その
頃私は
或る
気紛れな
考から、
今迄自分の身のまわりを
裹んで居た
賑やかな
雰囲気を遠ざかって、いろいろの関係で交際を続けて居た男や女の圏内から、ひそかに逃れ出ようと思い、方々と適当な隠れ家を捜し求めた揚句、浅草の松葉町辺に
真言宗の寺のあるのを見附けて、ようよう
其処の
庫裡の一と間を借り受けることになった。
新堀の
溝へついて、菊屋橋から
門跡の裏手を真っ
直ぐに行ったところ、十二階の下の方の、うるさく入り組んだ Obscure な町の中にその寺はあった。ごみ
溜めの箱を
覆した
如く、あの辺一帯にひろがって居る
貧民窟の片側に、
黄橙色の
土塀の壁が長く続いて、
如何にも落ち着いた、重々しい寂しい感じを与える構えであった。
私は最初から、渋谷だの大久保だのと云う郊外へ
隠遁するよりも、
却って市内の
何処かに人の心附かない、不思議なさびれた所があるであろうと思っていた。丁度瀬の早い
渓川のところどころに、
澱んだ
淵が出来るように、下町の
雑沓する
巷と巷の
間に
挟まりながら、極めて特殊の場合か、特殊の人でもなければ
めったに通行しないような閑静な
一郭が、なければなるまいと思っていた。
同時に又こんな事も考えて見た。
|||己は随分旅行好きで、京都、仙台、北海道から九州までも歩いて来た。けれども
未だこの東京の町の中に、人形町で生れて二十年来永住している東京の町の中に、一度も足を
蹈み入れた事のないと云う通りが、
屹度あるに違いない。いや、思ったより沢山あるに違いない。
そうして大都会の下町に、
蜂の巣の如く交錯している大小無数の街路のうち、私が通った事のある所と、ない所では、
孰方が多いかちょいと
判らなくなって来た。
何でも十一二歳の頃であったろう。父と一緒に深川の
八幡様へ行った時、
「これから渡しを渡って、
冬木の
米市で名代のそばを
御馳走してやるかな。」
こう云って、父は私を
境内の社殿の
後の方へ連れて行った事がある。其処には小網町や小舟町辺の掘割と全く趣の違った、幅の狭い、岸の低い、水の一杯にふくれ上っている川が、細かく建て込んでいる両岸の家々の、軒と軒とを押し分けるように、どんよりと
物憂く流れて居た。小さな渡し船は、川幅よりも長そうな荷足りや
伝馬が、
幾艘も縦に
列んでいる間を縫いながら、二た
竿三竿ばかりちょろちょろと
水底を
衝いて往復して居た。
私はその時まで、たびたび八幡様へお参りをしたが、未だ
嘗て境内の裏手がどんなになっているか考えて見たことはなかった。いつも正面の鳥居の方から社殿を拝むだけで、恐らくパノラマの絵のように、表ばかりで裏のない、行き止まりの景色のように自然と考えていたのであろう。現在
眼の前にこんな川や渡し場が見えて、その先に広い地面が果てしもなく続いている
謎のような光景を見ると、何となく京都や大阪よりももっと東京をかけ離れた、夢の中で
屡々出
逢うことのある世界の如く思われた。
それから私は、浅草の観音堂の真うしろにはどんな町があったか想像して見たが、
仲店の通りから
宏大な朱塗りのお堂の
甍を望んだ時の有様ばかりが
明瞭に描かれ、その外の点は
とんと頭に浮かばなかった。だんだん大人になって、世間が広くなるに
随い、知人の家を訪ねたり、花見
遊山に出かけたり、東京市中は
隈なく歩いたようであるが、いまだに子供の時分経験したような不思議な別世界へ、ハタリと行き逢うことがたびたびあった。
そう云う別世界こそ、身を
匿すには
究竟であろうと思って、
此処彼処といろいろに捜し求めて見れば見る程、今迄通ったことのない区域が
到る
処に発見された。浅草橋と
和泉橋は幾度も渡って置きながら、その間にある左衛門橋を渡ったことがない。
二長町の市村座へ行くのには、いつも電車通りからそばやの角を右へ曲ったが、あの芝居の前を真っ直ぐに柳盛座の方へ出る二三町ばかりの地面は、一度も蹈んだ覚えはなかった。昔の
永代橋の右岸の
袂から、左の方の
河岸はどんな工合になって居たか、どうも
好く判らなかった。その外八丁堀、越前堀、
三味線堀、
山谷堀の
界隈には、まだまだ知らない所が沢山あるらしかった。
松葉町のお寺の近傍は、そのうちでも一番奇妙な町であった。六区と吉原を鼻先に控えてちょいと横丁を一つ曲った所に、
