一台の金ピカ葬儀自動車が、どこへという当てもないらしく、東京市中を、グルグルと走り廻っていた。
車内には、よく見ると、
葬式に
陽気のせいで運転手が気でも違ったのか。それとも、ガレージの所在を忘れでもしたのか。実に異様な葬儀車だが、誰一人そのあとをつけ廻している訳ではないから、別に怪しまれることもなく、いつまでもグルグル、グルグル走り廻っているのだ。
やがて、町々の街燈の光が、段々その明るさを増し、空に星が
車が止って、ヘッドライトが消されると、それが合図であったのか、
「うまく行ったか」
非常に低い
「うまく行きました。だが、葬式の四時から今まで、人に怪しまれぬ様に、グルグル走り廻っているのは、
葬儀車の運転手は、運転台を降りながら、まるで泥棒の
「ウフフフフフ、ご苦労ご苦労。で、仏様は確かにのっかっているんだろうね」
「それや大丈夫。
話の様子では、どうやら彼は、葬儀場から、誰かの死骸を盗み出して来たものらしい。本物の葬儀車には空の棺を、こちらへは死骸の入った棺を、何かのトリックでうまくスリ替て、誰にも怪しまれず、ここまで運んで来たのであろう。
「話はあとにして、棺を
「オット
そこで二人の怪人物は、重い寝棺を釣って、門内へ
東京にも、こんな古い建物があるかと思う程、時代のついた荒れ果てた
二人は真暗な玄関を上ると、ジメジメとした
書院窓のついた、十畳の座敷だ。その部屋
電燈の光で、二人の人物の
もう一人は、
「
ロイド眼鏡が部下を
「ナアニ、訳もないこってさあ」ゴリラは小鼻をヒクヒクさせながら、舌なめずりをして、「
「ウフフフフ、うまい、うまい。君達にはたんまりお礼をしなくっちゃなるまいね。······ところで、もうここはいいから、帰って
「飲み込んでますよ。どんな立派な花婿姿になって来るか見てて下さい。あっしゃこんな
「よし給え。今見ちゃ興ざめだ。すっかり御化粧の出来上るまで
「じゃあまあ、我慢して置きますかね。待遠しいことだ。精々あでやかにお頼み申しますぜ」
「ウフフフフ、いいとも。心得た」
そこで、ゴリラは別れをつげて、外に出ると、真黒なお宮の様に見える葬儀車を、ヘッドライトを消したまま、いずこともなく運転して行った。
一人になると、ロイド眼鏡の男は、棺の
「フン、美人という奴は、死骸になっても、何となく色っぽいものだな。あんまりやつれてもいない。これならうまく行き
電燈の光が、
アアなんという美しい死骸であろう。年はまだ
「サア、お嬢さん、これからわたしがお化粧をして上げますよ。明日は嬉しいご婚礼ですからね」
ロイド眼鏡は死骸に話しかけながら、部屋の隅の大トランクの中から、化粧道具を持出して来た。
横に寝かせたまま、
だが、それ
第一目が死んでいる。閉じた目を指で開いて、
そこで彼は絵筆を取って、適度の
次は口だ。口紅ばかりいくら赤くしても、
死骸がにこやかに笑い出したのだ。
「アア、あでやかあでやか、これで
彼は娘の死体を抱き起して、大トランクに
顔を作り、髪を上げると、今度はトランクに用意して置いた婚礼衣裳の着附けである。扱い
それから、やっぱり用意してあった
すっかり準備が整う頃には、白々と夜が明け放れた。
それから数時間の後、午前十時という約束かっきりに、例のゴリラが
「どうですい、この花婿姿は」
彼は座敷に通ると、先ず我が姿を見せびらかした。
「すてきだ。
「もう来る時分です。やっぱり十時と云って置きましたから。······」
と云いさして、紋附袴のゴリラはギョッとした様に言葉を
「オイオイ、何をそんなにびっくりしているんだね」
「アレ」ゴリラはどもりながら、「アレが例の仏様ですかい。アレが」
彼が驚くのも無理ではない。床の間を背にして、シャンと坐っている花嫁御は、どう見ても死人とは思われぬ。唇をキュッとゆがめてニッコリ笑っている顔の愛らしさ。今にも両手をついて、目の
「よく出来ただろう」
「全くどうも、驚きましたね。これが死骸ですかい。あっしゃ、こんな美しい死骸なら、本当に女房にしたい位のもんですよ」
「だから婚礼をするんじゃないか」
「だって、並んで写真を写す丈けじゃ物足りないね。何とかならないもんですかね」
「ハハハハ、何とかといって、死骸を何とする訳にも行くまいじゃないか」
そうしている所へ、玄関に人の声がした。写真屋が来たのだ。
「サア、そこへ並んで坐るんだ。気取られてはいけないぜ。グッとすまして、口は
ロイド眼鏡は、云い残して、アタフタと玄関へ出て行った。
やがて、助手をつれた写真屋が、座敷へ通された。
「もうちゃんと用意が出来ているんです。これからすぐ式場へ出かけることになっているんで、急いでやって下さい」
ロイド眼鏡が、セカセカと
写真屋は、
「二三日中にこの家は引越しをすることになっていますから、写真は出来た時分に、こちらから取りに行きます。約束の日限をおくれない様にして下さい」
ロイド眼鏡は写真師を玄関に送り出して、念を押して置いて、元の座敷に帰って見ると、びっくりした。
ゴリラが死骸花嫁の手を握って、手の平に
「オイ冗談じゃない。つまらない真似はよせ」
声をかけると、ゴリラ
「エヘヘヘヘヘ、つい、あんまり美しいもんだから」
と
「サア、これでいい。花婿さま御用ずみだ。着物を
「だが、あっしゃ、どうも
「それは
「それから、この娘さんの死骸は? まさかここへうっちゃらかしても置かれますまい」
「それも俺に考えがある。まあ見ててごらん。世間の奴等が、どんな顔して驚くか。君は俺の日頃の腕前をよく知っているじゃないか」
「ウフフフフフ、何だかあっしにも、薄々分らないでもないがね。定めし例によって、物凄いところを演じる訳でしょうね。だから、かしらの
ゴリラは舌なめずりをして、さも嬉しげに、不気味なふくみ笑いをした。
お話変って、死美人の婚礼が行われたその同じ日の夜、麹町区内のとある大通りを、一台の大型自動車が、大小四個のヘッドライトもいかめしく、すれ違うボロタクシーを尻目にかけて、豊かに走っていた。
運転手も助手も、汗のにじまぬ背広を着て、髪も
車内に納まっている中老紳士は、千万長者と聞えた、
でっぷり
彼は物思いに
悲しみとは外ではない。布引庄兵衛氏は、つい数日
もうちゃんと、
照子は、
「お父さまも、お母さまも、どうぞ許して下さい」
と
鳥井は、ポロポロと涙をこぼして、照子のもう冷たくなり始めた額に、清い接吻を与えた。
庄兵衛氏は、その光景が、今でも
「アア、可哀相に、どんなにか死にともなかったであろう。
彼は
そんな風に、なき愛嬢のことばかり考えていた時、突然車が急カーヴして、身体がグッと横倒しになったので、大銀行家は、ふと現実に立帰った。
見ると、目の前によその自動車が、大きく立ちふさがっていた。
「どうも、すみません」
向うの自動車の運転手が、窓から顔を出して、
こちらの運転手は、上等自動車の手前、
先方の自動車も動き出す。衝突しかけた程だから、出発する双方の車は、
庄兵衛氏は、当然、先方の車の窓を見た。目の先五寸とは隔たぬ
こちらの窓も
庄兵衛氏の頭の中で、ギラギラ光る花火の様なものが、クルクルと廻転した。余りのことに声も出なければ、息さえ止ったかと思われた。
と、聞き覚えのある、懐しい声が、「アラ、お父さま! お父さま! 助けて······」と
まがう
「アッ、照子、オイ、車を止めるんだ。あの車をおっかけるんだ」
庄兵衛氏は、車の中で地だんだを踏みながら、怒鳴った。
だが、こちらの運転手には、事の
「何でもいいから、今の車をおっかけるんだ。早く早く、何をぐずぐずしているか」
庄兵衛氏の気違いめいた命令に、運転手はやっと車の方向を転じて、走り出した。
夜の大道を、四五丁も走る内に、どの横丁へそれたのか、
仕方がないので、庄兵衛氏は、捜索をあきらめ、再び自邸に向って車を走らせたが、考えて見ると、何とやら
照子は数日
だが、さっきの娘は、確かに照子の顔を持っていた。あんなによく似た他人があろうとは思われぬ。のみならず、「お父さま」と呼びかけさえした。よその娘が、そんなことを云う訳はない。実に不思議だ。
気の迷いかしら。何か奇妙な偶然が、わしにあんな幻視と幻聴を起させたのかしら。それとも、なき娘の幽魂が、
庄兵衛氏は、通り魔の様に、彼の目をかすめて消え去った娘の姿を、何と解釈してよいのか、途方にくれてしまった。
余り馬鹿馬鹿しい様なことなので、自宅に帰っても、夫人の
「お父さま、助けて······」と叫んだ娘の声が耳について、ひどく気掛りではあったが、まさか、こんな夢みたいな話を警察に持込んで、捜索を願う訳にも行かぬので、庄兵衛氏はきっと幻覚であったに違いないと、
だが、不思議はそれで終らなかった。四五日たったある朝のこと、照子の
丁度その時庄兵衛氏は習慣の朝湯に入っていたが、急用と聞いて、いそいで湯殿を出て、応接間へ出て来た。
「実に不思議なことが起ったのです。僕は何だか気が変になった様で、じっとしていられなかったものですから、早朝からお騒がせしてしまった訳です」
鳥井は、頭取の顔を見ると、いきなり妙なことを云い出した。日頃沈着な青年にも似合わぬことだ。
「どうしたのだ、まあかけ給え」
庄兵衛氏は、自分も
「失礼なことを伺いますが、照子さんは、生前誰かと結婚なすったことがありましょうか」
鳥井は青ざめた顔に
庄兵衛氏は、びっくりして相手の顔を眺めた。この男は可哀相に、照子を失った悲しさに、気でもふれたのかと疑わないではいられなかった。
「馬鹿なことを云い給え、君がよく知っている通り、照子は少しも汚れのない処女であった。あとにも先にも君がたった一人の許嫁なのだ、なぜそんなことを聞くんだね」
「これをごらん下さい。知らぬ人から、今朝これを郵送して来たのです」
鳥井はセカセカと
「こいつは、一体どこの
彼は目の色を変えて、
布引氏は、その写真を受取って、一目見ると、流石にハッと顔色を変えないではいられなかった。
そこには、高島田に、振袖
大銀行家は、それを見つめたまま、
「これは一体誰が送って来たのだね」
と尋ねた。
「誰だか分りません。差出人の名がないのです」
「フム、わしにもさっぱり訳が分らん、こんな男は見たこともない。又、わしの娘が、いくら
布引氏は怒気を含んで云い放った。
「
「ハハハ······。写真屋を呼ぶまでもない。わしが断言する。娘は決してこんな男と婚礼なんかした事はない」
「でも、念のためです。
云われて見れば、如何にもその通りだ。
そこで台紙に
間もなく、読者には
「この写真を撮った覚えがあるか」と差出された例の写真を一目見ると、彼は
「記憶しております。つい四五日前に出張撮影したものでございます。非常なお急ぎでございまして、殆ど修整抜きで焼きつけました様な次第で、エエと、お名前はたしか、
写真師は愛想よく、ペラペラと喋った。
「何だって? 四五日前だって? そんな馬鹿な、どうして写真なぞとれるものか。だが、一体どこで写したのだね」
「牛込区S
「エ、日曜日だって?」
布引氏と鳥井青年が、
「それは君、本当かね」
「ハア決して間違いはございません。午後になって小雨がふり出しました、あの日でございます」
確かに最近午後に小雨が降った日と云えば、日曜の
「君、冗談を云っているのじゃあるまいね。この写真の女はわしの娘なのだ。急病でなくなって、今日が八日目だ。分ったかね。ここに写っている花嫁は、先週の木曜日になくなって、土曜日に火葬にしたのだ。その死人が、火葬になった翌日の日曜日に、こんな盛装をして、お嫁入りをするということが、あり得るだろうか」
「エ、エ、何でございますって?」
今度は写真師の方がたまげてしまった。
あり得ないことだ。死人が自動車の窓から顔を出して父を呼んだ。死人が結婚式を上げた。今の世に怪談を信ずべきであろうか。怪談でなくて、この様な奇怪事が起り得るであろうか。
写真師が帰ってからも、布引氏夫婦と鳥井青年とは、額を集めて、この不可解事について色々と話し合ったが、結局気味を悪がる
「若しや照子は本当にまだ生きていて、どこかに監禁されているのではございますまいか。私、どうやらそんな風に思われて仕方がありませんわ。ねえ、あなた、何とかそれを
夫人はなき愛嬢の幻を追う様な目をして、夫の智恵に
「だが、それは理論上考えられないことだよ。第一お前、現にうちの仏壇に納めてある骨壺の中のものをどう解釈したらいいのだ。あれは照子の
云われて見れば、それに違いなかった。火葬をして骨上げまで済ませた死人が、生きている道理がない。
このことを警察に届けて置こうかという話も出たけれど、そんなことをすれば一層騒ぎを大きくして、
「どこかに大きな間違いがあるのだ。僕等の頭が揃いも揃って、少し変になっているのかも知れない。
布引氏が、あらぬ噂を立てられ、世間に恥をさらすことを恐れたのは無理もない所である。
で、鳥井青年は会社へ出勤するし、布引氏は同じく社用の為に外出するという訳で、その日は結局うやむやの内に暮れてしまったのだが、さて、その
先ず布引氏の方からと云うと、その同じ日の深夜、十二時に近い頃、彼は寝入ばなを女中の声に起された。
「アノ、お電話でございます。
「うるさいね。明日にして下さいって云え。一体どこからだ」
