便室(
老中が、城内で、親しい者と話をする小部屋)の
襖を開けると
「急用で御座りますかな」
と、口早にいって、
越前守は、松平
伊豆守信祝(信綱の
曾孫)の前へ坐った。
「急用と申すほどで無いが
||天一坊と申す者の噂を聞いたか?」
と、信祝は、
唇で微笑しながら、じっと越前守の眼をみた。越前守は、
頷くと
「何か、
所司代より申越して参りましたか」
奥坊主が、廊下で
「お茶をもって参りました」
と、大声を出した。越前守が、手を叩くと、襖を開けて
「お寒う御座ります」
と、
御叩頭をして、二人の前へ、茶を置くと、
淑かに出て行った。茶室好みの小部屋へは、もう夜が、
隅々へ入っていて、
沁々と冷たさが
沁んだ。
「
御落胤と称して、確かな証拠品も所持致す
由、今、
御上へ、
御覚が御座りますか、と聞くと
||」
信祝は、高声に、笑うと
「お上もあれで、若い時分には、
中々御たっ
者だったのだのう。まだ、もう二人いるはずだが、と、そう現われて来られては
堪らぬ。そこで、
||もし、正真の御落胤であった場合には、
何う処置してよいか」
信祝は、ここで言葉を切ると、じっと、唇を曲げながら、越前を見た。越前守は、黙っていた。信祝は、茶碗の
蓋を置くと、熱い茶を
口許までもって行って
「
偽者と
明かになれば、申し分は無い。万一御落胤ときまった折には
||何と申すか」
一口茶を
啜ると
「大義
親を
滅すとでもいうか、徳川家のために、
仮令、本物であろうとも、
贋者として処置しなければならぬ」
信祝は、茶を下へ置いて、朱塗火鉢を撫でながら
「その訳は
||下世話にいう、
氏より育ち、二十を越すまで、
素性卑しく育った者を、この城中へ入れることは、いろいろと
弊がある。二つには、この周囲には、浪人者の
不逞な
徒輩がいるらしい。この者の処分に万一口出しでもあって、そのままに附けておくと
成ると、
患いの種を
蒔くことになる。御当家
万代のためには、
忠直、
忠長、
忠輝と、いろいろの例もあり、この事は、お上も、よろしく取計らうようとの御言葉もあり、よし、本物であろうとも、贋者として、越前
||処分してもらいたい、
何うじゃな」
越前守は、
俯いたままであった。
「不和、不穏の
基に相成るから、
不憫であっても、厳重に処置する方策をもって臨んでもらい
度い
||と、いう相談じゃ」
「よく判りました」
と、越前守は、顔を上げた。
「とくと、
勘考仕りますが、
府内へ到着するまでには、
未だ未だ
余日もあること。到着の上にて
||」
「それはそうじゃが、今申した事を忘れぬように
||到着致したなら、すぐ
召捕っての」
「とくと勘考致しまする」
越前守が
(とくと、勘考致しまする)
と、いったなら、その上、誰が、
何うそれ以上の奥をいわせようとしても、いうものではなかった。越前守は、一人の
勘定方を撰択する時に
「百を二つに割ると、いくらだ」
と、聞いた。五十
||明かすぎる五十であるが、その人は、
算盤をもってきて、百と置き、二と置いて、一々
弾いてから
「五十で御座ります」
と、答えた。越前、微笑して
「よろしい、勘定方は、そこまで、念を入れなければいけない。よろしい」
と、
称めたが、その念入りの越前守が
「とくと、勘考致します」
と、二度までいったから、信祝は
「頼む」
と、いって、余談に移った。
低い
灰空だ
||雪になるか? 雨になるか?
