町は孤立していた。北は田畑、東は海、西は根戸川、そして南には「沖の百万坪」と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先もまた海になっていた。交通は乗合バスと蒸気船とあるが、多くは蒸気船を利用し、「通船」と呼ばれる二つの船会社が運航していて、片方の船は
西の根戸川と東の海を通じる掘割が、この町を貫流していた。蒸気河岸とこの堀に沿って、釣舟屋が並び、洋食屋、ごったくや、地方銀行の出張所、三等郵便局、巡査駐在所、消防署||と云っても旧式な手押しポンプのはいっている車庫だけであったが、||そして町役場などがあり、その裏には貧しい漁夫や、貝を採るための長い柄の付いた竹籠を作る者や、その日によって雇われ先の変る、つまり舟を
町の中心部は「堀南」と呼ばれ、「四丁目」といわれる洋食屋や、「浦粕亭」という寄席や、諸雑貨洋品店、理髪店、銭湯、「山口屋」という本当の意味の料理屋||これはもっぱら町の旦那方用であるが、そのほか他の田舎町によくみられる
これらのことをどんなに詳しく記したところで、浦粕町の全貌を尽すわけにはいかない。私も決してそんなつもりはないので、ただこの小さな物語の篇中に出てくる人たちや、出来事の背景になっているものだけを、いちおう予備知識として紹介したにすぎないのである。
はじめに「沖の百万坪」と呼ばれる空地が、この町の南側にひろがっていると書いた。私は目測する能力がないので、正確にはなんともいえないが、そこは


この町ではときたま、太陽が二つ、東と西の地平線上にあらわれることがある。そういうときはすぐにそっぽを向かなければ危ない。おかしなことがあるものだ、などと云って二つの太陽を見ると「うみどんぼ野郎」になってしまう。そうしてそのときにはすぐ脇のほうで、獺か鼬の笑っている声が聞えるということである。特に鼬はたちの悪いいたずら好きで、人が道を歩いていると、ひょいと向うへとびだして来て、立ちあがって、交通整理でもするように、右手をあげて右をさし示したり、左手で左のほうをさしたりする。そうしたら必ず反対のほうにゆかなければならない。うっかりしてそちらへゆけば、きまって池か堀か、わるくすると根戸川へ落ちこんでしまう、といわれていた。
百万坪から眺めると、浦粕町がどんなに小さく心ぼそげであるか、ということがよくわかる。それは荒れた平野の一部にひらべったく密集した、一とかたまりの、廃滅しかかっている部落といった感じで、貝の罐詰工場の煙突からたち昇る煙と、石灰工場の建物ぜんたいを包んで、絶えず舞いあがっている雪白の煙のほかには、動くものも見えず物音も聞えず、そこに人が生活しているとは信じがたいように思えるくらいであった。
私はその町の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、あしかけ三年あまり独りで住んでいた。
私は海を眺めていた。腰掛は
「ずっとめえに、ここへなにかぶっ建てようと思ったっけだが」と老人が大きな声で云った、百メートルも先にいる人に話しかけるような声であった、「なんかぶっ建ってくれべえと思ったっけだがねえよ」
私は黙っていた。私は老人しか見なかったが、それではもう一人
「ずっとめえのこった、おつゆのおっかあがまだ綿屋へ嫁にいかねえころのこった」と老人は大きな声で云った、そしてやや
私はやはり黙っていた。
二度めには百万坪で会った。季節は春で、強い風が吹いていた。私は「二つ

潮の匂いのする強い風に吹かれながら、沖の弁天のほうへ歩いていたとき、うしろからいきなり大きな声で呼びかけられ、私はとびあがりそうに驚いて振り返った。あの老人がすぐうしろにいた。継ぎはぎだらけの、洗い
「おめえ舟買わねえか」と老人は私と並んで歩きながら喚いた、「タバコを忘れて来ちまっただが、おめえさん持ってねえだかい」
私はタバコを渡し、マッチを渡した。老人はタバコを一本抜いて口に
「いい舟があんだが」と老人は二百メートルも向うにあるひねこびた松ノ木にでも話しかけるような、大きな声でどなりたてた、「いい舟で値段も安いもんだが、買わねえかね」
私が答えると、老人は初めからその答えを予期していたように、なんの反応もあらわさず、吸っていたタバコを地面でもみ消し、残りを耳に
「おめえ」暫く歩いたのち、老人がひとなみな声で云った、「この浦粕へなにょうしに来ただい」
私は考えてから答えた。
「ふうん」と老人は首を振り、ついで例の高ごえで喚いた、「おんだらにゃあよくわかんねえだが、職はあるだかい」
私が答えると、老人はちょっと考えた。
「つまり失業者だな」と老人は喚いた、「嫁を貰う気はねえだかい」
私は黙っていた。別れるときマッチだけ返してもらったが、急に耳の遠くなった老人は、二度も三度も私の云うことを
三度めは根戸川亭で会った。それは蒸気河岸にある洋食屋で、土間が食堂、奥に座敷があって、夜になると蒸気船(通船といわれていた)の船員や漁師たちが、しばしば盛大に酔って騒いだ。或る日の
いまでもそうであるが、外で食事をするときには、私はなにか読みながらでないとおちつけない癖がある。そのときも私は青巻という本を読んでいて、老人がそこへ腰掛けたものだから、いっそう熱心に読むふりをし、そうして本から少しも眼を放さないままで、トンカツを
女が座敷のところへ来て、「芳さんなんにするだえ」と呼びかけた。
「うう」と老人が答えた、「おっかあがいねえからめし食うべえと思って来ただが、うう、なんにすべえか考げえてるだ」
「うちじゃあ考げえるほどごたいそうなものは出来ねえよ」
すると老人が私を見ながら、||そこへ腰掛けたときからずっと、老人が私をみつめ続けていることを私は知っていた、||で、老人は私の顔を見ながら、例のずばぬけた高ごえで喚きたてた。
「ビールをコップに一杯くんねえかね」
「ビールを一杯だって」と女が云った、「おらそんなこと聞いたこともねえ、
東京へゆけばビールの一杯売りをやっている、と老人が云った。それはビヤホールというものだ、と女が云った。いや、トンカツやカレーライスが出来るから洋食屋と違いはない、と老人が云った。一杯売りをするのは生ビールといって、
私は縛りあげられ、
「そうかね」と云うより早く老人は女に向って喚きたてた、「コップ」
それから私を見て「タバコの持合せはねえかね」
私が答えると、老人は「なに、いま欲しかねえだよ」と云った。
釣舟宿の「千本」の三男の
私の問いに答えて、長はつよく首を振った。
「ううん、そんなこたねえだよ」と長は云った、「工場はやかましかんべ、だからみんなえっけえ声になっちまうだ」
えっけえとはもちろん大きなという意味である。長はなお「芳爺さまはそら耳を使う」と云ったが、それはもう私の知っていることであった。
それからのちもときどき道で会ったが、老人は挨拶もしないし、私を見ても
三本松といっても、樹齢の古い松ノ木が一本しかない。ずっと昔は三本あったそうであるが、私の聞いた限りでは、それを自分の眼で見たという者はなかった。||堀の岸に
「あのぶっくれ舟か」と長が或るとき鼻柱へ
この誇り高い小学三年生は、見る気にもなれないという顔つきでそっぽを向いた。
それは慥かにぶっくれ舟であった。伏せてある平底の板は乾いてはしゃぎ、一とところあいている穴から、去年の枯れ草がひょろひょろと伸びていた。水から揚げられた古い舟ほど、哀れに頼りなげなものはない。それは老衰して役に立たなくなった馬が、飼主にも忘れられ、
そこへ老人が来て話しかけた。私は気づかなかったが、老人は私のようすを見ていたらしい。おそらく、私がその舟にすっかり
私は答えることができなかった。
「先生はこの土地のことを詳しく見てえって云ってたんべが」と老人が喚いた、「そんなら岡の上べえ歩きまわってもしょあんめえじゃ、根戸川のまわりだの百万坪の

まあ見てくれと云って、老人は伏せてある青べかをひき起こした。それは極めてすばやく、声をかける隙もない動作だった。
「ほれ見せえま」と老人は云った、「まっさらとは云えねえが、造ってからまだ七年にしかなんねえ、大事にしろばまだ十五年や二十年はたっぷり使えるだ」
私は自分の考えを述べようとした。
「値段もまけるだよ」と、老人は喚きたてた、「蒸気河岸の先生のこったからよ、思いきって五までまけるだ、たった五だ」
私が答えると、老人は片手を出した。
「タバコ」と老人は云った。
私はタバコとマッチを渡した。
「じゃあ、なんだ」と老人はタバコを一本抜いて火をつけ、タバコの箱はふところへ入れ、マッチだけを返しながら喚いた、「先生のこったから思いきって四にすべえ、四だ」
私が答えると、老人はタバコを地面でもみ消し、残りを耳にはさみながら喚きたてた。私は長の顔や、軽蔑しきった口ぶりを思いだしたが、同時に、自分が老人に縛りあげられ、ぬけ出すことのできない罠にかかったことを悟った。「見せえま」と老人は喚き続けた、「揚げっ放しにしといたからちっとばかはしゃいでるだが、まだこんなにしっかりしてるだ」
老人は舟べりや
「よし、そんなら三と五十にすべえ」と老人は云った、「これ以上は
私はちょっと質問した。
「そんなこたあ
「それから」と老人はいそいで付け加えた、「こういう売り買いには、買い手のほうでなにか物を付けるのがしきたりになってるだ、豚肉の百匁でもいいし、夏なら
私は豚肉を届けると答えた。
こうして私は「青べか」の持ち主になった。どんなに小さく、そしてぶっくれ舟であるにもせよ、一ぱいの舟の所有者になったのだが、私はうれしくもなかったし、誇りがましい気持にもなれなかった。長をはじめとする少年たちの軽侮の眼や、
「いいさ、あんな舟」と私は帰る道で自分に云った、「乗らなければいいんだ」
私は明くる日、老人のところへ舟の代金と、豚肉を百匁だけ届け、なお青べかについて、二三のことを頼んだ。老人はこころよく受け合い、そのとおりにすると約束した。
助なあこ(あにいというほどの意味)はお兼に恋をした。助なあこは大蝶丸の水夫であり、お兼は「大蝶」の罐詰工場へ貝を
この土地で恋といえば、沖の百万坪にある海苔
助なあこはそうではなかった。彼は中学生が女学生を恋するように、純粋に、
大蝶丸の水夫は三人で、船長の荒木さんはべつに家庭を持っていたが、エンジさんの正山さんと水夫たちは、工場の中にある小屋に住んでいた。助なあこは自分の恋を秘し隠しにし、誰にも
「ゆんべが初めてじゃねえぞ」と水夫の一人が云った、「おんだらあ何遍も聞いているだ、なあ」
「おうよ」と他の水夫が云った、「名めえをはっきり云ったなあ、ゆんべが初めてだっけ。ずっとめえから何遍も好きだあ好きだってねごとう云ってたっけだ」
「お、か、ね、さん」と先の水夫が両手で自分の肩を抱きしめ、身もだえしながら作り声で云った、「おら、おめえが、好きだ、死ぬほど好きだ、よう」
助なあこは
彼は死んでしまいたいと思った。
助なあこは固い決心をし、お兼のほうへは眼も向けず、貝を剥いている彼女の前を通るときには、まっすぐに向うを見たままいそぎ足で、殆んど走るように通りぬけた。彼はやがて機関士になるつもりで、仕事が終ったあとは、エシジンに関する本にしがみついて、熱心に独学を続けていた。それらの本の大部分は荒木船長に借りたものであるが、中の幾冊かは、||ディーゼル・エンジンに関する本は、自分で東京の神田へいって買ったものであった。
彼は夜の十二時まえに寝たことはなかった。他の水夫やエンジさんは、毎晩のように飲みにでかけ、帰ってくると「一厘ばな」か
周囲の人たちにとって、この独学はばかげたことであった。そのくらいのエンジナーになるには、五六年も船に乗って、実地にエンジさんのすることを見ていれば、それだけで立派にエンジナーになれるし、現に二つの通船会社のエンジさんたちでさえ、多くはそのようにして機関士になったのである。
お兼のことでからかわれてから、助なあこはすっかり人嫌いになり、ますます独学に熱中した。ねごとの話はたちまちひろまったが、そのまますぐに忘れられた。この土地では、どこのかみさんが誰と寝た、などという話は
助なあこの場合には、ねごとで恋の告白をしたというだけだったから、ほんのお笑いぐさとして忘れられてしまったが、傷ついた助なあことお兼とは、それぞれの立場で忘れることができなかったようだ。
初夏の或る午後、二人は根戸川の
そこへお兼が来た。彼女は助なあこのあとを
「あら、助さんじゃないの」とお兼はいかにも意外そうに呼びかけた、「こんなところでなにしてるの、あら、勉強ね」
助なあこは本を閉じ、振り向きもせずに、じっと固くなっていた。彼は全身が火のように熱く、心臓が喉までとびだして来るように感じた。お兼は斜面へおりて来て、彼と並んで草の上に腰をおろした。すると、あま酸っぱいような女の躰臭と、
「もう春もおしまいだねえ」お兼はその言葉の品のよさに自分でうっとりとなりながら云った、「水の流れと人の身はって、はかないもんだわねえ」
陽の傾いた空にはうすい
「けけちかしら」とお兼が云った、「まだけけちにしては早いかしら」
見ると助なあこはふるえていた。
「あたしあんたが好きよ」とお兼は彼の耳に
助なあこは黙って
「あたしあんたに話したいことがあるの」とお兼は続けた、「今夜ね、七時ごろあそこへ来てちょうだい、来てくれる、ねえ」
お兼はそっと助なあこの手に触れた。彼はぴくっとなり、躯をいっそう固くし、そしてお兼の手に伝わるほど激しくふるえた。お兼はまた、あのふしぎなよろこびの感覚におそわれ、助なあこの手首をぎゅっと握ってから、それを放した。
「もうみんなが沖から帰ってくるじぶんだわ」とお兼は云って
お兼はもういちど夜の約束をし、鼻唄をうたいながら去っていった。
助なあこは時間を計っていて、やがてそっと振り向いてみた。あまり長いこと同じ姿勢でいたため、首の骨がきくんと鳴り、
「あんたが好きよ」助なあこは頸の筋を揉みながら、お兼の云った言葉をまねてみた、「あたしあんたが好きよ」
彼の顔が
もう春も終りだ、世の中はままならない、あたしあんたが好きよ、水の流れと人の身は、はかないもんね。それらの言葉が彼の頭の中で、一つ一つはっきりと、この世のものとは思えないほど美しく聞えた。それは殆んど純金の価値を持ち、純金の光を放つように思えた。
「おら一生、忘れねえ」助なあこはそっと
美しいものは毀れやすい、毀れやすいからこそ美しい、などと云うつもりはない。ここには美しいものはないのだ、逆に、美しい感情がもてあそばれ、汚されるのであるが、助なあこの受けた感動だけは美しく、清らかに純粋であった。
彼はその夜、約束の時間に約束の場所へいった。芳野は堀南の釣舟屋であるが、季節には海苔もやるので、弁天社のうしろに漉き小屋と干し場を持っていた。そこは沖の百万坪のとば口にあり、畑と荒地に囲まれ、隣りの漉き小屋とは二百メートルもはなれていた。||日の永くなる季節ではあったが、もうすっかり
