日本史に女性時代ともいうべき一時期があった。この物語は、その特別な時代の性格から説きだすことが必要である。
女性時代といえば読者は主に平安朝を想像されるに相違ない。紫式部、清少納言、和泉式部などがその
けれども、これは特に女性時代というものではない。なぜなら、彼女等の
つまり愛慾の世界に於て、女性的心情が
平安朝に於てはそれが歪められていなかった。男女の心情の交換や、愛憎が自由であり、愛慾がその本能から

*
皇室というものが実際に日本全土の支配者としてその実権を
蘇我氏あるを知って天皇あるを知らずと云い、蘇我氏は住居を宮城、墓をミササギと称し、飛鳥なる帰化人の集団に支持せられて、その富も天皇家にまさるとも劣るものではなかった。

大化改新は、先ず蘇我一族を
蘇我氏を支持する帰化人の集団は飛鳥の人口の大半を占め、当時の文化の全て、手工業の技術と富力をもち、その勢力は強大であった。真向からこれを亡す手段がないので、天智天皇は皇居を近江に移してこの勢力の自然の消滅を
持統天皇は藤原
*
天智天皇は当然
この時まで女帝ということは推古の外には例がない。然し、この時には女帝に意味があるのではなく、中大兄皇子(天智天皇)が自らの意志によって皇太子であったところに意味があり、皇子は大改革、むしろ天下支配の野心のもとに、その活躍の便宜上、ロボットの天皇を立て、自らは皇太子でいたものだ。その腹心は鎌足であり、全ては二人の
自分自ら号令を発しても威令は
従って皇極(斉明)という女帝は中大兄皇子のロボットであり、女帝自体に意味はなかった。女性時代ともいうべき女帝時代は持統天皇から始まる。
*
天武天皇
持統天皇の在位は皇孫珂瑠の保育にあったが、太政大臣に高市皇子を任じ、補佐するに葛野王あり、家族政府として極めて
死後の世界は、今日科学によって死後の無を証明せられてすら、
皇孫珂瑠は譲を受けて即位し文武天皇となる。このときの詔に、
「
自らを現御神と名のり、大八島しらす天皇と名のる、この堂々の宣言を読者諸氏は何物と見られるであろうか。私はこれを女と見る。女の意志を見るのである。
私は一人の強烈沈静なる女の意志を考える。その女は一人の孫の成人を待っていた。その孫が大八島しらす天皇、現御神たる成人の日を夢みていた。その家づきの宿命の虫の如き
我々がここに見出すのは、政府ではなく、家であり、そして、家の意志である。
*
文武天皇は二十五で
つづいて元正天皇に譲位した。首皇子が尚成人に至らなかったからである。元正天皇は元明天皇の長女であり、文武天皇の姉であり、首皇子の伯母であった。
こうして、祖母と伯母二代の女帝によって
女帝達の意志のうちに、日本の政治、日本の支配、いわば天皇家の勢力は遅滞なく進行していた。大宝、養老の
然し、女帝達の意志と気力と才気の裏に、更に一人の女性の力が最も強く働いていた。橘三千代であった。天武以来、持統、文武、元明、元正、聖武、六代にわたって宮中に手腕をふるった
男の天皇に愛せられた女傑の例は少くない。然し、男の天皇にも、別して女の天皇により深く親しまれ愛されたという女傑の例はめったにない。
三千代は始め美努王に
史家は推測して、三千代は文武天皇のウバの如きものではなかったか、又、首皇子に就ても同じような位置にあったのではないか、という。とまれ六朝に歴侍して宮中第一の勢力を持ち、男帝女帝二つながら親愛せられて、
然し、こういうことが云える。六朝に歴侍して終生その宮中第一の勢力に消長がなかったという三千代の当面の才気に就ては分らない。然し、三千代の地位と勢力に変りがなかった
天武天皇までの歴朝はお家騒動の歴史であった。天武天皇自体、兄天皇に憎まれ、逃走、
夫(天武)より妻(持統)へ。