淋しい、
廃れたような区域を作っているのが非常に私の気に入って
了った。今迄自分の無二の親友であった「派手な
贅沢なそうして平凡な東京」と云う
奴を
置いてき堀にして、静かにその
騒擾を傍観しながら、こっそり身を隠して居られるのが、愉快でならなかった。
隠遁をした目的は、別段勉強をする為めではない。その頃私の神経は、刃の
擦り切れた
やすりのように、鋭敏な角々がすっかり鈍って、余程色彩の濃い、あくどい物に出逢わなければ、何の感興も
湧かなかった。微細な感受性の働きを要求する一流の芸術だとか、一流の料理だとかを
翫味するのが、不可能になっていた。下町の
粋と云われる茶屋の板前に感心して見たり、
仁左衛門や
鴈治郎の技巧を賞美したり、
凡べて在り来たりの都会の歓楽を受け入れるには、あまり心が
荒んでいた。惰力の為めに面白くもない
懶惰な生活を、毎日々々繰り返して居るのが、堪えられなくなって、全然
旧套を
擺脱した、物好きな、アーティフィシャルな、Mode of life を
見出して見たかったのである。
普通の
刺戟に
馴れて了った神経を
顫い
戦かすような、何か不思議な、奇怪な事はないであろうか。現実をかけ離れた野蛮な荒唐な夢幻的な空気の中に、
棲息することは出来ないであろうか。こう思って私の魂は遠くバビロンやアッシリヤの古代の伝説の世界にさ迷ったり、コナンドイルや
涙香の探偵小説を想像したり、光線の
熾烈な熱帯地方の焦土と緑野を恋い慕ったり、腕白な少年時代のエクセントリックな
悪戯に
憧れたりした。
賑かな世間から不意に
韜晦して、行動を
唯徒らに秘密にして見るだけでも、すでに一種のミステリアスな、ロマンチックな色彩を自分の生活に
賦与することが出来ると思った。私は秘密と云う物の面白さを、子供の時分からしみじみと味わって居た。かくれんぼ、宝さがし、お
茶坊主のような遊戯
|||殊に、それが
闇の晩、うす暗い物置小屋や、観音開きの前などで行われる時の面白味は、主としてその間に「秘密」と云う不思議な気分が潜んで居る
せいであったに違いない。
私はもう一度幼年時代の隠れん坊のような気持を経験して見たさに、わざと人の気の附かない下町の
曖昧なところに身を隠したのであった。そのお寺の宗旨が「秘密」とか、「
禁厭」とか、「
呪詛」とか云うものに縁の深い真言宗であることも、私の好奇心を誘うて、
妄想を
育ませるには
恰好であった。部屋は新らしく建て増した庫裡の一部で、南を向いた八畳敷きの、日に焼けて少し茶色がかっている畳が、却って見た眼には安らかな暖かい感じを与えた。昼過ぎになると和やかな秋の日が、
幻燈の如くあかあかと縁側の
障子に燃えて、室内は大きな
雪洞のように明るかった。
それから私は、今迄親しんで居た哲学や芸術に関する書類を一切
戸棚へ片附けて了って、魔術だの、催眠術だの、探偵小説だの、化学だの、解剖学だのの奇怪な説話と
挿絵に富んでいる書物を、さながら
土用干の如く部屋中へ置き散らして、寝ころびながら、手あたり次第に繰りひろげては
耽読した。その中には、コナンドイルの The Sign of Four や、ドキンシイの Murder, Considered as one of the fine arts や、アラビアンナイトのようなお
伽噺から、
仏蘭西の不思議な Sexuology の本なども交っていた。
此処の住職が秘していた地獄極楽の図を始め、
須弥山図だの
涅槃像だの、いろいろの、古い仏画を
強いて懇望して、丁度学校の教員室に掛っている地図のように、所
嫌わず部屋の四壁へぶら下げて見た。床の間の香炉からは、始終紫色の香の煙が真っ直ぐに静かに立ち昇って、明るい暖かい室内を
焚きしめて居た。私は時々菊屋橋
際の
舗へ行って
白檀や
沈香を買って来てはそれを
燻べた。
天気の好い日、きらきらとした真昼の光線が一杯に障子へあたる時の室内は、眼の
醒めるような壮観を呈した。
絢爛な色彩の古画の諸仏、
羅漢、
比丘、
比丘尼、
優婆塞、
優婆夷、象、
獅子、
麒麟などが四壁の紙幅の内から、ゆたかな光の中に泳ぎ出す。畳の上に投げ出された無数の書物からは、
惨殺、麻酔、魔薬、
妖女、宗教
|||種々雑多の
傀儡が、香の煙に溶け込んで、
朦朧と立ち
罩める中に、二畳ばかりの
