六月中旬のある日、まだ降り惜しんでいる梅雨のなかを、本信保馬が江戸から到着した。
保馬は江戸邸の次席家老の子で、その名は
保馬が入ってゆくと、又兵衛はにこにことあいそよく笑い、軽く目礼をして、ひどく親しそうに話しかけた。
「どうもしばらく、道中御無事でおめでとう」
保馬は
「その後どうですか」保馬は巧みな無関心さで云った、「もう子供さんがあるのでしょう」
「それがまだ独身でしてね」又兵衛はすぐに答えた、「外島の娘が死んだんですよ、私が来て半年ばかり経ってからですが、それでいちどは江戸へ帰ろうと思ったんですがね、外島がどうしても放さないし、なにしろこっちは
保馬はほうと云ったきりで、自分の右の手をうち返し眺めた。彼は評判ほどではないが、色の白い、ととのった、品のいい顔だちで、眉と眼のあいだがかなりひろくあいていた。眉ははっきりと濃く尻上りであったが、眼はやさしく尻下りであった。ときどき唇をむすんで上へ
「ちょっとお耳にいれたいことがあったんですよ」と又兵衛は調子を変えた、「お耳にいれておくほうがいいと思うんですが、
保馬はにが笑いをしただけで、肯定もせず否定もしなかった。
「むろん私には関係のないことですが」と又兵衛は続けた、「その噂がいちばん信じられていて、事実とすれば当然ですが、ひじょうな反響をよび起しています、かれらは貴方が来たばあいに備えて、それぞれもう手段をめぐらしているくらいですよ」
「そうのようですね」保馬は云った、「もうだいぶ進物を貰いましたよ」
又兵衛は一種のすばやい眼つきで、保馬を見た。しかし、保馬の表情からは、なんの意味をもさぐり出すことはできなかった。
「どうか注意して下さい」又兵衛は少し声を低めて云った、「どこにどんな
「そんなことにならないように望みますね」保馬はあいまいに答えた、「もしそんなことがあったら、意見を聞かせてもらいますよ」
又兵衛はまもなく帰っていった。その夜、仲田と堀とは、
明くる日、保馬は登城して、重臣の部屋へ挨拶にまわった。
もちろん形式だけであるが、城代家老の部屋には原田監物という筆頭年寄がいて、半
「べつにさしたることもありません」保馬は軽く答えた、「早く云えば、まあ見合に来たようなものです、むろん御存じでしょうが」
「いやそれはまだ」と主殿が少し慌てて云った、「まだはっきり
主殿はかなりばつが悪そうであった。そうして、監物に向って釈明するように、まだ確定はしていないが娘の花世と保馬とのあいだに縁談が進んでいる、ということを語った。
「すると御息女は······」監物はちょっと
「ともかくもう暫くのあいだ御内聞に」
主殿は煮えきらない口ぶりでそう云った。
保馬は主殿から
河瀬の招待に続いて、重職の人々が次々に保馬を招いた。おそらく監物からもれたのであろう、みんな縁談のことを知っているようで、口には出さないがそれとなく祝いの言葉を述べた。
「いや遊びに来たんですよ」保馬はどこでもそう云うのであった、「こんなことを云うと怒られるでしょうね、江戸ではちょっと羽根を伸ばしてもすぐ眼につくもんですから、······どうか面白いところがあったら案内して下さい」
しかし人々は信じなかった。人々の頭には「勘定吟味役」という言葉がひっかかっていた。
||縁談というのは少しおかしい。
重職の人たちはそう話しあった。
||なるべく当らず触らずがいい。そしてじっさい、かれらは不即不離の態度をとった。江戸の家老の子であり、美貌の俊才であり、また城代家老の女婿になるかもしれない。そのうえ秘密の使命を帯びているという評もあるのだから、保馬の立場はまったく自由であり、殆んど不拘束といってよかった。
保馬はそれを慥かめた。そうして、ひとわたり招待が済むと遊びに出はじめた。
初めて天の橋立へいったときのことであるが、切戸文珠の内海がわにある「掬水亭」という料亭で休んだ。もう梅雨はきれいにあがって、風のない暑い日が続いていた。堀には命じた用があり、仲田千之助だけ
日が落ちたばかりで、油を流したように
そのとき彼のうしろへ、娘が一人そっと忍び寄った。十七か八であろう、おもながのすっきりした顔だちで、背丈が高く、胸も腰もまだ少年のように細かった。少し酔っているらしい、うるみを帯びた眼のまわりや頬のあたりが赤く、忍び寄って来る動作にも、浮き浮きした
保馬はすぐ起きあがった。水は腰までしかなかったが、さかさまに落込んだので頭からずぶ濡れになった。驚くよりもわけがわからず、どなりつけようとする眼の前へ、これも水浸しになった娘が起きあがった。そうして、顔へ垂れてくる水を両手で拭きながら、さも
