「さて
何うも一
方ならぬ
御厚情に
預り、
少からぬ
御苦労を
掛けました。
道中にも
旅店にも、
我儘ばかり
申して、
今更お
恥しう
存じます、しかし
俥、
駕籠······また
夏座敷だと
申すのに、
火鉢に
火をかんかん
······で、
鉄瓶の
湯を
噴立たせるなど、
私としましては、
心ならずも
止むことを
得ませんので、
決して
我意を
募らせた
不届な
次第ではありません。
||これは
幾重にも
御諒察を
願はしう
存じます。
||古間木(
東北本線)へお
出迎ひ
下すつた
以来、
子の
口、
休屋に
掛て、三
泊り。
今また
雑と一
日、五
日ばかり、
私ども一
行に
対し
······申尽くせませんまで、
種々お
心づかひを
下さいましたのも、たゞ
御礼を
申上げるだけでは
済みません。
御懇情はもとよりでございますが、あなたは
保勝会を
代表なすつて、
湖の
景勝顕揚のために、
御尽力をなすつたので、
私が、
日日社より
旅費を
頂戴に
及んで、
遥々と
出向きましたのも、
又そのために
外なりませんのでございますから、
見聞のまゝを、やがて、と
存じます。けれども、
果して
御期待にかなひますか、
如何か、その
辺の
処は
御寛容を
願ひたう
存じます。たゞしかし、
湖畔五
里余り、
沿道十四
里の
間、
路傍の
花を
損なはず、
樹の
枝を
折らず、
霊地に
入りました
節は、
巻莨の
吸殻は
取つて
懐紙へ
||マツチの
燃えさしは
吹き
消して、もとの
箱へ
納めましたことを
憚りながら
申し
出でます。
何は
行届きませんでも、こればかりは、
御地に
対する
礼儀と
真情でございます。」
「はあ
||」
······はあ、とそつ
気はないが、
日焼けのした
毛だらけの
胸へ、ドンと
打撞りさうに
受け
容れらるる、
保勝会の
小笠原氏の
||八
月四
日午後三
時、
古間木で
会うてより、
自動車に
揺られ、
舟に
揉まれ、
大降小降幾度か
雨に
濡れ、おまけに
地震にあつた、
裾短な
白絣の
赤くなるまで、
苦労によれ/\の
形で、
黒の
信玄袋を
緊乎と、
柄の
巌丈な
蝙蝠傘。
麦稈帽を
鷲掴みに
持添へて、
膝までの
靴足袋に、
革紐を
堅くかゞつて、
赤靴で、
少々抜衣紋に
背筋を
膨らまして
||別れとなればお
互に、
峠の
岐路に
悄乎と
立つたのには
||汽車から
溢れて、
風に
吹かれて
来た、
木の
葉のやうな
旅人も、おのづから
哀れを
催し、
挨拶を
申すうちに、つい
其誘はれて。
······図に
乗つたのでは
決してない。
······「十
和田の
神も
照覧あれ。」
と
言はうとして、ふと
己を
顧みて
呆れ
返つた。
這個髯斑に
眼円にして
面赤き
辺塞の
驍将に
対して、
爾き
言を
出さむには、
当時流行の
剣劇の
朱鞘で
不可、
講談ものゝ
鉄扇でも
不可い。せめては
狩衣か、
相成るべくは、
緋縅の
鎧······と
気がつくと、
暑中伺ひに
到来の
染浴衣に、
羽織も
着ず、
貝の
口も
横つちよに
駕籠すれして、もの
欲しさうに
白足袋を
穿いた
奴が、
道中つかひ
古しの
蟹目のゆるんだ
扇子では
峠下の
木戸へ
踞んで、
秋田口の
観光客を
||入らはい、と
口上を
言ひさうで、
照覧あれは
事をかしい。
「はあ。
······」
「えゝ、しかし
何は
御不足でも
医学博士、
三角康正さんが、この一
行にお
加はり
下すつて、
篤志とまでも
恩に
着せず、
少い
徳本の
膝栗毛漫遊の
趣で、
村々で
御診察をなすつたのは、
御地に
取つて、
何よりの
事と
存じます。」
「はあ、
勿論であります。」
「それに、
洋画家の
梶原さんが、
雨を
凌ぎ、
波を
浴びて、
船でも、
巌でも、
名勝の
実写をなすつたのも、
御双方、
御会心の
事と
存じます。
尚ほ、
社の
写真班の
英雄、三
浦さんが、
自籠巌を
駆け
上り、
御占場の
鉄階子を
飛下り、
到る
処、
手練のシヤターを
絞つたのも、
保勝会の
皆様はじめ、
······十
和田の
神······」
と
言ひかけて、ぐつとつまると、
白のづぼん、おなじ
胴衣、
身のたけ
此にかなつて
風采の
揚がつた、
社を
代表の
高信さん、
傍より
進み
出でゝ、
「では
此で、
······おわかれをいたします。」
小笠原氏は、くるり
向直つて、
挙手をしさうな
勢ひで、
「はあ。」
これは、八
月七
日の
午後、
秋田県鹿角郡、
生出を
駕籠で
上つて
······これから三
瀧街道を
大湯温泉まで、
自動車で一
気に
衝かうとする、
発荷峠、
見返茶屋を、
······なごりの
湖から、
向つて
右に
見た、
三岐の一
場面である。
時に
画工||画家、
画伯には
違ひないが、
何うも、
画工さんの
方が、
分けて
旅には
親味がある(
以下、
時に
諸氏に
敬語を
略する
事を
恕されたし。)
貫五さんは、この
峠を、もとへ二
町ばかり、
樹ぶり、
枝ぶり
山毛欅の
老樹の、
水を
空にして、
湖の
雲に
浮いた、
断崖の
景色がある。「いゝなあ、この
山毛欅一
本が、こゝで
湖を
支へる
柱だ。」そこへ
画架を
立てた
||その
時、この
峠を
導いて、
羽織袴で、
阪へ
掛かると
股立を
取つた
観湖楼、
和井内ホテルの
御主人が、「あ、
然やうで。
樹木は一
枝も
大切にいたさなければ
成りませんな。
素人目にも、この
上り十五
町、五十六
曲り十六
景と
申して
岩端、
山口の
処々、いづれも
交る/″\、
湖の
景色が
変りますうちにも、こゝは一
段と
存じました。さいはひ
峠上の
茶屋が、こゝへ
新築をいたすのでございます。」
背後の
山懐に、
小屋を
