加賀のくにの
「ほう、あの岩はころげただな」
老人はゆっくりと
「かみへよ、うう、川かみへ十五六間くれえか」
深く迫った
老人は谿流の中にある大きな岩を見ていた。それは岸から跳べるほどの位置にあった。およそ十抱えばかりの、上の平らなずっしりした岩で、川かみのほうへと傾いていた。老人のねむそうな眼に、かすかな感動の色があらわれた。彼は肩に掛けている
「おぬしゃあ誰だね、
うしろで声がした。
老人はふり向いた。痩せた小さな男が立っていた。貧相なしなびたようなとしよりで、継ぎはぎだらけの
「おめえ弥市じゃねえか」
こちらの老人が云った。
「まだおめえ生きていただか」
「生きてただよ、おらこのとおり、ちゃんと生きてるだよ」
こう云って、としよりはひとはねはねてみせた。
「おらまだ勝山城下へ一日で往って来られるだ、おぬしゃなに屋の旦那だね」
老人は黙っていた。それから歩きだした。弥市と呼ばれたとしよりは、不決断にそのあとからついていった。歩きながら老人がきいた。
「善太のところのお花は、達者かね」
「花っ子は死んだだよ、旦那は花っ子を知ってるだね」
弥市はまたひょいとはねた。
「死んでっから七年くれえ経つか、孫の亀がじきに嫁を貰うだよ」
「おそで、後家の娘はえ、なんとかいったっけ、すが眼でまるっこい
「あやっ子のことかえ」
「そうよほんに、あやっていう名だっけ」
「あれも死んだだ、あれはよっぽどめえのこんだ、もう二十年も経つべえかね、忘れるくれえ昔のこんだ、旦那は娘っ子をいろいろ知ってるだね」
「すると」
老人は構わずに云った。
「すると、その、黒門のお
「どのお登女さまのことをいうだ」
「どのといって、お登女さまは一人っきりじゃねえかえ」
「お登女さまは今でもござるだよ、けれどもいまのお登女さまのおふくろさまも名めえは同じだし、そのめえのおふくろさまもお登女さまといっただ、黒門じゃ代々お登女さまっていうだよ」
「そうだっけ、ほんに」
老人は
「ほんに代々お登女さまっていったっけよ」
道は村へはいった。牛窪村は谷がややひらけて、手取川が大きく
「旦那は杉谷へゆかっしゃるだね」
弥市がさぐるようにきいた。
「杉谷の大先生のとけえよ、もしかそうなら黒門へ寄んなさるがいいだ、大先生は四五日めえから黒門へお客にござって、まだ二三日は黒門にござらっしゃるだよ」
「大先生って、なんの先生だえ」
「おうれこれは」
弥市はまたはねた。
「おうれまたこれは、大先生ってばちょうゐ斎先生でねえか、剣術の大名人で神さまといわれるくれえの人だに、旦那はへえ知らねえつうだかえ」
「おらが知るかさ」
老人は云った。
「ふん、つまらねえ」
「つまらなかねえだ、ちょうゐ斎先生は剣術の神さまみてえに偉えだよ、あんまり偉えだで、世間がうるさくってなんねえ、人が放っておかねえだで、あんまりうるさくってなんねえから、この山ん中へ逃げて来さしっただよ」
弥市はむきになって云った。
「つまり
老人はふと足を停めた。弥市の話などは聞いていなかった、道のすぐ左に石段があり、その上に石地蔵が立っている、老人はちょっと考えて、それからゆっくりと石段を登っていった。
「どけえゆくだね」
弥市が云った。
「そこにゃあなんにもねえだよ、ゆき止りでぬけ道はねえだによ」
「家へゆくだよ」
老人が云った。
「おら自分の家へ帰るだよ」
「家へ帰るだって」
弥市は眼脂の
「待ってくろ」
弥市は叫んだ。
「ぬしゃあ
老人はこっちへふり返った。
「そうよ、おらくる眼の杢助よ」
「へえたまげた、なんちゅうこんだ、ほんにおぬしは杢助だに」
「そうよ、おらこのとおり杢助よ」
「するとおぬしゃ、帰って来ただな」
「おら帰って来たのよ」
老人は萱笠を持った手をゆらりと振った。
「帰って来たくなったでよ、それでまあ、······帰って来たのよ」
弥市は下唇をだらっと垂らし、それを手で
杢助は牛窪村で生れた。百助という農夫の一人息子で、母親の名はことといった。彼は生れつきのずぬけた怠け者であった。ごく幼いじぶんから、食うのと寝るほかはなんにもしなかった。
牛窪村は深い谷の底にあるので、田畑を作るには村の外へ出なければならなかった。峡谷を
彼が七歳のときのことであるが、父親の百助は習慣にしたがって、初めて彼を「出作り」につれてでかけた。その場所はかなり遠かった、途中で二た晩泊るほどの距離にあったが、五日めの午後になると、杢助はひとりで家へ帰って来た。留守をしていた母親は歯の根のゆるむほど驚いた。彼女は
||だって、つまらねえもの。
杢助はなにものにも興味をもたなかった。物をねだるということがないし、友達と遊びさえしなかった。飯を食べるとすぐ寝ころんでしまうか、家の前の石垣の上にある石地蔵のところで、草の上へ足を投げだしたまま、下の道を往来する人や馬を、ぼんやりと飽きずに眺めているかした。そして、ときにこんなふうな独り言を云った。
||なにが面白くってあんなに毎日往ったり来たりするだかよ、おんなじように往ったり来たりよ、つまらねえ。
谷川へおりてゆくこともあった。川の中の大岩の上へあがって、
いつか弥市がそれを見た。弥市はこの村へまぎれ込んで来た孤児で、黒門の家の納屋を与えられ、村の家々の走り使いをしている少年だった。
||ぬしゃそこでなにしてるだね。
弥市は好奇心に駆られ、流れの側へ寄って来てそうきいた。杢助は身動きもしなかった。弥市はもういちどきいた。すると杢助はこっちを見もせずに答えた。
||見てるだよ。
弥市はうさん臭そうに、もっと近くへいって川の中を
||いってえなに見てるだえ。
杢助はじっとしていた。
||見えるものをよ。
父親の百助は彼の性分を
彼は十八歳のときに村を出奔した。村では娘たちが彼を追い出したのだと云った。
杢助は十四五から背丈が伸び、男ぶりもよくなった。もちろん美男というほどではないが、うっとりとねむそうにしている眼や、高い鼻や、いつも誰かをさげすんでいるような
