「山が
と子供の頃から手にかけているから、新太郎君の容態を兎角軽く見る。新太郎君は又重く言う癖がある。今回は元来転地が希望だったので、既に去年の避暑の宿を頭に描いていたから、
「海岸じゃいけませんか?」
と註文をつけた。
「海岸でも結構です」
と丹波さんはニコ/\していた。番頭や小僧の多い商店は下町の開業医に取って一番
「それじゃ海岸にします」
と新太郎君は元気好く答えた。去年までは学生だったから、毎年大威張りで避暑に行けたが、この四月からは親父の店の月給取だ。矢張り一緒に卒業した
「兎に角お父さんから避難出来れば宜いんでしょう?」
と先生も多少その辺の消息を解していた。
「冗談仰有っちゃいけませんよ」
と新太郎君は頭を掻いて診察室を出た。それから薬局の窓口へ廻って、
「もし/\、お薬は後から小僧が取りに参ります」
「
と薬局生は先生のところへ訊きに行って来て、
「お薬には及びませんそうで、折角お
と窓の内から新太郎君を覗き上げた。
新太郎君は

「丹波さんは
とお母さんに相談した。
「そんなに悪いの?」
「いや、今直ぐ
「
「えゝ。店の方の都合さえつけば」
「病気なら仕方ありませんわ。卒業試験の時に毎晩徹夜で勉強したのが
「然うです。学校を卒業すると大抵一遍は神経衰弱をやるものです」
と、まさかそんな理法もあるまいが、母親は
「でも寛一は平気じゃないの?」
「あれは特別です。撲ったって死にません。僕、何でも寛一君と一緒にされるんで困りますよ」
「お前は子供の時から弱かったからね」
「独息子で余り大切にし過ぎたからですよ」
「大切にしてやったり苦情を言われたりしちゃ埋まらないわ」
「毎日頭が重いんです」
「それじゃ私からお父さんに相談して上げましょう。折角卒業しても、身体を
と母親は新太郎君の健康を案じてくれた。父親よりは理解がある。
「活動へ行って
なぞとは言わない。
新太郎君のお父さんは一代で
「
「間違ったんですよ」
「ふうむ。これから間違ってかゝって来たら利用してやりなさい。唯時間を潰しちゃ損だろう?」
「はい」
「違いますと直ぐ言わないで、『此方は銀座の寿商店、
「はい」
「お前は返辞丈けは宜いな」
と冗談まじりに小僧を戒めているところだった。
「行って参りました。矢張り今の中に静養しなければいけないそうです」
と新太郎君は改まって報告した。お母さんには我儘を言っても、父親の前へ出ると鼠のようになる。
「ふむ。
「はあ。お母さんが
「
と父親は奥へ入って行った。
「
と寛一君が近寄った。
「巧く行きそうだよ」
と新太郎君は
「若旦那、
と大番頭の栗林さんが訊いた。
「神経衰弱で少くとも一ヵ月の転地療養を要するそうです」
と新太郎君は今度は大きな声で答えた。それから持場に坐って帳簿を繰り始めると間もなく女中が迎いに来た。恐る/\奥へ入って見ると、
「新太郎や、お母さんから
と父親がもう承諾していたのには、新太郎君、少し
「お母さん、田舎へ行くんですから、せめてもの名残りに、今日はこれから芝居を見て来ます」
と新太郎君は身体が明けば
「心細いことを言うのね。見ていらっしゃい。お父さんには内証ですよ」
と母親は少し
翌日新太郎君は同期卒業で
「
と誘ったが、
「君は罰が当るぞ。おれなんか働きたくても使ってくれないんだ」
と言って、友人は応じなかった。
「親父に使われるのは又違うよ。怠ければ家の損になるから何うしても勉強する。
「神経衰弱って柄でもないじゃないか?」
「いや、嘘じゃない。医者が転地を勧めるくらいだから確かなものさ」
「一体君は神経衰弱の
「馬鹿にするない。これでも朝起きると頭の重いことがある」
「それは酒を
「次に仕事をするのが
「それは人類全体の傾向さ。何も神経衰弱だからじゃないよ」
「実は医者も神経衰弱といえばまあ神経衰弱でしょうなあと頗る不平のようだったよ」
「それ見ろ。この親不孝もの!」
「家へ密告丈けはするなよ」
と新太郎君は事実を告白した。それから夕方まで喋って、
「晩飯を附き合い給え」
と友人を神田辺へ引っ張って行った。銀座は親父の目が光っている。
その次の日に逗子の宿から返事が来た。見晴らしの好い部屋が明いているとあった。未だ海水浴には
「お母さん、長々お世話になりましたが、明日出掛けます」
と新太郎君はその晩荷物を纒め始めた。
「変なことを言うのね、お前は」
「一寸お礼を申上げたんですよ」
「お前に改まってお礼なんか言われると、私は気にしますよ」
「普段が普段ですからね」
「
と言っても、母親は息子の
「荷物がナカ/\ありますよ」
「沢山本を持って行くのね? 皆小説?」
「えゝ。退屈するでしょうから」
「明日何時に立つの?」
「朝の八時の汽車で行こうかと思っていますから、七時を打つのを合図に······」
と新太郎君は
「合図に何ですの?」
「イヨ/\お別れです」
「厭なことばかり言うもんじゃありませんよ。
と母親は怒ってしまった。
「そこが神経衰弱ですよ。皆病気が言わせるんです」
「そんなに心細いなら、誰かつけてやりましょうか? 私がついて行って上げましょうか?」
「いえ/\、それには及びません。大丈夫ですよ」
と新太郎君は慌てた。監督者につかれたんじゃ
「それは然うとお父さんから月給を戴いて?」
「六七八と三月分頂戴しました。これからは万事店員並みで、自分の養生も自分の月給でするんだそうです」
「それは仕方がないわ。お店を休んで保養に行くんですもの」
「転地から帰って来ると夏中只で働かなければなりません」
「その時は前借りをして、チビ/\
「お母さんまで現金ですね。まるで手の平を返したようですよ」
「何故さ?」
「学校へ行っている間は
「虐待なことがあるもんですか。
「
「そんなに恩に着せることはないわ」
「
「改まってお礼を言うこともないわ。親子の間ですもの」
「親子の間に月給制度があるんですね?」
「七八月が心配になるなら、私からお父さんに話して
「
「機嫌好く行ってお
「大抵間に合う積りですが、お母さん、
「まあ、厭な子だねえ。先刻からお別れだの何だのって妙に心細がらせると思っていたら、私からも取る積りだったの?」
とお母さんは合点が行くと共に安心して、早速三十円出してくれた。
翌朝新太郎君は寛一君と清吉に送られて新橋から立った。その折寛一君は、
「少し手廻しが早過ぎるようだぜ」
と言って笑った。
「何だい?」
「二度言うと風邪を引く」
「何だよ。もう汽車が出る」
「
「足許を見るなよ」
「君は去年の松浦さんが忘れられないんだろう?」
「馬鹿を言え」
「今から行って待っているんだろう?」
「馬鹿あ言え。こん畜生!」
「土曜の晩に行くよ。さよなら」
「さよなら。待っている。清吉、御苦労」
と新太郎君は動き出した。
「

と新太郎君は気が咎めると見えて、間もなく父親を問題にした。英語で親父のことをガ


「好かろう筈があるものか」
と寛一君は怖い顔をして見せた。
「何か言っていたかい?」
「うむ。新太郎の奴、お母さんを
「矢っ張り知っているんだね」
「知っているとも。『見す/\嘘と分っていても、それを言えば母親が先に立って騒ぐからと思って黙っていたが、まさかお前も後から神経衰弱を起す約束じゃあるまいな』と僕に一本釘を打ったよ」
「
と新太郎君は
「未だあるんだよ。『女親の馬鹿には困る。お前の前だけれど』と来た。余り無理な拵えごとをすると伯母さんが可哀そうだぜ」
「全然拵えごとでもないんだがな」
「おれにまで嘘をつくなよ」
「いや、
「然うし給えよ。悪いことは言わない。僕は今夜は忠告係だ。未だあるんだぜ」
「何だい?」
「君は既に七月まで引き出していたんだってね? そこへガ

「新井さんは気が小さいからね」
「会計係は気が大きくちゃ困る。兎に角暮までに何とかしてやらないと、新井さんがお目玉を食うよ」
「年末賞与で埋めてやる」
「年末賞与が貰える積りかい?」
「

と新太郎君、甚だ
寛一君は翌日昼過まで海岸の空気を吸って又次の日曜を約したが、
「君、そこの離れにいる男は確かに肺病だよ。折角丈夫な身体を転地療養に来て、病気を
ともう一つ忠告を残して行った。新太郎君はその晩女中に、
「あの離れにいる人は何処か悪いのかね?」
と訊いて見た。
「あの方は······」
「何だい?」
「······あの、肺が極く少しお悪いんだそうでございます」
と女中はモジ/\しながら答えた。
「驚いたな。ふうむ。食器なんかは
「はあ?」
「お茶碗なんか別にしているのかい?」
「いゝえ、
「
と新太郎君は慌て出して、
「もう一人この
と念を入れた。
「あの方も東京でございますよ」
「東京は分っているが、矢っ張り病人だろう? 何処が悪いんだい?」
「チブスをやったとか仰有いました」
「チブスか? 此奴も
「オホヽヽ。でも
と女中は膳を引いて行った。
実際、転地療養に来て丈夫な身体に病気の背負い込みをしては
「肺の方は離れですから大丈夫ですわ。此方の方もチブスはもう
とお上さんは一応弁明した。
「うつらなくても毎日顔を見るのが厭だよ。神経衰弱なんか」
と新太郎君はいくら大きな声を出しても東京まで聞えっこないから安心だった。
「季節外れにお
とお上さんは誤解していた。結局、そこの主人の庶弟のところも貸間をしているから、それへということになった。新太郎君は今度は用心深く
「一人東京から年寄の方が見えています。釣道楽で朝から晩まで岩の上に立っているくらいですから大丈夫でしょう」
とあった。
引き移った宿は前のよりも間数が多く且つ小綺麗で申分なかった。新太郎君は一番好い室を占領した。同宿の老人は毎朝釣竿を
「大分熱心のようですが、何か釣って来ますか?」
と或日そこの主人に訊いて見た。
「あれこそ下手の横好きってんでしょうな。
「河豚は食えますまい?」
「食えませんけれど、釣れないよりは宜いと見えて持って来ます。しかし
「厄介ですな」
「けれども面白いんですよ。釣竿さえ持っていればニコ/\ものです。あれで鯛を釣って来れば
と亭主は笑っていた。
或朝新太郎君は
「
と声をかけた。お辞儀丈けは交換していたが、口を
「今黒鯛の大きいのを釣り落しました」
と相手が極く気軽に応じたので、新太郎君は岩へ上って行った。
「
「ハッハヽヽヽ、あなたは
「えゝ」
「
と老人ナカ/\天狗だ。
「魚が食うと竿へ響くんでしょう?」
「竿から手、手から脳天へ響きます。ブル/\ッとね。何とも言えない好い心持です」
「それは僕も経験があります。心臓がドキッとするでしょう?」
「これは話せますな」
「矢っ張り浮子を使わないで、こんな大きな鯉を引っかけたことがあります」
と新太郎君は手を拡げて見せた。
「鯉はむずかしいですよ。何処ですか?」
「子供の時浅草の釣り堀でやったんです」
「ハッハヽヽヽ」
「ヘッヘヽヽヽ」
「浅草の釣り堀と太平洋を一緒にされちゃ
「太平洋では何が釣れますか?」
「こんな大きな黒鯛を二枚釣り落しました」
と老人も手真似で寸法を示した。釣り落したことばかり言っている。
「お邪魔じゃありませんか?」
「いや、結構です。あなたは東京だそうですな?」
「はあ」
「私も東京です。私は道楽で来ていますが、あなたは御休養ですか?」
「えゝ、少し神経衰弱をやりまして」
と新太郎君は逗子でも都合によっては神経衰弱を利用する。
「
「何あに、大したことはありません」
「一つ神経衰弱の直る妙法を伝授しましょうか?」
「承りましょう」
「これです」
「何れですか?」
「これですよ」
と老人は釣竿を動かして見せた
「それを喰べれば死にましょう?」
「いや、これは毒です。釣魚が神経衰弱の薬なんです」
「はゝあ」
「釣魚ぐらい気の
「成程」
と新太郎君は相槌を打って傾聴の態度を取った。老人の説によると、釣魚は
翌日老人が釣魚に誘った。新太郎君は釣魚を見物するのが馬鹿の標本のことを知っていたが、先方は神経衰弱を直してくれる積りだから断り兼ねた。しかし老人、この日は好運に恵まれて、見る/\大きな磯魚を三
「何うです? あなたも釣竿をお求めになっちゃ?」
「
と新太郎君は興味を覚えた。
「これから町へ行って私が
と老人はナカ/\親切だった。新太郎君は釣道具一切を揃えて、昼から又お供したが、河豚を三疋釣ったばかりだった。
「汐加減で河豚ばかりです」
とお師匠さんも十疋ばかり釣った後、早目に切り上げることにした。
宿へ帰ると間もなく、新太郎君の室の窓下で鶏が
「西川さん、大物が釣れましたな」
と老人はもう名前を覚えてしまった。
「いや、
と新太郎君は亭主に気の毒でならなかった。
「何あに、明日黒鯛が釣れる
「海じゃ駄目です」
「いや、あなたは確かに見込があります」
と老人はいつの間にか明日の約束を固めた。
次の日、玄人と素人はかなり遠方まで出掛けて、長い岩鼻の突っ先に陣取った。
「
と新太郎君は幾度も餌を取られてから感想を洩らした。
「何故ですか?」
「斯うやってゴカイを
「しかし鉄砲よりは罪が軽いです。鉄砲は
と老人は又々釣魚の
「大変な議論です。おやッ!」
と驚いて竿を引いた時、新太郎君は可なり大きなのを釣り上げた。
「おや/\」
「何でしょう?」
「黒鯛々々。これはお手柄だ」
と老人は自分のことのように喜んだ。名ある魚は滅多に磯から釣れるものでない。この黒鯛は矢張り神経衰弱で転地をしていたものか、或は何か特別の天意があった一疋かも知れない。
兎に角、これが病みつきで、新太郎君は釣魚が大好きになった。毎日老人と二人づれで出て行く。もう黒鯛はかゝらなかったが、磯魚が結構釣れた。天然療法が効を奏して、心持あった神経衰弱も拭ったように取れた。その間に寛一君が両三度遊びに来て、海水浴の季節が近づいた。新太郎君の許された一ヵ月の静養期間が切れた頃、もう帰って来そうなものと待っていた寛一君は或日次の手紙を受取った。
寛一君。
大変なものが釣れた。黒鯛どころの騒ぎじゃない。今日昼から釣魚に出掛けようとすると松浦さんの姉妹にバッタリ行き合った。僕を覚えていてくれたのは有難い。
「おや/\」
「あらまあ」
といったような次第さ。二人は宿を探しに来たのだ。
「これは/\」
と又覚えていて貰ったのには光栄身に余った。
「去年のお連れも御一緒ですか?」
と、君も光栄だぞ。しかし僕は、
「彼奴は店番に残して来ました。僕達はもう卒業したんです」
と言ってやった。僕の宿を紹介したら、気に入って直ぐに
寛一君、君の言った事が実現した。

六月三十日
新太郎
寛一君
羅紗問屋
「親父は
と新太郎君が
しかし西川さんは息子や甥が想像しているような唯むずかしいばかりの分らず屋でない。そこは腕一本で
「寛一さん、君も今度は卒業だが、
とその折伯父さんが訊いた。
「
「
「有難うございますが、
と寛一君は
「成績は然う関係しないよ。現に俺の知っている重役は一番や二番を集めたら
「恐れ入りますな。しかし三十番以下と来ています」
「何あに、下の方にいて落第をしないのは融通の利く証拠さ。三十番なら十番の三倍方使える勘定になる」
と伯父さんはいつになく冗談を言って話し込んだ末、
「寛一さん、商売と学校は
と急に思いついたように切り出した。
「はあ?」
と寛一君は全く意外だった。寿商店の番頭は皆小僧上りの腕利き揃いだ。学校出は理窟ばかり達者で仕事が出来ないから一切使わないことにしている。
「万事新太郎と一緒にやって貰うさ。
「私で出来ることなら······」
「新太郎の相談相手さ。二三年やって一通り商売が分ったら、二人で
「そんなことは何うでも
「何あに、それは将来のことさ。従兄弟同志同じ商売をしていれば相談相手になれるからね。彼奴が脱線しかけた時、君がブレーキをかけてくれゝば宜いんだ。差当りは君が側にいて勉強してくれゝば、彼奴独り怠ける
「はあ」
「一生の方針に関係することだから、まあ、ゆっくり考えて見てくれ給え」
「
と寛一君は

家へ帰ってお父さんに相談したら、
「それは
とあった。父は官吏だが、帝大を出てさえいればと常々残念がっている下積みの方だから、必ずしも俸給生活に満足していない。自分の算盤玉でやって行く商人の自由な
「寛一君、宜しく頼むよ」
と新太郎君も歓迎した。寛公なら組し易い。気心の知れないものよりも我儘が
「寛一や、お前が来てくれゝば新太郎にしても
と
成程、商売と学校とは違う。従兄弟同志は勤め始めてから一週間ばかりたった時、ツク/″\
「寛一君、何と物は相談だが、もう少しお手軟かに願えまいかね?」
と妥協を申出た。
「うむ? 何?」
「君と二人で店の
「君、君、そんな大きな声を出すなよ」
と寛一君は
「ハッハヽヽヽ、それじゃ奥へ行って話そう」
と新太郎君は今しがた親父さんが出て行ったのを幸い、寛一君を誘った。
「世の中が大分変って来ましたな」
と栗林さんは二人の姿が消えた時、眼鏡を額へ休ませて独りごとのように感想を洩らした。
「いかさま。ヘッヘヽヽヽ」
と会計係の新井さんが応じた。
「大旦那も急に頭が新しくなりましたよ。将来は学校出で固める積りなんでしょう」
と門倉君も黙っていなかった。お
「学校出なんて甘いもんですなあ。二人がかりで丁度一人前の仕事をしていますよ」
「そこは
と他の二人は更に
「何うだね? お店は忙しいの?」
と奥ではお母さんが新太郎君と寛一君を迎えた。
「忙しいの何のって、頭がガン/\します」
と新太郎君は火鉢の側に坐った。
「大袈裟だねえ、お前は」
「
「しかし下読みや試験がない
と寛一君は
「算盤なんか毎日試験も同じことだよ。後から/\と間違ったことが
「まあ/\、お茶でも入れましょう。お父さんの留守の間に息抜きをするさ。商売となれば
と母親は
「僕は何うも神経衰弱のようだ」
とこの時新太郎君は初めて神経衰弱を言い立てたのである。
「そんなことはないでしょう」
「
と寛一君も否定した。新太郎君は別に主張もしなかったが、
「僕達は
と
「それはお前、お父さんは精神丈けを
とお母さんは心得を説いた。
「ところが主人も学問も店へ出ると
「お父さんは誰でも頭ごなしですよ。口やかましいのは今始まったことじゃありません。あゝいう人だと思って辛抱するより外仕方がないわ」
「お父さんがもう少し気を利かしてくれると、僕達も大きな顔をしていられるんですが、毎日散々ですよ。ねえ、寛一君」
「さあ。そんなでもないじゃないか」
と寛一君は兎に角全力を尽して勤めている。
「お父さんに叱られる上に店員に
「
「年寄は好くしてくれますが、若い奴等が生意気でいけません。
と新太郎君は実例を持ち出して訴えた。
「英語でしょう?」
「えゝ」
「教えてやれば
とお母さんは
「いや、
「あれには僕も弱った。仕舞いの方は機械の説明だから、てんで見当がつかない」
と寛一君も門倉君に試めされたのだった。
「意気地のない人達ね。大学まで行っていながら」
「宜いですよ。同情して下さらなければこのまゝ辛抱します。けれどもお母さん、二丁目の増本さんのところのようなことがありますからね」
「厭やなことをお言いでないよ」
「
「新太郎や」
「貞吉君は弟が大勢あるから宜いようなものゝ、僕は一人息子ですからね。後が案じられます」
「新太郎や、お前は
とお母さんは不安そうな顔をした。
この中休み以来悪い癖がついた。新太郎君はお父さんが出掛けると、必ず、
「あゝ/\/\」
と伸びをして、寛一君を奥へ誘う。店員は笑っている。時にはお母さんの方から気を利かして呼びに来ることもあった。
「朝から何をしているんだ? お前もお前じゃないか? 店員と分け
と呶鳴りつけられて、西洋菓子を御馳走していたお母さんは一言もなかった。
「お前達も
と二人も厳しく申渡された。新太郎君は今は早これまでなりと思ったのか、それから神経衰弱が日一日と
これは新太郎君の
「原田さん、こゝのところを一寸読んで下さいな」
と相手は皆夜学か講義録で英語をやった連中だから、寛一君に教えを仰ぐ。
「寛一君、ナカ/\精が出るな。その調子、その調子。習うより慣れろさ。今に店の仕事が空気を吸うように楽になるよ。新太郎が帰って来たら巧く
と時折

寛一君は手紙を読んだ時、
「仕様がねえなあ」
と呟いた。又板挾みになるのかと思ったが、頼む/\と平頼みに頼まれて見れば知らぬ顔もしていられない。君とは年来の兄弟分だからと新太郎君も
「寛一や、新太郎から手紙が来たろうね?」
と伯母さんは茶の間の入口に立ったまゝ待っていた。
「えゝ、参りました」
「又悪いんだってね?」
「さあ」
と寛一君は行き詰まった。
「この間お前が見舞に行ってくれた時にはもう
「えゝ。毎日魚を釣って歩いて、身体の方はピン/\しているんですよ」
「身体は兎に角、神経衰弱の方さ」
と伯母さんは身体と神経衰弱を別々に考えている。
「矢っ張りもう一月養生したいって言って来たんですか?」
「然うですよ。お前が容態を知っているから、万事お前と相談の上でお父さんにお願いして貰いたいんですって」
「もう一月彼方にいれば理想的には相違ありませんがね」
と寛一君は又義理に
「お前も然う思うの?」
「えゝ。それは無理に働けば働けないこともないでしょうが、用心の為めにですな」
「神経衰弱は
「そんな心配は万が一にもありませんが、折角転地した序です。ゆっくりして完全に直す方が宜いですよ」
「お前とは身体が違うんだから、仕事の方は
とお母さんは寛一君を味方にしてお父さんを説きつける積りだった。
「いっそのこと七八両月ゆっくり遊ばせたら何うでしょう?」
「すると避暑になってしまうわね」
「まあ然うですな。その代り
「何故さ?」
「あれは病気だ/\と思う病気なんですからね。海水浴でも始まって気が
と寛一君は断言する丈けの根拠を持っていた。
「それじゃ然ういうことにしましょうよ。お前にまで
「いや、
「少し御機嫌が悪いんだよ。自分が丈夫なものだから些っとも同情がないんだね。お前に新太郎のことを何か訊くかも知れないから、その時は今の通りに言って下さいよ」
「えゝ」
「それからお前又今度の日曜に見に行って来てくれる?」
「海水浴ながら行って参ります」
「度々で気の毒だから官費にして上げるわ」
と伯母さんは
寛一君は早速逗子へ形勢を報告して土曜日を待った。従兄弟の為めに多少尽すことが出来たと思って満足に感じたが、こんな
「寛一君」
と伯父さんから呼ばれる度毎に一応ドキッとした。しかしそれはいつも事務上の用件で、新太郎君のことではなかった。一向問題に触れない。矢張り一つ穴の
「それでは行って参ります」
と多少覚悟の上で暇を告げた時も、
「御苦労だね」
とお礼を言った
逗子の宿では新太郎君が待っていた。
「何うだい? 成功したかい?」
と挨拶もソコ/\だった。
「大抵好いんだろうと思うがね」
「ガ

