「||
「はい」
「今日もまた家中の若い奴等が何か悪さをしたそうではないか」
「なに、つまらぬ事でござります」
「
「どう
浅二郎は色白の顔に静かな微笑をうかべながら、
「いずれも腕達者の方々、かえって良き勉強をいたしてござります」
「そう思って忍んでくれれば重々じゃ。||馬鹿な奴等めが、深い
「御心配をお掛け仕り、私こそ申訳ござりませぬ······」
「時にどうじゃ、娘は気に入ったか」
「······は?」
「娘
浅二郎はさっと
「
「はぐらかしてはいかん||浅二郎」
源兵衛は微笑しながら、「遠慮も良いが事と次第がある。分るか、ことに男女の仲というやつはそうだ、遠慮がかえって無遠慮になるという事もあるぞ」
「はい、||よく、承知いたしております」
「そうか、分っているならいい」
源兵衛は
「||それは又······」
「何も申すな、わしの計いじゃ、行け」
万事承知と云いたげな
困った事になったと思った。奥の間と云えば次間のない部屋である。どうでも不由と
婿に来て五十余日になるが、娘はかつて一夜も同じ部屋に
「弱った、また
「||浅二郎さま」
不由は
「これはどうした訳でござります」
「私は知らないのです······」
「お言葉にお気をつけ遊ばせ!」
ぴしりと叩くように
「||気をつけましょう」
「貴方は父に何を
浅二郎は逆う様子もなく、
「別に何も申した覚えは······」
「ない事はございますまい。貴方が仰有らないでこんな事になる筈がありませぬ、武辺一徹の父に、||夫婦の
「実際のところ知らないのです」
そう云う浅二郎の顔へ、不由は冷やかな
「改めて申上げるまでもありませぬが、例え父の申付で祝言こそ挙げたれ、わたくしには心を許せぬ方に身を任す事などできませぬ||お分りでございましょうね」
「御意のままに······」
「父上に仰有らぬと云うならそれ迄です、わたくしはあちらで寝みますから||」
不由は云い捨てて立上った。
霜月の冷やかな夜のしじまに、ただ一人
「||まるで四面の楚歌だな······」
と呟くのだった。
浅二郎が矢走家へ入婿した事情を知っているのは、藩主
時はこれ、
「現今諸侯のうち、現銀三千両を有するもの五指を出でず」
と喝破せしめた寛政年度。徳川幕府を始めとして大小の諸藩、いずれも財政難に当面していたが、讃岐多度津の京極家もその例にもれず、年来の疲弊積り積って藩政はほとんど
ここにはその詳細を述べる要はないが、最も困惑を感じていたのが大阪の富商
「とても我々の思案では切抜けられぬ」
と匙を投げた国老厨川靱負は、高信に向って最後の案を申出た。
「この上は是非がござりませぬ、京の
「
「お上には
岡田寒泉は医学国文に通じ、幕府に召されて昌平黌に
「ではとにかく当ってみよう」
と高信は事情を具して、京に隠退している寒泉の許へ使者を立てた||寒泉は高信の使者から精しく仔細を聴取ると、
「これは愚老が参ってもいたし方がない」
と云って使者に一通の書面を托して帰した。
待兼ねていた高信がそれを受取って読んでみると、||「大阪の唐物売買商(現今の貿易商)
大阪の難波屋宗右衛門と云えば、唐船物を扱って巨万の富者と評判の商人である。その伜とあれば理財の道にも長じていようし、また寒泉先生が推薦する以上凡人ではあるまいと、早速使者を立てて浅二郎を迎えたが、素性が商人では藩政に参与させる事はできない、しかも重要な役目に就かせるのだから、身分も相当にする必要がある||と云う訳で、高信のお声掛りを以って矢走源兵衛の一人娘、不由の婿にと入ったのであった。
「なんだ商人上りの
「恐らく金の力で押掛け婿を
「あんな生白い奴に御槍奉行の跡目を継がせるとは四国武士の恥辱だ」
「構わぬから居堪らぬようにしてやれ」
と折さえあれば恥辱を与えるのだった。||娘不由も同様、事ごとに冷たい眼と、冷たい言葉で浅二郎を迎え、五十余日になる今日まで一度も閨を許さぬのである。
「早く役目を果しさえすれば||」
浅二郎は寂しげに呟いた。
「しかしあの不由、······京にも稀なあの美しさのどこに、あんな烈しい気性が隠れているのだろう。あの冷たい眼の底に時々ひらめく火花のような光は何だ||? この頃どうかするとおれは、あの眼の色が頭について忘れられなくなってきた。不思議な娘だ······」