黒門というのは村一番の旧家で、村の土地はもちろん、付近に多くの山林を持っていた、また相当な金持でもあった。屋敷は村の西側のもっとも高い処にあり、五棟の土蔵はべつとして、ぜんたいの建物は鎌倉時代の建築といわれる壮大なものであった。黒木の門には
||
彼女たちは代々そういい伝え、それを信じて来た。そのほかの人間はひっくるめて薪ざっぽか
||夜なかにゆくだ。と父親は声をひそめて云った。誰にも知れねえように、夜なかにいって夜の明けねえうちに帰って来るだ、死んでも人に知られちゃなんねえだ。
||御用だって、どんな仕事するだえ。
||黒門へあがればわかるだよ。
と父親は云った。どんな怠け者にも勤まる御用だに。
杢助はほぼ
||つまらねえ、おらまっぴらだ。
彼には「お登女さま」の産れるわけがわかった。代々そのようにして、極秘のうちにお登女さまは産れるのであった。そして、黒門を尊崇し
百助はわが子をくどいた。その役はさして骨の折れるものではなかったし、黒門の権威にはそむけなかった。杢助は承知しなかった。父のたちばには同情したけれども、彼は面倒くさいことは嫌いであった。どんな意味ででも、自分の意志に反して躯を使うようなことは、御免
こうして、杢助はふいと村から出奔し、まる四十年のあいだ
「あしかけ四十一年になるだ、あれはおらが二十の年でよ」
弥市が云った。
「おら去年の夏に
杢助は横になっていた。半ば傾いた家の縁側に
「そうよ、起こったっけよ」
杢助は放心したような声で云った。
「大坂方のなんとかいう大将が首をぶたれたときによ」
「大坂方の大将がどうしただって」
「京の河原で首をぶたれただよ」
杢助はきせるをはたいた。
「しゃっと、いやな音がして、それから首のぶっ飛んだあとから、まっ赤なあれが一丈も噴きあがっただ、びゅうっとよ、一丈の余もあったっけか、ほんとによ、そのときおらくる眼を起こしただあ」
「するとおめえはいくさにんになっただかえ」
「おらがいくさにんになったかって」
杢助は鼻を鳴らした。
「ふん、つまらねえ」
弥市は首を振った。杢助が戦争などに出るわけはなかった、世間はせち辛いというが、どんなに世間がせち辛くとも、杢助はやはり怠け放題に怠けて、ごろごろ寝ころがったり、ぼんやりとなにかを眺めていたりしたにちがいない。世の中にはいつもそのくらいの余地はあるものだし、杢助のような人間はそれをみつけることができるに相違なかった。
「なあよ杢助、いってくろよ」
弥市は思いだしたように用件を云った。
「お登女さまがあんなに云ってるだに、黒門へゆけば安楽に暮せるだによ、どうかおめえ、いってくろよ杢助」
「あの大先生て人はなんて名めえだって」
「お登女さまは生涯不自由させねえって
「あの剣術の先生はなんていう名だって」
「お登女さまは大先生にゃ飽きちまっただ、向うから来ればお客にゃするだが、もうすっかり飽きちまってるだ、それに、初めっからそれほど気にいってござったじゃねえだよ」
弥市は舌なめずりをした。
「また大先生にしたってよそから修業者が来るだで、そうそう黒門にばかりはいられねえのさ」
「その人はなんて名めえだってきいてるだ」
「名めえだって、名めえはちょうゐ斎っちゅうだ、
「ふん、つまらねえ」
杢助は云った。
「そんな偉え人間が、なんでこんな山奥なんぞへ来ているだ」
「遁世して来さしっただって、云ったじゃねえかえ、世間があんまり先生さまだ、名人さまだって騒ぐし、お大名方はてんでに召抱えようとって血まなこになるし、御自分はもう年をとって、そんな俗なことにゃ飽き飽きしちまっただし、それでおめえ、この山ん中へ逃げてござったっちゅうこんだ」
「その人が自分でそう云っただかえ」
「しぜんにわかっただよ」
弥市が云った。
「どっかから武者修業がやって来て、これこれの大先生がござる筈だってよ、わからずにゃいねえだ、修業者はあとからあとから来るだし、米味噌は村からはこぶだしよ、そのうち黒門へ客にござるようになったで、すっかり詳しいことがわかっただに」
杢助はふんといって、きせるを放りだし、大きな欠伸をして
「おめえらは好い人間だ」
と杢助は云った。
「おめえらにゃ縁もゆかりもねえ、そんな剣術つかいの先生にでも、ど偉え名人だって聞けば只で米味噌をはこぶだ、それこそ、十里二十里さきまで出作りをして、血と汗の固まりみてえな米味噌をよ、······やっぱりおら帰って来てよかっただ、
「黒門へいけばもっと安楽だに、黒門へいけばよ」
「つまらねえ」
杢助は云った。
「黒門で喰べる米味噌はおめえらが作ったもんだ、黒門でおめえらからとりあげた物を、おらがまた貰って食うなんて芸のねえこった、おらじかにおめえらから貰って食うだよ、おめえらはずぬけた好い人間だし、おら面倒なこた嫌えだでよ」
「おうれまた」
弥市はふいに縁側から腰をあげた。
「またあの娘っ子どもがやって来ただ、五人もつるんでよ、五人も、なんちゅうこんだ」
石地蔵の脇からこっちへ来る五人の娘たちが見えた。十六くらいから二十歳くらいまでで、肥えたのも痩せたのもいた。
「おめえらなにしに来るだ」
弥市ははだしの足でひとはねはねた。
「ここの杢助はもう白髪の爺さまだっつうに、おめえら毎日なんの用があって来るだ」
「おんだらは来る用があるだよ」
娘たちはこう云いながら近づいて来た。五人とも包みや
「おめえこそ用はなかんべえによ」
娘たちは弥市を嘲弄した。
「おめえはただむだ話しをするか、はねてみせるほかに能はねえだ、そのうす汚ねえ恰好でよ、杢助さまの邪魔をするほかに能はねえだに、おんだらは掃除もするし洗濯もするし、煮炊きのお世話もするだ、誰かがしねえばなんねえだでしに来るだわさ」
「このあまっ子ども、ばあさまらとおんなしだ」
弥市は
「おめえらのばあさまも、こんなふうに杢助につきまとって、しんから杢助をうんざりさせただ、杢助はこんな爺さまになって帰って来ただに、おめえらはまたうるさくつきまとって杢助をうんざりさせる気だつうのか」