「何とも言わないんだよ」
「お母さんは?」
「伯母さんにも訊き損なってしまった」
と寛一君は事情を話しながら
「

と新太郎君は初めてお礼らしいことを言って、もう安心したようだった。
「しかし伯母さんは本気になって心配しているぜ。僕は
「何を?」
「松浦さんのことを」
「それは困るよ。尚お心配すらあ」
「ところでもう来たのかい?」
と寛一君は早速当面の問題に移った。
「来たよ。
「弟なんか何うでも宜いんだろう?」
「ヘッヘヽヽヽ」
「申分ないじゃないか? 君が逗子と言い出した時、
「そんな遠謀はなかったんだよ。海岸なら逗子と思ったんで、全く偶然さ」
「巧いよ、実際、
「いや、真正だよ。君を
「一緒に海へ入ったかい?」
「うむ。昨日から始めたよ。
「それで偶然かい?」
「何うも
「僕は腑に落ちないことは何処までも研究する性分だからね」
「それじゃ白状する。多少予定の行動もあったのさ。今後とも宜しく頼む」
と新太郎君は兜を脱いだ。
「然う下から出るなら一
「当分は秘密を守ってくれ給え」
「宜いとも」
「イヨ/\となったら君からマザーを説いて貰うんだ」
「宜いとも」
と寛一君はもう
「皆君の来るのを待っているんだぜ」
「それは有難い」
「
「もう
「それも然うだね。これから土曜日に
「実はその辺まで考えて君の方も七八両月と伯母さんに吹っかけて置いた」
「有難いね。実はこゝはもう七八両月と借り切ってあるんだよ。東西期せずして
「何とか言って、実は網を張って綺麗な魚を待っていたんだろう?」
「いや、松浦さんが
「ナカ/\考えているね。少し置いて行こうか?」
「
と新太郎君は遠いこと近いことを一々頼む。
二人は松浦さんと去年からの
「あなた方学校は何処でいらっしゃいますか?」
「○○です」
「はゝあ、私も
と先輩後輩のことが分って急に
「こゝですか? あなたのお宅は」
と松浦さんはその節新太郎君の家の商売を承知した
「君、松浦さんは養子だぜ」
と寛一君に報告した。
「商売は何だい?」
「書いてない」
「それじゃ金の番人だろう」
と寛一君も養子と定めてしまった。
さて、新太郎君と寛一君はこの松浦さんの一行と共に海水浴場へ出掛けたのである。折から好晴で
「お蔭さまで
と松浦さんが寛一君に去年のお礼を述べた。
「あなたも今年は本気になって練習なすっちゃ何うです?」
と新太郎君が勧めた。
「私は駄目です。妹達をお仕込み下さい」
と松浦さんは海水着丈け仰々しいが、滅多に入らない。砂の上に立って婦人連中の心配ばかりしている。間もなく新太郎君は神経衰弱を忘れ、寛一君は店を忘れて
昼からは日帰りの連中が入り込んで来て益


「君、君」
と折から芳子さんを引受けていた寛一君が岸に立っている見物の姿に気がついた。
「駄目ですよ、そんなに怖がっちゃ」
「でも厭よ、こんな深いところは、あら/\/\」
「大丈夫ですよ」
と新太郎君は耳に入らない。
「新太郎君、大変だ」
と寛一君は声を励ました。
「何だい?」
「ガ

「えゝ!」
と振り返ると、成程、それに相違ない。お母さんはハンカチを振って注意を呼んでいる。
「一寸失敬します」
と新太郎君は慌てゝ手を放した。
その刹那大きな波が来た。
秀子さんは、
「あれえ!」
とよろめいて、
「厭よ、放しちゃ」
と
「失礼々々」
と新太郎君は否応なく又手を取って浅い方へ帰って来た。
「新太郎や、容態は
とお父さんはニコッともしないで訊いた。
若い男性の多くは若い女性の天真に近い姿が見られるから海水浴場に寄り
「こんなに丈夫になっているとは思わなかったよ。結構々々」
と親身の父だ。皮肉でも小言でもないのだが、新太郎君にはビシ/\と
「随分呼んだのよ。
と母親は秀子さんの方をチラリと見た。
「はあ、つい、その」
と新太郎君も父親と一緒の母親には策の施しようがない。
「宿へ御案内しよう」
と寛一君が相談をかけた。
「うむ」
と新太郎君は
「さあ、参りましょう」
と先に立った。
「盛んなものだなあ!」
「これだから丈夫になるんですよ」
と両親は波間に
「伯父さん、好いお天気ですなあ」
と寛一君が間もなく言った。余り黙っていては具合が悪いと思ったのだが、今まで泳いでいて殊更に「好いお天気」もないものだと気がつくと

「好い景色だ」
と浪の音のお蔭で聞き違えてくれた。
「あら/\!」
と伯母さんはチョロ/\波に追いつかれて立ち
「うっかりしていちゃ駄目ですよ。もっと此方をお歩きなさい」
と新太郎君は稍

「はい/\」
と母親は好い気なものだ。折から通りかゝった二人の女性は殊に大胆な新型のワンピースに
「新太郎は大分顔が広いようだな」
と父親は
「いゝえ、そんなこともありませんが、あれは去年来ていた何処かの奥さん達です」
と新太郎君は恐縮の態度で弁明した。
「海水着の短くなったのには驚く。まるで
と父親は時世に
「ブザマなものさ。
と
「でもこの頃はあんな短いのが
と母親は若がる丈けに理解を持っている。
「いくら彼方の流行でも日本の女は日本の女らしくして貰いたいものだね」
「活溌で好いじゃありませんか。スカートにしても年々短くなるばかりですよ」
「
と父親は主張したが、これは至極
海水浴場から宿までは目と鼻の間だ。
「
と母親が訊いた時、
「
と新太郎君は
「さあ、
と漸くお客さまを迎える仕度が出来た。
「
と母親が
「つい忘れました」
と二人は早速着替えた。
「八畳か? ナカ/\好い部屋だ。縁側がついているから広く使える」
と父親はその縁側近くの涼しそうなところに座を占めた。
「
と母親も気に入ったようだった。
「こんなところは
と新太郎君は寛一君と共にかしこまっている。
「離れもあるんだね? これは大分手広いようだ」
と父親は立ち上って縁側へ出た。離れには松浦さん連中の女ものが沢山乾してある。それが新太郎君の目にはこの際甚だ迷惑な感じを与えた。
「離れは女の
と果して母親が疑問を起した。
「いゝえ、
「
「えゝ。その何ですよ。その······」
「何ですの?」
「兄さんの御夫婦が一緒で監督しているんです」
「寛一や、
と西川さんが注文した。
「今命じましたからもう参りましょう」
「俺はビールにして貰おう」
「
と寛一君は出て行った。ビールとも思わないでもなかったが、
新太郎君は耳痛いことを聞かされる積りで覚悟をしていたが、それもなくて、当らず
「新太郎も寛一君も一向飲まないね?」
と父親は独りでビールを傾けた。
「僕は
「僕もサイダー党です」
と二人は大いに
「便所は何処だい?」
と訊きながら立ち上った。
「
と寛一君が指さした。
「分った/\」
と言って父親が出て行った時、首を伸して見送った母親は帯の間から半紙に包んだものを出して新太郎君に渡した。新太郎君は手早くそれを
「新太郎や、お父さんは御機嫌が悪いんですよ」
と母親はお金の包のことには一言も触れずに声を
「今朝は連れ戻すと
「はい」
「私、間に入って独りで困っていますのよ。もう
「えゝ、夜時々寝られませんけれど」
「嘘を仰有い」
「
と新太郎君は口を
「私、見に来て
「何故ですか?」
「こんなところには心配で
と母親は離れの方を見た。
「お母さん、私を信用して下さらなければ困ります」
「信用出来ませんよ」
「伯母さん、そんな御心配は一向ないんです」
と寛一君が加勢に入った。
「寛一や、お前も
と伯母さんは何か言分があるようだったが、父親の足音が聞えたので、
「お前は何時の汽車で帰るの?」
と話頭を転換した。
「もうソロ/\帰る時間かい?」
と父親は時計を出して見て、
「新太郎や、
と再び座についた。
「はあ」
「その分では容態も
「はあ。お蔭さまで」
「もう
「はあ」
と新太郎君は父親の前へ出ると鄭重を極めて「はあ/\」言う。
「それじゃ帰ったら何うだね? 店は夏分だから忙がしいこともないが、ソロ/\店員に休暇をやらなければならない。今直ぐといっても
「しかしお父さん······」
「何だい?」
「未だ直ったばかりですから、もう少し用心したいんです」
「お前のように用心ばかりしていたら一生働く暇がなかろうよ」
「はあ」
「一週間たったら俺が又迎いに来る」
「あなた、それはお約束が違うじゃありませんか?」
と母親が乗り出した。
「お前は黙っていなさい」
「でも今月中ってことに御承知下さいましたから、私も寛一に
「それは容態を見なかったから然う言ったんだ」
「矢っ張り夜寝られないことがあるんだそうですから、斯う見えても悉皆直っているんじゃありませんよ。今月中丈けは呑気にさせてやりとうございますわ。何もこれがいなければ店が差支えるという
「差支えなくてもさ」
「学校を落第していればこの夏は大手を振って遊んでいるところですわ。近所にだって夏中子供を休ませる家がいくらもあるじゃございませんか? まして身体が悪くて転地療養に来たんですもの」
「能く
「新太郎や、お前も
「はい」
「もう宜いよ。それじゃ今月末に屹度帰りなさい」
と父親は
折りから松浦さんの連中がガヤ/\言いながら帰って来た。離れは新太郎君の部屋と向き合いだから
「西川さあん!」
と秀子さんが呼んだのに新太郎君は困った。
「西川さあん、
「何ですか?」
と新太郎君は縁側の
「先刻姉さんにお預けになったお時計よ」
と秀子さんの用向は新太郎君がうっかりつけて行って水浴中松浦夫人に預けた腕時計を返すことだった。
「有難うございました」
「又夕方いらしって?」
「さあ」
と新太郎君は持て余した。
「お客さま?」
「えゝ」
「御一緒にいらっしゃいよ。宜いでしょう? いらっしゃいよう」
と秀子さんは遠退くに従って声を大きくした。新太郎君は席に戻った時額に玉の汗をかいていた。
「新太郎や、今月末には
と母親は妙に白けた座を
「はい。私も長らく御心配をかけましたから、今度は生れ
「然うして下さいよ」
「神経衰弱って病気は丁度遊び頃なものですから、兎角誤解を受けて残念です」
「然ういう気概があれば結構だ。店の方は繰り合せるから、今月中機嫌好く遊んで、来月から魂を入れ替えるさ」
と父親も改めて快諾を与えた。
「はあ」
と新太郎君は平伏した。
それから
「どれ、ソロ/\引き揚げようじゃないか?」
「
と両親は立ち支度をした。
「それじゃ私も御一緒に帰りましょう」
と寛一君は
「いや、
とあって、それにも及ばなかった。
二人は駅まで見送った。汽車を待つ間、新太郎君は父親の側を離れずに
「寛一や、お前は何時の汽車で帰るの?」
と伯母さんは時間表を見上げた。
「さあ、
「帰りに
「
「晩くても宜いのよ。私、明日の朝まで待っていられませんわ」
「伯母さん、
と寛一君は新太郎君の為めに保証した。
息子と
「あなた、私、心配で仕方がありませんの」
と母親が先ず囁いた。二等車は
「
「あの娘は不良少女らしゅうございますもの」
「馬鹿!」
「何でございますの?」
「お前が馬鹿だというんだよ」
と父親は明瞭に言って聞かせる必要を認めた。汽車の走る音で声の通りが悪い。
「私が馬鹿でございますの? 何故? 何故? 何故ですか承わりましょう」
と母親は並んで坐っているのを幸い言葉に力を入れると共に身体で押した。
「自分の子には盲目だからさ」
「でも新太郎はあの通り青竹を割ったような子でございますよ」
「青竹を割ったどころか、
と父親は冷然として主張した。普段は女親がヒステリイのようになって騒ぎ立てるから事面倒と思うと直ぐに折れる。しかし今日は汽車の中だからその心配がない。
「でも不良だと思えば不良扱いにして此方の子の安全を計る必要がございますわ」
「
「まあ! 新太郎が不良少年?」
と母親は
「不良さ。学校時代から不良傾向があった。別段悪いことを
「まあ! 私がいつ貢ぎました?」
「そんなことは
「何うでも宜かありません」
「
「宜かありませんよ」
「あのまゝ夏中おっ放して置いて見ろ。あのお嬢さんを誘惑するに
「まるで
「余所さんの娘に
「家の息子になら疵をつけても宜いんでございますか?」
「家の息子を不良と見て警戒する分には
「あなたはあの子がそんなに憎いんでございますか?」
「分らないことを言うなよ」
「いゝえ、憎いんでございますよ」
「見っともない。横浜へ着いてからゆっくり話す」
と父親は口を
新太郎君と寛一君は見送りを果して、ホッと一息ついた。
「
と新太郎君が呟いた。
「僕は君のお蔭で伯父さんの方が完全に駄目になると同時に、伯母さんの信用まで失ってしまった。あゝ/\」
と寛一君も
「嘘はつけない」
「今更分ったかい?」
「追々形勢が悪くなって来るから、もう一思いに帰ろうか?」
「
「今月一杯で」
「来月までいる気だったのかい? 図々しいにも程がある」
「しかし今月一杯じゃ未だ海のものとも山のものともつきそうにない」
「そんな気の長いことを言っていないで僕の策を
「
「いや、今日ガ

「
「僕がそれとなく当って見ようか? 今夜寄れば何うせ訊かれる。その打ち合せも能くして置こうぜ」
「然うさなあ。僕は頭の中が掻き廻したようになってしまって何うして宜いか分らない」
「マザーはあの新太郎と一緒に游いでいた娘は何ものですかと訊くに相違ない。その返辞一つで君の運命が
「ゆするなよ。おっと、先刻のを忘れていた」
と新太郎君は
「十枚らしい。話せるなあ」
と立ち止まって勘定した。
「この上苦労をかけると罰が当るよ」
「実際だ」
「何うだね? 当って砕けようじゃないか? 僕は九分九厘まで大丈夫だと思う。何うせ片付ける二番娘だ。家庭も相応、教育も申分ない。悉皆条件が揃っているじゃないか?」
「それは此方から見れば然うだけれど、
「でも先口のないことは確めたんだろう?」
「先口がないからって僕にくれるか何うか分らない」
「分らないから申込んで見るのさ。こゝにいてチョッカイをかけるよりは東京へ帰って正々堂々の手順を用いる方が何んなに安全だか知れないよ」
「然う出来ればそれに越したことはないが、正々堂々と申込んで万一断られた日には
「チョッカイで
「それも然うだね」
「マザー丈けなら僕が必ず説きつける」
と寛一君は尚お頻りに帰京を勧めた。
宿に戻り着くと、秀子さんと芳子さんと俊男君が海へ出掛けるところだった。
「西川さんも原田さんも行きましょうよ」
と俊男君が誘った。
「西川さん、先刻のお客さまを当てゝ見ましょうか?」
と秀子さんが申出た。
「えゝ」
「怖い/\ガ

「大当り。豪いですな」
と新太郎君は
「誰だって分りますわ、それぐらいのこと」
と芳子さんは不平だった。
「何故?」
「西川さんの恐縮振りってなかったんですもの」
「おや/\」
「西川さん、あなたは先刻私がお時計を返しに上った時、
と秀子さんが話し続けた。
「えゝ。海の中であなたに
「まあ、それで?」
「えゝ」
「それじゃ私、あんな大きな声を出して、さぞ御迷惑でございましたろう?」
「大いに迷惑しましたよ、
と新太郎君は漢文を用いて形容した。
海水浴場に着いて皆泳ぎ始めた。
「原田さん、私、深いところへ行きますから御保護を願います」
と秀子さんは寛一君の腕に捉まった。寛一君は
「秀子さん参りましょう」
と間もなく新太郎君が申出た。
「私、
「参りましょうよ」
「厭でございますよ」
「何故?」
「又御迷惑をかけますからね」
「もう帰ったから大丈夫ですよ」
「それだから厭なんですよ。私、御両親の前に私を
と秀子さんは
「僕はもう何が何だか分らない」
と泣きそうになっていた。
「秀子さんの言分は
と寛一君は又勧めた。
夕食の折、新太郎君は多少

「まあ/\、もう少し同情してくれ給え。ガ

と新太郎君は
「然ういう
と相談相手として先の先まで考えていたのである。
「ガ

「僕だって是非とは言わないよ。それは鼠の天ぷらが鼻の先にぶら下っているんだもの、同情はしていらあ」
「鼠の天ぷらだなんて恐れ多いことを言うなよ」
「誰に恐れ多い?」
「秀子の
「世話はない。自分はコン/\さんでも
「おれは何でも宜い。秀子さんの御機嫌さえ直れば」
と新太郎君は
「その通りだからね。この際特にガ

「お為ごかしか?」
「そんなに
「ガ

「いや、帰ったら直ぐに申込むんだ」
「申込んでも先刻の調子じゃ断られるよ」
「何あに、ガ

「いや、『それなら私、公明正大にお断り致しますわ』と来る。
「そんな
「いや、僕は今日で人格を見透かれてしまった」
「悉皆自信がなくなってしまったんだね。それじゃこの上形勢が悪くなったら何うするんだい?」
「世間は広い。その時は
「君、そんな料簡方なら僕はもうかゝり合わないよ」
「いや、今のは冗談だ」
「何うだか分ったものじゃない」
「いや、真面目だよ」
「兎に角僕は今夜伯母さんに訊かれるに
と寛一君は差当りの方策に移った。
「然るべく取り
「否定するのかい?」
「何を?」
「君が参っていることを」
「無論さ。僕は別に意思もないが、
「アベコベだね?」
「僕は
「それぐらい下げていれば沢山じゃないか?」
「厳しいね」
「当り前さ。しかし全然否定してしまうと後で動きが取れなくなるぜ」
「そこは臨機応変にやってくれ給え。『先方も相応の家庭らしいですから、御意見次第では身許を調べて、一つ新太郎さんを説いて見ましょうか?』ぐらいに言って置くさ」
「君は何処までも
「まあ
「ナカ/\虫の好いところがあるよ」
「気に入らないかい?」
「感服しないね。こんな役をノメ/\仰せつかるとは僕も余っ程お人好しだね」
「そこを見込んで頼んでいるんだよ」
「畜生!」
「松浦家を大いに推薦して置く必要がある」
「推薦にも何にも僕は知らないぜ」
「地主だよ。牛込の弁天町に地所家屋を大分持っている。義兄が○○出身で僕の成績を知っているから秀子さんをくれたがるんだろうと言い給え」
「笑わせるなよ。しかしマザーならそれくらいで結構誤魔化せるぜ」
「唯ガ

「二人同席だと困るね」
「僕もそれを案じている。今日は返す/″\もバツが悪かったからね」
と新太郎君は思い出して溜息をついた。
従兄弟同志が食事と共に打ち合せを終ると間もなく、
「原田さん、もうソロ/\出掛けませんか?」
と俊男君が離れから大声で呼んだ。松浦の俊男さんも同じ汽車で東京へ帰る。
「お供しましょう」
と応じた原田の寛一君は支度も何もない。折から秀子さんの笑い声が陽気に響いた。
「僕も駅まで送ろう」
と新太郎君は
「現金だなあ」
「いつでも送るじゃないか?」
「いや、立ち方がさ。土瓶を蹴飛ばしたぜ」
「気むずかしい男だな」
「何彼につけてダシに使われるんだもの」
と寛一君は能く観察していた。
松浦さんでは主人公と秀子さんが俊男君を送って行く。
「御一緒だと安心ですよ」
と松浦さんは寛一君に頼む意味だった。
「込みましょうよ、今日は」
と寛一君もアッサリ引受けた。
「芳子さんは御留守番ですか?」
と新太郎君は秀子さんに話しかけて御返辞の光栄に浴した。

「暑いですなあ」
と松浦さんが言った時、
「しかし昼の中から見ると余程
と喜んでいた。
寛一君は俊男君との同行を好い機会だと思った。それとなく当って見て、新太郎君に対する松浦家の人達の態度を確めることが出来る。尚この際松浦家そのものについて及ぶ限り知って置く必要があった。その意味から特に、
「俊男さん、今度の日曜が待ち遠いでしょう?」
と重きを置いた。
「今度はもう試験だから来ません」
「然うですか。暑いのに大変ですな」
「僕一人
と俊男君は訴えた。
「実は夕方から天気模様が悪くなって困ったんですよ」
と松浦さんが笑った。
「ポロ/\降り出したのよ」
と秀子さんが素っぱ抜いた。俊男君は他人の手前、
「何だ、此奴!」
と真剣になって詰め寄った。
「厭よ、俊男さん」
と秀子さんは新太郎君を楯に保護を求める積りでグルリと廻った。
「あ、痛!」
と新太郎君は足を踏まれて飛び上ったが、
「あら、御免遊ばせ」
と
「いや、
と光栄の
「俊男さんが悪いのよ」
「何?」
「もうおよし、もうおよし」
と松浦さんは二人を制して、
「原田さんは
と訊いた。
「えゝ。店がありますからな」
「御主人のように神経衰弱が利きませんのよ。オホヽヽヽ」
と秀子さんが又素っぱ抜いた。
「
と新太郎君は大袈裟に頭を掻いて又光栄がった。
松浦さんも笑い出す。
「脈があるぜ」
と寛一君が
「痛い!」
と新太郎君は再び飛び上って、
「今日は無暗に足を踏まれますよ。ヘッヘヽヽヽ」
とヨロ/\した。
「だらしのない男だなあ」
「オホヽヽヽヽ」
とこれは秀子さんだった。
駅は日帰りの連中で一杯だった。込み合いが押し合いになって松浦家の人達よりも先にプラットフォームへ出た時、
「然う形勢の悪いこともないようじゃないか?」
と寛一君は見たまゝを言った。
「うむ。悲観したものじゃないかも知れないよ。時に君」
と新太郎君は後ろを顧みたが、俊男君は未だ揉まれていた。
「何だい?」
「申兼ねるが、
「はい/\」
「冗談じゃないよ。頼む。
「よし/\。何なら今夜これから寄って申付ける」
「いや、それには及ばないよ。君に立て替えて貰うと後から払わなければならない。家から電話で命じてくれ給え」
「考えているなあ」
と寛一君は感心した。そこへ松浦さんの連中が出て来た。
「込みますのねえ」
と秀子さんは今更
「何あに、僕が割り込んで俊男さんの席を取って上げます」
と新太郎君は忠勤を
寛一君は品川で俊男君と別れるまでに松浦家に関する知識を多少獲得した。しかし立ち入ったことは気が
「秀子姉さんはお父さんやお母さんのお気に入りだから一番威張っています」
と言い出した。それに引き続いて、
「もう/\ソロ/\お嫁にいらっしゃるんでしょう?」
「行くもんですか」
「何故?」
「あんな我儘ものを誰が貰うもんですか」
「あゝ分った。先刻の
「いゝえ、大姉さんさえ持て余しているんですよ。何処へ行っても
というような会話があった。
新橋で下りて銀座の