沁々と冷たさの
沁む
黄昏だ。
信祝は、
蒔絵した
黒漆の大火鉢へかけた金網の上へ、背中を
丸めながら、唇を
歪めたり、眼を閉じたり
||それから
咳をしたり
||咳は、
寂莫とした
小書院一杯に反響して、けたたましかった。
「
阪井右京、只今、立戻りまして御座りますが
||」
と、廊下で足音が止まると、障子の腰の所で、澄んだ声がした。信祝は、
身体を起すと
「これへ」
と、いった。
「
灯をもて」
と、去って行く足音へ声をかけると、炭火を
掻き分けて、坐り直した。夜が、薄くかかってきた障子へ、灯の影が動いて、足音が近づくと
「阪井右京めに御座ります」
「戻ったか? 許す」
と、信祝は、微笑した。灯が、障子に近々と揺れると、右京の背後から、二人の腰元が、
燭台を
捧げて、入ってきた。その
裾の下を右京は、二、三尺
膝行すると、平伏して
「つつがなき御尊体を拝し
||」
と、いいかけると、信祝は、手を振って
「挨拶はよい。ここへまいれ」
と、いうと、燭台を置いた女中へ、眼で、早く去るように合図をした。
「見苦しき
装にて、
御眼を
汚しまする」
「
正か?
贋か?」
と、両手を膝へ置いて、俯いている右京へ問いかけた。
「御落胤に相違御座りませぬ」
信祝は、右京の
髷をじっと
凝視めながら
暫く黙っていた。
「越前から、誰か、調べにまいったような形跡はなかったか?」
「越前から?
||と、
仰せられますと」
「
忠相じゃ」
「はっ、越前守からは、一向に、
未だ、そのようの様子も見受けませぬ」
「うむ
||」
信祝は、火箸を灰へ突立てて押えながら
「残りなく、調べたのう」
「はっ、村役人、庄屋、近くの者共、
郡奉行所へもまいりまして御座りまする」
と、懐中から、村役人、郡奉行
在判の天一坊の身許についての、調査書を出すと、
「御覧下されまするよう」
と、前へ置いた。信祝は、燭台の方へ向くと、大判
美濃紙を薄く
綴った書類を眺めて
「ふむ
||存じ寄り申さず、が、多いの」
「はっ、
澤の
井と申される
女子も、その母親も、十数年前に死去致し、郡奉行、村役人とも、当時在勤の者がおりませず、ただ、近所の百姓共の申し分には、確かに、御落胤らしき
小児が、
感応院におりましたが、いつの間にかいなくなったと、申すばかりにて、皆々天一坊を御落胤と心得ておりまする」
信祝は、書類を置くと
「大儀であった
||近々、もう一度行ってもらいたい」
「はっ」
「寒かったであろう、道中は
||」
「
左ほどでも御座りませぬ。
御前の御好物、
蜜柑を持ち戻りまして御座りますが
||」
「うむ、
珍重じゃの、この冬にない初物じゃ、ゆっくり休むがよい」
右京の去った後で、信祝は、もう一度書類を読み直したが、
床の間から、革帯のかかった手箱を取ると、
錠を開けて、下の方へ
仕舞込んでしまった。
「
伊賀、よかったなあ」
と、越前守を送り出して、赤川
大膳と、部屋へ入ってくると、天一坊は、しとねの上へ立ったまま、感嘆的に、だが、低い声をかけた。
山内伊賀亮は、伏目のまま、黙って自分の座へ坐った。天一坊が坐りかけて、何かいおうとするのを眼で制していると、二人の女中が
擦り足に入ってきて、眼も上げずに、越前守の坐っていた
座布団をもって行った。天一坊の
背後にいた
常楽院が
「いや、山内殿の智弁には、今更ながら、つくづく恐れ入った。
流石の大岡越前守も、
一言もなく、尻っ尾を
捲いて
引退って行ったがいや、感服感服」
伊賀は、黙って、両腕を組んだまま俯いていたが
「いいや
||」
と、低く
呟くと、首を振った。
「何か
||」
と、大膳が、
三宝の上の
勝栗をつまみながら、伊賀の顔を覗くと
「越前の
肚が判らぬ」
「肚とは?」
「
飴色網代の乗物へ乗った訳は?、とか、