「そんなこと心配しねえで、おめえは三つ沢の湯小屋の番でもするがいいだ」
娘たちはずけずけと云った。
「杢助さまがうんざりするかしねえかは杢助さまが知ってござるわさ」
「おうよ、杢助さまが知ってござるだよ」
弥市は拳をふり廻し、はだしの足ではねながら喚きたてた。娘たちは声をあげて笑った。その小さな、がに股の、しなびたような弥市が、はねあがりはねあがり喚くさまは、老いぼれ猿が怒ってでもいるようで、娘たちには忍耐のしようのないほど
「三つ沢に湯小屋が出来ただって」
杢助は寝返ってきせるを取った。
「それじゃあ、まだ、あそこには
彼はまただるそうに煙草を詰めた。彼には眼の前の騒ぎが見えもせず、聞えもしないようであった。娘たちは土間の方へゆきながら、
「杢助さまよ、
「おら米を五升持って来ただわさ」
「おんだらが今朝早く曲り瀬で捕っただ、七寸もある肥えた岩魚だに、みんなで五尾あるだによ」
「おらが自分で
洗濯物だという娘もあり、山菜を採って来た娘もあった。彼女たちは互いに、自分の
「湯小屋へいくか」
杢助は呟いた。
「小屋が出来たとすれば、どんな小屋かも知れねえが、うう、いってみるか」
こう呟いたとき、ふいと、死んだ親たちのことが頭にうかんだ。父も母もずっとまえに死んでいた、母親は杢助が出奔してから一年ばかり経って死んだそうである。黒門に申し訳がないという気持で、ほんのかりそめの病気をこじらしたのであった。父親は妻のあとを
「ひとついってみるか、三つ沢へよ」
父がぼけたようになったのは母に死なれたからであるし、母が死んだのは黒門のことを気に病んだためであった。そして、今もまた黒門では彼に来いという、いまのお登女さまは四十年まえのお登女さまではなかった。まえのお登女さまは杢助が出奔したあと、四五年していまのお登女さまを産んだ。もちろん父親は(代々がそうであったように)不明であるが、そのお登女さまも今ではおふくろさまと同じ年頃になっていた。
「そうだ、湯小屋へいくべえ」
杢助はまた呟いた。
「久しく涌き湯へもへえらなかったでよ、ほんに、明日にでもいくとすべえ」
杢助はうっとりと眼をつむった。
明くる日、杢助は三つ沢へでかけていった。そこは白山へ登る道から脇へそれた狭い谷間で、
五人の娘たちが、米味噌や漬物や、乾した川魚などを背負って、たいそう陽気に送って来てくれた。彼女たちも三つ沢でひと晩だけ泊ってゆく筈だった。けれども湯小屋には、見馴れない老人の先客がひとりいた。
「見なよまあ、杉谷の大先生だに」
彼女たちはこう
「あの人にゃ気をつけなくちゃなんねえだよ」
お初という娘が杢助に囁いた。
「ああみえても神さまみてえにど偉え剣術の先生だでよ、失礼のねえようによく気をつけてくろよ」
杢助はそっちを見ようともしなかった。
そのとき先客の老人は湯に浸っていた。娘たちが去ると、杢助もすぐ湯に入ったが、老人の方には眼も向けず、むろん挨拶もしなかった。老人の方が少し脇へ身をずらせた。杢助は平然として、まるでそこにいるのは自分ひとりであるかのように、顎のところまで湯に浸り、手拭で
「あの沢はくん(崩れ)だだな、きっと木を
狭い谷間だから展望はきかなかった。白山谷も見えない、手取川の瀬の音も、眼の前にある谿流の音が高いので聞えなかった。谿流に沿って道があり、それはこの上の杉谷を経て、白山の登山道へつながるのであった。向うは傾斜の急な山腹で、杉林がずっと上のほうまで繁っているが、ひとところ大きく崩れて、
「その方は牛窪の者か」
先客の老人が云った。呼びかけずにはいられなかったらしい。杢助は「そうだよ」と答えたまま、やはり谷の向うを眺めていた。老人は黒くて濃い眉をしていた。
「わしには見覚えのない顔であるが」
と老人がまた云った。
「そのほうは他国でもしていて、帰ってまいったのか」
「そうよ、おら帰って来ただ」
杢助は答えた。
「帰ってから五六日になるだよ」
「すると、五六日まえだとすると、その方くる眼の杢助という者ではないか」
老人は話しがしたそうであった。
「わしは黒門で聞いた、わしはときどき黒門へ客にまいるが、このたびまいって帰る前日に、その方の話しを聞いた、くる眼という
杢助は両手で手拭をひろげて顔を洗った。湯が揺れて岩風呂の岩へぶっつかってはねた。そのしぶきが、岩から垂れている
「そうだよ」
杢助は手拭の中で答えた。
「おめえさんの聞いたことに、嘘はねえだ、おらくる眼の杢助だあよ」
けれども老人の方へは向かなかった。老人は待った。汗が出はじめたので湯からあがり、岩のふちへ腰をかけて、横眼づかいにそっと見ながら、待った。杢助はなにか云う筈であった。話しの糸ぐちはこっちでつけたのだから、こんどは杢助がその糸ぐちをほぐす番であった。が、杢助は黙っていた、やおら後頭部を岩のふちに
「わしはその、飯篠長威斎という者であるが」
「聞いただよ」
杢助は欠伸をした。
「弥市から聞いただし、いまの娘たちもそう云ってただ、弥市は詳しく話してただよ」
そして彼は、絞った手拭を頭にのせ、うっとりと眼をつむった。飯篠老人はなにか云いかけたが、云うのをやめて立ち、躯を拭いて、小屋の方へとたち去った。
飯篠老人は話し好きのようであった。杢助が黙っているので、面目上かなりまで自制していた。くる眼などという妙な癖のある土百姓の爺いに天下の長威斎から話しかけるという法はないのであった。けれども彼は話し好きだったし、相手は眼の前にいた。寝起きも同じ小屋であり、岩風呂は一つしかなかった。いつも相手は鼻の先にいるので、三日めにはついに我を折ってしまった。
||岩に話すと思えばいい。
飯篠老人はそう考えた。話しかけてみれば、杢助もまんざら黙ってばかりはいなかった。ぶあいそうではあるが、ときには返辞もするし、質問することさえもあった。たとえそれがまのぬけた、拍子もないようなものであったにしても、
「此処はいい、じつにいい」
飯篠老人は必ずそこから話のきっかけをつけた。
「山紫水明、