「やりそこなっちゃったわ」と笑いながら云った、「もう少しで心中するところだったわねえ」
しかし娘は眼をまるくした。相手をまちがえたらしい、あらと云って口をあけた。保馬は黙っていた。娘はおろおろし、べそをかいて、濡れている保馬のほうへ手を伸ばし、
「済みません、堪忍して下さい、人違いなんです。こんなに濡らしてしまって、ほんとに済みません、あたししみ抜き代を出しますから」
保馬は黙って梯子のあるほうへ歩きだした。娘は慌てて呼びとめた。彼の半開きにした扇子が、そこに浮いていたのである。
「あのう、これをお忘れになりました」
そして扇子をひろげてみせたが、ひろげるにしたがって紙と骨とがばらばらに
「こんなになっちゃいましたわ」
保馬はちょっと見たばかりで、手を出そうともせずに床へあがった。||話しこんでいた千之助と仲居(おたけという名であったが)とは、保馬の姿を見て
「八幡屋の連中だそうです」
おたけが去ると千之助がそう云って、別棟になっている座敷のほうへ眼をやった。そちらでは二人があがるまえから騒いでいる客があった。三味線や太鼓をいれて、相当はでに騒いでいたのである。
「外島さんが客だそうです」
千之助はそう付け加えた。濡れた帷子を脱ぎ、躯を拭いていた保馬は、千之助の言葉を聞いていたのかどうか、ふと
「いやなんでもない」保馬は首を振った、「あんまりばかなことを云うものだから、いや、いいんだ、べつの話なんだ」
千之助は戸惑ったように保馬を見ていた。
保馬は殆んど毎日のように出て歩いた。たいてい堀か仲田を伴れて出たが、一人のこともあった。二人には
これよりまえ、外島又兵衛がしきりに保馬を訪ねて来た。ときには日に二度もやって来たが、保馬はずっと会わなかった。家にいるときでも居留守をつかった。すると或日、又兵衛のほうで
八幡屋は海産物、青木は
能登屋、角屋らの四人は、かれらに対抗する新しい勢力であり、かれらの独占株を開放させるため、ひそかに江戸の重臣へはたらきかけていた。このことは三人の御用商人にもだいたいわかっていた。独占株を許されたかれらは、しぜん藩との財政的つながりが深く、藩に対する貸金は巨額なものになり、殆んど限度に達するほどであった。これはかれらの位置を安全にするようでもあるが、同時に極めて危険な状態でもあった。むずかしいことを云うまでもない、江戸幕府でも数回にわたって、「借上げ」という手を打った。在来の借財を棚上げにすることで、そのために倒産する者さえ少なくなかった。||宮津のように地方の藩では、重臣と商人とのあいだに個人的な
保馬はこういうときに来たのである。対立する両者がなにを考えたか云うまでもあるまい、両者はそれぞれの立場から、保馬を
七月になった或日。島屋の手代に伴れられて望湖庵へいった。
「誰か一人きまった者のいたほうが宜しゅうございましょう」
手代の弥吉はそう云って、六人ばかり若い女を呼んだ。
「あらあら、ごらんなさいよ」とほかの女たちがみつけて
「きっとなにかわけがあるんだわ」
「これはただでは済ませません」お春という女が
「ええ、いいわ、いしが
顔を掩った女がそう叫び、袂を放して、女たちのほうへ向き直った。
「今日はいしが奢るから、みんな好きな
女たちはきゃあと声をあげ、手を叩いた。保馬もわれ知らず苦笑した。はじめて気がついたのだが、それはいつか掬水亭で誤って彼を水へ突落したあの娘であった。
「この望湖庵の養女のいしという者ですが」と手代の弥吉が云った、「本信さま御存じなのでございますか」
うんと保馬が頷くと、娘はこっちへ向いて、顔を赤くしながらおじぎをした。
「なまいきなことを云ってはいけない」保馬が云った、「客がいるのに奢るということがあるか、
いしは
「済みません、取消します、堪忍して下さい」
保馬はてれて赤くなった。そんなつまらないことを云った自分にてれたのである。彼は少なからずあがりぎみで、持っていた盃をいしにさした。その手つきがぎこちなかったし、受けるいしのほうもへどもどしていたので、またしても女たちがやかましく囃したてた。
「とうさまに云いつけるわよ」
などと云う者もあった。するといしは眼尻をさげ、唇をだらしなくあけてへへへと笑い、
「
「ごめんなさい」といしが云った、「でもこれでいいって云う人もいるんですの」
女たちが
「しみ抜き代はその人が出すのかい」
いしははっとし、急に赤くなったと思うと、また袂で顔を掩った。女たちはますます騒ぎだし、お春がいしの肩を打った。
