「そんな事だろうと思ったよ、
蔀の間に血が付いたところはないか、念入りに捜してみな」
「あ、ありますよ、梯子を掛けた場所よりは、グッと右へ寄って、母家の二階の屋根に近く」
「やはり殺しですね、
下手人は誰でしょう」
番頭の為之助は胆をつぶした様子です。
「そんな事がわかるものか、
||それにしても下手人は
大した腕だな、
||番頭さん」
「ヘエ」
番頭為之助は
解ったような、ポカンと口を開いております。
「この家に
槍はあるだろうな」
「主人の元が元ですから槍は二本ございます、六尺の
手槍と、二間半の
大身の槍と」
「
何処にあるんだ」
「
母家の廊下に掛けてあります」
「行ってみよう」
四五人ひとかたまりに、母家へ入りました。見ると廊下の上、
長押に掛けた槍が二本、手槍の方は提灯を
掲げて見ると
埃を
被っていて、これはモノにならず、二間半の大身の槍を
引下して、毛皮の
鞘を払ってみると、
「あッ」
さすがに血の跡はありませんが、今洗ったと言わぬばかりに、一尺以上の
穂から、けら首へかけて濡れているではありませんか。
懐紙を出して強く
拭くと、紙の上には
紛れもない
脂がベッとり。
元の部屋に帰った平次は、主人源左衛門の前にピタリと坐って、調べの跡を話した上、
「御主人、これをなんと見ます、槍は確かに人を突いたばかり、あの蔀の隙間から、二間三尺の槍を使えるのは、この家に二人とある筈はなく、
||そのうえ御主人は、
亥刻(十時)にこの家を出て、
四半刻(三十分)もかかって妻恋坂に着いている、申開きが伺いたい」
平次の言葉も厳しくなります、が、主人源左衛門は、さして驚く色もなく、平然として平次を見返すのです。
「いかにも、重々の疑い
尤もではござるが、私には身に覚えはない。しかし、お駒が私を
怨んだのも無理はなく、私の行跡にも悪いことだらけ
||」
「途中ですが、先代松前屋三郎兵衛の隠した一万両の
行方、御主人は御存じでしょうな」
「いや、一向に知らない、実を申せば、幾度も幾度もお駒を責めたが、そればかりは教えてくれなかった。そんな事が、浅ましいようだが、二人の
仲違いの
因となったのであろう」
源左衛門は首をうな
垂れました。
「では妻恋坂まで四半刻(三十分)もかかったのは?」
「ブラブラと歩いたのだ。が、それは言いわけになるまい。よし、何よりの申開き、あの窓の外から、
蔀の隙間に槍を突込んで、この私を刺せるものか、親分が自分で試してみてはどうだ。
||私も少しは槍の心得があるが、
人間業でそんなことは出来るものでない」
「
||」
「蔀の隙間から、
壁際までは二間半、槍の長さも二間半、
||人間の身体は
朱を盛った
皮嚢のようなもので、突けば間髪を
容れずに血が流れる、お駒は
床の向う側で突かれて、
此方へ
転がって来たのでないことは、誰が見てもわかる」
「
||」
「さア、親分、蔀の向うから、ここをひと突きに、物は試しだ」
平松屋源左衛門は、壁際の死骸の
側に並ぶと、自分の
襟をはだけて、しずかに平次の出ようを待つのです。
「いかにも、これはあっしの負けでした」
平次は
潔く
兜を脱ぎました。二間半
長柄の大槍で、三寸の狭い隙間から、少なくとも二間以上離れている人間を突けるわけはなかったのです。
「親分、
忌々しいじゃありませんか、下手人はあの亭主野郎に
決っているのに」
外へ出ると、八五郎は後からついて来て、
口惜しまぎれに
唾などを吐き散らすのです。
「汚ねえな、お前は腹を立てると、唾を吐き散らす癖があるようだ」
「そんな事はどうでも
宜いじゃありませんか。なんとかして、夜の明けない内に、あの野郎を取って押える工夫はありませんか」
「無いよ、
蔀の隙間からは、どんな槍の名人でも、二間半先に
居る人は突けない。
石突を握って、フラフラとくり出すと、家の中には
灯が
点いているんだから、苦もなく相手に
逃出される、
||待てよ、もういちど提灯を持って来てくれよ、俺はここで待っているから」
平次が庭石の上に腰を掛けて待っている間に、八五郎は
離屋に引返して、先刻の提灯を持ち出して来ました。
「親分、持って来ましたよ。何をやらかしゃ
宜いんで」
「井戸端へ来るのだ、槍はここで洗ったに
違えねえ。おや、おや」
「何を考えているんです、親分」
「井戸端には血を洗った跡もあるが、この
曲者は証拠をバラ
撒き過ぎるようだ。それに槍の穂だけ濡れて、
胴金の下から
柄へかけて少しも濡れていなかったようだな」
「そうですよ」
「そこの物置の中を