「待たせるのね、あんた」お兼はじれったそうに云った、「女を待たせるなんて罪よ、にくらしい」
お兼は衝動的に助なあこの手を握った。彼は
その声は喉でかすれ、言葉ははっきりしなかった。お兼は含み笑いをしながら、握った手をもっと引きよせた。土堤のときよりも強く、白粉と女の匂いが彼を包み、彼は眼がくらみそうになった。
「そうよ、大事な話があるの」とお兼は囁いた、「中でゆっくり聞いてもらうわ、ね、ここへはいりましょう」
「おら、||」と云って彼は足を踏ん張った。
「世話をやかせないで」
「それでも、おら」と彼は口ごもった。
「いいから」とお兼は荒い息をしながら、おどろくほどの力で彼を引きよせた、「なにもおっかないことするわけじゃないじゃないの、たまには男らしくするもんよ」
助なあこの歯ががちがちと鳴った。
お兼は彼を小屋の中へ伴れこみ、入口の戸を閉めた。この種の漉き小屋は、入口の三尺の引戸に
「あんた、まだふるえているの」小屋の中からお兼の声が聞えた、「さあ、そんなにしてちゃ窮屈じゃないの、この手をこうしなってば」
ついで彼女の含み笑いが聞えた。
「助さん」とあまえた鼻声でお兼が云った、「あんた幾つ、||そう、十九なの、若いのね、うれしい」
お兼はそのとき三十五歳であった。亭主のしっつぁんは呑んだくれの怠け者で、ときたま思いだしたように、なにかの雇われ仕事にでかけるが、「まる一日働いたことがねえ」といわれていた。博奕を打つでもなく、女にちょっかいを出すわけでもない。ただ酒を飲んで寝ころがるか、ぶらぶら歩きまわってむだ話をするだけである。云うまでもないだろうが、家計は
お兼は子を産まないためか、肌の
||お兼あまにどれだけ男がいるか、本当に知っているのは亭主のしっつぁんだけだ。
土地の人たちはそう云っていた。真偽のほどはわからないが、お兼と寝た男は、きまってしっつぁんの訪問を受ける。べつに文句をつけに来るのではない、相手の男を呼び出すと、ぐあい悪そうにもじもじして、「一杯飲ましてくれねえかね」と云う。相手が幾らか出せば貰うし、ないよと云えば
助なあこの恋は、一と月ばかり続いただけで、
「そんなこといいじゃないの」と云ってお兼は助なあこを抱きよせようとした、「あたしが本当に好きなのはあんた一人だもの、浮世はままならないもんなのよ」
助なあこはお兼の手をふり放した。
「そうじゃねえ、そうじゃねえ」彼はふるえながら云った、「男と女の仲は蜜柑の木を育てるようなもんだ、二人でいっしん同躰になって育てるから蜜柑が
「ばかなこと云わないで」そう云ってからお兼は急に怒りだした、「えらそうなこと云うんじゃねえよ、おめえだっておらのこと、おらの亭主から横どりしてるんじゃねえか、なにがなすびだえ、かぼちゃがどうしたってのさ、ふざけちゃいけないよ」
そして****とひどい悪態をついた。
美しく純粋な、黄金の光を放つものが毀れた。助なあこは自分を反省し、また独学に熱中し始めた。いちどならず「死んでしまおう」と思い、どこか遠い土地へいってしまおうと決心した。北海道かどこかの広い広い、はだら雪の人けもない
「むだなことを考げえるんじゃねえ」彼は机にしがみついて頭を振る、「そんなことに気をとられると出世のさまたげだぞ」そして他の水夫やエンジさんの騒ぎから身を護るように、両手で耳を塞ぎ、口の中で低く、本を音読するのであった、「||その構造のAは、原則として、スチイタアと、ロオタアの二部分に分れ、スチイタアの主躰は汽筒であって、[#「あって、」はママ]······」
お兼はもう助なあこには眼もくれなかった。工場の建物の前に
しっつぁんも助なあこのところへは訪ねて来なかった。けれどもそれからのち、お兼の相手の男にねだるときは、次のようなことをぶつぶつと云った。
「夫婦てえものはおめえ、二人で蜜柑の木を育てるようなもんだ、その他人の育てた蜜柑をよ、只で取って食うって法はねえもんだ」そこでしっつぁんはぐあい悪げに眼をそらすのである、「||他人のおめえ、夫婦の育てた蜜柑の木に生った蜜柑を食ったら、その駄賃くれえ払わなきゃあしょあんめえじゃあ、蜜柑はなずびやかぼちゃたあちがうからな」
こうして、「しっつぁんはすっかり役者(賢いというほどの意味)になった」という
私は根戸川の堤で釣りをしていて、初めてその男に会った。
その男が来るまえ、倉なあこが通りかかって、私のうしろに立停り、暫く黙ってようすを見ていた。倉なあこは船宿「千本」の若い船頭で、背丈が高く、男ぶりがよく、いつも頬っぺたが赤く、また、この土地の青年にしては珍しく無口で、理屈も云わず、そしてみんなに好かれていた。
「なにを釣ってるだ」倉なあこが訊いた。
私は困った。なにを釣るなどという思いあがった考えは私にはない。なにかが釣れてくれればいいので、なにが釣れるかは先方しだいだからである。
「鯉かね」倉なあこがまた訊いた。
私はタバコを出して彼にすすめた。
「いいだよ」と倉なあこは云った、「おらめしのあとで一本吸うだけだ」
私はタバコに火をつけた。すると水面の
「二歳だな」と倉なあこが云った。
私は鯊を
「ふん」と倉なあこが云った、「二歳の鯊がこんなとこまでのぼって来るんだな」
彼の声には皮肉やからかいの調子はなかった。むしろ控えめな親しみの情さえ感じられたが、それは
「先生は青べかを買っただって」暫くして倉なあこが訊いた。
私が答えると、倉なあこは

「まずかったな」倉なあこは云った、「あのぶっくれ舟を馴らすにゃあ
私は答えなかった。
ちょっとまえから、洗い場で一人の男が水を汲んでいた。土堤に踏段があって、根戸川から水を汲んだり、洗い物をしたりする足場が設けてある。その男はきれいな
その男の年は十六七ともみえ、三十過ぎともみえた。痩せて、小柄で、背丈は五尺そこそこだろうか。
彼はじっと川の水面を
初めて私がその男を観察したときは、そうとは知らなかったし、自分は釣りをしていたので、時間の経過には気づかなかったが、二つの手桶に汲み終るまで、二時間ちかくはかかったであろう。その男が満足して、天秤棒で二つの手桶を担ぎ、ゆうゆうと歩き去ったときには、もう倉なあこもそこにはいなかったのである。
水を汲むのに二時間ちかくもかかったというと、たぶん信用しない人のほうが多いだろう、私も初めてのときはそれほどとは感じなかった。けれども二度めに見、三度めに見、そののちしばしば観察するに及んで、二時間くらいはざらであり、ときには半日ちかくもかかるのを実際に見た。
或るとき私は写生帳を持って、町の中央部にある、中堀橋を渡っていた。すると、向うからその男が来るのを認めた。彼はやはり袖なしの半纏をひっかけ、雪駄ばきで、口に飴を
私の問いに対して、「千本」の長は軽蔑したように、鼻柱へ皺をよらせた。
「うちは堀で魚屋をやってるだ」と長が説明した、「水汲みばかっていうだよ」
私はまた訊いた。
「そうじゃねえ、ずっとあとだ」とこの小学三年生は云った、「蓄音器のよ、レコードを買い始めたべえ、いくらでも買うだ、二階がみしみしいうほど買って買ってよ、朝っから晩までそれを聞いてるだよ、そのうちにな、レコードの数が殖えるのといっしょに、だんだん頭がおかしくなってきたんべえ、それでよ、嫁を貰ったら治るべえかって、
耳も眼も口もすばしっこく、学校の勉強のほかはなにごとによらず、なかまにひけを取ったことのない長は、唇の隅に唾を
その男はなにもしない。父親が死んだあと、魚屋の店は母親と男の妻とで、三人の若者を使って立派にやっている。||男は朝起きるとすぐ、蒸気河岸まで水汲みにゆき、帰って来るとその水で洗面にかかる。第一の手桶の水で歯を磨き、第二の手桶の水で顔を洗うのだが、どちらの手桶の水もむだにせず、ゆっくりと、丁寧に、飽きることなく磨いたり洗ったりする。これだけで半日つぶれてしまい、それから朝めしを喰べるので、たいてい午後になるのが普通である。||それから二階へあがって蓄音器をかけるか、飴をしゃぶりながら町を歩く、というのが変らない日課である。
「おっかしいのよ」と長は嘲笑した、「晩になるとな、おっかあに風呂へ入れてもらって、躯あすっかり洗ってもらって、寝るときにも抱いてねかしてもらうだってよ、それでよ、おっかあに抱かれて寝てもよ、ただ眠るだけでなんにも」
私はいそいで話題を変えた。この並みはずれてすばしこい少年は、私などのまだよく知らない、もの凄いようなことを平気で云う癖があった。尤も、これまた長だけには限らない、この土地では少年と少女の差別なしに、男女間の機微に触れた言葉をじつによく知っており、そういう表現におどろいて、私がへどもどしたりすると、「へ、へ、蒸気河岸の先生もそらっ
或る日、私はその堀の魚屋の前を通った。間口は三間くらい、二階造りのがっしりした建物で、広い店の奥に大きな冷蔵庫があり、看板には「仕出し料理、
いかずちの船大工から、青べかの修理が終ったという知らせが来た。そのとき修理賃を四つ取られたので、芳爺さんに払った三つ半と豚肉代を加えると、それがかなり高価な買物であったことがわかり、私はもういちど、自分がうまうまひっかかったという事実を確認して、不愉快な気分を味わった。
修理賃は払ったが、なかなか舟を受取りにゆく気にはなれなかった。まえにも断わったように、その「青べか」は浦粕じゅうで知らない者のない、まぬけなぶっくれ舟であり、なかんずく子供たちには軽侮と嘲笑の的であった。そんなものに乗っているところを見られたら、私自身どうなるか想像がつかなかったのである。
「いいさ」と私は自分に云った、「そのうちに忘れてしまうだろう」
誰がどう忘れるのか。船大工が私を忘れるのか、私が舟を受取ることを忘れるのか、貧窮の中でなけなしの金を九つ近くも取られた青べかそのものを忘れるというのか。いずれともはっきりした根拠があったのではない、漠然とした自己保護本能、その潜在意識のはたらき、といったような感じの呟きだと思うのであるが、||しかしすぐに、私はそれを買ったとき、芳爺さんに頼んだことがあるのを思いだした。つまり修理ができても、当分のあいだ、船大工の岸へつないでおいてもらう、ということで、それは青べかへ乗るまえに長をはじめとする少年たちと、感情の融和期間を持ちたいと考えたからであって、ああそうだったと思いだし、ほっとしたとたん、まるで私がその約束を思いだすのを待ちかねていたように、芳爺さんが青べかを届けに来た。
私が云うと、爺さんは戸口で喚いた。
「いかずちでも邪魔っけだって云うだ」声いっぱいに喚きながら、老人は私の手を
私は答えて、爺さんといっしょに土堤へいってみた。
青べかは洗い場の杭につながれて、ゆらゆらとねむたそうに揺れていた。私の注文にもかかわらず、
「おらそう云っただよ」と老人は私の手を眺めながら喚き返した、「そう云っただが塗っちまっただよ、まあしょうなかんべや、剥がしても塗っても青べかは青べかだでな」
爺さんは私の手と
「
私が答えると、爺さんは耳に挾んでいたタバコの吸いさしを取り、いまいましそうな眼つきで「マッチ」と云った。私は答えて礼を云い、振り返って家へ戻った。
私の借りた家は、蒸気河岸から百メートルほど北にある一軒家で、東は広い

||あの村長はちんばだぞ。
なかまは「へえ」と眼をみはった。
||おらにゃあそうは見えねえがね。
すると徳さんが云った。
||世の中にゃ見えるちんばもあれば見えねえちんばもあるさ。
浦粕の風習として、こういう評が弘まるのに日時はかからない。たちまちこれが全村民に伝わった結果、その気位の高い村長は、ついにちんばをひいて歩くようになった、ということであった。
芳爺さんが青べかを届けて来た日の、午後おそく、机に向っていた私の耳に、子供たちの喚声が聞えて来た。それは根戸川堤のほうからであり、洗い場でわきあがっていることがよくわかった。かれらは
そのうちに堤のほうからこっちへ走って来る者があり、窓の外へ来て「先生いっか」と長が呼びかけた。
「いってみせえま」と長が
私は答えた。
「そんなこと云わねえで来せえま」と長はじれた、「おんだらが止めてもやつらききゃあしねえだ、ひっくら返すって云ってるだよ」
私はまた答えた。
「じゃあ知らねえぞ」と長は怒ってどなった、「おら知らねえから、いいか」
私が答えると、長は走り去っていった。
洗い場の騒ぎはなお続いてい、長の叫び声が、その騒ぎを縫うように聞えた。よせ、やめろ、と長は叫んでいた。先生が怒るぞ、||よさねえか、先生が来るぞ、||私は事の意外さにとまどった。青べかをもっとも軽侮していたのは長であった。それがまだ三本松の脇の道傍で、舟底を上に干されていたとき、長は鼻柱に皺をよらせて「あのぶっくれ舟」と云い、見るのもいやだというふうにそっぽを向いた。その日の騒ぎも、おそらく長が音頭取りだろうと思っていたのである。||しかしそうではなかった。長はかれらの暴力から青べかを護ろうとしているのだ。私はとまどい、そうして少しばかり感動した。
「まあおちつけ、用心しろ」と私は自分に云った、「そうやすやすと感傷的になるな、長はしたたか者だぞ」
騒ぎがしずまり、悪童どもは去った。そろそろ暗くなりはじめたころ、もういいだろうと思って、私はようすを見るために土堤へ出ていった。ずいぶん石を投げつけたようだし、「ひっくら返す」と云っていたそうで、どんなことになっているか、その場へいって見るまではちょっと不安な気持だった。
堤へ登ってみると、舟はなかった。
洗い場の杭につないであった青べかは、もうそこには見えないのである。私は踏段をおりながら、さてはひっくら返したかと思い、洗い場に跼んで水中をすかして見た。
「ふん」と私は呟いた、「やりゃあがったな」
私はやつらが青べかを流したと思った。
そのとき私がさばさばしたというのは嘘だ。なにしろ当時の私としてはたいまいな代価を払っている。豚肉やタバコや精神的な損失をべつにしても、それは決してさばさばするような金額ではない。ちょうどいい機会だからうちあけておくが、浦粕時代の私の収入は、中・商という商業新聞の家庭欄に、週一回ずつ載る童話をときたま書かせてもらい、また少・世という少女雑誌に、少女小説を買ってもらっていた。前者は高品さんという浦粕の名家の息子で、中・商紙に勤めていた人の世話であり、後者は少・世の編集長で、のちに高名な小説作者になった井内蝶二の好意によるものであった。稿料は前者が一回「五」であり、後者が一編「四〇」または「五〇」くらいであった。もちろんその差は原稿の枚数によるのであるが、||そして、それで足りないところは、京橋
それなら青べかを失ったことが、非常に惜しかったかといえば、それもはっきりとは答えられない。一種の厄介ばらいをしたような、肩の荷をおろしたような気持もしたからである。とにかく、明日になったら川筋や堀を捜してみよう、そう思って私は家へ帰った。
明くる日、朝めしのあとで私はでかけた。悪童どもは学校であるが、私は自尊心のために舟を捜すようなそぶりは示さず、眼の隅で注意しながら歩いていった。蒸気河岸では三十六号船の留さんが声をかけ、景気はどうかと訊いた。船宿「千本」の店の前では、おきぬという女が繩舟の