布引氏は寝ぼけ声で女中を
「アノ、アノ······」
女中はなぜか云いよどんで、モジモジしている。見ると、異様に青ざめて、声さえ震わせて、何かにおびえている様子だ。
「どうしたんだ。電話は誰からだ」
「アノ、照子だとおっしゃいました。確かにおなくなりなすったお嬢さまのお声でございます」
女中はやっとそれを云って、ひどく叱られはしないかと、オズオズ主人を眺めた。
「照子だ? オイ、何をつまらんことを云っているのだ。死人から電話が掛ってくる筈がないじゃないか」
「でも、是非お父さまにとおっしゃいまして、何度
女中は泣き声になっていた。
聞くに従って、布引氏も怪しい気持に引入れられて、若しかしたら本当に照子かも知れないと感じ始めた。
そこで、
「わたし、布引だが、あなたはどなた?」
「アア、お父さま! あたし照子です。お分りになりまして? 照子は生きていますのよ」
「オイ、照子! お前、本当に照子なのか。どこにいるのだ。一体どうしたというのだ」
流石の老実業家も、この驚くべき電話を受けて、しどろもどろにならないではいられなかった。
「お父さま! あたし何も云えないのです。アノ、
「よし、分った。安心おし、きっと救い出して上げる。で、その命じられたことを云ってごらん」
布引氏は、電話が切れてから、交換局に先方の住所を調べさせることを考えて、
「お父さま! すみません。あたしお父さまにこんなひどいことをお願いしなければならないなんて。······アノ、ここにいる人が、お父さまにあたしを買い戻す様にお頼みしろと云いますの」
「分った、早く云ってごらん。一体どれ程の
「五万円······それも現金で、お父さまご自身で持って来て下さらなければいけないと申しますの」
「よしよし、心配することはない。お父さまはその身代金を払って上げる。で、どこへ持って行けばよいのだね」
「それはアノ、お父さま今日写真屋さんをお呼びになったでしょう。その時牛込S町の空屋のことお聞きになりませんでした?」
「ウン、聞いた。お前今そこにいるのかい」
「イイエ、今は違います。でも、明日の朝、十時にはそこへつれて行かれるのです。そしてお父さまのお金と引換えに帰してやると申しているのです。分りまして? あのS町の空屋へ朝十時に······ね、分りまして?」
「分った、分った。安心して待ってお
「そして、アノ、このことを警察へ云ったりなんかすると、あたし殺されてしまいますのよ。アノ、今なんにも云えませんけど、相手の人は多勢いて、それは想像もつかない程恐ろしい団体なのですから、用心して下さいましね。······アラ、何も云やしませんわ。エエ、切ります、切ります。||ではお父さま、本当に······」
そこで、側にいた奴が、無理に受話器をかけたと見えて、バッタリ声が
布引氏が
布引氏は賊の
さて、お話は鳥井純一青年に移る。
布引氏が奇怪なる電話に、亡き人の声を聞いたのと、殆ど同じ時刻に、鳥井青年は、目に見えぬ糸で引かれでもする様に、牛込区S町のかの怪しき空屋へと、近づいていた。
彼はその夜、「恋人は果して死んだのか、生きているのか」という、悪夢の様な疑惑にとざされて、暗闇の町から町へとさまよい歩いていたが、いつの間にか殆ど無意識の内に、S町の怪屋の門前に出てしまった。
まさか今まで、あの盛装の花嫁御がこの家にいる筈はないと思いながらも、朽ちかかった古めかしい建物が、何とはなく彼をひきつけた。
彼はフラフラと、真暗な門内へ這入って行った。門の
一歩庭に踏み込むと、闇の中に物の朽ちた
行手には伸びるがままに、
彼は、その殆ど触覚ばかりの闇の中で、「アア俺は今恐ろしい夢を見ているんだな」と思った。それ程、空屋の中は暗くて、静かで、現実ばなれがしていた。
ガサガサと木の枝を分けて、庭を折れ曲って行くと、向うの方に映画のスクリーンの様な長方形の白いものが見えた。それは縁側の雨戸が一枚あいていて、その中に
スクリーンに見えた理由はもう一つあった。その雨戸一枚分の長方形の中には、ボンヤリと人の姿があったのだ。
蝋燭が、
「アッ、照子さん!」
鳥井青年は、思わず叫び相になって、やっと喰いとめた。
やっぱりそうだ。照子さんは生きていたのだ。そして、僕が救い出しに来るのを待っていたのだ。照子さんの不思議な心の糸が、僕をここへ引きつけたのだ。
鳥井青年は、
「マア、鳥井さん! よく来て下すったわね」
突然、蝋燭の赤茶けた円光の中の照子が、身動きもせず、表情も変えないで云った。
その様子が、本当に悪夢の中の様な気違いめいた感じであったけれど、青年はそんなことを
「アア、よかった。照子さん、僕お迎えに来たんですよ。あなた一人切りで、こんな淋しいとこにいたんですか。誰かに監禁されたのでしょう。そいつはどこへ行ったのです。奥の方の暗闇の中に見張っているのですか」
近よって、縁側に手をついて、
「イイエ、誰もいないんです。あたし一人っ切りよ。あたし待ってたわ」
照子は蝋燭の後光の中から、淋しげな冷い顔で、ニッコリともせず答えた。何となくこの世のものではない、もっと別の世界の
「待ってたわ」という言葉が、力強く、何か妙な意味を含んで発音せられた。それが変てこな、耳慣れぬアクセントだったので、「オヤッ、これは本当に照子さんなのかしら」とギョッとした程であった。
「サア、帰りましょう。早くそこから降りていらっしゃい。僕お宅まで送ってあげますから」
青年がせき立てても、照子は身動きさえしなかった。
「イイエ、あたし今は帰れませんのよ。それよりも、あなたここへお上り遊ばせな。そして、この静かな部屋で、二人っ切りで、ゆっくりお話ししましょうよ」
どうも変だ。照子さんは悪者の為にひどい目にあって、気が違ってしまったのではあるまいか。鳥井はふとそんなことを考えると、ションボリと淋し相にしている恋人がいじらしくて、涙がこぼれ相になった。
彼は動こうともせぬ照子を抱き起す
照子は写真で見た通りの高島田に結って、それが少しくずれて、ほつれ毛が額に垂れていた。気がつくと、着ているのは派手な赤い模様の
鳥井青年が、少しためらったあとで、照子の
「アアいけない。火を消してしまった。僕マッチ持ってますから、今つけます」
慌ててマッチを探ろうとする手を、
「イイエ、いいのよ。蝋燭なんかない方がいいわ。ね、鳥井さん、分らなくって。その蝋燭はあたしが吹き消したのよ」
その声と一緒に、柔いフカフカしたものが、蛇の様に青年の身体にまきついて、身動きも出来なくなってしまった。相手の熱い
青年は、あぶら汗にまみれながら、ズルズルと悪夢の中に引ずり込まれて行った。何となく気違いめいて不気味に耐えなかったが、無論抵抗する気持はないのだ。
「ホホホホ、鳥井さん。分って? この意味が」
やっとしてから、闇の中に、ほがらかな笑い声が響いた。
「ア、その声は? あなたは誰です。照子さんではないのですか」
グッタリと倒れていた鳥井青年が、
「イイエ、照子よ。あなたの
闇の中の声が又笑った。やっぱり照子の声だ。
「あたしね、いっそ、あなたを殺してしまい度いと思うわ」
その声と同時に、柔い蛇がスルスルと青年の首に巻きついて来た。
「およしなさい。サア、もう帰りましょう。お父さんやお母さんが、死ぬ程心配していらっしゃるのです」
と云いかけたその最後の言葉は完全に発音出来なかった。まきついた蛇が、段々力を加えて、息を止めてしまったからだ。
「ウ、ウ、いけない。何を何をするんです。気が違ったのか······」
青年はか弱い女の腕を払い兼ねて、七転八倒した。
「ホホホホホホ、どうもしないの。あなたを
又まるで違う声になった。
青年は、充血してガンガン鳴っている耳で、それを聞いた。そして、たちまちあることを悟ると、突然網の上の
「知っている······知っている······き、貴様だ。······悪魔······悪魔」
もがきながら、断末魔の悲鳴が青年の口をほとばしった。彼は闇の中の女が、照子ではなくて、ある驚くべき婦人であったことを、今わの
その翌朝、約束の十時になると、布引庄兵衛氏は五万円の身代金を用意して、ソッとS町の空家へ忍んで来た。
門をくぐり、玄関の
布引氏は、服装こそ
「わしは布引だが、電話で約束したものを持って来ました。直様娘を引渡してくれ給え」
布引氏はなぐりつけてやり度い程の不快を押し殺して、おとなしく云った。
「ヤ、布引さんですか。お待ち申して居りました。マア、どうかお上りなすって」
ゴリラは案外人間らしい口を利いた。
「イヤ、上ることはありません。すぐにここへ娘をつれて来て下さい。金はこの通り持っているんです」
「でも、お嬢さんは今着替えをしていらっしゃいますから、ちょっとお上りなすって」
「そうですか。じゃ娘のいる部屋へ案内して下さい」
布引氏は相手が紳士の様な口を利くのに油断をして、つい玄関を上った。
「馬鹿に薄暗いじゃないか。雨戸がしめてあるのですか」
「ヘヘヘヘヘヘヘ、空屋だものですからね」
怪物は薄気味悪く笑った。
「君が今度のことを企らんだ本人かね。あの写真を見たが、君はまさか本当にわしの娘と結婚した訳ではないだろうね」
「ヘヘヘヘヘヘ、どういたしまして。お嬢さんは大切な売物ですからね。買手のあなたを怒らせる様なことは致しませんですよ。あの写真は、ナニホンの、私共のやっている仕事が嘘でない証拠までに撮ったのですよ」
ゴリラは柄にもなく
「で、娘はどこにいるのだね」
「ここでございます。この
ゴリラは襖に手をかけて開こうとした。
「見た所君一人の様だが、大丈夫かね。わしが娘を受取って、金を渡さずに帰るという様な場合を考えて見ないのかね」
布引氏はふと相手をからかって見たくなって云った。
「ヘヘヘヘヘヘヘ、そこに抜かりがあるものですか。私一人の様に見えて決して一人じゃありませんからね。その襖の中には、お嬢さんの外に、よく御存知の男もいるのですよ。ヘヘヘヘヘ、それにあなたが警察には内密で、紳士らしくたった一人で、ここへ御出でになったことも、ちゃんと偵察してあるのですよ」
「フフン、流石に悪党だね。だがわしの方にも、いささか用意があるぜ。若しわしをペテンにかけて娘を渡さない様なことがあれば、ホラ、これを見給え。わしは射撃にかけては、これで仲々名人だからね」
布引氏は用意のピストルを出して見せた。
「イヤ、どうしまして。ペテンにかけるなんて
云いながら、ゴリラはスーッと襖を開いた。
だが、襖の奥は
「オヤ、真暗じゃないか」
布引氏は襖の間から顔をさし出して、暗闇の室内に瞳を定めた。
と、襖の蔭からニュッとばかり、何か白いものが飛び出して来て、鼻と口をふさいだ。
ハッとして身を引こうとすると、いつの間にか、うしろからゴリラ
「ム、ム······」
とうめきながら首を振っている内に、目の痛い様な強烈な匂が、全身にしみ渡って行った。そして、布引氏は
どの位の時間がたったのか、ふと夢から醒める様に目を開くと、布引氏は真暗な部屋に、転がされていた。
さては賊に一杯食わされたかと、ふところを探って見ると、
「アア俺の思い違いだった。泥棒を紳士扱いして、度量を見せたのが、飛んでもない失策だった」
布引氏は大人げない失敗に苦笑しながら立上った。
彼は手さぐりで、縁側に出て雨戸を開けた。兎も角、こう暗くては、自分の身のまわりを見ることも出来なかったからである。
一枚二枚雨戸をくると、曇り日ではあったが、まぶしい程の明るさが、室内にさし込んだ。
布引氏は、振り向いて座敷を眺めた。
と、彼はギクンとして、そこへ棒立ちになってしまった。
彼は、まだ麻睡の夢が醒め切らぬのではないかと疑った。
何がかくも布引氏を驚き恐れしめたのか。読者はとっくに御存知だ。そこには世にも奇怪なる男女の情死体が重なり合って倒れていたのである。
下になっているのは、照子さんの長襦袢一枚の姿だ。その上にのしかかって絶命しているのは、昨朝別れたままの鳥井青年だ。
布引氏は、あっけにとられて、不思議な情死者をマジマジと眺めていた。
賊は
少し近よって見ると、鳥井青年の首に青あざがあって、絞殺されていることが分った。と同時に、布引氏は照子さんの皮膚を見た。そして、我子ながら、ゾーッとして、思わず顔をそむけないではいられなかった。
照子は顔から胸から壁の様に白粉を塗られて、
最も無残なのはその胸であった。無数の掻き
何と恐ろしい情死であろう。男はつい今しがたこときれたばかりなのに、女の肉は腐りただれて、明かに死後数日を経過したことを語っている。
布引氏が、この
だが、二つだけ明確に分っていたことがある。その第一は、婚礼写真に顔を
第二の手掛りというのは、これは読者にまだ分っていない事柄だが、この事件を
賊は犯罪現場に名刺を残して行ったのだ。だが、ありふれた紙の名刺ではない。
その時、係官達は照子さんの死体を
死後数日を経た
厚化粧の顔丈けが、人形の様に美しくて、その首のすぐ下に、灰色の腐肉が続いているのは、何とも云えぬ変てこな感じだった。
死体をソッとうつむけて、警察医と巡査と二人がかりで、艶かしい長襦袢をはいで行った。赤い
「ワッ、ひどい傷だ」
誰かが、思わず叫んだ。
灰色の背中一面、
「オヤ、何だか、この傷痕は、字の
一人の刑事が叫んだ。
何の為に?