紫地、
花葵の
定紋幕を打った訳は?、とか
||それほどのことを、わざわざ聞くような越前ではない。
彼奴は、ちゃんと心得ていて聞いたのだが、聞かれると、返答せん訳には参らぬ。
拙者が答えると、じっと、拙者の顔を、ちらっと、天一坊殿の顔を
||」
「左様、拙者へも、じろりと、薄気味の悪い眼を向けたが
||」
「越前は、よく人相を見るというでないかのう」
と、常楽院が、
衣を
捲り上げて、
長煙管へ
煙草をつめながら、口を出した。
「人相はともかく、問答に事よせて、
顔色を
覗いにまいった。御落胤か、
偽り者か、問答しながら、顔色を見ようと
||うまうま
篏った」
と、伊賀亮は、俯いて、眼を閉じた、越前守が、伊賀亮へ
「飴色網代の
駕へ、
何故、許しもなく御乗り召さる」
と、いった口調は、返答によっては、
差置かぬぞ、という鋭さが含まれていた。人々はそれを伊賀亮が、
何う
捌くか?、この問答が一
期の浮沈であると、心臓を
喘がせながら、血を冷たくさせながら、全身的の緊張で、聞入ったが
||天一坊が、御落胤ならば、飴色であろうと、三つ葉葵であろうと、そんな事は、
末の話であった。
伊賀亮は、十分にそれを承知していたが、そう
詰問されて、答えない訳には行かなかった。だが、答えて、明快に説明していると、天一坊も、大膳も、常楽院も、少し顔を赤くし、全身を固くし、こめかみをふくらせて、微笑したり、目を見合せたり
||そして、越前守は、伊賀亮の話を聞くよりも、四人の顔色の変化を、じっと伺っている方が多かった。少くも、伊賀亮には、越前のそうした態度がよく判っていた。
だが、越前が、皆の
顔色を見ているから、表情を変えぬようにとはいえなかったし、中座して、それを一同に伝えて、越前守の眼を警戒させるには、既に遅くなりすぎていた。天一坊が、
真正の落胤であるという事に、疑いの無い以上、そういう問答によって、顔色を変える必要は無かったが、人々は
||天一坊も、
附人も、越前を名
判官であると信じ、その証拠物の調べにより、この問答の
巧拙により、もしかしたなら、何が
何う成るか、判らぬと考えていただけに、伊賀亮との一問一答には、汗を出したのであった。
「ふむ」
と、大膳は、かちかち音立てて
噛んでいた
干栗を、頬の中へ
仕舞いながら
「
成程||」
「余を贋者にしようというのか」
と、天一坊は、口早に、額を蒼白くしながら、叫んだ。伊賀亮は、俯いたまま、首を振って
「そうでもない」
「そうでも無いと?
||」
伊賀は黙っていた。一座の人々は、不安な空気に圧迫されて、いろいろな幻想を、急速に廻転させながら、伊賀の広い額をじっと
凝視めていた。
淡彩で、
雁を描いた老中の
溜りの間にいた
信祝は、越前が登城したと聞くと
「便室へ」
と、奥坊主にいって、立ち上りながら、
稲葉佐渡守へ
「頑固者じゃのう」
と、微笑すると、両手を突出し、腰を張って、延びをしながら
「
何うれ」
といって、廊下へ出た。うんげん
縁の
畳敷で、天井の高い広廊下は、凍った風で寒かった。信祝は、急ぎ足に、一つ角を曲ると
「御待ちで御座ります」
と、薄暗い廊下に、坊主がうずくまって、平伏していた。信祝は、
狩野正信の宝船の茶がけのかかっている床の間を背に
「存外、早かったのう」
と、坐った。
「取調べて参りました」
「ふむ、そして?」
「
正しく、御落胤に相違御座りませぬ」
信祝は黙って、越前守の襟元へ眼をやっていた。
「御墨附、御短刀とも、正真の上は、御落胤と認めるより
外に、御座りませぬ。しかし、紀州においての取調べによって、
如何に相成りまするか! 早速人を
遣わす所存で御座りますが、
生国、
生地において、御落胤で無いという証拠の
挙らぬ限り、偽者として処置致すことは、越前の役儀の