「浅二郎||」
廊下で不意に、源兵衛の声がした。
「はい」
「不由は居るか」
様子を見にきたのである、浅二郎は苦笑しながら声をひそめて、
「お静かに願います、いまよく睡ったところでござりますから」
「そうか、||冷えるのう」
源兵衛は安心したように云うと、
国老厨川靱負は浅二郎を呼んで、
「どうするのだ」
ともどかしげに云った。
「もうこれ霜月十日、山屋の仕切日まで余すところ僅かとなっている。もう何とか方策が建ったであろう」
「は、いましばらく、||」
「しばらくしばらくと云って何をしているのか、聞けば六十余日になる今日までろくろく書類も
明らかに皮肉である。
「とにかくもう少々お待ちを願います」
浅二郎はそう答えて
恩師寒泉は別離に臨んで、
「これはお主でなければできぬ仕事だ、もし行ってみて妙策がなかったなら、京極家の家譜を調べるがよい、必ず悟る事があろう」
と
浅二郎は多度津へ来て、藩政の一般にざっと眼を通しただけで、とても急場を
「何の為に家譜を見るのか」
浅二郎には謎だった、「果してお言葉通りを信じてよいものか||?」
そういう迷いも出た。
しかし、現に必至の期日を控えて他に策がないのである。浅二郎は毎日登城するとすぐに書庫へ入って、食事の暇も惜しく家譜の繙読を続けるのであった。
靱負の督促は日毎に烈しく、
「どうだ妙案が建ったか」
「今日こそ待兼ねたがどうした」
「もう幾十日しかないぞ」
と
疑いは疑いを生んで、いよいよ寒泉の許へ書面を出そうかと思いはじめた、||十一月十九日のことである、家譜を調べて慶長十五年七月の項にかかった時、何を読当てたか急に
「||や、これは」
と低く叫び声をあげた。そのまましばらくは喰入るように記録を読んでいたが、
「これだ、これだ、これに相違ない」
生返ったように呟くと、すぐに筆紙の用意をして記録の一部を書写しにかかった。
家譜の中から何を発見したかと云う事は後に分る。
「どうした、手段がついたか」
靱負は顔を見るなり訊ねた、
「は、どうやらできそうにござります」
「なにできると云うか」
靱負は思わず膝を乗出す、
「してその法は||?」
「改めて申上げるほどの事でもござりませぬ、時が参れば自然とお分り遊ばしましょう、どうぞ私にお任せくださるよう」
「だが||大丈夫であろうな」
「さよう
浅二郎の顔には明るい微笑があった。
城を退出して、途中飛脚問屋へ立寄った浅二郎が、屋敷へ帰ろうとしてお徒士町まで来ると、後から大声に、
「待て、
と呼ぶ声がした。
||また家中の若い奴等だな。
と思ったから、聞えぬ風をして行くと、
「待てと云うに貴様
「どなたでござる」
振返ると果して、
「これはお
五郎兵衛が喚きたてた。
「あんな大声で呼んだのに
「こいつ······落着いたことを||」
酒臭い息を吹きながら、五郎兵衛いきなり胸倉を取ろうとする。浅二郎は軽く
「お危のうござる」「うぬ、手向いするか」
酔っているから無法だ、
「む! こ、こいつ||」「
松井総助が喚くと、酔ったまぎれに半分は
「この冬瓜面

と叫びざま、右手からだっと抜討ちをかけた、余りの無法さに堪忍の緒を切った浅二郎、
「馬鹿者、何をする」と絶叫して、飛鳥のように身を跳らせたと見ると、五郎兵衛は突放されて仰さまに
「何を
浅二郎は眉をあげて叫んだ、「新参なればこそ遠慮をしているのにおのれを知らぬ無道者。それほど望みなら改めて
日頃の柔和さとはガラリ変った態度、色白の顔にほんのり血の気がさして、大きく
「ふふふふ」
浅二郎は低く笑った、
「どうやら御三名とも喧嘩は不得心と見えるな、こっちもたって買おうとは云わぬ。口惜しかったら、闇討でもかけるがいいであろう、失礼だが貴公らの
そう云って、冷やかに三人を見廻したが、さっと
「||出来る、見損った」
五郎兵衛は半身を起したまま、浅二郎の後姿を見送って嘆賞の声をあげた。
この有様をもう一人、それこそ夢見るような気持で見まもっていた者がある、||街並の軒に隠れていた女||不由であった。所用あって通りかかりに、思いがけぬ浅二郎の姿を発見して、彼女は身動きもならず立ちすくんでいたのだ。
「まあ······あの浅二郎さまが」
頬を染め、熱い