俄かに断定を下すことは出来ぬけれど、文字の意味から想像して、これは恐らく賊の自己紹介ではなかろうか。誰しもそこへ気がついた。そして、その推察は適中していたのだ。
それにしても、何というむごたらしい賊の思いつきであったろう。彼は美しい娘さんの身体をズタズタに斬りきざんで、奇怪千万な人肉名刺を印刷して行ったのだ。
新聞紙の殆ど一
賊はなぜそんな残酷な人殺しをしなければならなかったのか。仮装情死の目的は一体何であったか。死美人の背中に傷つけられた「恐怖王」とは
人々は声を低めて、これらの恐ろしき疑問を囁き
賊は大胆不敵にも人肉名刺によって名乗りを上げている。その上、同類ゴリラ男の写真まで、これ見よがしに見せびらかしている。しかも不思議なことに、警察のあらゆる努力にも
ところが、賊の方では、何たる
この賊、若し狂人でなかったなら、百年に一度、千万人に一人の、凶悪無残比類なき大悪党と云わねばならぬ。
お話変って、被害者鳥井青年の友達に、大江蘭堂という奇妙な号を持つ探偵小説家があった。蘭堂なんて老人臭い号に似ず、まだ三十歳の青年作家で、その奇怪なる作風と、小説ばかりではなく実際の犯罪事件にもちょいちょい手出しをする物好きとで、その方面では
その様な蘭堂であったから、鳥井青年変死の
彼はまだ独身のアパート住いであったが、恋を知らぬ
その花園京子が、今日も蘭堂のアパートを訪ねて来た。だが、いつもの彼女とは
「変だね、君どうかしたんじゃない? いやにふさいでいますね」
蘭堂はすぐ
「エエ、少し。何だか訳の分らない妙なことがあったのよ」
京子は洋装の胸から小さな紙包みを取出して、テーブルの上に置いた。
「妙なことって?」
「今朝早く、お友達をお見送りして、東京駅の待合室にいる時、変な男が、突然あたしに話しかけたのよ」
「それで?」
「この紙包みを、ソッとあたしに渡すんじゃありませんか。そして、『お約束の薬です。これを召上れば、あなたの声はもっともっとよくなります』って云ったかと思うと、サッサとどこかへ行ってしまったのです」
「君は、そんな約束なんかしなかったの?」
「エエ、ちっとも覚えがないの」
「で、その男というのは?」
「無論知らない人よ。こう髪を長く、おかっぱみたいにして、黒い服を着た、昔の美術家みたいな
読者諸君は、この京子の言葉によって、誰かを思出しはしませんか。ホラ、ゴリラ男から布引照子の死骸を受取って、気味の悪い化粧をした男。あれがやっぱり、美術家風の黒い服を着た奴でしたね。
だが、大江蘭堂はそれと知る
「で、この中には、本当に薬が入っていたの?」
「エエ、でも、何だか薄黒い米粒みたいな気味の悪いものよ」
「無論、
「エエ、毒薬だったら大変だわ」
なる程、紙包を開いて見ると、薄黒い米粒が五つ、大切相に包んであった。一体薄黒い米粒なんてあるのかしら。それとも、米粒の形をした丸薬なのかしら。
だが、蘭堂は暫くその微粒子を指先でコロコロやっている内に、何を発見したのか、
「京子さん、これはやっぱりあたり前の米粒だよ。だが、なぜこんなに薄黒いのだろう。君はこれをよくも
「エエ、気味が悪くて······」
「この薄黒いのはね、字が書いてあるんだよ。米粒の表面に、虫眼鏡でも読めない程小さな字が、一杯書いてあるんだよ」
「マア、本当?」
「見てごらん。ホラ、ね、同じ三字の組合せが、何十となく、ビッシリと並んでいるだろう」
京子が覗いて見ると、虫眼鏡の下に、丸太ん棒の様な巨大な指が二本、その間にはさまれて、
恐怖王恐怖王恐怖王恐怖王·········
とビッシリ黒い字が並んでいた。
「オヤ、恐怖王っていうと······」
京子はギョッとした様に探偵小説家の顔を見た。
「僕の友達の鳥井君に、恐ろしい情死をさせた奴です。あいつ、又こんないたずらをしたんだな。この間は布引照子さんの死骸に『恐怖王』と刻みつけて見せたかと思うと、今度はこれだ。奴め、ひょっとしたら、僕がこの事件に興味を持っているのを感づいたんじゃないかしら」
「マア、怖い! あたしどうしたらいいでしょう。あいつに見込まれたのじゃないでしょうか。そして、若しやあなたと······」
京子はもう
「ハハハハハハハ、僕と君とが、又情死をさせられるとでもいうの? いくら、悪魔だって、そうそう器用な真似が出来るものじゃない。安心し給え、僕がついていますよ」
だが、伯爵令嬢はすっかりおびえ上ってしまって、帰宅する道が怖いからと、蘭堂に頼んで、邸まで送って貰った程であった。
その翌日、大江蘭堂は
早速行って見ると、どうしたというのだ。風を引いて寝ている筈の友人は、朝から東京へ出掛けて留守だというし、書生に聞いて見ても、電話なんかかけた
「オヤ、こいつは変だぞ。するとやっぱり、昨日の米粒は、賊の挑戦状だったのかな。俺の留守中に、京子さんがどうかされているのじゃないかしら」
と思うと気が気でなく、直ぐ東京へ引返そうと、友人の玄関を出た途端、ふと妙なものが彼の目にとまった。
それは新聞の号外みたいな一枚の
「オヤッ」と思って、それを追ったが、小さなつむじ風が、どこまでも紙片を運んで行くので、ついそれに引かされて、海岸へのダラダラ坂を降り切ってしまった。
やっと紙片をつかまえて、読んでみると、例の怪賊についての号外かと思ったのが、そうではなくて、やっぱり、賊の不気味ないたずらであったことが分った。紙片には、例の米粒と同じ様に、「恐怖王」という初号活字が、まるで活字屋の見本の様に、べた一面に並んでいた。
「賊の広告ビラだな。併し、何という気違いだろう。こうして到る所に自分の名前を広告するなんて。馬鹿か、でなければ、恐ろしく自信に満ちた奴だぞ」
そんなことを考えながら、ヒョイと目を上げて海岸を眺めると、これはどうしたというのだ。水泳の時期をとっくに過ぎた海岸に、真夏の様な
その人達は無論水着を着ている訳ではなく、漁師の
「アア、飛行機だな」
と気づいて、人々の視線をたどって、空を見上げると、珍らしくもない飛行機が、この黒山の見物人を引きつけている訳が分った。
畳の様におだやかな大海原の上、晴れ渡った
逆転、横転、
「海軍飛行機ですか」
群集に近よって尋ねて見ると、
「サア、どこのですかね、全く不意打ちなんですよ。新聞には何も出ていなかったですからね」
という答えだ。
「オヤッ、ごらんなさい。何とすばらしいじゃありませんか。あの飛行機は空に字を描いているんですよ。アレ、アレ」
誰かが突然叫び出した。
成程、よく見ると、大空に一町四方もある巨大なローマ字が、ツー、ツー、クル、クルと、先ず描き出したのは、Kの字。
続いて、クルリ、ツーッと逆転して、モクモクと現われたのはy、それからo、f、u、o······
最後のoを描き終った頃には、初めのKはボヤッと拡がって、形がくずれかけていたけれど、それ丈けに、思わず腋の下から油汗がにじみ出す様な、悪夢の物凄さを
「恐怖王、恐怖王」
の囁きが群集の間に湧き起ったかと思うと、まるで狂気の津波の様に、たちまち拡がり高まって、海岸全体の不気味な合唱となった。
「恐怖王だ、恐怖王だ、あいつがあの飛行機に乗っているのだ」
だが千メートルもあろうという、高空の悪魔をどうすることが出来よう。
アレヨ、アレヨと騒ぎ立つ海岸の群集を尻目に、悪魔の飛行機は、
飛行機は飛び去っても、彼の残した煙幕文字は、ボヤン、ボヤンと無限に大きく拡がりながら、いつまでも怪しい
大江蘭堂は、余りにも大がかりな悪魔のプロパガンダに
「妙だ、あいつはなぜ、俺を見つめているんだろう」
ムラムラと疑念が湧き上った。
こちらもじっと
蘭堂はあきらめ切れないで、つい乞食のあとを追って歩き出した。
広い砂浜を、右に左に、時には逆戻りさえしながら、乞食はいつまでも歩いて行く。その歩きぶりは、全くあてのない散歩でもしている様に見えるが、こうして蘭堂を退屈させて、尾行を
グルグル廻りながら、やがて砂浜を三十分も歩いたであろうか、ふと気がつくと、高い石垣の上で、五六人の子供が騒いでいた。彼等は乞食と蘭堂を指さして、しきりと何か
「あれ字だよ。
「読めらい、あれ、英語のKって字だい」
この異様な会話が、蘭堂の小耳を打った。子供
彼はふとある事を感づいて、急な坂道を、高い石垣の上へ駈け
「オイ君達何を云っているの? どこに字があるの?」
子供等に尋ねると、
「ワーイ、伯父さん自分でかいた癖に知らないのかい。ホラごらん、あれだよ、あれだよ」
指さす砂浜を見渡すと、人通りのない広い地面に、乞食の足跡と、蘭堂自身の靴の跡と重なり合って、目も
さし渡し
Kyofuo ······やっぱり「恐怖王」の六文字だ。
ハテナ、さっきの空の煙幕が、地面に影を投げているのではあるまいかと、妙な気持になって、空を眺めたが、煙幕は已に溶け去って、そこには
すると煙の文字が、地上に落ちて、そのままあの砂浜へしみ込んでしまったのかしら。流石の探偵小説家も、頭がどうかしたのではないかと、疑わないではいられなかった。
何という無駄な、馬鹿馬鹿しい、しかもずば抜けた賊の自己宣伝であろう。死人の肌の糜爛文字、米粒の表面の
賊は悪魔の宣伝ビラを、所きらわず
気違いか? イヤイヤ気違いにこんな秩序ある
だが、そんなことを考えている時ではない。さしずめ曲者はあの乞食だ。蘭堂は乞食の歩くままに尾行したからこそ、あんな文字が現われた。つまりこの怪文字のかき手はあの乞食であったのだ。
見ると、乞食
「ウヌ、逃がすものか」
蘭堂は石垣を駈け降りると、一散に乞食のあとを追った。五間、十間、二十間、
乞食奴、ふり返って
「待て、聞きたいことがある」
とうとう、追手の
襟髪を掴まれた乞食は騒ぐ様子もなく、ふてぶてしく立止って、ヒョイと振返った。大江の顔と乞食の顔が一尺程の近さで、真正面に向き合った。
海岸の
大江はギョッとして思わず手を離した。長い髪の毛(無論
お
彼はこの顔を見せる為に、態と大江に追いつかせたのだ。そして、例によって「恐怖王」のデモンストレーションをやって置いて、改めて逃げ出そうというのだ。
ゴリラのことだ、力も足も人間の及ぶ所ではない。彼は大江の一瞬の放心を見すまして、矢庭に走り出した。その早いこと、足ばかりでなく、両手も使って、猿の走り方で走るかと思われた程だ。
「
大江はこの怪獣に対して、不思議な
ゴリラは二三丁走ると、とある砂丘をかけ上って、町の方へ曲った。林や原っぱを中にはさんで、ヒッソリとした大邸宅が建ち並んでいる淋しい場所だ。
賊はそれらの建物の高い
「しめた。とうとう
大江蘭堂は勇躍して敵に迫った。もう十間だ。もう五間だ。
ゴリラはコンクリート塀の根元に
蘭堂は相手の余りの素早さにあっけにとられ、一瞬間塀の下にぼんやりと突立っていた。
「あれが人間だろうか。ジャンピングの選手だって、とても及ばぬ早業だ」と思うと、相手が何か恐ろしい動物の様に感じられて、ゾッとしないではいられなかった。
彼には、残念ながら、塀の頂上へ手をかけることさえ出来相もない。急いで表門に廻り、この邸の主人に告げて、怪物を
「サア、出て来い。貴様の方で出て来なければ、俺は晩まででも、ここに待っているぞ」
蘭堂は大声で怒鳴って、敵が再び塀を乗り越して逃げ出さぬ用心をして置いて、足音を盗んで、グルッと表門に廻った。
「マア、大江先生!」
婦人がびっくりして叫んだ。見ると彼の熱心な愛読者として知合っている
「ヤ、喜多川さんでしたか。僕、
蘭堂がせき込んで云うと、
「主人って、ここわたくしのうちですのよ」
若い未亡人が、にこやかに答えた。
蘭堂は彼女に逢ってもいたし、彼女から手紙も貰って住所は知っていたが、一度も訪ねたことがなかったので、この堂々たる邸宅を見て、一寸驚かぬ訳には行かなかった。
「マア、お入り下さいませ。今出掛けようとしていたのですけど、構いませんわ。サア、お入り下さいませ。本当によくいらしって下さいましたわね」
「イヤ、そうしてはいられないのです。裏庭を見せて頂き度いのです。それから、書生さんか何か男の人は居ないでしょうか」
「イイエ、あいにく書生は居りませんが、裏庭って、裏庭がどうかしましたの」
若い未亡人は、この探偵作家気でも違ったのではあるまいかと、びっくり
「兎も角裏庭を見せて下さい。訳はあとでお話しします」
と云い捨てて、彼は
「芝生だもんだから、足跡がないのです。やっぱり塀を越して逃げたかな」
「誰かが庭へ這入りましたの? マア、気味の悪い。誰ですの?」
未亡人は震え上った。
「電話を貸して下さい。警察へ知らせて置かなければなりません」
蘭堂は夏子の案内で慌しく電話室へ飛び込んだ。
夏子が電話室の外に佇んで聞耳を立てていると、途切れ途切れに「恐怖王」だとか「ゴリラ男」だとかいう声が聞える。彼女はハッとして、色を失わないではいられなかった。
「先生、ゴリラ男がどうかしたのでございますか。もしや······」
電話を切って出て来た蘭堂は、夏子の恐ろしく引き歪んだ顔にぶつかった。
「びっくりなすってはいけませんよ。実はそのゴリラ男が、お宅の裏の塀を乗り越えて、邸内へ逃げ込んだのです」
それを聞くと、夏子は「マア」と息を呑んで、よろよろとあとじさりをした。
間もなく数名の警官が駈けつけて、庭は勿論邸内
警官が立去ったあとも、夏子は蘭堂を引止めて帰さなかった。
「書生を少し遠方へ使いに出しましたので、あとは女ばかりで心細うございますから、ご迷惑でも、書生の帰りますまでお話し下さいませんでしょうか」
そう云われて、蘭堂は一種の当惑を感じないではいられなかった。未亡人と云っても、夏子はまだ二十五六歳の若さで、その上非常に美しかったからである。しかも、いつの間にか日が暮れて、客間の装飾電燈が赤々とともり、自然
「恐怖王」について、或は探偵小説と実際犯罪について、色々話している間に、案の定、女中が現われて、食堂の準備の整ったことを知らせた。
食堂も客間に劣らぬ贅沢な設備で、十人以上のお客様が出来る程広かったが、その大きな食卓の真白な卓布の上に、おいし相な日本料理が手際よく並べてあった。