掛けて
材木を
組み、
手斧が
聞こえる。
画工さんは
立処にコバルトの
絵の
具を
溶いたし、
博士は
紫の
蝶を
追つて、
小屋うらの
間道を
裏の
林に
入つたので。
||あと四
人は
本道を
休茶屋へ
着くと、
和井内の
主人は
股立を
解いて、
別れを
告げたのであつた。(
註。
観湖楼の
羽織袴は、
特に
私たちの
為ではない、
折から
地方の
顕官の
巡遊があつた、その
送迎の
次手である。)
写真班の
英雄は、
乃ちこの
三岐で一
度自動車を
飛下りて、
林間の
蝶に
逍遥する
博士を
迎ふるために、
馳せて
後戻りをした
処である。
|| 方々の
様子は
皆略分つた、いづれも、それ/″\お
役者である。が、
白足袋だつたり、
浴衣でしよたれたり、
貝の
口が
横つちよだつたり、
口上を
述損つたり
······一
体それは
何ものだい。あゝそつと/\
私······です、
拙者、
拙者。
英雄三
浦の
洋装の、
横肥にがツしりしたのが、
見よ、
眉の
上の
山の
端に
顕はれた。
三岐を
目の
下にして、
例の
間道らしいのを
抜けたと
思ふが、
横状に
無理な
崖をするりと
辷つて、
自動車の
屋根を
踏跨ぐか、とドシンと
下りた。
汗ひとつかいて
居ない。
尤も、つい
此の
頃、
飛行機で、八
景の
中の
上高地の
空を
飛んだと
言ふから、
船に
乗つても、
羽が
生えて、ひら/\と、
周囲十五
里の
湖の
上を
高く
飛びさうでならなかつた。
闊歩横行、
登攀、
跋渉、そんな
事はお
茶の
子で。
|| 思へば
昨日の
暮前であつた。
休屋の
山に一
座且聳えて
巌山に
鎮座する十
和田神社に
詣で、
裏岨になほ
累り
累る
嶮しい
巌を
爪立つて
上つた
時などは
······同行した
画工さんが、
信の
槍も、
越の
剣も、
此を
延長したものだと
思へ、といつたほどであるから、お
恥かしいが、
私にしては
生れてはじめての
冒険で、
足萎え、
肝消えて、
中途で
思はず、
||絶頂の
石の
祠は八
幡宮にてましますのに、
||不動明王、と
念ずると、やあ、といふ
掛声とゝもに、
制
迦の
如く
顕はれて、
写真機と
附属品を、三
鈷と
金剛杵の
如く
片手にしながら、
片手で、
帯を
掴んで、
短躯小身の
見物を
宙に
釣つて
泳がして
引上げた
英雄である。
岩魚の
大を三
匹食つて
咽喉を
渇かすやうな
尋常なのではない。
和井内自慢のカバチエツポの
肥つた
処を、
二尾塩焼きでぺろりと
平げて、あとをお
茶漬さら/\で
小楊子を
使ふ。
······ いや
爰でこそ、
呑気らしい
事をいふものゝ、
磊々たる
巉巌の
尖頂へ
攀ぢて、
大菩薩の
小さな
祠の、たゞ
掌に
乗るばかり
······といつた
処で、
人間のではない、
毘沙門天の
掌に
据ゑ
給ふ。
宝塔の
如きに
接した
時は、
邪気ある
凡夫は、
手足もすくんでそのまゝに
踞んだ
石猿に
化らうかとした。
······巌の
層は一
枚づゝ、
厳かなる、
神将の
鎧であつた、
謹んで
思ふに、
色気ある
女人にして、
悪く
絹手巾でも
捻らうものなら、たゞ
飜々と
木の
葉に
化して
飛ぶであらう。それから
跣足になつて、
抱へられるやうにして
下つて、また、
老樹の
根、
大巌の
挟間を
左に五
段、
白樺の
巨木の
下に
南祖坊の
堂があつた。
右に三
段、
白樺の
巨木の
下に、一
龍神の
祠があつた。
······扉浅うして、
然も
暗き
奥に、一
個人面蛇体の
神の、
躯を三
畝り、
尾と
共に一
口の
剣を
絡うたのが
陰影に
立つて、
面は
剣とゝもに
真青なのを
見た
時よ。
この
祠を
頂く、
鬱樹の
梢さがりに、
瀧窟に
似た
径が
通つて、
断崖の
中腹に
石溜りの
巌僅に
拓け、
直ちに、
鉄の
階子が
架る、
陰々たる
汀こそ
御占場と
称するので
||(
小船は
通るさうである)
||画工さんと
英雄とは、そこへ
||おのおの
······畠山の
馬ではない、
······猪を
抱き、
鹿をかつぐが
如き
大荷のまゝ、ずる/\と
梢を
沈んだ。
高信さんは、
南祖坊の
壇の
端に一
息して
向うむきに
煙草を
吸つた。
私は、
龍神に
謝しつゝも、
大白樺の
幹に
縋つて、
東が
恋しい、
東に
湖を
差覗いた。
場所は、
立出でた
休屋の
宿を、さながら
谷の
小屋にした、
中山半島||此の
半島は、
恰も
龍の、
頭を
大空に
反らした
形で、
居る
処は
其の
腮である。
立てる
絶壁の
下には、
御占場の
崖に
添つて
業平岩、
小町岩、
千鶴ヶ
崎、
蝋燭岩、
鼓ヶ
浦と
詠続いて
中山崎の
尖端が
牙である。
相対向ふものは、
御倉半島。また
其の
岬を
大蛇灘が
巻いて、めぐつて、八
雲崎、
日暮崎、
鴨崎、
御室、
烏帽子岩、
屏風岩、
剣岩、一つ一つ、
神が
斧を
打ち、
鬼が、
鉞を
下した
如く、やがては、
巨匠、
名工の、
鑿鏨の
手の
冴に、
波の
珠玉を
鏤め、
白銀の
雲の
浮彫を
装ひ、
緑金の
象嵌に
好木奇樹の
姿を
凝らして、
粧壁彩巌を
刻んだのが、一
目である。
折から
雨のあとの
面打沈める
蒼々漫々たる
湖は、
水底に
月の
影を
吸はうとして、
薄く
輝き
渡つて、
沖の
大蛇灘を
夕日影が
馳つた。
再び
云ふ、
東向うに、
其八
雲、
日暮崎、
御室の
勝に
並んで
半島の
真中一
処、
雲より
辷つて
湖に
浸る
巌壁一千
丈、
頂の
松は
紅日を
染め、
夏霧を
籠めて
紫に、
半ば
山肌の
土赭く、
汀は
密樹緑林の
影濃かに、
此の
色三つを
重ねて、ひた/\と
映つて、
藍を
浮べ、
緑を
潜め、
紅を
溶かして、