「まっすぐに川をくだったんだ」と私は呟いた、「海へいっちまったんだな」
その日の
「青べかを
私が答えると、倉なあこはまた笑った。
「しようがねえがきどもだ」と彼は、あんまりしようのないような口ぶりでなしに、やさしく云った、「こんど来たらどなってやるがいいだ、やつらもそれほどわる気はねえだからな、一つどなってやればいいだよ」
私が答えると、倉なあこは頷いて、棹と櫂はすぐに持って来る、と云ってたち去った。そのあとで、私は堤へいってみた。青べかは杭につながれて、私に見られたくないとでもいうように、ひっそりと洗い場により添っていた。もう川の水面も暗いので、近よってみても細部はわからないが、青いペンキはあばたのように剥げ、ふなばたがところどころ欠けていた。
「おい」と私は彼女に云った、「ひどいめにあったな、これで終ってくれればいいがね」
私の心にあたたかな愛情がわきあがった。そんなにもぶざまな恰好の、愚かしげなべか舟はほかにはない。そのために嘲笑され、憎まれているのだが、それはそんなふうに造った者が悪いので、彼女自身には責任のないことである。彼女はなんの罪もないのに造った者の誤り、または
「ひとつ考えてみよう」私は彼女の修理された舳先を撫でながら云った、「問題は(青べか)という概念だ」
青いペンキを剥がしても、「塗っても青べかは青べかだ」と芳爺さんは云った。それは要するに、その舟に関する住民たちの認識の根底をなす普遍的概念であろう。とすれば、それを青べかでない他のもの、つまり属性の転換をすればいいのではないか、と私は思った。
「待てよ」と私は呟いた、「まあ待て、考えてみよう」
私は夕めしを喰べに堀南の「天鉄」へゆき、そのあとちょっと買物をして帰った。
明くる日の午後おそく、土堤のほうで子供たちの騒ぎだす声を、私は聞いた。もとより予期していたことで、私は机に向ったまま、その騒ぎを聞きながら、いまになにか反応があるだろう、誰かがやって来るだろう、とひそかにほくそ笑んでいた。子供たちの騒ぎは第一回のときよりも盛大であり、石を投げつける音も数多く、かつ活気に満ちたものであった。私は待ったが、誰もやっては来なかった。長さえも来ないまま騒ぎが続き、やがて、ずいぶんときが経ってから、子供たちは去っていった。
「おかしいな」と私は呟いた、「気がつかなかったのかな」
もはや悪童どもがいないということを
青べかは洗い場の杭につながれていた。私は踏段をおりてゆき、跼んで、まず彼女のふなばたをしらべた。昨夜、私が書いた「ロジナンテ」という字は、傷だらけではあるが残っていた。投石は思ったより華やかだったらしく、ペンキはさらに剥げ、ふなべりは幾カ所も欠けていた。
「この字をなんとも思わないのかな」と私は白いペンキの文字を見ながら呟いた、「かれらには好奇心も懐疑心もないんだな」
私の期待は外れた。私は彼女を「青べか」から「ロジナンテ」に変えようとしたのだ。悪童どもが好奇心をおこして訊きに来たら、私はその名の由来を語ってやるつもりだった。そうすればかれらの頭には、愚かしく愛すべき老馬の姿が印象づけられるに相違ない、||おっかしな、可哀そうな老いぼれ馬。こういう観念がかれらに起これば、もはやその「可哀そうな老いぼれ馬」を迫害するようなことはないだろう、およそ少年というものは自分を英雄化し、事をロマンティックに考えたがるものだからだ。
「まあ待ってみよう」と私は家へペンキを取りに戻りながら云った、「ものごとは辛抱がかんじんだ」
だが私の期待は外れた。
この土地の悪童どもは、私のいだいている「少年」という概念の外にあるらしい。青ペンキを塗ろうが塗るまいが、白いペンキで妙な名を書こうが書くまいが、かれらにとって「青べか」はしょせん「青べか」にすぎないのであった。
「即物的なやつらだ」と私は云った、「好きなようにしろ」
私はさらにこう云ったことを覚えている、「どうでもいいようにしろ、勝手にしやあがれ」
悪童どもは飽きもせず、毎日やって来て青べかの虐待に興じた。雨の日にさえ、学校のゆき帰りに石を投げ、泥を投げ、
お願いしたいのは、私がこれを人間的
子供たちはやがて飽きた。熱烈に恋しあったうえに結婚した男が(或いは女が)やがてその相手に飽きるようにではなく、老醜の彼、または彼女を憎みさげすむことに飽きるように、||その期間がどのくらいであったか、ということは問題ではない。とにかく子供たちは飽き、青べかには眼もくれなくなった。時がすべてを解決するという、怠けた金言も、ここではいちおう実現したわけである。
「しかしゆだんはならない」私はこう私自身を戒めた、「まだ関門が控えているぞ」
そして私は青べかを出航させた。
べか舟は小さい平底舟だから
「よしよし」私は櫂を置いて、片手で汗を拭き片手でふなべりを撫でながら云った、「時間はたっぷりあるさ、いそぐ旅ではないからな、まあゆっくりやろう」
こうして私の苦闘が始まった。
私は忍耐づよいほうでは自信があった。
私はむやみに怒ったり、ふくれっ面をするようなことはない。仮に感情の激昂を抑えることができないような場合には、どなる代りに丁寧な言葉を使い、喚く代りにあいそ笑いをするようにつとめる。むろん青べかに対してもそういう態度でのぞんだ。私は彼女がどんなに
或る日、私が根戸川の中流で、棹を振りまわし気ちがいのように櫂を使いながら、青べかの頑強な自意識とたたかっていて、ふと気がつくと、蒸気河岸に大勢の人が集まって、こっちを指さしながら、げらげら笑っているのに気づいた。学校のある時間だから、悪童どもはみえなかったが、十四五人の老若男女と、私を「蒸気河岸の先生」と知っているちびどもが、こっちを指さしたり、腹を押えたりしながら、有頂天になって笑っていた。
或る風の強い日に、||私は根戸川の中流で苦闘していた。干潮だったと思うが、青べかは私を乗せたまま、棹や櫂にはいっこう頓着せず、強い風と流れに身を託して、ぐんぐん下流へとくだっていた。このままでは海へ持ってゆかれてしまう、私はけんめいに櫂を使い、どうかして彼女を岸のほうへ向けようと、汗だくになって奮闘していた。そのうちに、堤のほうから叫び声が聞え、見ると、「千本」の長が走りながらどなっていた。
「岸へ着けろま」と走りながら長は私に呼びかけた、「岸い着けるだよ先生、そんなことしていると海いいっちまうだぞ」
私もそうしたいのだ。そうするために汗みずくになっているのだが、青べかは頑としてきかないのである。
||この、このろくでなしの······。
そう云いかけて私は口をつぐんだ。
子供たちのほうが正しかったのだ、このぶっくれ舟は手ごちに負えないあばずれの、まぬけで能なしで、恥知らずな物躰だったのだ。まさに「青べか」だったのだ、と私は思ったが、それでもまだ、そういう気持を彼女にぶちまけるのは控えることにした。
「はあ||流されてるだ」と堤の上を走りながら長が叫んでいた、「先生のばかやつら、いいきびだ、流されてるだ、ええばかやつら」
私は鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「いいきびだ、わあい」堤の上を、こちらの舟といっしょに、走りながら、泣き声で長が叫んでいた、「先生のばかやつら、ええ流されてるだ、海まで流されるだ、ばかやつら、いいきびだ、わあい」
それは小学三年生の愛情の表現だった、などと私は云いたくはない。それは学校のある時間ではあるが、土曜日だった、などということも云う必要はないだろう。||私は海まで流されはしなかった。一つ

或る日、||いや、これ以上は退屈な繰返しになる。私が彼女に対する憐れみや、愛情や劬りをかなぐり捨て、悪童どもと同じように、それが
堀の洋品雑貨店「みその」の息子が嫁を貰った。息子の名は五郎、年は二十四、町の人たちはごろさんと呼んでいた。嫁はゆい子といい、年は二十一歳。この町から四キロほど川上にある
五郎さんは
結婚式はかなり派手におこなわれた。
「あの宴会をぶちこわしてくれるだ」とわに久はどなったそうである、「これからだんだんに登っていって、てっぺんまで登っていってな、すりばんを鳴らしてくれるからな、見ていろ」
「誰も止めるな、おっぽっといてくれ」ともどなったそうである、「いまおれがすりばんを叩き鳴らして、宴会をぶっこわして、町じゅうをひっくらけえしてくれるだから」
誰も止める者はなかった。こういう興味深いみものを途中で止めるような、お節介な人間は浦粕には絶対にいないのである。かれらはわに久を遠巻きにして、げらげら笑ったり、けしかけるようなことを云ったりした。わに久はけんめいに
「悪いいたずらだ」と彼はどなった、「いいかげんにふざけろ」
彼はなお飽きずに努力したが、どうしても二三段より上へは登れなかった。
「よせ」と彼は片手でなにかを払いのけるような動作をした、「よせったらな、このやろう、ばちばらすぞ」
それから力尽きて、梯子の
こうして山口屋の披露宴は事なく終り、五郎さんと花嫁とは、客たちより先に家へ帰った。||ここまでは、五郎さんの運命は頬笑んでいた。彼自身は高等小学校しか出ていないのに、花嫁は東京の女学校を卒業していた。彼が貧相でみばえのしない男ぶりなのに反して、花嫁はかなり
新婚の寝間へはいると、花嫁は自分の夜具のまわりへ、ぐるっと砂を
「それはなんですか」と五郎さんは
「呪禁なんかではありません」と花嫁は答えた、「お母さまの喪があけるまでは、こうして寝るようにと云われて来たんです」
五郎さんはちょっと考えてから、穏やかに訊いた、「いつ亡くなられたのですか」
「誰が」と花嫁のほうで訊き返した。
「お母さんですよ、あなたがいまお母さんの喪があけるまでって」
「ううん」と花嫁は東京の女学校を卒業した匂いのする発音で五郎さんの言葉を
「ああそうか」と五郎さんは云った。
「あたしの母はあのとおり丈夫ですよ」
「失礼しました」と五郎さんは云った、「ではあなたの云うのはぼくの母のことですね」
「おやすみなさい」と花嫁が云った。
「おやすみ」と五郎さんが云った、「どうも有難う」
自分の亡き母のことを思ってくれたので、いちおう感謝の気持をあらわしたのだが、喪に服するなどということは、昔ばなしのほかに聞いたこともないし、夜具のまわりに砂のマジノ線を作るということ自体に、一種の鬼気といったふうなものが感じられて、五郎さんとしては多少ならず興ざめであった。
||本当にそんなことがあるんだろうか。
五郎さんは不審に思った。けれども男女間の機微に触れることなので、父親にはもちろん、親しい友人たちにも訊いてみるわけにはいかない。それでゆい子が里帰りをした日、彼は寺の住職のところへ訪ねていった。大松寺は浦粕町から東北東へ、三キロばかりいった田圃の中にあり、住職は某宗教大学を出た「インテリ」だといわれていた。
「そういう話は聞いたことがないな」と住職は笑いをうかべながら答えた、「ぼく
「寝床のまわりへ砂を撒くことですが、そんな習慣もあるんでしょうか」
「知らないねえ、ぞっとするねえ」と住職は答えた、「そんなふうに寝床のまわりへ、ぐるっと砂の線を引くなんていうのは、聞いただけでぞっとするねえ、しかしまあ、いいじゃないか」
五郎さんはいくらかむっとして、なにがいいのかと反問した。すると住職は、指を折って日を数え、あと二十日ばかりできみのお母さんの喪はあける、二十日ばかり待つだけだから「まあいいじゃないか」と答えた。
「ああそうですか」五郎さんは納得した、「すると喪は七十五日なんですね」
「いろいろあるがね、亡くなった人の魂は七十五日その家の軒先をはなれない、ということがあるから、まず一般の例では七十五日だろうね」
五郎さんは礼を云って家へ帰った。
正確に数えてみると、喪のあけるまで十九日あった。そのくらい待てないわけではない、五郎さんは気をまぎらわせるために、精を出して働いた。ゆい子は家事に慣れないようすで、めしの炊きかたもうまくないし、拭き掃除や洗濯なども、時間ばかりかかってとんと片づかなかった。五郎さんの妹は十二歳になるので、もう男よりもそんなことに眼がつくらしく、父や兄に向って、しきりにあによめの非難をした。
「うちのことができないんならお店へ出ればいいじゃないの」と妹は云った、「どうしてお店へ出さないの、兄ちゃん」
「うるさいぞ、よけえなことを云うな」と五郎さんは叱った、「嫁に来たばかりで、すぐにそうなにもかもうまくやれっか、おまえだってよそへ嫁にゆけば当座はへまなことをするんだ、みんなそうやって慣れてゆくんだ、へっこんでろあま」
ゆい子は毎晩、夜具のまわりに砂の垣を作った。だんだん口数が少なくなり、顔色も
||自分でも喪が重荷になってきたんだな。
五郎さんはそう推察し、心の中で、カレンダーがあと三枚になったことを慥かめた。そうして、その三枚めも剥がれて、つまり七十六日めの夜になったとき、ゆい子がやはり夜具のまわりに砂垣を作るのを見て、五郎さんは
||もう昨日で喪はあけたよ。
そう云おうと思った。口まで出かかったのであるが、五郎さんはそれをのみこんでしまった。急に「男の意地」といったような、かたくなな気分がこみあげて来、勝手にしやがれ、と
七十七日めの夜も同じ、次の夜も同じというぐあいで、砂垣は夜ごとに作られ、五郎さんはビールを飲み始めた。「みその」から四軒おいて「四丁目」という洋食屋がある、店先に掛ける
こういう状態が長く続くものではない。喪があけてから六十幾日めかに、ゆい子は篠咲の実家へ帰った。ちょっといって来ると云ってでかけたが、そのまま戻らず、三日ほどまをおいて仲人が来た。家風に合わないから離婚したいというので、五郎さんも五郎さんの父親もあっけにとられた。誰がそう云うのかと訊いたら、嫁のゆい子がそう云ってきかないのだ、と仲人が答えた。
「そんなあべこべな話は請合えねえだな」と五郎さんの父親は云った、「家風に合わないとはこっちの云うことだべが、嫁のほうから家風に合わないなんぞと云われては筋が立たねえべ、そんな話はまっぴらごめん
仲人は
町の人たち、ことに五郎さんの友人たちは、この離婚に不審を持った。友人たちはこの結婚に
「いったいどうしたっていうだ」と友人たちは五郎さんに訊いた、「女学校を出たし、あんなきれえな嫁さんだったによ、なにがあっただかい」
五郎さんは答えに困った、「これってことはなかっただ、あの人もまたこれから嫁にゆくだろうしな、本当にこれっていうほどのことはなかっただよ」
友人たちは代る代る訊いたし、いろいろと近所の
この種のゴシップはどこの土地でも広まりやすいものだが、ことに浦粕ではもっとも歓迎される特報で、たちまち少年少女のあいだにまで伝わってしまった。このこまっちゃくれた少年少女たちは、五郎さんの店の前を通るとき、声をそろえて喚いた。
「みそのでは
この町筋の商店は、店の脇にみな幟を立てているが、「みその」は店名を染めたがたん(軒へ