祖母(持統)より孫(文武)へ。(まんなかの父


子(文武)より母(元明)へ。(この母は同時に持統の妹でもあった)
母(元明)より娘(元正)へ。(この娘は文武の姉に当っていた)
伯母(元正)より甥(聖武)へ。
文武を育てる持統の意志は、聖武を育てる元明、元正両帝の意志の原形であり、全く変りはなかった筈だ。元明は持統の妹だ。そして、元正は元明の娘であった。
二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を

家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも
史家は三千代を女傑という。女傑という意味にもよるが、三千代はたぶん策師ではなかった筈だ。なぜなら私情を殺した女支配者の沈静な観察に
沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかった。大臣は温和であった。藤原不比等は正しかった。彼等は実直な番頭だった。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、
*
これらの痛烈な意志を受けて、その精霊の如くに、首皇子は成長した。聖武天皇であった。
その皇后は三千代と不比等の間にできた長女の
そのときまで、皇后は内親王、王女に限るものとされ、臣下の女は夫人以上にはなり得ない定めであった。聖武天皇即位六年の後、五位以上、諸司の長官を
安宿は天性の
そして安宿はその母なる一代の才女によって、天下第一の女人の如くに教育された。当然首皇子の夫人であり、やがて、どうあろうとも皇后であらねばならぬ悲願をこめて育てられた。麗質は衣を通して光りかがやき、広大な気質と才気は俗をぬき、三千代の期待の大半は裏切られる何物も見出すことはできなかった。
女支配者の沈静な心をこめ夢を托して育てあげられた首皇子は、その沈静な女たちの心情によって
元明天皇が首皇子に安宿を与えるとき、特に言葉を添えて、これは朝家の柱石であり、無二の忠臣であり、主家のためには白髪となり、夜もねむらぬ人の娘なのだから、ただの女と思わずに大切にするように、という言葉があった。
然し、そのような言葉すらも不要であった。皇子の心はすべてに於て安宿によって満たされた。美貌と才気は言うまでもなかった。特にその魂の
まさしく二人は、そのように希われ、祈られ、夢みられて、その如くに育てあげられた無二の二人であった。首皇子を育てたものは、その祖母と伯母の外に、更により多く三千代であった。そして三千代は首皇子を

天平十八年、大仏の鋳造に当って「天下の富をたもつ者は
それは二人の宿命の遊びであった。五丈余の大仏と、それをつつむ善美華麗、天下の富をつくした建築、諸国には国分寺が立ち、国分尼寺が立ち、それは、まさしく天下の富を傾けつくしていたのである。
然し、その巨大なる費用のために、諸国は
然し、二人の宿命の子は、そのようなことは振向きもしない。ただ常に天下第一の壮大華麗な遊びだけがあるだけだった。それは二人の意志のみではない。六朝をかけた家名の虫、女主人たちの意志だった。沈静なる女支配人たちの綿密な心をこめた霊気の精でもあったのである。
そして、宿命の二人に子供が生れた。娘であった。持統天皇がその強烈沈静な思いをこめてから六代、最後の精気が凝っていた。それが孝謙天皇であった。
*
三宝の奴と仕えまつると大仏に礼拝したその年の七月、聖武天皇は愛する娘に位を譲って上皇となった。新女帝はそのとき三十三だった。
この女帝ほど壮大な不具者はいなかった。なぜなら、彼女は天下第一の人格として、世に最も尊貴な、そして特別な現人神として育てられ、女としての心情が当然もとむべき男に就ては教えられていなかったからだ。結婚に就ては教えられもせず、予想もされていなかった。父母の天皇皇后はそのように彼女を育て、そして