緋毛氈を敷き、どんよりとした蛮人のような
瞳を
据えて、寝ころんだ
儘、私は毎日々々幻覚を胸に描いた。
夜の九時頃、寺の者が大概寝静まって了うとウヰスキーの
角壜を
呷って酔いを買った後、勝手に縁側の雨戸を引き外し、墓地の
生け
垣を乗り越えて散歩に出かけた。成る
可く人目にかからぬように毎晩服装を取り換えて公園の
雑沓の中を
潜って歩いたり、古道具屋や古本屋の店先を
漁り
廻ったりした。
頬冠りに
唐桟の
半纏を引っ掛け、
綺麗に
研いた素足へ
爪紅をさして
雪駄を
穿くこともあった。金縁の色眼鏡に
二重廻しの
襟を立てて出ることもあった。
着け
髭、ほくろ、
痣と、いろいろに
面体を換えるのを面白がったが、或る晩、三味線堀の古着屋で、
藍地に大小あられの小紋を散らした女物の
袷が眼に附いてから、急にそれが着て見たくてたまらなくなった。
一体私は衣服反物に対して、単に色合が好いとか
柄が
粋だとかいう以外に、もっと深く鋭い愛着心を持って居た。女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく顫い附きたくなって、丁度恋人の
肌の色を
眺めるような快感の高潮に達することが屡々であった。殊に私の大好きなお召や
縮緬を、世間
憚らず、
恣に着飾ることの出来る女の境遇を、
嫉ましく思うことさえあった。
あの古着屋の店にだらりと生々しく下って居る小紋縮緬の袷
|||あのしっとりした、重い冷たい
布が
粘つくように肉体を包む時の心好さを思うと、私は思わず
戦慄した。あの着物を着て、女の姿で往来を歩いて見たい。
·········こう思って、私は一も二もなくそれを買う気になり、ついでに
友禅の
長襦袢や、黒縮緬の羽織迄も取りそろえた。
大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打ってつけであった。夜が
更けてがらんとした寺中がひっそりした時分、私はひそかに鏡台に向って化粧を始めた。黄色い
生地の鼻柱へ
先ずベットリと練りお
白粉をなすり着けた瞬間の
容貌は、少しグロテスクに見えたが、濃い白い粘液を平手で顔中へ万遍なく押し
拡げると、思ったよりも
のりが好く、甘い
匂いのひやひやとした露が、
毛孔へ
沁み入る皮膚のよろこびは、格別であった。紅や
とのこを塗るに随って、
石膏の如く唯徒らに真っ白であった私の顔が、
溌剌とした生色ある女の相に変って行く面白さ。文士や画家の芸術よりも、俳優や芸者や一般の女が、日常自分の体の肉を材料として試みている化粧の技巧の方が、
遥かに興味の多いことを知った。
長襦袢、半襟、腰巻、それからチュッチュッと鳴る
紅絹裏の袂、
|||私の肉体は、凡べて普通の女の皮膚が味わうと同等の触感を与えられ、襟足から
手頸まで白く塗って、
銀杏返しの
鬘の上にお
高祖頭巾を
冠り、思い切って往来の夜道へ紛れ込んで見た。
雨曇りのしたうす暗い晩であった。
千束町、
清住町、
龍泉寺町
|||あの辺一帯の溝の多い、淋しい街を
暫くさまよって見たが、交番の巡査も、通行人も、一向気が附かないようであった。
甘皮を一枚張ったようにぱさぱさ乾いている顔の上を、夜風が冷やかに
撫でて行く。口辺を
蔽うて居る頭巾の
布が、息の為めに熱く
湿って、歩くたびに長い縮緬の腰巻の
裾は、じゃれるように脚へ
縺れる。
みぞおちから
肋骨の辺を堅く
緊め附けている丸帯と、骨盤の上を
括っている
扱帯の加減で、私の体の血管には、自然と女のような血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなって行くようであった。
友禅の
袖の
蔭から、お白粉を塗った手をつき出して見ると、強い
頑丈な線が闇の中に消えて、白くふっくらと柔かに浮き出ている。私は自分で自分の手の美しさに
惚れ
惚れとした。このような美しい手を、実際に持っている女と云う者が、
羨ましく感じられた。芝居の弁天小僧のように、こう云う姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう。
·········探偵小説や、犯罪小説の読者を始終喜ばせる「秘密」「疑惑」の気分に