「しみ抜き代ってなんですか、さあ勘弁しませんよ、人の眼のまえで二度も顔を隠したりして、しみ抜き代とはいったいなんのことですか」
「話してやろうか」
保馬が云うといしはきゃっと叫び、顔から放した手を合せて、躯をよじった。
「ごめんなさい、このとおりです、どうかあのことだけは
むきな表情であった。女たちのやかましい声のなかで、保馬は笑いながら黙った。
「本当にないしょにして下さいましね」いしは
保馬は頷いた。
誰か一人きまった者を、という弥吉のはなしはそのままになったが、それ以来、保馬の席には必ずいしが出るようになった。||望湖庵は青木重右衛門が経営しているので、養女といえば重右衛門の娘分であろう。料亭を切廻しているのはおかねという名の、肥えた五十歳ばかりの女であるが、いしは彼女からも他の仲居や雇人たちからも、いちように愛されていた。望湖庵の者だけでなく、知っている者はみんないしを愛しているようであった。||いしは明るくさっぱりした、そして思い
むずかしい客、酒癖の悪い客などは、いしがさばくものにきまっていた。酒も飲ませればかなり飲むし、少し酔うと笑い上戸になって、
||ようし、いしが奢る。
と云うのが口癖であった。保馬にも三度ばかり云ったが、そのたびに保馬は手厳しくはねつけた。
「あら、どうしてですか、あたし奢りたいんですもの奢らして下すってもいいでしょう」
保馬は「あまくみるな」などと云ってとりあわなかった。
七月から八月へかけて、殆んど三日に一度ぐらいずついしと会った。能登屋や角屋たちと飲むときは、湖月か田川屋という料亭であるが、酌に出る仲居たちから聞くのだろう、「あとで来てもらいたい」などという手紙を使いに持たせてよこした。
「よさないか、みっともない」保馬はいつもにがい顔をした、「わけもなにもないのに、人がなんだと思うじゃないか」
「あら、いしはちっとも構いませんわ」
「いい人に聞えてもか」
「もちろんですわ」云いながら赤くなる、「いしは信用があるんですもの」
眼尻が下り、唇がゆるんで、ばかばかしいほどあまったるい顔になる。すると保馬は舌打ちをし、にがにがしげに云うのであった。
「なんというだらしのない顔だ、紐を緊めろ」
保馬はいしにだけは荒い口のきき方をした。遠慮なく悪口を云い、ぴしぴしとやっつけた。いしに向うとしぜんにそうなるのであった。彼女に末の約束をした恋人があるということは、みんなが知っていた。いし自身でもときに失言することがあり、赤くなって顔の紐を解くのだが、それが少年のようにすなおな
八月中旬の或日、もう燈のつくじぶんであったが、保馬が酒に
「お願いですから掬水亭へ伴れていって下さいまし、ね」
いしはいつもとは違う眼つきをしていた。保馬は頷いて、脇の木戸から、いしといっしょにぬけだした。
「駈落ちみたいですわね」
いしは嬉しそうに囁いた。
望湖庵は玄妙ヶ岡の中腹にあった。文珠へは裏道づたいにゆくことができる、北陸は秋が早いのだろうか、松や雑木林のある山道には、もう
「このまま、こうして」といしが低い声で云った、「どこまでも、どこまでもゆけたら、どんなにいいでしょう」
「逃げだしたくなったのか」
「ごいっしょにいたいんですの」
「人違いは一度でたくさんだ」
「またそんなふうに」そう云いかけていしは眼を伏せた、「でもそうですわね、いしには大事な人がいるし、本信さまは御城代のお嬢さまを迎えて、江戸へお帰りなさるのですものね」
保馬は声をださずに笑った。
「城代の令嬢は嫁にゆけない躯なんだろう」
「あら」いしは眼をみはった、「そのことはご存じだったんですか」
保馬は逆に
「いしのいい人というのは誰なんだ」
いしは口ごもった。
保馬はすぐにうち消した。
「いや、いいよ、ちょっと口が
掬水亭へ着くと、いしは例のとおりはしゃぎだした。いつかの床の上へ席の支度をさせ、今日はこっそり
「あれからもう二た月になりますわね」
「心中のしそこないか」
「あのときはお客に伴れられて来て、いい気になって飲んだもんですからすっかり酔ってましたの、さもなければ間違える筈はなかったんですけれど」いしはこう云って、床の端のところをなつかしそうに見やった、「||そこの処でしたわねえ、貴方はこんなふうにしゃがんで、なにか考えごとをしていらっしゃいましたわ」
「水を眺めていたんだ、小さな魚がつながって泳いでいたよ」
「こんなふうにしゃがんでいらっしゃいましたわ」といしは続けた、「あたしまったく人違いをして、おどかしてあげるつもりで、そっとうしろから忍んでいったんですの、それが酔っているものだからつい」
そう云いかけていしは自分でふきだした。