寄る
波や、
返す
風に、
紅紫千
輪の
花忽ち
敷き、
藍碧万顆の
星
ち
開いて、
颯と
流るゝ七
彩の
虹の
末を
湖心最も
深き
処、
水深一千二百
尺の
青龍の
偉なる
暗き
口に
呑む。
それが、それが、
目の
下にちら/\と、
揺れに、
揺れる。
······夜の
帳はやゝ
迫る。
······あゝ、
美しさに
気味が
悪い。
そこに、
白鳥の
抜羽一
枚、
白帆の
船ありとせよ。
蝸牛の
角を
出して、
櫓を
操るものありとせよ、
青螽の
流るゝ
如き
発動汽艇の
泳ぐとせよ。
私は
何となく
慄然とした。
湖ばかり、わればかり、
船は一
艘の
影もなかつた。またいつも
影の
形に
添ふやうな
小笠原氏のゐなかつたのは、
土地の
名物とて、
蕎麦切を
夕餉の
振舞に、その
用意に
出向いたので、
今頃は、
手を
貸して
麺棒に
腕まくりをしてゐやうも
知れない。三
角さんは、
休屋の
浜ぞひに、
恵比寿島、
弁天島、
兜島を、
自籠の
岩||(
御占場の
真うしろに
当たる)
||掛て、ひとりで
舟を
漕ぎ
出した。その
間に、千
年の
杉の
並木を
深く、
私たちは
参詣したので。
······ 乃ち
山の
背面には、
岸に
沿ふ三
角さんの
小船がある。たゞその
人が
頼りであつた。
少々怪我ぐらゐはする
覚悟で、
幻覚、
錯視かと
自ら
怪しむ、その
水の
彩りに、一
段と、
枝にのびて
乗出すと、
余り
奇麗さに、
目が
眩んだのであらう。
此の、
中の
湖の一
面が
雨を
呼ぶやうに
半スツと
薄暗い。
ために
黒さに
艶を
増した
烏帽子岩を
頭に、
尾を、いまの
其の
色の
波にして、一
筋。
御占場の
方を
尾に、
烏帽子岩に
向つて、一
筋。うね/\と
薄く
光る
水二
条、
影も
見えない
船脚の
波に
引残されたやうなのが、
頭丸く
尖り
胴長くうねり、
脚二つに
分れて、たとへば(
号)が
横の(
八)の
字に
向合つて、
湖の
半を
領して
浮び
出た、ものゝ
形を
見よ。
||前日、
子の
口の
朝の
汀に
打ち
群るゝ
飴色の
小蝦の
下を、ちよろ/\と
走つた
||真黒な
蠑
に
似て
双ながら、こゝに
其の
丈十
丈に
余んぬる。
見る/\、
其の
尾震ひ、
脚蠢き、
頭動く。
······驚破、
相噛まば、
戦はゞ、
此波湧き、
此巌崩れ、われ
怪し
飛ぶ、と
声を
揚げて「
康正さーん。」
博士たすけよ、と
呼ばむとする
時、
何と、
······頸寄り、
頬重り、
脚抱くと
視るや、
尾を
閃めかして
接吻をした。
風とゝもに
黒い
漣が
立蔽つた。
「
||占は
······占は
||」
谺に
曳いて、
崖下の
樹の
中、
深く、
画工さんの
呼ぶのが
聞こえて、
「
······凄いぞう。」
と、
穴に
籠つたやうな
英雄の
声が
暗い
水に
響いた。
「やあ、これは。」
高信さんが、そこへ、ひよつくり
顕はれた、
神職らしいのに
挨拶すると、
附添つて
来た
宿屋の
番頭らしいのが、づうと
出て、
「
今これへ、おいでの
皆様は
博士の
方々でおいでなさりまするぞ。」
十四五
人、
仙台の
学校からと
聞く、
洋服の
紳士が、ぞろ/\と
続いて
見えた。
······ ||のであつた。
|| 時に
英雄が
発荷峠で
······「
博士は、一
車あとへ
残らるゝさうです。
紅立羽、
烏羽揚羽、
黄と
白の
名からして、おつにん
蝶、
就中、(
小紫)などといふのが
周囲についてゐますから、
一寸山から
出さうにもありませんな。」
||この
言は
讖をなした。
翌々夜の
秋田市では、
博士を
蝶の
取巻くこと、
大略斯の
通りであつた。もとより
後の
話である。
私はいつた。
「
蝶々の
診断をしてゐるんだ。
大湯で
落合ひましやうよ、一
足さきへ
······」
······実は三
日余り、
仙境霊地に
心身共に
澄切つて、
澄切つた
胸さきへ
凡俗の
気が
見透くばかり。そんなその、
紅立羽だの、
小紫だの、
高原の
佳人、お
安くないのにはおよばない、
西洋化粧の
化紫、ござんなれ、
白粉の
花ありがたい
······早く
下界へ
遁げたいから、
真先に
自動車へ。
駕籠を一
挺、
駕籠屋が四
人、
峠の
茶屋で
休んだのが、てく/\と
帰つて
来た。
「いや、
取紛れて
失念をしようとした。ほんの
寸志だよ。」
高信さんが、
銀貨を
若干、
先棒の
掌へポンと
握らせると、にこりと
額をうつむけた
処を、
「いくら
貰うたかい。」
小笠原氏が、
真顔で、
胡麻髯の
頬を
寄せた。
「へい。」と
巌丈に
引握つた
大きな
掌をもつさりと
開ける、と
光る。
「
多からうが。
多いぞ。お
返し
申せ。
||折角ですが、かやうな
事は
癖になりますで、
以来悪例になりますでな。」
お
律義お
律義、いつもその
思召で
願ひたい、と
何の
道此処は
自腹でないから、
私は
一人で
褒めてゐる。
「いや/\、それはそれ、これはこれ、たゞ
些少の
志ですから。
······さあ/\
若い
衆、
軽く
納めて。」
馴れて
如才ない
扱ひに、
苦つた
顔してうなづいて、
「
戴いて
置け。
礼を
言へい。」
「それ、
急げ。」
英雄は、
面倒くさい
座席になど
片づくのでない。
自動車も
免許取だから、
運転手台へ、ポイと
飛び
上ると、「
急げ。」
||背中を一つ
引撲く
勢ひだから、いや、
運転手の
飛ばした
事。
峠から
下す
風は、
此の
俗客を
吹きまくつた。
「や、お
精が
出ますなあ。」
坂の
見霽で、
駕籠が
返る、と
思ひながら、
傍目も
触らなかつた
梶原さんは、
||その
声に
振返ると、
小笠原氏が、
諸肌ぬぎになつて、