髣髴とした心持で、私は次第に人通りの多い、公園の六区の方へ歩みを運んだ。そうして、殺人とか、強盗とか、何か非常な残忍な悪事を働いた人間のように、自分を思い込むことが出来た。
十二階の前から、池の
汀について、オペラ館の四つ角へ出ると、イルミネーションとアーク燈の光が厚化粧をした私の顔にきらきらと照って、着物の色合いや
縞目がはッきりと読める。
常盤座の前へ来た時、突き当たりの写真屋の玄関の大鏡へ、ぞろぞろ雑沓する群集の中に交って、立派に女と化け
終せた私の姿が映って居た。
こッてり塗り附けたお白粉の下に、「男」と云う秘密が
悉く隠されて、眼つきも口つきも女のように動き、女のように笑おうとする。甘い
へんのうの匂いと、
囁くような
衣摺れの音を立てて、私の前後を擦れ違う幾人の女の群も、皆私を同類と認めて
訝しまない。そうしてその女達の中には、私の優雅な顔の作りと、古風な
衣裳の好みとを、羨ましそうに見ている者もある。
いつも見馴れて居る公園の夜の
騒擾も、「秘密」を持って居る私の眼には、凡べてが新しかった。何処へ行っても、何を見ても、始めて接する物のように、珍しく奇妙であった。人間の瞳を
欺き、電燈の光を欺いて、
濃艶な脂粉とちりめんの衣装の下に自分を潜ませながら、「秘密」の
帷を一枚隔てて眺める為めに、恐らく平凡な現実が、夢のような不思議な色彩を施されるのであろう。
それから私は毎晩のようにこの仮装をつづけて、時とすると、宮戸座の立ち見や活動写真の見物の間へ、平気で割って入るようになった。寺へ帰るのは十二時近くであったが、座敷に上ると早速空気ランプをつけて、疲れた体の衣裳も解かず、毛氈の上へぐったり
嫌らしく寝崩れた儘、残り惜しそうに絢爛な着物の色を眺めたり、袖口をちゃらちゃらと振って見たりした。
剥げかかったお白粉が
肌理の
粗いたるんだ頬の皮へ
滲み着いて居るのを、鏡に映して凝視して居ると、
廃頽した快感が古い
葡萄酒の酔いのように魂をそそった。地獄極楽の図を背景にして、けばけばしい長襦袢のまま、遊女の如くなよなよと
蒲団の上へ
腹這って、例の奇怪な書物のページを夜更くる迄
飜すこともあった。次第に
扮装も
巧くなり、大胆にもなって、物好きな
聯想を
醸させる為めに、
匕首だの麻酔薬だのを、帯の間へ
挿んでは外出した。犯罪を行わずに、犯罪に付随して居る美しいロマンチックの匂いだけを、十分に
嗅いで見たかったのである。
そうして、一週間ばかり過ぎた或る晩の事、私は図らずも不思議な因縁から、もッと奇怪なもッと物好きな、そうしてもッと神秘な事件の端緒に
出会した。
その晩私は、いつもよりも多量にウヰスキーを呷って、三友館の二階の貴賓席に上り込んで居た。何でももう十時近くであったろう、恐ろしく
混んでいる場内は、霧のような濁った空気に
充たされて、黒く、もくもくとかたまって
蠢動している群衆の生温かい人いきれが、顔のお白粉を腐らせるように漂って居た。暗中にシャキシャキ
軋みながら目まぐるしく展開して行く映画の光線の、グリグリと瞳を刺す
度毎に、私の酔った頭は
破れるように痛んだ。時々映画が消えてぱッと電燈がつくと、
渓底から沸き上る雲のように、階下の群衆の頭の上を浮動して居る
煙草の
烟の間を透かして、私は真深いお高祖頭巾の蔭から、場内に
溢れて居る人々の顔を見廻した。そうして私の旧式な頭巾の姿を珍しそうに
窺って居る男や、粋な着附けの色合を物欲しそうに盗み
視ている女の多いのを、心ひそかに得意として居た。見物の女のうちで、いでたちの異様な点から、様子の
婀娜っぽい点から、
乃至器量の点からも、私ほど人の眼に着いた者はないらしかった。
始めは誰も居なかった
筈の貴賓席の私の
側の
椅子が、いつの間に
塞がったのか
能くは知らないが、二三度目に再び電燈がともされた時、私の左隣りに二人の男女が腰をかけて居るのに気が附いた。
女は二十二三と見えるが、その実六七にもなるであろう。髪を三つ輪に結って、総身をお召の空色のマントに包み、くッきりと水のしたたるような鮮やかな
美貌ばかりを、これ見よがしに
露わにして居る。芸者とも令嬢とも判断のつき兼ねる所はあるが、連れの紳士の態度から推して、
堅儀の細君ではないらしい。
「
········· Arrested at last.
