「社長、又
ドアが
「又かい。
彼はものうげに、北川のさし出す書状を受取ると、チエッと舌打ちをしながら、開封した。
「
「ウン」
西村は
「ワハハハハハハハ、
西村は椅子の上でそっくり返って笑った。
「ここだよ、ほら」
北川は社長の指さす文面を、小声で読んで見て、さも
「無智な奴って、
「
「残った連中を
「それよ。お
「それにしても、
「有難う。だが、僕はこう見えても、まだ職工なんかにやっつけられる程
北川は
「ハ、承知致しました」
なにもかもこの私が
「瀬川さん」
野田と艶子とは、ハッとした様に話をやめて顔を上げた。北川は二人の顔をジロジロ眺めながら、
「お話中で何だけれど、瀬川さんに社長さんが御用ですって」
「社長さんが」艶子は
「
「だって、何の御用でしょう」
「極っているじゃないか、手紙の速記さ。
「アラ、覚えてらっしゃい。この間のこと社長さんに云いつけて上げるから」
「コラッ」
北川が
「何だい、君」
野田は艶子の
「ナアニ、妙な所をあいつに見られちゃったのさ。二人づれで歩いてる所を」
「
「どうして、そんなんじゃないよ。お安くないといえば、君の方がよっぽどお安くないや」
「何が」
「隣同志でよ、しょっちゅうヒソヒソと
「何が」
「
「馬鹿ッ。いい加減にしろ」
「だが、用心するがいいぜ。社長は馬鹿に御気に入りなんだからね。あの子供はなかなか速記が上手だなんて、目を細くしているよ、おやじ」
「そうかい」
「なんて、平気相な顔をするなよ。お察し申しますよ。御心配なことだ」
「いいじゃないか。社長がどうしようと、僕に関係したことじゃない」
さも
野田幸吉は、もう一度艶子の出て行ったドアの方へ、
洗面所を出ると、彼はやっぱり音のしない歩き方で廊下を戻り、もう一度社長室の前に来た。そして今度はもう
「アノ、御用でございましょうか」
瀬川艶子は、社長室に入って、
「アア、一寸手紙を書いて
西村陽吉はチョッキの両脇へ左右の
艶子は、引続き取りすました態度で、社長の大机の脇の小さな角テーブルの前に腰を
西村は大して急ぎの用件でもなさそうに文意を口述しながら、
「エーと、右の事情につき、御示しの条件にては、残念ながら
そんなことを、ゆっくりゆっくり
艶子は少しも気づかぬ風で、速記を続けていた。背を曲げて一心に鉛筆を走らせている彼女の横顔は、他意もなく仕事に没頭している様に見えた。
西村の
「いけません」
艶子はやっと気づいた様に、低い
西村の
艶子は、背後に恐るべき
それにも
西村の醜く
「いけません、いけません」
艶子は
男の手が肩にかかったのを感じると、艶子はクルリと彼に背を向けた。開いた窓の窓枠にしがみついた。うしろから生暖い息が頬をかすめた。彼女の上半身が出来る丈け窓の外へ曲った。
窓の外には、
新聞記者の

二人は少しばかり酔っていた。夕暮の風の寒さに、人通りの少い敷石道を、彼等はコツコツと靴音を響かせ、高声に話しながら歩いていた。時々砂を
「この辺を歩いていると、日本という感じがしないね。
小説家の長谷川は、両側に立並んだ西洋館を眺めながら云った。
「君なんか、
新聞記者の山本が答えた。
「地下室なんてものがあるね。見給え、あすこで弁当を食っている
小説家は足下に開いた地下室の窓を覗きながら歩いていた。ある地下室では、白い帽子を
ふと建物が切れて、建物と建物との間の
「地下室だとか非常梯子だとか、そんなものを見ると、益々異国という感じだね。探偵小説の世界だよ。何かしら、恐ろしい犯罪でも起り相な気がする」
「小説家らしいことを云うね。そりゃ犯罪は盛んに行われているさ。だが、活動写真や探偵小説にある様な、激情的な奴は一寸ないね。住んでいるのがやっぱり日本人だから」
「そうかなあ。その辺の曲り角から、覆面のホールダップでも出そうな気がするがなあ」
「ハハハハハハ、そんなものが出て呉れれば、面白いのだけれど」
二人はいつの間にか細い道に入っていた。Sビルディングの裏手に当る所で、一方には大きな倉庫が立並び、道幅は自動車がやっと通れる程の狭い
「君何だろう」
小説家がふと立止まって、行手を指さしながら言った。
「変だね。人が寝ている様だね。病人かな」
新聞記者も気味悪そうに立止った。
薄暗い敷石道に、黒い洋服を着た男が長くなっていた。その様子が、病人や
二人は、こわごわその
「アッ、血だ」
小説家が
「落ちたんだよ、きっとこのビルディングの上からだ。頭が
記者は物慣れた様子で、死体を覗きながら云った。
「まだ暖い。落ちて間がないのだ。どこからだろう」
死体の真上に五つの窓が重っていた。冬のことで窓は皆密閉されている中に、最上の五階の窓丈けが広く