「残念なのは修業者の来ることだ、わしは世捨て人じゃ、俗世の
「おら知ってるだよ」
杢助が云った。
「ほかにも似たようなことを云う人に会ったことがあるだよ」
「似たような者、ほう、それは殊勝なことであるな」
「その人はおらに酒を飲ましてくれただ、伏見の城下町のことだっけが」
杢助はだらけた調子で云った。
「その人も云ってただ、おら世の中に飽きはてた、人間どもの俗悪さにあいそが尽きた、おら名も要らねえし金も要らねえ、出世もしたかあねえ、こうやって名もねえ人間になって、無一物で、誰にも知れねえように
「それは殊勝なことを聞くものだ」
「その人はそう云ってただよ」
杢助は無関心に云った。
「そう云ってただが、宿の表には自分の名を書いた大きな看板を出して置いただ、天下の豪傑荒川熊蔵の宿所ってよ」
「ほう、荒川熊蔵とな」
「それから酔っぱらうといつも喚きたてるだ、うぬらこの虫けらども、天下の豪傑を知らねえっつうか、荒川熊蔵を知らねえだか、この人間の屑の下司野郎めら、おら荒川熊蔵だぞう、ってよ」
こう云って欠伸をした。
「それでその人のことを知らねえ者はなかったし、みんな
飯篠老人は不愉快そうな顔をした。
「そんな人間とわしを同じに思ってもらっては困る、わしはそんな人間ではない」
老人は云った。
「痩せたりといえども飯篠長威斎、
「それはおまえさんがそう思うだけだよ」
「一個無名の
「おまえさんは名無しでもねえし、百姓爺いでもねえ、おまえさんが飯篠ちょうゐ斎さまだってこたあ村じゅうの者が知ってるし、よそから武者修業も来るそうでねえかえ」
「そこのところは、そこはわかってくれると思うが、わしとしてもじつに迷惑しておる、剣の道は神聖であって、遠路をいとわず教えを乞いに来たとなれば、道の精神からして拒むわけにはゆかない」
「そうだとも、そら教えてやるがいいだよ」
「いやそうじゃない、待ってくれ、わしは
老人はむきになって云った。
「いかに神聖な道のためとはいえ、もはや疲れもし、飽きてもきた、幸いこのところ一人もおらぬが、季節がよくなってまいったで、そろそろまた修業者が来るであろう、しかしもう御免じゃ、今年こそもう断じて教授はしない」
「できればいいだがねえ」
「断じてじゃ」
飯篠老人は云った。
「そしてしんじつ隠者になって、心しずかに神仙の道をまなぼうと思う」
「それができればなあよ」
杢助は大きな欠伸をして湯から出た。
さらに三日ばかり経った或る日、うす曇った午後のことであるが、二老人が小屋の中にいると、一人の若い旅装の侍が、戸口へ来て道を
「杉谷へまいりたいのだが」
若侍はもういちど云った。
「杉谷の長威斎先生の御草庵へまいりたいのだが、この道を登ってまいってよいであろうか」
「大先生のとけえゆくだって」
杢助はまた上わ眼で飯篠老人を見た。それからゆっくりきせるをはたき、横になったままで若侍に答えた。
「おいでにならぬ」
「············」
「いらっしゃらねえだ、おとついまではござっただがねえ」
杢助は
「あんまり武者修業が来てうるせい、これじゃ遁世が遁世にならねえってよ、えらくぷりぷりしてござったっけが、おとついの朝がた、どっかへ突っ走っちめえなすっただよ」
「それは事実であろうな」
「おらが証人だあ」
杢助は煙草をつめた。
「おら杉谷の庭掃きをしていたでよ、それももう用がなくなったで、こうして此処へおりて来ただよ」
若侍は落胆のあまり
「ではまだ遠くもゆかれまい、これからすぐにお跡を慕ってまいろう」
若侍は自分に向って云った。
「道の奥をきわめるためにはいかなる辛苦もいとわぬ、否、いとってはならぬ、たとえ大地のさいはてであろうとも、必ず追いついて御伝授を受けなければならぬ、そうだ」
若侍はふるい立って、大先生がどちらへゆかれたかと訊ねた。杢助は知らないと答えた。大先生もこんどは、ゆき先を感づかれるようなへまはしないだろう、と答えた。若侍は気にかけなかった、彼は
「わしは」
やがて飯篠老人が云った。
「わしは、道の良心が
「呼び返すかね」
「あの男はどこまでもわしを捜し歩くだろう」
「呼べば聞えるだよ」
「草に寝、石を枕にし、山々谷々、悪獣毒蛇をものともせず、ただ剣の道の
「呼び返すがいいだよ」
杢助はふうと煙草の輪を吹いた。
「罰なんぞどうでも、自分のにんきの高いのを自分で見ているのは悪い気持じゃねえし、それについて蔭口をきく者もありゃしねえだ、ただおまえさん独りでいろいろ感ぐってるだけだに」
「||こうするか」
飯篠老はふと杢助の方を見た。杢助の言葉は甚しく彼の自尊心を傷つけた。だが飯篠老人は聞かないふりをした。少なくともそれを黙殺し、そうして云った。
「その方に頼みがある」
「||へえ、おらにかえ」
「その方わしの身代りになってくれ」
「おうれ、また」
「こういうわけだ」
飯篠老人は坐り直した。
「いま見たように、修業者はどこまでもわしを追って来る、どんな処へ隠れても、かれらはきっと捜し当てるだろう、そこでだ、いまその方が杉谷の庭掃きをしていたというのを聞いて思いついたのであるが、そのほうが長威斎に成って杉谷におれば、わしはもう修業者につけまわされることはない、安心して好きなところへゆけるし、
「そらだめだよ」
杢助はきせるをはたいた。
「それあ悪い思案じゃねえが、だめだよ」
「どこがどうだめだというのか」
「どこもなにも、おまえさんは大先生だ、神さまみてえに強い剣術つけえだに、おら薪ざっぽ一つふりまわすこともできねえ、そらおまえさんむちゃなこんだよ」
「いや、そのことなら心配は無用」
飯篠老人が
「そのことなら断じて」
と老人は云った。
「わしを訪ねて来るほどの者は、みな一流に達した人間である、木剣を持って打合うとか、手を取って教えるなどということは決してない」
杢助は信じかねるように、きせるを投げ、紙を取って、口の中に
「だとすれば」
杢助が云った。
「うう、そのなんとかという、その伝授とかいうことは、いってえどうなるだね」