肥腹の
毛をそよがせ、
腰に
離さなかつた
古手拭を
頸に
巻いた。が、一
役済まして、ほつと
寛いだ
状だつたさうである。「さすがに
日当りは
暑いですわい。」「これから
何方までお
帰りです。」
法奥沢村の
名望家が、「
船さ
出れば
乗るのですがな、
都合さ
悪ければ
休屋まで
歩行きますかな。
月がありますで、
或は
陸路を
子の
口へ
帰るですわい。」
合はせて六
里余、あの
磽
たる
樵路を、
連もなく、と
思ふと、三
角先生に
宜しく、と
挨拶して、ひとり
煢然として
峠を
下る
後態の、
湖は
広大、
山毛欅は
高し、
遠見の
魯智深に
似たのが、
且軍敗れて、
鎧を
棄て、
雑兵に
紛れて
落ちて
行く
宗任のあはれがあつた。
······とその
夜、
大湯の
温泉で、おしろひの
花にも
似ない
菜葉のやうなのに
酌をされつゝ、
画家さんが
私たちに
話したのであつた。
||却説前段に
言つた。
||海岸線まはりの
急行列車が
古間木へ(
此の
駅へは十
和田繁昌のために
今年から
急行がはじめて
停車するのださうで。)
||着いた
時、
旅行に
経験の
少い
内気ものゝあはれさは、
手近な
所を
引較べる
······一寸伊豆の
大仁と
言つた
気がしたのである。が、
菜の
花や
薄の
上をすらすらと、すぐに
修善寺へついて、
菖蒲湯に
抱かれるやうな、
優しいのではない。
駅を
右に
出ると、もう
心細いほど、
原野荒漠として、
何とも
見馴れない、
断れ
雲が、
大円の
空を
飛ぶ。八
方草ばかりで、
遮るものはないから、
自動車は
波を
立てゝ
砂に
馳しり、
小砂利は
面を
打つ
凄じさで、
帽子などは
被つて
居られぬ。
何、
脱げば
可さゝうなものだけれど、
屋根一つ
遠くに
見えず、
枝さす
立樹もなし、あの
大空から、
遮るものは
唯麦藁一
重で、
赫と
照つては
急に
曇る
······何うも
雲脚が
気に
入らない。
初見の
土地へ
対しても、すつとこ
被りもなるまいし
······コツツンと
音のするまで、
帽子の
頂辺を
敲いて、
嵌めて、「
天気模様は
如何でせうな。」「さあ
||」「
降るのは
構ひませんがね、その
雷様は
||」
小笠原氏は、
幌なしの
車に、
横ざまに
背筋を
捻ぢて、
窓に
腰を
掛けたやうな
形で
飛び
飛び、「
昨日一昨日と三
日続けて
鳴つたですで、まんづ、
今日は
大丈夫でがせうかな。」一
行五
人と、
運転手、
助手を
合はせて八
人犇と
揉んで
乗つた、
真中に
小さくなつた、それがしの
顔色少からず
憂鬱になつたと
見えて、
博士が、
肩へ
軽く
手を
掛けるやうにして、「
大丈夫ですよ、ついて
居ますよ。」
熟々案ずれば、
狂言ではあるまいし、
如何に
名医といつても、
雷神を
何うしようがあるものではない。が、
面食つて
居るから、この
声に、ほつとして、
少しばかり
心が
落着いた。
落着いて
見ると
······「あゝ、この
野中に、
優にやさしい
七夕が
······。」
又慌てた。
丈より
高い一
面の
雑草の
中に、
三本、
五本また
七本、
淡い
紫の
露の
流るゝばかり、
且飛ぶ
処に、
茎の
高い
見事な
桔梗が、
||まことに、
桔梗色に
咲いたのであつた。
去ぬる
年、
中泉から
中尊寺に
詣でた六
月のはじめには、
細流に
影を
宿して、
山吹の
花の、
堅く
貝を
刻めるが
如く
咲いたのを
見た。
彼は
冷き
黄金である。
此は
温かき
瑠璃である。
此日、
本線に
合して
仙台をすぐる
頃から、
町はもとより、
野の
末の一
軒家、
麓の
孤屋の
軒に
背戸に、
垣に
今年竹の
真青なのに、五
色の
短冊、七
彩の
糸を
結んで
掛けたのを
沁々と
床しく
見た、
前刻の
今で、
桔梗は
星の
紫の
由縁であらう。
······時に
靡きかゝる
雲の
幽なるさへ、一
天の
銀河に
髣髴として、
然も、八
甲田山を
打蔽ふ、
陸奥の
空は
寂しかつた。
われらは、ともすると、
雲に
入つて
雲を
忘るゝ
······三
本木は、
柳田国男さんの
雑誌||(
郷土研究)と、
近くまた(
郷土会記録)とに
教へられた、
伝説をさながら
事実に
殆ど
奇蹟的の
開墾地である。
石沙無人の
境の、
家となり、
水となり、
田となり、
村となつた、いま
不思議な
境にのぞみながら、
古間木よりして
僅に五
里、あとなほ十
里をひかへた
||前途の
天候のみ
憂慮はれて、
同伴に、
孫引のもの
知り
顔の
出来なかつたのを
遺憾とする。
八
人では
第一
乗溢れる。
飛ぶ
輻の、あの
勢ひで
溢れた
日には、
魔夫人の
扇を
以て
煽がれた
如く、
漂々蕩々として、
虚空に
漂はねばなるまい。それに
各荷が
随分ある。
恁くいふ
私にもある。
······大きなバスケツトがある。
読者知るや、

さんと
芥川(
故······あゝ、
面影が
目に
見える)さんが、
然も
今年五
月、
東北を
旅した
時、
海を
渡つて、
函館の
貧しい
洋食店で、

さんが、オムレツを
啣んで、あゝ、うまい、と
嘆じ、
冴返る身に沁々とほつき貝
と、
芥川さんが
詠じて
以来、
||東京府の
心ある
女連は、
東北へ
旅行する
亭主の
為に
鰹のでんぶと、
焼海苔と、
梅干と、
氷砂糖を
調へることを、
陰膳とゝもに
忘れない
事に
成つた。
女に
心があつてもなくても、
私も
亭主の
一人である。そのでんぶ、
焼海苔など
称ふるものをしたゝか
入れた
大バスケツトがあるゆゑんである。また
不断と
違ふ。
短躯小身なりと
雖も、かうして
新聞から
出向く
上は、
紋着と
袴のたしなみはなくてなるまいが、
酔つ
払つた