·········」
と、女は小声で、フィルムの上に現れた説明書を読み上げて、
土耳古巻の M. C. C. の
薫りの高い烟を私の顔に吹き附けながら、指に
篏めて居る宝石よりも鋭く輝く大きい瞳を、闇の中できらりと私の方へ注いだ。
あでやかな姿に似合わぬ
太棹の師匠のような
皺嗄れた声、
|||その声は紛れもない、私が二三年前に
上海へ旅行する航海の途中、ふとした事から汽船の中で暫く関係を結んで居たT女であった。
女はその
頃から、商売人とも
素人とも区別のつかない素振りや服装を持って居たように覚えて居る。船中に同伴して居た男と、今夜の男とはまるで
風采も容貌も変っているが、多分はこの二人の男の間を連結する無数の男が女の過去の
生涯を鎖のように貫いて居るのであろう。
兎も
角その婦人が、始終一人の男から他の男へと、
胡蝶のように飛んで歩く種類の女であることは確かであった。二年前に船で
馴染みになった時、二人はいろいろの事情から本当の氏名も名乗り合わず、境遇も住所も知らせずにいるうちに上海へ着いた。そうして私は自分に恋い憧れている女を好い加減に欺き、こッそり跡をくらまして
了った。以来太平洋上の夢の中なる女とばかり思って居たその人の姿を、こんな
処で見ようとは全く意外である。あの時分やや小太りに肥えて居た女は、
神々しい
迄に
痩せて、すッきりとして、
睫毛の長い
潤味を持った円い
眼が、
拭うが
如くに
冴え返り、男を男とも思わぬような
凜々しい権威さえ
具えている。触るるものに
紅の血が
濁染むかと疑われた生々しい
唇と、
耳朶の隠れそうな長い
生え
際ばかりは昔に変らないが、鼻は以前よりも少し
嶮しい位に高く見えた。
女は果たして私に気が附いて居るのであろうか。どうも判然と確かめることが出来なかった。
明りがつくと連れの男にひそひそ
戯れて居る様子は、傍に居る私を普通の女と
蔑んで、別段心にかけて居ないようでもあった。実際その女の隣りに居ると、私は今迄得意であった自分の扮装を
卑しまない訳には行かなかった。表情の自由な、
如何にも生き生きとした
妖女の魅力に
気圧されて、技巧を尽した化粧も着附けも、醜く浅ましい化物のような気がした。女らしいと云う点からも、美しい器量からも、私は到底彼女の競争者ではなく、月の前の星のように
果敢なく
萎れて了うのであった。
朦々と立ち
罩めた場内の汚れた空気の中に、曇りのない鮮明な輪郭をくッきりと浮かばせて、マントの蔭からしなやかな手をちらちらと、魚のように泳がせているあでやかさ。男と対談する間にも時々夢のような瞳を上げて、天井を仰いだり、
眉根を寄せて群衆を見下ろしたり、真っ白な歯並みを見せて
微笑んだり、その度毎に全く別趣の表情が、溢れんばかりに
湛えられる。如何なる意味をも鮮やかに表し得る黒い大きい瞳は、場内の二つの宝石のように、遠い階下の
隅からも認められる。顔面の
凡べての道具が単に物を見たり、
嗅いだり、聞いたり、語ったりする機関としては、あまりに余情に富み過ぎて、人間の顔と云うよりも、男の心を誘惑する甘味ある
餌食であった。
もう場内の視線は、一つも私の方に注がれて居なかった。愚かにも、私は自分の人気を奪い去ったその女の美貌に対して、
嫉妬と
憤怒を感じ始めた。
嘗ては自分が
弄んで
恣に
棄ててしまった女の容貌の魅力に、
忽ち光を消されて
蹈み附けられて行く口惜しさ。事に
依ると女は私を認めて居ながら、わざと皮肉な
復讐をして居るのではないであろうか。
私は美貌を羨む嫉妬の情が、胸の中で次第々々に恋慕の情に変って行くのを覚えた。女としての競争に敗れた私は、今一度男として彼女を征服して勝ち誇ってやりたい。こう思うと、抑え難い欲望に駆られてしなやかな女の体を、いきなりむずと
鷲掴みにして、揺す振って見たくもなった。
君は予の誰なるかを知り
給うや。今夜久しぶりに君を見て、予は再び君を恋し始めたり。今一度、予と握手し給うお心はなきか。明晩もこの席に来て、予を待ち給うお心はなきか。予は予の住所を何人にも告げ知らす事を好まねば、
唯願わくは明日の今頃、この席に来て予を待ち給え。
闇に紛れて私は帯の間から半紙と鉛筆を取出し、こんな走り書きをしたものをひそかに女の
袂へ投げ込んだ、そうして、又じッと先方の様子を窺っていた。
十一時頃、活動写真の終るまでは女は静かに見物していた。観客が総立ちになってどやどやと場外へ崩れ出す混雑の際、女はもう一度、私の耳元で、
「
········· Arrested at last.
·········」
と
囁きながら、前よりも自信のある大胆な
凝視を、私の顔に
暫く注いで、やがて男と一緒に人ごみの中へ隠れてしまった。
「
········· Arrested at last.