「五階らしいね」
新聞記者はそういいながら、一階の窓の所へよじ上って、外からトントンと
「
そこで二人はSビルディングの表口へ走った。玄関に入ると、正面にエレベーターの出入口が二つ並んでいる。その前にかけ寄ってあわただしくベルを押していると、一方のエレベーターがスーッと
「君、電話はないか。大変なんだ。裏通りに人が死んでいるのだ」
記者はエレベーター・ボーイを
「電話って、ビルディングの事務所は五階にあるのですが」
「じゃ大いそぎで五階だ」
「誰が死んだのです」
「誰だか分らない。どうも五階からおちたらしいのだ。兎も角警察へ知らせなきゃ」
「今出て行った男ね」小説家は箱の中へ入りながら聞いた。「何階からおりて来たの」
「四階です」
「
「何だか様子が変だったからさ。ね、ボーイさん。あなたは変に思わなかったかい」
「ちっとも見かけない人ですよ」ボーイは
五階につくと三人は事務所へ飛び込んだ。新聞記者は
たった一人残っていた事務員は、小説家の説明を聞くと、
五階の裏通りの部屋は、全部西村電気商会が借り切っていた。全部といっても、社長室と、応接室と、二室を打抜いた事務室と、洗面所切りなのだが。
ビルディングの事務員と小説家の長谷川とは、そのとっつきの事務室へかけつけ、残っていた数人の社員に事の次第を告げた。一同は期せずして窓の所へ
夕闇の街路には、
「オイ、うちの社長じゃないか」
社員の一人が叫んだ。
「まさか」他の一人はそれを打消しながら、「オーイ、誰だか分らないかなあ」と下に向って呼んだ。
「西村さんだよう」
下から返事が来た。それを聞くと社員達は
庶務の北川は二三の社員と共に社長室を調べた。ドアは異常なく開いた。室内にも窓があけはなっている
「ここから落ちたんだね。併し、まさか社長自身が飛びおりた訳ではなかろうが、おかしいね。誰かにつきおとされたのだろうか」
社員達は青ざめた顔を見合せて、
エレベーターが忙しく上下して、西村商会の社員ばかりでなく、
「死体を一枚撮って置いたよ」
彼等は五階にやって来ると、山本の側に寄って手柄顔に報告した。
やがて、警察の連中が到着した。それと見ると、人々は我先にと現場の方へ急いだ。山本を始め新聞社の人達もその中に混った。一通り検死が済むと、死体はビルディングの一室に担ぎ込まれ、警官達は五階へ上った。群集はまたその後に従った。
西村商会の応接室の
「ここ一時間以内の出来事らしいのですが、誰も気がつかなかったのは変ですね。物音はしなかったのですか」
検事と
「部屋は密閉しているものですから、少し位の物音は聞えないのです。
「社長室に最後に入ったのは誰でしょう」
「それは私です。ほんの今しがたのことです、書類に判を貰うものがあったものですから、それを持って、社長室へ行って見ますと、誰もいないのです。帽子や外套は残っているし、ドアに鍵もかかっていませんので、一寸その辺に出られたのだと思って、そのまま事務所へ
「その前に社長室へ入ったのは」
「多分タイピストの瀬川だと思います、もう先程帰宅しましたが、瀬川艶子という娘です。これが手紙を速記する為に社長の所へ呼ばれていました。三十分程で事務室へ帰り、それから又三十分もすると、規定の時間が来たものですから、帰宅致しました」
「変った様子はありませんでしたか」
「イイエ、別段」
「そのタイピストが社長室を出たのは何時頃でした」
「ハッキリは覚えませんが、三時半頃だと思います」
「すると、三時半から死体の発見された四時半頃まで、約一時間の間に事件が起った訳ですね。ところで、この裏通りは人の余り通らない所ですか」
「御覧の通り向うの倉庫の裏と、ビルディングの裏との、ほんの空地といってもいい場所で、滅多に人通りはありません」
「そうでしょう。でなければ、もっと早く死体が発見されていたかも知れません。そこで、何か御心当りはありませんか。もし他殺だとすればですね」
「別に心当りと云う程でもありませんけれど、最近社長の所へは、
「誰からです」
「工場を解雇された職工達からです。
「危険なのがありますか」
「そりゃ解雇された内には、
「あとで、解雇職工の名簿と、その脅迫状を拝借しましょう」
「工場の職長に聞けば、危険な奴の名前は分ると思います」その場に来合せていた技師長が口をはさんだ。
「併し、職工などが、いきなり社長室へ入ることが出来ますか、廊下に受附なんかいないのですか」
「受附けはいませんけれど、来客は皆事務室の方へ来る様になっています。そこに商会の看板も出ていますし、エレベーターから来ればとっつきの部屋ですから」
「では、すぐ社長室へ行くことが出来るのですね」