「やあ、寛一君、待っていた」
とその苦手の伯父さんが先ず
「
と伯母は不機嫌のようだった。二人は逗子以来の争議を続けていたのである。人柄の好い伯母も問題が
「つい
と寛一君は伯父伯母の前に改まった。
「寛一や、私はお父さんに新太郎のことを不良少年だと言われたよ」
と伯母は
「仕様がないね。お前は。まるで
と伯父は手に

「寛一や、あの娘さんはこの頃
と伯母はモダンも不良も一緒だ。
「いや、そんなことはありませんよ」
「何処の
「あれは金持の娘です。家は牛込の弁天町の地主だそうですよ」
「それ御覧。言わないこっちゃない。自分の息子を差置いて、
と伯父が
「不良性は身分に関係ありませんよ」
「それは然うさ。家が相応でも親が甘やかすと不良になる」
「厳し過ぎても不良になりますよ」
と伯母は言い返した。寛一君は両方だと思ったが、新太郎君を不良とまでは
「寛一君、実は今日はあれから二人で
「それは伯父さん、何方でもありませんよ」
と寛一君は力強く否定した。
「すると唯通り一遍の交際かな?」
「無論然うです。監督者が側についているんですもの。
「そこを案じるのが親心さ。間違がないまでも、万一悪い噂でも立って見給え。何方の為にもならないからね」
「それは
「一体
「去年の夏一緒でしたものですから」
「宿がかい?」
「いや、宿は違いましたが、海岸で始終一緒でしたし、弟さんに
「兄さんというのはあの若い人だね?」
「えゝ。養子ですよ。
「成程」
「去年の暮にあの夫婦がこゝの前で新太郎さんに会って、
「成程」
と伯父は一々合点が行った。
「
と伯母は少し落ちついて来た。
「松浦と申します」
「娘さんの名は?」
「秀子さんです」
「幾つ?」
「二十一だそうです」
「お父さんもお母さんもお揃いでしょうね?」
「えゝ。しかしお父さんはこの二三年寝たり起きたりだそうです」
「何処がお悪いんでしょう?」
「さあ。存じません」
「新太郎はあゝいう
「さあ」
「
「矢っ張り、その何でしょうな、貰いたくないこともないんでしょうな」
「お前にそんな話をしたことがあるの?」
「別にありませんが、これは単に私の推察です」
「なけりゃない方が
「伯母さん」
「何?」
「実はないこともないんです」
と寛一君は慌て出した。
「あるの?」
「幾度もあるんです」
「それ御覧なさい。一寸鎌をかければその通りじゃないの?」
「何うも唯事じゃないと思ったよ」
と伯父もニヤ/\笑っていた。
「でも言わないでくれって頼まれたんですもの」
と寛一君は追々
「何と言ったの? 新太郎は」
と伯母が追究した。
「それは訊かないで下さい。兎に角貰いたいことは私が保証します」
「そんな保証はして貰いたかないわ」
「けれども何うせ貰うものなら本人の気に入ったのが宜いでしょう?」
「それは
「身許の確なことは私が保証します」
「保証ばかりしているのね。牛込弁天町の松浦何というの? お父さんは」
「さあ。お父さんの名は分りませんが、養子の方なら松浦······松浦······何三郎といいましたかな?」
「駄目ね」
「学校の卒業生名簿を見れば分るんですがな。新太郎さんの本箱に入っています」
「持って来て見給え」
「はあ」
と寛一君を二階へ立たせて、
「御覧。あの通り二人
と伯父が
間もなく寛一君は卒業生名簿を持って下りて来た。
「これです。松浦友三郎でした」
「どれ」
と伯父は眼鏡をかけて一応
「何んでございますの?」
と伯母が伸び上った。
「おや/\、興信所の調査だよ」
と伯父は拡げて
「まあ/\呆れた。これは念が入っていますわ」
と首を傾げた。それも道理、松浦家の戸籍財産信用なぞが
「手廻しの好い奴さ」
「でも不良少年なら興信所で調べるなんてことは致しませんわ。矢っ張り真面目な証拠ですよ」
「その日附を御覧。逗子へ行く為に神経衰弱を言い立てた証拠にもなるよ」
「あなたはあの子のことゝいうと何でも悪く気を廻しなさいますのね」
「お前は何でも弁解するからいけない」
「寛一や、お前も
と寛一君は
「いや、興信所で調べたことなんか一向聞かなかったんです」
と実際存じも寄らないところだった。
「嘘を仰有い」
「いや、
「寛一君に当っても仕方がないよ。可哀そうに、
と、伯父が同情してくれた。
「でも私、こんなに驚いたことはありませんわ」
「新太郎を信じ過ぎるからだよ」
「
「いや、新太郎が多少真面目だったことはこの調査書で分っている。
「然うですよ、伯母さん。僕も決して悪い意味で
と、寛一君は新太郎君の為自分の為に弁じた。
「それも分っている。して見れば一概に不良傾向だと言ったのは俺が
「ございませんとも。私も不良少女を取消しますわ」
「
「分りましたよ。お互に機嫌を直して考えましょう」
と、伯母も到頭折れた。
「話は又のこととして、寛一君はもう帰りなさい。海へ行って晩いと家で案じる」
「はあ」
「新太郎の為に好い面の皮さ。俺は分っているよ。伯母さんの言ったことを気にかけちゃいけないよ」
「はあ」
「晩くまで
「いや、何あに」
と寛一君額を撫ぜたらヌラ/\していた。実に
翌朝も伯父は顔を合せると直ぐに、
「昨夜は御苦労だったね。まあ/\辛抱しておくれ。皆新太郎が悪いんだ」
と言った。寛一君は安心して仕事にかゝった。間もなく女中が迎いに来たので、伯父に目礼して奥へ入って行くと、伯母は、
「寛一や、昨夜は御迷惑さま」
とニコ/\しながら迎えた。
「何あに、構いませんよ、私なんか、何うでも」
と寛一君は伸び/\に
「お前家へ行ってお母さんに言いつけたね」
「いゝえ」
「お前のお母さんは私のことを我儘だと思っているんだからね」
「何か御用ですか?」
「まあ/\、機嫌を直しておくれ。昨夜あれから伯父さんと相談したんですが、兎に角一日も早く新太郎を呼び戻す方が宜かろうってことになったのよ。仕事は仕事、縁談は縁談、
「それは無論そうです」
「新太郎はあの秀子さんを貰えば落ちついて店の仕事に精を出すでしょうかね?」
「それは大丈夫でしょう」
「お前保証してくれる?」
「いゝえ、もう保証はしません」
「けれども今度はお前の力を借りなければならないのよ」
「僕のようなお人好しは使い
「そんなに厭味ばかり言わなくても宜いじゃないの?」
「でも僕は新太郎さんにはもう
「あれはもう宜いのよ」
「一体何ういう御用ですか?」
「近い中に新太郎を連れて来て貰いたいんですよ。この上我儘を通させたんじゃ
「でも、もう一つのが始まっているんでしょう?」
「もう一つのって?」
「昨夜のお話のですよ」
「あれは嘘よ。お前は正直ね」
「あゝ/\、僕は
「まあ/\、然う言わないで相談に乗っておくれ。
「帰って来れば秀子さんの方の話を進めて戴けるんですか?」
「それは無論よ。お父さんも申分ないと仰有っていますからね。けれども然ういう条件で帰って貰うんじゃありません。親は親、子は子です。その
「至極
「お前引き受けてくれる?」
「しかし今直ぐは無理ですよ」
「早い方が宜いんですけれど、私もそれを考えていますの。昨日私達が行って後から直ぐっていうと何だか
「承知しました。今度の日曜に行って出来る
「然うですとも。
「煽てゝも駄目ですよ。ところで伯母さん、僕、新太郎さんに頼まれたことがあるんです」
「何に?」
「
「そんなに何うするの?」
「秀子さんへ御進物ですって」
「まあ、厭な子だねえ! 私には
テンコウカイフク。アンシンアレ。
チヨコレートスグオクレ。シンタロ。
チヨコレートスグオクレ。シンタロ。
「ふん、仕様がない奴だなあ」
と歎息した。そこへお母さんが顔を出して、
「寛一や、早くお湯にお入り」
「············」
「寛一や、その電報はね······」
「お母さん、無暗に開けて見ちゃ困りますよ」
と寛一君は白い目をした。新太郎君のように独り息子ではないが、矢張り長男だから、父親以外に頭の押え手がない。
「でも、お前、用向次第で店まで持たせてやらなけりゃなるまいと思ったんだよ」
「············」
「チョコレートぐらいで電報を打ったりして、これだから、私、姉さんのところは駄目だと始終言っているんですわ」
と母親は自分の家の
「厭になっちまうなあ」
と呟いた。昨夜といい今朝といい、新太郎君の為には伯父伯母の間に板挾みになってクサ/\している。
「
「僕はもう店が勤まらないかも知れません」
「何うしてさ?」
「新太郎君のお蔭で伯母さんに叱られたり伯父さんに具合が悪かったり、些っとも面白くないんですもの」
「姉さんがお前を叱ったの? まあ! 何と言って叱ったの? 話して御覧なさい」
と勝気の母親は早速
「叱ったって
と寛一君は昨夜のことを単に新太郎君の我儘として打ち明けた。
「それでお前に当るなんて、姉さんて人は
「いゝえ、それには及びません。伯母さんだって僕の立場を理解してくれています」
「伯父さんが何か仰有ったの?」
「伯父さんも僕が好い面の皮だって同情しています」
「それじゃ何にもお前が厭になる
「理窟はまあそんなものですよ」
「それじゃ宜いじゃないの? 新太郎さんは新太郎さん、お前はお前で店の仕事に精をお出しなさい」
「然うしましょう」
「何にも心配することはないわ。伯母さんは我儘だけれど、話せば分る人だし、伯父さんだって顔こそ怖いが、肚の中は極く善い人だよ。何かの因果でお面丈け魔物にあやかったのらしいって伯母さんも保証しているくらいだからね」
「それも分っています」
「分ったら早くお湯にお入りなさい」
「あゝ、あゝ」
「何があゝ/\です?」
「毎日遊んでいて電報でチョコレートを取寄せる奴もあれば、毎日働いていて家へ帰ると叱られる奴もある」
と寛一君は又愚痴になった。
「私、叱ったんじゃありませんよ。
「············」
「何をそんなに考えているの?」
「どっこいしょ。天候恢復か。あゝ/\」
「逗子は昨日そんなにお天気が悪かったの?
「いや、これは空のお天気じゃないんです」
「それじゃ何のこと?」
「ヘッヘヽヽヽ」
「何さ?」
「ハッハヽヽヽ」
「何ですね。笑ってばかりいて」
「おい/\、寛一」
とこの時茶の間から父親が呼んだ。
「はい」
「話は御飯の時にして早くお湯にお入り」
「はい/\」
「お父さんは先刻から待っていらっしゃるのよ」
と母親も
夕飯には及ぶ限り家中が揃うことになっている。寛一君が湯から上って食卓についた時、その赤い顔が皆の注目を
「焼けたわねえ」
と妹が感心した。それから逗子の話が出るのは当然のことだったが、寛一君は新太郎君の問題に触れるのが厭だった。新太郎君のことを訊かれると、勢い自分の立場を説明しなければならない。それで
「あなた、寛一は店が厭になって、こんなに
と
「うん?」
と父親は頭を
「いゝえ、お母さん、そんなことはありませんよ」
と寛一君は母親を睨んだ。父親の前へ都合が悪いといつもこれをやる。
「でも先刻愚痴を言っていたじゃありませんか?」
「あれは新太郎君がいつまでも帰って来ないから、伯父さんの御機嫌が悪いと言ったんですよ」
「新太郎さんは困ったものだね」
と父親は首を傾げた。
「困りますよ」
「もう病気は
「初めから病気でも何でもないんです」
「商売が嫌いかな?」
「然うでもないようですが······」
「お父さんがやかまし過ぎるからな?」
「いゝえ、然うでもありません」
「若いものだから、何か
「いゝえ、いゝえ、そんなことは決してありません」
と寛一君は胸に汗の伝わるのを覚えた。
父親はもう追究しなかったから、これで事済みかと思っていると、食後、妹や弟が立ってしまってから、
「寛一や、お前は新太郎さんと仲善しだから、都合の好いこともあるだろうが、都合の悪いこともあるだろうな?」
と訊いた。
「えゝ」
「
「お父さん、何にも問題なんか起っちゃいないんですよ」
と寛一君は恨めしそうに又母親を睨んだ。
「兎に角、お前は新太郎さんに利用されるから、伯父さんの方が勤め
「············」
「人柄が好いからね。しかし新太郎さんの今の都合を考えてやるのは決して友情じゃない。毎日曜に行って少しは忠告をすることがあるのかい?」
「あります」
「この上とも早く帰るように
「えゝ」
「若いものがノラクラしていれば決して好いことは
「然うですとも。伯父さんも伯母さんもそれを案じて昨日見に行ったんです」
「ところでお前は何うだな? 店が厭になったなんてことはあるまいね?」
「決してありません。それは全くお母さんの誤解です」
「誤解なら私もお礼を言うよ」
と母親は満足のようだったが、
「けれども姉さんはあんな手前勝手の人だから、私、何うしても一遍行って能く話して来ますわ」
と後の方が宜しくない。
「お母さん、何にも心配なことはないんですよ」
「でも帰り/\溜息なんか吐かれると、私だって気になりますよ」
「あれは新太郎君があんな呑気なことを言って電報を寄越したからです」
「家は貧乏ですからね。けれども寛一や、チョコレートぐらいは、新太郎さんを
「チョコレートが欲しいという
と寛一君は笑った。そうして母親がチョコレートに重きを置いてくれたのを大仕合せだと思った。母が意気込んで伯母を訪れる段になると、新太郎君の恋愛問題を
さて、問題の新太郎君である。寛一君はその晩返事を
「あゝ、厭だ/\。今度の日曜にウンと言ってやろう。直接談判だ」
と肚を決めて、
「電報拝見。お芽出度う。しかし長居は不為だ。此方は形勢

と要領丈けで間に合わせた。しかしそれと行き違いに新太郎君から次の長文が着いた。
昨日は失礼。厄介なことばかり頼んで重々恐れ入る。しかし僕の幸不幸の分岐点だから、このところ当分辛抱してくれ給え。その代り君の問題が起った場合、僕は水火の中も敢えて辞さない。兄弟は
今朝天候完全に恢復、同時に訓電を発して置いたが、これはその詳細命令だ。君のことだから手ぬかりはあるまいが、両親に対しては飽くまで僕の見識を立てゝくれ給え。昨日も話した通り、君から先ず秀子さんを
「あんなに新ちゃんを慕っているんですもの、身許さえ確かなら貰ってやっちゃ
当方の現状に
今朝海へ行く途中、
「秀子さん、あなた未だ昨日のこと
と僕は恐る/\君の
「えゝ」
と来たぜ。秀子さんは純情だから
「秀子さん、考えて見ると僕何とも申訳ありません」
「申訳がないと気がついたら、人間は何うするもの?」
「謝罪するものです」
「案外
「お
「あら褒めたんじゃなくてよ。あなたなんか褒めて上げるもんですか」
「恐れ入りました」
「要求したんですよ」
「何の要求ですか?」
「知らない!」
「ねえ、秀子さん、何の御要求です?」
「矢っ張りあなたは
「恐れ入ります」
「恐れ入ってばかりいて図々しいのね。謝罪の要求よ。昨日のことおあやまりになったら宜いでしょう?」
「あゝ、秀子さん」
「知らない!」
「昨日のこと僕実に申訳ありません」
「············」
「これから気をつけますから、何うぞ堪忍して下さい。ねえ、秀子さん」
「えゝ」
「有難うございます」
「私、怖い顔でしょう?」
「えゝ、いゝえ」
「憤っているといつもこんなよ。損だから堪忍してやるわ。オホヽヽヽ」
「有難うございます。もう一緒に游いで下さる?」
「えゝ」
「有難うございます」
と乞食が一円
寛一君、察してくれ給え。斯うなると月一杯では帰れない。実は八月一杯と吹っかけたいんだが、せめて中旬までガ

新太郎
寛一兄
新太郎君は斯ういう具合で、天候恢復以来
「君は僕が斯うして毎日曜に来る意味が分らないのかい?」
と言った時には、寛一君、もう口が
「分っているよ、君は海水浴をやりに来るのさ」
「張り合いがないなあ」
「兎に角僕は今月一杯ガ

と新太郎君は権利を主張した。
「それじゃ月末に帰るか?」
「そこを何とか君とマザーで計らってくれとこの間から拝むように言っているじゃないか?」
「それは君、
「当然のことなら頼みやしない」
「僕の立場も少しは察してくれ給え。今度君が帰らなければガ

「気の毒だから今度限りさ」
「いけない/\。それからマザーの心持も察してやり給え。君が月末に機嫌好く帰ると思えばこそ、その都度チョコレートを十円ずつ持たせて寄越すんだ」
「マザーの心持も君の立場も分っている。しかし僕は今帰ったところで、こんな気分じゃ仕事が手につくまいぜ」
「それは又別問題だよ」
「いや。帰ってブラ/\していればガ

「そんなことを考えていたんじゃ果しがない」
「それじゃ君は理が非でも否応なしに帰れと言うのか?」
「
と寛一君も然う/\伯母の使命を
「君は友情がないのか?」
と、新太郎君はムッとした。
「ない」
「ないなら帰れ」
「帰るとも。もう来ないぞ」
「来るなとは言わない」
「僕の勝手だ」
「おい/\、立たなくても宜いじゃないか? 憤ったのかい?」
「
「おれは自分で自分が分らない」
「仕様がないなあ」
と寛一君は長歎息するばかりだった。
丁度その日のその刻限に新太郎君の家ではお父さんが発病した。外から帰って来ると間もなく
「鬼の
と翌日店員達は当分
「如何でございますか?」
「有難う。もう
と言って仕事をしていたが、実は頭が重かった。病気をしたことのない人は兎角無理をする。これが悪かったと見えて、西川さんは夜寝られなくなった。妙に目が冴えて店のことが気にかゝる。新太郎君の将来が案じられる。自分に万一のことがあったら何うするのだろうと思う。
「過労ですよ。少し神経衰弱が来ています」
とあった。
「しかしあれは若いものゝかゝる病気の筈でしたがな」
と西川さんは少々不平のようだった。
「お若い証拠ですよ。ハッハヽヽヽ」
と丹波さんは
「巧く仰有るが、実はソロ/\焼が廻って来たんじゃありますまいか? 眩暈がして足がフラ/\するところは
「いや、そんな御心配は決してありません。精神過労ですよ。忙しい
「あんなに急に来るものですかな?」
と西川さんは未だ腑に落ちない。
「この間のは暑気中りで別物です。あれでお弱りになったから不断の御無理が著しく現われて来たのです」
と丹波さんは
「これは
「
「お言葉に従って当分休養致しましょう」
「一月ばかり転地をなすっちゃ如何ですか?」
「然うですな。温泉へでも行って来ますかな」
「さあ。血圧が少し上っていらっしゃるから、温泉は考えものでしょう」
「海岸は何うですか? 逗子あたりは?」
「至極結構ですな。丁度御令息も行っていられる」
「宿も八月一杯取ってあるらしいです」
と西川さんは微笑を洩らした。
その逗子では丁度その刻限に新太郎君が秀子さんや芳子さんや俊男君と月明の海岸を散歩していた。芳子さんと俊男君は附録に過ぎない。
「避暑ですもの。八月一杯は宜いでしょう? 若主人のくせに、それぐらいの御都合のつかない筈はないわ」
と秀子さんは一々
「せめて中旬までと原田に命じてあるんですが、彼奴この頃ナカ/\言うことを聞かなくなりました」
「あなたはガ

「そんなことはありませんよ。この間なんか喧嘩をしちゃったんです」
「まあ!」
「為にならないから月末に是非帰れと言うんですもの」
「
「僕は憤って、そんなことを言うなら帰れと言ったんです。すると、『帰るとも。もう来ないぞ』と言って立ち上りました」
「お止めになって?」
「えゝ。止めて又あやまったんです」
「意気地のない御主人ね」
「でも、あの男はマザーの信用がありますからな。それに僕の分まで働いているんですから、感情を害する
「それから
「せめて中旬までとマザーへ
「駄目ね」
「矢っ張り憤っているんですよ」
「············」
「僕は原田の感情を害すると実際困るんです」
「そんなに原田さんがお
「大切って次第でもないですけれど」
「私、何もお止めしているんじゃありませんわ。明後日お帰りなさいよ。丁度
「いゝえ、帰りません。僕には僕の意志があります」
「オホヽ、少しお強いのね」
「秀子さん、馬を川へ引いて行くことは出来ても無理に水を飲ませることは出来ないという
と新太郎君は苦し
「存じませんわ」
と秀子さんはもう怖い顔になっていた。しかし俊男君が、
「ある/\。自由意志です。僕は英語で習った」
と口を出して、
「
と行き詰まってしまったのは大愛嬌だった。
新太郎君はいくら自由意志があっても

「新太郎め、
と思ったら、覚えず頬の筋肉が
家へ戻って、
「如何でございましたの?」
と細君に迎えられた時、西川さんは未だニコ/\していた。
「新太郎と同じ病気だったよ」
「まあ! 神経衰弱? そんなお年をして?」
「爺さん扱いにしなさんな。西川さんはお若いと言って同業のものが褒めてくれる丈けのことはある」
「兎に角大したことでなくて宜うございました」
「安心したよ。成程、この間から丁度遊び頃の容態だと思った」
「新太郎ばかり小言は言えませんわね」
「いや、新太郎のは偽物だよ」
「いゝえ、あなたの
「でも
「出たのは後でも
と細君は例によって新太郎君の為に弁じた。悪いことは皆
「ところで、お直や、
「まあ、丹波さんはそんなに
「いや、極く軽いんだが、家にいると何うしたって店へ顔を出すから、頭が休まらない」
「それも然うでございますわね」
「転地をして当分何も彼も忘れるのさ」
「
「いや、温泉はいけない。海岸が好いそうだから逗子へ行く」
「あなた、
「真正さ。新太郎の宿が明くから入れ代る。何んなものだろうな?」
と西川さんは細君の顔を見詰めた。
「さあ」
「俺は一人で行くよ。お前がついて来ると家が
「あなた、実は新太郎は八月中旬までいたいと言っていますのよ」
と細君はズル/\ベッタリにする積りだったが、話の出た序を利用した。
「それなら一緒でも宜い」
「あなたは宜しくても、新太郎が窮屈でございましょうよ」
「親を窮屈がるような息子じゃないと思っているがね」
「新太郎は兎に角御近所が如何でございましょうかね」
「近所って?」
「松浦さんですよ。あなたはその娘さんが申分なければ貰ってやると仰有ったじゃございませんか?」
「然うさ。その
「駄目でございますよ。あなたがお
「何故?」
「何故って、あなた、松浦さんのところは若い女の方揃いですもの」
「交際がむずかしかろうって言うのか?」
「えゝ」
「そこは
「それが案じられるのでございますよ」
「何故さ?」
「
「そんなに怖いのかい? 俺の顔は」
「私は見慣れていますけれどもね。決してこの頃のお若い方に喜ばれる顔じゃございませんわ」
「人を馬鹿にしなさんな。新太郎の縁談が俺の顔で
と西川さんはプリ/\した。
「いらっしゃるとなれば何日でございますの?」
「早い方が好い。明日支度をして明後日立つ」
「急ね。真正に一人で大丈夫でございましょうか?」
「大丈夫とも。今まで店で働いていた身体だ。寝られない丈で他に異状は
「寛一に送らせましょう。丁度日曜ですわ」
「心配なら然うしなさい。
「えゝ、心配するといけませんから」
「何なら今夜お前から手紙を出して置いておくれ。
「それじゃ何うでも逗子でございますか? もっと気の利いたところがいくらもありますのにね」
と細君は今はもう仕方なかった。
「お父さん、何んな御容態です?」
と長い顔をしていた。
「お前と同じだ。寝られない」
と答えて、父親は直ぐ俥に乗った。寛一君は荷物を手渡しながら、
「ガ