「つい力がはいり過ぎて、よろめいちゃって」
そう云いながら身を跼めて笑いだした。そしてとつぜん保馬の
「これで
やがて起き直ったいしは、袂で涙を拭きながら微笑した。
「いちど思いきり泣いてみたかったんです、なんにもわけはないんですけれど、······これでさっぱりしましたわ」それからいつもの明朗な表情で保馬を見た、「人間って悲しくなくっても、ときどき泣かないと躯に悪いんじゃないでしょうか」
保馬は黙ったまま、
その夜(だけではないが)宿所へ帰った保馬は、仲田や堀たちと夜半過ぎまで調べものをした。二人の分担していた仕事は、この六十余日のあいだにめざましく進んでいた。||それは八幡屋以下三人の御用商人の実態調査であって、その取引状態や、年間の利潤や、資産について、(これには能登屋ら四人の商人たちの助力があったが)詳細な事実があげられていた。むろん、保馬への進物や、接待の費用なども、そのつど入念に計算されているので、今その明細書を見ながら、保馬は頭を振って苦笑した。
「この分は返さなければならないんだからな、江戸でなくって幸いだよ、江戸だったら破産してしまうぜ」
「
「||なにかあるのか」
「外島又兵衛です」と勘兵衛が云った、「あれは青木重右衛門の養女ですが、もとは加賀藩の浪人の遺児だそうで、外島と結婚する約束ができている······どうかなさいましたか」
「いや、なんでもない、続けてくれ」
「縁組の裏には八幡屋、島屋、青木の三人連合の契約があるんですね、かれらは外島を勘定奉行か、できれば筆頭年寄に据えて、自分たちの位置を確保しようとしているんです」
「外島には無理だな」
「どうせ操り人形でしょう」
表向きには不可能のようであるが、じっさいには有り得ることであった。かれらは財政の実権を握っているといってよかった。藩そのものが借財に苦しんでいたし、家臣たち(例外はべつとして)も、多かれ少なかれ借があった。独占株の開放とか、政策の転換などがもし実現すると認めたら、かれらはきっと対抗手段をとるであろう。そのために外島を必要な椅子に据えるくらいのことは、かれらにとってさして困難ではなかった。時代は金力が政治を動かす段階にはいっていたのである。
「あの娘は外島に云い含められて、貴方の役目の本当の目的をさぐろうとしているんです」
「まさかね」保馬は脇へ向いた、「だって、かれらにはもうわかっているんだろう」
「それがそうでないんですよ、貴方のために見当がつきかねているようです、進物も
「ばかなことを云っちゃいけない」
「むろん私たちは知ってますがね」堀が笑うと仲田も笑った。堀が続けて云った、「もし貴方が吟味役なら、これほど無抵抗ではないだろうと思うんですね、いや、そうなんですよ、現に八幡屋の手代がそう云っていたそうです」
「掬水亭のおたけさんかね」
「外島とおいしとのことも彼女が話してくれました、外島というのはいやな奴で、二人のあいだには約束があるだけなんですが、すっかりもう情人気取りで、小遣なんかせびるだけせびっているということです、
「外島は八幡屋たちに貢がれてるんじゃないのか」
「足りないんですね、縞の財布が空になる土地ですから」堀は顔をしかめた、「来たときから女にだらしのないやつだったそうです」
保馬は勘兵衛の顔を見た。
「おたけ女史は信用できるのか」
「私は浮名は立てませんがね」
「するとつまり、
「気づかれないうちのほうがいいですね」
「いやな役目だ」保馬は眉をひそめた、「誰かがしなければならない。藩ぜんたいの浮沈に関するので、やむを得ないことはわかるけれども、こんな仕事はじつにやりきれない、早く片づけて帰りたいものだ」
堀や仲田はなにも云わなかった。
その夜は保馬にとって寝苦しい夜であった。それに続く数日も、彼は引立たない気分ですごした。いしと外島又兵衛との関係は、思いがけなかった以上に、傷手であった。勘兵衛の忠告は事実と思わなければならない、外島はいしに保馬の任務をさぐれと命じたであろう、なぜなら、初めのうち外島はしつっこく保馬に近づこうとした。彼が御用商人たちと特別の関係をもっていることは宮津へ来るまえからわかっていた。
||こいつさぐりに来たな、と思っていたのであるが、保馬が遊びだすと、まもなく姿を見せなくなり、代っていしとの交渉が始まった。つまり彼女に肩代りをした、と考えることができるだろう。
||そうは思いたくない。
保馬は否定したかった。しかしもう否定することはできなかった。そうして、自分がどんなにいしに