「主人がなくなりましてから、コックも置きませんので、女中の手料理で失礼でございます」
夏子は
「わたくし、お
蘭堂は益々当惑を感じながら、仕方なく
「俺はゴリラ男の一件を知らせてやった為に、こんな好遇を受けるのか、日頃愛読する小説の作者として尊敬されているのか、それとも······」
蘭堂は自問自答しないではいられなかった。どうもおかしいのだ。うら若く美しい未亡人が、小説家と交りを結んだり、手紙を出したりするのが、已に変である。しかも、彼女はもう、小説家の文名にあこがれる年頃でもない。もっと別の気持があるのだ。つまり「わたくし、お酌させて頂きます」という艶かしい言葉が象徴している様な、一種の気持があるのだ。と考えて来ると、彼女から貰った手紙の、思わせぶりな文章まで思出される。
蘭堂という筆名は
ビクビクしながら呑む酒は、酔いとならず、相手の夏子の方が、グラスに一つ二つのお
「もうお
辞退をすると、
「家とおっしゃって、奥様もいらっしゃらない癖に」
と忽ち逆襲だ。
「マア、およろしいではございませんか。このお酒お口に合いませんでしょう。今ね、今お口に合うのを、あたし持って参りますからね」
夏子は少しよろめく様に立って、手で「待っていらっしゃいよ」と合図しながら、一方のドアから出て行った。
蘭堂は酔わぬといっても、
彼が、そうしてボンヤリと白い卓布に
「オヤ」と思って、聞耳を立てると、
「助けて! 助けて! 大江先生助けて!」
という、恥も
捨てては置けぬ。蘭堂は夢の中の様に立上って、廊下へ駈け出した。廊下のはしには、女中達が目白押しにかたまって進みも
彼はいきなりドアを開いて、室内に飛込んだ。
「畜生ッ、貴様まだこんな所にいたんだな」
思わず叫んで、有り合う椅子の背を掴んだ。
ゴリラだ。ゴリラ男が、夏子の上に馬乗りになって、その喉をしめつけている。夏子は、空色のワンピースの裾を破って、夢中にもがきながら抵抗している。
「邪魔するな。お前、あっちへ行ってろ」
賊は
「
蘭堂は椅子を振り上げて、ゴリラの頭上から打ちおろす身構えをした。
「早く、早く、こいつを叩きつけて」
夏子が、みだらに顔を歪めて、息も絶え絶えに叫ぶ。
「ウヌ、これでもか」
蘭堂は、振り上げた椅子を、力まかせに叩きつけた。
「ギャッ」
という、けだものの悲鳴。
ゴリラは肩先をやられて、やっと夏子の上から立上ったが、今度は蘭堂に向って、白い大きな歯を
けだものと人間とは、一かたまりに組合って、床の上を転げ廻った。蘭堂は少々柔道の心得があったけれど、野獣にかかっては、何の甲斐もなく、一転、二転、三転する内には、遂にゴリラ男の下敷きになってしまった。
「生意気な、貴様絞め殺してやるぞ」
ゴリラの毛むくじゃらな両手が、ジリジリと喉を絞めはじめた。
蘭堂はもう力が尽きてはね返す気力はなかった。絞めつけられた彼の紅顔は、見る見る紫色にふくれ上って行った。
「ヒヒヒ······、青二才め、どうだ苦しいか。もう少しの我慢だ。今に気が遠くなって、極楽
けだものは、残酷にも、ゆるめては絞め、ゆるめては絞め、しかも徐々に両手の力を加えて行った。
と、その時突然、ビシーンという銃声が聞えたかと思うと、部屋の窓ガラスがガラガラと
「サアお放し、その手をお放し、でないと、今度はお前の背中だよ」
組合った二人のうしろに、いつの間にか小型のピストルを手にした夏子未亡人が、精一杯の力で、歯を食いしばって突立っていた。ピストル持つ手がワナワナと震えている。
流石の猛獣も飛道具には
「大江先生、しっかりして下さいまし。大丈夫ですか」
夏子はピストルを構えたまま、倒れた蘭堂の上にかがみ込んで叫んだ。
蘭堂は喉をさすりながら、ムクムクと起き上った。まだへこたれてはいない。立上るなり大声に怒鳴って駈け出した。
「待て、畜生、今度こそ逃がさぬぞ」
夏子が蘭堂に気をとられている隙に、ゴリラはドアの外へ逃げ出していたのだ。蘭堂はそのあとを追って廊下へ飛出した。
ゴリラは見通しの廊下を、背を丸くして、這う様に走って行く。だが、どう戸まどいしたのか、入口とは反対の方角だ。廊下の突き当りは部屋になっている。ゴリラは、いきなりそのドアを開いて部屋の中に隠れた。
それは、来客用の寝室らしく、寝台と小卓と二脚の椅子と、
それにも拘らず、蘭堂が飛び込んで見ると、そこには人影もなかったのだ。寝台の下を覗いて見たのは云うまでもない。その
そこへ、オズオズ夏子が這入って来た。
「消えてしまったのです。まさかこの部屋に秘密戸がある訳ではないでしょうね」
蘭堂がボンヤリして尋ねた。
「そんなものございませんわ。本当にこの部屋へ逃げましたの」
「それは間違いありません。一足違いで、僕が飛び込んだのです。ホンの五六秒の差です。それに、あいつは影も形もなくなっていたのです」
蘭堂はやっぱり悪夢にうなされている気持だった。
それから、長い間かかって、その寝室は勿論、
ゴリラ男は忍術を使うのだろうか、それとも何か人間世界にはない
だが、いくら
再び警察官の来邸を
「ほんとうに有難うございました。先生がいて下さらなければ、わたくし、今頃はこうしてお話なんかしていられなかったと思いますわ」
夏子は、食卓をかたづけさせ、蘭堂にお茶を勧めながら、やっと落ついた様に話し出した。
「イヤ、僕こそ。あの時あなたがピストルを撃って下さらなかったら、命がない所でした。それにしても、あなたの思い切った
蘭堂は心から命の恩を感じて、夏子を褒めたたえた。
「マア、どうしましょう。わたくし、あんな恥かしい様子をお目にかけて。······でも、ああでもしなければ、先生が危なかったのですもの」
「そうですとも、危なかったのです。あいつ本気で僕を殺そうとしていたのです」
「お
このうら若い未亡人は、互に救い救われしたことが、ひどく
「アノ、本当にご迷惑でしょうけど、アノ、今夜お泊り下さる訳には行きません? 書生もまだ帰りませんし、
夏子は甘える様に云って、蘭堂を見上た。
「エエ、僕は泊めて頂ければ有難いですけれど、ご婦人お一人のうちへ、あまり
蘭堂は本当に迷惑相に云う。
「マア、お堅いんですのね。恥をかかせるもんじゃございませんわ」
夏子は小声になって、目を細めて、ニッコリと
しっかりしろ、誘惑に陥ってはならぬぞ。お前には心に誓った恋人があるではないか。仮令一瞬間にもしろ、花園京子のことを忘れてよいのか。あの可憐で純潔な処女と、このみだりがましき
「では仕方がございませんわ。せめて書生が帰りますまで······先生お疲れでございましょう。それに汗になりましたでしょうから、一風呂あびていらっしゃいません? さい前いいつけて置きましたから、もう沸いている時分ですわ」
夏子は又品を変えて、艶かしく迫った。
「イヤ僕は帰ってからでいいんです。どうかあなたご遠慮なく」
蘭堂は我と我心と戦いながら、愈々固くなって云った。
「じゃ、あたし、一寸失礼しようかしら。先生に番兵をお願いしてお湯に這入るなんて、本当になんですけど、あたしすっかり
夏子は
そして暫くすると、アア、今日は何という
悲鳴はいつまでも続いている。女中達はおびえてしまって、主人を助けに行くどころか、
うち捨てて置く訳には行かぬ。湯殿の中とは実に迷惑な場所だけれど、そんなことを云って、躊躇している場合でない。それに、ゴリラ男には重なる恨みがあるのだ。
蘭堂は女中に湯殿のありかを尋ねて、駈けつけると、いきなりその扉を開いた。
だが、扉を開いて一目浴室を見た時、彼はハッと目まいを感じて立ちすくんでしまった。
そこには、ゴチャゴチャと無数の
余りの怪しさに、ギョッとして、暫くは夢とも
浴室は八角形の鏡の部屋になっていたのだ。境目もなく、厚ガラスの鏡ばかりで、浴槽を八角形にとり囲み、天井までも同じ鏡で出来ている、謂わば巨大な万華鏡であったのだ。恐らくは夏子の亡夫の奇を好む
八方の鏡に反射し合って、数十数百の裸女の像を映し、それが身動きをする
浴槽の中に立上って、悲鳴を上げていた夏子は、蘭堂の顔を見ると、流石に恥らって、急いで身体を湯の中に隠し、首丈け出して、叫ぶのだ。
「先生、これ、これですの。こんな恐ろしいものが、お湯の中にブカブカ浮いていましたの」
では、今度はゴリラ男ではなかったのか。
「失礼。女中さん達が怖がって、よりつかないものですから。······何が浮いていたのです」
蘭堂は、少し照れて、詫びごとをしながら、聞返した。
「これ、これ」
夏子は気味悪そうに、浴槽の片隅の一物を指さしていたが、それと同じ湯につかっているのに耐えられなくなったのか、思い切った様に、そのものを掴んで、浴槽の外へ放り出した。
その刹那、夏子の手が三本になった。五つに分れた指が、都合十五本、それが八つの鏡に反射して、無数の手首となって躍った。
流し場に放り出されたものは、
ただ事ではない。生腕が降る訳もなく、水道の蛇口から湧き出す筈もない。何者かがソッと投げ込んで置いたのだ。何者ではない。あのゴリラ男に極っている。
だが、ここに片腕が落ているからには、それを切られた人がなければならぬ。では、彼等は又しても、どこかで恐ろしい殺人罪を犯したのであろうか。
「オヤ、この腕には何か字が書いてある。
蘭堂は思わず浴室に踏み行って、不思議な生腕を覗き込んだ。
「恐······怖······王。アアやっぱりそうだ。あいつらの仕業だ。この腕には恐怖王と入墨がしてありますよ」
又しても悪魔の宣伝文字である。
「マア、······どこに?」
夏子は、これも我を忘れて、浴槽を飛び出して来た。八つの鏡に、全裸の美女のあらゆる向きの像が、艶かしく、イヤ寧ろ恐ろしく、クネクネと蠢いた。
実に驚くべきことが起ったのだ。うら若き未亡人の、豊かにも悩ましき全裸身が、今蘭堂の目の前にあった。湯に暖められて
若しこれが通常の場合であったなら、夏子は恥しさに消えも
蘭堂は、そうしていても果しがないと思ったのか、生腕の上にかがみ込んで、気味悪いのを我慢しながら、二本の指でそれをつまみ上げた。
電燈にかざしてよく見ると、確に女の、しかもまだ若い女の腕だ。
「マア、可哀相に、誰かが殺されたのでしょうね」
夏子が声をかけても、蘭堂は生腕の指先を見つめたまま、身動きもしなかった。
やがて、徐々に徐々に、彼の顔色が変って行った。両眼は飛出す程見開かれ、口はポッカリ
「アラ、どうなさいましたの? 先生、先生」
夏子は相手のただならぬ様子に、我が裸身を忘れて、近々と蘭堂に寄り添いながら叫んだ。
「僕はこの指に見覚えがあるのです」
「エ、なんでございますって?」
「アア、恐ろしい。僕はこの腕の持主を知っているのです。
蘭堂は云いさして、フラフラと倒れ相になった。
アア、彼程の男を、かくも悩乱せしめた、この生腕の主とは、
大江蘭堂は、その生腕の小指にある、小さな傷痕に見覚えがあったのだ。
彼は真青になって叫んだ。
「僕はこの腕の主を知っている。非常に親しくしている人です。奥さん、僕はこうしてはいられません。失礼させて頂きます」
蘭堂はそのまま
「待って、待って下さい。あなたに行かれては、あたし怖くって、
夏子は、湯に濡れてツルツルした全裸のまま、恥しさも忘れて青年に
「その方、どなたですの? あなたの親しい女の方って」
「花園伯爵のお嬢さんです。僕はそれを確めて見なければ安心が出来ないのです」
蘭堂は夏子の手をふり放して又一歩ドアに近づいた。
「あなたの恋人? エ、そうなの?」
夏子は、ねばっこい女の力で、蘭堂の肩を持って、グルッと彼女の方へ向き返らせた。そして、顔と、むき出しの五体とで、何とも云えぬ
そこには、しびれる様に甘い匂と、ツルツル
「ごめんなさい。僕はこうしてはいられないのです。一刻も早く東京に帰って、それを確めて見なければならないのです」
「奥さん、では失礼します。書生さんが帰るまで女中さん達を集めて、お話でもしていらっしゃい。それに電話さえかければ、すぐお巡りさんも来てくれます。大丈夫ですよ。大丈夫ですよ」
闇の大道を飛ばしに飛ばして、麹町の伯爵邸についたのは、もう夜の十一時頃であったが、夜更けを遠慮している場合ではないので、車を降りると、慌しく門の電鈴を押した。
待ち構えてでもいた様に、書生が飛出して来て、応接間に案内した。そこには、まだあかあかと電燈が点じてある。程なく主人夫妻が揃って立現われた。
「京子さんは御無事ですか。若しや······」
蘭堂は伯爵を見ると、挨拶は抜きにして、先ずそれを尋ねた。
「ア、もうあんたもご存知ですか。よく来て下さった。わしも途方に
伯爵の返事だ。伯爵はまだ大江と京子との親し過ぎる関係については何も気づいていなかったけれど、京子の
「それではやっぱり、······で、御容態はどんなですか」
京子は負傷をして奥に寝ているか、入院でもしたのかと、尋ねると、伯爵はけげん顔で、
「エ、容態ですって? あなた何かお聞込みになったことでもあるんですか。わしの方では容態どころか、全く
その日の午前十時頃、京子の所へ一人の客があった。大きなロイド眼鏡をかけた、
十五分程話をして、その妙な男は帰って行ったが、その時彼を送り出した書生の話では、別に変った様子も見えなかった。
それから一時間程して、女中が京子の居間へ
調べて見ると、外出着もちゃんと揃っているし、
京子の友達や親戚などへ電話で問合せたがどこへも行っていない。警察へも頼んであるけれど、まだ何の吉報もない。もう外に手の尽し様もなく、ただ家中のものが青い顔を見合せて溜息をつくばかりであった。
そこへ探偵作家大江蘭堂が飛込んで来たのだ。伯爵夫妻が
「で、その妙な男が帰る時、京子さんは居間に残っていらしったのですね。その時何か変った様子は見えませんでしたか」
蘭堂は令嬢消失の次第を聞き終ると、その場に
「別にこれといって······」書生が答える。「私、お嬢さんの顔を見た訳ではないものですから。
「それから、君はもう一度お嬢さんの部屋へ