首皇子を育ててくれた祖母の元明天皇も、伯母の元正天皇も、未亡人で、独身だった。彼女等の身持は堅かった。そして聖武天皇は、当然孤独な性格をもつ女支配者の威厳に就て、見馴れるままに信じこみ疑ってみたこともなかった。彼は全然知らなかった。祖母も伯母も、女としての自由意志が殺されていたことを。彼女等は自ら選んで犠牲者に甘んじていた。彼女等の慾情は首皇子を育てることの目的のために没入され、その目的の激しさに全てがみたされていた。彼女等は家名をまもる虫であり、真実自由な女主人ではなかったのだということを。
この二つの女主人の、根柢的な性格の差異を、聖武天皇はさとらなかった。
*
新女帝の
上皇は
上皇が死んだ。つづいて母太后も死んだ。女帝は遂に我身の自由を見出した。女帝は急速に女になった。
孝謙天皇は即位の後に、皇后宮職を紫微中台と改め、その長官に大納言藤原仲麿を登用していた。仲麿はもう五十をすぎていた。右大臣豊成の弟であった。兄は温厚な長者であったが、仲麿は自身の栄達の外には義理人情を考えられない男であった。
天皇は、恋愛の様式に就て、男を選ぶ美の標準も、年齢の標準も、気質に就ての標準も、あらゆるモデルを持たなかった。魂の気品の規格は最高であったが、その肉体の思考は、肉体自体にこもる心情は、山だしの女中よりも素朴であった。
天皇はその最も側近に侍る仲麿が、最も親しい男であるというだけで、仲麿を見ると、それだけで、とろけるように愉しかった。四十に近い初恋だった。母太后の死ぬまでは、それでも自分を抑えていた。
彼女ほど独創的な美を見出した人はなかったであろう。彼女には仲麿の全てのものが可愛いかった。彼女はただ自らの好むものを好めばよい。標準もなくモデルもなかった。ただ仲麿に見出した全てのものが、可愛くて、いとしくて、仕方がなかっただけだった。
天皇は仲麿を見るたびに
*
孝謙天皇の皇太子は
恵美押勝(まだその頃は藤原仲麿だったが、時間の前後による姓名の変化は以後拘泥しないことにする)はその長男が夭折した。そして寡婦が残された。そこで道祖皇太子の従兄弟に当る大炊王を自邸に招じ、この寡婦と結婚させて養っていた。彼は女帝が皇太子に親しみを持たないことを知っていたので、それを廃して、大炊王を皇太子につけたいものだと考えていた。
死床についた上皇は、天下唯一人の女であらねばならぬ娘が、やっぱりただの肉体をもつ宿命の人の子であることに気附いていた。上皇はただ怖しかった。全てを見ずに、全てを知らずに、いたい気持がするのであった。然し、彼は、ともかく娘を信じたかった。なぜ肉体があるのだろうか。あの高貴な魂に。あの気品の高い心に。その肉体を与えたことが、自分の罪であるとしか思われない。そして彼は娘のその肉体にかりそめの
彼は死床に押勝をよんだ。腕を延せば指先がふれるぐらい、すぐ膝近く、坐らせた。そして、顔をみつめた。私の死後はな、彼は相手の胸へ刻みこむように、一語ずつ、ゆっくり言った。安倍内親王(孝謙帝)と道祖王が天下を治めることになっている。安倍内親王と、それに、道祖王がだよ。お前はこのことに異存はないか。はい、まことに結構なことと存じております。そうか。それならば、神酒を飲め。そして、誓をたてるがよい。押勝は神酒を飲んで、誓った。上皇の目は光った。よろしいか。もしもお前がこの言葉に違うなら、天神地祇の憎しみと怒りはお前の五体にかかるぞよ。たちどころに、お前の五体はさけてしまうぞ。上皇は押勝をはったと
上皇は崩御した。
押勝は上皇の病床に誓った言葉のことなぞは、気にかけていなかった。それにしても、機会の訪れは早すぎた。