五郎さんはなかなか気がつかなかった。父親のほうが先にその
「おめえにも肝煎るだな」と温厚な父親は云った、「そんな砂ぐれえ、一丈も積んだわけじゃあるめえし、なぜ
「お父つぁんは見ないからわからないが」と五郎さんは答えた、「寝床のまわりへぐるっと、砂を撒くところを見てみな、呪禁でもされてるみたいでそりゃあ
父親は想像してみたが、少しも凄いような感じはしなかった。
「砂ぐれえがなんだ、砂が恐ろしくって海へいけっか」と父親は云った、「喪があけても砂を撒いたのは、おめえが蹴っぱらってへえって来るのを待っていたということだ、そのくれえの察しはつくべえじゃねえかええ」
五郎さんは黙った。
事情を聞いた父親は、すぐに嫁を捜し始めた。早くあとを貰って、篠咲をみかえしてやらなければ、五郎さんばかりでなく「みその」の看板にもかかわる、と思ったからだ。
だが特報は第一級であり、根深く、広範囲に拡まっていた。「幟もおっ立たない」ような息子に、嫁を
浦粕へ帰ってから、友人たちは却って否定的な気分になった。
「二時間でよ、おめえ」と一人が云った、「それも初めてだっていうだに、三度も幟がおっ立ったなんて考げえられっか」
「買収しただな」と他の一人が云った、「女に
筆者である私が、この会話を現実に聞いたのである。場所は蒸気河岸の浦粕亭で、私は三十六号船の留さんとビールを飲んでい、その若者たち三人は隣りのテーブルで、
こんどはこの噂が弘まるな。私はそう思って、五郎さんのために心が痛んだ。
浦粕第一の旦那衆である高品さんから、私はそれまでの事情を聞いていた。というのが、ゆい子のあとを早く貰うために、五郎さんの父親が高品さんの本家を訪ねて、詳しい仔細を語ったからである。||予想どおり、「買収した」という評判はすぐさま町じゅうに伝わり、父親はますます嫁捜しに熱中した。こういう重複した
救いの主は五郎さんの姉であった。父親から手紙を受取った姉が、一人の娘を伴れて北海道からはるばるやって来たのである。娘は小柄な
五郎さんは彼女と結婚した。式も披露宴もまえに劣らず盛大にやった。こんどは消防組長のわに久も招待され、彼は酒宴なかばに酔っぱらって、先般の失態を
「おら初めて見ただよ」と五郎さんは意味ありげな一種の眼くばせを三人にした、「||まるでいま
三人はちょっと考えてから、急に奇声をあげて笑いだし、安なあこという一人は、テーブルを力まかせに叩いて奇声をあげた。
五郎さんが結婚してまもなく、篠咲でもゆい子が東京へ嫁にいった。一年経って、五郎さんの新しい妻が女の児を産んだとき、ゆい子は実家へ帰っていた。それが一時的なものか、またも離婚したのであるかは不明だったし、その後の噂も聞かなかった。
私は石灰工場の
一つ

私はひね
そういう例は稀ではなかったので、脇に人が来ると場所を変えるのが、私の習慣になっていた。ところがそのときはそうはいかなかった。私が竿をあげようとするまえに、脇で釣りだした人が私に呼びかけた。
「人はなんによって生くるか」
私はそちらへ振り向いた。
「人は」とその男はまた云った、「なんによって生くるか」
その男は五十年配で、綿入の
「なんですか」と私は反問した。
私はなにか釣りに関することで話しかけられたのだと思った。場合が場合だから、そんな深遠な人生問題、むしろ哲学的な命題について
その男は現場監督が怠けている労働者を見るような眼で私のことを見、そうして、こんどは一と言ずつ句切って、同じことをはっきりと云った。||このあとを書くと人は信じなくなるだろうが、事実を云うと、男は右手の
どうしようがあるか、男は拳を突き出したまま、ぎょろっとした眼だまで私を睨んでいる。ふざけているのでないことは慥からしい、どうしようがありますか。私はしごくあいまいに微笑してから「やあ」というような不得要領な声をもらし、それから大きく
それで納得したのか、または話にならないと思ったのか、男は無表情のまま拳をおろし、黙って自分の釣り作業に戻った。
或る夜、私は蒸気河岸の高品さんの炉端で、その男のことを話した。高品さんの本家は十台島という
その家は小さかったが、広い切炉にはいつも火があり、きん夫人は浅草生れの浅草育ちで、気性はさっぱりしているし、人に差別をつけず、世話好きで物惜しみをしない。柾三氏もおっとりとした
その夜、私の話を聞くと、炉端にいた船員たちの中で、秋屋エンジが[#「秋屋エンジが」はママ]顔をあげた。
「兵曹長だな」と秋屋エンジナーは[#「秋屋エンジナーは」はママ]云った、「病院からまた帰っただな」
私が訊くと柾三氏が答えた。
「気違いではないらしいが、頭がおかしいんですよ、細君と四人の子供に死なれましてね、それから頭がおかしくなったんでしょう、町役場の兵事係へ日参して、恩給と年金をくれと云いだしたんですよ」
私はまた質問した。
「海軍なんかいきゃあしねえだ」と大伍船長が云った、「陸軍で輸卒をしたっけだが、あとは土方をやったり
「七年めえだ」と秋屋エンジナーが[#「秋屋エンジナーが」はママ]云った、「幸山船長が船を貰ってやめた年だったべえ、暴風雨で
そのとき「兵曹長」は
「彼はたいへんな
それから町役場へでかけていって、兵事係にこう云った。
||自分は海軍兵曹長で、年金と恩給が来ることになっているが、まだその通達は来ておらんか。
兵事係は冗談を云っているのだと思って、まだ来ていないと答えた。するとささやんは小首をかしげ、それではまた来よう、と云って役場を出ていった。彼には根小屋という小字に叔母がいて、彼の面倒をみてやっているのだが、毎月五日になると、年金と恩給を貰って来ると叔母に云って、町役場へでかけるのであった。叔母という人が町役場を訪ねて、こういうわけだからと話し、兵事係も心得て、ささやんがあらわれると、まだ通達は来ないと答えることにした。ささやんはそのたびに、いかにも納得しかねるという顔つきで、仔細らしく小首をかしげたりするが、べつに文句をつけるとか乱暴するようなことはなく、ではまた来よう、と云って帰るのが常であった。ただ一度だけ、彼は海軍軍部の怠慢を非難し、妻子を五人も戦死させておいて、年金や恩給の支払いをきちんとしないのは褒めたことではない、こんなありさまでは「また三・一五事件が起こるぞ」と警告したそうであった。
「人はなんによって生くるか、って云い始めたのはそれからあとのことですよ」と高品さんは云った、「ぼくもいちどやられました、道を歩いていたらいきなり
私は話を聞きながらも、またそのあと、自分の家へ帰ってからも、ささやんの悲しみの深さに心が痛んだ。
「人はなんによって生くるか」
私は
ささやんは三度病院へ入れられた。昂奮して人に乱暴したためであるが、病院にいると温和しいし、常人と少しも変らないため、二三カ月いると退院させられるのだという。町にいても、からかったり悪口を云ったりしない限り、乱暴はしないということであった。
彼がどうして急に「兵曹長だ」などと思いこんだか、誰にもわからない。ほかにもう一人、「赤馬」と呼ばれる頭のおかしい男がいて、これは本当に退役した兵曹長であるが、その男はささやんがおかしくなったあとでこの浦粕へ帰って来たのであるし、それ以前にも二人は知合いではなかった。だが、そんな因果関係の有無にかかわりなく、頭のおかしい兵曹長が二人もいるということは、町の人たちにとってひどく暗示的にみえたようだ。
私はささやんとは一度しか会わなかった。彼の悲しみの深さを思うと、いまでも私は心に痛みを感じるが、あの妙な握りかたの拳を出してみせた意味は、どうしても理解がつかないのである。
私は青べかを二つ

私は竿をおろしてから、青べかの中にゆっくり坐り直し、タバコを出して火をつけた。
そこは百万坪のほぼ中央に当っていた。北のほうに遠く、町の家並みが平らに密集してい、貝の罐詰工場や石灰工場から吐き出される煙が、雲に
「蒸気
私はおどろいて振り返った。見わたす限り人影もなかったのに、突然そう呼びかけられたので、振り返る拍子にタバコを落し、それがあぐらをかいている
私はそれには答えないで、こっちから問いかけた。
「ええびだよ」と繁あねは答えた、「ただええびに来ただよ」
私はまた訊いた。
「おんだらいつも一人だってこと知ってんべがね」
「妹はどうしたんだ」
「あまか」と少女は鼻に
「鼬にかじられるぞ」
「つまんねえ」
お繁は肩をすくめ、それからそこへしゃがんだ。すると垢じみた継ぎだらけの裾が割れて、白い
繁あねは町じゅうでもっとも汚ない少女だといわれていた。乞食あま。親なしで家なし。墓場に供えられる飯や団子を食う餓鬼、それがお繁であった。躯はできものだらけで、胸のところは
それは決して誇張ではなかった。私もかなりまえからお繁を知っていたし、道で会えばたいてい呼びかけたものである。彼女はいつも垢だらけで、近くへ寄るとひどく臭かった。それにもかかわらず、彼女の躯の一部は信じられないほど美しかったのだ。両の内股は少女期をぬけようとするふくらみをみせていた。両股のなめらかな肌が合って、
そのまえの年、お繁は妹と二人で両親に捨てられた。妹は生れてから百日くらいしか経っていなかった。
お繁の父は源太といい、釣舟の船頭であった。源太は
「さあて」と彼は釣りにでかけるときに云う、「鱸を拾いにいくべえか」
機械船を持てば自分でしょうばいができる。それまで彼は「松島」という船宿に属していたが、初めて独立し、客もかなり付いた。裏長屋に住んでいるので、まだ船宿の経営はできなかったが、どうやら二年も経てばその望みが実現しそうに思われた。そのとき、災難が起こった。||或る朝、彼は五番の
「おーい」と源太は叫んだ、「ここに舟があるぞ、たのむよう」
エキゾスの音で大蝶丸だとわかった。大蝶丸なら安心であった。この辺が釣りの穴場で、いつも釣舟がいるということを、大蝶丸の者なら知っている筈だったから。源太はじっと船の
「おい」と源太が叫んだ、「待ってくれ」
だが彼の機械船は二つに割れ、彼は海の上へはねとばされた。そして、源太がようやく浮きあがってみると、割れた船の舳先のほうだけ、ゆらゆらと波の上にゆれていた。発動機のある
源太は船宿「千本」の忠なあこに発見され、その舟に助けられて帰った。
「あの穴場は
そして大蝶丸のことには触れなかった。大蝶丸は町でいちばん大きな罐詰工場の持ち船であり、「大蝶」の旦那は町で指折りの顔役であった。
「よし」と源太は自分に誓った、「うんとふんだくってくれるぞ」
彼はすぐ掛合いにいった。しかし「大蝶」では相手にしなかった。大蝶の
「大蝶丸は罐詰を東京まで積んでいって、三時間ばかりめえ
いしとは
「証拠があるのか」とかれらは云った、「大蝶丸だというはっきりした証拠があるなら取り調べてやるが、証拠のないものはだめだ」
源太は船を調べればわかると云った。大蝶丸の舳先には衝突したときの傷がある筈だからと彼は主張した。
「機械船の舳先なんてものは」とかれらは一様に云うのであった、「どこかへぶっつけてたいてい傷のあるものだ、それでもおまえの船へぶっつけたという証拠の傷があるなら取り調べてやろう」
こういう経過を
「おらあ五番の澪木なんぞに近よったこたあねえ」と船長は答えた、「あのときは東京へ罐詰を送り出した帰りで、まっすぐ根戸川の川口へはいっただ、船の者に訊けばわかるだよ」
それからまたこうも云ったそうである、「源太が
源太は頭を垂れた。
彼は出るところへ出たのだ。県の警察本部までゆき、金も地位もない者がどんな扱いを受けるかということを、自分ではっきりと経験した。そうして「大蝶」という顔役を背景にした船長が、出るところへ出るとすれば、その結果もまたわかりきったものであった。
源太の酒浸りが始まった。彼は堀東の助二郎の漁船へ乗ることになったが、漁から戻るとその足で酒屋へはいった。堀の山城屋という店で、塩か福神漬を
「うぬらもかたきだ」と彼はどなる、「寄ってたかっておらを踏みつけにしやあがる、さあ、くやしかったらおんだらの機械船を返してみろ」
「なんでも持ってけ」と彼はまたどなる、「こんな貧乏人の物が欲しけりゃあなんでも呉れてやる、さあ、手でも足でも頭でも持ってけつかれ、なんでも呉れてやるぞ」
家へ帰れないときは、というのはあまり泥酔したということであるが、源太は消防ポンプ小屋へもぐり込んで寝た。一日じゅう、主人の帰りを待っていた家族は、夜が更けてからこっそり家を出てゆく、そうしてごったくやと呼ばれる小料理屋や、「四丁目」または蒸気河岸の「根戸川亭」という洋食店の裏口をまわって残り物を貰い、僅かにその日を
こうしているうちに、源太の妻が若い男と出奔した。相手は罐詰工場の若い雑役夫で、源太の妻より六つも年下だったというが、これは町の人たちのいい話題になった。源太の妻は年でいうと三十ちょっと出たくらいだから、二十五六の男とできたというだけなら、浦粕町としては決して
||あんなおっかあのどこがよかったのか。
女にすたりはないと云うが、それにしてもよくあんな女と駆落をする気になったものだ、よっぽどの世間知らずだったんだな。こう云って、町の人たちは飽きることなく笑いあった。
源太は気がぬけたようになった。漁にも出ず、酒を飲むでもなかった。部屋の隅にころがされて、泣き叫ぶ赤児の声も耳にはいらないのか、一日じゅう寝そべったまま、天床か壁をぼんやりと眺めていた。
或る日、源太は山城屋へ飲みに来た。彼は助二郎の帳面のつけで焼酎を
そして、源太も出奔した。
お繁と
町では姉妹を引取ろうと云う者はなかった。お繁はその生立ちのため、人に対して好戦的であり、親から受けた病気で腫物が絶えず、それが汗と垢の匂いと入り混って、側へも寄れないほど臭かった。
町役場で二人の面倒をみることになったが、現実的にはなにもしなかった、あるいはできなかった、と云うのが正しいようである。お繁は役場へ近よらず、ごったくやとか洋食屋の裏をまわったり、墓場の供え物をあさったりして
「ええっ」と漁師はとびあがる、「たまげたええ、繁あねじゃねえか、いまじぶんこんなところでなにしてるだ」
漁師の持っている
「いけ、ま」と少女は云う、「おんだらのことより、早くいって海苔を拾うがいいだよ」
或る日、お繁は消防のポンプ小屋の脇で、垢だらけの妹に小用をさせている。また町の家並みの裏をひっそりと歩いているし、或る夜は若い漁師が、ひび置き場の蔭でお繁を見つけ、慌てて、伴れの娘とほかの場所を捜しにゆく。繁あねはどこにもいないし、同時に、どこにでもいるのであった。
「わあい」と子供たちが
げんがとは東京付近でいうえんが、またはえんがちょ、つまりけがれたというほどの意味であるが、するとお繁は妹を墓場に置いたまま、子供たちのほうへとびだして来る。
「ぬかすな、吉」とお繁はやり返す、「墓場の物を食うぐれえがなんだ、おめえのおっかあなんかもっとげんがだぞ、中堀の巳之なあことくっついて、夜中になると海苔漉き小屋へいって寝るだ、おんだら見てちゃんと知ってるだ、嘘だと思ったら、田島の漉き小屋へ夜中にいってみろ、二人でいっしょに寝て、