年賀でなし、
風呂敷包で
背負ひもならずと、
······友だちは
持つべきもの、
緑蝶夫人といふ
艶麗なのが、
麹町通り
電車道を
向うへ、つい
近所に、
家内の
友だちがあるのに
||開けないと
芬としないが、
香水の
薫りゆかしき
鬢の
毛ならぬ、
衣裳鞄を
借りて
持つた。
次手に、
御挨拶を
申したい。
此の三
本木の
有志の
方々から、こゝで一
泊して
晩餐と一
所に、一
席の
講話を、とあつたのを、
平におわびをしたのは、
······かるがゆゑに
袴がなかつた
為ではない。
講話など
思ひも
寄らなかつたからである。しかし
惜しい
事をした。いま
思へば、
予て一
本を
用意して、
前記(
郷土会記録)
載する
処の
新渡戸博士の三
本木開墾の
講話を
朗読すれば
可かつた。
土地に
住んで、もう
町の
成立を
忘れ、
開墾当時の
測量器具などの
納めた、
由緒ある
稲荷の
社さへ
知らぬ
人が
多からうか、と
思ふにつけても。
|| 人と
荷を
分けて
積むため、
自動車をもう一
台たのむ
事にして、
幅十
間と
称ふる、
規模の
大きい、
寂びた
町の
新しい
旅館の
玄関前、
広土間の
卓子に
向つて、一
休みして
巻莨を
吹かしながら、ふと
足元を
見ると、
真下の
土間に
金魚がひらひらと
群れて
泳ぐ。
寒国では、
恁うして
炉を
切つた
処がある。これは
夏の
待遇に
違ひない。
贅沢なものだ。
昔僭上な
役者が
硝子張の
天井に
泳がせて、
仰向いて
見たのでさへ、
欠所、
所払ひを
申しつかつた。
上からなぞは、と
思ひながら、
止せばいゝのに、
||それでも
草履は
遠慮したが、
雪靴を
穿いた
奥山家の
旅人の
気で、ぐい、と
踏込むと、おゝ
冷い。ばちやんと
刎ねて、
足袋はびつしより、わアと
椅子を
傾けて
飛上ると、
真赤になつて
金魚が
笑つた。あはは、あはは。
いや、
笑事ではない。しばらくして
||東は
海を
限り、
北は
野辺地に
至るまで、
東西九
里、
南北十三
里、
周囲十六
里。十
里まはりに
笠三
蓋と
諺にも
言ふ、その
笠三
蓋とても、
夏は
水のない
草いきれ、
冬は
草も
見ぬ
吹雪のために、
倒れたり、
埋れたり、
行方も
知れなくなつたと
聞く。
······三
本木原の
真中へ、
向風と、
轍の
風に
吹放された
時は、
沖へ
漂つたやうな
心細さ。
早く、
町を
放れて
辻を
折れると、
高草に
遥々と
道一
筋、十
和田に
通ふと
聞いた
頃から、
同伴の
自動車が
続かない。
私のは
先へ
立つたが、
||説明を
聞くと、
砂煙がすさまじいので、
少くとも十
町あまりは
間隔を
置かないと、
前へ
進むのはまだしも、
後の
車は
目も
口も
開かないのださうである。
||この
見果てぬ
曠野に。
果せるかな。
左右見渡す
限り
苜蓿の
下臥す
野は、
南部馬の
牧場と
聞くに、
時節とて一
頭の
駒もなく、
雲の
影のみその
幻を
飛ばして一
層寂しさを
増した
······茫々たる
牧場をやゝ
過ぎて、
道の
弧を
描く
処で、
遠く
後を
見返れば、
風に
乗つた
友船は、千
筋の
砂煙をかぶつて、
乱れて
背状に
吹きしなつて、
恰も
赤髪藍面の
夜叉の、一
個水牛に
化して、
苜蓿の
上を
転げ
来たる
如く、もの
凄じく
望まれた。
前途七
里焼山の
茶店に
着いて、
少時するまで、この
友船は
境を
隔てたやうに
別れたのである。
道は
大畝りに、
乗上り
乗下つて、やがて、
野は
迫り、
山来り、
巌近づき、
川灌いで、やつと
砂煙の
中を
抜けたあたりから、
心細さが
又増した。
樹はいま
緑に、
流は
白い。
嵐気漓る、といふ
癖に、
何が
心細い、と
都会の
極暑に
悩むだ
方々からは、その
不足らしいのをおしかりになるであらうが、
行向ふ、
正面に
次第に
立累る
山の
色が
真暗なのである。
左右の
山々は、
次第次第に、
薄墨を
合せ、
鼠を
濃くし、
紺を
流し、
峰が
漆を
刷く。
「さあ/\さあ、そろ/\
怪しくなりましたな。」
「
怪談ですか。」
「それ
処ですか、
暗く
成つて
来ましたなあ、
鳴りさうですね。
鳴りさうですね。」
三角さんが、
「
大丈夫、よく
御覧なさい、あの
濡れたやうに
艶々と
黒くすごい
中に
······」
小笠原氏が
口を
入れて、
「あの
中が、これから
行く
奥入瀬の
大渓流でがすよ。」
だから、だからいはぬ
事ではない、
私は
寒気がして
来た。
「いゝえ、
||黒く
凄い
中に、
薄く
···光る
···は
不可ませんか。」
と
博士が
莞爾して、
「
黒く
凄い
中に、
紫色が
見えましやう。
高山は
何処もこの
景色です。
光線の
工合です。
夕立雲ではありません。」
白皙蒲柳の
質に
似ず、
越中国立山、
剣ヶ
峰の
雪を、
先頭第四十
何人目かに
手鈎に
掛けた、
登山においては、
江戸の
消防夫ほどの
侠勢のある、この
博士の
言を
信ずると、
成程、
夕立雲が
立籠めたのでもなさゝうで、
山嶽の
趣きは
墨染の
法衣を
襲ねて、
肩に
紫の
濃い
袈裟した、
大聖僧の
態がないでもない。が、あゝ、
何となくぞく/\する。
忽ち、ざつとなつて、ポンプで
噴くが
如く、
泥水が
輪の
両方へ
迸ると、ばしやんと
衣裳鞄に
刎ねかゝつた。
運転手台の
横腹へ
綱を
掛けて
積んだのである。しまつた、
借りものだ、と
冷りとすると、ざつ、ざぶり、ばしやツ。
弱つた。が、
落着いた。
緑蝶夫人の
貸し
振を
思へ。
||「これは、しやぼん、
鰹節以上ですな。
||道中損ずる
事承合ですぜ。」「
鞄は
汚れたのが
伊達なんですとさ。
||だから