表として、出来兼ねまする」
「しかし
||」
と、信祝は、おっかぶせて
「先ごろ申した通り大の虫を殺して、小の虫を生かす
諺だのう。あの附人の
中には山内伊賀亮などと申す、中々の
強か者がいるとの事だが
||」
と、越前の顔をみた。
「中々、
天晴れな者で御座ります
||」
「司政者として、得体の知れぬ者を、よし正真の証拠品があろうとも、御当家の
為に
||」
「いいや、正真の証拠品が有らば、得体は知れておりまする」
「得体がよし知れておっても、この間申した
如く
||」
「なれど、司政の根本は、物を正すに御座ります。正しきを正しきとし、曲れるを曲れるとし
||」
「それは、よく存じておる。越前が、判官として、そう申すのは、重々、信祝も
解せる。
然し天一坊の事は、重大で、時としては、司政の都合にて、法を
枉げる事も
||」
「いいや、法を枉げてよい司政は御座りませぬ。正しき証拠のある者を、罪にする事は、司政の根本を
覆す事で御座りまする。もし
強ってとの
仰せならば、越前に代って、南町奉行を余人に申しつけ下され
度く、越前が、職におりまする限り、御老中の仰せ、
公方様の仰せで御座りましょうとも、罪無き者を罰する事はできませぬ」
信祝は、不機嫌となって、唇を
痙攣させていた。
「然し
||未だ、紀州の調べも済まず、万事は、その上のことで御座りまするが、越前が職にある限り、法を方便には用いませぬ。このことが、もし庶民に判りました
節は、天一坊を御城内へ入れましたことよりも、人心には危機が参りまする。人民が、司政者に依頼するは、司政者が法を枉げず、法は司政者によって
歪めないからで御座りまして、罪なき者を罰したとあっては、一国の法も、司政者の権威も、その時より地に
墜ちまする。天下の人心が、御司配を頼まなくなりまするのと、天一坊が、ここへ入りまするのと、
何れが重大か
||」
「それは、判っておるがの。そっと処分して
洩れなければ
||」
「判官としての越前の良心が許しませぬ。判官に、法を守るの良心が無ければ、法が乱れ、法の乱れは、政治を乱す
基で御座りまする。判官は、洩れなければよい、と申すような心掛では勤まりませぬ。壁にも耳、
徳利にも口と、
寸分、間違いのないことを、法に照らして処断するのが
務に御座りまする」
「紀州へは、すぐ
使を出すか?」
「取急ぎ打ち立たせまする」
「それでは、万事その上と致そう。いや
||越前の
||」
と、信祝は、朗らかに笑って
「そうなくてはならぬ」
と、幾度も頷いた。
「恐れ入りまする」
「世間で、評判のよいのも
尤もだのう、とてもかなわぬわい、越前、あははは」
と、信祝は、便室一杯に笑った。
松平信祝からの火急の使者が来たので、紀州家
附家老、安藤
帯刀は、自慢の
南紀重国の脇差と、蜜柑
一籠とを、家来に持たせて、
駕を急がせてきた。
信祝は、寒さに、鼻の頭を赤くしながら入ってきた帯刀をみると
「済まぬ」
と、軽く、御辞儀をした。
「大事かな」
と、六十をすぎた帯刀は、すぐ火鉢を引寄せると、口早に聞いた。
「手を、お借りしたい」
「さあさあ、いくらなりと」
「天一坊の一件じゃが
||」
と、声を落すと
「越前が
||」
と、大岡越前守の意見を話して
「それで、
彼奴の下役が、紀州へ行かぬ内に、何か、贋者だという証拠品を
拵えておいて、使が行ったなら、それを
掴ませて戻してもらいたいが、
心の利いた、口の固い者を一人、二人
||」
「うむ、御安い御用」
「そこで
||」
と、信祝は、阪井右京の持って戻った書類を出して
「郡奉行に、村役人は、これは頭ごなしに、
詮議不行届、天一坊は贋者で無いか、こういう証拠があるのに、前任者へ責任を
転嫁させるとは、不都合
千万と、叱ってもらえば、一も二もあるまい」