その夜、||夕食が終って後、居間へ引取った浅二郎は、机の上に筆紙をひろげて、長いこと何か書き物をしていた。四つ頃(午後十時頃)であった、
「まだお寝み遊ばしませぬか」と云う、浅二郎はちらっと見やって、
「はあ、いま少し||」
と云ったまま再び書き物を続けた。不由はしばらく黙っていたが、
「お茶をお
と
「いや、||欲しくありません」
浅二郎は短く答えたまま筆を続けた。
不由はかすかに太息をついた、||胸いっぱいに

不由は、けれどそれをどう相手に伝えてよいのか分らなかった、浅二郎は見向きもせずに書き物をしている、||やがて、不由は静かに立って部屋を出た。そして二人の寝所へ入って、帯も解かずに浅二郎の来るのを待っていたのである、||すっかり夜が明けるまで······。
浅二郎が書き物をおえて、居間から出てきたのは朝食の支度ができてからだった。
「どうした、眼が赤いではないか」
「はい、どうやら御改革の案が建ちましたので、昨夜その試案を練ってみました」
「ほう、いよいよできたか」
源兵衛は欣然と乗出した。
「多分うまく参ろうかと存じます。就きましては、当分のあいだ御城内に留らねばならぬかと存じまするゆえ、さよう御承知置きください」
「おおいいとも、大事の際じゃ、留守は源兵衛が引受けるで充分にやってこい」
「
不由は悲しげに、脇から浅二郎の横顔を覓めていた。
登城した浅二郎は、その日から勘定方詰間へ
こうした日がおよそ十余日も過ぎた、十二月十日の朝である、宿直の番士がやってきて、
「矢走氏、かような書面を持った使の者が、
と伝えた、浅二郎は書面を受取って披読すると、即座に立って、
「御苦労でござる、拙者が参りましょう」
と出ていった。
河面口御門へ行った浅二郎は、半刻ほどして戻ってくると
「||何か用かの」
「御登城早速ながら、お上へお目通り仰付けられたく、お願い申上げまする」
「お目通りの筋は何じゃ」
「かねてお申付に与りましたる件、ようやく落着仕りましたゆえ、ただ今より御披露申上げたいと存じまする」
「そうか、できたか」
靱負はにっこり
そう云って立上った。
浅二郎の望みで、賜謁は大書院に於て行われる事になった。上段には京極高信侯、列座は国老厨川靱負、同じく原口山城、勘定方元締役布目玄蕃の三名、||矢走浅二郎は、書上げた改革案の調書を持って
「許す、近う寄れ」
高信は待兼ねた様子で云った。
「当藩財政の改革に当って数々の尽力、過分に思うぞ」
「は、は||」
「直答許す、仔細申述べよ」
浅二郎は僅かに
「お言葉に甘え御直答申上げまする、何分にも無能鈍才の私、このたびの大役とうてい勤まるところにはござりませぬ。
「辞儀は申すに及ばぬ、聞こう」
「は、恐れながら、あれを御覧くださりませ」
浅二郎はそう云って、広庭の方を指さした。高信はじめ三名が見ると、||泉水の
「見馴れぬ物だが、何じゃ」
「御改革に入用の金十万両、御蔵入れ前に御披露申上げまする」
「なに、||十万両、とな」
高信も靱負も、山城も玄蕃も、あっと云ったきりしばらくは二の句が継げなかった。窮迫し尽して必至の場合に、天から降ったような黄金十万両、||正に夢のようである。
「浅二郎!」
高信は向直った、「かかる巨額の金を、疲弊した藩政より
「恐入りまするお言葉、私より言上仕るは
「さようか、すぐに披見しよう」
「金十万両にては充分と申す訳には参りませぬが、一応は善後の処置がつこうかと存ぜられまする、||就きましては」
と浅二郎は御改革調書を差出して、
「これに、||御藩政の
「予も見たい、預り置くぞ」
「御眼を汚し恐入りまする」
浅二郎は調書を呈出して遙かに下り、「早朝を押してお目通り仰付けられ、数々差出がましき言上を仕り恐入り奉りまする。今日はこれにてお暇くだされまするよう」
「大儀であった」
高信は重荷を下したように、
「さすがに寒泉先生の推薦だけあって、商家育ちとは思えぬあっぱれの働き、高信満足に思うぞ、||追って沙汰するまで登城に及ばぬ、帰ってゆるりと休養せい」
「は、は||」
浅二郎は平伏して御前を
十万両の金を蔵へ納める一方、高信は書庫から家譜を取寄せ、慶長十五年七月八日の項を靱負に調べさせた。
そこには意外な記録があった。
「||殿!」