新しいのを。
何うぞ
精々傷めて
来て
下さいな。」
最う一つ
落着いたのは、
······夏の
雨だ。こゝらは
最う
降つたあとらしい、と
思つたのである。
「
小笠原さん、
降つたんですね。」
「いや、
昨日の
雨ですわい。」
御勝手になさい、
膠のないこと
夥しい。
然やうでございませうとも、
成程晴れたのではない。
窓をたよるほど
暗さが
増して
気の
滅入る
事又夥しい。
私は
家が
恋しくなつた。
人間女房の
恋しく
成るほど、
勇気の
衰へる
事はない。それにつけても、それ、その
鞄がいたはしい。
行つた、
又ばしやり、ばしやん。
以て、この
辺既に
樹木の
茂れる
事思ふべし。
焼山は
最う
近い。
近い。が
焼山である。
唐黍も
焦げてゐやう。
茄子の
実も
赤からう。
女気に
遠ざかる
事、
鞄を
除いて十
里に
余つた。
焼山について
休んだ
処で、
渋茶を
汲むのはさだめし
皺くたの
······然ういへば、
来る
道の
阪一つ、
流を
近く、
崖ぶちの
捨石に、
竹杖を、ひよろ/\と、
猫背へ
抽いて、
齢、八十にも
余んなむ、
卒塔婆小町を
正で
見る
婆さんが、ぼやり、うつむいて
休んでゐた。そのほかに
殆ど
人影を
見なかつたといつても
可い。
||あんなのが「
飲ましやい。」であらうと
観念したのであつたから。
「
今日は
||女房さん。」
珊瑚の
枝を
折つてゐた、
炉の
焚火から、
急いで
立つて
出迎へた、もの
柔かな
中形の
浴衣の、
髪の
濃いのを
見た
時は、
慌てたやうに
声を
掛けた。
焼山の一
軒茶屋、
旅籠に、
雑貨荒物屋を
兼ねた
||土間に、(この
女房さんなら
茶も
熱い)
||一
椀を
喫し、
博士たちと一
息して、まはりの
草の
広場を、ぢつと
視ると、
雨空低く
垂れつゝ、
雲は
黒髪の
如く
野に
捌けて、
棟を
絡ひ、
檐に
乱るゝとゝもに、
向うの
山裾に、ひとつ、ぽつんと
見える、
柴小屋の
茅屋根に、
薄く
雨脚が
掛かつて、
下草に
裾をぼかしつゝ
歩行くやうに、
次第に
此方へ、
百条となり、千
条と
成つて、やがて
軒前に
白い
簾を
下ろした。
この
雫に、
横頬を
打たれて、
腕組をして、ぬい、と
立つたのは、
草鞋を
吊つた
店の
端近に
踞んだ
山漢の
魚売で。三
枚の
笊に
魚鱗が
光つた。
鱗は
光つても、
其が
大蛇でも、
此の
静かな
雨では
最う
雷光の
憂慮はない。
見参、
見参などゝ
元気づいて、
説明を
待つまでもない、
此の
山深く
岩魚のほかは、
予て
聞いた
姫鱒にておはすらむ、カバチエツポでがんせうの、と
横歩行きして
見に
立つ
勢ひ。
序にバスケツトを
探つて、
緑蝶夫人はなむけする
処のカクテルの
口を
抜いた。
「
凄い
婆さんに
逢ひましたよ。」
「
大雨、
大雨。」
と、
画工さん、三
浦さんがばた/\と
出た、その
自動車が、
柴小屋を
小さく
背景にして
真直に
着くと、
吹降を
厭つた
私たちの
自動車も、じり/\と
把手を
縦に
寄つた。
並んだ二
台に、
頭からざつと
浴せて、
軒の
雨の
篠つくのが、
鬣を
敲いて、
轡頭を
高く
挙げた、二
頭の
馬の
鼻柱に
灌ぐ
風情だつたのも、
谷が
深い。
が、
驟雨の
凄じさは
少しもない。すぐ、
廻り
縁の
座敷に、
畳屋の
入つてゐたのも、
何となく
心ゆく
都の
時雨に
似て、
折から
縁の
端にトントンと
敲いた
茣蓙から、
幽に
立つた
埃も
青い。
はじめよりして、ものゝ
可懐しかつたのは、
底暗い
納戸の
炉に、
大鍋と
思ふのに、ちら/\と
搦んで
居る
焚火であつた、この
火は、
車の
上から、
彼処に
茶屋と
見た
時から、
迷つた
深山路の
孤屋の
灯のやうに
嬉しかつた。
女房の
姿に
優しかつた。
壁天井、
煤のたゞ
黒い
中に、
火は
却つて
鮮かである。この
棟にかゝる
蔦はいち
早くもみぢしよう。この
背戸の
烏瓜も
先んじて
色を
染めよう。
東京は
遥に、
家は
遠い。
······旅の
単衣のそゞろ
寒に、
膚にほの
暖かさを
覚えたのは一
杯のカクテルばかりでない。
焚火は
人の
情である。
ひら/\と
揚がり、ひら/\と
伏して、
炉に
靡く。
焚火は
襷の
桃色である。かくて
焼山は
雨の
谷に
美しい。
ひそかに
名づけて、こゝを
村雨茶屋といはうと
思つた。
小降りになつた。
白い
雲が
枝に
透く。
「
何を
煮てゐなさるんですか、
女房さん。」
出立つ
時、
私は、
納戸のその
鍋をさしてきいた。
「はい?」
「
鍋に
何を
煮なさいますか。」
「
小豆でございます。」
と
言ふと、
女房は
容子よく、ぽつと
色を
染めた。
私はその
理由を
知らない。けれども、それよりして
奥入瀬川の
深林を
穿つて
通る、
激流、
飛瀑、
碧潭の、
到る
処に、
松明の
如く、
灯の
如く、
細くなり
小さくなり、また
閃きなどして、
||子の
口の
湖畔までともなつたのは、この
焚火と、
||一
茎の
釣舟草の
花のあつたことを
忘れない。
「しばらく、
一寸。」
焼山を一
町ばかり、
奥入瀬口へ
進んだ
処で、
博士が
自動車を
留めていつた。
「あの
花を
知つてゐなさいますか
||一寸、お
目に
掛けませう。」
自動車を
引戻し、ひらりと
下りるのに、
私も
続くと、
雨にぬれた
草の
叢に、
優しい
浅黄の
葉を
掛けて、ゆら/\と
咲いたのは、
手弱女の
小指さきほどの
折鶴を
乗せよう、おなじく
折つた
小さな
薄黄色の
船の
形に
連り
咲いた
花である。「一
枝」と
意を
得ると、
小笠原氏の
顔を
出して、
事もなげに
頷くのを
視て、
折り
取る
時、
瀬の