諸臣をあつめて太子の廃否を
改めて太子をたてる段となり、右大臣豊成と藤原永手は塩飽王を
*
左大臣は橘諸兄、右大臣は藤原豊成であった。豊成は押勝の兄だった。
聖武上皇が死床に臥しているとき、諸兄が酔ってふともらしたという言葉尻をとらえて、佐味宮守という者が密告して、左大臣は然々の無礼な言があったから
けれども諸兄は押勝の野心と
彼が信任を得ているのは上皇と太后であり、その亡きあとは、押勝の企みが万能でありうることを見抜いていた。彼は争いを好まなかった。彼は三千代の長子であり、光明太后の異父兄であり、その柄になく左大臣になったけれども、家族政府の実直な番頭という心あたたかな責務以上に、政治に対する
残る邪魔者は、彼の実兄、右大臣豊成が一人であった。彼は兄の失脚の手掛りを探したが、温良大度、老成した長者の右大臣には直接難癖のつけようがなかった。
そのころ、押勝の
あるとき、大伴古麿が小野東人に向って、押勝を殺す企みの者があるときはお前は味方につくか、ときくので、東人は、つきますとも、と答えたという。するとこの話を伝えきいた右大臣の豊成が、弟は世間知らずなのだから、私からよく訓戒を与えておこう、早まってお前たちが殺したりはしてならぬ、と言ったという。
橘諸兄の子の奈良麿は父に加えた押勝の
然し、光明太后はそれらの密告をとりあげなかった。ただ、噂にのぼる人々を召し寄せて、私はそのようなことは信じたことはないけれども、然し、国法というものは私と別にあるのだから、皆々も家門の名誉というものを失わぬよう心掛けてくれるがよい。お前たちは私の親しい一族の者に外ならぬのだから、私の言葉は大切にきくがよい、と、さとされた。
けれども、やがて、山背王の密告は打消すことができなかった。廃太子道祖王、黄文王、安宿王、橘奈良麿、大伴古麿、小野東人らが皇太子と押勝暗殺のクー・デタを企んでいるというのであった。
押勝は自邸に警備をつけ、召捕の使者は即刻四方に派せられた。その隊長の一人は藤原永手であった。彼は押勝の命を受け、まるで腹心の手先のような
諸王達も諸臣達も、他の何人も白状しなかった。彼等はただ東人が誘いにきたので集ったので、集りの目的も知らないと言った。東人が礼拝しようと言いだしたので、何を礼拝するのかと訊くと、天地を拝すのだという、それで言われるままに礼拝したが、陰謀の
そこで彼等は拷問せられて、廃太子道祖王、黄文王は杖に打たれて
そして、このとき、豊成の子の乙縄も陰謀に加担していた。そこで父の右大臣は陰謀を知って奏することを怠ったという罪に問われて、太宰員外師に
あらゆる敵を一挙に亡したばかりでなく、目の上の瘤、兄大臣を退けることまでできた。押勝の満足は如何ばかり。
ところで、その同じ時刻に、顔を見合せてニヤリとしていた一味がいた。藤原永手、藤原百川、その他藤原一門の若い貴族の面々だった。彼等こそ押勝の腹心だった。
然し、彼等は祝杯をあげていたのである。彼等は老いたる狐の如くに用心深い若者だった。祝杯の陰の言葉から、我々は如何なる秘密もききだすことはできない。その場にたとえば押勝がひそかに忍んで立聞きしても、陰謀の破滅と、平和の到来を祝う言葉をきき得ただけであったろう。
*
藤原不比等に四人の男の子があった。各


筑紫に起った
藤原四家の子弟たちはまだ官歴が浅かったから、亡父の枢機につき得なかった。橘諸兄が大臣となり、吉備真備が重用せられたのも、そのためであった。安倍、石川、大伴、巨勢ら往昔名門の子弟たちも然るべき地位にすすみ、さしもの藤原一門も一時朝政の枢機から離れざるを得なかった。のみならず、式家の長子広嗣はその妻を元

もとより朝廷と藤原氏は鎌足以来光明皇后に至るまで特別の関係をもち、その勢力の恢復も時間の問題ではあった。