「
成る
程」
「庄屋、百姓の
類には、
流言をふり
撒いてもらえば、無智な
徒輩は、手もないて」
「うむ。万事承引、即刻、打ち立たせよう、越前の手とて、よも、今夜には、立つまい。これから戻って、早馬ならば四日
路、町奉行
手附では、十日はかかろう、よしっ」
と、いうと、帯刀は立ち上って
「重国が、一本
出来してまいった。御気に召さば、御
差料に」
と、挨拶すると、老人は、信祝が合図の
紐を引いて、鈴を鳴らすのも待たないで、
襖をあけた。
一間へだたった所にいた侍が、
周章て立つと
「御帰館に御座りますか」
と、御辞儀をした。
「これは、御奉行様」
と、庄屋は、炉へ投出していた脚を、
周章て引込めると、
襟を合せて、坐り直した。下男は、牛小屋へ引込むし、子供は、母親に引張られて、
吃驚しながら、
納戸へ逃込んでしまった。庄屋は、
不意の
郡奉行の訪問に、心臓をしめつけられながら、炉べりで平伏した。
「少し、尋ねたい事がある」
「はい、はい」
と、両手を突いたまま平伏してしまっていた。
「
上らしてもらうぞ」
「はっ」
と、いった庄屋は、
洗足の水を取らせようと、家のものを見廻したが、誰もいないので
「これはこれは」
と、いって両手を突出している内に、郡奉行は上ってしまった。
「
流石に寒いのう」
と炉へ手をかざしていると、一人の侍が入ってきた。奉行は振向くと
「さ、こちらへ、むさい所で
||」
と、いった。庄屋は
「誰か、早くお茶をもって来んかい」
と、怒り声で叫んだ。
「
宇兵衛、これだが
||」
と、一人の侍のもってきた
包をあけると郡奉行は、
菅笠を取出した。
「はい、はい」
と、庄屋は、両手を突いた。二人の侍の背後を、庄屋の女房が、両手を膝まで下げながら、おずおずと通ると
「早うせんかい、馬鹿が」
と、庄屋が叱った。
「見覚えがあるか」
宇兵衛は、首を
傾けて、両手を膝へ置いてじっと菅笠を見ていると
「それ、
宝沢と、そこに書いてあるの」
「はい」
「宝沢とは、誰の事か存じておるか」
「宝沢?」
と、宇兵衛は、首を傾けた。
「宝沢?
||はてな、宝沢さん」
「感応院の小僧の宝沢を存じておるか」
「あっ」
と、宇兵衛は、右手を宙に上げると、笑顔になって
「あの、天一坊様」
「うむ」
「そうそう、あの方は、幼な名が宝沢、これは、あの天一坊様の」
「所で、あれが、とんだ贋者での」
「ええっ」
「江戸
表から、取調べの役人がまいられて、この証拠の菅笠を御見付けになったが、それ
||この黒い所は血じゃ」
宇兵衛は、頷いて、口を開けたままであった。
「宝沢を殺しておいて、御
墨附と、短刀とを奪取って、まんまと、贋者め、天一坊に成りすましておるのじゃ」
「はあ
||」
と、宇兵衛は、血の跡だという黒い斑点と破れた所とを眺めていた。
「そこで、これは、宝沢の書いた字にちがいないと思うが、どうじゃ」
「はいはい、左様で御座いましょう」
と、宇兵衛が、首を曲げて覗いていると、一人の侍が
「偽りならば、偽りと申せ」
と鋭くいった。
「いいえ、
正しく、宝沢さんの
手で御座います、はい」
「偽りであるまいの」
「いいえ、
貴下様
||」
と、宇兵衛は、眉を歪めた。
「村方の者共、天一坊のことを、いろいろと
取沙汰致しておるが、並の噂とは、ことかわり、
迂闊に、宝沢が天一坊などと申すと、
咎めに遭うぞ」
宇兵衛は、膝の上へ頭をすりつけるように
叩頭した。
大岡越前守の手の紀州調べの
使として、同心
平田三五郎、
外一人の者が、平沢村へきた。そして、第一番に、
郡奉行の所へくると
「重々、お詫び申上げねばなりませぬ」
と、郡奉行は、二人を客間へ案内すると、すぐにいった。
「お詫びとは?」
「以前、御老中松平
信祝様より、御取調べの御使の参られました