「それは修業者自身の問題である、道の秘奥というものは
「だとすれば、どうしてまたわざわざおまえさんのとけえやって来るだね」
杢助が不審を打った。
「つまり
「たわけたことを云ってはいけない」
飯篠老人は哀れむように杢助を見た。
「ひと口に申すと、長威斎のもとで会得したとなれば、それでもう達人として天下に通用するし、仕官をするばあいにも
「おらが怠け者だつうことかえ」
「わしはまず村の者に云おう」
飯篠老人は話しを進めた。
「まことの長威斎は杢助その人である、わしは門人であって、先生の草庵をいとなむため、先に杉谷へ来ていたのである、なにを隠そう杢助こそ山城守直家······なにを笑うか、村の山猿どもを云いくるめるくらいの弁舌がこのわしにないとでも思うのか」
「おら笑やしねえだ、笑いたくもねえだよ」
杢助はきせるを取った。
「それに、おまえさんがそこまでお
「そんなことはない、そんなことはある道理がない」
飯篠老人は言葉を強めて否定した。老人はこの
杢助は杉谷の草庵へ移った。
飯篠老人は身代りとしての二三の心構えを教えた。
修業者たちに対して「なるべく口をきかない」こと、かれらの奉仕を「決して遠慮や辞退しない」こと。もうひとつ、数多い修業者のなかにはときに、
「そういう修業者が来たら、この木剣と立合えと云うがよい、おそらく打込むことはできない筈である」
「まじないでもしてあるだね」
飯篠老人は眼を剥いた、けれどもなにも云わなかった。
草庵は古い建物であった。何百年という昔、なにがしとやらいう高徳のひじり(聖)が
飯篠老人は去っていった。
「では······」と云って、自然木の
その日の午後、とつぜん黒門のお
「あの杢助、いいえ、あの、飯篠さま」
彼女は縁先へ来て云った。
「さきほどあの御門弟の方からすっかりうかがいました。まあどんなに驚いたことでしょう、わたくし
杢助は寝そべっていた。お登女さまの方は見もしないし、云うことを聞いてもいなかった。お登女さまの方へ頭の
「お登女さまがあんなに
と弥市が云った。
「なんとか御挨拶しねえだか、いんや、さっしゃらねえだかんだ、御挨拶うさっしゃんねえだかよ、杢助、おめえ大先生だっつうでねえか、おめえが大先生の御本尊だっつうでねえか、村じゅうが
杢助は黙っていた。
お登女さまはなおも云い続けた。杢助がただ者でないことは、亡くなった母が予言していた。こんど彼が帰ったと聞いたとき、自分はすぐ母の予言を思いだし、黒門へ迎える決心をした。それは彼が偉い人間になって帰ったに相違ない、と思ったからであり、今日それは証明されたのであった。黒門の代々の伝説は虚構ではなかった、彼は
このあいだに、杢助はいびきをかきながら眠っていた。
第一の修業者が来たのは、それから七日ばかりのちのことであった。飯篠老人は、季節がよくなると来はじめる、と云ったようだが、こんなことにもしゅんがあるのかもしれない。続けて第二、第三、第四、第五と、三十日ばかりのあいだに五人の修業者がやって来た。
草庵は
彼女たちはその後も、三日おきくらいにやって来て、一日じゅう賑やかに騒いでいった。杉谷は牛窪村から二里余りあるので、さすがに毎日というわけにはいかないらしいが、ちょうど出作りの時期で、村の大部分の男女はいなかった。村はいま「留守村」であり、彼女たちには暇と自由がたっぷりあった。しぜん、修業者が来はじめてからも、彼女たちは訪問をやめないので、そういう日の草庵の賑やかなことは、ちょっと類の少ないものであった。
「ぶしつけなお訊ねかもしれませんが」
二番めに来た修業者の二之木二郎が、あるときどうも
「あの娘どもはどういうわけであんなにしげしげやって来るのですか」
杢助は煙草をふかしながら、そうさの、と云ってまた煙草をふかし、寝ころんだままで片方の足首のところをもう一方の足の指でひっ掻いて、そうして云った。
「きっと来てえからだべえさ」
他の修業者たちは見て見ないふりをしていた。
飯篠老人の言葉に嘘はなかった。修業者たちは(唯一人を除いて)よく働き、よく杢助の世話をした。杢助は初め、かれらに自分で名を付けた。おめえらの名をいちいち覚えるのは面倒だでのう、杢助はこう云って、第一の修業者に一之木太郎、第二のそれに二之木二郎、それから順に三之木三郎、四之木四郎といったぐあいであるが、みんな仮にもいやそうな顔はしなかった。かれらは互いに分担を定めて、交代で水を汲み、薪を割り、炊事をした。誰か一人は必ず杢助に附きっきりで、飯の給仕をし茶を
「すべて道の修業のためでございます」
かれらは自分からそう云うのであった。けれども五人のなかで、三之木だけは違っていた。彼は飯篠老人が予言していたような修業者の一人で、ぜひ先生の太刀筋を拝見したいといい、そこで例の木剣と
||おそらく打込むことはできなかろう。
飯篠老人はこう云ったが、そのとおりであって、三之木三郎は五人のなかでは誰より逞しく、
他の四人は好い若者であった。みんな剣術の極意のことで頭がいっぱいらしい、昼夜十刻、眠っていてさえも頭から放れないようで、みんないつも緊張し思い詰めたような眼つきをしていた。「はてな」といったような顔つきをすることもあった。決してむだ口はきかないし、お互いで話したり笑ったりすることもなかった。ただひとつうるさいのは、かれらが杢助から眼を放さないことであった。眼を放さないばかりでなく、かれらは全神経と全感覚とで、休みなしに杢助に付きまとい、どんな無意味な動作からも、極意をさぐり出そうとするふうであった。
五之木五郎はなかでも熱心な修業者で、飯の炊きようも上手だし、縫いつくろいだの洗濯物なども堂に入っていた。彼はかなりな
||
と云うのに似ていた。もちろん、道の秘奥をさぐるための挙動の一つなのだろうが、初めのうちはなにかこっちが術でもかけられそうな心持で、馴れるまで杢助は気骨が折れた。二之木二郎は
杢助には満足な生活が続いた。杢助には不平はなかった。彼は決して不平家ではなかったが、その生活にはなかんずく不平や不満はなかった。