仕事が終るまでは、行動を変えるわけにはいかなかった。保馬はそれまでと同じように、料亭へでかけ、いしと会った。自分では平静なつもりでいるが、いしにはなにか変化がわかるとみえ、ときどきじっと保馬を見つめた。
「なにをそんなに見るんだ」
「この頃なんだか浮かないごようすですから」といしは云う、「いつものお癖がちっとも出ませんし、来てもすぐお帰りになりますわ」
「いつもの癖ってなんだ」
「こういうお顔をなさるわ」
いしは唇をむすんで上へ
「澄ましていらっしゃると怖いけれど」といしはあまえるように云った、「こういうお顔をなさると、それはやさしくみえて、わって云いたいくらい嬉しくなるんです」
「いしのいい人もそうするのか」
「いやですわ、どうして話しをおそらしなさいますの」
「おまえが隠してばかりいるからさ」
と保馬はいしの顔を見た。
「いしは少しもいい人のことを話さないじゃないか」
「だって
「関わりはあるさ」
保馬の声に
「おれはいしが好きだ」と彼は云った、「いしが誰よりも仕合せであるようにと、いつも願っている、本当にそう願っているんだ、だからその人が、いしを仕合せにすることのできる人間かどうかを知りたいんだ」
いしも微笑したが、それは保馬のそれよりちからがなかった。殆んどべそをかくのに似ていた。
「その人は好い人なんです」いしは弁護するように云った、「いろいろ失敗をしますし、世間でもいやな評判がありますけれど、根は気が弱くって、悪い事なんかできる人じゃないんです、それに、殿方は誰でも、若いうちはしようがないんじゃないでしょうか」
「どんなふうにだ」
「どんなふうにもですわ」いしは眼を伏せた、「あの人のように気が弱くって、つい失敗ばかりする人は、なおさら、······あたしあの人が可哀そうでしようがないんです、あたしが付いていてあげなかったらどうなるかと思うと、本当に可哀そうでしようがなくなるんですの」
保馬は脇へ向いた。
「あたしが
「もういい、たくさんだ」
保馬は乱暴に
「いしが不仕合せだったことなど、おれは知りたくはない、いしはこれまでも仕合せだったし、これからも仕合せであってもらいたいんだ」
「ええ、もちろんです、いしはこのとおり仕合せですわ」
そして、こんどは明るく笑うことに成功した。けれども保馬にはやっぱり哀れにしかみえなかった。それは珍しく二人だけのときで、望湖庵のその座敷から見える切戸のあたり、すっかり暗くなった海の上に、
「本信さまの御縁談はどうなさいましたの」と云いだした、「もうお
「だめのようだな」保馬はそっけなく、答えた、「あんまりばか遊びばかりしているんであいそを尽かされたんだろう、いちど招かれたがお顔も見せてくれないし、その後は来いとも云われないよ」
「なにか、御病気らしゅうございますな」島屋の手代が云った、「
保馬は知らない顔をしていた。
「それではもう」といしが云った、「江戸へお帰りになりますのね」
「||どうして」
「だって、御縁談のほうがそんななら」
「それだけではない、かもしれないじゃないか」
いしと二人の手代の顔に、(それぞれの)すばやい表情の動くのがみえた。保馬は乾いた声で笑った。
「たとえばおいしを口説きおとす、というような野心がさ」と彼は意地の悪い口ぶりで云った、「せっかく江戸から来たのに、手ぶらで帰るのはまのぬけたはなしだ、おいしはうんと云わないかね」
「
「罰が当らないだけか、つまらない」
「悪いお口になったこと」いつもいしのそばにいるお春が云った、「初めはあんなにお人柄だったのにすっかり悪くおなりなすったわ、ぶってあげようかしら」
「罰は当らない筈じゃないか」
華やいだ
いしに
||このままでは危ないぞ、このままでは。彼はまじめにそう思い始めた。今のうちにどうかしないとばかげたことになりかねないぞ。
仲田と堀とは仕事を進めていた。九月になると江戸から、城代家老に宛てて墨付の密書が届き、それによって、諸役所の帳簿が(極秘のうちに)検閲された。そうして、それまでに調べあげたものと突合せ、両者の記録の差違や、
「これはひどいことになっているものですね」
「どこの藩でも同じらしいぞ」保馬は苦笑して云った、「幕府そのものが音をあげているんだから、もう侍の政治ではやってゆけなくなってるんだろうな」
「しかし、これを表面に出さずに済みますか」
「むずかしいところだね」
保馬は太息をついた。これまで苦心してやってきたのは、財政の転換を穏やかにやるためであった。不正な事実があっても、それを摘発するよりは武器にして、できるだけ円満に事をおさめる。犠牲者は出さないように、というのが、藩主はじめ江戸重職の意向であった。