節、
俄のこととて、取調べも
仕らず、と、申しまするは、
拙者が当地へ赴任仕らぬ前のこととて、一向に何事も存じ申さず、その
由を申上げておきました所、紀州家にてもいろいろの御詮議あり、先日、御落胤に疑い無き宝沢と申される方は、実は、何者のためにか、ここを去る三里余り、
四方形峠の辻堂にて御殺害にお遭いなされたよし、その殺害者が、当時の天一坊と思われまするが
||」
「して、その
||証拠は?」
「ただ一つ。宝沢殿の
御冠りなされた菅笠、只今これへ持参致させまする」
女中が、
酒肴を運んできた。
「まず、
一献」
「いや、その儀は、取調べ確定の上にて」
と、三五郎は、強硬な口調でいった。郡奉行は、手を叩いて、下役を呼ぶと
「一件の菅笠をもて」
と命じた。土蔵へ
仕舞ってあった菅笠が二人の前へ置かれた。古びた、雨うたしになった、
微かに、宝沢同行
二人と読める、所々裂け目のついた菅笠であった。
「なるほど」
と、三五郎は、障子の方へ笠をやって、じっと眺めながら
「血で御座ろうな」
「左様、
無残にも、頭から、ばっさり浴びせかけたと見えまする」
「御下役を一人、その辻堂まで、拝借を御願い致したい」
「かしこまりまして御座る。三里と申しても四里近く御座ろうが。道は
左程でも
||」
と、手を叩くと、案内を申しつけた。
三五郎は、それから、庄屋を、村方を、感応院を調べた。人々は宝沢という可愛い子供がいたが、いつの間にかいなくなった。多分殺されたらしく、今の天一坊は、贋者だ、多分宝沢を殺して、御墨附と、短刀とを奪取って、図々しく、御落胤と称しているのだろうと、噂した。
三五郎は、証拠品として、菅笠を、それから、人々からの聴取書を持って、江戸へ引返してきた。
数寄屋橋の
唐金の
擬宝珠は、通行人の手ずれで、
赭く光っていた。南町奉行所へ、対面についての心得をききに、天一坊が通るというので、人々は、橋だもとに集って、河を眺めたり、焼餅を食べたり、
大道卦占師の口上を聞いたり、隣の人と話を
交えたりしていた。
「
下婢をつまむのは、こちとらだけだと思っていたら、
何うでえ
||」
「何んしろ、暇だからのう、
下々様のように
何処、
此処と、のたくり、ほっつける訳じゃあなしさ
||今だって、七人か、八人かの御子様だろう。それが、四
腹か、五腹さ。その上に、
今度あ、恐れ
乍ら、御願い申上げ奉ります牛の骨、馬の骨と来らあ。どうでえ、
手前できのいい女郎に、子供を生ませて
||とこう眺めていると、鼻は
獅子鼻、歯は
乱杭、親の因果が、子に報いって
面だなあ」
「へん、俺に似なくっても、あいつに似りゃ天神様みたいな
伜だ」
「と、知らぬは亭主ばかりなりっての」
「
叱ッ、手先が混ってやあがる」
と、一人は、
周章て、袖を引いた。
「何処に?」
「そら、身なりを変えて」
「
彼奴かい、あはははは、うっかり、将軍助平などといおう物なら、来た来た、うまく化けてやがらあ、商売々々だ」
「天一坊が、贋者だって噂もあるじゃあねえか」
「うむ、事によったら、橋の上で大捕物になるかの」
町人達が、橋の上で、
濠端で、話している真中を、徒歩で、馬上で、侍が行きかかっていた。
「
元和、
慶長に
兜首を取って二百五十石、それ以来、知行が上ったことがない。
式目の
表では、
士分の者三人を召抱えていなくてはならぬが、妻子五人が食べ兼ねるでのう。それが、
一寸、手がついて、男の子だと申せば、天一坊も、少くて五万石」
「いや、部屋
住であろう」
「部屋は部屋でも、部屋がちがう」
と、大声に話しながら、二人の国侍が、
大股に通りすぎた。
「いくら、御落胤だって
||」
「然し、仕方がない」
「だって、お前」
と、いうような会話が、口々に取かわされていた。