猛暑の季節になったが、草庵はいつも涼しかった。深い杉林に囲まれているので、空気は常にひんやりしているし、谷から吹きあげる風はいいようもなく爽やかであった。霧の巻く朝夕は杉の香がつよく匂い、
||おらこれ以上なにも要らねえ。杢助はこう思った。この暮しが百年続くとしても、おらちっとも文句を云うこたあねえ。
まさしく杢助にとってはそうだったろう。
が、八月になると、その平穏な生活がゆらぎだした。
第一の出来事は娘たちから起こった。彼女たちは相変らず五人組で来て一日いっぱい勝手に騒いでいった。当時は一般の風俗もおうよう
「なあ先生よ、云ってしめえなよ」
彼女たちは大きな声で云う。
「ぜんてえ先生は、おんだらの祖母さまたちの誰と本当に寝ただえ、お花ばあかえ」
「お梅ばあもお綾ばあも、おんだらんとこの祖母さまも、どこのええ(家)の祖母さまも云ってただ、内証のこんだがおらあの人と寝ただってよ」
「みんな嘘っぱちよ」
べつの娘が云う。
「女が本当に誰かと寝ただら、おくびにも寝たなんて云わねえもんだ、なあ先生よ」
彼女たちは杢助の脇に寝ころんだり、足を投げだしたり、極めて
「そんなにふくれるでねえよ、二郎さん」
彼女たちはこんなふうに云う。
「顔なんぞふくれたってなんの使いみちもありゃしねえだ、どうせふくらかすだらもっと使いみちのあるところにするがいいだよ」
そしてげらげら笑うのであった。
二之木二郎はついに辛抱を切らしたようであった。彼は他の四人とも相談したらしい、八月になってまもない或る夜、五人で杢助の前へ来て坐った。
「先生にお願いがございます」
二之木が云った。
「きいて頂けますでしょうか」
「||なんだや」
「あの娘たちの来るのを禁じて
「||どうしてだや」
「御存じの如くわれわれは専心不乱、剣道の
杢助は二之木を見、それから他の四人を順に見た。きせるに煙草を詰め、
「おめえにきくだが」
と杢助が云った。
「いってえ卵ちゅうもんはなにが産むだね」
「それは申すまでもなく」
二之木がむっとして答えた。
「むろん
「じゃあおめえはどうだ、うう、おめえはなにから生れて来ただえ、木の
「もちろん母親からでございます」
杢助は煙草をふかし、ふんと云った。
「||そのおふくろさまは、女かえ男かえ」
「むろん女でございます」
「それでその、おふくろさまもやっぱり、おめえにはけがらわしいだか」
「なにを仰しゃいますか」
二之木の顔はたちまち
「人間と生れて仮にも母親をけがらわしいと思う者があるわけはございません、私にとっては母上は神聖冒すべからざるものです」
「あの娘らもおんなしださ」
杢助はごろっと横になった。きせるをはたき、二服めに火をつけ、さもうまそうに煙の輪を吹いて、それからだらけた調子で、ゆっくりと云った。
「その年頃になれば、牝鶏は卵を産みたがるし、娘らは子を産みたくなるだわさ、ほかのこんじゃねえ子を産みてえからこそ、があがあ騒いだりつまらねえお饒舌りをしたりするだあ、そういうことでおめえが生れたし、おらも生れたし、誰も彼もが生れて来ただ、あの娘らがもしけがらわしいとすれば、そういうことをしておめえを産んだおめえのおふくろさまもけがらわしいし、世の中の女てえ女、また男てえ男はみんなけがらわしいだ、そんなこたあねえ、そんなこたあ」
杢助は吸殻を
「おめえらもいつかは、どっかから嫁を貰って、そうして自分らの
二之木二郎の顔が硬化した。聞いているうちに非常な感銘を受けたらしかった。顔面が硬ばり、眼が異様に光りだした。そして、杢助の言葉が終ったとたんいきなり庭へとびおりた。杢助は
「有難きただいまのお言葉」
二之木は震え声で云った。
「牝鶏と娘どもに仮託した御教示、まさしく奥義の御伝授とうけたまわりました、流儀の秘伝、まさしく会得つかまつりました。かたじけのうござります」
そして彼は泣きだした。もちろん嬉し泣きであった。逞しい肩に波をうたせてやや暫く男泣きに泣いた。杢助は煙草をふかすのも忘れて、あっけにとられてそれを眺めていた。
||わけが知れねえ。
杢助は心のなかで思った。おらが牝鶏と娘をどうしたっていうだ、なにが御伝授だ、つまらねえ、ほんにわけが知れねえ。
二之木二郎は草庵を去った。秘伝を会得したから去ったのであった。この出来事は他の四人を感奮させた、想像以上に感奮させたようであった。かれらの眼つきも表情も、立ち居の動作もひどく緊張し、全身が絶えずぎらぎらしているようにみえた。三之木三郎はやはり木剣と睨みあっていたが、彼の熱心さは殆んど頂点にまで
||あの人あ脳を患ってるじゃねえかえ。
などと云うくらいであった。
二之木が去ったことについて、杢助にはかくべつ感想はなかった。が、それから十日ほどして、第二の出来事が起こったときは、彼は感想なしではいられなかった。ちょうど四之木が肩を叩いているときであったが、谷から吹きあげて来る新秋の風に、杢助がふとくしゃみをもよおした。
「有難きただいまの御くしゃみ」
四之木は感動に
「

ございますと云うつもりだったらしいが、こみあげてくる
||どうしたこんだ、これは。と杢助は心のなかで思った。おらあただくしゃみをしただけだによ。それがいってえどうしたっつうだ。
四之木四郎は秘伝を会得した。云うまでもない、彼は
||こらあ油断も隙もなんねえ。
杢助は考えた。かれらはなにをきっかけに「会得」するかわからない、これでは不用意に話しもできないし、うっかり
五之木は谷から水を汲んで来たところであった。水の入った二つの手桶を、
「あれいけねえ、それゃいけねえ」
杢助はわれ知らずそう云った。しまったと思ったのであろう、けれどもおそかった。五之木は水手桶を下におろし、そこへ土下座をした。そして右手を前に出して、いつものように食指を一本ぬっと立ててみせ、それから激しく吃った。
「お、お、お、い、い、い」