「||なんだ」
仲田千之助の声でふと見ると、庭さきに下僕の一人が花を持って立っていた。
「唯今これを届けてまいりましたので」
白いみごとな
「すぐ帰りましたが、若いきれいな娘でございました」
「わかっている」千之助は戻って来て、保馬の机の上にそれを置いた、「||来いとのたよりでございますな」
保馬は黙ってその花に見いった。
それ以来、きちんと一日おきに、花が届いた。もちろんいしからであろう、大輪の菊のこともあるし、
保馬は半月ちかく出る暇がなかった、そのあいだに準備もほぼととのい、江戸から知らせのあるのを待つばかりになった。正式の勘定吟味役が江戸から来るのである、むろん初めからの予定であるが、それが宮津へ着くまえに、保馬が商人たちと会談することになっていた。つまり財政改革の
||そのために保馬の来た理由はぼかされてあった。河瀬主殿の娘が
||どうやら無事にこぎつけた。
保馬も、堀や仲田も、肩の荷をおろしたような気持だった。
||これで会談をうまく切抜ければ。
そう思ったのであるが、じっさいはそうではなかった。保馬が宿所にこもりだしてから、御用商人たちは
十月にはいって五日めの午後、いしから保馬へ手紙が来た。
||お返し申したい品があり、ぜひ話したいこともあるから。
そういう文面で、すぐ来てもらいたい、という意味が哀訴のように繰り返してあった。
「私たちの顔を見ることはないですよ」堀がにやにや笑った、「花の礼もしなければならないんでしょう、どうぞいっておあげなさいまし」
「馬でも申付けましょうか」
仲田もからかうように云った。
「それはいい、すぐ云いつけてくれ」保馬は手紙を巻きながら立った、「久しく
「冗談から馬ですな、やれやれ」
仲田は口をすぼめて苦笑した。よく晴れた午後で、海からしきりに風がふいていた。保馬はその風のなかを
「嫁にでもゆくようだな」保馬は
「お気に召さないでしょうか」
保馬は微笑しながら、「いいよ」というふうに
「今日はお願いがありますの、一生にいちどのお願い」廊下の途中で、いしは保馬をおがんで云った、「いちどだけでようございますからいしに
「||どうするんだ」
「二人だけでゆっくりしたいんです、今日はでかけてみんな留守なんです、ねえ、お願いですからうんと仰しゃって」
保馬は承知した。いしは保馬を自分の部屋へ案内した。それは
六
「なんだか改ったようで、へんですわね」
「自分でこうしたんじゃないか」
「それはそうだけれど」いしは恥ずかしそうに
いしの云うとおり、なんとなく改った感じで、すぐには話がはずまなかった。会わなかったあいだの消息、花の礼など、ぎこちないやりとりが暫く続いた。
「返したい物があるってなんだ」
銚子が代ったとき保馬が
「もう少し酔ってから」といしは眼で笑った、「それでないと出せない物ですわ」
保馬に酌をしながら、いしは自分でもしきりに飲んだ。なにかはずみをつけるように、要もないことを云ってはいさましく飲んだ。まもなく急に酔いだしたようすで、うるんできた眼をきらきらさせ、まともに保馬を見て口を切った。
「あたし今日はほんとのことを云いたいんですけれど、いいでしょうか」
「云わなければならないのか」
「それでないと苦しくって」
保馬はいしに酌をしてやった。いしはそれを
「でもあたし、云えないかしら」
「云わなくってもわかるよ」
「でもあたし云いたいんです」
保馬は黙った。いしは盃を置いた、なかなか言葉が出ないとみえ、荒く息をつきながら、絡み合せた両手の指を
「初めはなんでもなかったんです」といしは低い声で云いだした、「ただ掬水亭のことがあるので、遠慮のない気持でいました、それがおめにかかるたびに、だんだん好きになってきて、そうなってはいけないのに、しまいには一日じゅう、
「そう聞いたって驚きゃしないよ」
「ええ、||」いしは頷いた、「それもわかっていましたわ、保馬さまもいしを好いていて下さる、そう思っても
いしは自分の胸を押えた。
「もう一人さきにはいっていた人がありました、今でもその人は、ここにいるんです、その人はどいてくれないし、いしの胸はこんなに小さくって、こんなに······保馬さま」がまんがきれたようにいしは云った、「どうして貴方はもっと早く来て下さいませんでしたの」
日が傾いて、いっとき庭がしらじらと明るくなった。土地が高いためだろう、風がかなり強く松の枝をふき鳴らしていた。
||いしは眼と頬の涙をぬぐい、銚子を代えるために立っていった。
戻って来たいしは銚子を二つ持っていた。その一つを自分の脇に置き、もう一つの銚子で保馬に酌をすると、