先ず豊成が右大臣となり、その弟の押勝が紫微中台の長官となった。彼等は四家のうち、長男武智麻呂の南家の出であり、その年齢も特に長じて、五十をすぎていた。豊成の栄達は自然であったが、押勝は破格であった。その
藤原若手の貴族達は一門の昔の夢を描きつつ、年毎にその当然の官位をすすめていたが、今は、当面の敵を倒さなければならなくなっていた。当面の敵は、押勝であった。なぜなら、押勝も同じ彼等の一族ではあったが、まるで彼等の首長のように
彼等のすべては個人主義者、利己主義者であった。彼等は一族の名に於て団結したが、それはただ共同の敵を倒すための便宜以外に意味はなかった。彼等はただ己れの利益と、己れの栄達を愛していた。そして、生れながらの陰謀癖と、我身の愛を知るのみの冷酷な血をもっていた。その
陰謀の主役は年長の永手よりも、むしろ若年の百川だった。永手は彼らの最長者であり、官職も中納言にすすんでいたが、百川はまだ二十五をまわったばかりで、取るにもたらぬ官職だった。然し、その老獪な策略と執拗な実行力はぬきんでていた。
彼等のすべてが押勝の腹心だった。押勝に
彼等はむしろ押勝以上に策師であり、智者であり、陰謀家であり、利己主義者であり、かつ礼節も慎みもなかったから、押勝の専横に甘んじて、その下風に居すわる我慢がなかったのである。
彼等の共同の目的は、押勝の失脚だった。するとそこへ、思いもうけぬ好都合の人物が登場してきた。それが弓削道鏡であった。
*
道鏡は天智天皇の子、施基皇子の子供であり、天智天皇の皇孫だった。
道鏡は幼時義淵に就て仏学を学び、サンスクリットに通達していた。青年期には葛木山に
彼の魂は
天皇はいつ頃からか、道鏡に心を
天皇はすでに位を太子に譲り、上皇であった。然し、新帝の即位は名ばかりで、政務は上皇の手にあった。
六代の悲しい希いによって祈られてきた宿命の血、家の虫のあの精霊が、年老いた女帝の心に生れていた。その肉体は益

色々のことが分ってきた。見えてきたのだ。家の虫の盲目的な宿命の目によって。
新たな天皇と太政大臣押勝は一つのものであった。新帝は、彼女のものでもなく、国のものでもなく、押勝の天皇だった。そういうことが、分るのは、押勝と彼女の間に距離が生れてきたからであり、そして彼女は距離をおいて眺める心も失っていた我身の
上皇は家に就て考える。いや、家の虫が、我身に就て考えるのだ。彼女は押勝を考える。臣下と、つまり、ただの男と、どうしてこんな悲しいことになったのだろう。我身の拙さ、切なさに堪えがたかったが、その肉体のいじらしさ、わが慾念のいとしさに、たまぎる思いがするのであった。
彼女は押勝がいやらしかった。一時に興ざめた思いであった。我身のすべての汚らわしさも、押勝一人にかかって見えた。押勝はただ汚さが全てのように思われた。
上皇は道鏡に就て考える。静かな夜も、ひっそりと人気の死んだ昼ざかりにも。彼女は強いて、その肉体は思いだすまいとするのであった。そして、実際、その肉体を思わずに、道鏡に就て考えていることがあった。その識見の深さに就て。その魂の高さに就て。その梵唄の哀切と荘厳に就て。その単純な心に就て。そういう時には、時々、深く息を吸い、そして大きく吐きだすような静かな澄んだ心があった。けれども思いは、ただそれだけでは終らなかった。そして最後に、上皇は身ぶるいがする。すると、もはや、暫く何も分らなかった。彼女は祈っていた。然し、より多く、決意していた。それは彼女の肉体の決意であった。
あの人ならば。なぜなら、彼の魂は高く、すぐれていた。そして、識見は深遠で、俗なるものと離れていた。
だが、何よりも、彼は天智の皇孫だった。臣下ではなく、王だった。それを思うと、すでに神に許された如く、彼女の女の肉体はいつも身ぶるいするのであった。