そして、さも軽侮に耐えない、といったふうに唾を吐くのだ。もしそれ以上なにかからかえば、お繁は手と爪と歯とで向ってゆき、じつに思いきった行動で相手をやっつける。頬ぺたや腕などに、お繁の歯形や爪跡のある子供は、二人や三人ではないようであった。
これが繁あねなのだ。しかもその躯はいま、内部から新しい彼女を創り出しつつある。私の眼に映った美しい部分には、成長するいのちというものが
「ああつまんね」と繁あねが云った、「いくら見てえても釣れやしねえに、おらいくべ」
私はまたタバコに火をつけた。
「へたくそだな、先生は」とお繁は立ちあがりながら云った、「こんなへたくそな釣り、おんだらまだ見たこともねえ」
私は黙って沼のほうを眺めた。お繁の歩き去るのが聞え、まもなく、彼女のうたうわらべ唄が聞えてきた。
「||向う山で鳴く鳥は、ちいちい鳥かみい鳥か、源三郎のみやげ、なにょうかにょう貰って、金ざし
安倍晴明(胸を反らせて)「私は博士安倍晴明だ」
弘高(片手をあげて)「神慮汝の上に安かれ」(大股に去る)
声に出して読んでみてから、火鉢にかけてある
蒸気河岸のほうから、土堤の上をこちらへ近づいて来る、
「おーかんけ(大勧化)おーかんけ おいなりさんのおーかんけ」
かれらは先生の家を見おろすところまで来て、土堤の上からうたい続ける。
「おぞーに(雑煮)とおーあげ おあげのだんからおっこって あーかい***ーすりむいた こーやくだい(膏薬代)にくれせーま くれせーま」
先生は机の前で躯を固くしている。土堤の上では子供たちの相談する声が聞える。
「いんだよいんだよ」と云う声がする、「見せえま、電気がついてんべえがね」
かれらはまたなにか相談をし、声をそろえて、まえよりも勇ましく誘惑的にうたいだす。もちろん文句は同じもので、先生は殆んど息をころしている。するとかれらの中から、船宿「千本」の長の呼びかける声がする。
「先生、百でも二百でもいいだよ」
先生は
そしてしんとなった。電燈の光で明るい窓をみつめながら、じっと反応を待っている子供たちの、一人ひとりの顔が、先生には眼に見えるように思えた。
「いくべいくべ」と他の少年が云った、「先生はきっとまた根戸川亭で飲んでるだ」
「押すな」と長の声がした、「押すなってえにえーばちばらすぞ」
かれらはがやがや騒ぎながら、蒸気河岸のほうへ戻っていった。先生は難をのがれてほっとし、机に
「おーかんけ おーかんけ」川下のほうへ遠のいていく唄声が聞えて来た、「おいなりさんのおーかんけ おぞーにとおーあげ おあげのだんからおっこって······」
私は大きな写生帳と鉛筆箱を抱え、
土堤の右側の下には、例の「ごったくや」といわれる小料理屋が並んでいて、そこを出外れると空地になり、いぶせき独立家屋であるわが家が見える。そこまで来たとき、私に呼びかける女の声が聞えた。
「蒸気河岸の先生よう」とその声は云った、「なにょうそんなにすましてるだえ」
私は声のほうへ振り向いた。
声は土堤の左側の下、つまり根戸川のほうから聞えて来たもので、そちらを見ると、川の中に三人の女がいて私に笑いかけた。それはごったくやの女たちで、三人とも全然まるはだかであった。私の眼の焦点は自動的に拡大し、対象物とのあいだに一種の保護膜を張ったのであるが、それでもなお彼女たちの
||ここで眼はそらしてはいけない。
私はそのことをよく知っていた。眼をそらすことは、みつめること以上にすけべえなのだ。かつてよそから来た客が通りかかって同じようなけしきを見、仰天して脇へ向いたとき、彼女たちが歓声をあげて
彼女たちは不景気が続くと、「湯銭もなくなる」そうで、厳冬でない限りは川へはいって躯を洗い、また髪までも洗う。土堤の上は人が往来し、川にも通船やべか舟がのぼり下りしている。しかし彼女たちは少しもたじろがないばかりか、逆に躯の屈伸や
||おうれ、てんで
||いいくらかげんのことを云って、むりすんなえ**なあこ。
||嘘じゃあねえまったくに縹緻あげただぞ。
||顔ばっか見るふりいして、ほんとはここが見てえだべ、ここがよ。
そして彼女たちは、腰部前面の或る部分をひたひたと手で叩く、という場面は極めて尋常に見ることができた。これについていつか、三十六号船の船長のブルさんは、殆んど失明しかかっている眼を
||あれは湯銭がねえだけじゃあねえ、半分は客を呼ぶためもあるだよ。
そのときブルさんの殆んど見えない眼が、遠くにあるなにかをさぐるように細められ、肥えて肉のたるんだ皺だらけの顔に、あるいはその顔の一と皮下に、あるかなきかの微笑がゆらぐようにみえた。
川の中から私に呼びかけたのは「若松」という小料理屋の女たちであった。いちばん若いおたつは満州帰りだといい、私が堀でスケッチをしているときに話しかけてから、顔を見れば挨拶をするようになっていた。
「また画え描きか」とおたつが云った、「そんなものどこがいいだえ、そんなことばっかししてえて頭が病めんべえがね」
「どこが痛めっかさ」と脇の女が腹部へ水を掛けながら云った、「そんなすました顔うして、ねえ、先生だってやっぱり男は男でしょ、たまには遊ばねえとからだがうんじまうだよ」
私には意味がわからなかったが、もううんじまっていると答えた。すると三人はすさまじい
「晩にいってやっからな」私が歩きだすと、うしろでおたつの叫ぶのが聞えた、「戸に
もちろん誰も来はしなかったが、数日のあいだ私は、自身の躯がうんでいるように感じられて、ときどき快活な気分をさまたげられるのであった。
十月下旬の
斜面は草が茂っているので、土堤の上を通る人には見えない。かなり強い西風が、その茂ったくさむらを絶えまなしにそよがせ、茶色にほおけた草の穂が、風の渡るたびに、若者の着物をせわしく
若者は立てた膝の上に両手を置き、手先をだらっと垂らしたり、片手で眼をぬぐったりした。ふと大きく
棚雲のふちを染めていた
斜面のこちらは東の空の反映で、
外は雨、私は机に向っていた。机の上には書きかけの原稿があり、私は小さな火鉢にかじりついたまま、不自然な姿勢で、原稿の文字をぼんやりと眺めていた。
寒さのきびしい夜で、火鉢を抱えているのに、膝や足の指先は痛いほどこごえ、不自然な姿勢を動かすこともできず、背中は氷の板のように冷たく
青年A (胸を叩き両手を高くあげて絶叫する)おれのこの肉躰を見ろ、おれはきさまたちより美しく健康だ、おれはきさまたちの三人まえ喰べ、十人まえ働く、この広大な土地の整理や灌漑 法の計画をたてたのはおれだし、収穫物の管理や貯蔵を立案したのもおれだ、いったいこの竜宮国を運営し、繁栄にみちびくのは誰か、AグループにいるかBグループか、(中略)おれこそはその者だ、たったいまからおれがこの国の支配者だ(彼はさらに両手を高くあげて叫ぶ)、よく聞くがいい、おれはいま乙姫がおれの妻だということを宣言する、反対する者があったら出て来ておれとたたかえ、乙姫はおれのものだ。
老人 (隅のほうで低く独白する)私はなにをしたのだ、あれだけの情熱と努力をそそいで築きあげたものがこれか、これが待ち望んでいたその果実か(彼は泣く)。
青年A おれはこの国の王だ。
私は火鉢に炭を足そうか、それとも寝てしまおうかと迷う。その戯曲の中では、青年Aが「おれが王である」と叫んでいるけれども、彼を創り出したところの私自身はこごえて、空腹で、蒸気河岸まで一杯の酒を飲みにゆく金もなく、一片の炭もむだには使えないことを思って、肩をちぢめたまま、茫然と雨の音を聞いていた。私は時計を持っていなかったが、およそ十一時をまわったころであろう、蒸気河岸のほうからこっちへ、土堤の上を近づいて来る人ごえを聞いた。
「十台島の連中だな」と私は呟いた、「ごったくやで遊んだ帰りだろう」
さして強い降りではなかった。
「||を持って来たか」としゃがれた男の声がどなった、「源、おめえ持ってるか」
「下駄がぬげちゃった」と幼い女の子が泣き声で叫んだ、「あたい下駄がぬげちゃったよ、かあちゃん」
「おぶってやれ」とべつの男の声がした。
はだしの者もいるらしく、ぴしゃぴしゃと雨水を踏む音がした。かれらはひどくいそいでいるようで、ふっと声が跡切れ、すぐにまた女の声が聞えた。
「どっちへゆくのよ、親方」
「黙って歩け」としゃがれ声の男が云った、「助十郎はこを濡らしちゃいねえか、はこは大丈夫か」
問いかけられた相手がなにか答えた。
「寒いよ」と女の子が泣き声で(かれらはこのときちょうど私の家の前にさしかかっていた)云った、「かあちゃん寒いよ、耳へ雨がはいるよ」
「井前橋から新川堀へいったらどうかな」と云う声がした、「とくぎょうは危ねえと思うが」
「黙って歩けねえのか」しゃがれ声の男がどなった、「みんな持ち物を落すな、早くしねえと、······」
そのあとは聞きとれなかった。
庇と雨戸を打つ雨の音がはっきりし、かれらの話し声は、川上のほうへと遠ざかっていった。どういう人たちだろう、男女と子供で七八人はいたようだ。宿でもとれなかったのだろうか、私は漠然とそんなふうに思ったが、それだけのことで、考えはまた元に戻り、少女小説を書くか童話にするか、それとも東京の
明くる日、私は
「ゆうべ浦粕座が焼けたのよ」ときん夫人は茶を
浦粕座はこの町でただ一軒の芝居小屋であった。堀南の表通りからちょっとはいったところにあり、古いけれども鼠木戸などを備え、畳敷きの平土間に、片花道があって、いかにも芝居小屋という感じのする建物であった。
「柏権十郎座がかかってたでしょう、かかってたのよう」と夫人は云った、「入りがないんでみんな小屋へ泊ってたんですって、ところが楽屋が狭いから舞台へも寝たんでしょ、古い引幕かなんかにくるまって、躯を寄せあって、お互いの躯の温かみで寝るんだそうね、ちょっと乙なけしきじゃないの」
「乙なようですね」と私は答えた。
「その舞台へ寝た人たちが」と夫人は続けた、「夜なかに
私が訊き返すと、夫人はかぶりを振った。
「いいえ逃げちゃったんですって」ときん夫人は云った、「もうどうしようもないし、自分たちの責任が怖くなったんでしょ、荷物を
私は茶を啜ってから、質問した。
「そうでもないわ」ときん夫人は云った、「小屋主の森さんはいきり立ってるそうだけれど、保険もたくさんかけてあるし、本家(というのは十台島の高品さんであるが)の話によると、森さんは
私は礼を云って立ちあがった。
「可哀そうなのはあの役者たちよ」ときん夫人は炉端から云った、「あの夜更けの雨の中を、どんな気持で逃げていったかしらねえ」
遠くから見ると、その工場はいつも白い霧に包まれている。工場から立ちのぼる湯気のような、湯気よりも濃密な白い煙が、風の吹く日は風の吹く方向へなびき、風のない日は立ちのぼったところから下へ、ゆっくりと舞いおりて来て、工場や付属の建物や、その周囲一帯の地面やくさむらや、道を隔てた根戸川の揚げ場までを、まっ白に塗りつぶすのであった。
そこは東に百万坪の荒地へ続く芦原、西は根戸川に接していて、工場のほかに事務所と、工員たちの小さな住宅があり、貝殻置場と薪小屋が並んでいた。事務所には工場主と、幾人かの事務員が詰めている。かれらが出勤すると、正面の扉は開かれるが、夏でも窓は閉めたままだし、かれらが帰ると扉はまたぴたりと閉められてしまう。||そうしなければ、いや、そうしていてさえも、焼かれた貝殻の微粒粉は、どこからともなく舞い込んで来て、事務所の中のあらゆる家具や備品や、床板の上にまで白く積り、拭けば拭くあとから積るのであった。||掃除をすることはばかげたことなのだ。室内に
事務所はいつも静かだった。貝殻が罐詰工場から運ばれて来ると、二人の事務員があらわれる。一人はその数量を計り、一人は記帳をして、運んで来た者に伝票を渡す。貝殻を運んで来た者も、もう馴れているので、あまり口はきかないし、事務員も殆んど無言のままだ。伝票を貰った罐詰工場の雇人は箱車を
工場は木造のトタン屋根で、建坪は十五メートルに三十メートルくらい。高さは屋根の上の換気窓まで、約十メートルほどあった。内部は二重の板張りで、貝を焼く
工場の外部もそうであるが、内部はもっと
工員は十五人いた。男が九人、女が六人、五つ組が夫婦で、あとの男たちは独身だし、女一人は雑役の老婆だった。
かれらの姿を初めて見た者は、おそらく一種のぶきみさにおそわれるだろう。かれらは男も女も裸で、細い下帯のほかにはなにも身につけていない。また、頭はみなまる坊主に
男も女も、逞しい躯つきであった。髪の毛を剃りおとした頭部が小さくみえるためか、その裸の肉躰の逞しさは不均衡であり、眉毛のないとろっとした眼や、いつもむすんだまま動くことのない唇など、見る者に異常な、非人間的な印象を強く与えた。女のほうはその感じが特にひどい。
仕事は二十四時間、一年に二度か多くて三度、窯の掃除をするとき以外に、焚口の火を消すことはない。働くのは十人で、五人ずつ交代に寝たり食事をしたりするほか、月に一回、これも交代で休みがある。けれどもかれらは町へは出ないし、町の住民たちとも決してつきあおうとはしない。工場と、狭い小さな棟割り住宅だけがかれらの世界であり、そこへは誰をも寄せつけなかった。
事務所の人たちが無口である以上に、かれらは無口であり無表情であった。動作はひどく緩慢で鈍く、いつも背中に重い荷物でも負っているように感じられた。しばしば、かれらの幾人かは工場を出て、根戸川の土堤に並んで腰をおろし、弁当を喰べたりタバコをふかしたりする。夫婦ならば夫婦で並んでいるのだろうが、どの一と組がそれであるかは見分けがつかない。みんな川波をみつめたり、濁った眼を細めて対岸のいかずちにある船大工の小屋を眺めたりしながら、黙って(私のノートには「
「あいつらはな」と町の少年たちは囁きあった、「みんな懲役人だぞ」
「人殺しもいるだってよ」
「んだ」と昂奮のあまり一人が息をはずませて囁いた、「こんどへえったあの
その男は三十五から四十五歳のあいだくらいにみえ、左のこめかみから頬にかけて、赤黒い色の大きな痣があった。
彼はどういう径路で雇われて来たかわからない。他の十五人もたぶんそうだろうが、ここでは過去の履歴や身分関係などは問題ではなかった。頭髪も眉毛も剃り、まる裸で、石灰粉まみれになれば、それだけでもう誰彼の差別はなくなってしまう。貝殻を投げ込み、薪を焚き、石灰が出来あがると、
赤痣がある以外に、彼は他のなかまと特に違ったところはなかった。ものやわらかで、腰が低く、よく働いた。眼立つようにではなく、人の気づかないこと、人のいやがるような仕事をすすんでやった。初めは誰でもそんなふうにするものだ、精勤を見せかけるために、あるいは新しい仕事に対する興味に駆られて、||しかし彼はそのどちらでもなく、もっと素朴な、それが自分の仕事であるという、ごくあたりまえな態度であり、半年経ち、一年ちかく経っても、その仕事ぶりに変りはなかった。少なくとも、他の十五人のなかまと同様に、その表面だけはそうであった。