·········」
女はいつの間にか自分を見附け出して居たのだ。こう思って私は
竦然とした。
それにしても明日の晩、素直に来てくれるであろうか。大分昔よりは年功を経ているらしい相手の力量を測らずに、あのような
真似をして、
却って弱点を握られはしまいか。いろいろの不安と
疑惧に
挟まれながら私は寺へ帰った。
いつものように上着を脱いで、長襦袢一枚になろうとする時、ぱらりと頭巾の裏から四角にたたんだ小さい洋紙の切れが落ちた。
「Mr. S. K.」
と書き続けたインキの
痕をすかして見ると、
玉甲斐絹のように光っている。正しく彼女の手であった。見物中、一二度小用に立ったようであったが、早くもその間に、返事をしたためて、人知れず私の
襟元へさし込んだものと見える。
思いがけなき所にて思いがけなき君の姿を見申
候。たとい装いを変え給うとも、三年このかた
夢寐にも忘れぬ
御面影を、いかで見逃し候べき。
妾は始めより頭巾の女の君なる事を承知
仕候。それにつけても相変わらず物好きなる君にておわせしことの
可笑しさよ。妾に会わんと
仰せらるるも多分はこの物好きのおん興じにやと
心許なく存じ候えども、あまりの
嬉しさに兎角の分別も
出でず、唯仰せに従い明夜は必ず御待ち申す
可く候。ただし、妾に少々都合もあり、考えも
有之候えば、九時より九時半までの間に
雷門までお出で下されまじくや。
其処にて当方より差し向けたるお迎いの車夫が、必ず君を見つけ出して拙宅へご案内致す可く候。君の御住所を秘し給うと同様に、妾も今の在り家を御知らせ致さぬ所存にて、車上の君に眼隠しをしてお連れ申すよう取りはからわせ候間、右御許し下され
度、
若しこの一事を御承引下され候わずば、妾は永遠に君を見ることかなわず、これに過ぎたる悲しみは
無之候。
私はこの手紙を読んで行くうちに、自分がいつの間にか探偵小説中の人物となり終せて居るのを感じた。不思議な好奇心と恐怖とが、頭の中で
渦を巻いた。女が自分の性癖を
呑み込んで居て、わざとこんな真似をするのかとも思われた。
明くる日の晩は素晴らしい大雨であった。私はすっかり服装を改めて、
対の大島の上にゴム引きの
外套を
纏い、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、
滝の
如くたたきつける雨の中を
戸外へ出た。新堀の
溝が往来一円に溢れているので、私は
足袋を
懐へ入れたが、びしょびしょに
濡れた素足が家並みのランプに照らされて、ぴかぴか光って居た。
夥しい雨量が、天からざあざあと
直瀉する
喧囂の中に、何もかも打ち消されて、ふだん
賑やかな広小路の通りも大概雨戸を締め切り、二三人の
臀端折りの男が、敗走した兵士のように
駈け出して行く。電車が時々レールの上に
溜まった水をほとばしらせて通る外は、ところどころの電柱や広告のあかりが、朦朧たる雨の空中をぼんやり照らしているばかりであった。
外套から、手首から、
肘の辺まで水だらけになって、漸く雷門へ来た私は、雨中にしょんぼり立ち止りながらアーク燈の光を透かして、
四辺を
見廻したが、一つも人影は見えない。
何処かの暗い隅に隠れて、何者かが私の様子を窺っているのかも知れない。こう思って暫く
彳んで居ると、やがて吾妻橋の方の
暗闇から、赤い
提灯の火が一つ動き出して、がらがらがらと
街鉄の
鋪き石の上を
駛走して来た旧式な相乗りの
俥がぴたりと私の前で止まった。
「
旦那、お乗んなすって下さい。」
深い
饅頭笠に
雨合羽を着た車夫の声が、
車軸を流す雨の響きの中に消えたかと思うと、男はいきなり私の後へ廻って、
羽二重の布を素早く私の両眼の上へ二た廻り程巻きつけて、
蟀谷の皮がよじれる程強く
緊め上げた。
「さあ、お召しなさい。」
こう云って男のざらざらした手が、私を掴んで、
惶しく俥の上へ乗せた。
しめっぽい匂いのする
幌の上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。疑いもなく私の隣りには女が一人乗って居る。お
白粉の薫りと暖かい体温が、幌の中へ蒸すように
罩っていた。
轅を上げた俥は、方向を
晦ます為めに一つ所をくるくると二三度廻って走り出したが、右へ曲り、左へ折れ、どうかすると Labyrinth の中をうろついて居るようであった。時々電車通りへ出たり、小さな橋を渡ったりした。
長い間、そうして俥に揺られて居た。隣りに並んでいる女は
勿論T女であろうが、黙って身じろぎもせずに腰かけている。多分私の
眼隠しが厳格に守られるか
否かを監督する為めに同乗して居るものらしい。しかし、私は他人の監督がなくても、決してこの眼かくしを取り
外す気はなかった。海の上で知り合いになった夢のような女、大雨の晩の幌の中、夜の都会の秘密、盲目、沈黙
|||凡べての物が一つになって、