一読するなり靱負が叫んだ、「十万両の金は浅二郎の生家、大阪表難波屋宗右衛門より献上のものにござりまするぞ」
「何と云う||?」
「ここにその仔細がござります。即ち、||難波屋の祖先は慶長の頃、御宗祖
「うーむ」
初めて分った十万両の出所。||さすがに寒泉の眼識は高かった、浅二郎なればこそ家譜の中からこの記録を発見し、生家に十万両呈出をうんと云わせる事ができたのである||
「申上げます」
若侍が襖際へ来て平伏した。
「御老職まで、即刻お渡し申上げるよう、矢走浅二郎殿より御書面にござります」
「浅二郎が書面||?」
訝りながら
「おお||」
と云って顔をあげた、「殿、浅二郎め、永のお暇願いを差出してございます」
「||どうした事じゃ」
「理由は申しておらず、このまま退国するとのことにござります」
「いかん、ただちに使者をやって止めろ」
高信は驚いて云った、「暇はやらぬ、予が申したと早く伝えよ」
「はは」
靱負は
その頃||。家へ帰った浅二郎は、事の始終を手短かに源兵衛へ報告すると、
「これにてお召出しに
「よいとも、何なりと望め」
源兵衛はほくほくもので、「その方ほどの婿を持って家中への面目、わしにできる事なれば何でも
「きっとお協えくださいまするか」
「よいから申してみろ、何が望みだ」
「私を離別して頂きとう存じまする」
源兵衛は眼を
「な、何じゃ、離別······離別とは||」
「一度御当家の姓を汚しましたも、ただこのたびのお役を勤めるための方便、卑しい町人の分際にてお歴々の跡目に直るなど以ての外の事||それは初めより存念になき事でござりました」
「そ、そんな馬鹿な事があって堪るか、それでは娘はどうなるのだ、娘は」
「お嬢さまは清浄
「||||う······む」
源兵衛は
「御承知くださいまするか」
「そうでもあろうが、考え直してくれる訳にはいかぬか、娘が不所存者ゆえ親のわしまで面目ない、||もしよかったら改めてよそから嫁を迎えても」
「いやいや、ただ今も申す通り、お役目を果すだけのために参りました私、もはやここに留る要がござりませぬ、お上へも既にお暇願いを差上げましたれば、ぜひとも御離別を願いまする」
「殿へもお暇を願ったと······?」
源兵衛はその一言でがっかりした。
「御承知くださいまするな」
「||||」
「では早急ながら支度がござりますゆえ」
と浅二郎が立とうとした時、
「お待ちくださいませ」
と云いながら不由が入ってきて、静かに浅二郎の前へ坐った。
「様子は次間にいて伺いました、大阪へお帰り遊ばすとのことでござりますが、それなればわたくしもお
「||それは、何故でござるか」
「わたくしは貴方様の妻、妻は
これは驚くべき一言だった。
「何を仰せらるる」
浅二郎は
「例え閨は共にせずとも、夫婦して同じ家の内に
「や、や||うまいぞ!」
源兵衛がいきなり喚いた。
「うまいぞ娘、同じ家におれば、ひとつ寝せずとも男の気が籠って懐妊するか、あっぱれだ、よくそこへ気がついた、浅二郎こいつは道理だぞ」
「しかしそれは余りに」
「余りもくそもあるか、娘の口から身籠ったと申すものを、今更知らぬとは云わさぬ。もう金輪際放さぬからそう思え。わっははははは際どいところで軍配は娘にあがったな、うまい処を掴みおった、いや実にあっぱれだ、女の智恵も馬鹿にはできぬ、見ろ、浅二郎が眼をぱちぱちさせている、わっははははは」
源兵衛独り大満悦で笑うところへ、
「申上げます、城中より急のお使者にござります」
と
「なに急使とな」
源兵衛は急いで出ていったが、間もなく走るようにして戻ってきて、
「浅二郎||」
と入ろうとすると、これはどうだ、あの気位の高い不由が、
「今までの
涙にしめった、しかし初めて女らしい潤いの
「不由は半月もまえから、貴方様のお閨を守って、淋しくお帰りを待っておりました。これからは良い妻になりまする、どうぞお見捨て遊ばさずに」
「||不由どの」
浅二郎もさすがに心を動かされたか、思わず妻の、||さよう、今こそ明らかに妻の||肩へ手を廻した。
源兵衛は感悦の声を抑え、跫音を忍ばせて、そっとそこを離れていった。||もう殿の御意を急いで伝えるにも及ぶまい、浅二郎は間違いなくこっちのものじゃ······と呟きながら。