「エエ、そのまま玄関わきの書生部屋に這入って本を読んでいました」
「すると、女中さんが中食を知らせに行って、お嬢さんの部屋が空っぽになっていることが分るまで、君はずっと書生部屋にいたのですか」
「そうです。書生部屋からは玄関は勿論、門の所までが見通しになっているのに、お嬢さんは一度もそこを通られなかったのです。僕は読書しながらも、絶えず門を通る人は注意していたのですからね」
「間違いはないでしょうね」
「エエ、決して。お嬢さんが庭から塀でものり越して外出されない以上、お嬢さんの姿が見えないというのは、全く考えられない事です。実に不思議です」
恐怖王の事件に「不思議」はつきものだ。今更驚くことはない。
「それじゃ、一度僕に、お嬢さんの居間を見せて頂けませんか」
蘭堂はまるで
京子の居間は、十畳程の洋室で、一方の隅には彫刻のある書きもの机、廻転椅子、書棚
蘭堂は伯爵夫妻とその部屋に這入って行ったが、流石は探偵小説家、まず
焦茶色に黒い模様の、深々と柔かい立派な絨氈だ。彼はその上を歩き廻って、注意深く調べていたが、ある箇所に立止ると、ヒョイと身をかがめて、
「これは何でしょう?」
と、その部分を指で押し試みた。
絨氈が黒っぽいので気附かなかったが、よく見ると成程、ボンヤリと大きなしみが出来ている。
蘭堂は、人差指に
「ごらんなさい。血です。やっぱりそうだった」
彼は青ざめた顔を、激情に歪めて云った。
「エ、血ですって? では京子はもしや······、アアあなたは何もかも御存知なんでしょう。早くおっしゃって下さい。あれは殺されたのですか」
伯爵夫人が、もう泣き声になって、わめき立てた。
「イヤ、僕もすっかりは知らないのです。ただ······」
「ただ、どうだとおっしゃるのです」
「ただ、ある所で京子さんの右の腕を見たんです。確に
「マア!」
と叫んだ切り、夫人はあとを云う力もなくグッタリと椅子に倒れて、顔を押えてしまった。
「それはどこです。まさか
伯爵も上ずった声である。
「僕の思違いであってくれればいいがと、心も空にお邸へかけつけたのです。併し、この血の様子ではあれはやっぱりそうなんだ。京子さんは『恐怖王』にやられたんだ」
「エ、エ、君は今何と云ったのです。誰にやられたんです」
「恐怖王。御存知でしょう。今世間で騒いでいる殺人鬼恐怖王です。そのお嬢さんの腕には『恐怖王』と入墨がしてあったのです」
その途端、「クウ」という様な奇妙な声がしたかと思うと、伯爵夫人の身体が、バッタリ椅子からくずれ
そこで女中や書生を呼ぶやら、気つけの洋酒を呑ませるやら、大騒ぎになったが、夫人は間もなく意識を
「僕はこう思うのです」
騒ぎが静まると、蘭堂が話しつづけた。
「その京子さんを訪ねて来たロイド眼鏡の男というのが、てっきり恐怖王一味の奴で、この部屋でお嬢さんが声を立てぬ様にして置いて、その右腕を切断し、それを持帰って、どこかで入墨をした上、僕に見せびらかしたのです。奴等の残酷極まる遊戯です。殺人広告です。
しかし、不思議なのは、腕丈けなら人目につかぬ様に持帰る事も出来たでしょうが、京子さんの死骸······イヤ、死骸と極った訳ではないのですが······その京子さんの身体をどこへ
それから、もう一つは、書生さんがこのドアの外へ来た時、中からお嬢さんの声で、お客さまを送り出す様にと命じられた点です。腕を
それでは、京子さんが腕を切られたのは、それよりもあとで、今の妙な男はこの事件には関係がないと考えるべきでしょうか。
イヤ、イヤ、恐らくそうではないのです。賊は犯罪の捜査をむつかしくする為に、巧妙なお芝居をやって見せたのです。賊自身がお嬢さんの
恐怖王は以前布引照子という娘さんの死骸を棺のまま盗み出したことがあります。そして、その死骸に振袖を着せて婚礼の真似事をさせたのですが、照子さんのお父さんが夜、自動車で外出した時、すれ違った車の窓から死んだ筈の照子さんが顔を出して、生前の通りの声で『お父さま』と声をかけたことがあります。今考えると、あれがやっぱり上手な声色だったのです。ひょっとしたら賊は腹話術というあの手品師の秘術を心得ているのかも知れません」
大江蘭堂は
「京子さんの美しい声がもう一度聞けるかしら」
と
「オヤ、どうしたのだ」
もう一度違う鍵盤を叩くと、やっぱりギーンだ。
「ピアノなんか叩いている場合じゃない。大江さん、早速このことを警察に知らせなければ」
伯爵は蘭堂の
「このピアノ痛んでいるんですか。ちっとも音色が出ませんね」
蘭堂はまだ楽器に気をとられている。
「そんなこと、どうだっていいじゃありませんか」
「イヤ、そうでないのです。どうもおかしいですよ。こんな変な
蘭堂は云いながら、今度は両手の指で、鍵盤の端から端まで、
ギングン、ギングン、ギングン、······
何とも云えぬ気味の悪い音が、部屋中に響渡った。だが、アア、あれは何だろう。金属性の音に混って、笛の様な、
「オヤ!」
蘭堂はゾッとした様に、鍵盤から手を引いた。
併し、ピアノは黙らない。笛の様な声がいつまでも続いている。余韻にしては余り長いのだ。しかも、どこやら人の心をえぐる様な調子を持っている。
「人の声ですね、確に」
蘭堂は伯爵夫妻と顔見合せて、囁き声で云った。
「併し、誰もいないじゃありませんか」
伯爵はさも気味悪げに部屋の中を見廻した。
「イヤ、この中にです」
「エ、エ、ピアノの中に?」
「多分僕等の探している人です」
云うなり、蘭堂はピアノの下部の塗り板のネジを廻して、何なくそれを開いた。
「アッ、京子さん、しっかりなさい」
ピアノの胴の中に、さも
伯爵夫妻は、駈け寄って、令嬢の上にかがみ込んで、
「アア、気がついた様だ。大江さん、京子が目をあきました」
殺されたとばかり思っていた京子が、兎も角も無事でいたのだ。両親の狂喜も無理ではない。
見るとやっぱり右手をやられている。仕合せなことには、賊が血の垂れるのを防ぐ為に、傷口を固く縛って置いてくれたので、出血も
「オヤ、左の手にこんなものを握っていますよ。アア、あの男が持って来た手紙だ。大江さん見て下さい」
伯爵がそれを取って差出すのを、蘭堂が開封して
この手紙持参の男は僕の友人です。例の件につき是非お話しして置かねばならぬ事があるのです。僕が行けぬのでこの男を伺わせました。是非面会して事情を聞取って下さい。
「畜生、僕の名前を蘭堂
京子さま
蘭堂は読終った手紙を畳もうとして、何気なくその裏面を見ると、そこに赤鉛筆で大きな乱暴な文字が書きつけてあるのに気附いた。
「オヤ、これは何だろう」
読んで見ると、これこそ正真正銘の賊の置手紙だ。脅迫状だ。
京子、命は助けてやる。だが、今日限り大江蘭堂と絶交するのだ。彼と口を利いてはいけない。手紙を書くこともならぬ。若しこの命令に違背 すれば、今度こそは命がないものと思え。
「ハテナ、これは一体何のことだろう」恐怖王
蘭堂はその意味を理解することが出来なかった。
「京子に絶交させて俺を苦しめる為かな。だがそんな廻りくどいことをせずとも、俺をやッつける手段は外にいくらもある筈ではないか。それとも、俺の探偵上の手腕に恐れを
いくら考えても分らぬ。この理解し難き文意の裏には、何かしら恐ろしい秘密が隠されている様な気がする。
「イヤ、こんなものはどうだっていいです。それより京子さんのお身体が大切だ。早く医者を呼ばなければいけません」
蘭堂は賊の手紙をポケットに
京子の傷口が
鎌倉の喜多川夏子は、京子の事件を知ると、すぐ様蘭堂を訪ねて見舞を述べた。無論彼女自身も、例の入墨の生腕一件について警察の取調べを受け、少からぬ迷惑を
「私達は三人とも、同じ敵に悩まされているのですわね。恐怖王という奴は、なんてむごたらしい人非人でしょう。私共は力を
彼女はそんな風に云った。又、
「これですっかり先生の秘密が分ってしまった。京子さん、あなたの愛人なのね。ね、そうでしょう。ホホホホホ」
といやらしいことも云った。
蘭堂が賊の脅迫状のことを話すと、
「マア、それで先生は病院へお見舞にいらっしゃらないのね。そして、そんな
などとも云った。
夏子は病院へ京子を見舞いに行っては、その帰りには必ず蘭堂のアパートを訪ね、京子が逢いたがっていることなどを、大げさに伝えて、青年作家をからかうのであった。
そうして逢うことが度重なるに従って、蘭堂と夏子の間に、段々遠慮がとれて行った。共同の敵を持っている点で、蘭堂の方でも、この色ぽっい[#「色ぽっい」はママ]未亡人の接近して来るのを、
二人はアパートの一室で、さし向いで長い間話し込むことがあった。夏子は洋酒や食べものなどを持って来て、少しでも長く蘭堂の部屋にいようとした。お酒に酔えば、段々話が色っぽくなって行くのも
京子には逢えないし、一方夏子とは絶えず逢っているし、その上彼女は甚だ色っぽいので、こんな状態を続けていたら、今に京子に済まぬ事が起りはしないかと、蘭堂は不安を感じ初めた程であった。
だが、別段のこともなく京子退院の日が来た。花園伯爵からは、
京子は、父伯爵の寝室の大きなベッドに寝ていた。まだ起きる程元気が恢復していないのだ。伯爵の寝室を選んだのは、そこが邸中で一番安全な場所だからだ。丁度京子の退院の日に、伯爵は二三日の旅行に出なければならなかったので、更に防備を固くして、書生の友達の腕っぷしの強い青年二人を頼んで、三人交替で寝室の入口に寝ず番をさせることにした。
蘭堂は病人を余り昂奮させてはとの
アパートに帰ると、又しても喜多川夏子が彼の部屋で待受けていた。
「京子さんをお見舞なすったのでしょ。先生、大丈夫ですか。賊は一言でも口を利いたら命がないって宣言しているじゃありませんか。危くはありませんの?」
彼女は、
「イヤ、それは大丈夫ですよ。柔道の出来る書生が三人で、寝ずの番をしているのです。しかも部屋は一番奥まった寝室で、ドアの
蘭堂が云うと、
「ホホホホホ、そんなことであの恐怖王が閉口すると思っていらっしゃるの。駄目よ。あいつにかかっては、入口があろうとなかろうと、番人がいようといまいと、そんなこと眼中にありやしませんわ。魔法使なんですもの。今夜あたり危くはないこと」
と、益々いやなことを云い出すのだ。
そこで二人は、恐怖王の力量について、盛んに議論をしたものだが、美女というものは、感情が激すれば激する程美しく見えるものである。しかも、夏子の場合は、その上に例の未亡人の色っぽさがついて廻るのだから、相手を悩ますこと一通りでない。
結局夕方まで話込んで、又この次訪問する口実を残して置いて、夏子は帰って行ったが、その夜十二時頃、夏子の言葉が
もう
「大江君、すぐ花園京子さんの所へ行って見給え。そして、君の敵がどんなに正確に約束を守るかを知り給え。君はよもや京子さんが握っていた赤鉛筆の警告状を忘れはしまい。サア、今すぐ行って見給え」
と、一人で喋りつづけて、こちらの返事も聞かず電話を
決してただのいたずらではない。京子の身の上に何か起ったのだ。
蘭堂は直様外出の用意をして、花園伯爵邸へかけつけた。途中で、ふと、これが賊の手ではないか。何かしら
行って見ると、伯爵邸はもう寝静まっていた。伯爵は旅行中なので夫人を起して
「娘はよくやすんでいます。わたし
と、けげんらしい顔つきだ。
では、やっぱりただのおどかしに過ぎなかったのかと、一応は胸なで
部屋の入口にがんばっている書生に尋ねると、これも別状ないとの答えだ。
二人は鍵のかかっているドアを
見ると大きなベッドのまわりには、天井から
「よくやすんでいますわ。さっきわたしが見廻った時と少しも変ったことはありません」
夫人はホッと
蘭堂は
「奥さん、ごらんなさい。京子さんの寝顔を。余り静かじゃありませんか。それにあの青さはどうでしょう」
「エ、何とおっしゃいます」
夫人はギョッとして、蘭堂を見つめた。
「奥さん、念の為に、京子さんを起して見て下さい。何だか変です」
夫人は云われるまでもなく、薄絹をまくって、寝台に近づき、白い毛布の上から京子の身体をソッと揺り動かした。
「京子さん、京子さん」
併し返事はない。
夫人は慌しく、毛布の下の娘の左手を探し求めて、それを握った。冷い、まるで氷の様だ。
「京子さん、どうしたのです。コレ、京子さん」
夫人はもう半狂乱の
と、実に恐ろしいことが起った。
夫人は大きな音を立てて
まるで人形の腕がもげる様に、京子の手がスッポリと抜けてしまったのだ。切口には幾重にも白布を巻いて、出血がとめてあった。
蘭堂は倒れた夫人はそのままに、いきなりベッドの毛布をまくって見た。毛布の下には、両手を失った、無残な京子のむくろが横わっていた。呼吸も脈搏も絶え果てて。毛布に覆われていた為にそれまで少しも気附かなかったが、シーツは毒々しく血のりに染っている。
「オイ、誰か来てくれ給え」
大声にどなると、見張り番の書生が二人駈け込んで来た。そして、京子の有様を見ると、アッと叫んだまま棒立ちになってしまった。
全く不可能なことが行われたのだ。二人の書生は一瞬間も持場を去らなかった。無論夫人の外には猫の子一匹寝室へ這入ったものはない。又出たものもない。
窓の鉄格子は別状なく、床板や天井にも
「誰もここを出なかったとすれば、曲者はまだ部屋の中にいるのだ。君達探してくれ給え」
だが、探せと云って、この上どこを探せばよいのだ。ベッドの下は見通しだし、
蘭堂も、我と我が言葉に苦笑しながら、併しあきらめられぬと見えて、部屋の中をアチコチと歩き廻った。歩き廻っているうちに、心の平調を失っていた為か、絨氈の端につまずいて、よろよろとよろめき、そこの壁にはめ込みになっている金庫の扉に倒れかかった。
すると、妙なことに、金庫の扉がしっかり閉めてなかったのか、ピチッと幽かな音をたてて、ほんの少しばかり動いた様な気がした。