感激のあまり吃りが昂進したらしかった。無意味な母音が出るばかりで、どうしても言葉にならなかった。彼はますます指を押立て、これが証拠だとでもいうように、ただもう怪鳥のような叫び声をあげるのであった。
「わかっただよ」
杢助はうんざりしたように云った。
「どうせまた会得したんだべさ、つまらねえ」
いったい「会得」とはなんであるか。かれらはなにを「会得」するのであるか。杢助にはまるで腑におちなかった、極意だの秘伝だの、しょせんは剣術がずぬけに上手で、うまく人を叩きのめすことのできる人間が、その術に
「ばかばかしい、なんちゅうこんだ」
杢助はこう
「あいつこそ会得すればいいだに、あの三之木こそよ、なんの役にも立たねえで、どうしてまた会得しねえだかさ、うう、どうしてだかさ、ばかばかしい」
もしもこれで一之木にゆかれたら、もう万事おしまいである。一之木を出てゆかせてはならなかった。一之木に「会得」をさせてはならない、少なくともあとの修業者が補充されるまでは、······杢助は言語動作に気をつけた、そんな努力をするのは生れて初めてのことであった。しかし、こんどはまったく予期しない方面から、予想外の災難がふりかかってきた。
九月
「飯篠長威斎先生の御草庵とうけたまわって推参いたした、てまえは前田家の尾井幾兵衛と申す、ぶしつけながら先生に
三之木は榧の下で木剣と睨みあっていた。杢助は一之木に肩を揉ませていた。三之木は睨みあいをやめ、一之木は肩揉みをやめた。杢助はこれは唯事ではないと直感し、
「違う違う、大ちげえだ」
と慌てて手を振った。
「此処にゃそんな者はいねえだ、それやおまえさんの聞き間違えだよ」
「おお、正しくこれは飯篠先生」
尾井幾兵衛となのる侍は、こう云ってそこへ
「御閑居を騒がす罪はお赦し下さい」
幾兵衛は確信して云った。
「じつは、金沢城に大事
「違うだっつうに、おら長威斎でも先生でもねえだ、ほんのことくる眼の杢助つう者だに」
「まず
尾井幾兵衛は構わずに云った。要点をしるすと、岩見重太夫という大豪傑が金沢城へやって来た。天下無双であり、ちょっと形容しがたいほど
「加賀百万石の浮沈にかかわる大事でございます」
幾兵衛は続けた。
「先生におかれても領内に御草庵をいとなまれます以上、かかる大事をよもやおみすごしはなされますまい、仮にいやだと仰せられても、てまえ役目として無理にもお迎え申さずにはおかぬ覚悟でございます」
「おらなんべんも云うだ、おら長威斎じゃねえだよ」
断じて先生ではない、それは大間違いである。杢助はけんめいに弁解した。だが尾井幾兵衛は耳にもかけなかった、しかもそこに鉄砲という武器のあることを暗示し、ついには部下と協力して、殆んど暴力的に杢助を担ぎだし、用意の輿に乗せてしまった。
「だからおら初めに云っただ」
輿の中で杢助は呟いた。
「こんなえせ(似而非)なことをして、なにか災難が起こるじゃねえかってよ、······先生はそんなこたあねえっつたでねえか、そんなことはある道理がねえって、······これでもある道理がねえだかえ、あのくわせ者が、これでも災難でねえっつうだかえ」
牛窪村でもすでにこの出来事は知っていた。留守村の人たちは残らず、道へ出て輿を見送った。黒門のお登女さまも出ていて、輿が通りかかると
「このたびは御本城よりのお召し、御名誉なことでございます」
「先生のお腕前なら悪豪傑などはひと
「先生しっかりやってくんろよ」
娘たちはもっと素朴であった。
「その悪い野郎の手足をぶっ
「そうだ、身の皮をひん剥いて来てくろ」
弥市もはだしではねながら、叫んでいた。
「そいつをぶちのめして、眼のくりだまを
杢助は
金沢まで二日でいった。それは一般の日程のほぼ半分であった。
途中には変ったことはなかったし、杢助もじたばたはしなかった。煙草を忘れて来たのを不満に思うくらいにまで、気持のおちつきをとり戻していた。彼は無為にして生きてきた。時代は騒がしく生きるに困難な条件が多かった。しかも彼は怠けたいように怠けて、なにごとも
「おらがそんな大豪傑と試合するなんて、そんなばかげたことがある筈はねえさ」
杢助はそう呟いた。
「そのまえになにか起こるだ、おらが試合なんぞしねえで済むように、きっとなにかが起こるだ、これまでいつもそんなふうだったし、こんどだけそうでねえわけがなかんべえさ」
彼はおちつきをとり戻したのであった。
杢助は自分の運を信じた。この災難が必ず解消するだろうと信じた。城へ着いてからも、試合の場所(それは城中の馬場であったが)へ出てからも、その信念にゆるぎはなかった。ただその場のものものしい設備と、居並んだ前田家臣らのきらびやかさと、その数の莫大さにはびっくりした。少なからず気おくれがし、頭がのぼせた。ぼうっとのぼせて、尾井幾兵衛がなにか云ってもよくわからず、ただ幾兵衛の云うままになり、されるままになっていた。
||もうなにかが起こってもいいだにな、と杢助は思った。もうそろそろ起こるじぶんだによ、なにかが、······思いがけねえような事がよ。
そのとき太鼓がとうとうと鳴りだした。
太鼓は試合を始める合図であった。しかし杢助の期待するような事はなにも起こらなかった、ばかりでなく、試合をする相手が、こっちへ向って来るのを杢助は認めた。
その男は巨漢という感じだった。すべてが大づくりであった、
||大豪傑だ。
と杢助は思った。これが岩見重太夫だ。
慥かに、それは岩見重太夫であり、天下無双の大豪傑であった。杢助は身ぶるいをした、杢助は救いを求めるように四方を見まわした。が、依然としてなに事も起こらなかった。重太夫はなにか叫んだ、口が耳まで裂けたようだった、まっ黒な髭の中から白い歯が見え、その叫び声は杢助の耳をがんと
もうだめだ。杢助は思った。いつかみてえだ、いつかとそっくりだ。
杢助の頭に連想作用が起こった。そして、岩見重太夫がそのまま一頭の猛犬にみえた。彼が幼年のころ出会ったあの食いつき犬に、······大豪傑は近よって来た。五尺もありそうな
||そうだ、あのときそっくりだ。