心ない人の眼にどう見えようとも、かれらも人間であり、男であり女であった。まる坊主で、下帯だけの裸躰が石灰粉にまみれ、口もきかず、仮面のように無表情で、誰が誰ともたやすくは区別しがたいながら、その内部にはやはり怒りがありよろこびがあり、悲しみや嘆きや、いろいろな欲望があったにちがいない。むしろ、必要に強いられた沈黙と、石灰粉との殻に閉じこめられているだけ、よけいに、かれらの内部にある人間感情は激しく、あらあらしく、衝動的であったかもしれない。
その工場に雇われてから約一年ほど経ったとき、彼のようすに変化があらわれた。なかまは誰も気がつかなかったし、彼も注意ぶかく自制していたが、その自己抑制には、しだいに強い努力を加えなければならなくなった。彼を悩ますのは女たちであった。
勤めだしたはじめのころ、彼女たちは醜悪な軟躰動物のようで、ただ嫌悪感しか与えられなかった。けれども月日が経ち、自分がかれらのなかまに溶け込んでゆくと、彼女たちが「女」であるということを意識するようになり、それが彼の神経の中に深くくいいって来た。彼の眼や耳は、絶えず彼女たちの動静にひきつけられ、彼の
五人いる女たちの中で、彼をもっともひきつけたのは彼女であった。もちろん
はじめのうち彼は、五人の中で彼女がいちばん醜く、畸型児のようだと思った。にもかかわらず時が経つにしたがって、その醜さと、畸型児のような躯つきが、彼の眼をひきつけ、神経をたぐりこんだ。その小さく肥えた肉躰は、乳房と腰部だけが発達し、そこだけが生きて動いているようにみえた。脂肪で
彼女にはかなり強い躰臭があり、ときにそれが弱まったり強く匂ったりすることに、彼は気がついた。ことに強くなったときの躰臭を
「おったねえのよ、なあ」と少年たちはあとで話しあう、「おんだらが見てえても平気なのよ、な、ちえっ、おったねえの」
晩秋のその一日は、他の一日と少しも変りがなく、静かにゆっくりと時を刻んでいった。午後になって、石灰を受取りに来た船が着き、工員たちの大部分が、叺の積込みに当った。||彼は釜の係りで残り、焚口を覗いて火を見たり、薪を投げ入れたりしていた。季節とは関係なしに工場の中は暑く、石灰粉の微粒は渦を巻いたり、
片隅に積んである薪を、焚口の側へ移そうとしたとき、彼は強い女の匂いに気づいた。
彼は首だけでそろそろと振り返った。頸がねじれると、こびりついたまま乾いた石灰粉が、かすかな音を立てて
彼は意識が
そのとき、雑役の老婆の叫び声が聞え、押し伏せられた彼女が叫びだした。舞いあがる石灰粉の中で、彼は女を全身で押しつぶし、片手で口を塞いだ。彼女はその手に
彼の動作はおどろくほどすばやかった。打ちおろすショベルの下で、彼は
彼は芦の茂みへ分けいり、咳きこみながら、浅い沼を渡った。石灰粉を深く吸いこんだために、咳はいつまでも止らなかった。彼は草原を横切り、湿地を駆けぬけ、芦の茂みにとびこみ、また腰までもある沼を渡って、百万坪をまっすぐに、海のほうへ走り続けた。しだいにかすれてゆく乾いた咳の声が、かなり遠くなるまで、いかにも苦しそうに聞えて来た。
事務所から駐在所に使いがゆき、町の人たちが集まった。かれらはみんなそれぞれ得物を持っていたし、貝の罐詰工場のあるじである「大蝶」の旦那は、猟服に身を固め、猟犬を曳き、猟銃を肩に掛けていた。そして、巡査部長と二人の巡査を先頭に、このものものしい一団は、百万坪に向っていさましくでかけた。
彼女はなにごともなかった。その良人は額と胸と腹に負傷し、腹の傷がいちばん深くて、応急の手当をしたのち、十キロほど北にある市の病院へ、入院することにきまり、その夕方おそく、彼女が付き添って、
彼はその翌日、百万坪の端にある
夕方、私が散歩から帰って来ると、小料理屋「澄川」の娘のおせいちゃんが肩を振りながら小走りに来て、私を呼び止めた。おせいちゃんは二十歳くらいで、躯も痩せているし、ほそおもての、かなり
「先生まだ晩ごはん喰べてないでしょ」とおせいちゃんが云った。
私はあいまいな声をだした。
「なんにもしないでよ」とおせいちゃんが云った、「今夜うんとご馳走するからね、ごはんも炊いちゃだめよ」
そして彼女は
それよりまえ、私が初めて浦粕町へスケッチにやって来たとき、||ここでちょっと断わっておきたいのだが、そのころ私は、どこかへでかけるとき、しばしば写生帳とコンテを持っていって、その土地の風景を描いたものであった。これは絵の勉強のためではなく、スケッチをすると、その土地の風景の特徴をとらえることができるからで、人物のクロッキイなどもかなり残っているが、||そういうわけで、Y新聞の演芸部の記者だった友人をさそって浦粕へやって来、沖の百万坪や町筋や、舟の並んでいる堀などをスケッチしたあと、ひるめしを喰べるために、一軒の店へはいった。
看板には「御休息とお中食、天丼、トンカツ」などと書いてあったが、座敷へとおされてみて、こいつはいけない、と私は思った。というのが、それより二週間ばかりまえに、画家の
||田舎はおっかねえからな、とそのとき池部さんは明るく面白そうに笑って、私に注意してくれた。君もよく気をつけたほうがいいぜ。
それを思いだしたので私は、顔にも声にも
||ちょっと待った、と私は片手をあげて云った。そこでちょっと待ってくれ。
彼女たちは廊下で立停った。
||よし、と私は云った。そこでビールを下に置いてくれ、みんなだ、いや、みんな持っているのを下に置くんだ。
彼女たちはげらげら笑い、私がなにか珍しい芸当を演じてみせるとでも思ったらしく、左右の手に持っているビール
||まあこの人は、と選まれた小柄な一人が云った。そんな憎ったらしいこと云って承知しねえだぞ。
そうしてこっちへ踏み込んで来ると、私を押し倒して馬乗りになった。両手で私の手を押え、両の腿で私の胴を、そしてその腰部で私の腰部をというぐあいに、字義どおりの馬乗りであって、若い女性からそんな挑戦を受けたことのない私は、その屈辱的な姿態の恥ずかしさに
右のように周到な手順と力闘の労によって、私たちはようやく一本のビールと食事だけで難を

やがて根戸川亭の出前持が、三皿の料理とホワイト・ライスを届けて来た。私は良心に咎められたろうか、どう致しまして、常にさみしいふところを抱えて飢えていた私は、ごったくや如きのかもになるような男には、拍手こそしなかったが、同情するほどの気持もなかった。||三皿の料理がなんであったか記憶はないけれども、私は籠屋のおたまにその一と皿を持っていってやり、あとはきれいに独りでたいらげて、いいこころもちで眠ったように覚えている。
おせいちゃんは「あとで面白い話をしてやる」と云ったが、詳しいことを聞いたのは翌日の夜、十一時ころのことであった。私が原稿を書きあぐんで、机に凭れたままぼんやりと、この世の生きがたいことや、将来の不安などについて無益なものおもいに浸っていると、土堤のかなたから自動車の音や、女たちの賑やかな声がかすかに聞えて来た。べつに気にもとめなかったが、まもなく戸口でおせいちゃんの呼ぶ声がした。
彼女はよそゆきの支度をし、白足袋をはき、赤い顔に幸福そうな笑いをうかべながら、土産物の包みを私に渡して、机の脇へ坐った。彼女の息は酒臭かったが、そんなことは、初めてであった。
「まだ勉強してるの、えらいわね」と彼女はまず子供騙しのようなことを、少しの実感もない調子で云った、「そのお土産あけなさいよ、先生は東京だから知ってるでしょ、ねえ、あけてみなさいよ」
私は云われるとおりにした。包紙の中からは、しゃれたレッテルを
「品物は五色豆よ」と彼女が云った、「でもほかになんとか云う名があるでしょ」
私が答えると、彼女はまた幸福そうに
「うまいじゃないの、おのろけ豆だなんて、かっちゃんのお土産」と彼女は云った、「ああくたびれちゃったわ」
こうしておせいちゃんは話し始めた。
昨日のかもは三人伴れで来た。外交員か集金人のようにみえ、午さがりにあらわれて大いに景気をあげた。三時すぎたころ帰ることになったが、中の一人が残ると云いだした。
その男が三人の中でもはばききらしく、おかっちゃんは初めから派手に「モーション」をかけていた。それが功を奏したのだろう、他の二人は帰ったが、そのかもは残った。
「それだけならいいんだけれど」とおせいちゃんが云った、「一人になるとすぐにさ、その男ったらがま口から百円さつを出してみせびらかすじゃないの、おかっちゃんの、気をひこうとしたんだろうけれど、ばかばかしい、まるで
べつの章でも書いたように、この土地の人たちは好んで
「ここんとこずっとしけてたでしょ」とおせいちゃんは続けた、「だから、さあやってやれってことになったのよ」
私のところへ晩めしを届けるころから、そのいさましい略奪は始まった。
現代のキャバレーとか、暴力酒場などの経験者にとっては、たぶん、まだなまぬるい話としか思われないだろうが、とにかく「澄川」からはすぐに指令がとび、他のごったくやから女たちや器物が動員された。女たちは呼ばれた
「それでもいさましいの」とおせいちゃんはまた喉で笑った、「まっすぐ坐ってもいられないのに、おかっちゃんを捉まえてあっちへゆこう、あっちへゆこうってせがむのよ」
おかっちゃんは、ふざけちゃいけないよ、と云ったそうである。ふざけるとはなんだ、とかもが云った。しっかりしなよ、このしと、とおかっちゃんはかもの背中を

かもはなにも知らずに熟睡していたが、揺り起こされてみると、夜が明けてい、自分が座蒲団を枕にごろ寝をしていることに気づいた。揺り起こしたのはおかっちゃんで、その脇には女主人が、勘定書を持って坐っていた。女主人はいうまでもなくおせいちゃんの母親であるが、年はそれほどでもない筈なのに、あたまはすっかり白髪だったし、痩せていて
かもは勘定書を見て青くなった。それからの問答は書くまでもない、やがてかもは駐在所へいって払おう、と云いだした。女主人は総入れ歯を鳴らして笑った。
||それは話が早くっていい、と女主人は云った。そういうつもりなら駐在所までゆく必要はない、呼びにやればすぐに巡査が来てくれるから、あたしの方で使いをやることにしよう。だが念のために断わっておくよ、と女主人は座敷の中をぐるっと指さした。そこには燗徳利が八十幾本、ビール壜が四十幾本、
||勘定書と照らし合せてごらん、と女主人は云った。もうよしなさいってのに、おまえさんがむりやり注文したんだ、一本一本みてごらん、酒もビールも残っているし、それはおまえさんのもんだからおまえさん持ってっていいよ、但しお
かもがどんな顔をしたかわからない。けれどもおよその想像はつく。酒、ビール、現物はちゃんとそこにある、ゆうべあらわれたとんでもない女性たちが、芸妓衆であるかどうか非常に疑わしいが、警察署などの監督関係ではそういうことになっているのかもしれない。
かもは勘定を払った。すると、そのときを待っていたおかっちゃんが出て来て、あたしの分をくれと云った。かもはもういちど青くなった。
||なんて顔をするのさ、とおかっちゃんは攻撃に出た。二度も三度もしとを
かもはおかっちゃんに払った。
「人をばかにして、百円札なんかみせびらかすから悪いのよ」とおせいちゃんは云った、「それでもおかっちゃんには驚いたわ、その客が靴をはいてるまに勝手へいって、お小皿へ波の花を盛って来てさ、朝っぱらからいやなことを云う縁起くその悪いしとだって、うしろから塩花を撒いたわよ」
「きれえさっぱり、いい気持よ」とおせいちゃんは云った、「でもこれでまた当分ぴいぴいだわ」
私はなんと答えようもなかった。
「砂なんて、おっかしなもんだなあ」と富なあこが云った。
「うう」と倉なあこが云った。
五月十七日の晩で、二人は沖へ魚を「踏み」に来たのであった。
「この砂だよ」と、富なあこは、踏んだ魚を女串で刺し、魚といっしょに砂を掴みあげて、魚を魚網へ入れ、砂を掌でもてあそびながら云った、「||こうやってみると、なんでもねえ、ただの砂だ、ただ砂だってだけだ、ほれ、これだけのもんだ、なあ」
「うう」と云って倉なあこはあたりを眺めまわした。
空はきれいに晴れ、十七夜の月が、殆んど頭上にあった。海面には極めて薄く
「ところがおめえ」富なあこは水の中を静かに歩きながら、まだ掌にのせている砂を見て云った、「これはこんなふうに砂っ粒だけみてえに見えるけれど、これでそうじゃあねえ、これでちゃんと生きてるんだぜ」
倉なあこは
「まさか」と倉なあこが呟いた。
「そう思うだろう、誰でもそう思うんだ」と富なあこが云って立停り、水の中で踵をあげた、「||砂はただ砂っ粒、これだけのもんだと思ってる、だがそうじゃねえ、これはこれで生きてるし、生きてる証拠にはおめえ、絶えまなしに育ってるんだぜ」
倉なあこはなにか反問しかけたが、ちょうど魚を踏んだので、巧みに女串を刺し、六寸ばかりの鰈をあげた。
「砂が」と倉なあこは鰈を魚網へ入れながら
「おうよ」と富なあこが云った、「それもただ育つだけじゃねえ、育って大きくなりながら、だんだん川をのぼるんだ、だんだんにな、おらもこれにはびっくりした」
倉なあこは右手の中指で、頭のうしろを掻いた。
「こんな根戸川なんかじゃよくわからねえが、ほかの川へいってみればはっきりすらあ」と富なあこは続けた、「||海に
「うう」と倉なあこは考えこみ、やや
「誰もそこに気がつかねえのさ」
「その勘定らしいが」と倉なあこが訊いた、「しかしまた、どうやって川をのぼるだろう」
「おら、この眼で見た、この眼でよ」と富なあこは科学者の冷静さと情熱とをこめて云った、「||川のずっと
「うう」と倉なあこは友達の指先を見た。
「するとあるとき、そうさな、||」富なあこは水面を指さした手を、ちょっと考えてから、向うのほうへずらした、「あのへんまでのぼっちゃってるんだ、ここんところから、あのへんまでよ、幾日もたたねえうちに、ときには三間も五間も上へいっちゃうんだ」
「どうやってだ」
「わかんめえ」富なあこはすばらしい手札を持った賭博者のようにほくそ笑んだ、「おらもわかんなかった、どうやって上へのぼるんだか、手も足もねえし、魚のように
倉なあこは踵をあげることも忘れ、期待のこもった眼で友達を見まもった。
「するとようやくわかった、こうだ」と富なあこが云った、「つまりこうだ、||ここに大きな岩があるとすべえ、いいか」
倉なあこは黙って
「川だから水が流れてる、これにふしぎはねえさ、なあ」と富なあこは手まねをした、「こう、ここに岩があらあ、そこへ水が流れて来るだろう、そうするとおめえ、岩の前のところの砂や泥は、流れに洗われて低くならあ、そいつは海ん中でやっても同じこった、波の来るときに立ってると、
「うう」と倉なあこが頷いた、「うしろにひっくりけえりそうにならあ」
「そいつがそのまんま当て
倉なあこは
「知恵のあるもんだな」
「なみたいていじゃあねえさ」
「こんな砂がな」倉なあこは跼んで、水の中から砂を
「だろうって」と富なあこが考えぶかそうに云った、「おらも初めはびっくりしたもんだ、こんな砂っ粒が生きているなんてよ、な」