捜してくれ、近いところに、なんか隠してあるに違いない」
「ガラクタで一パイですね」
ガラッ八は物置の中に提灯を突込んで
怒鳴っております。
「戸が一枚あるじゃないか」
「二三カ所に穴のあいた、頑丈な戸板ですね、おや、おや、丈夫な
紐がブラ下がって」
「わかったよ、八、もう一度二階へ行ってみよう」
穴をあけて紐をブラ下げた戸板を見ると、平次は急に活気づきました。いきなり
母家に引返すと、その辺にウロウロしている金三郎をつかまえて、主人の部屋から
稽古弓を持出させ、念入に調べた上、こんどは番頭の為之助が、今晩泊ることになっていたという、裏二階のひと間に通り、大して調べる様子もなくいきなり二階正面の格子を
外して二階の
庇に飛出しました。
「八、面白いものを見せる、来い」
「ヘエ」
「それね、この庇から、
離屋の
欄間は手が届くだろう、鼻の先の
蔀を開けさえすれば、その中にいる内儀お駒の様子が手に取るように見えるわけだ」
「親分はもう、この謎はわかったでしょう」
「解ったつもりだ、もういちど離屋へ来い」
「何をやらかすんで」
「お前は離屋の入口に頑張っていて、一番先に飛出した人間を縛るのだ、少し
手剛いぞ」
「なんの」
「それから、家中の者を一人残らず離屋へ呼んで来い」
「
合点」
八は張り切って飛んで行きます。
「みんな
揃いましたよ」
「よしよし、では始めますよ」
平次は人数の揃ったのを見ると、もういちど外へ出ました。離屋の死骸の前には家中の者が、
固唾を
呑んで『次の事件』を待っております。
暫くすると、合図もなく、欄間の蔀がスルスルと開きました。と見るや、ハッと思う人々の前、ちょうど死骸から三尺ほどしか離れていない壁へ、
凄まじいものがサッと突っ立ったのです。よく見ると、それは、大身の槍の
中心だけでした。穂先から
中心の端までザッと二尺五六寸、柄から抜いたまま蔀の隙間から
射込んだもので、射込んだと思うと、槍の穂は
独りでに、元の欄間へスルスルと引上げられていくのです。
気が付いて見ると、槍の
目釘の穴には、
強靱な細い
紐が結んであり、その紐に引かれて、槍の穂は欄間の蔀に引きあげられ、やがてそこから手が出て、器用に外へ引出してしまいました。
「あッ」
と言う間もありません、そのとき座の中から一人
こそと逃出したものがあります。
離屋の敷居を
跨ぐと同時に、
「御用だッ」
八五郎は蛮声とともに、ガッキと組付いたのです。
さんざん
揉み合った末、八五郎に縛られたのは、主人ではなくて、なんと番頭の為之助。
「この野郎は、
内儀さんが離屋の床下に入れて、
生命がけで守っていた一万両の隠し場所を
嗅ぎつけ、母家の二階に戸板に仕掛けた弓を持ち込み、槍の
中心に、紐をつけて射込んだのですよ、昔々、石弓(
弩)というものを
戦のとき使ったというが、板に弓を留めて射ると、かなりの重いものでも、狙い
違わず遠くへ射込める、
庇にそれを仕掛けて石の代りに槍の中心を
つがえ、着換をして、これから寝ようとしている内儀さんの首を射た」
「
||」
聴く人は
固唾を呑むばかり、平次の絵解きは誰も想像もしなかった
程の変ったものです。
「目釘の穴に長い紐が付いているから、槍はすぐ
手繰り寄せられる、お嬢さんが八五郎と話しているあいだ、御主人の出かけるのを待っての仕事だ、店で帳合をしていると思うから、誰も為之助の
仕業とは気がつかない。
||憎いのは下手人の
疑を主人に
被せようとした細工だ。証拠を隠すより証拠をバラ
撒く方が楽だと知った悪智恵だろう」
平次の説明は、
行届きます。
「一万両は、どこに隠してあるんだ」
「いや、それは」
平次は
憑かれたように立ち上がる主人を押えました。
「それは、この私のものだ」
「いや違う、先代松前屋のもので、お嬢さんのお君さんのものに違いあるまい、町役人五人組立ち会いの上で引渡そう」
主人源左衛門、それに争う口実はありません。さっそく人々を呼び集めると、平次は死骸の下、離屋の血だらけの畳をあげさせました。
そこには綿密にカムフラージュをしたうえ、厳重な箱に納めて、一万両の黄金は土の中深く埋めてあったのです。
そして、その上には、一つの手箱が添えてあり、その中には、殺された内儀お駒の筆跡で、松前屋三郎兵衛を殺した下手人
||平松屋源左衛門の罪状をこまごまと
認めてあったのはなんという皮肉でしょう。
一万両の
遺産を手に入れて、松前屋はふたたび店を開きました。若い美しい女房、それはお君だった事は言うまでもありません。気の毒な事に、その
婿は八五郎ではなかったようです。