「覚えていらっしゃるでしょう」
と云って、
「こんな物を取って置いたのか」
「一生持っているつもりでした」
「||返すというのはこれだね」
「持っているとみれんが残りますから」
保馬はじっといしの眼を見た。
「どうして今日返すんだ」
いしは自分の脇に置いた銚子を取り、自分の盃にそれを注いで、保馬を見返しながら答えようとした。そのとき、お梅がいそぎ足にこっちへ来た。
「お客さまのお家来の方がおいでなさいました」お梅は立ったままで云った、「急な御用だと仰しゃってでございます」
「いないと云っておくれ」いしがそう遮った、「あたしといっしょに出ていらしったって」
保馬は立った。いしは手を伸ばして、彼の袂を
「保馬さま、お願いですから」
彼はすばやく廊下へ出た。急用という言葉に不吉な予感を感じたのである。玄関には仲田と堀が待っていた。走って来たのだろう、まだ
「嗅ぎつけられました」と勘兵衛が云った、「能登屋が知らせてくれたんですが、かれらは宿所を襲う手筈だといいます」
「しまったな、そいつはしまった」
保馬はおちつこうと努めた。
「だが
「間違いないようですね、時刻までわかっているんですから」千之助が云った、「もちろんめあては調書だと思いまして、ともかく此処へ持って来ました」
彼は抱えている大きな包を叩いた。
「押掛けて来るのはどういう連中だ」
「外島が指揮をするそうで、浪人やならず者が十五、六人ということです」
「外島が||」保馬は
「四時ということですから、もう押込んでいるかもしれません、残っている者には、来るのを見てから逃げるようにと云っておきました」
そうすればそれだけ、追跡の時が延びるに違いない。保馬は頷きながら、すばやく考えを
「堀はこれから御城代の邸へいってくれ」
「どうします」
「河瀬殿にはお墨付がいっているからわかる筈だ、事情を話して人数を出してもらい、八幡屋、青木、島屋の三人を城中へ護送する。これは町奉行に預けるがいいだろう、それから人数の一部を
「少しやり過ぎはしませんか」
「責任はおれが負うよ」保馬は云った、「おれの乗って来た馬があるからあれでゆくがいい、それだけの手配が済んだら戻って来てくれ。仲田は此処にいてもらう」
堀はすぐとびだしていった。
千之助を
||外島······おいし。
二つの名がつながった。
「おいし」と保馬が云った、「おまえ知っていたんだな」
いしの唇の間から歯が見えた。
「今日四時になにがあるかを知っていて、それでおれを呼びだしたんだな、そうなのか」
「||あの人は、あの······」
いしの舌がもつれた。そして唇の端から
「おいし、どうしたんだ」
そのまに千之助が、いしの手から盃を取り、その匂いを嗅いだ。それから脇にある銚子の匂いも、||そして低く叫び声をあげた。
「いけません、毒酒のようです」
保馬は色を変えた。いしは
「このまま、お願いですから」
舌がもつれるので殆んど言葉にならない、保馬はいしの躯を抱きあげ、「水を頼む」と云いながら縁側へ出た。千之助は走っていった。保馬はいしを
「吐くんだ、吐いてしまえ」
いしは身もだえ、激しく頭を振った。保馬はいしの口の中へ指を入れた、くいしばった歯には非常な力がこもっていた。保馬はいしの髪を
「水です」千之助が戻って来た、「なにかくわえさせましたか」
いしの躯が
「そうだ卵白を忘れていました」千之助が云った、「卵の白身を持って来ます、それから医者を呼びますか」
「あとにしよう、外島のことがある」
千之助は走り去った。保馬はいしの頭を横にして、口移しに水を飲ませた。いしは飲んだ、
「さあ吐け」保馬はどなった、「すっかり吐きだしてしまうんだ、その胸の中にはいっているやつもいっしょに、残らず吐いてしまうんだ、残らずだぞ、わかるか、いし」
いしは頷いたようであった。そしてまた嘔吐した。保馬の眼から涙がこぼれた、彼はいしの背を叩きながら、
「ばかなまねをして、なんというやつだ、死ぬと命がなくなるんだぞ、これで死ぬと命がないぞよって、芝居のせりふにもあるじゃないか、おまえ知らないのか、いし」彼は笑おうとした、しかしむろん笑えはしなかった、「そうだもっと吐け、もっと、その胸からなにもかも出してしまえ、そうすればさっぱりする、おれからも褒美をやるよ」
千之助が戻って来た。大きな茶碗を二つ、そこへ置くとすぐ、彼はまた水を取りに引返した。保馬は続けて卵白を飲ませ、そして強引に吐かせた。
「||どうぞ、お口から······」
いしが
堀勘兵衛は七時ごろに帰って来た。
いしは眠っていた。小