「そうは思えねえもんな」
「知らねえ者は極楽よ」と富なあこは溜息をついた、「おらもそうとわかるまではなんとも思わなかったっけだ、けれどもわかってみると粗略にゃできねえと思った、ほんとだぜ、そんなに見えていて」と彼は倉なあこの掌上にある砂へと
「うう」と倉なあこが云った。
「生きているばかりじゃねえ」と富なあこが云った、「だんだんと大きくなりながら、川上のほうへのぼってゆくんだから、だんだんとな、どこからそんな知恵を絞り出したもんか、考げえてみるとびっくりするばかりだぜ」
「うう」と云って、倉なあこは、掌の上の砂を指で撫でた。
さざ波もたたない静かな海面のどこかで、魚のはねる水の音がし、二人は話しながら、磯のほうへ戻っていった。
元井エンジは
彼にはまだ水夫のころから好きな娘があった。新川堀の「
おさいは白粉もつけず、ふだん着のままで店にあらわれ、てきぱきと料理の皿やビールや酒を、運んだりさげたりしながら、客たちがもっとメートルをあげるようにと、絶えず、巧みに女給を
||おらんとこの五号船のぶっくれエンジンみてえだ。
東湾汽船の三十六号船に乗っている留さんがそう云った。その五号船はごく古いもので、エンジンを発動させると
そのおさいが元井エンジを好きになった。きっかけを作ったのは、云うまでもないがおさいのほうだ。彼は船で使う草履や、
二人がいい仲になっている、という
ここまでの経過はこまかい部分がわかっていない。婚約期間が仮に二年だったとして、そのあいだ二人だけで逢ったことがあるのか、また、恋人同士らしい交渉があったか、ひそかに逢ったとすればどこでどんなふうだったか、愛の言葉を
彼は二十八号のエンジナーになり、「元井エンジ」と、多少の皮肉をこめて呼ばれるようになった。そこで、彼は故郷へ帰省した。祖先の展墓を兼ねて、自分の出世を報告するために、||故郷は岩手県のどこかで、汽車をおりてからバスで半日ほどゆき、それから歩いて何里とかの山を越す、といったような寒村であった。もちろん結婚することも話したであろう、ほぼ半月ほど経ってから、彼は土産物を持って帰り、「臼田屋」へおさいを訪ねていった。||おさいはいたが、彼を見るととびだして来て、いきなり激しく怒りだした。怒って
||おめえは徳行にふじという女がいる、その女はおめえの子を産んだ、とおさいは叫んだ。この恥知らず、よくもおんだらを
彼にはわけがわからなかった。
||しらばっくれるな、とおさいはかなきり声をあげた。おら自分でその女に会って、その女の口からじかに聞いただ、よくもあんなすべたあまと見替えやがった、もう騙されやしねえぞ。
彼は抗弁した。自分の並み外れたしゃがれ声と
||聞かね聞かね聞かね、と彼女は指が鉤のように曲った手を振りあげた。おめえの嘘っぱちなんか聞くもんか、さっさと帰れ、もう二度とふたたび来るんじゃないよ。
そしておさいは店の奥へ去った。
これははっきりわかっていることだ。彼は暫く、気のぬけたように立っていた。それから、持って来た土産の包みを、店先へそーっと置いて、そこをたち去った。
彼にそんな女があったかどうか、誰も知らなかった。東湾汽船も、葛西汽船も、徳行町が終点であった。どちらの通船も、浦粕泊りのときと徳行泊りのときがあり、蒸気乗りたちの多くは、遊ぶ場所の揃っている浦粕泊りを好んだが、中には徳行に馴染の女のいる者もないことはなかった。元井エンジにも徳行泊りの番はあったから、そこに馴染の女がいたということも無根拠ではない。もしも彼にそんな覚えがないとすれば、ふじという女に会って、その実か否かを慥かめることができる筈だ。||当然、彼はそうすべきであった。それは極めてたやすいことだったから、||けれども、彼はそうはしなかった。
彼の内部で、なにかが変りつつあった。
仕事が終って家へ帰ると、彼は雨戸の前に立停り、ちょっと雨戸を見まもっていて、それからゆっくりという、||この戸をあけよう。そして雨戸をあけ、格子戸をあけてはいると、そこでまた、||この格子を閉めよう、と云って格子戸を閉める。上り
このあいだにおさいは嫁にいった。
或る日、葛西汽船の二十八号が発着所へ着いたとき、おさいは岸へいって機関室を
「エンジさん、暫くだね」とおさいは云った、「たまにはうちへも遊びに来せえま」
彼は微笑し、ちょっと片手をあげてみせたが、口はきかなかった。
次のとき、彼女は自分の子を抱いていて、洗い場の石段を二十八号船の側までおりてゆき、元井エンジを呼んで、これが布佐で生んだ子である、と揺りあげてみせた。
「名前ははるみって付けたの」と彼女は云った、「可愛いでしょ」
彼は微笑しながら頷いた。なんの意味も含まない微笑で、やはり口はきかなかった。
こういうことが幾たびかあった。おさいはそのたびに「遊びに来い」とさそった。彼は微笑をうかべて、頷いたり、手をあげてみせたりしたが、それは機械的で、少しも感情のこもらないものであった。そして或る夜、||元井エンジが晩めしを済ませ、
「ゆんべはいしが先手だったっけ」と彼は安息のためいきをつきながら云った、「じゃあひとつ、今夜はおらが先手といくか」
そして、二手か三手指したとき、戸口に人のおとずれる声がした。人が訪ねて来ることなどはごく
「あたしあやまりに来たのよ」おさいは
彼は微笑したまま立っていた。あがれとも云わないし、あがってもいいような顔つきではなかった。おさいは片手で髪を撫でた。
「でもあたし、いそぐから」と彼女はすぐに云い直した、「今夜はここでお
彼の表情は変らなかった。
「ごめんなさい、あたし悪かったわ」おさいは眼を伏せた、「徳行のおふじさんのこと、嘘だったのね、あたし人から聞いて、かっとのぼせちゃったの、あのときはじかに会って、当人の口から聞いたように云ったけれど、ほんとうはゆきもしないし会いもしなかったの、もしか嘘なら、あんたが嘘だっていう証拠をみせてくれると思ったのよ」
元井エンジの眼が、ねむたそうに細められた。あのとき彼はそのことを云った、そんな覚えはない、みんな嘘だと云ったが、おさいは聞こうともしなかったのだ。そのことを思いだしたかどうか、彼は細めた眼でおさいを眺めたまま、黙って立っていた。
「あんたはなんにも云ってくれなかったわ」とおさいは続けた、「だからあたし、||あたし、どうにでもなれって思っちゃったのよ、ほんとうはあんたが悪いのよ、あんたがいけなかったのよ」とおさいは声を激しくした、「嘘なら嘘だって、はっきり云ってくれればいいじゃないの、どうして黙ってたの、どうして」
彼はまた微笑した。
「でもいいわ、みんな過ぎちゃったことだもの、それに、||」おさいは熱っぽい眼に媚をあらわして云った、「あんたはじつをみせてくれたわ、あたしが布佐へお嫁にいっちゃってからも、ずっと独りで、ほかの人をお嫁に貰わずにいてくれたわね、うれしいわ、あたしこっちへ帰って来てからそのことを聞いて、うれしくって、泣いちゃったのよ」
おさいはすばやく眼をぬぐった。彼はなお表情を変えなかった。彼は謙虚な自尊心をもっていた。それは決して他人に気づかれることのないところで、ひそかに、しかし誇り高く保たれて来たのだ。||おさいが彼にあいそづかしを宣告してから、周囲の者のあてつけやかげぐち、
「あたし、いつでもいいのよ」とおさいは低い声で云った、「あとは云わなくってもわかるわね、あたしたちうまくいくと思うわ」
彼はやはり黙っていた。
「きっとうまくいくわ」おさいの声には確信がこもっていた、「あんたの都合でいつでもいいのよ、あたしの気持、わかるでしょ、わかってくれるわね」
彼は一割がた微笑をひろげ、片手をゆっくりとあげて、その指先をひらひらさせた。どういう意味を表明したのかわからないし、なんの意味もないようにも受取れた。
「べつにいそがなくてもいいのよ」とおさいは探りを入れるように云った、「あたしがいそいでるなんて思わないでね、あたしいそぐ気持なんかちっともないんだから、わかってるわね」
彼はなにも云わなかった。
「うちへ来てちょうだい」と別れを告げてからおさいが云った、「あたしうまいライスが出来るのよ、
彼はこんどは二割がた大きく微笑したが、なんの動作もしなかった。
「へっ、うみどんぼ野郎」とおさいは外へ出てから、口の中で
彼は将棋盤の前にあぐらをかいて坐り、深い
「七八銀上りか」と彼は云った、「||つまり、棒銀をやらさねえってわけだな、すると、
彼は駒を取って打った。安物の盤の上で、その駒は冷たそうな、いい音をたてた。
私が沖の百万坪を歩いていると、三つ

「蒸気
その鮒を売ってもらえないか、という意味のことを私は繰返した。かれらの顔になにか共通のものがはしり、さっと緊張にとらえられるのが認められた。そのとき私は「しまった」と思った。なにがどう「しまった」のか不明のまま、ひじょうな失策をした、ということを直感したのであった。
少年たちは顔を見交わした。
「
少年たちは唾をのみ、水洟を
「ンだンだ、みせえま」次の一人も一尾つかまえ、私のほうへ差出しながら云った、「鯉っこくれえあんべえがえ」
さらに一人、さらにまた一人と、六人いる少年たちが全部、暗黙のうちに共同戦線を張って、私を
私は決して誇張しているのではない、これは浦粕という土地の気風なのだ。いつだったか、||むろんそのときより以前のことであるが、私は蒸気河岸の脇のところで、これと似たような経験をした。もう夕方のことだったろう、河岸の
「蒸気河岸の先生だね」とその中年の漁師は私を見あげた眼をすぼめた、「||この蛤を欲しいだかえ」
彼は自分の眼にあらわれる狡猾さと、顔つきが貪欲になるのをごまかすために、自分がいかにも無力な、悲しい男であるかのような表情を作った。
「そうさな」彼は蛤の一つを取って、それをじっと凝視した、「||売ってもいいだよ、売るためにこうやって並べてるだからな、売ってもいいだが」
私は辛抱づよく待った。彼はその一つの蛤を丹念にしらべてから、やおら、すぼめた眼で私を見あげた。
「幾ら欲しいだね」と彼は云った。
私は必要な額を答えた。
彼は梅干を
「蒸気河岸の先生だからな」と彼は自分の情の
私は少年たちの顔つきの変化を見て、そのときのことを思いだしたのであった。
「売んか、な」と少年の一人がなかまに云った、「売んべや、な、かんぷり」
かんぷりと呼ばれた少年は洟を啜り、上わ眼づかいに私を見、またバケツの中の鮒たちを見た。その少年は船宿「千本」の長の同級生で、背丈が小さく、躯も痩せているが、頭だけが大きく、しかも鉢がひらいていた。かんぷりとはその
「鮒は十五いんだ」とかんぷりは云った、「幾らで買ってくれっかえ、先生」
私はふところを考えてから答えた。
「えっ」とかんぷりは眼をみはり、きおいこんでバケツの中から鮒をつかみあげ、||それはもっとも大きな一尾であった、||私のほうへと突き出しながら云った、「しょっからへいってみせえま、このくれえの鮒は一つで五ひゃくもすんだぞ、先生」
このちび助のユダヤ人め、と私は心の中で罵った。「しょっから」とは堀南にある
私はその鮒を味噌煮にした。骨まで柔らかにするためには、二日か三日くらい煮なければならない。もちろんガスなどはないので、火鉢に粉炭を入れ、味噌煮の
中二日おいて、三日めの午ごろ、私は寝ているところを呼び起こされた。窓の雨戸を叩きながら、先生起きせえま、と少年たちが呼んでいるのである。私は起きあがって窓をあけた。外には五人の少年たちが、洗面器やバケツや
「鮒とってきただよ」と長が云った、「買ってくれせえな、先生」
私はかれらの期待に満ちた注目をあびて、自分に拒絶する勇気のないことを悟り、かれらを勝手口へ廻らせた。そこでもかれらは一列に並び、ひとりひとりが私に向って自分の鮒に値を付けさせた。そのときになって初めて、寝起きのぼんやりした私の頭が、かれらの
「ほれ、みせえま」とかれらはそれぞれの鮒を私に誇示した、「こんなにえっけえだ、五寸くれえあるだえ、先生」
そして「しょっから」へゆけばこれ一尾で一かんは取られる、と云って互いに頷き、肯定しあうのであった。私はそこでもまた自分が
「いいさ」と私はかれらの去ったあとで自分に云い聞かせた、「味噌煮にしておけば
私はまえの味噌煮を丼へ移して、それらの鮒を新しく味噌煮にしかけた。
人は信用しないかもしれない。私自身もこれを書きながら、たぶん人は事実だとは信じないのだろうと思うのであるが、少年たちはその儲け仕事があまりにたやすく、かつ確実であることに
「並べってばな」と長の云うのが聞えた、「おんだらが先だぞ、押すな」
拒絶されようなどとは

私に拒絶されて、少年たちは明らかに失望し、途方にくれた。かれらは顔を見交わし、先生が駆引しているのではないかと疑い、そうでないことを認めるともっと失望し、どうしたものかというふうに、それぞれの手にした器物の中の鮒を見まもった。
「みんな」と長が急に云った、「それじゃあこれ先生にくんか」
くんかとは、贈呈しようか、というほどの意味である。途方にくれ、落胆していた少年たちの顔に突然、生気がよみがえった。それは
「うん、くんべ」と少年の一人が云った、「なせ、これ先生にくんべや」
「くんべ、くんべ」
「先生、これ先生にくんよ」とかんぷりが云った、「みんな、勝手へいってあけんべや」
私は自分の大きな過誤を恥じた。
少年たちに狡猾と貪欲な気持を起こさせたのは私の責任である。初めに私は「その鮒をくれ」と云えばよかったのだ。売ってくれと云ったために、かれらは狡猾と貪欲にとりつかれた。私のさみしいふところを搾取しながら、かれらも幸福ではなかった。その期間、かれらは
「先生にくんよ、か」と私は口まねをしてみた、「これ先生にくんよ」
そう云ったときの、すがすがしく、よみがえったような顔つきや動作を思いうかべながら、私は深く自分を恥じた。
朝日屋は堀一橋の近くで、河岸通りに面している。間口六尺、奥行十二尺。五色揚を揚げて売る
朝日屋の夫婦は五日に一度くらいの割合で大喧嘩をした。亭主の名は勘六、細君はあさ子、どちらも
「寅の八白だなんてぬかしゃあがって」と勘六が云う、「てめえなんぞ本当はひのえんまの元締じゃあねえか」
「
勘六は
何年かまえ、堀東の理髪店に杉さんという渡り職人がいた。五十年配の独り者で、半年ほどしかいなかったが、勘六のでいり話を幾たびか聞いたのち、そういう語り物はしょうばい人に任せとくがいい、と云った。しょうばい人たあなんのこった、と勘六はひらき直って左の腕を
||大石ゆらの助は芝居を見てっから忠臣蔵をやらかしたんじゃねえだろう。
杉さんはあいそ笑いをし、お見それ申しましたと云って降参したが、あとで勘六の細君をさそい出し、三日のあいだ
||勘六は口で勝って手で負けた。
そういう
勘六もあさ子も博奕が好きであった。浦粕は小さな漁師町だから、博奕場などという大掛りなものは立たないが、慰み半分の寄合はよくあったらしい。そういうときには朝日屋へ知らせがある。相手は夫婦をかもにするつもりだが、夫婦はいっぱししょうばい人のつもりで、||なぜなら、亭主はもとなにがし組のあにい分だったから、||義理を欠かすわけにはいかない、などと気取ってでかけてゆく。亭主が元あにい分だとすれば、伴れ添うあさ子もずぶの素人ではない。