「うん」
「覚悟は好いか?」
「うん」
と消息を交換した。尤もその前日に長文の電報を寄越していた。新太郎君はそれと母親の手紙によってイヨ/\
「お父さん、私はお父さんの看病を致しましょうか? それとも店へ帰って働きましょうか?」
と
「ふうん」
と父親は意外に感じた。尻尾を捲いて逃げ出す一
「お父さん、長々我儘ばかりして申訳ありません」
「よし。それじゃ帰って貰おう。お前が真面目になれば俺は寝られる」
「はあ」
「万事栗林さんの指図に従って店の仕事に精を出しなさい」
「はあ」
「こゝはこのまゝにして行って、日曜毎に寛一君と二人で遊びながら見に来ておくれ」
「はあ」
とそれから「はあ/\」が尚三四回続いた。
夕食後、新太郎君は松浦さんの一家へ暇乞いの序に父親を紹介した。
「順繰りに神経衰弱に
と言って

汽車の動き出すのを待っていたように、寛一君は、
「君、往生際が好かったね」
と冗談に託して感想を洩らした。
「うん?」
「案外往生際が綺麗だったってことさ」
「何を言やがるんでい」
と新太郎君は見かけほどに
「悪に強いものは善にも強いっていうが、矢っ張り然うだね。看病をしましょうか東京へ帰りましょうかと神妙に恐れ入って、ジタバタしなかったところは見上げたものさ」
「この上罪人扱いにするなよ。斯うやって縄つきにして引いて行く丈けで沢山だろう?」
「君、誤解しちゃ困るぜ」
「巧く言っているよ」
「そんな風に気を廻されちゃ迷惑千万だ。君が斯う直ぐに折れると思わなかったから、昨日からの心配ってなかったんだぜ。手紙じゃもう間に合わないし、電報じゃ充分意思が通じないし、マザーと二人で青息吐息さ」
と寛一君は

新太郎君は疑いが晴れると共に、
「ガ

と父親の病気を問題にした。
「真正とも。不眠症さ」
「まさか僕を連れ戻す為の計略じゃあるまいね」
「僕も最初は然う考えて見たが、それまでにしなくたって他に方法は幾らもあるんだから、矢っ張り真正に悪いんだと思う」
と寛一君の結論は如何にも道理だった。
「然うだろうなあ。顔色も冴えなかった」
「君のことを気に病んでいるんだ」
「ガ

「あの病気だけは見かけによらないからね」
「変なことを言うなよ」
「実際の話、不眠症は君も経験があるじゃないか?」
「知らん」
「ガ

「もうよしてくれ。弱味につけ込んでグイ/\やりやがる」
「ガ

「僕も
と新太郎君には父親の病気が何よりの
「実際、君、親孝行をし給え」
「今度こそは身に
「親孝行さえすれば秀子さんが貰えるんだから励みがあらあ」
「
「冗談は兎に角、ガ

「何だい?」
「独り息子に嫁を貰うんだから、大事を取って、それとなく秀子さんを
「成程、然うかも知れないね」
「親は有難いものさ」
「しかしガ

「何故?」
「僕とは標準が違うからね」
「何あに、苦労をした人だから案外分っているよ」
「秀子さんが及第しても、ガ

「秀子さんにかい?」
「然うさ。あんな怖いお父さんは厭だと言うかも知れない」
「その時はその時さ」
「何ういう意味だい?」
「それまでの縁さ」
「ふゝん」
「溜息をついているのかい?」
と寛一君は
汽車の中の内証話はナカ/\骨が折れる。声を低めれば車の響に消されてしまう。高めれば
「おい君、君」
と慌てゝ囁いた。
「············」
「何うした?」
「············」
「見っともないぞ」
と
寛一君は呆れてしまった。秀子さんに別れるのがこんなにまでも辛いのかと思った。往生際が好いどころじゃない。しかし追究して馬鹿なことを口走られては困るから、もう構わなかった。その中に
「おい」
と新太郎君の方から言葉をかけた。
「何うした? 君」
「申訳がない」
「うむ?」
「親不孝をした」
「············」
「今度こそは身に沁みた」
「それならもう宜いよ」
「ところで、君······」
「分っているよ。分っているよ」
と寛一君もシンミリした心持になって又会話が途絶えた。
そのまゝ考え込んで身動きもしなかった新太郎君は横浜で停車した時、
「君、こゝで一寸下りよう」
と急に思いついたように立ち上った。
「何うして?」
「家へ着くまでに打ち合せて置きたいことがある」
「いけないよ」
と寛一君は力強く
「君、早くしないと出るよ、もう」
「いけない/\」
「何故いけない?」
「君は後悔しているんじゃないか?」
「無論さ」
「後悔しているのに何の打合せがあるんだい?」
「善後策だ」
と新太郎君は何か未練があった。
「万事投げ出して罪を待つのが
「それは分っている」
「分っているなら、もう
「いや、決して後ろ暗い相談じゃないんだ。君、君」
「いけないよ。こゝで話し給え」
と寛一君は伯母から言い含められていたので、いつになく強硬だった。
「こんなところじゃ話せない」
「話せないことなら止めにし給え」
「君は同情がないぞ」
と新太郎君はイラ/\したけれど、汽車が動き出したからもう仕方がなかった。
滅多に反抗したことのない寛一君は少し気の毒になって、
「君、マザーが待っているんだよ」
と弁解の積りで言った。
「············」
「君は憤っているのかい?」
「何あに、僕は今まで迷惑をかけ通しだからね」
「そんなことはないよ」
「僕は明日から生れ変って直ぐに店の仕事を始める」
「それが何よりだ。マザーは喜ぶぜ」
「ついては一つ打ち合せて置きたいことがあるんだから、新橋へ着いたら、一寸で宜いから附き合ってくれ給え」
「駄目だよ。清吉が迎えに来ている」
「君、それじゃ今日のは
と新太郎君は忽ち血相を変えた。
「いや、然ういう
「宜いよ」
「何が?」
「昨日電報が来た時から
「何んなことだか僕は一向知らないんだ」
「白ばっくれても駄目だよ。僕はもう
「君は誤解している。兎に角後悔した人がそんなことを言うのは変じゃないか?」
「············」
「僕だってガ

と寛一君は苦しい立場を説明して領解を求める積りだったが、新太郎君はもう相手にならなかった。
新橋に着くと果して清吉が出迎えていた。新太郎君は荷物を渡して、
「おれ達はこれから一寸寄るところがあるんだから、お前は構わずに一足先へ行っておくれ。御苦労々々」
と
「君、何処へ寄るんだい?」
と先刻から新太郎君の態度に多少憤慨していた寛一君が
「まあ、待ち給え」
と新太郎君は清吉をやり過して、
「君」
「何だい?」
「
「君こそ憤ったじゃないか?」
「堪忍してくれ。僕は何が何だか分らないんだ」
「さあ、行こう」
と寛一君は促して歩き出した。
「君、今生の名残にもう一遍僕の頼みを聴いてくれ給え」
「変なことを言うね」
「僕は明日から生れ
「それは分っているよ」
「万事一新する決心だが、逗子の方だよ。あれまで漕ぎつけて今更君におっ放されたんじゃ心細くて仕方がない。マザーに会う前に一寸打ち合せをして置きたいんだ」
「秀子さんの問題かい?」
「うむ」
「屹度それ
「
「それ丈けなら僕は何処までも公明正大に応援する」
「有難い。僕は後悔して生れ更っても、秀子さんの方は諦められない。君、この通りだ」
と新太郎君は手を合せた。斯うなると寛一君は到底断ることが出来ない。
二人は新橋を渡ると間もなく或カッフェへ入って二階の一隅に陣取った。見知り越しの女給が出て来て、
「あらまあ、お久しぶりね」
と早速御機嫌を伺ったが、新太郎君は極めて事務的に
「用談だから寄りつくな」
と睨みつけた。全く真剣だった。
「マザーが待っている。成るべく早く切り上げよう」
と寛一君が促した。
「こゝまで来れば家へ帰ったのも同じことだよ」
「しかし飲まない方が宜いぜ」
「
「脈があるね」
「明日から見てい給え」
「僕もこれからは君の怠ける手伝いをしない。君が幾ら憤っても公明正大の同情の外は絶対にしない」
「宜いとも、今迄は僕が悪かったんだ」
と新太郎君は何処までも折れて出た。
「いや、僕も責任がある。しかしこれからは両方で気をつけよう」
「僕さえしっかりすれば問題は起らない」
「君が然ういう気になってくれゝば有難い」
「ところで一つ君の公明正大な同情に訴えたいことがあるんだ」
「早速だね」
と寛一君は笑った。
「僕はこれから家へ帰ってマザーに
「何ういう具合に?」
「秀子さんが貰えるようにさ」
「その方はもう充分推薦してある」
「そこをこの上ともに頼むんだよ。悉皆後悔してあの通り生れ更ったように堅くなっているんですから調子の狂わない中に早く貰ってやっちゃ何うでしょうと君が自分で気がついたように始終
「成程」
「僕だって無報酬じゃ然う長く続かない」
「変な後悔だね」
「いや、絶対に後悔しているんだが、僕だって聖人君子じゃない。側から何とか条件をつけてくれないと、励みがないから、
「条件つきの絶対ってことはないぜ」
「いや、僕としては何処までも絶対さ。実際身に沁みている。しかし君が側から見るに見兼て条件をつけてくれるのさ」
「よし。承知した。未だ見るに見兼ねるほどのこともないが、同情は充分している」
「有難い」
「後戻りをすると僕はもう構わないよ」
「大丈夫だ。秀子さんさえ貰えれば
と新太郎君の後悔は結局条件つきだった。
「明日から直ぐ店へ出ればマザーは喜ぶぜ」
「心配しているだろうなあ」
「ガ

「僕が生れ更れば、ガ

「又責任が重くなるんだね」
「宜しく頼むよ。僕はマザーに秀子さんのことを訊かれるのが今から苦になる」
「恥かしいのかい?」
「不見識だからね、考えて見ると」
「思い当るだろうね。天候恢復以来幾度あやまったい?」
「さあ、一々勘定はしていない」
「そんなに増長させてしまうと貰ってから操縦が出来ないぜ」
「貰ってしまえば然う/\御機嫌は取らない積りだけれど、僕よりも頭が好いんだから仕方がない。或程度まで下敷に甘んじるよ」
「伸びている。伸びている」
「何が?」
「鼻の下の寸法が」
と寛一君はフォークを当てがって測る真似をして、
「少し縮め給え。そんな顔をして帰るとマザーが見違える」
「
「行こう/\。そんなことを聞かされて手間を取るんじゃ
「まあ宜いだろう」
「いや、もう十時になるよ」
「然うかね。それじゃ寸法を縮めるかね」
と新太郎君は上唇を両手で再三押し上げた。打合せが思い通りに行ったので調子づいていた。
翌々日母親は逗子に父親を見舞った。
「何うだね?
と父親は自分のことよりも先ずそれを問題にした。
「あなたは如何でございますの?」
「
「それは好い
「何うだ? 新太郎は」
「あなた、矢っ張り感心でございますのよ」
と母親はそれを報告するのも用件の一つだった。
「働いているかい?」
「えゝ/\、一昨日の晩帰ると直ぐに私の前に坐って涙を流しながらあやまりましたわ。生れ更ると申しましてね、昨日から早速店へ出てセッセと働いていますの」
「三日坊主でなくてくれゝば宜いが」
「今度は続きましょうよ。
「満更の無神経でもないからね」
「悉皆変りましたのよ。私にお土産だといって
「何あに、晦日に勘定が来るよ」
「それにしても気がついたのは感心じゃございませんか?」
と母親は喜んでいた。
「此方のことを何とか言っていやしなかったかい?」
「あなたのことでございますか?」
「いゝや、お隣り、お隣り」
と父親は離れの方を
「いゝえ」
「貰えると思って、それを当てに後悔しているんだろう」
「そんなことはございませんわ。私、店のお仕事も碌々出来ないものが
「ふうむ」
「
「お前達は感心が早過ぎるよ」
「でもあれ以上はございませんわ。寛一も驚いていますの」
「話半分に聞いても悪い方じゃないな」
「ところで、あなた、
と今度は母親が頤でしゃくった。
「さあ」
「お気に召して?」
「器量は新太郎が迷う丈けのことはある」
「
「昨日から海岸へ行って見ているが、この節の娘さんは何処のも
「もう皆さんとお近づきになったんでございましょう?」
「新太郎が紹介して行ったから、松浦さんとは顔を合せると一言二言話す」
「私、その積りでもう一
「一寸挨拶をして置くさ。これから時々来るんだから」
と夫婦は寛一君の想像通りそれとなく秀子さんを
母親は二日置きに見舞った。父親はズン/\快方に向って、その都度退屈を訴えていた。新太郎君と寛一君は次の日曜に出掛けたが、着くと間もなく雨が降り出したので、海水浴どころでなく、半日ガ

「
とガ

「少し海へお入りになっちゃ何うですか?」
と寛一君が勧めた。
「今更そんな年でもなし、
「
と新太郎君が言った。
「松浦さんに誘われて一日行って見たが、あれはナカ/\修業が要る。第一根気が続かない」
「将棋の相手はありませんか?」
と寛一君が訊いた。
「俺の将棋はこの頃漸く駒の動き方を呑み込んだぐらいのものだから、
「御謙遜ですな」
「それに勝負事は何うも家業の邪魔になっていけない。松浦さんは碁を打つと見えて、俺に訊いたが、これは皆目分らない。実際芸なしは退屈する。こんな具合じゃ長くはいられそうもない」
「読書は
と新太郎君は成るべくゆっくり保養をして貰いたかった。
「戸棚の中にお前の本が沢山あったから出して見たが、
「それじゃ散歩丈けですな」
と寛一君は新太郎君が
「
「············」
「保養もこれでナカ/\の難行苦行ですと言ったら、松浦さんも同情してくれたよ。この奥の方では
「それは何ういう意味ですか?」
「早く止んでくれゝば
とガ

「いや、
と来た。これからお説法が始まるのである。二人は覚悟を極めたものゝ、折からの雨が恨めしかった。
「斯うしていても店のことが始終頭にある。寝ても夢に見る。馬鹿な話さ、保養に来ていながら働くことを考えるのが何よりの
「いゝえ、一向駄目ですよ」
と寛一君がお辞儀をした。
「趣味の方も発達して、西洋音楽まで能く分る」
「いゝえ、
と新太郎君も恐縮した。
「お前達は何も彼も土台が出来ているから仕合せだよ。
という具合に二人は二時間ばかり
松浦さんへは着いた時と帰る時に一寸顔を出したばかりだったので、新太郎君は、
「一週間一生懸命になって働いて、顔を見た丈けとは情けないなあ」
と愚痴をこぼした。
「可哀そうになあ。しかし今度の日曜がある。今までの調子で又一週間勉強するさ」
と寛一君が慰めた。
「見るに見兼ねるだろう?」
「大いに同情している」
「君が気を

「しかし大分懇意になっているらしいぜ。然う悲観したものでもあるまい」
「懇意になるほど無遠慮なことを言うから始末が悪いよ。相手と場合の
「それは確かに然うだ。僕は店員だけれど、若旦那並にお説法を喰ったよ」
「サン/″\だったね」
「日が悪い」
「いや、天気が悪いんだ。雨さえ降らなければ今頃は海へ入って騒いでいらあ」
「この次も雨だったら世話はないぜ」
「
と新太郎君は弱音を吹いた。
しかし第一週の辛抱は

「感心々々! 見るに見兼ねるよ」
と
生れ更りの第二週が終った夕刻、
「君、天気は大丈夫のようだぜ」
と新太郎君は事務机の上を片付けにかゝった。
「うむ」
と応じて、ヒョッと顔を上げた寛一君は、
「君、ガ

と囁いた。店員が皆出迎えた。
「有難う。お蔭でもう
と言って、ガ

新太郎君は驚いたが、もう一つ驚くことが待っていた。鞄を下げて茶の間へお供をすると、
「新太郎や、お前はこれから私の名代で松浦さんへ
とあった。
「は?」
「手紙は着かなかったかい?」
「えゝ」
と母親も
「然うかい。松浦さんではお父さんがお悪いそうだ。昨日の昼頃電報が来て皆さんが引揚げた」
「それは/\何ういう御病気でございますの?」
「唯病重しという丈けの電報で能く分らないのさ。二三年前からの持病が
「困りましたわね」
「新太郎や、お前は
と父親は急に気がついたように幾度も
新太郎君は店へ引き返して、早速寛一君に耳打ちをした。
「君、話が進んでいる証拠だよ」
と寛一君は
「然うかな」
「当り前なら病気見舞に行くほどの交際じゃない」
「それにしても悪い時に発病したものだ」
と新太郎君は真剣な顔をした。
「ところで明日は
「もう行く必要はない」
「現金な奴だなあ!」
と寛一君は
晩飯の時、新太郎君はこの食卓に親子三人揃うのは久しぶりだと思った。丁度二月半になる。
「七月末が限度だった。無理もない。それでもあの時には何うにも
と肚の中で言いながら、新太郎君は父親の顔を
「矢っ張り家のものは
と父親は上機嫌だった。
「能く御辛抱が続きましたわ」
と母親は二日置きに見舞いながら、口に合うものを拵えに行ったのである。
「唯二週間だけれど、帰って来ると家が珍らしいようだ」
「こんなに長くお明けになったことは初めてでございますからね」
「然うさ。
「もう
と新太郎君は丁度
「もう悉皆好い。この頃は寝られ過ぎて困るくらいだ」
「
「お前は
「私はもう何ともありません」
「あなた、新太郎は
と母親が早速推挙した。しかしこれでは今まで
「一家は矢っ張り斯うやって揃っていられるようでなけりゃ本当じゃない」
「然うでございますとも。私もこれで大安心を致しました」
「これからさ」
と父親は勘定高いから、別に褒めなかったが、至極満足のようだった[#「ようだった」はママ]
新太郎君は今まで、我儘息子に能くあるように、父親を恐れてばかりいた。理智に強い男親には頭が
「明日から休むのは誰だな?」
と店のことを訊いた。店員は七月中に手廻しをして置いて八月に入ってから二人
「門倉君と三浦君です。明日の朝一寸御挨拶に上ると言っていました。先刻はお帰りになったばかりで取り込んでいましたから」
「それにも及ばないが、何処かへ出掛けるようだったかい?」
「さあ」
「出掛けるなら、逗子へ行ったら何うだろうな?」
「さあ」
「今月中宿が明いている。お前は無論もう行くまい?」
「はあ」
と新太郎君は答えたが、もう行かないことに決心していた為め余り明瞭に言い放ったので気が
「お父さんがお帰りになったんですから、もう必要がありません」
と念を入れた。
「その次は誰だね?」
「新井さんと金田君です。栗林さんと寛一君は取りません」
「新井君なんか
と西川さんは考えている。間代は既に新太郎君が払ってある。利用しなければ損だから、店員の慰労に振り向けようというのだ。
「
と母親が申出た。
「無論さ。ケチなことは言わない。来年は皆丈夫の積りだからね。ハッハヽヽ」
「毎年じゃ
「
と新太郎君は笑った。
こんな話の中に食事が済んだ。父親はいつになく
「お先へ」
と言って
「新太郎や」
と母親が呼び止めた。
「はあ」
と新太郎君は
「あなた」
「よし/\。新太郎や、お前に一つ話して置きたいことがある」
と父親は膝を進めた。
「はあ」
「お前もこの頃は精が出るそうで何より結構だ」
「何う致しまして」
「お前が
「大丈夫です。今までのことは申訳ありません」
「何あに、小言を言うんじゃない。ところで、その何だ。松浦さんの娘さんのことだが······」
「はあ」
と新太郎君は真赤になって俯向いた。
「
「············」
「俺等には異存がない。そこで世間話の序に松浦さんに当って見た。すると松浦さんもお前に異存がない。あの若奥さんもお前を信用しているような
「いゝえ、あなた、手廻しは早いに越したことはございませんよ」
と母親が口を出して、新太郎君の意向を代表してくれた。
「まあ、待ちなさい。
「あの病気は二三日持てば取り止めるそうですが、
「何ういう御病気ですか?」
と新太郎君が訊いた。
「脳溢血さ。松浦さんも
と父親は帰着後間もなく電話で問い合せたのである。
「そうして何んな御容態ですか?」
「未だ意識不鮮明だそうだ。余程重いらしい。ところで先刻言った見舞いのことだが、俺も
「はあ」
「今夜とも思ったが、取込み中だろうから、昼間の方が宜かろう。なあ、お直」
「
「それじゃ明日の朝行って来て貰おう」
「はあ、承知致しました」
「新太郎や、お父さんのようなブッキラ棒な人が初対面早々の松浦さんにこんな話を持ち出すのは大抵のことじゃありませんよ。皆お前が可愛いからだからね」
と母親はこの際父親の前で有効に釘を打って置く必要を認めた。念が入ると自然に
「まあ/\、今夜は愚痴を言いなさんな。新太郎だって分っている。実はもう少し目鼻をつけて来る積りだったが、
と父親の方が却って執成してくれた。新太郎君は感激して引き下ると共に、帽子を
「散歩かね?」
と尋ねた。
「いゝえ、散髪です」
と新太郎君は至って
「あなた、オホヽヽヽ」
と母親は又茶の間へ戻った。
「何だい?」
「新太郎は早速散髪に参りましたよ」
「ハッハヽヽ、手廻しの好い奴だ」
と父親は久しぶりで
翌朝、母親が手ずから着物を着せて、父親が
「立派だよ」
と母親は褒めながら送り出した。店の前で円タクに納まって、
「
と命じた時、新太郎君の魂はもう秀子さんのところへ飛んでいた。年頃の娘を持つ病人は斯ういう見舞客のあることを覚悟しなければならない。
松浦さんの家は想像以上に大きな構えだった。
「やあ」
「やあ」
と両方が驚く。松浦さんは自動車の音に医者かと思って出迎えたのだった。病家の
「さあ、
と
「如何でございますか? これは
と新太郎君は頭に浮ぶまゝを自然に述べて見舞いの品を押し進めた。
「これは何うも恐れ入ります。お蔭さまで昨夜から大分経過が好いようです」
「それは結構でございますな」
「急に意識が回復し始めて来て、

「何よりでございました」
「昨夜はお電話を有難うございました。お父さんはもう
「えゝ。あの通り
「
「有難うございます」
「病気は一番いけませんよ。
「お取込みでございましょう」
「いや、唯今も申す通り、容態が落ちついて一安心したところですから、何うぞ御ゆっくり」
と松浦さんが何うやら別扱いにしてくれるようなのも新太郎君は嬉しかった。折から芳子さんがお茶を持って入って来て、それを
「あら」
と気がついた。
「お
と松浦さんは温顔に微笑を
「失礼申上げました。でも、海水着の時とまるで違っていらっしゃるんですもの」
と芳子さんは赤くなった。
「海水着を着てお見舞いに上っちゃ大変ですよ」
と新太郎君も笑った。芳子さんは直ぐに引き下ったが、間もなく秀子さんと共に今度は縁側から現れた。
「あら、まあ」
と秀子さんは転ぶように坐って、
「
と鄭重に挨拶をした。
「私、西川さんですって申上げても姉さんは信用なさらないんですもの」
と芳子さんは