伯爵は盗難の用心の為に、寝室の中に金庫を備えていたのだ。併しどこの家でも金庫はいつも密閉されているものだ。その上、符号を知らねば開くことも出来ないのだから、賊を探す場合にも、金庫丈けは度外視していた。けれど、その扉が本当に閉っていなかったとすると、賊め、京子さんを殺した上に、お金まで盗んで行ったのかしら。
「奥さん、この金庫は閉めてなかったのですか」
慌しく尋ねると、娘の死骸にとりついて泣き入っていた夫人が、やっと顔を上げて、
「イイエ、主人がしっかり閉めて置いた筈です。それに主人の外には合言葉を知りませんので、開く筈はありませんが······」
と不思議相に答えた。
「それがどうも本当にしまっていない様なのです。開けて見ても構いませんか」
「エエ、どうか」
夫人の許しを得て、蘭堂は扉の引手に指をかけた。そして、ちょっとそれを開きかけたかと思うと、ハッとした様に、又ピッシャリ閉めてしまった。
「どうなすったのです」
蘭堂の表情が余り異様だったので、夫人が驚いて尋ねた。
「ハハハハハ、奥さんつかまえましたよ。もう
それと聞くと、二人の書生は、身構えをして金庫に近づき、その扉を開こうとした。
「イヤ、待ち給え。別に急いで開くことはないよ。先ず警察へ電話をかけるんだ。そして、ちゃんと捕縛の用意をして置いてからでもおそくはないよ。もう袋の鼠なんだから」
蘭堂は勝ちほこって、両手をこすりながら云った。
「それにしても、金庫とは妙な隠れ場所を選んだものだね。
警察へは早速電話がかけられた。書生達は棒切れや
五分、十分、十五分、息苦しい時が遅々として進んだ。
と、案の定、金庫の中にゴソゴソと妙な物音がしたかと思うと、いきなり扉がゆるぎ出し、内部から、パッと押しあけられた。
「ワッ」
という様なえたいの知れぬ叫声が起った。賊はとうとう我慢し切れなくなって、自から敵中に躍り出したのだ。
金庫の扉が内部からパッと押し開かれた。そして、何か黒い
「アッ、ゴリラ! 貴様だったナ」
蘭堂は両手を拡げて鉄砲玉に組みつこうとした。それは恐怖王の同類の、かの醜いゴリラ男であった。ステッキを持った二人の書生が、バタバタと駈けよった。伯爵夫人は両手を顔に当てて、部屋の隅に蹲ってしまった。
だが、賊は、本当のゴリラではないかと思われる程、頑強で素早かった。彼は「ギャッ」と猿類の鳴声を発して、迫る蘭堂を突き飛ばすと、寝台の向う側に逃げ込んでしまった。その寝台の上には、京子さんの死骸が、まだ
「大丈夫、もう逃がしっこはない。出口は一つだ。サア、ゴリラ、出て来い」
蘭堂は鬼ごっこの鬼の様に、両手を拡げて、抜け目なく身構えした。
「君達は両方から挟みうちにしたまえ、ナアニ、大丈夫だ。あいつは武器を持っていないのだ。ちっとも怖がることはないぞ」
蘭堂の指図に従って、二人の書生が一人ずつ、左右から寝台の向う側へ迫って行った。
ゴリラ男は今や絶体絶命であった。うしろに窓はあるけれど、頑丈な鉄格子だ。寝台の下をくぐって逃げようにも、その向うには蘭堂が立ちはだかっている。しかも、左右の敵は、太いステッキを振りかざして、刻一刻迫って来るのだ。
だが、この野獣は、少しも騒がなかった。兇悪なゴリラの顔に、ゾッとする笑いを浮べて、ギラギラする目で蘭堂を睨みつけた。
「ワハハハ······、俺が武器を持っていないって? 武器って、ピストルか、それとも九寸五分か。オイ、蘭堂、貴様これが見えないのか。ホラ、こんなすばらしい武器が」
ゴリラが
彼はそう云ったかと思うと、目にもとまらぬ早さで、寝台の上にかけ上った。オヤッ、こいつ何をするのだ。
「ホラ、これが俺の武器だよ」
ゴリラは、いきなり京子の死骸の
「アッ、何をする。離せ。離さないと」
「ワハハ······、離さないと、飛道具でもお見舞するというのかね。だが、このお嬢さんが守って下さるよ。サア、蘭堂、貴様こそ
ゴリラは歯をむき出して、
するとたちまち部屋の一隅から、
振向くと、伯爵夫人が、飛出した両眼で、ゴリラの手元を凝視しながら、何とも云えぬ変な泣き顔になっていた。
「いけません、いけません。それ丈けは勘弁して。······大江さん、大江さん、早くあの子をとり返して」
野獣の振舞は、余りにもむごたらしかった。夫人の悲鳴を聞かずとも、恋人の蘭堂には、仮令死骸とは云え、京子の身体がおがらかなんぞの様にへし折られるのを見ている訳には行かなかった。
「待て、お嬢さんを下に置け。そうすれば貴様を逃がしてやらぬものでもない」
蘭堂は遂に弱音を吐いた。
「ワハハ······、参ったな。じゃ、道を開け。そこをどけ」
ゴリラが歯をむいた。
「よし、のいてやる。その代りお嬢さんを離すんだ」
蘭堂は云いながら、部屋の隅へあとじさりした。そこにほんのちょっとした隙があった。
ゴリラはパッと寝台を飛降りると、矢の様に部屋の入口へ走った。京子さんの死骸を小脇に抱えたまま。慾深くも、切断された左腕さえ片手に
「コラッ、お嬢さんをどうするんだ。待てッ」
蘭堂は叫びさまドアの外へ追って出た。二人の書生もあとに続いた。
外の廊下から、ゴリラ男が走りながらの捨てぜりふが聞えて来た。
「こいつは俺の武器だからね、うっかり手放す訳には行かんよ。貴様が俺に追いついたら、ホラ、ペキンと二つに折っちまうんだ。貴様の好きな女をね」
そして、逃走者と追手の足音が、慌しく玄関の方へ消えて行った。
伯爵夫人はどうしていいのか分らなかった。泣くにも泣けぬ腹立たしさであった。若しあのまま京子の死骸が帰って来なかったら、旅行中の主人伯爵に何と云って
十分程たつと、追手の蘭堂を初め書生達が、空しく引返して来た。そのあとから、青ざめた女中達がオズオズと、寝室の入口へ顔を出した。
「奥さん申訳ありません、逃がしてしまいました」
蘭堂はセイセイ息を切らしながら云った。
夫人はやっと顔を上げて、キョトキョトとあたりを見廻した。
「では、あの京子も······」
「エエ、京子さんの死骸もです。僕はとりあえず附近の交番に立寄って、非常線の手配を、電話で本署に頼んでくれる様に云って来ましたが。もう手遅れかも知れません」
「見失ったのですか」
「そうです。······僕は駈けっこでは人にひけを取らない
蘭堂は申訳なさそうに説明した。
「本当です。奥さん。あいつは人間じゃありません。僕等は心臓が喉から飛出す程走ったんだがなあ」
一人の書生が残念そうに怒鳴った。
暫く誰も物を云わなかった。さしずめ何をすべきか、見当もつかないのだ。
深い沈黙の中に、伯爵夫人の
「それはそうと、奥さん、金庫の中は異状ありませんか。何か紛失したものはありませんか」
蘭堂がふと気を変えて尋ねた。
「マア、あたし、まだ
夫人は力なく立上って、金庫の前に行った。
見ると、金庫の中の
観音開きの下部の
「アラッ、債券がなくなっています。マア、どうしたらいいのでしょう。そして、こんなものが······」
蘭堂はその妙な紙片を夫人から受取りながら尋ねて見た。
「して、金額は?
「エエ、十万円。額面で十万円なんです。それが帰らなかったら、私共はすっかり貧乏になってしまいますわ」
気の毒な夫人は気違いの様な眼つきをして、オロオロと云った。
蘭堂は賊の置手紙らしい紙片を読下して見た。そこには
花園伯爵閣下、
閣下の令嬢京子さんが、私を愛するの余り、結婚を申出られたのは、私にとって、いささか有難迷惑であります。なぜと云って、私の方では、少しも京子さんを愛していないからです。
併し令嬢の切 なる願いをいなむによしなく、私は明夜 私の邸宅に於 て、はれの結婚式を挙げることに致しました。そこで今晩、私は花嫁のお迎いに上った訳です。
閣下、これは少々押しつけがましい婚姻と云わねばなりません。繰返して申しますが、私は少しも令嬢を愛していないのですから。
斯様 な場合、世のならわしとしましては、花嫁に持参金をつけるのが当然であります。私はその持参金に対して目をつむって、好まぬ結婚を致すのです。金庫在中の債券十万円、右持参金として確に受領致しました。
閣下の令嬢京子さんが、私を愛するの余り、結婚を申出られたのは、私にとって、いささか有難迷惑であります。なぜと云って、私の方では、少しも京子さんを愛していないからです。
併し令嬢の
閣下、これは少々押しつけがましい婚姻と云わねばなりません。繰返して申しますが、私は少しも令嬢を愛していないのですから。
恐怖王身内 の猿類より
アア、何ということだ。ゴリラ男は又しても、死骸と婚礼をしようとするのか。しかも今度の死骸には両手がない。昔の俗語でトクリゴという奴だ。両手のない、死骸の花嫁を、彼は一体どうしようというのだろう。
ゴリラの再婚。そうだこのけだものはねや淋しくなったのだ。第二の死骸を
「恐怖王」と自称する怪賊の正体は、少しも分っていない。
読者は嘗つて、布引照子の
ただ我々が知っているのは、賊の部下に相違ないゴリラ男の奇怪なる行動ばかりだ。
ゴリラ男はどこへ行ったか。花園京子の死骸はどうなったか。無論警察では手を尽して捜索したのだけれど、その晩は勿論、翌日になっても、賊の
というのは、事件が起ってから、殆ど一昼夜を経過した、翌晩になって、やっぱりあの時と同じ様に、京子さんの死骸を
その夜十一時頃、Kという警視庁捜査課に属する私服刑事が、
「オイ、待て」
と声をかけると、相手はギョッとして振向いたかと思うと、いきなり恐ろしい早さで駈けだしたが、そのチラと振向いた人物の顔は、どうも人間ではない。何か猿類に属する動物の様に感じられた。
まさか猿が着物を着て走っている訳はないがと、K刑事は変な気持になったが、ヒョイと思い出したのは、「恐怖王」の一件だ。しかもその前晩、花園伯爵令嬢の死骸がさらわれた事実がある。さらった奴は、そうそう、ゴリラとあだなを取った「恐怖王」の手下であった。さては、あいつゴリラ男だな。そして、小脇に抱ているのは伯爵令嬢だな。
「しめた! 大物だぞ」
刑事は、勇躍して怪物の跡を追った。
人通りもない淋しい町だ。追うものも逃げるものも、何の
いくらゴリラでも重い荷物を持っていては、そうそう走れるものではない。二人の距離は段々せばめられて行った。
このまま走っていては、瞬く内につかまるに極っている。何とかしなければならない。ゴリラ男は
「エエ、これが
彼は憎々しく怒鳴りながら、抱ていた死骸を地上に投げつけて更に走り続けた。
刑事は、この
ゴリラ男はその隙に、十間程も逃げのびることが出来た。若し、その時、彼の前方から、あの巡査がやって来なかったら、まんまと逃げおおせたかも知れない。だが、
二人の警官は、賊の繩尻を取って、令嬢の死骸の倒れている場所へ引返した。
「君、今も云う通りこいつは恐怖王の手下のゴリラに違いない。この死骸を抱て走っていたのだからね。これは君、花園伯爵の令嬢だぜ」
K刑事が説明した。彼等は見知り越しの間柄だ。
「フム、そうか、昨夜の一件だね。こいつはでっかい捕物だぞ」
二人は思わぬ功名にホクホクしながら、地上の死骸を覗き込んだ。街燈の光がボンヤリと、女の洋装を照らしている。
「違いない。この服装の様子では、確に伯爵令嬢だぜ」
「ヤ、美しい顔をしている。まるで人形みたいだぜ」
警官達の
「オヤ、誰だ、今笑ったのは。貴様だな、コラ、お前何がおかしいのだ」
K刑事は、繩尻をグイと引いて、ゴリラ男を叱りつけた。
賊は叱られても、まだニヤニヤ笑っている様子だったが、別に口答えはしなかった。
「待ってくれ、オイ、変だぜ」
死骸を覗き込んでいた警官が、頓狂な調子で云った。
「どうしたんだ」
「人形みたいな美しいお嬢さんだと思ったら、これは君、本当に人形だぜ。ホラ見給え、顔を叩くとコチコチ音がする」
全くそれは人形に相違なかった。洋服屋のショウ・ウインドウに立っているマネキン人形だ。
「ワハハハ······」
突然、ゴリラ男の
併し待てよ。この夜更けに、マネキン人形を抱て走っているのも変だし、それに、泥棒でもなければ、何も逃げ出す事はない筈だ。オヤオヤ、するとこいつは人形泥棒だったのか。
イヤ、どうもそうではなさそうだ。ただの人形泥棒が、あんなに死にもの狂いに逃出すのも変だし、あれ程頑強に抵抗する訳もない。その上、こいつの顔が気に食わぬ。話に聞いているゴリラ男の人相とそっくりだ。
そこで、K刑事は、いずれにもせ、何かの罪人には相違ないのだから、兎に角、その男を警視庁の留置室へブチ込んで、上役の意見を聞くことに腹を極めた。
さて、翌朝になって、花園伯爵家の書生を呼出して、首実検をさせて見ると、
「こいつです。一昨夜の賊はこいつに相違ありません」
という答えだ。その上、同じ書生の証言によって、例のマネキン人形に着せてあったのは、令嬢京子さんが当夜着ていた洋服と寸分違わないことまで判明した。
洋服の襟の裏に、京子さんの持物であることを示すイニシアルが縫い込んであったのだから間違いはない。
警視庁では、K刑事の上役の捜査係長が
ゴリラ男は、何を尋ねても、ろくろく返事もせず、返事をすれば出鱈目ばかり云っている。仕末におえぬのだ。
京子の死体をどこに隠したか。マネキン人形は何の目的でどこから盗み出したか。彼の首領の「恐怖王」とは一体何者であるか。
イヤ、そればかりではない。段々訊問を続けている内に、実に恐ろしいことが起った。係長が
彼は、ギャッという様な、不思議な叫び声を発しながら、歯をむき出して、本物のゴリラそっくりの恐ろしい相好になって、係長に
彼の昂奮は仲々静まらなかった。数日の間あばれ続けた。警官達の
人々は、この男が、人類に属するか、獣類に属するかを疑わねばならなかった。猿にしては人間の肌を持ち人語を解するのが変であった。併し、人間にしては、余りにも力強く兇暴であった。
遂には、この超人の為に、警視庁の地下室に、動物園の
だが、それは
ゴリラが捕縛された翌日の午後、アパートの書斎に考え込んでいた大江蘭堂の所へ、大型の西洋封筒に入った立派やかな招待状が舞込んだ。その
何かとお骨折り下さいました私達の結婚式を、愈々本日午後五時、D百貨店に於て挙行することに致しました。万障 御繰合 せ御列席の程願上 [#ルビの「ねがいあげ」はママ]げます。