音が
颯と
響いた。
やがて
交る/″\
手に
翳した。
釣舟草は
浮いて
行く。
忽ち
見る、
車の
輻は
銀に、
轍は
緑晶を
捲いて、
水が
散つた。
奥入瀬川の
瀬に
入つたのである。
これよりして、
子の
口までの三
里余は、たゞ
天地を
綾に
貫いた、
樹と
巌と
石と
流の
洞窟と
言つて
可い。
雲晴れても、
雨は
不断に
降るであらう。
楢、
桂、
山毛欅、
樫、
槻、
大木大樹の
其の
齢幾干なるを
知れないのが、
蘚苔、
蘿蔦を、
烏金に、
青銅に、
錬鉄に、
刻んで
掛け、
鋳て
絡うて、
左右も、
前後も、
森は
山を
包み、
山は
巌を
畳み、
巌は
渓流を
穿ち
来る。
······ 色を
五百機の
碧緑に
織つて、
濡色の
艶透通る
薄日の
影は
||裡に
何を
棲ますべき
||大なる
琅
の
柱を
映し、
抱くべく
繞るべき
翡翠の
帳の
壁を
描く。
この
壁柱は
星座に
聳え、
白雲に
跨がり、
藍水に
浸つて、
露と
雫を
鏤め、
下草の
葎おのづから、
花、
禽、
鳥、
虫を
浮彫したる
氈を
敷く。
氈の
上を、
渓流は
灌ぎ、
自動車は
溯る。
湖の
殿堂を
志す、
曲折算ふるに
暇なき、この
長い
廊下は、五
町右に
折れ、十
町左に
曲り、二つに
岐れ、三つに
裂けて、
次第々々に
奥深く、
早きは
瀬となり、
静なるは
淵となり、
奔るは
湍となり、
巻けるは
渦となつて、
喜ばせ、
楽ませ、
驚かせ、
危がらせ、ヒヤリとさせる。
目の
前に、
幾処か、
凄じき
扉と
思ふ、
大磐石の
階壇は、
瀧を
壇の
数に
落しかけ、
落つる
瀧は、
自動車を
空へ
釣る。
呪なく、
券なきに、この
秘閣の
廊下、
行く
処、
扉おのづから
開け、
柱来り
迎ふる
感がある。
||惟ふに
人は
焼山をすぎて、
其第一の
扉展くとともに、
心慄くであらう。
車の
轍を
取つて
引くものは、
地でなく、
草でなく、
石でなく、
森の
壁を
打つて、
巌の
柱に
砕くる
浪である。
衝き
入る
自動車は、
瀬にも、
淵にも、
瀧にも、
殆ど
水とすれ/\に、いや、
寧ろ
流の
真中を、
其のまゝに
波を
切つて
船の
如くに
溯るのであるから。
巌の
黒き
時、
松明は
幻に
照し、
瀬の
白き
時、
釣舟草は
窓に
揺れた。
全体、
箱根でも、
塩原でも、
或は
木曾の
桟橋でも、
実際にしろ、
絵にせよ、
瑠璃を
灌ぎ、
水銀を
流す
渓流を、
駕籠、
車で
見て
行くのは、
樵路、
桟道、
高い
処で、
景色は
低く
下に
臨むものと
思つて
居たのに、
繰返していふが、
此の
密林の
間は、さながら
流に
浮んで
飛ぶのである。
もとより
幾処にも
橋がある。
皆大木の
根に
掛り、
巨巌の
膚を
穿つ。
其の
苔蒸す
欄干を
葉がくれに、
桁を
蔦蔓で
埋めたのが、
前途に
目を
遮るのに、
橋の
彼方には、
大磐石に
堰かれて、
急流と
奔湍と、
左より
颯と
打ち、
右より

と
潜り、
真中に
狂立つて、
巌の
牡丹の
頂に
踊ること、
藍と
白と
紺青と三
頭の
獅子の
荒るゝが
如きを
見るとせよ。
角度を
急に
曲つて、
橋を
乗る
時を
思はれよ。
釣舟草は
浮いて
行く。
中に一
所、
湖神が
設けの
休憩所||応接間とも
思ふのを
視た。
村雨又一
時はら/\と、
露しげき
下草を
分けつゝ
辿ると、
藻を
踏むやうな
湿潤な
汀がある。
森の
中を
平地に
窪んで、
居る
処も
川幅も、
凡そ百
畳敷きばかり、
川の
流が
青黒い。
波、
波、
波は、一
面に
陰鬱に、三
角に
立つて、
同じやうに
動いて、
鱗のざわ/\と
鳴る
状に、
蠑
の
群る
状に、
寂然と
果しなく
流れ
流るゝ。
寂しく
物凄さに、はじめて
湖神の
片影に
接した
思がした。
三
方は、
大巌夥しく
累つて、
陰惨冥々たる
樹立の
茂は、
根を
露呈に、
石の
天井を
蜿り
装ふ
||こゝの
椅子は、
横倒れの
朽木であつた。
鱗の
波は、ひた/\と
装上つて
高く
打つ。
||所謂「
石げど」の
勝である。
馬の
胴中ほどの
石の、
大樫、
古槻の
間に
挟つて、
空に
架つて、
下が
空洞に、
黒鱗の
淵に
向つて、五七
人を
容るべきは、
応接間の
飾棚である。
石げどはこの
巌の
名なのである。が、
魔の
棲むべき
岩窟を、
嘗て
女賊の
隠れ
家であつたと
言ふのは
惜い。
······ 隣郷津軽の
唐糸の
前に
恥ぢずや。
女賊はまだいゝ。
鬼神のお
松といふに
至つては、
余りに
卑しい。これを
思ふと、
田沢湖の
街道、
姫塚の、
瀧夜叉姫が
羨しい。が、
何だか、もの
欲しさうに、
川をラインとか
呼ぶのから
見れば、この
方が
遥にをかしい。
雲は
黒くなつた。
淵は
愈々暗い。
陰森として
沈むあたりに、
音もせぬ
水は
唯鱗が
動く。
時に、
廊下口から、
扉の
透間から、
差覗いて、
笑ふが
如く、
顰むが
如く、ニタリ、ニガリと
行つて、
彼方此方に、ぬれ/\と
青いのは
紫陽花の
面である。
面でない
燐火である。いや
燈籠である。
しかし、十
和田一
帯は、すべて
男性的である。
脂粉の
気の
少い
処だから、
此の
青い
燈籠を
携ふるのは、
腰元でない、
女でない。
木魅、
山魅の
影が
添つて、こゝのみならず、
森の
廊下の
暗い
処としいへば、
人を
導くが
如く、あとに、さきに、
朦朧として、
顕はれて、
蕚の
角切籠、
紫陽花の
円燈籠を
幽に
青く
聯ねるのであつた。
釣舟草は
浮いて
行く。
焚火は
幻に
燈れて
続く。
車の
左右に
手の
届く、
数々の
瀧の
面も、
裏見る
姿も、
燈籠の
灯に
見て、