*
宝字五年、光明太后の五周忌に当っていたので、八月に、上皇は天皇をつれて薬師寺に礼拝、押勝の婿の藤原御楯の
すでに上皇の肉体は決意によって、みたされていた。上皇の保良宮の滞在は、病気の
上皇はわずかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変りの激しさに驚くのだ。それは冬雲の走る空の姿でもなく、時雨にぬれた山や野の姿でもなかった。それは人の心であった。そして、それが自分の心であるのに気附いて、上皇は驚くのだ。上皇は冬空を見、冬のつめたい野山を見た。その気高さと、澄んだ気配に、みちたりていた。すでに彼女は道鏡に、身も心も、与えつくしていた。
天皇は上皇と道鏡の二人の仲を怖れた。押勝のために怖れたのだ。天皇は恋に就ては多くのことを知らなかった。彼は道鏡を見くびっていた。否、それよりも、上皇と押勝の過去の親密を過信し、盲信しすぎていた。
天皇は日頃にも似ず、上皇に対して直々
*
上皇は出家して、法基と号し、もはや全く道鏡と一心同体であった。道鏡を少僧都に任じ、常に側近に
押勝は悶々の日を送り、道鏡に
彼は太政官の官印を盗んで
密告する者があって、罪状あらわれ、押勝は逃げて近江に走った。退路を断たれ、
塩焼王も殺され、押勝の妻子も斬られ、その姫は絶世の美貌をうたわれた少女であったが、千人の兵士に
天皇の内裏も兵士によって囲まれた。使者の読みあげる宣命に「天皇の器にあらず、仲麻呂と同心して我を傾ける計をこらし」と書かれていた。即座に退位を命ぜられ、淡路の国へ流された。そして翌年、
*
上皇は法体のまま
翌年、太政大臣禅師となり、二年の後に、法王となった。
それは女帝の意志だった。
女帝は道鏡が皇孫であり、ただの臣下ではないことを、そのしるしを、天下に明かにしたかった。そして二人の愛情の関係自体も。皇孫だから。そして、愛人なのだから。女帝は法王という極めて的確な言葉に気附いて喜んだ。
法王の月料は天子の
道鏡は堕落の悔いを抑えることができていた。女帝の女体は淫蕩だった。そして始めて女体を知った道鏡の肉慾も
彼は夜の淫蕩を、昼の心で悔いることができなかった。なぜなら女帝の凜冽な魂の気魄が、夜の心を目の前ではっきりと断ち切ってしまうから。彼の魂は高められ、彼の畏敬はかきたてられた。それは女ではなかった。偉大にして高雅にして可憐にして絶対なる一つの気品であり、そして、一つの存在だった。
そして夜の肉体は、又、あまりにも淫縦だった。あらゆる
道鏡の堕落の思いは日毎にかすみ、失われた。そして彼はもはや一人の物思いに、夜の遊びを思いだすことがあっても、大空の下、あの葛木の山野の光のかがやきの下の、川のせせらぎと同じような、最も自然な、最も無邪気な豊かな景観を思うのだった。
彼は女帝を愛していた。尊く、高く、感じていた。
彼は内道場の持仏堂の仏前に端坐し、もはや仏罰を怖れなかった。否、仏罰を思わなかった。女帝と共に並んで坐り、敬々しく礼拝し、仏典を
彼は自分を思わなかった。ただ、女帝のみ考えた。彼は女帝を愛していた。彼の心も、彼のからだも、女帝のすべてに没入していた。女帝は彼のすべてであった。彼の魂は幼児の如く、素直で、そして、純一だった。
*
藤原一門の陰謀児達は冷やかな目で全ての成行を見つめていた。
道鏡という思いもうけぬ登場によって、彼等自身細工を施すこともなく、恵美押勝は自滅した。道鏡は押勝よりも単純だった。そして、彼等に
彼等は法王道鏡を天子の如く礼拝し、ひれふし、敬うた。陰口一つ叩かなかった。法王たることが道鏡の当然な宿命であることを、彼等が知っているようだった。