果して、ゴリラ男は京子の死骸と結婚するのだ。イヤ、ゴリラ男ではない。この招待状には「恐怖王」となっている。いずれにもせよ、京子は賊の妻となって、恐怖王
花園京子
だが、場所もあろうに、D百貨店とは、しかも午後五時とは。何という大胆不敵、賊はあの大群衆の中で、恐ろしい結婚式を挙行する積りであろうか。
蘭堂は早速このことを、警視庁と花園家とへ電話で報告した。警視庁では直様D百貨店へ刑事が出張するという答えであった。
丁度電話をかけ終った所へ、ヒョッコリ喜多川夏子が訪ねて来た。
「大変なことになりましたわね。ゴリラの行衛はまだ分りませんの」
彼女は挨拶もしないで、そのことを云った。
「
蘭堂は今朝花園家の書生から聞かされたゴリラ男逮捕の顛末を、
「マア、人形に京子さんの服を着せて持歩いていたんですって。変ですわね。一体何の為にそんな真似をしたのでしょう」
「それが誰にも分らないのです。ゴリラは何にも云わないのです。イヤ、不思議はそればかりではありません。ごらんなさい。今こんな招待状が舞込んだところです」
夏子は結婚式の招待状を一読して、暫く黙り込んでいたが、ハッと嬉し相な叫び声を立てた。
「大江先生、あたし何だか分りかけて来た様な気がしますわ。エエ、きっとそうだわ。
蘭堂はこの若く美しき未亡人の、少々
「何が分ったとおっしゃるのです」
「この招待状の意味がです。なぜD百貨店を式場に選んだのか、ゴリラ男がどうしてマネキン人形なんか持ち歩いていたのか、ということがですわ」
「ホウ、あなたはそれが分ったとおっしゃるのですか」蘭堂は面喰って聞返した。「D百貨店を式場に選んだことと、例の京子さんの服を着せられていた人形との間に、何か関係でもあるのですか」
「大ありよ」未亡人はさも自信ありげだ。「そこに謎を解く鍵が隠されているのですわ。一見して、何の関係もない様な、この二つの事柄に、凡ての秘密が伏在しているのですわ。オオ、嬉しい。先生にも解けない謎が、あたしに解けたんですもの」
「女探偵ですね」蘭堂はあっけにとられた。「その秘密というのを僕に教えてくれませんか」
「無論お教えしますわ」夏子は益々得意である。「でも、それよか、これから二人でD百貨店へ行って見ようじゃありませんか。そして、あたしの想像が当っているかどうか確めて見ようじゃありませんか」
蘭堂は何だか狐につままれた感じであったが、夏子の言葉が満更ら出鱈目とも思えぬので、兎も角自動車を命じて、この色っぽい未亡人と同乗した。
「で、あなたは、賊がD百貨店で······あんな雑沓の場所で、この奇妙な婚礼式を挙げると思うのですか」
走る車中で、蘭堂はまるでドクトル・ワトスンの様な、間の抜けた質問をしなければならなかった。
「エエ、そう思いますわ。雑沓すればする程、賊の思う壺なのよ。恐怖王のこれまでのやり方を見れば分りますわ。あいつは、悪事を見せびらかすのが大好きなんです。死人との結婚式を、大百貨店で挙行するなんて、如何にも恐怖王の思いつき相なことじゃありませんか」
「それは僕も同感だけれど······」
「先生、ゴリラ男がつかまったのは上野公園の近くでしたわね」
「エエ、······そして、D百貨店も上野公園の近くだというのでしょう。そこまでは分るけれど」
蘭堂は一寸くやし相な表情をした。
やがて車はD百貨店の玄関に到着した。
二人は、買物に来た夫婦の様に肩を並べて、店内に入って行った。
「一体この華やかな店のどこの隅に、恐怖王が隠れているのです。あなたは僕をどこへ連れて行こうとおっしゃるのです」
蘭堂は夏子に一杯かつがれているのではないかと疑った。
「六階よ。マア、あたしについて来てごらんなさいまし」
未亡人はすましてエレベーターの昇降口へ急いだ。
そこで、エレベーターを待つ間に、ふと蘭堂の注意を惹いたものがある。昇降口の壁に貼られた、一枚の美しいポスターだ。
「六階催し物」
「婚礼儀式の生人形と婚礼衣裳の陳列会」
模様の様な字で、そんなことが大きく書いてある。
「夏子さん、分りました。これでしょう。あなたはこの催しものがあることを、ちゃんと新聞か何かで知っていたのでしょう」
蘭堂は未亡人の耳の側で囁いた。
「そうよ。すっかり当てられちゃった。流石は先生ね。どうお思いになって? あたしの想像は間違っているでしょうか」
夏子はニヤニヤしながら云った。
「余り
二人はエレベーターにのって、六階へ
竹の柵に押し並んだ見物の頭の上から、花婿人形と花嫁人形の、
「あれよ。若しそうだとすれば、きっとあれよ。前へ出て見ましょうよ」
夏子は蘭堂の手をとって、見物を押し分けて行った。
婚礼の飾り物をした、広い床の間を背景に、新郎新婦、
如何にも華やかな、はれがましい結婚式だ。若しこの花婿人形が恐怖王その人であり、花嫁人形が京子の死骸であったとしたら、賊の計画は実に見事に成功したものと云わねばならぬ。
だが、あのとりすました新郎新婦が、人形ではなくて、本物の人間だなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。
「ねえ、先生、花嫁人形がすこしうつむき過ぎてやしないこと。顔が電燈の蔭になってますわね。人形師があんな下手な飾りつけをしたのでしょうか」
熱心に見つめていた夏子が、蘭堂の袖を引いて囁いた。
「ウン、少しおかしいですね。それに、あの顔はどこやら見覚がある」
「エエ、あたしもそう思うのよ。
「そうです。見ている内に段々京子さんの
蘭堂は群集を抜け出して、一人の店員を呼止め、何事か囁いた。店員は最初の間、取合おうともしなかったが、段々真面目な顔になって、遂には真青になって、どこかへ駈け出して行った。
間もなく、年配の店員が
見物達は、婚礼式の場面の前から追いのけられた。二人の刑事と蘭堂とが舞台に上って行った。
「やっぱりそうだ。これは人形じゃない」
一人の刑事が、近々と花嫁人形を覗き込んで叫んだ。
「だが、この手は両方とも、コチコチ云うぜ、確に人形の手だぜ」
今一人の刑事は、花嫁の両手を叩き合わせながら、不思議そうに云った。
「イヤ、この死人には両手がないのです。賊の為に切取られたのです。だから、手丈けは人形の手がつけてあるのです」
蘭堂はそう説明しながら、花嫁の顔に触って見た。木にしてはあまり冷い。その上、フカフカと弾力があるのだ。
「ヤア、ひどい匂だ。どうしてこの匂に気がつかなかったのだろう。近寄って見たまえ、たまらない匂がする」
刑事の一人が無作法に怒鳴った。
かくして、花園京子の死体は発見されたのである。
賊は確に彼の約束を実行した。衆人環視の百貨店内に於て、恐ろしき結婚式を挙行した。
だが、発見されたのは花嫁ばかりだ。花婿は一体どうしたのだ。お嫁さんばかりの婚礼式なんてないことだ。
すると、このとりすました花婿人形が、やっぱり本物の人間なのだろうか。若しやこれは、恐怖王その人の巧妙極まる変装姿ではあるまいか。
そう思うと、蘭堂は一種異様の戦慄を感じないではいられなかった。
彼はツカツカとその人形に近づいて、いきなり肩の辺をつきとばした。
すると、人形は、ガタンと音を立てて、坐ったままの形で、その場に転がってしまった。着附けがくずれて、半分しかない胸部があらわになった。
「オヤ、この人形の胸になんだか書いてあるぜ」
刑事はそれに気づいて叫んだ。
人々は転がった花婿人形のまわりに集った。その胸を見ると、確に、
花婿恐怖王の役目を勤めたるこの人形、恐怖王の身替 りとして逮捕なさるべく候
賊の余りと云えば傍若無人な冗談に、あっけにとられて、暫くは口を利くものもなかった。大江蘭堂は、美しき未亡人喜多川夏子と共に、D百貨店花嫁人形の怪異をあばいた翌日、彼のアパートの寝台で、お昼頃まで朝寝坊をした。前夜花園家で京子のお通夜があったからだ。
顔を洗って着物を
「ごめん下さい、大江さんのお部屋はこちらですか」
廊下に見知らぬ男が立っていた。
黒の背広に黒のネクタイ、大きな黒眼鏡をかけて、
「僕、大江ですが······」
蘭堂はこの男を全く見知らなかったので、変な顔をして答えた。
だが、読者諸君はご存じだ。この小柄な長髪の男こそ、ゴリラ男の首領、||恐らくは「恐怖王」その人なのだ。
このお話の初めの所で、ゴリラ男が運転手に化けて、布引照子の
「初めてお目にかかります。僕
怪人物が、優しい作り声で名を名乗った。無論出鱈目に極っている。
「どういうご用でしょう」
蘭堂はうさんらしく相手を見上げ見おろしている。
「アノ、実は恐怖王の一件について······」
黒瀬と名乗る小男は、声を低くして、物々しく云った。
「恐怖王」と聞いては、逢わぬ訳には行かぬ。蘭堂は早速黒瀬を
「ゴリラは白状したでしょうか。新聞にはそのことが何も出ていませんが」
怪人物は椅子にかけると、何の前置きもなく初めた。
「何も云わないのです。共犯者のことも云わないし、自分の名前さえ白状しないのです。ただ、野獣の様にあばれ廻るばかりで、手におえないのです。とうとう、警察でも持て余して、動物を入れる檻の中へとじこめたということです」
蘭堂は聞き知っているままを答えた。
「そんなにあばれるんですか。あいつが」
「本当のゴリラみたいに、食いついたり、
「そうですか、じゃ、やっぱりあいつかも知れない」
黒瀬は思わせぶりに云った。
「エ、あいつとおっしゃると? あなたはあのゴリラについて何か御存じなのですか」
蘭堂は聞き返さないではいられなかった。
「エエ、お話の様子では、どうも僕の知っている奴らしいのです。新聞の写真を見て、あんまり似ているものだから、若しやと思って、お
そして、黒瀬は彼自身を手短に紹介した。それによると、彼は
「それはよくこそ。御承知の通り、僕はあいつにはひどい目に合っているのですから、恐怖王の正体をあばくのに参考になることでしたら、喜んで伺いますよ」
「あなたは、あのゴリラ男の外に、恐怖王と名乗る元兇がいるのだとお考えですか」
「無論そうだと思います。あの野獣みたいな男の智恵では、こんな真似は出来っこはありません」
「そうでしょうね。僕もそう思うのです。ゴリラというのが僕の知っている奴だとすると、そいつは子供程の智恵もないのですからね」
「あなたはどんな関係であいつを御存じなのです」
「僕の
「飼っていたんですって?」
蘭堂はびっくりして叫んだ。
「エエ、飼っていたんだよ。あいつはね。どうも純粋の人間ではない様に思われるのです」
黒瀬は恐ろしい事を云い出した。
「今度警察へとらえられても、檻の必要があるというのは、つまりあいつが人間ではないからです。香具師というものは、お金
「すると、あいつは、あなたの家から逃げ出した訳ですか」
「そうです。もう六年ばかり以前のことです。僕の家に
「なんだかゾッとする様なお話ですね。で、あいつは何という名前だったのです」
「
「それから三吉を盗んで行った奴は?」
「イヤ、それはあとにして下さい。それが若しあの恐怖王だとすると、
「無論見せてくれると思います。警察ではゴリラの素性が分らなくて困っているのですからね。その上あなたが共犯者を見知っていられるとすれば、こんな耳寄りな話はありません。喜こんで見せてくれるでしょうよ」
そんな風に、二人の話はトントン拍子に進んで行った。
蘭堂は、警視庁へ電話をかけて、知合いの捜査課長に話をすると、すぐその人を連れて来てくれという返事であった。
それから一時間程
「すると、あなたとあのゴリラとは、戸籍面では兄弟という事になっているのですか」
捜査課長のS氏は、先に立って薄暗い段々を降りながら、尋ねた。
「エエ、僕の兄に当る訳です」
黒瀬は真面目な声で答えた。
何だか変な具合であった。考えて見ると、これは六年ぶりの兄弟の対面に相違なかった。何という異様な対面であろう。兄の方は一匹の野獣として、動物の檻の中にとじこめられているのだ。
奥まった薄暗い部屋のドアが開かれると、その中に頑丈な鉄の檻があった。檻の中には動物園の熊の様に寝そべっている黒いものがあった。
「コラ、起きろ起きろ、お前に逢い度いという人があるんだ」
S氏は靴で檻の
野獣はビックリした様に、ヒョイと顔を上げてこちらを見た。ゴリラの目と黒瀬画家の目とが、カチッとぶッつかった。
「アッ、お前······」
ゴリラが何か叫びかけてハッと口をつぐんだ。非常に驚いている様子だ。
「僕だよ三吉。覚ているかね、黒瀬
画家は、ゴリラの目を見つめながら、
「三吉、お前は飛んでもないことをしたんだ相だね。その上、捕まってからも、人を
黒瀬は檻の鉄棒に顔をくッつけて、涙ぐんだ声で、
黒瀬は話しながら、鉄棒の間から手を入れて、ゴリラの背中をさすったり、その手を握ったりした。そんなにされても、ゴリラは、まるで猛獣使いの前に出たけだものの様におとなしかった。
画家とゴリラとの不思議な対面は三十分程もかかった。彼はその間、ゴリラを説き伏せる為に、ボソボソ、ボソボソ囁き続けていたのだ。そして、結局彼の努力は報いられた様に見えた。
「とうとう説き伏せました。三吉は今度のお検べには、何もかも白状すると云っています」
黒瀬は少し離れて待受けていた二人の方へ戻りながら云った。
捜査課長はこの吉報にひどく喜んで、お礼を云った。
黒瀬は何かもじもじしていたが、
「洗面所はどちらでしょうか」
と尋ねた。
捜査課長はドアの外へ出て、その所在を教えた。黒瀬はさいぜんから我慢していたものと見え、妙な走り方をして、その方へ急いで行った。
そして、それっ
一方檻の中でも妙な事が起っていた。
「オイ、三吉、何をしている。どうしたんだ」
捜査課長が驚いて檻に駈け寄り、又コツコツと、その縁を靴で蹴った。
だが、今度はゴリラは何の反応も示さなかった。彼は長々と横たわって
「今話をしていた奴が、もう寝入っている。何ということだ。コラ、起きぬか、起きぬか」
S氏は鉄棒の間から手をさし入れて、転がっているゴリラの身体を烈しくゆすぶった。だが少しも手ごたえがない。まるで死んだ様だった。数分間でこんなにもよく寝込めるものだろうか。