釣舟草は
浮いて
行く。
瀧のその
或ものは、
雲にすぼめた
瑪瑙の
大蛇目の
傘に、
激流を
絞つて
落ちた。また
或ものは、
玉川の
布を
繋いで、
中空に
細く
掛かつた。その
或ものは、
黒檀の
火の
見櫓に、
星の
泡を
漲らせた。
やがて、
川の
幅一
杯に、
森々、
淙々として、
却つて、また
音もなく
落つる
銚子口の
大瀧の
上を
渡つた
時は、
雲もまた
晴れて、
紫陽花の
影を
空に、
釣舟草に、ゆら/\と
乗心地も
夢かと
思ふ。
······橋を
辷つて、はツと
見ると、こゝに
晃々として
滑らかなる
珠の
姿見に
目が
覚めた。
湖の一
端は、
舟を
松蔭に
描いて、
大弦月の
如く
輝いた。
水の
光を
白砂にたよつて、
子の
口の
夕べの
宿に
着いたのである。
「
御馳走は?」
「
洋燈。」
といつて、
私はきよとりとした。
||これは
帰京早々お
訪ねに
預かつた
緑蝶夫人の
問に
答へたのであるが
||実は
子の
口の
宿が
洋燈だつたので、
近頃余程珍しかつた。それが
記憶に
沁みてゐて、うつかり
口へ
出たのである。
洋燈も
珍しいが、
座敷もまだ
塗立ての
生壁で、
木の
香は
高し、
高縁の
前は、すぐに
樫、
槻の
大木大樹鬱然として、
樹の
根を
繞つて、
山清水が
潺々と
音を
寂に
流れる。
······奥入瀬の
深林を一
処、
岩窟へ
入る
思ひがした。
さて
御馳走だが、その
晩は、
鱒のフライ、
若生蕈と
称ふる、
焼麩に
似たのを、てんこ
盛の
椀。
「ホツキ
貝でなくつてよかつたわね。」
「
精進のホツキ
貝ですよ。それにジヤガ
芋の
煮たの。
······しかしお
好み
別誂で
以て、
鳥のブツ
切と、
玉葱と、
凍豆腐を
大皿に
積んだのを
鉄鍋でね、
湯を
沸立たせて、
砂糖と
醤油をかき
交ぜて、
私が
一寸お
塩梅をして」
「おや、
気味の
悪い。」
「
可、と
打込んで、ぐら/\と
煮える
処を、めい/\
盛に、フツフと
吹いて、」
「
山賊々々。」
と
冷かしたが、
元来、
衣裳鞄の
催促ではない、ホツキ
貝の
見舞に
来たのだから、
先づ
其次第を
申述べる
処へ
······又近処から、おなじく、
氷砂糖、
梅干の
注意連の
女性が
来り
加はつた。
次手だから、
次の
泊の
休屋の
膳立てを
紹介した。
鱒の
塩やき、
小蝦のフライ、
玉子焼、
鱒と
芙萸の
葛かけの
椀。
||昼と
晩の
順は
忘れたが、
鱒と
葱の
玉子綴、
鳥のスチウ、
鱒の
すりみと
椎茸と
茗荷の
椀。
「
鱒、
鱒、
鱒。」
「ます/\
出ます。」と
皆で
笑ふ。
何も
御馳走を
食べに
行く
処ではない。
景色だ、とこれから、
前記奥入瀬の
奇勝を
説くこと一
番して、
此の
子の
口の
朝ぼらけ、
汀の
松はほんのりと、
島は
緑に、
波は
青い。
縁前のついその
森に、
朽木を
啄む
啄木鳥の、
青げら、
赤げらを二
羽視ながら、
寒いから
浴衣の
襲着で、
朝酒を。
||当時、
炎威猛勢にして、九十三
度半といふ、
真中で
談じたが、
「だからフランネルが
入つてるぢやありませんか、
不精だね。」
と
女房めが、
風流を
解しないこと
夥しい。
傍から、
「その
為の
鞄ぢやあないの。」
で、一
向に
涼しさなんぞ
寄せつけない。
······たゞ
桟橋から、
水際から、すぐ
手で
掬へる
小瑕の
事。
······はじめ、
羽の
薄い
薄萠黄の
蝉が一
疋、
波の
上に
浮いて、
動いてゐた。
峨峰、
嶮山に
囲まれた
大湖だから、
時々颯と
霧が
襲ふと、この
飛んでるのが、
方角に
迷ふうちに
羽が
弱つて、
水に
落ちる
事を
聞いてゐた。
||上げてやらうと、
杖で、
······かう
引くと、
蝉の
腹に五つばかり、
小さな
海月の
脚の
様なのが、ふら/\とついて
泳いで
寄る、
食つてゐやがる
||蝦である。
引寄せても
遁げないから、
密と
手を
入れると、
尻尾を
一寸ひねつて、二つも三つも
指のさきをチヨ、チヨツと
突く。
此奴と、ぐつと
手を
入れると、スイと
掌に
入つて
来る。
岩へ
寄せて、ひよいと
水から
取らうとすると、アゝ
擽つたい、
輪なりに一つピンと
刎ねて、ピヨイとにげて、スイと
泳いで、
澄ましてゐる。
小雨のかゝるやうに、
水筋が
立つほど、
幾らでも、といふ
······半から、
緑蝶夫人は
気を
籠めて、
瞳を
寄せ、もう
一人は
掌をひら/\
動かし、じり/\と
卓子台に
詰寄ると、
第一
番に
食意地の
張つてる
家内が、もう、
襷を
掛けたさうに、
「
食べられるの。」
「そいつが
天麩羅のあげたてだ。ほか/\だ。」
緑蝶夫人が、
「あら、いゝ
事ねえ、
行きたくなつた。」
「
私······今からでも。」
度し
難い!
弱つた。
教養あり、
識見ある、モダンとかゞ
羨しい。
読者よ、かくの
如きは
湖の
宮殿に
至る
階の一
段に
過ぎない。
其の
片扉にして、
写し
得たる一
景さへこれである。五
彩の
漣は
鴛鴦を
浮べ、
沖の
巌は
羽音とゝもに
鵜を
放ち、千
仭の
断崖の
帳は、
藍瓶の
淵に
染まつて、
黒き
蠑
の
其の
丈大蛇の
如きを
沈めて
暗い。
数々の
深秘と、
凄麗と、
荘厳とを
想はれよ。
||いま、
其の
奥殿に
到らずとも、
真情は
通じよう。
湖神のうけ
給ふと
否とを
料らず、
私は
階に、かしは
手を
打つた。
ひそかに
思ふ。
湖の
全景は、
月宮よりして、
幹紫に
葉の
碧なる、
玉の
枝より、
金色の
斧で
伐つて
擲つたる、
偉なる
胡桃の
実の、
割目に
青い
露を
湛へたのであらう。まつたく
一寸胡桃に
似て
居る。
(完)