勘兵衛の役目はうまくいった。外島と十六人の暴徒は宿所を襲ったが、留守をしていた下僕たちは巧みに逃げた。又兵衛は失敗したことを知ると、宿所に火を放って焼き、そのままどこかへ逃亡した。暴徒のうち五人の者は捕えられたが、あとの十一人と又兵衛とは行方が知れなかった。||八幡屋万助、島屋真兵衛、青木重右衛門の三人は、それぞれ手代と共に城中へ移され、暴徒に加担したという疑いで、そのまま軟禁された。
この報告を聞くあいだも、保馬はいしから離れることができなかった。彼がちょっとでも動くと、いしの手は激しい力で絡みつき、
「大丈夫だ、どこへもゆきゃあしないよ」
保馬は顔を寄せておちつかせた。
「此処にいてやるから眠るんだ、もうなんにも心配することはないんだよ」
勘兵衛は
「||ええいいわ、いしが奢るわ」
低いかすれ声であったが、言葉ははっきり聞きとれた。保馬はそっと微笑し、それに答えるように頷いた。||夜半ごろだったろう、いしはふっと眼をさまして、喉が渇いたから水が欲しいと云った。飲ませてやると、
「気分はどうだ、なんともないか」
「||ずっと、いて下すったのね」
「これだからね」保馬は握られている手を振ってみせた、「ずっと放さないんだぜ」
いしは唇で笑った。保馬はそっといしの胸を指して云った。
「まだここになにか残っているかい」
いしは保馬を
「||みんな出ちゃいました」
「残ってるものはないんだね」
「||ええすっかり······からっぽです」
保馬は頷いてみせた。するといしの手に力がはいって、彼の指を痛いほど緊めつけた。いしの眼から涙がこぼれ落ちた。
||外島が来るかもしれない。
こう思ったので、堀と仲田に警戒を命じた。外島がどこへ逃げるにしても、いちどはいしのところへ来るに違いない。必ず来るだろうと思った。しかしその夜はなにごともなく、静かに明けていった。
朝になってから、外島のことがわかった。彼は三人の浪人者といっしょに「えびす丸」という船を奪って逃げたのである。それは八幡屋の持ち船であったが、外島ら四人は刀を抜いて船頭を
||それなら大丈夫だ、彼はもう決していしのところへ来ることはないだろう。
保馬は安心して仕事を始めた。
多忙な日が続いた。保馬は江戸へ督促の急使をやり、重職と会った。町奉行に捕えてある暴徒たちの
||外島のやった事が逆効果になった。
これで無事におさまるだろう。保馬はそう確信することができた。慥かにそのとおりだった、江戸から勘定吟味役が来たのは、その月の下旬のことであるが、持って来た改革案はすらすらと通った。ほんの僅かな修正はあったけれども、原案の主要なものは故障なく受入れられた。
保馬は首尾よく役目をはたしたのであった。
「さあ終った、今日はひとつ三人で飲もう」
十一月はじめの或日、保馬はそう云って、堀と仲田を伴れて掬水亭へいった。自分の金で飲むのはいい心持であった。酔ってくると二人ともうたいだしたので、顔なじみの仲居をぜんぶ呼んだ。もちろん望湖庵からも来たし、いしもあらわれた。
「これは縞の財布ですな」勘兵衛がまっ赤になった顔で保馬を見た、「どうか空にならないように頼みますよ」
旅費だけでも頼みますよ、などと千之助もつまらないことを云った。
三味線がはいり太鼓がはいって、ばかばかしく
「あたしおそばへ坐らして頂こう」
と云って保馬のそばへ来て坐った。しかし誰も気がつかないようすだった。保馬はいしに眼くばせをして、そっとその座敷から逃げだした。
「あそこは寒すぎるだろうな」保馬がそう云った、「いしは風邪をひきゃあしないか」
「風邪なんかひきません、あたし大丈夫です」
「これをひっ掛けるといい」
保馬は羽折を脱いでいしに着せた。二人は廊下から床へ出ていった。
思ったほどではないが、寒さは強かった。空が曇っているので、海は暗く
「もう四五日すると江戸へ帰る」と保馬が云った、「はなしは聞いたろうね」
いしはこくんと頷いた。躯がひどく震えだしたので、保馬はきつく抱き寄せた。
「でもあたし、わたくし、とても······」
「いやだというのかい」
「いいえ」強く首を横に振った、「とても本当とは思えないんです、今でも本当とは思えませんの、夢でもみているような気持ですわ」
「それでいいじゃないか、一生さめない夢にすることだってできる」
いしは躯をすり寄せた。巻きつけた腕に力をこめ、保馬の胸へ顔を伏せた。
「あのお扇子を返して下さいましね」
「返すよ」
「本当に江戸へゆけますのね」
「もちろんだよ」
いしはくくと
「じゃああたし、ずいぶん
保馬は黙ったまま強く抱き緊めた。いしはすっかり