杢助はこう思ったが同時に「くる眼」の発作が起こった。それは幼年時代より激しくもなかったが、軽度になったわけでもなかった。これまでのものと同じ程度のようで、まず左右の
よくはわからないが、剣術の試合などでは「眼」が重要らしい。両者の「眼と眼」ということをいう。糸で
岩見重太夫は頭がちらくらしてきた。彼の眼は杢助の両眼をがっきととらえていた、しぜん重太夫の両眼は杢助の両眼の動きと不可分であり、まったく意思に反して同一運動を起こした。神経が通常である者にとっては、それは怖るべきものであり、とうてい負担に耐えがたいものであった。いつかの食いつき犬は
試合は終ったのであった。馬場は歓呼の声にどよめきあがった、まさに
「おみごとおみごと」
尾井幾兵衛が駈けよって来て、しわがれたかなきり声で叫んだ。
「先生おみごとです、おみごとでござります」
杢助の発作は頂点に達し、したがって
||やっぱり思ったとおりだ、なにかが起こったにちげえねえ、なにかが、······災難はのがれただ。
杢助は領主の前に呼ばれて褒美を賜わった。暫く城中の客になるようにといわれ、連日にわたって
三日めの午後、一人の老人が金沢城の大手門の前に立った。大手の門の門番のところへ来て、右手に自然木の
「自分は飯篠長威斎である、御領主、加賀守侯に面会したい、早速そう取次ぐように」
「なんだって、飯篠なんというって」
「飯篠長威斎、山城守直家である」
「おい、妙な気違いが来たぞ」
門番の侍は同僚に向って云った。
「こいつ飯篠長威斎だとよ、先生の評判を聞いて気でも狂ったんだろう」
「いや自分は狂気はしない」
老人は云った。
「そのほうの申す評判を聞いたからまいったのだ、自分が正真正銘の長威斎、城中にいるのはくる眼の杢助というにせ者である」
「ほほう」
ともう一人の門番が云った。
「それでいったい、どうしようというのかい」
「これは私利私慾ではない」
老人は云った。
「わしはすでに遁世の身であり、俗世の名利を捨てておる、自分の名声や利益などは問題ではない、けれどもじゃ、にせ者もにせ者、くる眼の杢助などという愚か者が、飯篠長威斎の名をなのるのに、誰ひとりこれを看破することができず、まことの長威斎と信じてもてはやすということでは黙ってはいられない、これはすなわち剣の道の神聖を
「なんだなんだ、その爺いはなんだ」
城の中から出て来た五六人の侍たち(みな若く元気そうであった)が、こう云ってこっちへやって来た。門番の侍が笑いながらわけを話した。老人はそれを
「自分の名利のためではないぞ」
と老人は繰り返した。
「決して名利のためではない、ただ剣の道の神聖を守るがために」
「まさに気違いだ」
若侍たちは笑った。
「ゆけゆけこの爺い、まごまごするとひっ
「無礼者、なにを申すか無礼者」
「うるさいな」
一人が老人を押しのけた。
「通行の邪魔だ、どけどけ」
そしてかれらは去っていった。押しのけられた老人は
「そのほうどもは盲人か、その眼は節穴か、百姓爺いと長威斎のみわけもつかないのか、もう一度よくわしを見ろ、このわしを」
と老人は片手で胸を打った。
「天下の長威斎をよくよく見ろ」
若侍たちはもう相手にならなかった。互いに話したり笑ったりしながら、ずんずん向うへ歩いていった。
「ばか者ども」
老人は立停った。
「なんという愚かな、ばか者の低能どもだ、わしはきさまたちのために来てやったのだぞ」
老人は去ってゆく若者たちのほうへどなった。
「自分のためではない、きさまたちの誤りを正し、真実を教えてやるために来てやったのだぞ、待て、ばか者ども、わしの云うことが聞えないのか」
若侍たちは
「世間というものはなんと愚劣であるか」
老人は失望の
「なんと愚劣で無智なものであるか、人間どもの救いがたい
けれども老人は断念しなかった。半月ほどして、杢助が白山谷へ帰ってからも、大手門へ来ては自分の主張を述べたてた。
「先生はもう杉谷へお帰りになった」
「文句があるなら杉谷へいって、じかに先生に申上げたらいいだろう」
「わしはあんな者は問題にしない」
老人は云った。
「あんな杢助や白山谷の百姓どもや、つまらぬ修業者や草庵などは問題ではない、わしは天下が相手だ、わしは天下を相手に正邪をはっきりさせるのだ、わしは天下の
そして老人は自然木の杖を地面に突きたて、飽きずに同じことをどなるのであった。
杢助は村へ帰った。二駄の(加賀侯から賜わった)土産を持ち、輿で送られた杢助は、牛窪村の人たちの熱狂的な歓迎を受け、黒門に十日ほど滞在したのち、杉谷の草庵へ帰った。そこでは三之木三郎が去って、新たに五人の修業者が来ていた。······三之木三郎は榧の枝からぶら下げたあの木剣を、ひき千切って、踏み折って、それに唾を吐きかけて、悪態をついてたち去ったということであった。
「早くそうすればよかったによ」
杢助は云った。
「あの役立たずが、もっと早くそうすればよかっただに、それがお互えのためだったによ、······まあいいだ、
草庵の安穏な生活は保証されたようであった。一之木太郎と、新たに来た六之木六郎から十之木十郎までの、六人の修業者たちを眺めながら、杢助はのびのびと横になり、ながく飢えていた煙草を取って、さも満足そうにふかし始めた。
「お煙草が残り少なになりました」
と一之木太郎が云った。
「大阪へでもまいったら求められるのでしょうが、よろしかったら雪のこないうちに、私どものうち誰かいって来ることに致しましょう」
「心配はいらねえだよ」
杢助が云った。
「有ればのむだが無ければねえでいいだよ、うう、めんどくせえでな、それにゃ及ばねえだよ」
「しかしいってまいるのは私どもでございますから」
「おんなしこったに、たとえおめえらがいって来るにしろ、めんどくせえこたあやっぱりめんどくせえでねえ、おら他人がやるにしろ、めんどくせえこたあでえ嫌えだに」
杢助はのびのびと足を踏み伸ばした。
「おらこれでいいだよ、なにも不足はねえだ、ほんによ、おらなに一つ不足はねえだによ」