「出来ないことはありません」
「事務室の中から廊下は見えないのですか」
「窓はスリガラスになってますから、この
「すると、事務室の前を通り抜けて社長室に
「でも、社長の
「ベルがあった所で、押す余裕のないこともあるでしょう。それから社長室ですね、我々としては多少
「キチンと片づいていて、格闘の跡なんかありませんし、別にこれといって」
「社長の
「ハア、それは確かに私が見たのですが、どう探してもありません」
「何が入っていたのです」
「詳しいことは分りませんが、
「どうした金です」
「
そこで検事は、折鞄の外形から、紙幣の種類などを
山本はその場で原稿を書いて、応援の記者に持たせてやると、もう用済みだった。彼は待合せていた小説家の長谷川と一緒にビルディングを出ると、この興味ある見聞について話し合う為に、又もや近くのカフェーに立寄った。
「驚いたね」
「驚いた」長谷川はがっかりした様に、ホッとため息をついた。
「他殺に相違ないが、あの調子では一寸犯人は出まいね。一つも証拠がないのだから」
「刑事がいたね、私服の」
「いたよ」
「あいつが、大分熱心に調べていたようだが、何か見つけたかも知れないね」
「それは分らない。併し検事の口調では、大した発見もなさそうだった」
「嫌疑者は」
「ない。まあ
「脅迫状が来てるとか云ったね。その
「さあどうだか。それよりも、君はあの訊問の間どこへ行っていたのだい。姿を見せなかったじゃないか」
「四階三階屋上などをぶらついていた」
「どうして」
「何か
「どうして、四階や三階に手掛りがあるのだい」
「皆五階から墜落したと極めている様だが、それが少し独断ではないかと思ったのさ」
「だって、五階の窓が開いていた」
「窓はあとから閉めることが出来るよ。死体の垂直線上には一階から五階までの五つの窓と、屋上の広場のあることを考えて見る必要がある。一階二階は余り
「それで、何か手掛りがあったのかい」
「いや、何もない。分ったことは、あの社長室の
「君も物好きだな。それ丈けのことで、どうしてあんなに長くかかっていたのだ」
「エレベーター・ボーイだとか、
「何か
「まあ、あった様な、なかった様な。これからの僕の腕次第だな」
「じゃ君は、もっとあの事件に深入りして見る気なんだね」
「出来ればね。併し案外つまらない事件かも知れない」
「面白い。危険のない程度でやって見給え。僕も応援するよ、こっちは商売だからね」
「あの最初エレベーターで出会った男ね。あれは確かに嫌疑者の一人だよ。ひょっとしたら解雇された職工かも知れない。誰も知らないのだ。
「なる程、そう云えばあいつは確かに怪しい。大あわてで逃げ出して行ったからね」
それから二人は、何度もコーヒーのお代りを命じて、長い間話し合った。それからそれへと犯罪談は尽きなかった。冬の夜はいつしか更けて、彼等がカフェを出たのは、もう九時を過ぎていた。
これは大正十五年『新青年』に連載した合作小説の発端です。このあとを順に平林 、森下 、甲賀 、國枝 、小酒井 の諸氏が書きつがれて完結した訳です。
千変万化の曲折があって、様々の人物に嫌疑がかかります。瀬川タイピストや北川庶務係は勿論、瀬川に恋していた野田もきわどい一役を演じています。エレベーターから飛出して行った男は瀬川タイピストの実の兄で、兼ねて労働争議の張本人であり、無論最後まで残った濃厚な嫌疑者です。
ところが小酒井氏担当の完結篇は実に意外な結末を見せました。犯人はなかったのです。殺人罪は犯されなかったのです。西村社長は当時事業上非常な苦境にあり、五万円の贋造紙幣 を買入れたりした程で(折鞄の中の二千円もその贋造紙幣でした)煩悶 に煩悶を重ねていた所へ、争議が起り、黒マントの人物が侵入して来たりして、心痛の極 一時的狂気の発作 を起し、窓から飛降りる様なことになったのです。飛降りたのは五階ではなく、黒マントの男と会見した三階の空部屋の窓でしたから、それ丈けでは命を失う程のこともなかったでしょうが、西村は動脉瘤 の患者であって、衝戟 の為にその患部が破裂し、大動脉出血が死因となったのでした。
千変万化の曲折があって、様々の人物に嫌疑がかかります。瀬川タイピストや北川庶務係は勿論、瀬川に恋していた野田もきわどい一役を演じています。エレベーターから飛出して行った男は瀬川タイピストの実の兄で、兼ねて労働争議の張本人であり、無論最後まで残った濃厚な嫌疑者です。
ところが小酒井氏担当の完結篇は実に意外な結末を見せました。犯人はなかったのです。殺人罪は犯されなかったのです。西村社長は当時事業上非常な苦境にあり、五万円の