「変ですね、どうかしたんじゃありませんか。そいつの顔色をごらんなさい」
蘭堂が檻を覗き込んで云った。
ただ事ではなかった。ゴリラは死にかけているのだ。何の原因もなく、突然こんな発作が起るものだろうか。
「それにしても、あの黒瀬という人は何をしているのだろう。馬鹿に長いじゃありませんか」
S氏がふとそれに気づいて云った。
二人の胸に殆ど同時に、ある恐ろしい考えがひらめいた。
「オイ、君さっき出て行った黒瀬という人を探してくれ給え、洗面所にいる筈だ。大急ぎで探してくれ給え」
S氏は外の廊下に立っていた一人の警官に命じた。
だが黒瀬の姿は、洗面所は勿論、庁内のどこの隅にも発見されなかった。
一方ゴリラ男の容態を見る為に医員がかけつけ、檻の戸を開いて中へ入って行った。
彼はゴリラの身体を綿密に検べ終って顔を上げた。
「腕に注射針の痕があります」
「毒薬ですか」
捜査課長がびっくりして聞返した。
「エエ、多分······」
医員はある毒薬の名を答えた。
「それで生命は?」
「分りません。至急に手当てをして見ましょう。こんな頑強な男ですから、うまく命をとりとめるかも知れません」
医員はゴリラ三吉の脈を圧えながら云った。
二人の警官が医員の指図に従って、ゴリラを檻から出して、階上の別室へ運んで行った。
庁内は俄に色めき立った。捜査課長は自室の電話口で、黒瀬と称する男の人相風体を怒鳴り続けた。黒瀬捕縛の非常線がはられたのだ。
ゴリラに毒薬を注射した者は黒瀬の外にはない。何よりの証拠は彼が姿を消したことだ。ゴリラ男の奇妙な身の上話も、三吉という名前もみんな出鱈目に極っている。彼は捉われた同類に接近する為に、
あわよくば同類を救い出す積りであったかも知れない。だが、それが絶望と分ると、彼は我身の安全をはかる為には、同類をなきものにする外はなかった。幸、まだ何も白状していないのだから、今の内に殺してしまえば、彼は永久に安全でいることが出来るのだ。
だが、それ程ゴリラの自白を恐れた黒瀬という男は
警察の物々しい捜索にも
一方毒薬の為に意識を失ったゴリラ男は、普通の人であったら即死すべき所を、野獣の様な体質のお蔭で、
その騒ぎがあってから七日目の夜のことである。
大江蘭堂は喜多川夏子に誘われて、鎌倉の彼女の家に客となっていた。
恋人を失った悲しみはまだ新しかったけれど、この若く美しき未亡人の、友達としての魅力は捨て難きものがあった。
彼女は美しかったし、お金持であったし、蘭堂に並々ならぬ好意を寄せていたし、その上、女に似げなき推理の名手であって、D百貨店の花嫁人形事件では、謂わば専門家の蘭堂をさえアッと云わせた程だから、最初は嫌い抜いていた蘭堂も、いつの間にかこよなき友達としてつき合い始めたのは、無理もないことであった。
例によって夏子のもてなしは、至れり尽せりであった。二人切で食卓を囲んで、すてきな手料理と香り高い洋酒の瓶が、幾色も幾色も並べられた。
「いくら我身が助かりたいからといって、あんなに忠実に働いたゴリラ男を殺してしまおうとするなんて、惨酷じゃありませんか」
話は当然そこへ落ちて行った。
「でも、恐怖王にして見れば、外に仕方がなかったのかも知れませんわ」
「併し、あいつはもともと、俺は恐怖王だぞと広告しているんじゃありませんか。仮令ゴリラが本当のことを白状した所で、その為に捉えられる様なへまな真似はしない筈です。助手に使う為にゴリラを救い出す必要はあったかも知れないが、何も殺すことはなかったでしょう」
「でも、恐怖王の方には、何かそうしなければならない様な、特別の事情があったのかも知れませんわ」
夏子はもう目の縁を赤くしながら、妙に賊のかたを持つのである。
「特別の事情って?」
蘭堂も少し酔っていた。酔うに従って話相手が、段々美しくなまめかしく見えて来るのであった。
「例えば、恐怖王が、一方では私達の様に普通の社交生活をしていて、その仮面をはがれては困るという様な······」
夏子はあどけない巻舌になって云った。
「ホホウ、あなたは、あの殺人鬼が、我々と同じ様な善良な社交生活を営んでいるとおっしゃるのですか」
「エエ、そうでなければ、あんな危険を冒して、ゴリラを殺しに行く筈がありませんもの。若しかしたら、恐怖王は恋をしているんじゃないかと思いますわ。恋人に身の素性を知らせたくない為ばかりに、あんな冒険をやったのではないかと思いますわ」
そう云って、夏子はうるんだ目で、じっと蘭堂の顔を見つめた。蘭堂の方でも、何故か相手の目を覗き込まないではいられなかった。二人はお互の目を見つめたまま、長い間黙り込んでいた。そこに何かしら異様な、ゾッとする様なものが感じられた。
「ホホ············」夏子が頓狂に笑い出した。
「サア、これを一つ召上れ。強いのよ。でも大丈夫。あたし
彼女は、なまめかしく云って、赤い色の洋酒をグラスについで勧めた。
蘭堂は妙なゾッとする様な感じを払いのけようとして、それを一息に飲みほした。火の様に熱い酒だった。喉から食道がカーッとほてって、それが、胃袋に落ついた時分に、俄に脈が早くなって来た。脳髄がズキンズキンと持ち上げられる様な気がした。そして、夏子の美しい顔が、ズーッと遠く小さくなって、いつとはなく意識がぼやけて行った。
蘭堂は、目まぐるしく変転する長い長い夢を見つづけていた。
それは歯の根も合わぬ程恐ろしい快い悪夢であった。真暗な中に白い巨大な芋虫の様なものが、無数にクネクネとよじれ合っていた。それが様々の色に変って行った。赤い芋虫が一等恐ろしく、ゾッとする様な魅力を持っていた。
変転する場面は、皆その様な感じのものであった。どれもこれも身の毛もよだつ悪夢であった。
夢見ながら、触覚では、絶え間なく、暖くて柔い触手の様なものでくすぐられるのを感じていた。
グッショリ油汗になって、ふと目を覚ますと、顔の上に何か重い柔いものが乗っかっていた。それが夏子の顔であることを悟るのに長い時間かかった。
彼が身動きすると、夏子は顔を離して、枕元に立った。もうちゃんと着替えをすませて、お化粧さえしていた。
まだおぼろげな意識で、ぼんやり見上げている蘭堂の頬を、軽く叩いて、彼女はニッコリ笑った。
「可愛いお坊ちゃん、お目がさめて?」
そういったかと思うと、彼女は何か用ありげに
蘭堂はそれを見送りながら、声をかける気力もなく、三十分程もウトウトしていた。身体の節々が抜けて行く様な、快さにひたっていた。
女中が新聞とコーヒーを枕元の小卓へ置いて行ってくれたのも、夢の中の様におぼろげであった。
長い間かかって、やっと意識がハッキリすると、彼は毎朝の習慣に従って、枕元の新聞を取った。
重いカーテンがおろしてあるので、
彼は卓上の電燈をひねって、夜の光線で新聞を読み始めた。
「ゴリラ男」脱走す
昨夜深更○○病院から
全市に非常警戒
記事はただ病中のゴリラ男が脱走して行衛知れずという丈けで、詳しいことは分らなかったが、考えて見ると、首領恐怖王から毒薬注射を受けたのちのゴリラである。再び首領の前に頭を下げて行く筈はない。愚かものの彼とても、それ位のことは分っているだろう。
イヤ、愚かものである丈けに、我身の危険などは顧みず、ただ恨みに燃えて、同類を裏切った首領に
「ゴリラの脱走を聞いて震え上るのは、一般市民でなくて、寧ろ彼の首領の恐怖王その人ではあるまいか」
蘭堂は苦笑しないではいられなかった。彼等は同志うちを始めるに極っている。そして、どちらが勝つにしても、世間はいくらか助かるのだ。
そんなことを考えていると、どこからか恐ろしい悲鳴が聞えて来た。「助けて······」という様に聞えたが、云い切ってしまうまでに、何かに圧えつけられた様に、パッタリ途絶えてしまった。
確かに夏子の声であった。どうしたというのだろう。ゴリラ脱走の記事と今の悲鳴との、妙な符合が蘭堂をギョッとさせた。
彼は大急ぎで寝台を飛び降りると、
廊下には二人の女中が青くなって震えていた。聞いて見ると、今の声はどうやら二階の書斎らしいとのことだ。
彼は階段を飛上ってその部屋へ駈けつけた。
ドアは開かぬ。内側から鍵をかけてある様子だ。
聞耳を立てると、部屋の中で、何者かの息遣いがハッハッと聞える。
蘭堂はふと気がついて、ドアの鍵穴に目を当てた。
案の定、そこにゴリラ男がいた。
彼は何故か案の定という気がしたのだ。
病院を逃げ出した彼は、昨夜の内にこの邸へ忍込んでいたものに相違ない。何故彼はここへやって来たのか。
ゴリラはハッハッと息をはずませていた。牙の様な大きな歯が真赤に染って、唇からボトボトと赤い
「そこへ来たのは、大江の野郎だな」
突然血走った目が鍵穴を睨みつけて、赤い口が怒鳴った。
「ハハハ······、馬鹿野郎!
ゴリラは嘲笑しながら、鍵穴に鍵をはめてカチカチと廻した。
一押しでドアは開いた。だが、蘭堂は
躊躇している間に、ゴリラはもう向側の窓枠に足をかけていた。そして、パッと彼の姿が窓の外へ消えると、空中に不気味な笑い声が残った。ゴリラは二階の窓から庭へ飛び降りたのだ。
蘭堂がその窓へ駈けつけた時には、ゴリラはもう塀を乗り越していた。
今から階段を廻って追駈けたのでは
仕方がないので、階下に飛んで降りて、女中に警察と附近の医者へ電話をかけさせて置いて、又元の二階へ取って返した。こんな時に書生がいてくれれば助かるのだが、それも
ゴリラよりも気がかりなのは夏子のことだ。手傷を受けた丈けならいいが、もしや殺されてしまったのではあるまいか。
夏子は部屋の片隅にもみくちゃになって倒れていた。調べて見ると、息も絶え脈もなくなっていた。喉をしめられた跡が紫色にふくれ上っている。右頬を喰いつかれたと見え、ザックリ肉が開いて、顔中が
ゴリラ男が云い残して行ったテーブルの上を見ると、そこに実に奇妙な品々を発見して、蘭堂は
一着の古い黒の背広服、黒
その側に、数枚の手紙の様なものが、キチンと重ねて、
蘭堂は、悪夢の続きでも見ている様な気がした。この服、この帽子、この眼鏡、凡て黒瀬と名乗った怪画家のものではないか。ゴリラに毒薬の注射をして逃げ去った、恐怖王その人と覚しき怪人物のものではないか。彼は果して変装していたのだ。長髪も口髭も、皆にせものであったのだ。
では、一体
如何に不思議に見えようとも、それはここに殺されている喜多川夏子その人と考える外はない。でなくて、病院を脱走したゴリラ男が、態々夏子を殺しにやって来る筈はないからだ。
ゴリラ男は「ここはお前の敵の家だ」と云った。夏子が若し「恐怖王」であったとすれば、如何にも敵の家に相違ない。蘭堂は我が恋人を殺害した当の敵と同じ
余りに事の意外さに、蘭堂は暫くぼんやり
それは皆「恐怖王」と自称する
布引照子の棺桶を盗み出す手筈を打合せた一通があった。照子の死骸を自動車に乗せて、恐怖王(
どれもこれも、通信者相互に丈け分る様な、符号に近い文句であったけれど、事件を最初から知っている蘭堂には、なんなく判読することが出来た。
しかも、何より恐ろしいのは、その手紙の文字が、よく知っている喜多川夏子の筆蹟に相違なかったことだ。最早や疑う余地はなかった。
「恐怖王」とは、この美しき一女性に過ぎなかったのか、余りにあっけない種明しではないか、これが本当だろうか。蘭堂はいくら証拠を見せつけられても、それを信じる気にはなれなかった。
彼女はあの美しい顔をして、実は恐ろしい精神病者であったのだろうか。血に
だが、殺人狂としても、これらの犯罪には、何かしら一つの思想が含まれている様に見えるではないか。
極った様に死骸に化粧を施して結婚式を行うというのには、単なる殺人狂以上の意味があり相に見えるではないか。
それは金銭をゆすり取る手段であったかも知れない。又犯罪者の虚栄心から出た奇抜なお芝居であったかも知れない。だが、その奥にもう一つの意味が隠されてはいないだろうか。
蘭堂は知らなかったけれど、布引照子の恋人鳥井純一は、一夜生けるが如き照子の姿に引き寄せられ、彼女の声を聞き、暖い肌触りを感じたではないか。これは一体何を意味するのだ。そこには、照子の死骸の蔭に、犯人喜多川夏子がひそんでいて、腹話術を使い、死骸の身替りを勤めたのではあるまいか。
今又大江蘭堂は、恋人花園京子を奪われた上、一夜を夏子の家に明かすこととなったではないか。そこに一脈の相通ずるものが隠されているのではなかろうか。
蘭堂は、そこまで深く考える余裕はなかったけれど、何とも知れぬいまわしさに、目の前が暗くなる様な気がした。
× × × ×
間もなく所轄警察から多数の警官が駈けつけて、附近を隈なく捜索したのは勿論、鉄道の駅々、街道という街道へ非常線をはって、人間ゴリラを待受けたけれど、彼はどこへ逃げ込んだのか、幾日たっても警察の網の目にかからなかった。
一目見ればそれと分る奴だから、人中へ出て来れば、忽ち捉まるは知れている。しかも、いつまでたっても消息がない所を見ると、彼は故郷の深山へと分け入って、元の猿類に帰ってしまったのではあるまいか。
警察でも世間でも、恐怖王の正体が一未亡人に過ぎなかったという結論では、どうも満足が出来なかった。彼等は何かしらもっとすばらしい超人を期待していた。
ひょっとしたら、それらは凡て、奥底の知れない極悪人の、巧みにも拵え上げた偽証ではなかっただろうか。
本当の恐怖王は、まだどこかに生き永らえていて、次の大それた計画を目論んでいるのではあるまいか。そして、夏子未亡人は、賊にとっては仇敵である大江蘭堂と恋をしたばっかりに、さし当りその筋を油断させる為の、可哀相な替え玉に使われたのではないだろうか。つまり黒瀬と称するあの怪画家と、夏子未亡人とは全く何の関係もなかったのではないか。
あの毒薬の注射にしても、ゴリラを殺すのが目的ではなく、一時
だが、それは永久に解き難き謎であった。再び「恐怖王」が活躍を始めるか、行衛不明のゴリラ男が姿を現わすか、それとも