渾然たるミステリーの
靄の
裡に私を投げ込んで了って居る。
やがて女は固く結んだ私の唇を分けて、口の中へ巻煙草を
挿し込んだ。そうしてマッチを擦って火をつけてくれた。
一時間程
経って、
漸く俥は
停った。再びざらざらした男の手が私を導きながら狭そうな路次を二三間行くと、裏木戸のようなものをギーと開けて家の中へ連れて行った。
眼を塞がれながら一人座敷に取り残されて、暫く
座っていると、間もなく
襖の開く音がした。女は無言の
儘、人魚のように
体を崩して擦り寄りつつ、私の
膝の上へ仰向きに上半身を
靠せかけて、そうして両腕を私の
項に廻して羽二重の結び目をはらりと解いた。
部屋は八畳位もあろう。
普請と云い、装飾と云い、なかなか立派で、
木柄なども選んではあるが、丁度この女の身分が分らぬと同様に、待合とも、
妾宅とも、上流の堅気な住まいとも見極めがつかない。一方の縁側の外にはこんもりとした植え込みがあって、その向うは
板塀に囲われている。唯これだけの眼界では、この家が東京のどの辺にあたるのか、
大凡その見当すら
判らなかった。
「よく来て下さいましたね。」
こう云いながら、女は座敷の中央の四角な
紫檀の机へ身を靠せかけて、白い両腕を二匹の生き物のように、だらりと卓上に
匍わせた。襟のかかった渋い
縞お
召に腹合わせ帯をしめて、
銀杏返しに
結って居る
風情の、昨夜と恐ろしく趣が変っているのに、私は
先ず驚かされた。
「あなたは、今夜あたしがこんな風をして居るのは
可笑しいと思っていらッしゃるんでしょう。それでも人に身分を知らせないようにするには、こうやって毎日身なりを換えるより外に仕方がありませんからね。」
卓上に伏せてある
洋盃を起して、
葡萄酒を
注ぎながら、こんな事を云う女の素振りは、思ったよりもしとやかに打ち
萎れて居た。
「でも
好く覚えて居て下さいましたね。上海でお別れしてから、いろいろの男と苦労もして見ましたが、妙にあなたの事を忘れることが出来ませんでした。もう今度こそは私を棄てないで下さいまし。身分も境遇も判らない、夢のような女だと思って、いつまでもお附き合いなすって下さい。」
女の語る一言一句が、遠い国の歌のしらべのように、
哀韻を含んで私の胸に響いた。昨夜のような派手な勝ち気な
悧発な女が、どうしてこう云う
憂鬱な、殊勝な姿を見せることが出来るのであろう。さながら万事を打ち捨てて、私の前に魂を投げ出しているようであった。
「夢の中の女」「秘密の女」
朦朧とした、現実とも幻覚とも区別の附かない Love adventure の面白さに、私はそれから毎晩のように女の
許に通い、
夜半の二時頃迄遊んでは、また眼かくしをして、雷門まで送り返された。一と月も二た月も、お互に所を知らず、名を知らずに会見していた。女の境遇や住宅を
捜り出そうと云う気は少しもなかったが、だんだん時日が立つに従い、私は妙な好奇心から、自分を乗せた俥が果して東京の
何方の方面に二人を運んで行くのか、自分の今眼を塞がれて通って居る処は、浅草から
何の辺に
方って居るのか、唯それだけを是非とも知って見たくなった。三十分も一時間も、時とすると一時間半もがらがらと市街を走ってから、轅を下ろす女の家は、案外雷門の近くにあるのかも知れない。私は毎夜俥に揺す振られながら、
此処か
彼処かと心の中に
憶測を
廻らす事を禁じ得なかった。
或る晩、私はとうとうたまらなくなって、
「
一寸でも好いから、この眼かくしを取ってくれ。」
と俥の上で女にせがんだ。
「いけません、いけません。」
と、女は
慌てて、私の両手をしッかり抑えて、その上へ顔を押しあてた。
「
何卒そんな我が儘を云わないで下さい。此処の往来はあたしの秘密です。この秘密を知られればあたしはあなたに捨てられるかも知れません。」
「どうして私に捨てられるのだ。」
「そうなれば、あたしはもう『夢の中の女』ではありません。あなたは私を恋して居るよりも、夢の中の女を恋して居るのですもの。」
いろいろに言葉を尽して頼んだが、私は何と云っても聴き入れなかった。
「仕方がない、そんなら見せて上げましょう。
·········その代り一寸ですよ。」
女は嘆息するように云って、力なく眼かくしの布を取りながら、
「此処が
何処だか判りますか。」
と、
心許ない顔つきをした。
美しく晴れ渡った空の地色は、妙に黒ずんで星が一面にきらきらと輝き、白い
霞のような天の川が果てから果てへ流れている。狭い道路の両側には商店が軒を並べて、燈火の光が賑やかに町を照らしていた。
不思議な事には、可なり繁華な通りであるらしいのに、私はそれが何処の街であるか、さっぱり見当が附かなかった。俥はどんどんその通りを走って、やがて一二町先の突き当りの正面に、精美堂と大きく書いた
印形屋の看板が見え出した。
私が看板の横に書いてある細い文字の町名番地を、俥の上で遠くから