玄関を通って、廊下へ出ると、左右の部屋部屋には人々が居並んで、頭を下げていた。天一坊は、得意と、満足と、それから、こういう厳粛さに慣れない興奮とから、ぼんやりしながら、歩いて行くと、正面に、板戸のある
上り口があった。その二、三
間前まで行ったとき、板戸が、後方へ開かれると、大岡越前守が、上り口の正面の上に突立っていた。天一坊は、心臓を圧迫されて、眼で微笑しながら、軽く御辞儀をして、近づいて行くと
「天一坊」
と、越前が、大声でいった。そして、一人の侍の差出した菅笠を、左手に、天一坊へ突出して
「見覚えあるか」
と、
烈しい口調であった。すぐ、後方につづいていた赤川大膳は、全身の神経で、四方にいる越前の手先達を眺め廻した。天一坊は
何故か判らなかったが、越前守の言葉が烈しいので、首を差出して、菅笠を覗き込むと
「宝沢とは偽り者めッ、それッ」
と、叫ぶと、右手で、胸を突いた。天一坊は、よろめきながら、
何ういっていいか?、何うしていいか?、判らなかった。自分が、本当に御落胤か、ちがっているか?、山内伊賀亮に、そういわれると、そういう気もしたが、越前守に
「宝沢」
と、呼ばれると、
氏も、
素性もない宝沢という気もした。母親は、彼の生れた時に死んだし、彼としては、自分で、落胤だと信じていい何の証拠も無かった。
「偽り者めッ」
と、いわれたから、それを否定しようと思ったが、一年半近く、御落胤と信じていて、とっくに、宝沢の生活を、自分の記憶から捨てていた天一坊にとって、二つの生活が、余りにちがっているが為、
総てが
||今、胸を突かれた事も、誰かが、両腕を押えていることも、赤川の叫びも、常楽院の号泣も、騒がしさも、一切が、夢のように感じられた、極端な二つの生活が、混乱して、頭の中で、素早く廻転し、明滅すると共に、
「いいえ」
と、叫んで、首を振ったが、越前守はもういなくなっていて、縄が手首へ食い込んでいた。
「立ちませ」
と、耳許で誰かが叫んで、背を突いた。大膳も、両腕を上げながら、五六人の役人に、食い下がられていた。左右の部屋々々には、多勢の人々が、
襷をかけて立っていた。
伊賀亮が、落胤だといった時、それから後の生活、それから、今
||それらは総て、感応院の宝沢としての
馴れた生活からみると意想外の
夢話であった。天一坊は、こうして縛られたのも夢で、又すぐ、思いがけない事が起って、今度は、将軍の
側にいるようになるかも知れぬ
||何が何んだか、ここ一年余り、自分では
何う考えても、訳の判らない事ばかりだ。
「どうにか、又、成るだろう」
と、思いながら、動かすと、しめつけて痛む程に、
憤りを感じながら
「世の中って
||妙ですな」
と、役人へ、笑った。
「不敵者ッ」
と、一人が睨んだ。
「大胆者めが」
と、一人が、いった。
「只今、阪井右京殿よりの、火急の御口上、申上げにまいりましたが」
と、御使番、
進藤才五郎が、老中溜り間の次から、信祝へいった。
「それにて申せ、大事ない」
老中は、三人、火鉢を真中にして、何か笑っていたが、
「只今、南奉行御役宅におきまして、天一坊常楽院
[#「天一坊常楽院」はママ]、赤川大膳以下を召捕りまして御座りまする。供の者一同も、数寄屋橋を固めて
駕の者まで残りなく
||」
「山内と申す奴は」
「品川の旅宿にて、切腹との儀に御座ります。以上、口上に御座ります」
「御苦労」
才五郎は、平伏すると、そのまま二三尺
後方へ
退って、もう一度平伏して、立上ると、出て行った。
「やったの」
と、信祝は微笑した。
「越前め、又、
何ういう所存になったやら」
と、稲葉が、呟いた。
「ここだけの話」
と、信祝は、声を低めた。
「あいつは、
融通の利かぬ男じゃから、
帯刀と談合の上、