然し、法王という意外きわまる人爵の出現に、百川の策は
折から彼等の腹心の中臣
百川は彼に旨をふくめた。
赴任した阿曾麻呂は一年の後、上京した。彼は宇佐八幡の神教なるものを
道鏡は半信半疑であった。天皇を望む野心を、夢みたことすら、彼はなかった。望む必要がなかったのだ。天皇は、すでに、いた。彼の最も愛する人が。彼のすべてである人が。
然し、藤原一門の陰謀児たちは執拗だった。彼等は先ず神教によって祝福された道鏡の宿命と徳をたたえた。そして道鏡は皇孫だから、当然天皇になりうる筈だと異口同音に断言した。甘言はいかなる心をもほころばし得るものである。それをたとえば道鏡がむしろ迷惑に思うにしても、それを喜ばぬ筈もない。
然し、と彼等の一人が言った。事は邦家の天皇という問題だから、阿曾麻呂の捧持した神教だけで事を決することはできぬ。然るべき勅使をつかわして、神教の真否をたださねばならぬ、と。
もとよりそれは何人をも
道鏡は迷った。然し、彼は単純だった。まことにそれが神教ならば、と彼は思った。
そして、彼が勅使の差遣に賛成の場合、彼は天皇になりたい意志だという結論になることを断定されても仕方がないということに、気附かなかった。
勅使差遣の断案は道鏡自身が下さなければならないのだ。彼は
*
道鏡をこの世の宝に熱愛し、その愛情を限りなく誇りに思う女帝であったが、道鏡を天皇に、という一事ばかりは夢にも思っていなかった。天皇は自分であった。その事実は、疑られ、内省されたことがない。
女帝は彼に法王を与えた。天子と同じ月料と、天子と同じ食服と、鸞輿を与え、法王宮職をつくって与えた。すでに実質の天皇だった。すくなくとも、彼女が男帝ならば、道鏡は皇后だった。
女帝は気がついた。家をまもる陰鬱な虫の
女帝は道鏡が気の毒だった。いたわしかった。そして、いとしくて、切なかった。どこの家でも、女は男につき従っているではないか。なぜ、自分だけ。なぜ道鏡が天皇であってはいけないのか。
女帝は決意した。宇佐八幡の神教が事実なら、そして、勅使がその神教を復奏したなら、甘んじて彼に天皇を譲ろう、と。なぜなら、彼は皇孫だから。諸臣もそれを認めている。のみならず、天智天皇の孫ではないか。
女帝はその決意によって、幸福であった。愛する男を正しい男の位置におき、そして自分も、始めて正しい女の姿になることができるのだ、と考えた。
まだ女帝には皇太子が定められていなかった。可愛い男は今は彼女の皇太子でもあったのだ! 上皇という女房の亭主が天皇とは珍らしい。天皇から皇后になることはできないのかな、と、女帝の空想はたのしかった。道鏡が天皇になったら、うんと駄々をこねて、こまらしてやりたい。うんとすねたり、うんと甘えたり、手のつけられないお天気屋になってやりたい。そして道鏡の勘の鈍い、取り澄した、困った顔を考えて、ふきだしてしまうのだ。
*
和気清麻呂は戻ってきた。
彼のもたらした神教は意外な人間の語気にあふれ、奇妙な
道鏡は激怒した。なぜなら、彼は、ただ神教の真否をもとめただけだった。天皇になりたいなどとは言わない筈だ。むしろ、心の片隅ですら、それを望んだ覚えがなかった。
清麻呂の復奏は、ただ道鏡を刺殺する刃物の如く、彼のみに向け、冷やかに、又、高く、憎しみと怒りと正義をこめて、述べられていた。
その不思議さに、いち早く気附いた人は女帝であった。道鏡の立場は何物であるか。彼はただ、贋神教に告げられた一人の作中人物にすぎない。
清麻呂の態度は明らかに、阿曾麻呂は道鏡の旨をうけて贋神教をもたらした
清麻呂の語気は刃物となって道鏡を斬り、怒りと憎しみと正義によって、高ぶり、狂っているではないか。即ち、そこにあるものは、神教ではなく、彼自身の胸の言葉でなければならぬ。