そこへ女中が顔を出して、
「若旦那さま、先生がお二人お見えになりました」
と取次いだ。
「よし/\。それでは、西川さん、これから
「私はもうこれで······」
「いや、何うぞ御ゆっくり、御遠慮なく」
と松浦さんは押しつけるように言って出て行った。
秀子さん芳子さんと一緒に残された新太郎君は落ちつかない心持だった。矢張り坊ちゃん育ちの純な青年である。
「あなた方もいらっしゃるんじゃありませんか?」
と心配そうに
「いゝえ、病室は看護婦二人と母と姉が附添っていて一杯ですの」
と秀子さんは案外平気だった。
「しかしお
「はあ一時は随分心配しましたのよ」
「
と新太郎君も
又女中が現れて、
「お嬢さま、大森の叔父さまと叔母さまがお見えになりました」
と注進した。
「然う? 西川さん一寸失礼致します」
「私はもうお暇致します」
「いゝえ、構いませんのよ」
「いゝえ、お取込み中恐れ入ります」
「それじゃ、西川さん、又お
「は」
「兄さんは帰ったらあなたにお出になって戴くと仰有っていましたの。何れ兄さんから申上げますから、何うぞ又今度」
「えゝ」
「
「いゝえ、お忙しいところをお邪魔申上げました」
と新太郎君は心ならずも

「それじゃもう九分九厘まで
と寛一君は鼻を高くした。
「いや、未だそんなに安心出来ないよ。成否五分五分さ」
「何故?」
「秀子さんは平気だったもの。あの様子から察しると、松浦さんは未だ話していないんだ。随って本人の肚が定っていない」
「それは話さなくても当然分っていれば話さないぜ。始終一緒にいるんだもの、見どころがあって
「然う善意に解釈すると、試験の点数見たいなことになるよ」
「好かれているか嫌われているかぐらいは君の本能で分りそうなものじゃないか?」
「まさか嫌われちゃいまい。しかし好かれているとは言えない。つまり本人は白紙、親父は人事不省、お母さんは何にも御存知ない。未だ話す暇がなかったんだ。養子の松浦さん一人で呑み込んでいるんだから心細い。五分五分以下かも知れない」
と新太郎君は控え目に見積った。
「悲観ばかりしているね」
「実際だもの」
「いや、兎に角時局一

と寛一君はこの頃ガ

「いや。宮地さんが出動するまでは矢っ張り
「宮地さんに頼んだのかい?」
「これから頼むんだろう。それも想像さ。宮地さんは同業中の仲人屋だ。もう三十組近く拵えている。纒める方の名人だから、ガ

「君、それならもう
「何うして?」
「ガ

「然うあって貰いたい」
「大丈夫だ。その積りで店の仕事に念を入れるんだね」
「それは
と新太郎君は実際及ぶ限り努めているのだった。
その晩、思いもかけず、松浦さんから新太郎君のところへ電話がかゝって来た。
「西川さんですか? 御令息ですね? 今朝は取込んでいて
とあった。新太郎君は後半が殊に気に入って、これも翌日寛一君に報告に及んだ。
「有望、有望」
と寛一君は肩を二つ叩いてくれた。
しかしそれから一月余り一向消息がなかった。待っている新太郎君には実に長い。
「何うしたんだろうなあ?」
と時折思案に
「
と寛一君はいつも善意に解釈している。
「しかし

「好いのさ。悪けりゃもう
「好くも悪くもないのかも知れない。それなら話は未だあのまゝだ」
「何あに、出雲守が出動しているよ」
「でも、家へ一向来ないもの」
「
「何処までも楽観説だね。君と話していると、つい釣り込まれて元気が出るが、一人になると又考え出す」
と新太郎君は事実その通りだった。それで或晩のこと、松浦さんの方の件は一切
「それでは
とやった。ひょっとして秀子さんが出ないものでもないと思ったのである。ところがお母さんらしい声が聞えて、それも、
「はい。松浦は唯今屋敷に居りません。はい。私で宜しければお話を伺って置きましょう。
という切り口上だった。新太郎君はへどもどしながら、
「御主人の御容態は
と訊いた。
「極く順調でございます。はい。失礼ながら、あなた様は石川さんと仰有いましたね?」
「いゝえ、西川です」
「石川さん?」
「西川です。東西の西です。西川です」
「何処の西川さんでございますか?」
「銀座の西川です」
「銀座? 松浦の御友人でいらっしゃいますか?」
「いゝえ、はあ」
「御商売は?」
「羅紗屋です」
「あゝ、洋服屋さんですか?
と
「それにしても洋服屋さんですかとは失敬だ」
と新太郎君は額の汗を拭きながら、
「宮地さんが出動しているものか。寛一め、ちゃらっぽこばかり言っていやがる」
一等賞を当てにして走る選手は第一着の見込が影薄くなるにつれて歩調を
「君、昨今は少し見るに見兼ねるぞ、あべこべに」
と注意した。
「何を言やがるんだ」
と新太郎君は大分
「憤っちゃ困るよ。気がついたら言う約束だったじゃないか?」
「君の言うことはもう一切信用しない」
「何うしたんだい?」
と寛一君は驚いた。
その晩、新太郎君は父親が出て行ったのを幸い、
「お母さん」
と鼻を鳴らしながら不機嫌な顔を茶の間に現した。
「何です?」
「あれは一体何うしたんです? お父さんは本気になってやってくれているんですか?」
「松浦さんの方かい?」
「当り前ですよ」
「そんな怖い顔をしなくてもお話が出来るでしょう?」
「何うせお父さんに貰った顔です」
「へらない口ね」
とお母さんは笑って、
「実は私も毎日のようにお父さんにせっついているんですが、何分
「もう宮地さんに頼んであるんですか?」
「
「お母さん、何かいけない
「未だ正式に申込んでいないんですから、何うってことも言えませんが、先方のお母さんて人はナカ/\むずかしい人らしいのよ」
「はゝあ」
「松浦さんのお家は
「成程」
「松浦さんも養子でしょう。矢っ張り商売なしですわ。若奥さんにしても小さい時からお母さんを見ていますから、ナカ/\我儘らしいのよ。これはお父さんも逗子で見て来て、あれじゃ松浦さんが可哀そうだと言っていました。そんな家庭の娘さんなら、
「今更そんなことを仰有っても仕方がないじゃありませんか?」
と新太郎君は泣きそうになった。
「お母さんはお見識の高い人で、町人とは一切縁組をしないと言っているそうです。時代
「能く然う探索が届きましたね」
「そこが宮地さんですもの。あの人は探偵よ、まるで。お父さんも感心して、『これじゃ自分のことも宮地さんに訊いて見る方が早い』って笑っていましたわ。何処で何う聞き出して来るんですか、矢っ張り
と母親は寄り道をしながら話す。
「お母さん、
「それをこの間お父さんが
「それじゃ駄目ですね?」
「いゝえ、矢張り専門ですから、むずかしいのほど意地にも手がけて見たいらしいのよ。若夫婦が賛成ですから、御当人さえ来る気なら屹度円く纒めて御覧に入れると保証して下すったそうです」
「西洋なら本人さえ
「でも日本ですもの」
「············」
「お前は恥も外聞もなく、何うしても貰いたいの?」
「そんなことはありません」
と新太郎君は又怖い顔をした。
「家は商家ですから、商家の見識ということも
「分っています」
「分っていれば私も安心です」
「お父さんはあれから松浦さんへ伺ったんですか?」
「何で伺うんですか?」
と母親はいつになく
「············」
「宮地さんに一切
「はあ、
と新太郎君は家の母からもコツンとやられたような気がした。
「正式に申込んで見て、
「はあ」
「その覚悟丈けはしていて下さい。私達だって、そんなところへ七重の膝を八重に折って泣きを入れる因縁なんか
「
「商売人として立って行くお父さんの心持を察してやって下さい」
「お母さん、私はもう諦めます」
「いゝえ、諦めるには及びませんよ。未だ申込まないんですもの」
「でもこの上御迷惑をかけたくありません」
「いゝえ、迷惑なことはありませんよ。出来ることならお前の註文通りにして上げたいと思って、お父さんもこの頃は考え込んでばかりいるんです。けれども万一の場合の覚悟さ」
「············」
「まあ、お前は泣いているの?」
「いゝえ」
「馬鹿ねえ」
と母親は
新太郎君は母親の面前を辞して二階の書斎へ戻った時、
「旗本が何だ? 町人で気に入らないなら、此方から御免蒙る」
と呟いた。流石は
「はゝあ、洋服屋さんでございますか?」
とは人を馬鹿にしている。銀座の西川といえば何処へ行っても下へは置かれない。洋服屋の註文取と間違えられたのは初めてだ。
「諦める。いや、貰ってやらない。誰が? 畜生!」
と大変な権幕だった。
机の上に肘をついて、髪の毛を両手で
「しかし秀子さんは何うだろう? 当の本人の料簡は。これはもっと冷静に考えて見る必要がある」
と思った。もう未練が出たのである。松浦家が旗本だとは初めて聞く。しかし旗本だから平民と縁組をしないなぞと言うものは今日の社会には先ずない。松浦さんにしても奥さんにしても、そんな

「あなたのところのお父さんも何処かの重役だったんでしょう?」
と俊男君に訊いたことがある。
「いゝえ、無職ですよ」
「今は然うでしょうが、
「以前からですよ」
「それじゃ兄さんもお父さんも始終遊んでいらっしゃるんですか?」
「
と俊男君は笑って答えた。これは興信所で調べたところに一致していた。山の手には地価の騰貴と共に所謂大屋の凸凹から向上した金持が多い。以来新太郎君も松浦家を大方そんなものだろうと思っていた。それで先頃見舞に行った時、
「秀子さんに些っとも罪はない」
と新太郎君は気分が落ちつくと共に机の上の鏡を覗いた。それから筆立の櫛を取って、髪を分けながら考え続けた。松浦さん夫婦も此方に充分の好意を持っている。現に父親からの申込を
「これは少々気が早かった。えて
と思って、新太郎君は微笑んだ。お父さんの病気で、未だえて物へは持ち出してないのだ。宮地さんの聞き込んで来たところは一般論に過ぎない。
「
と言ったのではないのだから、えて物は取消す。婆も取消す。依然として先方のお母さんだ。そのお母さんの意向は未だ白紙である。此方が突然電話をかけて、羅紗屋だと言ったものだから、洋服屋さんですかと早合点をしたに外ならない。それぐらいの考え違いは誰にもある。顔の見えない電話だもの。
「未だ諦めるに及ばない。秀子さんはあの通り我儘だ。気に入らないことがあると、此方があやまるまで堪忍してくれない。自分の意地を何処までも通す。お母さんが分らないことを言ったからって、それで泣き寝入りになるような人でない。来る気さえあれば屹度来てくれる」
と新太郎君は秀子さんの我儘と意地っ張りに多少
そこへ母親が上って来て、
「新太郎や。あらまあ、お前、鏡と睨めっこをしているの?」
と見たまゝを口にだした。
「いゝえ、考えているんです」
「お前未だ諦めなくても宜いのよ。私が取越し苦労をして少し言い過ぎたんですから」
「万事成行きに
「然うして下さい。私達も決して悪いようにはしませんから」
「分っています」
「私は又、お前が
「大丈夫ですよ。ハッハヽヽヽ」
と新太郎君は景気好く笑った。
しかし一日二日と暗い日が続いた。元来秀子さんが貰える積りでの改心だから、見込が立たなくなると、直ぐにぐらつき出す。
「困った婆だなあ」
と寛一君も一部始終を聴いて歎息した。
「何うだね? 君の判断は」
と新太郎君は寛一君が唯一の相談相手だ。
「兎に角、長いね、これは」
「纒まりがかい?」
「纒まるにしても、
「破れそうな予感があるのかい? 心細いなあ」
「いや、宮地さんがついているから、大抵纒まるよ。しかし長いと君の辛抱が続くまいと思ってさ」
「僕はもう
「それが僕にも見えているんだ。いけないよ」
「でも、励みがない」
「しかし後戻りをするとガ

「それは分っている」
「ガ

「それも分っているよ」
「そこで君はもう一遍決心をし直す必要がある。君が店の仕事を一生懸命でやっている限り、ガ

と寛一君は忠告係として大いに努めている。
或日新太郎君は、
「君、今夜、散歩につき合わないか?」
と誘った。
「何処へ?」
「無条件でついて来給え」
「明日の晩にしてくれないか?」
「いや、今夜に限るんだ。君は僕が店の方さえ勉強すれば、
「仕方がない。つき合おう。何処だい?」
「神楽坂の縁日さ」
「ふうむ」
「時々出掛けるって俊男君が言ったのを思い出したのさ」
「偶然行き合おうって寸法かい?」
「
「
と寛一君は応じた。
二人はその晩、遙々神楽坂まで出掛けた。御苦労にも縁日の人込みに押されて彼方此方歩いたが、松浦家の人達は見かけなかった。しかし新太郎君も万一という淡い期待で来たのだから、失望はしない。
「兎に角、銀座じゃないから、斯うやって歩いていれば気休めになる」
「僕は退屈するばかりだよ。
「それじゃ家の方へ行って見ようか? 何うせ来た序だ」
と新太郎君が
「近いのかい?」
「然う遠くもない。一本道だから来れば屹度会う」
「今夜は約束だから完全につき合おう」
と寛一君も好奇心が手伝って、
「将来この道を度々通る運命があるか知ら?」
「それは勉強次第だよ」
「何とか言って、働かせることばかり考えている」
「いや。昨今は僕も見兼ねるくらいだよ。ガ

「然うなら
と新太郎君も昨今再び身を入れて申分なく勤めているのだった。
「それは然うと、大分遠いじゃないか?」
「神楽坂から直ぐのようだったが、自動車だった
「厭だぜ/\」
「これから散歩さ。先刻神楽坂で下りたばかりだもの」
「斯ういうおつき合いをするのは余っ程好人物だろうね」
と寛一君も今更仕方がない。
新太郎君は一度来ているから、松浦家を探すのに困難がなかった。
「この辺だったがね」
と二三軒順次に物色して行った後、
「こゝだよ」
と門燈を指さした。
「成程、松浦家としてある。
「この中に秀子さんがいるんだね」
「拝み給え」
「馬鹿にするなよ」
「天の与えだ。
と寛一君は近寄って、
「見えるかい?」
「玄関が明るい」
「どれ」
と新太郎君も忍び寄った。
「もうよせよ。人が来た」
と寛一君が警戒した。
「行こう。停留場はこの見当らしい」
と応じて、新太郎君は歩き出したが、矢張り名残惜しい。間もなく、
「もう一遍神楽坂を通って帰ろう」
と言って又引き返した。
再び松浦家の門前へ差しかゝった時、
「君、未練の残らないようにもう一遍能く拝んで行き給え」
と寛一君が
「合点だ」
と新太郎君は調子づいて、ツカ/\と潜りへ進み寄った。丁度その折、
「やあ、これは/\」
と松浦さんだった。門燈は新太郎君の顔を
「あらまあ!」
と秀子さんの声が筒抜けた。
「ついそこまで······」
と新太郎君は直ぐに行き詰って、寛一君を指さした。
「原田君も御一緒ですね。さあ、何うぞ」
と松浦さんは

「うまく見つかってしまいましたな。実は早稲田の友人のところへ行った帰りです」
と嘘をついた。
「丁度好いです。さあ、
「お出かけでございましょう?」
「いや、構いませんよ」
「
と秀子さんも言葉を添えた。
「いや、今晩はこれで失礼致します」
と新太郎君は又してもチョッカイの
「何故? 西川さん」
「
「悪いことは出来ないものね」
「真正ですよ」
「それじゃ御無理を申上げても悪い」
と松浦さんは潜りを閉じて、
「何うです? 神楽坂までお送り致しましょうか?」
と到頭納得してくれた。
「お供致しましょう」
「山の手の縁日も馬鹿に出来ませんよ」
「はゝあ、縁日ですか?」
と新太郎君は、実はその縁日を新聞で調べてやって来たのだった。
「実は明日あたり改めてお宅へ伺う積りでした」
と言った。
「それでは却って恐れ入ります。もう
「
「それは結構ですな」
「一時は心配しましたよ」
「
「
「はゝあ、
とこれは新太郎君には全く意外の消息だった。
「宜しく申上げて下さい。明日か
「はあ」
「原田君は矢張り始終御一緒ですか?」
「はあ、時折御噂申上げて居ります」
と寛一君が話し相手になった時、
「西川さん、私、銀座へ行くと、いつもお宅の前を通りますのよ」
と秀子さんが新太郎君に寄り添った。
「嘘でしょう?」
「
「僕が見えましたか?」
「えゝ。あなたと原田さんは机が並んでいますわ」
「おや/\、これは油断がならない」
「この間あなたは頭の
「あれは大番頭です。お寄り下されば宜かったのに」
「でも母と一緒でございましたのよ」
「はゝあ、然うでしたか?」
と新太郎君は益

「その前、芳子さんと二人で行った時にはガ

「僕もいたでしょう?」
「さあ。ガ

「あれは睨むんじゃありませんよ。あゝいう顔なんですよ」
「睨みましたわ。ねえ、芳子さん」
「えゝ。私、怖かったわ」
と芳子さんが証拠人になった。
「私、見つかったと思って、一寸お辞儀をしましたの。するとガ

「

と新太郎君は弁明に努めた。
「後からあなたに何とか
「いゝえ、一向」
「それ御覧なさい。私、余っ程悪い人間と思われているのよ」
「そんなことはありませんよ」
「いゝえ、確かに然うよ」
「困りましたな。しかし今に分ります」
「夜はお店が閉っていますのね?」
「夜もお
「えゝ。この間姉と参りましたの。二度通りましたのよ。私が
「寄って下されば尚お有難いんですがな」
「
「何故ですか?」
「ガ

「厄介な顔の持主だなあ。
「オホヽヽヽ。実は家にも改造して貰いたいものがありますのよ」
「誰ですか?」
「母よ。頭よ。古いんですよ」
「矢っ張り怖いんでしょう?」
「御存じ?」
「いゝえ」
「厳しいんですわ」
「お母さんと御一緒にお通りになったのは
「一週間ばかり前よ」
「お母さんに僕の家をお教えになって?」
「いゝえ、母は存じませんのよ」
と秀子さんが答えたので、新太郎君は未だ話が通じていないことを承知した。
「西川さん、あなたはお約束をして置きながら何故お遊びにお
「お父さんの御容態がお悪いのかと思っていたものですから」
「もう
「えゝ、上ります」
「いつ?」
「その中に」
「西川さん、私、あなたのところへお電話をかけても
「えゝ」
「でもあなた、ガ

「大丈夫ですよ」
「それじゃ、私、兄さんと相談して日を
「えゝ」
と答えたが、新太郎君は何なら自分一人に願いたかった。
話は神楽坂まで続いた。新太郎君は無論秀子さんばかり相手にすることは出来なかったが、
「君、驚いたね」
と寛一君が先ず口を切った。
「驚いた」
「これは案外
「親は矢っ張り有難い。
「励みがあるだろう?」
「あるとも」
「二度も会っているんだ」
「何故黙っているんだろう?」
「君が騒ぎ立てるからさ」
「未だ信用がないんだね」
「
「あっさりしていやがる」
「しかし今夜のチョッカイは大成功だよ」
「ついては一つ困ることがある」
と新太郎君は首を傾げた。
「何だい」
「ガ

「黙っていちゃいけないよ。今が大切のところだ。明日にも松浦さんが来れば分ってしまう」
「具合が悪いなあ。何処で会ったと来るに
「僕から伯母さんに言ってやろうか?」
「マザーになら自分で言う。ガ

「御免だよ」
「仕方がない。君の悪智恵を借りて又早稲田の友人を利用しよう」
「
「つき慣れている人は違う」
「君だって、『はゝあ、縁日ですか』って言ったぜ」
「嘘は一つつくとそれを
「宜いとも。別口の嘘を二つつくよりも、一つ嘘を二度つく方が罪が軽い」
と寛一君は理窟をつけた。
新太郎君は翌日一日松浦さんの来訪を待ち暮したが、何の音沙汰もなかった。次の日の昼頃、
「松浦家から参りました」
と店先へ現れたものがあった。新太郎君は飛び立って取次に出たが、それは使の者が松浦家から全快祝いの鳥の子餅を持って来たのであった。
「何だ。馬鹿々々しい」
と新太郎君は失望して机へ戻った。
「前触れだよ」
と寛一君が囁いた。
その晩松浦さんが羽織袴に改まってやって来た。新太郎君は最初の間、接待役を勤めていたが、挨拶が済んで世間話に花が咲き始めた頃、父親の目まぜと共に、
「新太郎や、
と母親に呼び出されてしまって、肝心の用談は無論聴くことが出来なかった。
「新太郎や」
と、やがて、母親は梯子段の下まで来て、二階を目がけて呼んだ。
「はい」
と直ぐ側の薄くらがりから声がしたので、
「あらまあ! 吃驚した」
「便所へ行ったんですよ」
と新太郎君は待ち切れなくて、その辺を
「何うしたんだい? その頭は」
と怪んだ。
「これは一寸」
と新太郎君は両手で撫ぜつけた。
「新太郎や、長いこと待たせたが、例の縁談が好い塩梅に進みそうだよ」
「はゝあ」
「お母さんからこの間話して置いた通り、
「はあ」
「松浦さんの若夫婦は今まで時機を待っていたんだよ。宮地さんも度々会って打ち合せてある。先方のお父さんは能く話の分った人で、娘さんさえ承知なら、全然異議がないらしい。宮地さんは念を入れて叔父さんまで手を廻している。皆納得しているんだから、お母さんも大抵宜かろうと見当がついたので、イヨ/\正式に申込むことになったのさ」
「
と新太郎君は丁寧にお辞儀をした。
「
「はあ」
「宮地さんがついていますから、もう大抵大丈夫でございましょうね?」
と母親は父親の共鳴を求めるように言った。
「いや、イヨ/\纒まるまでは五分々々と思っている方が宜いよ。取引でも縁談でも同じことだ」
「でも
「あれは些っと
と父親は立ち上った。宮地さんは出雲町に住んでいる。仲人が道楽だ。同業者の息子
父親を送り出した時、店の電話が鳴った。新太郎君は直ぐに受話器を取り上げたら、それは秀子さんからだった。好いことは
「西川さん、その時のお約束ね。今度の日曜は如何?」
「
と新太郎君は慌てゝ答えた。丁度その頃に正式の申込をすることになる。
「あら、何故?」
「大変なことがあるんですよ」
「大変?」
「いゝえ、
「お繰合わせはつかなくって?」
「えゝ、堪忍して下さい」
「それじゃその次の日曜は?」
「当分駄目です」
「あなたは
「でも実際具合が悪いんです」
「何故?」
「何故って、さあ、困りましたなあ」
「もう宜いわ」
「秀子さん!」
「何よ」
「
「堪忍して上げるわ。ガ