覗き込むようにすると、女は
忽ち気が附いたか、
「あれッ」
と云って、再び私の眼を
塞いで
了った。
賑やかな商店の多い小路で突きあたりに印形屋の看板の見える街、
|||どう考えて見ても、私は今迄通ったことのない往来の一つに違いないと思った。子供時代に経験したような
謎の世界の感じに、再び私は
誘われた。
「あなた、あの看板の字が読めましたか。」
「いや読めなかった。一体此処は何処なのだか私にはまるで判らない。私はお前の生活に就いては三年前の太平洋の波の上の事ばかりしか知らないのだ。私はお前に誘惑されて、何だか遠い海の向うの、幻の国へ
伴れて来られたように思われる。」
私がこう答えると、女はしみじみとした悲しい声で、こんな事を云った。
「後生だからいつまでもそう云う気持で居て下さい。幻の国に住む、夢の中の女だと思って居て下さい。もう二度と再び、今夜のような我が儘を云わないで下さい。」
女の眼からは、涙が流れて居るらしかった。
その後
暫く、私は、あの晩女に見せられた不思議な街の光景を忘れることが出来なかった。燈火の
かんかんともっている賑やかな狭い小路の突き当りに見えた印形屋の看板が、頭にはッきりと印象されて居た。何とかして、あの町の在りかを捜し出そうと苦心した揚句、私は
漸く一策を案じ出した。
長い年月の間、毎夜のように相乗りをして引き擦り廻されて居るうちに、雷門で俥がくるくると一つ所を廻る度数や、右に折れ左に曲る回数まで、一定して来て、私はいつともなくその
塩梅を覚え込んでしまった。或る朝、私は雷門の角へ立って眼をつぶりながら二三度ぐるぐると体を廻した後、この位だと思う時分に、俥と同じ位の速度で一方へ駆け出して見た。唯好い加減に時間を見はからって
彼方此方の横町を折れ曲るより外の方法はなかったが、丁度この辺と思う所に、予想の如く、橋もあれば、電車通りもあって、確かにこの道に相違ないと思われた。
道は最初雷門から公園の外郭を廻って千束町に出て、龍泉寺町の細い通りを上野の方へ進んで行ったが、車坂下で更に左へ折れ、お
徒町の往来を七八町も行くとやがて又左へ曲り始める。私は其処でハタとこの間の小路にぶつかった。
成る程正面に印形屋の看板が見える。
それを望みながら、秘密の潜んでいる
巌窟の奥を
究めでもするように、つかつかと進んで行ったが、つきあたりの通りへ出ると、思いがけなくも、其処は毎晩夜店の出る下谷竹町の往来の続きであった。いつぞや小紋の
縮緬を買った古着屋の店も
つい二三間先に見えて居る。不思議な小路は、三味線堀と仲お徒町の通りを横に
繋いで居る街路であったが、どうも私は今迄其処を通った覚えがなかった。散々私を悩ました精美堂の看板の前に立って、私は暫く
彳んで居た。
燦爛とした星の空を
戴いて夢のような神秘な空気に
蔽われながら、赤い燈火を
湛えて居る夜の趣とは全く異り、秋の日にかんかん照り附けられて
乾涸びて居る貧相な家並を見ると、何だか一時にがっかりして興が覚めて了った。
抑え難い好奇心に駆られ、犬が路上の
匂いを
嗅ぎつつ自分の
棲み家へ帰るように、私は又其処から見当をつけて走り出した。
道は再び浅草区へ
這入って、小島町から右へ右へと進み、
菅橋の近所で電車通りを越え、代地河岸を柳橋の方へ曲って、
遂に両国の広小路へ出た。女が
如何に方角を悟らせまいとして、
大迂廻をやっていたかが察せられる。
薬研堀、久松町、浜町と来て
蠣浜橋を渡った処で、急にその先が判らなくなった。
何んでも女の
家は、この辺の路次にあるらしかった。一時間ばかりかかって、私はその近所の狭い横町を出つ入りつした。
丁度
道了権現の向い側の、ぎっしり並んだ家と家との
庇間を分けて、
殆ど眼につかないような、細い、ささやかな小路のあるのを見つけ出した時、私は直覚的に女の家がその奥に潜んで居ることを知った。中へ這入って行くと右側の二三軒目の、見事な洗い出しの板塀に囲まれた二階の欄干から、松の葉越しに女は死人のような顔をして、じっと
此方を見おろして居た。
思わず
嘲るような
瞳を挙げて、二階を仰ぎ
視ると、
寧ろ
空惚けて別人を装うものの如く、女はにこりともせずに私の姿を
眺めて居たが、別人を装うても
訝しまれぬくらい、その
容貌は夜の感じと異って居た。たッた一度、男の
乞いを許して、眼かくしの布を
弛めたばかりに、秘密を
発かれた悔恨、失意の情が見る見る色に表われて、やがて静かに障子の
蔭へ隠れて了った。
女は芳野と云うその
界隈での物持の後家であった。あの印形屋の看板と同じように、
凡べての謎は解かれて了った。私はそれきりその女を捨てた。
二三日過ぎてから、急に私は寺を引き払って
田端の方へ移転した。私の心はだんだん「秘密」などと云う手ぬるい淡い快感に満足しなくなって、もッと色彩の濃い、血だらけな歓楽を求めるように傾いて行った。