すべてがすでに明白だった。阿曾麻呂も清麻呂も、ぐるなのだ。道鏡をおとすワナだった。
道鏡は激怒にふるえていた。面色は青ざめはてて、その息ごとに、その鼻から、その目から、
女帝はかかる
すでに清麻呂は面を伏せて控えていたので、女帝の怒りの眼差は気附かなかった。然し、百川はそれを見た。彼の胸に
然し、そのとき天皇はすっと立って、すでに姿が消えていた。
*
清麻呂は芝居をやりすぎた。あまり正直に生の感情をむきだしたことによって。あまりに嘘がなかったために。彼は正直でありすぎた。すでにカラクリの骨組は女帝に看破せられたことを百川は悟らずにいられなかった。
清麻呂は官をとかれ、別部穢麻呂と改められて、大隅国へ流された。
百川の秘策は完全な失敗だった。この事件により、女帝の道鏡によせる
のみならず、世上の風説も、この事件の結末から、道鏡は天皇でありうるという結論になり、やがて、次代の天皇は道鏡だという取沙汰があった。未だに立太子の行われぬことが、この風説を疑われぬものに思わせた。そして、人々は確信した。やがて、道鏡は天皇である、と。
百川は再び啓示をつかんでいた。女帝のこの絶対の信任のある限り、女帝の存命中は道鏡を失脚せしめる見込みはなかった。女帝の死後。それあるのみ。
百川は、道鏡天皇説の流行を逆用する手段を見出していた。道鏡は愚直であり、信じ易い性癖だった。道鏡天皇説を益

百川は道鏡にとりいった。全ての藤原貴族達も、おもねった。否、あらゆる人々がそうだった。
道鏡の故郷は河内の弓削だった。百川はことさら道鏡に
道鏡は天皇にすすめ、生地の弓削に
女帝も由義宮へ行幸した。歌垣が催された。するとこの地の長官たる百川は、それが彼の最大の義務であるように、自ら進んで倭舞を
道鏡は満足した。そして百川の赤心を信じこんで疑ることを知らなかった。
*
女帝は崩御した。宝算五十三。
道鏡の悲歎は
人々が彼の即位をもとめることを、彼は信じて疑わなかった。この偉大なる人、高雅なる人、可憐なる人、凜冽たる魂の気品の人の姿がなしに、
彼は女帝の陵下に庵をむすび、雨の日も、嵐の夜も、日夜坐して去らず、女帝の冥福を祈りつづけた。
百川の待ちのぞんだ機会はきた。然し、はりあい抜けがした。あまりだらしなく、馬鹿げきっているからだ。当の目当の人物は陵下に庵を結び、浮世を忘れて日ねもす夜もすがら読経に明け暮れているからだ。
然し、百川は暗躍した。彼は暗躍することのみが生き甲斐だった。
右大臣吉備真備は天武天皇の孫、大納言文屋浄三を立てようとした。然し浄三はすでに
然し、百川は動かなかった。彼は自ら筋書を書くのでなければ承服し得ない人間だった。彼は白壁王を立て、左大臣永手、兄の参議良継と謀議して、宣命使をかたらい、大市を立てる宣命に代えて、白壁王を立てる旨を宣らせ、先帝の御遺詔であると勝手な文句をつけたさせた。
そして白壁王が即位した。時に新帝の宝算六十二。百川は、時にようやく、三十九。
浮世の風、すべてこれらのイキサツを、道鏡はわれ関せず、庵の中で日ねもす夜もすがら、彼はまったく知らなかった。
そして彼の耳もとに吹きつけてきた浮世の風の一の知らせは、彼が天皇に即くことではなく、死一等を減じ、造下野薬師寺別当に貶せられ、即日発遣せしめる、という通告だった。
下野薬師寺は奈良の東大寺、筑紫の観音寺と共に天下の三戒壇、鑑真の
陵下を離れる思いのほかに、彼を苦しめる思いはなかった。すべては、すでに、終っていた。棄つべきものは何もなかった。雲を見れば雲が、山を仰げば山が、胸にしみた。
然し、彼は、凜冽たる一つの気品を胸にいだいて放さなかった。それは如何なる仏像よりも、何物よりも、尊かった。それをいだいて、彼は命の終る日を、無為に待てば、それでよかった。
(昭和22年「改造」1号)