「はあ」
「さよなら」
「さよなら」
松浦家では家つきの貞子夫人が
唯の夫婦でも強い細君は弱い
「主人が稼がないで誰が稼ぐのですか?」
と開き直られゝばそれまでの話で、
「
と
「お嬢さま、それで宜しゅうございますか?」
「結構よ」
「それではお嬢さま······」
「あら、又」
「今のは前支度でございます」
「手間のかゝる人ね」
「お······矢っ張りいけません」
「胸がドキ/\して?」
「えゝ」
「宜いわ。そんな意気地なしなら、私、離縁にして上げるわ」
「やります/\。お貞!」
と呼んで、清次郎氏は一生懸命に唇を押えていた。口が曲るかと思ったのである。
それで
「お貞や」
「何でございますか? あなた」
と来る。貞子夫人は全権を握っていても、清次郎氏を主人として表向きに立てることを忘れない。昔卒業した学校から寄附金の勧誘なぞを受けた場合、
「斯ういうことは私の一存では計らい兼ねますから、主人に申して下さいませ」
と言って清次郎氏へ廻す。主人公は鹿爪らしく面会するが、
「宜しゅうございます。一つ考えて置きましょう」
と答える丈けで、決して責任は負わない。後から奥さんに相談する。
「あなた、こんなものに一々出していちゃ
と貞子夫人が決定してくれる。御主人は看板に過ぎない。
出入のものは皆これを知っているから、手っ取り早く
「旦那さまに訊いて下さい」
と必ず仰有る。二重
「奥さま、あのお池の側の赤松でございますが、あれを······」
と揉み手をしながら腰を
「赤松が何うか致しましたの? お庭の方へ口出しをすると、私、叱られますから、旦那さまへ
と貞子夫人は至って
「旦那、あのお池のところの赤松でございますが、あれをもう二間ばかり手前へ寄せますと、影が水に映って、お縁側からの眺望が一段と引き立ちますよ。
と小手を
「
「今なら丁度季節ですから、一つ動かして見ましょうか?」
「さあ、枯れやしまいかね?」
「大丈夫です。遠方なら兎に角。
「確かに眺望は好くなるな。しかし何分古木だからね。まあ/\考えて見よう」
と主人公は決して責任のある返辞をしない。早速奥さんのところへ行って、
「お貞や、植木屋があの赤松をもう少し池の方へ寄せようと言うんだが、何んなものだろうな?」
と意向を伺う。
「然うでございますね」
「縁側から能く見えるようになるよ。水に映って
「けれどもあんな大きなものを動かすと六七人手間になりますよ。それにあれは父が植えたんですから、矢っ張りあのまゝにして置きましょうよ」
「それも然うだな」
「あなた、植木屋ってものは仕事を拵えようと思って
と奥さんが考えて決定ばかりか注意までしてくれる。清次郎氏はいくら動かしたくても言葉を返す
「考えて見たが、あれはあのまゝにして置こう。松はうっかり手をつけると枯れるよ」
と自分の決定のように申渡す。松浦家は地所以外に家作を沢山持っているから、職人の出入が多い。大工や左官が代り/″\に押しかける。主人公は一々考えなければならない。
貞子夫人は自分から相談を持ち出すこともある。然ういう折は、
「あなた、あれは斯う決めましたが、如何でございましょうね?」
という形式を用いる。単に事後承諾を求めるのだから、清次郎氏は、
「宜かろう」
と答える外仕方がない。数年前、長女の
「あなた、操には小早川の友三郎を貰うことに決めましたが、如何でございましょうね?」
と貞子夫人が切り出して以来、主人公は時々経過の報告を承わるに過ぎなかった。実は父親として自分にも多少考えがあったのだけれど、それを言い張れば夫人の意向を
「宜かろう。お前さえ宜ければ宜いさ」
と
「あなたは妙に仰有いますのね」
と貞子夫人はナカ/\気むずかしい。
「何故?」
「でも、それでは私が始終勝手ばかり通しているように聞えるじゃありませんか?」
「それは悪かったな。然ういう意味で言ったんじゃない」
「それじゃ何ういう意味で仰有ったんでございますか?」
「
「友三郎は少し私の方の続き合いになっていますが、それだから貰うんじゃありませんよ。人格本位で決めたんですわ」
「無論人格本位さ。学問だって○○大学を出ているんだから申分ない」
「それに操も友三郎さんならと進んで居りますからね」
「無論本人の意向が
「友三郎のところは今でこそあんなに
「無論家柄が先決問題さ。小早川なら微禄といっても家屋敷を手放した丈けで、別に
と清次郎氏は本気になって相槌を打ち直さなければならなかった。
この友三郎さんも金持の婿養子にあり勝ちな好いばかりの人である。
「操さん、ねえ、あなた」
の連発で家つきの娘さんに敬意を表する上に、気むずかしいお母さんの御機嫌を取る。お父さんに
さて、若い松浦さんは新太郎君のお父さんから秀子さんを
「宜しゅうございます。一つ考えて見ましょう」
と引受けた。お父さんと同じ境遇だから、可否即答ということは決してしない。必ず操さんに相談して方針を定めて貰う。殊にこれは自分の一料簡で計らい兼ねる大問題だったから、その晩早速、
「操さん、あなたの
と前置をして打明けた。
「私、何うも西川さんの御様子が変だと思っていましたのよ」
と操さんは案外平気だった。
「矢っ張り第六感がありますね。私はうっかりしていました」
「秀子も
「私も然う見ています。しかし何んなものでしょうね?」
「西川さんなら申分ありませんわ」
「いや、お母さんの方ですよ」
と松浦さんは操さんの上がお母さんだ。お父さんは
「然うね」
「西川さんのところは商家ですよ」
「然うね」
「商家はひどくお嫌いですからね」
「でも、もと士族なら構いませんのよ」
「しかし商家なら先ず平民と見てかゝらなければなりませんよ」
「それは然うね。あなた、これは秀子が是非行きたいなら、うっかり持ち出すと余っ程変なことになりますよ」
「私もそれを案じているんです」
「お母さまは反対するに
「一口に商家と言っても、
「相応ね、あの店構えじゃ、西川さんのところは」
と操さんは去年の暮に銀座の店の前で新太郎君に会ったことを思い出した。
「羅紗屋としては一流ですよ」
「もっと詳しいことが分ると宜いんですがね」
「学校に私の同級生が教授をしていますから、在学中の成績と品行を詳しく調べて貰いましょう」
「兎に角、私、秀子の心持を訊いて見ますわ」
「それが根本問題ですが、直ぐに仰有るでしょうかね?」
「然うね」
「はにかんでしまって、否定しますよ、屹度」
「そんなこともないでしょう」
「
「何?」
「あなたの時は如何でした?」
「まあ! オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽヽ」
と友三郎さんは一寸した切っかけを御機嫌取りに利用する。
「秀子の心持次第で、あなたに
「お父さんじゃ駄目でしょう」
「いゝえ、手順よ。お母さんへは渋谷の伯父さんから持ち出して戴くんです」
「成程」
「お母さんはお父さんにこそあんな風ですけど、伯父さんには相応遠慮がありますから、頭ごなしってことはございませんわ」
「然うですな。兎に角問題にはして貰えますな」
「皆で相談ってことになれば有望よ。お父さんも私達も賛成して、秀子の心持を訊いて見ると、これは無論進んでいます。お母さんも少しは考えて下さいますわ」
「多数決なら大森の叔父さんも引っ張り込んじゃ
「いゝえ、渋谷の伯父さんが西川さんと御懇意で自分から思いついたようにして切り出すのよ。
「成程、それは巧い。矢っ張りあなたは悪智恵がある」
「まあ、ひどい人!」
「兎に角、私は早速身許調査にかゝります」
と二人は相談の結果

「おい、皆唯食われちまうんじゃないかい?」
と危んだが、決して
松浦さん夫婦が起用しようとしている渋谷の伯父さんというのはお父さんの実兄で陸軍大佐だ。但し軍縮以前から首になって

「兄さん、兄さんは一家の主人としてもう少し
と歯ぎしりをしてくれるが、後が宜しくない。
「兄さんが聢乎していれば、五百や千の金は右から左へ
と言う。大森は図太い。渋谷はそんなことがない。軍人上り丈けに謹厳そのものだ。而も蔭へ廻っては、
「清次郎、貴様は好く辛抱が続くなあ」
と同情してくれる。
或日この兄さんが見舞いに来ていた時、もう大分元気づいた清次郎氏が甚だ奇妙な現象を起した。三十年間貞子夫人の圧迫に甘んじて唯々事勿れ主義を取っていたこの温厚人が、
「
と口走ったのである。兄さんは驚いて、
「おい/\、清次郎」
と注意した。
「何です?」
「お前は何うかしたのかい?」
「いゝや」
「でも、今変なことを言ったよ」
「何にも言いはしませんよ。うつら/\考えごとをしていたんです」
と松浦さんは
「然うか。
「いゝえ、確かに申しましたわ。婆、婆と申しましたわ」
と貞子夫人は聞き洩らさなかった。
「いや、はゝあ/\と笑ったんでしょう。病人に笑われるのは気味の悪いものです」
と兄さんは取り
「ねえ、看護婦さん」
と加勢を求めた。
「さあ、何うでございますか知ら」
と看護婦はかゝり合いになっては詰まらないから俯向いてしまった。もう一月余りになるので、奥さんの御気象を能く呑み込んでいる。
「いゝえ、婆々と二声申しました」
「はゝあとも聞えたようだし、婆とも聞えたようだし······」
「私のことを申したんでございますよ」
と貞子夫人は何処までも主張する。
「まさか」
「私、口惜しゅうございますわ」
「或はこの看護婦さんのことを言ったのかも知れません」
「いゝえ、この看護婦さんは御覧の通りお若うございますわ」
「お貞や、
と清次郎氏は再び否定した。いつの間にか寝返って此方を向いている。
「話をすると
「いゝや」
「しかし頭を使うと悪いから、俺はもう帰ろうか?」
「いゝや」
「兄さん、まあ宜しゅうございますわ」
と貞子夫人が引き止めた。
「未だ頭が弱っているんですな」
「然うでございましょうかね。昨夜も何か独言を申しましたよ」
「自分では気がつかないようですね」
「さあ」
「兎に角来る度に
「今度お
「本当にお蔭さまです」
「何う致しまして」
「最初の様子じゃ直ったところでヨイ/\になるかと思いましたよ」
「家の中で起ったのが拾いものでございましたわ」
「外でやって御覧なさい。そのまゝです。私も恐ろしくなりました」
「兄さんは大丈夫でございますわ」
「いや、この病気ばかりは何時出るか分りません。こんなことを言っていて、帰りに往来でひっくりかえるかも知れません。区役所へ引渡されて仮埋葬なんてことになっちゃ溜まりませんから、この頃は帽子にも紙入にも名刺を入れて歩きます」
「まあ、御用心のお宜しいこと」
「これで
と兄さんがつい又話し込んだ。すると清次郎氏は又やった。
「べら棒め。一生
と今度は一言一句
「おい/\、清次郎」
「何です?」
「今は確かに言ったぞ」
「いゝや。うつら/\考えごとをしていたんです」
「変だね、何うも。
「私、もう
と貞子夫人は決然として立ち上った。
「まあ/\、貞子さん、お待ちなさい。病人の言うことですよ」
「病人にしても
「
「私は夜の目も
「まあ/\、お下に」
と兄さんは持て余した。
「何うしたものでございましょうね」
と貞子夫人は漸く納得して坐った。同時に看護婦は気を利かして立って行った。
「こゝの病気です。頭がいけないんです」
と兄さんは我と我が禿頭を叩いて見せた。
「私、一生懸命になっていますのに、こんなに
「病気が言わせるのですから、本気になすっちゃいけません」
「おや/\、俺が又何か言ったのかい?」
と当の清次郎氏に至っては無責任も甚しい。
伯父さんは帰りがけに友三郎さんを一室へ招き込んで、
「友さん、困ったものだ。お父さんは頭が
と申聞かせた。
「何か異状がございますか?」
「あの病気は人の名前を忘れたり物が直ぐに言えなかったり、
「はゝあ」
「今一寸の間にお母さんのことを二度まで婆と言って問題を
「はゝあ、
と友三郎さんは益

「お母さんは怒ったよ。ハッハヽヽ」
「御無理もありません。本当にお若いんですもの」
「ハッハヽヽヽ」
「しかし御病気に障ると困りますな」
「そこさ。又やるに相違ない。その度にお母さんが怒ってガミ/\言うと、病人が可哀そうだ。当分は成るべく操さんをつけて置きなさい。秀子でも芳子でも宜い」
と伯父さんは呉れ/″\も頼んで行った。
以来清次郎氏は独言が癖になった。考え込んでいると、頭の中のことがチョク/\口に出る。病気の加減と見えて、日によって程度が
「お貞や、一寸来ておくれ。婆、グズ/\しているな」
といった風に、意識と無意識を続けさまに発表する。
「イヨ/\直る。有難い。お蔭さまだよ。此奴、腹の中ではサゾ/\恩に着せているだろうな」
とつい自分の腹の中まで言って、ケロリとしている。
しかし
「兄さん、この通りだ」
とニコ/\していた。
「兄さん、あれから私サン/″\でございますのよ。もう
と貞子夫人が早速訴えた。
「
と清次郎氏は否定したにも拘らず、間もなく、
「黙っていると思って馬鹿にするな」
と見本を示した。
「この通りでございますのよ」
と貞子夫人はもう諦めて笑っていた。この日清次郎氏は殊に出来が悪かった。容態としては申分ないのに、独言を連発した。
客間でお茶を戴きながら、兄さんは、
「貞子さん、これあるかなですよ」
と言い出した。
「何でございますの?」
「清次郎の頭は
「確かに異状がございますわ」
「貞子さん、あなたは三十年間清次郎を圧迫なさいました」
「まあ!」
「清次郎は思うことが言えなかったんです。恐らく三十年間の
「兄さん、御冗談を仰有っちゃ厭でございますよ」
「
「兄さん、あなたは何を仰有いますの?」
「貞子さん、
「私だってそんな
「それは分っています。しかし清次郎が弱過ぎたのです」
「すると私が強過ぎたのでございますね?」
「今更仕方ありません。斯ういう因縁ごとでしたろう。清次郎はもう長いことはありませんよ」
「兄さん、よして頂戴」
「精々二三年でしょう。何うか大切にしてやって下さい」
「兄さん!」
と制して、貞子夫人は泣き出した。悲しい涙か口惜しい涙か分らなかったが、兎に角気に入らないと直ぐに立ってしまう人がいつまでも
この日、操さんは予定の行動で秀子さんの縁談のことを伯父さんに持ち出した。
「お前達までお母さんにそんな遠慮をしているのかい? よし/\、
と言って、
操さんはナカ/\曲者だ。その晩、お母さんに、
「お母さん、渋谷の伯父さんは秀子に丁度好い縁談があると仰有っていましたよ。お父さんがもう少しお直りになってから、改めてお母さんに御相談申上げるそうでございます」
と予備知識を注入して置いた。
それから友三郎さんが西川さんと会見した。その結果、既に暗中飛躍を始めていた宮地さんが渋谷の伯父さんを訪れることになった。元来申分ない縁談の上に扱い人が専門家だったから、スラ/\と運んだ。友三郎さんが何食わぬ顔で西川家の店先へ現れた時は手筈が万端
「操さんからもお聞きでしたろうが、実は今日は芽出度い用件で上りました」
と改まって、以来再三
「兄さん、斯ういうことは私一人の計らいじゃ参りませんわ。何うぞ主人に御相談下さいませ」
と貞子夫人は例によって主人を立てた。尤もこの際は相手が主人の実兄だから、形式ばかりではない。殊にこの間のこともある。
「清次郎はあなたさえ宜しければ宜しいんでしょう」
「いゝえ、今回は私、一切口出しを致しません。万事主人の決定に
「貞子さん、それじゃ困りますよ」
「いゝえ、私も先頃
「それじゃ清次郎初め御一同の御評議ということに願いましょう」
と伯父さんは友三郎さんと操さんを呼んで、清次郎氏の面前で縁談の内容を発表した。
貞子夫人は商家の平民と聞いて、無論気に入らなかった。しかし自分が善い子になりたい時は主人公に反対させる術を知っている。即ち、
「あなた、私は
と言って、清次郎氏を睨んだ。断ってしまえという意味だった。
「商家じゃ困るね」
と清次郎氏は
「此方の家柄がございますからね」
「身分が違う。兄さん、これは折角ですが、お断り致します。旗本が何だ。詰まらないことを鼻にかける婆さ」
「あなた!」
と貞子夫人は声を励ました。
「兄さん、平民なんか持って来ちゃ迷惑しますよ。以来お慎み下さい」
「············」
「一体何でそんなにお高く留まっているんだ。本人同志も見知り越しだというし、この上の都合はあるまいじゃないか?」
「あなた、あなた、独言を仰有っちゃ駄目ですよ」
「友三郎さんは何ういう御意見ですか?」
と伯父さんが訊いた。
「私はこの新太郎さんを能く存じて居りますから、
「非常な勉強家だという話だが、本当に
「えゝ。それにこの頃の青年のように軽薄なところが
「操さんは?」
「私も秀子の為に是非お願い申上げ
「その方なら、私、お声だけは承わりました」
「あら」
と
「いつかお父さんのお見舞いにお
と気がついた。
「いゝえ、友三郎へ電話をかけて参りましたのよ。私、洋服屋の小僧さんかと存じました」
と貞子夫人は
「秀子は派手好きだから、
と主人公の独言が筒抜けた。
「斯ういう具合で主人公には毛頭異存がありません。
と仲人屋の宮地さんは禿げ上った額を叩いて首を
「結構でした。何と言ってもお父さんですからな」
と西川さんも満足のようだった。
「奥さんが睨んでいる間は反対そうなことを申しますが、何ぼ奥さんだって目が
「
と新太郎君の母親は
「ところで先刻のお話です。無論思わせ振りですが、お嬢さん、ナカ/\気が勝っていらっしゃいますな?」
「然うらしいんでございますよ」
「新太郎さんはうっかりしていると
と宮地さんが笑った時、縁側でコトリと音がした。それは新太郎君だった。
「早手廻しに今からそれを案じて居りますのよ。オホヽヽ」
と母親は聞えよがしに言った。
「これ丈け話の進むまでに一言も自分の耳へ入れなかったというのが苦情らしいのです。確かに手ぬかりでしたよ。若夫婦はむずかしいお母さんの方にばかり屈託して、本人をそっちのけにしていたんですからな」
「新太郎はあんなブッキラ棒ですから、気に入らないと申すのではございませんでしょうかね?」
「まさか。それじゃ綺麗さっぱりで、
「いゝえ、新太郎はナカ/\頓狂ものでございますからね」
「何あに、お嬢さんは唯考えさせて貰いたいと仰有るんです。右から左では勿体がつきません」
「二三日と仰有いましたね?」
「奥さん、大丈夫ですよ。餌は確かに気に入っていますが、思わせ振りです。魚は
「しかし魚じゃありませんぜ」
と西川さんも多少不安があった。
「いや、私は年来手がけています。娘さんが考えさせてくれと言うのなら、もう
「然うでしょうかな?」
「私が保証致します。奥さん、あなたにしてもお覚えがございましょう?」
「まあ。オホヽヽヽヽ」
と母親は昔を思い出した。これは相手が名にし負う西川の
「私達は仲人の家で見合をしましたよ。これでも昔は若かったんですな」
と西川さんにも感慨があった。
「早いものですよ。お互に、嫁を貰う。孫が出来る。これから又早いです」
「その嫁ですが、何うでしょうか?」
「安心してお待ち下さい」
「然う致しましょう。この上とも宜しくお願い申上げます」
「細工は
と宮地さんは尚段取を話した。万般渋谷の伯父さんや友三郎さんと打ち合わせてある。
同じその晩、松浦家では大奥さんが頗る不機嫌だった。お天下さまが初めて反逆に会ったのだから無理もない。先ず手を叩いて女中を呼んだ。
「はい」
「早くよ」
「はい/\、此方でございましたか?」
「何処にいるものかね。病室でなければ此方に
「はあ」
と女中は真四角に坐った。うっかりすると雷さまの落ちることを知っている。
「操を呼んで下さい。直ぐ来るように言って下さい。友三郎さんもよ」
と奥さんは

「お母さま、御用でございますか?」
と操さんが現れた。
「友三郎さんは?」
「はあ」
と友三郎さんが続いて入った。
「お前達は何うしたものですね? 秀子は行きたいとも何とも思っていないんですよ」
「············」
「それだのに寄って
と大奥さんは果してそのことだった。
「お母さん、あれは秀子が我儘であんなことを申しますのよ。心持はもうチャンと
「それが私、
「何故でございますか?」
「お前達が側についていながら、そんなに心持の
「でも、お母さん、東京と違って海水浴場でございますよ」
「海水浴場にしてもさ。お前と友三郎さんは何の為の監督ですか?」
「でも、同じ宿にいるんですもの、悪い方でない限りは······」
と操さんが行き詰まった時、
「お母さん、決してそんな
と友三郎さんが助太刀に出た。
「秀子の心持よりも私の心持よりも病人の心持と渋谷の伯父さんの心持がお前達は大切と見えますのね」
「そんな風に仰有られると、私達、何とも申訳ありません」
「でも然うとしか思えませんよ」
「お母さん、この問題は兎に角秀子が仕合せになれば宜いのじゃございませんか?」
と操さんは手っ取り早いところから説きつけようと思って、家門より個人という意味を
「生意気な口をお
と母親はそんな思想を認めてくれない。
「············」
「私は何うしても気が済みません。秀子を
「お母さん、そんなら然うとハッキリ仰有って下されば宜かったじゃございませんか? お母さんの思召次第で何うにもなりましたものを」
「操や、お前は何処までも伯父さんや友三郎さんとグルになって私を抑える積り?」
「お母さん、飛んでもないことを仰有います」
と友三郎さんが狼狽した。
「お母さん、誤解をなすっちゃ困ります」
と操さんは取り縋るように膝を進めた。
「あゝ、情けない/\。愚図な主人に連れ添っていると、現在の娘や
「お母さん、それほどお気に召さない御縁談なら、私、これから渋谷へ行って断って参ります。御心配をかけて申訳ございません」
と友三郎さんはあやまってしまった。
「そんな面当てをして下さるには及びませんよ」
「············」
「この上私を困らせる積りですか?」
と、お天下さまはお
「お母さん、実は先頃伯父さんからお話のあった時、充分申上げて置くと
と友三郎さんは一生懸命になって説き起した。操さんも
「お前達が進んでいるほどあって申分ないようね。平民ってことの外は」
と母親は大体合点が行って、最初の権幕にも似ず、相手が士族でないのを遺憾とするようだった。商家が必ずしも気に入らないのではない。平民だからいけないのである。
「お母さん」
とこの時操さんがニコ/\した。
「何ですか?」
「武家というものは今日もうございませんから、お母さんの理想から申しますと、秀子や芳子は軍人へお嫁にやるより外ありませんわね」
「いゝえ、然うは参りませんよ。軍人にも平民がありますから」
「まあ、然うでございましたわね」
「平民は何でもいけません」
と母親はこの点
「けれどもお母さん、紙屑買をしている士族と高等官をしている平民があると致しましたら、何方へ秀子をお上げになりますか?」
「さあ。何方へも上げられませんわ」
「けれども世間にこの二人しかないと仮定した場合です」
「さあ。その時は······」
「さあ。何方でございますの?」
と操さんが
「お前はお母さんを何と思っているの? 口頭試問にかけて
と又少し不機嫌になった。それ丈け行き詰まったのである。
間もなく友三郎さんは操さんの目くばせに応じて、
「操さん、考えて見ると私も平民でございますよ」
と急に思いついたように言い出した。
「あらまあ、
と操さんが受けた。二人は母親の前でお芝居をすることが度々ある。
「いゝえ、少くとも平民になっている身の上ですよ」
「何故?」
「一番上の兄は本家ですから士族ですが、次の兄は平民です。私も
「何でしたらって何?」
「何でも
「
「宜いんですよ」
「宜かないことよ」
「あらまあ、喧嘩を始めて。馬鹿な人達ね」
と母親は釣り込まれた。
「でも、平民になりたかったと仰有らないばかりですもの」
「然うじゃありませんよ」
「然うでございますよ」
「もう宜いわ、友三郎さんも分家をなされば今頃は否応なしに平民よ。失礼ながら
「お母さん、如何に三男でも掃溜は厳し過ぎますよ」
と友三郎さんは
「いゝえ、掃溜よ。士族でも
「おや/\、益