丁度、感応院の蔵の中に、宝沢の笠のあったのを幸い、犬の血をつけて、切り目を作っての、越前の下役共の先廻りをして、これを贋者の証拠品にしておいたのじゃ。越前めそれを探し出して、贋者と考えたらしいが、とんだ手品をさせられたものじゃ、あははは」
と、朗らかに、得意そうに、笑った。
「判官としては、古今無類の仁じゃが、政治の
妙機は判らぬでのう。法は
活物、臨機応変に妙味があるが、越前のは
理非曲直、ただ法を
枉げない事に
専らで
||」
「と、申しかけると、あいつ又、いろいろこねるでのう」
「法は、
時世と共に、移るもので不変ではない。わしの考え、わしが越前なら、天一坊の処分は、菅笠が無くとも、こう考えてよかろうのう。つまり、その時代の人心に、司政者に
利のある時には、法を枉げてもよい、と。天一坊の場合は、
明かに、かかる者を御落胤として認める事は、天下人心によろしくも無く、御当代の為にも
不為じゃ。こういう時には、
仮令、証拠品が無くとも、贋者として処断する、つまり、法の活用じゃ」
「至極
||至極」
と、信祝は、稲葉へ頷いた。板倉が、
「それでは、処分は、五手がかりと致そうか」(五手がかりは、南北町奉行、寺社奉行、お目付、老中総立合いの裁判である)
「よろしかろう。世間にもいろいろと取沙汰のある
折柄、処断を明かにするのは利益であろう」
「それでは、月番の
足下に、御頼み申そう。ああ、肩の荷が降りた。そこでさきの話のつづきじゃが、その女が?」
と、信祝は、板倉の顔をみた。
天一坊の処刑が済んでから、暖かい一日、安藤帯刀老人が、越前守を訪ねた。そして、話の末に、
「あの菅笠は、
真正で御座るか」
と、自分の計画が、
何の程度大岡を
欺き得たかを知りたさに、と同時に、それは、越前守の器量を試す事にもなるという意味から、聞くと、越前は、微笑して、
「ははは。御老人は?」
と、じっと瞳をみた。越前に軽くこういわれて、瞳をみられると、帯刀は、看破しているのかな、とさえ考えて、軽く狼狽したが、
「
足下の判断に間違いはあるまいが
||」
「いかにも、笠の真偽でなく、判断の当、不当」
「と、申すと?」
「笠は、誰かの
悪戯かも知れませぬが
||」
と、いって越前は俯いた。
「越前が、紀州を調べ、証拠品を押えて戻り、贋者と断じて、処分したとなれば、よし天一坊が、
真正の御落胤であろうとも、人民の心には揺ぎがまいりませぬ。信祝殿は、当代の発明者にて御座りまするが、拙者の如く、
尽すべき事を尽して後に処断するのでなく、ただ大局論として、奉行所の職分を無視して居られる如く心得られまする。調べるべきを調べ、求むべきを求めて
後の処刑ならば、よし、後日あの菅笠が、信祝殿の御
指図によって、造られたものと判りましたにせよ、越前が、うまく一杯かかっただけにて、その不明な点に責任はあろうとも、人心はそこまで調べた奉行所へは、
矢張り信頼をもちまする。調べもせず、つまり、奉行所がありながら、その職務を、
御上の都合にて、
如何ようにも左右されると、庶民に思い込ませるよりは、越前も失策した、然し、よく調べはしたと、庶民に思われる方が、司政者としては、
政に忠なるものと、心得まする、天一坊を
嗣子とすることの人心への影響は、越前とても十分に心得ておりまするが、
某、奉行として、法を守る限り、飽くまで、法に従って、庶民が安心して、法によるように致したいと存じまする」
帯刀は、暫く俯いて黙っていたが、呟くように、
「あれは、わしが作らせた」
と、いった。
「
素人細工で御座りますな」
と、越前守は、笑った。帯刀は、顔を上げると、涙を浮べていた。
「頼む、越前、家の宝、国の宝」
と、いうと、感激し易い老人は、涙を、頬へ伝わしながら、
「そう無くてはならぬ、
恥入る、恥入る」
と、両手を膝へ突いて、着物の上へ、涙をぽたぽた落した。