「
と操さんが笑う。
「未だあってよ」
と母親は操さんを相手にする。
「何がでございます?」
「
「私?」
「えゝ、口頭試問にして上げるわ」
「さあ」
「先ず
と友三郎さんが代って答えた。
「
「困りましたな」
「
と母親は一足先に問題へ戻った。若夫婦は顔を見合せた。別に目的があって平民論を持ち出したのだが、打ち合せが足りない為、相手の主張を手伝ったような形になってしまった。
折から女中が現れて、
「奥様、旦那さまがお呼びでございます」
と
「駄目ね」
と操さんが囁いた。
「お母さんのは信仰ですよ。
と友三郎さんも落胆した。
操さんとしては母親の片意地は覚悟の前で、
「秀子さん、決心がついて?」
と促した時、
「姉さん、私、西川さんと半年か一年交際させて戴きとうございますわ」
という返辞だった。
「そんなことはお母さんがお取り上げになりませんよ」
「でも
「それは私達、西川さんならお互にもう気心が知れていると思って、安心していたからよ」
「それがひどいわ」
「あらまあ、それじゃあなた行きたくなくて?」
「姉さん、私、それが気に入りませんのよ。西川さんなら行きたかろうと初めから
「秀子さん、あなたそれじゃ少し我儘が過ぎやしませんか?」
「でも、私、自分の考えがありますわ」
「兄さんにしても私にしても、これでもあなたの為と思って、随分人知れず心配していますのよ」
「それは分っていますわ。けれども私だって赤ん坊じゃありませんからね」
「それだから考えて戴きますの。私達、決して勧めるんじゃありませんわ」
と操さんも
新太郎君の心持は
「姉さん、私、このお話の始まる日取を四日前から知っていましたのよ」
「まあ! 何うして?」
「西川さんが電話で仰有いましたの。この次の日曜に大変なことがありますって」
「まさか」
「いゝえ、
と秀子さんはその折の
「それじゃお断りの言訳に
「いゝえ、序に私を馬鹿にしたのよ、申込まれるのも知らないでって」
「それはあなたの考え過ぎよ」
「私、あやまらしてやるわ。あやまるまで返辞をして上げなければ宜いわ」
「
と操さんは家つき娘らしいことを言って
母親がお高く止まっている上に当の娘さんが斯う
「出雲守、
と帳簿を扱いながら外ばかり見ている。
「戦今や
と寛一君は
「何うやらお芽出たらしいですな」
「結構ですよ」
と店員達が囁き合った。人間は何よりも結婚に興味を持っている。お嫁さんだといえば手の物を置いて見物に駈け出す。それを纒めて歩くのだから、宮地さんは人気がある。
新太郎君は両親の満足そうな顔付で吉報と解した。
「御苦労様でした。
と父親が改まっていた。
「やあ、新太郎さん、お待たせ申しました」
と宮地さんが
「斯うなると代々の土百姓は能がありませんな」
と父親が何か
「奥さんのお手柄です」
「お母さん、何ですか?」
と新太郎君は合点が行かなかった。
「矢っ張り士族平民が
と母親が説明した。
「妙なものが||と申しては失礼ですが、思いもかけないものが役に立ちますな」
「私さえ考えたこともないのに能く覚えていて下さいましたのね」
「ヒョッと思い出しましたよ。
「お蔭様でございます」
「
「はあ、本所でお風呂屋をしていますが、引き合いに出すのも却って変なものじゃございますまいか?」
「いや、唯確めてさえ置けば私も安心して口が利けます。
「さあ、存じませんね。御家人ですから。ピイ/\でございましたろうよ。母の話によりますと、青山の百人町で
「それも申しますまい。尤も御家人は皆傘屋が内職でしたよ」
と宮地さんは納得したようだった。
「然うのようでございますね。芝居なんぞでショボ/\した御家人が傘を張っているところを見ますと、会ったことはありませんが、
と母親も心細いことを言う。
「詰まらない先祖が役に立つんですな」
と新太郎君は笑った。
「
「それじゃ昼からイヨ/\正式に乗り込みますかな」
と宮地さんは立ち支度をした。
「何うです? 前祝いに一杯」
と父親が引き止めようとした。
「いや、後からに願いましょう」
「それじゃ晩にお待ち申上げます」
「細工は流々」
「何だい? 未だ流々か?」
と新太郎君は又待ちもどかしくなった。実はもう成功して来たと思っていたのだった。
宮地さんが入って来た時目を見張って迎えた店員達は、主人夫婦と新太郎君が宮地さんを送り出した時、一斉に立ち上ってお辞儀をした。新太郎君はそのまま机に坐って事務を執り始めた。
「おい。君」
と間もなく寛一君が隣りから
「何だい?」
「
「同じことばかり言うなよ」
「しかし何うだい? 形勢は」
「イヨ/\出馬だ」
「素敵々々」
「後から話す」
と新太郎君は父親の方をチラリと見た。
「おい。話せよ」
と寛一君はそれから幾度も誘いかけた。
「今夜定る」
と新太郎君はそれ丈けを答えた。
夕刻、ガ

「おい。
と訊いた。
「うむ。もう
「お芽出度う」
「いや、何方に定るか未だ分らないんだよ」
「おや/\」
「実に
「何を言っているんだい」
「これは矢っ張り駄目かも知れないよ」
「宮地さんの見込は何うだね? 乗込むからには充分成算があるんだろう?」
「例の士族平民で行き悩んでいるんだそうだ。これぐらい
「然うだろうな。多少見識のある人間なら」
「こん畜生!」
「冗談は兎に角、何うなったんだよ?」
「その士族平民の件で宮地さんが又一思案してくれたのさ。あの人は智恵があるよ。そうして消息通だ。探偵だね。ガ

「さあ。桃の湯かい?」
「然うさ。感心に知っているね。
「駄目だよ、湯屋の親爺なんか」
「いや、先祖を利用するのさ」
と新太郎君は宮地さんから聞いた一部始終を話した。
「成程。考えたね」
「何うだろう?」
「さあ。本所へ調べに行くと困るぜ。彼処は借金だらけだって評判だよ」
「名を出すんじゃない。唯、母方に御家人があったと言う丈けさ」
「御家人って
と現代青年の寛一君はこの辺明確な観念を持っていない。
「士だろうさ。そら、
「鈴木主水? 妙なものを引っ張って来たね」
「君は知らないかい? そら、『鈴木主水という士は』って」
「······春は花咲く青山辺のか? 成程、あれは士と断ってあるが、御家人だったかい?」
「その青山から聯想したんだよ。
「心細いな。
「足軽だって士だろう? 寺岡平右衛門を見給え。兎に角
と新太郎君も昔のことはアヤフヤで、芝居の人物を唯一の
寛一君は尚お
「それじゃ勝負は先ず五分々々だね。明日の朝が楽みだ」
と言って立ち上った。
「君が又その椅子に坐るまでには定っているよ」
「それは然うさ」
「僕も何方かになっているよ」
「え?」
「事によるとこれがお別れかも知れないよ」
「おい、君、変なことは言いっこなしにしようじゃないか?」
「
「え?」
「さよなら。お達者で」
「君、君、何が気に
「君は誠意がない」
「何故?」
「僕は今まで君に釣られて働いて来たんだ。貰ってやると言うから、真正に貰って貰えると思っていたんだ。九分九厘大丈夫だと云うから、その積りで八九十と二月半、一日も休まなかったんだ」
「殆んど大丈夫じゃないか? 秀子さんの心持も定っているし、松浦さん夫婦も賛成、お父さんも伯父さんもついている」
「しかし君は今五分々々の勝負だって言ったぜ。明日の朝が楽みだと言ったぜ。相撲の取組じゃあるまいし、
「それは君、言葉の
「いや、まるで
「宜けりゃ斯うやってグズ/\していやしないよ。何なら今夜出直して様子を見に来ようと思っているんだ」
「
「嘘を言うものか」
「それじゃ散歩ながら来てくれないか?」
「
「僕は万一の場合覚悟を定めている。ついては後々のことを君に頼んで置きたいんだ」
「変なことを口走ると僕はマザーに言いつけるよ」
「兎に角八時頃に来てくれ給え。我儘の
「君!」
「僕は又何が何だか分らなくなってしまった」
と新太郎君は秀子さんの問題になると恥も外聞も思慮も分別もない。
夕食の卓上、父親は、
「宮地君は手間を取るようだな」
と言って考え込んだ。早ければ寄りそうな
「然うでございますわね」
と応じた丈けで、母親は間もなく他の話題を持ち出したが、それも二言三言で途絶えてしまった。新太郎君は無論落ちつかない。早々掻っ込んで立とうとした。
「新太郎や」
とその時父親も
「はあ」
「この間からお前に話そうと思っていたことがある。まあ、ゆっくりしなさい」
「はあ」
「お前は
「はあ?」
と新太郎君は意外の
「斯ういうと愚痴になるが、俺は先頃からお前の縁談ではクサ/\している。今時士族の平民のって、実に人を馬鹿にした話だと思うけれども、俺が
「何とも申訳ありません」
「今夜宮地さんが尻尾を巻いて帰って来るようなら、俺はもう手を引く。この上頭を下げちゃいられない。もうする丈けのことは
「何う致しまして」
「貰いたい人が貰えなくなったら悲しかろう。しかし気を大きく持って貰いたいね。世間は広い。嫁の候補者は幾らもある」
「はあ」
「新太郎や、未だ
と母親が註解を加えた。
「分っています」
「ところで洋行の話だが、実は俺は組合から欧米視察を頼まれている。何うせ一度は行って来たいと思っているし、別に
「私もお供をさせて戴きましょう」
「実を言うと、俺はお前に留守居をして貰いたいんだが、万一縁談が纒まらないようなら、何うも心配で置いて行けない。お前はグれるに
「大丈夫です。そんなことはない積りです」
「いや
「しかしお父さんはお一人で宜いでしょうか? この夏のようなこともありますからな」
「何あに、俺は大丈夫だ。病気を案じていちゃ果しがない。出るものなら家に斯うして坐っていても出る」
「それは然うですな。兎に角、私はお父さんやお母さんのお差図通りに致しましょう」
と新太郎君は

「新太郎や、お前······」
と母親はそれを誤解して鼻を詰まらせた。
「何ですか?」
「······駄目だったら真正に男らしく諦めておくれよ」
「もう諦めています」
と新太郎君は俯向いて
「ねえ、あなた」
と母親は
「何だ?」
「万一いけないようだったら、私、
「馬鹿! いくら言い聞かしても分らない!」
と父親は声を励した。
「いゝえ、あなたは理窟ばっかりで、情愛ってものが
「それじゃ何うすれば宜いんだ」
「この間から申上げているじゃございませんか?」
「
「お父さん、お母さんも御安心下さい。私だってそんな馬鹿じゃありません」
と新太郎君は立派に言い切った。
「
「申訳ありません」
「一体ならお前は士族平民の話が出た時に考えてくれる筈だ。商売をしていたって、理窟のないところへ下げる頭はない。旗本が何だ? 平民には平民の見識がある」
と父親は
「············」
「お直もお直だ。此奴がこんな我儘ものになったのは皆お前が甘やかすからだ」
「然うでございましょうとも。家で悪いことと申したら、皆私の
と母親も負けていない。
「然ういう
「でも悪いと
「情愛々々って言っても、お前のは猫可愛がりだから何にもならない」
「男親の前へ出ると思うことが碌々言えない子ですから、女親が相談に乗ってやらなければいじけるばかりですわ」
「何あに、
「いゝえ、あなたが
「この頃は言わない積りだがな」
「仰有らなくても怖い顔をしていらっしゃいますよ」
「顔は生れつきだ。馬鹿!」
と父親も面相の批評までされると益

「私は失礼致します」
と一礼して、新太郎君は二階の書斎へ上ってしまった。
一時間ばかりの後、来客らしい気配が下から聞えた。寝そべっていた新太郎君は宮地さんかと思って頭を
「新太郎君」
と寛一君が階段の下から呼んだ。
「上り給え」
と新太郎君は起き直った。
「何うだい? 未だらしいね」
と寛一君は上って来た。
「うん」
「
「晩い」
「悲観しているのかい?」
「悲観している」
と新太郎君は一々
「僕は有望だと思うよ」
「何故?」
「家へ帰ってマザーに訊いて見たら、御家人は
「僕はもう諦めている」
「何うして?」
「宮地さんは当てにならない。もう最後の手段あるばかりだ」
「最後の手段というと?」
と寛一君は不安そうな顔をした。
「マザーに直接先方のマザーへ泣きつかせるんだ」
「成程」
「先方だって子を持つ親の情愛は分っているから、これなら或は動くだろうと思う」
「然うだね」
「それでも駄目だったら、僕は洋行してベスービアスの噴火口へ身を投げてしまう」
と新太郎君はもう
折から、
「さあ、何うぞ此方へ」
と客を
「来た」
と寛一君は耳を澄ました。しかし直ぐに奥へ通ってしまったと見えて、後は待っていても音沙汰がない。
「宮地さんだよ」
と新太郎君は真剣な顔をした。
「吉報であって貰いたいな」
「ひっそりしているから心細いよ」
「あゝ、気が
「駄目ならベスービアスだ」
「馬鹿ばかり言うなよ」
「耳がガン/\鳴る」
「僕、
と寛一君が立ち上った時、
「新太郎や」
と間もなく階段の下から母親が

「はい」
「寛一もよ」
「
と新太郎君は寛一君に
「新太郎や、お喜び、好い塩梅だったよ」
と母親は嬉しさ余って涙が先立つ。
矢張り餅は餅屋だ。仲人屋の宮地さんは美事使命を果して来たのだった。
「僕も彼方へ参りましょう」
と新太郎君は奥へ進もうとした。
「いけませんよ」
「何故ですか?」
「斯ういう時には
「しかしお礼を言いたいんです」
「それは私達から申上げます。お前は何処を風が吹くかというような顔をしていなさい。嬉しがってピョコ/\すると、宮地さんは方々へ触れて歩きますよ。寛一や」
「はあ」
「お蔭さまだよ」
「
「宮地さんがお帰りになるまで二階で新太郎の相手をしていておくれ」
と母親は命じて奥へ急いだ。
二階へ戻るや否や、新太郎君は座蒲団を床の間の前へ押し進めて、
「さあ、何うぞ」
と寛一君を
「何ういう意味だい? これは」
「
「現金だね」
と笑ったものゝ、寛一君も悪い心持はしない。
「しかし宜かった。僕も安心したよ。お芽出度う」
と改めて祝意を表した。
「有難う。長いこと御苦労をかけた。この通り手をついてあやまる」
「もうよせよ」
「ところで今度は僕が君の為に一つ運動する」
「僕は今貰っても仕方がない」
「おっと、早まるなよ」
「それじゃ何だい?」
「お礼の為に君を洋行させる」
「今夜は能く洋行のことを言うが、一体何ういう
「実はガ

と新太郎君は先刻父親から聞いた通りを話して、
「何うだい? 君は気があるか?」
「あるとも。洋行は世帯を持たない中に限る」
「おれは世帯を持てば洋行なんかしなくても宜い」
「ハッハヽヽヽ。
「然うさ。マザーから手を廻して、丹波さんに説いて貰う」
「丹波さんも然う度々利用されちゃ気の毒だね」
「いや、実際年寄を一人で手放すのは心細いよ。此方にいる時と違って気を遣うから、秘書が必要だ。河内屋さんや岡本さんじゃ何うしても遠慮がある。
「ガ

と寛一君差当り諦めている景品が目の前にちらつき始めた。
「僕は極力尽力する。ところで君、もう一つ頼みがあるんだ」
「何だい?」
「一寸下へ行って様子を見て来てくれ給え」
「立聞きをするのかい?」
「まあ、その辺だ。その代り洋行を引受ける」
「よし/\」
と寛一君は下りて行ったが、直ぐに帰って来た。
「早いね。何んな形勢だったい?」
「大将、成功して来たものだから、大奥さんを褒めちぎっている」
「ふうむ。僕も
「当り前さ。
「姑でもさ。何と言っていたい?」
「頭も好ければ肚も好い。くれると定めた以上、今まで故障を言ったような風は少しも見せない。最初からお礼の百万遍で恐れ入ったそうだ。流石に主人を下敷にして枝も鳴らさない丈けのことはあると言っていたよ」
「成程」
「それから器量の好いのに感心したそうだ」
「僕の
「いや、大奥さんだよ」
「おっと、これは僕が早まった。ヘッヘヽヽ」
「四十そこ/\の
「宮地さんて人は女好きのようだね。それから?」
「仲人に行って
「そんなことは何うでも宜い。それから?」
「それ丈けさ」
「何あんだ。馬鹿々々しい。もう一遍行って来てくれ給え」
と新太郎君は又命じる。
「よし。今のは見つからなかったから、ノーカウントだ」
と寛一君は又下りて行く。
「何うだい?」
「

「結構だよ」
「それまではお互に交際して性格を理解し合うこと」
「申分ないね」
「以上主人病中ゆえ代って申上げますと、立板に水のよう、ハキ/\したものですよって、又
「以上というと?」
「中途から聞いたんだよ」
「後は?」
「この通り一から十まで話が分っているので、士族平民の件は、狐につまゝれたような心持がしましたが、そこは
「掌を反すように······」
「こゝでマザーが出て来たんだ。もう少しでコツンコさ。僕はもう帰る」
「まあ宜いよ」
「いや、この上用を言いつけられて、縁側でガ

「それじゃその辺までブラ/\送ろうか?」
と新太郎君は気軽く立ち上った。
「新太郎さんですね? あなたは」
と電話の声が確めた。
「はあ」
「私は松浦です。友三郎です。この度はお芽出度うございました」
「有難う存じます。何ともお礼の申上げようもございません」
と新太郎君は深く感銘している。秀子さんとの縁談が纒まったのは
「ところで西川君、そのお話は差当り宮地さんと年寄達に一任して、ここ
「はあ」
「前世界へ戻りましょう」
「はあ?」
「逗子の昔に戻りましょう。お話のあったことは恥かしいから厭だと秀子さんは相変らず気むずかしいんです」
「はあ/\、分りました」
「ところでその節お約束がございましたね」
「何ですか?」
「遊びにお
「はあ」
「私もその中にお伺い致しますから、あなたも是非最近に」
「有難うございます。早速お邪魔申上げましょう」
「明後日は如何でしょうか? 丁度日曜です」
「結構です」
「それでは朝からお待ち申上げますよ」
「承知致しました」
「何もなかったことにして平気でお出下さい。私の方もその積りにしますから。
「分りました。
「何う致しまして。それでは明後日」
「はあ」
「操から宜しく申上げます」
「恐れ入ります。何うぞ宜しく。今回は特別の御配慮にあずかりました。何れお目にかゝって······」
「いや、それを仰有らない取定めですよ。ハッハヽヽヽ」
「然うでしたね。ハッハヽヽ」
「それでは朝から夕方までのお積りで」
「承知致しました」
「さよなら」
「さよなら」
新太郎君は松浦家へこれで三度目の勘定になる。最初は父親の名代として危篤の病人を見舞いに行った。次には自分一個の資格で推参して寛一君諸共門から覗いていたところを取っ掴まった。
「おい、君、松浦さんだろう?」
と寛一君に図星を指された時、
「ヘヽヽヽ」
と
「何うしたんだい?」
「遊びに来いと言うのさ」
「トン/\拍子だね」
「全くお蔭様だよ」
「僕は矢っ張り洋行させて貰いたいな」
「それは無論骨を折る。成功謝礼だ」
「いや、これから半年は見るに見兼ねるだろうと思うからさ」
「何あに、大丈夫だ。僕だって理性がある」
「怪しいものさ」
「もう釣れている魚だぜ。然う/\御機嫌は取らないよ」
「何うだかね」
と寛一君は手を焼いているから容易に信用しない。
日曜の朝、新太郎君は新調のモーニングに身を固めた。この前の羽織袴に対して変化を試みたのである。秀子さんには無論のこと、初対面の両親に好い印象を与えたい。洋服屋の註文取と思われないように特に念を入れた。お土産は例によって不二屋のチョコレートだった。
「新太郎や、チョコレートはもう今度でお仕舞いにしろよ。余り甘いと思われるぜ」
とむずかしい父親が冗談を言ったくらい、この縁談はチョコレートで首尾一貫している。
「ヘヽヽヽ」
と新太郎君は昨今妙に頬の筋肉の緊張を欠く。
「笑いごとじゃありませんよ」
と母親も
「御安心下さい。私だって考えています」
「取越し苦労のようだけれど
「大丈夫です」
「この頃の娘さんはツク/″\
「何故ですか?」
「時代の
「何を変なことを言っているんだい」
と父親は例の鬼瓦に戻る。
「ところで、お母さん。真正に通り一遍の挨拶丈けで宜いんですか?」
「
「はあ」
「それは分っているわね、お父さんからもお母さんからもよ」
「はあ。両親からと申します」
「
「承知しました」
「それじゃ行ってお
と母親が送ってくれた。
銀座は空いた円タクが
「牛込弁天町」
と行先を言って納まった時、この前のことを思い出して、
「あゝ/\、有難い。到頭成功したんだ」
と痛切に感じた。同時に秀子さんの顔が浮んだ。いつもワン・ピースの海水浴姿でチラつく。男性が女性の
「一寸具合が悪いな」
と首を傾げて、
「何あに、構わない。逗子の要領で好いんだ」
と勇を
「成程、成功した」
と又思う。自動車が沢山通る。東奔西走、如何にも忙しそうだ。しかし此方のような
「成功々々」
と何彼につけて微笑まれる。神楽坂から肴町へ差しかゝった時、先頃縁日の晩寛一君と一緒にその辺を
「有難い/\」
と新太郎君、この両三日は感慨
松浦家に着くと、直ぐに洋間へ通された。最初友三郎さんが現れた。
「この度は
と新太郎君は真赤になってお礼を言った。
「結構でした。これからは何うぞ宜しく」
と松浦さんも満足のようだった。
「まあ/\」
と会釈をしながら入って来た。
「この度は······」
と新太郎君は又ドギマギする。
「秀子さんは?」
と松浦さんが訊いた。
「出にくいんですわ、矢っ張り」
「呼んで来ましょうか?」
「今に参りますよ」
と操さんは落ちついている。
縁談関係らしい挨拶はそれ丈けだった。一昨日の打ち合せに従って、松浦さんは直ぐに、
「承わればお父さんは近々海外視察にお出かけだそうでございますな」
と気を利かしてしまった。
「はあ」
と新太郎君は何かもっと具体的なものを掴みたかったのである。
「あなたはお供なさいますか?」
「いゝえ」
「丁度よろしい機会じゃありませんか?」
と松浦さんは無慈悲なことを言う。
「留守の都合がございますから」
「はゝあ」
「多分原田をつけてやることになりましょう」
と新太郎君は自分の意思で任命するように大きく出た。
「成程、原田君ならあなたも同じことですから安心ですな」
「彼奴は無暗に行きたいんです」
「あなたも
「はあ、二三年中にと思っています」
「始終彼方へ行く機会のあるのは羨ましいですな」
「西川さん、こゝにも無暗に行きたい人が一人いますのよ」
と操さんが
「ハッハヽヽヽ」
「彼方というと目の色が変ってしまいますのよ」
「そんなこともありませんが、一度は行って来たいものです」
と松浦さんは否定も主張も穏かにする。必ずしも婿養子だからでない。人格が然らしめるのだ。
「馬鹿を言え。しかし一遍は是非行って来るんだ」
なぞと威張ったところで何の足しにもならないことを知っている。
「行っていらっしゃいよ。今度西川さんがお出掛けの時、お供をなされば宜いわ」
「操さん、あなたもいらっしゃい。西川君は秀子さん同伴でしょうから、二夫婦揃って出かけましょう」
「ヘヽヽヽ」
と新太郎君は覚えず五体が
「オホヽヽ。一つ若返ってお供致しましょうか?
と操さんはお婆さんらしく言うが、未だ二十六七だから、それは社交上の謙遜に過ぎない。華族様の平民主義と同じことだ。
「未だ若返る必要もありますまい」
と友三郎さんはこの辺
「けれども私······」
「何ですか?」
「今更洋装でもありませんわ」
「そんな御遠慮は要りませんよ」
「でもこんなに太っているんですもの」
「それより
「婦人服なら私の知っている店に何んな人のでも似合うように
と新太郎君は商売柄
「して見ると日本人は矢っ張り日本服が一番似合うんでございますわね」
「要するにそこですな」
「つまり
という
「好いお天気ですな」
と友三郎さんが話の途切れを
「今日は俊男さんは学校ですか?」
と新太郎君は逗子以来の
「いや、家です。今日は日曜です」
と友三郎さんが答えた。
「はあ、然うでしたな」
と新太郎君は頭を掻いた。日曜だから来ているのだ。
「秀子を呼んで参りましょう」
と言って直ぐに立ったのも胸中を洞察されたようで甚だ具合が悪かった。
入れ違いに秀子さんが、
「お兄さま」
と呼んで顔を出して、
「あら、西川さん、その後は御無沙汰申上げました」
とニッコリした。
「
と新太郎君は両の膝頭へ手を当ててペコ/\する。男子
「
と秀子さんは益

「お兄さま、お母さまがお待ち兼ねでございます」
と注進を果した。
「それじゃ西川君、両親へ御紹介申上げます」
「はあ」
「此方へ」
「はあ」
「何うぞ」
「はあ」
と新太郎君は多少手間がかゝった。一番怖い人に会うのだから、度胸を据える必要がある。現に友三郎さんは「お母さまがお待ち兼ね」と秀子さんが言ったのを「それじゃ西川君、両親へ御紹介申上げましょう」と解釈している。お母さまが両親だ。
秀子さんのお父さまは新太郎君が想像していた通りの
「子供達がお世話になりまして······今後とも
とホク/\していた。
「これは/\。友三郎から始終お噂を承わって居ります」
とお母さまに至っては切り口上で長い。
「秀子の母でございます。何うぞお見知り置きを願います。毎度子供達が一方ならぬお世話様にあずかりまして有難う存じ上げます。今日は又御遠方のところを
と頗る
「兄が始終上って御迷惑をかけます」
とお父さまが社交に努めた時、新太郎君は、
「は?」
とまごついて、友三郎さんの顔を見た。
「渋谷の伯父さんですよ」
と友三郎君が注意した。渋谷の伯父と新太郎君の父親が友達だとは
「は、はゝあ、始終お見えになります」
と新太郎君、甚だ危い。
「お
とお母さまがお笑いになった。
「何う致しまして」
「
「はあ」
「しかし伯父さんのお
と友三郎さんが念の為披露に及んだ。打ち合わせて置かなかったから、新太郎君が長唄か何かの積りでいると
「好いお婿さんだよ」
とお父さまは間もなく少し疲れて例の
「それでは彼方で御ゆっくり」
とお母さまが気を利かしたので、新太郎君は友三郎さん
洋間には秀子さん初め芳子さんと俊男君が待っていた。
「やあ、俊男さん」
と新太郎君は馬として利用する関係上この少年には特に馴染んでいた。友三郎さんと操さんが接待係を勤める。顔ぶれがそのまゝだから、気分は逗子の夏に戻る。
「西川さん、原田さんはお変りございませんの?」
と秀子さんが訊いた。
「あゝ、皆さんに宜しくと申しました。元気好く働いています」
「原田さんは近々海外視察に出かけるんですとさ」
と友三郎さんが消息を伝えた。
「まあ。あなたは? 西川さん」
「私は
と新太郎君は覚えず力強く否定して、松浦さん夫婦の手前恥かしかった。
「父が出かけます。原田はお供で、僕は留守番です」
「それじゃ御主人ね? 当分」
「はあ」
「威張ったものね?」
「ヘヽヽヽ」
「遊びに上ってよ」
「何うぞ」
「秀子さんは銀座に一番好きなものがありますのよ」
と操さんが素っぱ抜きを試みた。
「厭よ、姉さん」
「何ですか?」
と新太郎君が
「申上げましょうか」
「厭よ/\」
「銀座よりも新橋よ」
と芳子さんが口を出す。
「およしなさいよ。自分だって大好きのくせに」
「何でしょう? 分りました。
「いゝえ、
「何でしょう? 新橋ですね?」
「新橋よりも
と芳子さんが又やる。
「芝口? さあ、分らない。奥さん、これは兜を脱ぎます」
「
「はゝあ」
「
「大阪屋でしょう」
「
「蜜豆ならお安い御用です」
「オホヽヽヽ」
「ヘヽヽヽ」
昼少し前に友三郎さんが、
「西川君、一つ庭を御覧下さいませんか?」
と申出た。
「はあ、是非拝見させて戴きます」
「秀子さん、あなた御案内申上げて下さい」
「はい/\」
と秀子さんは気軽く承知して直ぐに立った。
「僕も行こう」
と言って、俊男君が後を追おうとした時、
「俊男さん、あなたは
と友三郎さんが止めた。
「何ですか?」
「何でも宜いのよ。一寸々々」
と操さんが然るべく計う。
新太郎君は靴下に庭下駄を
「お広いですな。大きなお池がありますな。銀座あたりから来ると羨ましいです」
と恐悦至極だった。
「古いだけが自慢よ。これで庭師が見ると何処か法に叶っているんですってね」
「素人の私にも何となく結構ですよ」
「私はもっと現代的のが欲しいわ」
「花壇ですか?」
「いゝえ。花壇は裏にありますよ」
「それじゃ西洋式ですね?」
「えゝ」
「あれは
「もっと大きなのがいたんですが、四五年前に皆死んでしまいましたの」
「何うしたんです」
「
「はゝあ」
「すると間もなくあの大震災です」
「はゝあ、何か地震と関係があるんでしょうかね」
「さあ。安政の時にも涸れたと申しますわ」
「不思議ですな」
「西川さん、
と秀子さんは
「あら。犬が来ましたよ。お家の?」
「えゝ」
「不審そうに僕の顔を見ている」
「西川さん」
「はあ」
「私、口惜しいわ」
「何ですか?」
「私、あなたの計略にかゝってしまったんですもの」
「計略?」
「えゝ。
「はあ」
「
「はあ」
「それじゃ
「無論です。何でも仰有る通りに致します」
「それなら堪忍して上げるわ。さあ、参りましょう」
「未だ宜いでしょう?」
「それ御覧なさい。それが仰有る通り?」
「参りましょう」
と新太郎君は
「嘘よ、こゝでもっと話しましょうよ。未だ/\私、条件が沢山あるのよ」
と秀子さんは再び坐った。
「はあ」
「オホヽヽヽ」
「ヘヽヽヽ」
好い秋晴の日だった。微風だにない。池の面は鏡のよう
「西川さん、私、勘定して見ると条件が十ばかりありますのよ」
と秀子さんは落ちついたものだった。
「いくらでも仰有って下さい」
「申上げますわ」
「何うぞ」
と新太郎君は膝に手を置いて
「オホヽヽ。私、何だか極りが悪いわ」
「構いません」
「あなたから仰有いよ。あなただって御条件がございましょう」
と秀子さんは
「さあ」
「なくて? あって?」
「ありません。来てさえ下されば無条件です」
と新太郎君は益

「私は何うしてもあるわ。人を計略になんか掛けるんですもの」
「計略って
「それじゃ何?」
「去年からなんです」
「あらまあ!
「ヘヽヽヽ」
「それじゃ私、去年からかゝっていたんですの?」
「計略じゃないです」
「いゝえ、計略ですわ。けれども私、
「あります。御遠慮なく仰有って下さい」
「申上げますわ。西川さん、私、御両親と
「はあ」
「お母さん丈けなら我慢しますけれど、ガ

と秀子さんは
「
「宜くて?」
「えゝ。承知しました」
「それじゃあなたがお店へ通うことにして下さるのね?」
「然うです。店は店、住宅は住宅で別の方が僕も具合が好いんです」
「銀座は住むところじゃありませんわ。散歩に行くところよ。私、園芸が大好きですから、庭がなければ駄目よ」
「郊外に地面を買います」
「いゝえ。地面はこの屋敷廻りに家のがいくらもありますよ。姉さんばかりに上げないで、私も芳子も俊男も分けて戴くことになっていますから、それを差上げますわ」
「恐縮ですね」
「家はそれへ建てゝ戴きますわ。これも条件よ。
「えゝ。承知しました」
と新太郎君は唯々諾々だ。
「こゝなら母も毎日来られますわ」
「然うですな」
「私も毎日帰れますわ」
「結構です」
「西川さん、あなたはこの夏原田さんとお二人で兄さんや姉さんの悪口を仰有ったそうですわね」
「はあ」
「芳子が聞いて来て大憤慨でしたわ。姉さんに言いつけましたの」
「何ですか? 一体」
「家では兄さんが姉さんのことを『あなた』と仰有るでしょう。それで松浦のところは夫婦何方も『あなた』だから蔭で聞いていると
「あれは原田が言ったんです」
「あら、あなたよ、あなたの方が原田さんよりも
「ヘヽヽヽ」
「それ御覧なさい」
「しかし冗談ですよ」
「冗談は分っていますけれど、私、然ういう思想が気に入りませんの。あなたは私を『お前』と仰有る積り?」
「そこまでは未だ考えていません」
「私、『あなた』と仰有って戴きますよ。それから呼び捨ては御免蒙ります。宜くて? これも条件よ」
「承知しました」
「それから西川さん······」
「はあ」
「あら、ジョンが来たわ。誰か来るのよ」
と秀子さんは話し止んだ。
「西川さん」
と友三郎さんが築山の蔭から現れた。
「はあ」
と新太郎君は慌てゝ立ち上る。
「何うです? 記念に一つ写真を取らせて戴きましょうか?」
と友三郎さんはコダックを提げてニコ/\していた。
「願いましょう」
「私は厭よ」
と秀子さんが断った。
「何故?」
「オホヽヽヽ」
「ひどいですな。そんなに
と友三郎さんが促す。
「私、厭よ。西川さん、兄さんのお写真と来たら未だ
「はゝあ」
「この間はお母さんを写して大変叱られましたのよ。お婆さんに取ってしまったんですもの」
と秀子さんが素っぱ抜く。
「あれから毎日やっていますから可なり上達しましたよ」
「いゝえ。女中達を写してお父さんに御覧に入れたら、『これは刑務所の女囚かい?』とお訊きになったんでも分っていますわ」
「散々ですな」
「嬉しがって写して戴くのは姉さんぐらいのものよ」
「それじゃ止めます」
と友三郎さんは諦めかけたが、
「僕丈け願いましょう」
と新太郎君はこゝぞ恩返しと思って進み出た。
「秀子さん」
「はあ」
「記念です。何うぞ」
と友三郎さんは
「厭よ」
「それじゃ私も考えがありますよ」
「何あに?」
「今度の音楽会へお供しないから宜いです」
「
「真正ですとも」
「それじゃ写して戴きますわ」
と秀子さんは案外
友三郎さんの写真は先頃アメリカ帰りの友人に機械を貰ってからの道楽だから未だ日が浅い。下手な上に手間が取れる。二人を松の木の下に並べて種々と註文をつける。
「西川さんは心持ち前へ出て見て下さい。あゝ、出過ぎました」
「秀子さんはもっと上を見る」
と大騒ぎだ。しかし新太郎君は秀子さんと一緒だから少しも迷惑でない。言われるまゝになっている。
「西川さん、もう少し秀子さんの方へ寄って」
と友三郎さんは尚おレンズを覗きながら、
「然う/\。あゝ、いけません。寄り過ぎました。然う/\。それから鼻の下をもう少し短くして。それくらい。それくらい。宜しい。パチン」
「ヘヽヽヽ」
「そのまゝ。そのまゝ。念の為もう一枚取らせて戴きます」
新太郎君はこの日を第一回として毎日曜に松浦家を訪れることになった。一時
「その調子、その調子」
と例によって寛一君が
「もう大丈夫だよ。親の有難さが身に沁みている」
と新太郎君も無神経でない。
「現金だね」
「仕方がないさ」
「それは構わないが、思い出し笑い丈けは慎み給え。角倉君が勘定している」
「彼奴に会っちゃ
「
「余り
「しかし目に余るからね」
「何あに、あれは完全に釣り上げるまでの御機嫌取りさ」
「何とか言っているよ」
「それじゃ日曜に足を抜いて見せようか?」
「そんなに虚勢を張るには及ばないが、少し見識ってことを考え給え。何のことはない。君の方から松浦家へ養子に行くような恰好になってしまうぜ」
と寛一君は何処までも忠告係だ。
折から

「好い天気だなあ」
「惜しいなあ。折角の招待券が無駄になってしまう」
と土曜日には朝から溜息をつく。日曜は日曜として仕事のある上土曜に行きたいということには双方一致している。
「新太郎君、
と○△第一回戦の朝、寛一君が思い余った。
「何だい?」
「アメリカでは野球を見に行きたい時に伯父さんが死んで葬式がありますからと言って抜け出すそうだね?」
「然うさ。『宜しい。応援旗を持って行け』って、彼方の
「羨ましいなあ」
「この節は日本でも多少伯父さんの応用が利くんだろう。それでなくて銀行会社の連中があんなに大勢来る筈はない」
「しかし僕は何て因果な人間だろう。その伯父さんの店に勤めてるんだからね」
「忠告係、到頭弱音を吹き始めたね」
「△△△だからさ。今日は仕事が手につかない」
「おい」
と新太郎君は一段声を低めた。
「何だい?」
「今日はガ

「然うかい?」
「抜けようか?」
「さあ」
「僕は未だ一遍も行かないんだから察してくれ」
「それは
「明日が利かないんだから、行こうよ、是非今日、栗林さんに巧く頼んで置く」
「しかし危険だな」
「大丈夫だよ」
「君丈け行き給え。僕は明日行く」
「何故?」
「洋行がフイになると大変だもの」
「何あに、あれはもう動かない。組合へ発表して旅行免状まで願出ているんだもの」
「まあ/\、兎に角この際だ。自重しよう」
と寛一君は考え直したようだったが、結局二人とも抜け出した。
その日、○軍は二年越し△軍に負けていたのを見事
「僕は明日も来る」
と新太郎君は興奮していた。
「
と寛一君が訊いた。
「後から廻る」
「何だ」
「来年の春からは御同伴だぞ」
「秀子さんは野球が分るかい?」
「何うだか知らないが、僕が教育するよ」
と新太郎君は大威張りだった。
翌日も二人連れ立って見物した。○軍は段違いのスコアで△軍を
「祝勝会をやろう」
「大々的に」
「銀座へ」
「銀座、銀座」
という声が伝わった。
「何うだい?」
と寛一君。
「行くとも」
と新太郎君。
松浦の友三郎さんも○○大学出身だ。同窓なればこそ今回の縁談に特別の計らいをしてくれたのである。それで次の日曜に新太郎君が訪れた時、
「宜かったですなあ」
と話は先ず○軍の勝利で始まった。
「二年振りで溜飲を下げましたよ」
と新太郎君は早速仕合の
「晩に祝勝会があったんでつい失礼致しました」
と不可抗力のように言った。黙って聴いていた秀子さんはこの時、
「西川さん」
と呼んだ。
「はあ」
「あなたは洋行なすっちゃ如何?」
「はあ?」
「あなたなんか洋行してベスービアスの噴火口へ身を投げておしまいなさいよ」
新太郎君は答える言葉を知らなかった。尤も秀子さんに断わられるようなら
「秀子さん、あなたは何うなすったの?」
と友三郎さんが聞き兼ねて
「何うなすったんでしょう?」
と新太郎君は合点に苦んだ。
「この前の日曜の件ですよ」
「はゝあ」
「秀子さんは朝から待っていたんです。すると十時頃電話で夕方と仰有ったでしょう?」
「えゝ」
「その夕方が祝勝会でお流れになったから、大分お
と友三郎さんが説明してくれた。
「悪いことをしましたね。あやまりましょうか?」
「いや、それには及びません」
「しかし······」
「あなたは今が
「そんなこともないでしょうが······」
と新太郎君は受け答えに苦む。
「いや、実は私も婚約中に少し機嫌を取り過ぎた形があるんです。それが
「············」
「あなたは最初からしっかりやるんですな」
「はあ」
「妙なことを申すようですが、皆母親譲りですからね。あなたが思い切って強く出るようにならないと
「それほどのこともありますまいが、気が勝っていますからな」
「あなたは逗子で度々あやまらせられたでしょう?」
「えゝ」
「ハッハヽヽヽ」
「でも、あやまらないと口をきいて下さらないんですもの」
「悪い癖です」
「此方へ伺うようになってからも、二度、いや、三度あやまりました」
「それじゃいけませんよ。もう普通の交際じゃないんですからね。あなたのところの
「折を見てそれとなく申上げましょう」
「遠慮は要りません。それがあれの為め、あなたの為めです。実際今が大切のところですよ」
と友三郎さんは数年の長がある。手を焼いている丈けに用意周到な義兄振りを示した。
そこへ操さんが入って来て、
「あら、お二人きり? 秀子さんは?」
と訊いた。
「この前の日曜のことを根に持って未だお冠を曲げているようです」
「仕様のない人ね。呼んで参りましょうか?」
「この間は
と新太郎君は頭を掻いた。
「お察し申して居りましたのよ」
「操さん、秀子さんを少し教育するようにって、今申上げていたところです」
と友三郎さんが問題に触れた。
「我儘でございますからね」
「そんなことはありません」
と新太郎君は黙っていると
「私、呼んで参りますわ」
「宜いですよ。打っちゃってお置きなさい」
「あら、庭に出ていますのよ」
と操さんは障子の硝子から覗きながら、
「西川さん、
と誘った。
「はあ」
と新太郎君は
「西川さん、一寸」
と案外にも秀子さんの方から言葉をかけた。待っていたのである。新太郎君は洋服に庭下駄
「私の
「そんなこと何うでも宜いわ。彼方へ参りましょう」
と秀子さんは先に立って池の
「大きな鯉がいますね」
「西川さん!」
「はあ」
「何も仰有らないでおあやまりなさいよ」
「何をですか?」
と新太郎君は
「お分りになりませんの?」
「この前の日曜のことなら先刻お詫申上げました」
「あんなことじゃ私気が済みませんよ」
「何うすれば宜いんですか?」
「ちゃんとあやまって戴きましょう」
「秀子さん、あなたはその癖をお直しにならなければいけません」
「何ですと?」
「秀子さん、それじゃ堪忍して下さい」
「それじゃとは何です? 私、そんな気の乗らないあやまり方じゃ堪忍して上げられませんよ」
「秀子さん、そんなに仰有るものじゃありません。私が悪かったに相違ありませんが、男には男の交際があります」
「それじゃもう宜いわ」
「秀子さん」
「もう宜いわよ」
「
「男の交際がそんなにお大切なら、私はもう絶交させて戴きます」
「秀子さん、お待ち下さい。婚約中のものが絶交出来ますか?」
「知らない!」
「秀子さん」
「知らない!」
と再び
新太郎君の教育は第一回で失敗に了った。家へ帰ってから電話であやまり直したけれど駄目だった。斯うなると
「君、少し変じゃないか?」
と寛一君も気がついたくらいだった。
「又神経衰弱らしいよ」
「厭だぜ/\。何うしたんだい」
「祝勝会が
と新太郎君は秀子さんの我儘を訴えた。
「それだから言わないこっちゃないよ」
「斯う一々条件をつけられたり、あやまらせられたりしたんじゃ僕も
「しかし今更仕方がないぜ」
「仕方がない」
「何うする?」
「今度の日曜にあやまって堪忍して貰う」
「
と寛一君は呆れ返った。
次の日曜の朝定刻に松浦家へ出頭した時、取次に現れたのは秀子さんだった。新太郎君は矢張り待っていてくれたかと思うと嬉しくなって、
「この間は失礼申上げました」
と忽ちニタ/\した。
「
と秀子さんは三つ指をついて尋ねた。
「秀子さん」
「あなたは何方様でいらっしゃいますか?」
「西川です」
と新太郎君も馬鹿々々しいけれど
「何処の西川さんでいらっしゃいますか?」
「銀座の西川です」
「何方に御用でいらっしゃいますか?」
「松浦さんにお目にかゝり
「松浦は大主人でございますか? 若主人でございますか?」
「若主人に
「何ういう御用向でいらっしゃいますか?」
と秀子さんは何処までも真剣だ。
「さあ、御無沙汰伺いです」
「お名刺を戴きましょう」
「生憎と持ち合わせません」
「それでは西川何様と仰有いますか?」
「新太郎と申します」
と新太郎君が完全に名乗を上げた時、
「秀子さん、好い加減にしなさいよ。さあ、西川さん、何うぞ」
と友三郎さんが笑いながら出て来た。
客間へ通ったが、秀子さんはもうそれきり姿を見せない。
「
と新太郎君は
「何あに、心配はありません。その中に直りますよ」
と友三郎さんは落ちついている。
「飛んだ失礼を申上げました。今参ります」
と操さんが注進してから余程たって、秀子さんがお茶のお給仕に入って来た。
「秀子さん、先日は失礼致しました」
「············」
「秀子さん、お庭へ参りましょう」
と新太郎君は第三者のいないところであやまり直す決心だった。
「秀子さん、お供をなさい」
「もう御機嫌を直すんですよ」
と若夫婦が
今度は新太郎君が先に立って例の池の
「秀子さん、私が悪かったです。堪忍して下さい」
「············」
「もう約束は必ず守ります」
「宜くてよ、もう」
「堪忍して下さいますか?」
「えゝ」
「有難うございます」
「私、一週間損しちゃったわ」
「何故ですか?」
「憤っていると面白くないんですもの」
「僕も一週間
「
「えゝ」
「私、実はあの晩お電話の時、余っ程堪忍して上げようかと思いましたのよ」
「それじゃ何故あんなに仰有ったんですか?」
「でも絶交したばかりでしょう」
「行きがかりですね?」
「まあ
「先刻は
「私、
「お人が悪いですな。もう絶交はブル/\です。僕はイヨ/\ベスービアス行きかと思いましたよ」
「まあ、厭だ」
「これからはお互に気をつけましょうね」
「私も少し悪かったわ。お電話の時堪忍して上げなかった丈け」
「何あに、僕が悪いんです」
「喧嘩は損よ」
「もう憤りっこなしにしましょうね」
「えゝ、あなたもこれからは直ぐにあやまって頂戴よ。お父さんでも兄さんでも直ぐにあやまりますから、事が大きくなりませんのよ」
「承知しました」