この特技は人によるそうである。若くて、
夫婦は博奕で勝つときもあった。勝ったときは家へ帰って、二人で酔っぱらって、適当に口喧嘩をして寝てしまう。しかしたいていは負けるのがきまりで、するとあさ子がことば巧みに何人かを客として家へ伴れ帰り、しょうばい物の五色揚を
或るとき、駐在の巡査が来て、これを営業法違反であると指摘した。あさ子はべらんめえ調で猛然とはむかった。問答の細部はわかっていないが、あさ子は知っている限りの毒舌をふるい、若い巡査は昂奮のあまり口がきけなくなった。
「わかりましたよ、ええ」とあさ子は云った、「そんなら五色揚を店で売ればいいんでしょ、そうでしょう」
それから朝日屋ではそれを実行した。客を伴れて来て酒の支度をすると、勘六が外へ出て店台の前に立ち、おい、てんぷらを呉れ、とどなる。
するとあさ子が出ていって、おやいらっしゃい、幾らあげますかと云う。幾ら幾ら呉れ。はい幾ら幾らですね。あさ子は五色揚を経木に幾つか包んで亭主に渡す、お待ち遠さま、一つお負けですよ。おいよ。亭主は銭を渡し、経木包みを持って家へはいり、公明正大なような気分で飲みだす、というぐあいであった。
或る日また若い巡査がやって来て、あさ子と激しくやりあった。五色揚屋は五色揚を店で売ることだけ許可されている、と若い巡査は云う。おまえのところでは、客に酒食を提供して勘定を取る、それは許可された営業とはべつの営業許可を取らなければ違反行為になる。ねえ、若い旦那、とあさ子が
「それは」と若い巡査は答えた、「そういうときには僕たちは会費を出しあうことにしているよ」
「それが巡査の営業違反になるかい」
「僕はなにも営業なんかしていないよ」
「うちだってそうさ」とあさ子が云った、「うちだって客と云えば云うもんの集まるのはみんなお友達だよ、朝日屋で飲むのがいちばん気がおけなくっていいって集まって来るんだ、うちだって貧乏世帯だから番たび奢ってばかりいられやしない、お友達にしたって番たびごちじゃあ気がひけらあね。それでお互いの飲み食いした分を出しあう、いいかい、つまりおまえさん方の云う会費だよ、早く云えば、そうだろう」
「そこが違うんだが」若い巡査は帽子をぬいで、ハンケチで額と帽子の中を拭いた、「会費というのは頭割りで幾ら幾らと」
「そこは違いますよ、違いますとも」あさ子は立てた片膝を左右に揺すった。若い巡査はいそいで眼をつりあげ、あさ子は云った、「おまえさん方は行儀がいいからそんなことはないだろうが、こちとらの客は幾ら幾らなんておきまりどおりで済むような手合じゃあないんだ、五色揚を四五十も喰べて一升酒くらってけろっとしているやつもあるし、二合も飲めばへどをついてぶっ倒れるようなろくでなしもいるんだ、それを頭割りで片づけるなんてあこぎなまねは、営業でもしていればべつだろうが、こっちは営業じゃあないからできやしないさ、それぞれ飲んだり食ったりした分を出しあってもらう、これが当然じゃあないか」
「僕は転勤したくなっちゃうな」若い巡査は呟いた、「僕はこの土地には性が合わないんだ」
「あたしゃあ理の当然を云ってるんだよ」とあさ子は追い打ちをかけた、「友達を集めて飲み食いをして、お互いに銭を出しあってそれで営業違反になるんなら、分署の旦那方が会費を出しあって宿直で飲み食いをするんだって営業違反って勘定だろう、うちは五色揚をしているから違反で、ほかのうちはほかの営業をしているから違反じゃないなんて、そんな理屈がとおるかい」
「おばさんの云うように云えばそうなるけどね」と若い巡査はまた帽子をぬいで汗を拭いた、「いいよ、僕にはこの浦粕って土地は向かないんだ、僕は転勤させてもらうことにするよ」
この結末をあさ子が自慢にしたことは云うまでもない。実際にはあとから分署の部長が来て、始末書を取られたか、なにがしかの科料処分になったようだが、「大学出の若いちゃきちゃきの巡査を理詰めで降参させた」というので、あさ子はすっかり女をあげたものであった。その巡査が大学出であったかどうかも、転勤の請願がとおったかどうかも不明ではあるが、||
夏のさかりの或る午後、朝日屋の夫婦が本式の大喧嘩をした。夫婦でひるねをしていたところ、あさ子が足で勘六の頭を
「大げさなこと云うんじゃないよ」とあさ子が云った、「眼がさめたら汗ぐっしょりで喉が渇いてたから、氷でも取ろうじゃないのって、ちょっと突いてみただけじゃないか」
「ちょいと突くにしても場所があらあ」と勘六はどなった、「女のくせえして寝そべったまんま、仮にも亭主の頭を足で小突くって法があるか、仮に戸口の敷居を踏んづけたって足が曲るってえくれえのもんだぞ」
「敷居を踏んづければどうして足が曲るんだい」
「べらぼうめ、敷居は親の頭も同様だっていうんだ」
「へええ、おまえあたしの親かい」
「親なら半殺しのめにあわせるところだ、仮にも女房だからがまんしてりゃあいい気になりゃあがって、やい起きろ」と勘六は絶叫した、「亭主が起きて文句を云ってるのに、ぞべりけえったまんま聞いてるやつがあるか、こら、起きろったら起きねえか」
「うるさいね子供じゃあるまいし、起きて聞こうと寝て聞こうとあたしの勝手だよ」とあさ子は云い返した、「それとも起きて聞くほどごたいそうな文句でもあるってえのかい」
「このあま、もうがまんがならねえ」
「なにをすんだいこのもくぞう」
平手打ちの音と共に、取っ組みあいが始まり、器物が倒れたり
それから「出ていけ」になるのだが、そのときそれを云いだしたのは、あさ子のほうであった。
「仮にも亭主に向って出ていけたあなんだ」と勘六は息を切らしてどなった、「おらあな、三十円という大金を出して、てめえをごったくやから身受けしてやったんだぞ」
「身受けをしたのはてめえの勝手だ、こっちで頼んだわけじゃあねえや」とあさ子は喚き返した、「三十円三十円って、てめえは三十円出しただけじゃねえか、この家はいったい誰のおかげだよ、おれが日の出屋のじいさまに頼んで金のくめんをして、家賃をかけあったり造作を入れたりして、そのおかげで寝起きができるようになったんじゃねえか、そうじゃねえのかい唐変木」
「おらあ血の涙も出ねえ」勘六は
「縁切りだなんて恰好つけたこと云うんじゃないよ」あさ子は平然と云い返した、「別れたけりゃあ別れてやるからさっさと出ていきな、ここはあたしの家なんだから、断わっておくが出てゆくのはおまえさんのほうだよ」
「出てってやらあ、なんでえこんなぶっくれの乞食小屋あ」と勘六が云った、「その代りな、表の店台はおれの銭で
勘六ははだしで外へとびだした。顔には幾筋もみみず
「なにをするんだよこの山犬あ」あさ子がとび出して来て、かなきり声をあげた、「なんのまねだい、それをどうしよってんだよこのひょっとこは」
「おれの物をおれが持ってくんだ」と勘六は喚いた、「ざまあみやがれ」
「誰か来て下さいよう」とあさ子は泣き声で叫びたてた、「どなたか来て下さいよう、この泥棒があたしの家を毀しますよう、どなたか駐在さんへ知らせにいって下さいよう」
あさ子は腰巻一枚で、いかんせん往来で亭主につかみかかるわけにはいかなかった。もちろん、彼女のために、助力しようというような、お節介な人間はその近辺にはいない。勘六はたちまち店台を剥ぎ取ると、それを担いで「吉井」のほうへ走りだし、吉井のべか舟を借りてその財産を乗せると、根戸川のほうへ
「骨っ腐り||」と根戸川べりまで追っていったあさ子は、べか舟が見えなくなるまで叫んでいた、「かってえぼうのうみどんぼ野郎、くたばっちめえ||」
私は私の青べかで海へ出た。茶の入った大きな湯沸しと、魚煎餅とあんこだまと、二三冊の本を持って。夏でなくとも、晴れて風のない日に海へ出ると、水面からの
春から初夏にかけて、浦粕の浜では「
大汐のときには水際から四五キロも沖まで水が退き、ところどころ汐の
このほか、厳重に禁じられている「ころがし」も見張らなければならない。それは

そのころでも、鮭くらい大きい鱸は、東京の料亭などへ持ってゆくと、六か七、うまいときには一〇くらいになるとのことで、いつもふところの寒い私も、そういう幸運にめぐりあいたいものと思い、何回となく干潟を歩きまわったものであるが、ついに一度もまぬけな鱸に出会うことはなかった。
さてその日、||私は私の青べかを流し放しにして、汐の中で横になり、「青巻」という本を読んでいたが、読み飽きて、ふと気がついてみると、いつか汐が干てしまい、青べかは砂上に坐っていた。私は本を置いて起き直り、あんこだまと魚煎餅を喰べ、なまぬるくなった茶を飲み、暫くぼんやりしていてから、ひとつ貝でも採ってやろうか、と独り言を呟いた。||断わっておくが、そのとき私は浜の制度についてなにも知らなかった。その沖が貝の活け場であることも、「ころがし」のことなども知らなかった。そうして青べかからおりて、なんの目算もなく干潟の砂を掘ってみると、なんと、
「すげえや」私は胸をおどらせながら叫び声をあげた、「こりゃあすげえや」
私は昂奮し、
そのとき私は、満ち溢れる幸福感の中に一種の不安、不安というほどはっきりしたものではなく、人間が幸福すぎるときに感じる「これは現実のものだろうか」といったような、おちつかない気分が小指を動かすのを感じた。そうして、その気分を立証するかのように、一人の男が近よって来た。||それは
「なにをしてるだね」と男は云った。
私は答えて、砂上に掘り出してある蛤を指さした。男は蛤を見、私の顔を吟味するように見、それから蛤を見て、また吟味するように私を見た。
「どこから来ただね」と男が云った。
私が答えると、男は振り返って私の青べかを眺め、歯をむきだして冷笑した。
「青べかを買ったのはおめえか」と男は云った、「すると蒸気河岸の先生だね」
私は肯定した。
「じゃあ信用すべえが」と男は権力の代行者のように云った、「ここは貝の活け場だ、こんなところで貝を採ったりするとただじゃ済まねえだよ」
彼は私の掘った蛤を取ると、水のあるほうへばらばらと放り投げた。やっぱりそういうことか、と私は思った。こんなことがあるわけはない、こんなに大きな赤貝や蛤がぞくぞく出て来るなんて、それだけで
「こいつはおーの貝ってえだ」と男はその貝を私の手に渡して云った、「これならいくら採っても構わねえだよ、そううめえってわけにゃあいかねえが、まずくって食えねえってこともねえだ、そうさ、するめに似てんべえかな、
その貝は私の拳を横に二つ合わせたほどの大きさで、べらぼうに重たかった。私は生れつきするめが嫌いであり、いまなお嫌いで、酒を飲みにいっている店でするめを焼き始めでもすれば、待ったなしに退散するくらいである。したがって、そんな味のする貝などを採る気はなかったが、ゆきがかり上そんな顔もできず、大いに乗り気になったふうをよそおって、そのいまいましい貝を五つばかり掘った。
そのとき男は、沖のほうへ歩いてゆきながら、よく響くしおから声で「そのしとー」とどなった。
私が見てみると、二百メートルほど沖を一人の男が西に向って歩いていた。
「おめえそこでなにしてるだ」とこちらの看視人がどなった。
「なんか用かね」と男はどなり返した。
「そこでなにしてるかって訊いてるだよ」
「このとおり」男はうしろ腰で組んでいた手を解き、なにも持っていないことを証明するように振ってみせた、「||おらなんにもしてねえだよ」
「なんにもしてねえって」と看視人が云った、「そんならこんなとけへなにしに来ただ」
「ええびだよ」と男は答えた。
ええびとは「歩み」というほどの意味で、つまりここでは散歩と解釈してもいいだろう。男はそう答えながら、ぶらぶらと、老百姓が田を見廻ってでもいるかのように、暢気そうに歩きだした。
「ええびだって」と看視人はそっちへ近よりながら問い返した、「なんのええびだね」
「なんでもねえさ、ただええびに来ただけだよ」
「こんなとけへかね」
「こんなとけへさ」
「ちょっと」看視人は足を早めた、「おめえどこのしとだえ」
「おらがどこのもんかって」と男もまた足を早めた、「どうしてだね」
看視人はさらに足を早めた、「どうしてでもいい、どこのしとかって訊いてるだ」
「おらついそこのもんよ」
「ついそこたあどこだ」
「葛西のちっと先よ」
「ちょっと待て」看視人はもっと足を早めた、「葛西のちっと先とはどこだ」
「ちっと先とはちっと先のことよ」男も同じように足を早めた、「なんでそんなこと訊くだえ」
「訊く用があるから訊くだ、待て」と看視人は駆けだした、「待て、いしゃあどこのなんてえもんだ」
「おらか」と男が答えた、「おらなんちゅうもんでもねえだよ」
「待てこら、待てっちゅうに待たねえか」
看視人の足が水しぶきをあげ、男はひょいと
私は青べかの中へらくに坐り、あんこだまと魚煎餅を喰べ、ぬるい茶を飲んで、また「青巻」を
「ただのええびか」私は独りで笑った、「うまく逃げてくれよ」
梅雨のあけかかった或る夜、||高品さんの家の炉端に、常連の蒸気乗りや船頭たちが集まって、茶と菓子をつまみながら話していた。雨はあがったが気温が高く、障子をあけ放した縁側のほうから、ときどきひんやりした微風が吹きこんで来た。
私は末吉エンジナーと五目並べをしていた。末吉エンジは四十がらみで、蒸気乗りだから色は黒いが、細おもてのなかなかな美男であり、さぞ女にももてるだろうし、道楽もするだろうと思われるが、実際には酒もタバコも口にしないし、子供のない夫婦っきりの生活は、極度に倹約だといわれていた。||一例をあげると、月給はそのまま郵便貯金にしてしまい、生活費は高品さんの奥さんから借りるのである。むろん計面性に立つ倹約生活だから、借りる金額もさして多くはないし、次の月給日にはきちんと返済する。そして残りはまたそっくり郵便局へ持ってゆき、金が必要になると高品さんの奥さんから借りるのであった。
||たいしたお金じゃないから貸し惜しみをするわけじゃないわよ、と高品夫人はいつか私に語った。だけれど郵便局へ預けた分には利子が付くでしょ、自分のお金には利子が付くようにしておいて、生活費のほうは人から借りるなんてこすいじゃないの。
貧しさから生れる知恵はつつましく、そしてたいていはかなしいものだ。末吉夫妻の知恵は貧しさから生れたものではない。夫妻の生活は貧しいものだろうが、その知恵は貪欲に通じるように思える。
||いまに高利貸しでもやるつもりだろうさ。
蒸気乗りたちは蔭でそう云っていた。
私は末吉エンジと五目並べをしながら、相手の置く石の一つ一つが、みな三四、または四四になるような、極めてゆだんのならない気分を味わっていた。そのうちに高品夫人が、あら狐火だわと云い、縁側の外のほうを指さした。||十坪ばかりの庭のはずれに、垣根のようになった樹立があり、そこから先はずっと
「どじょう捕ってるだよ」と三十六号船の留さんが云った、「田植のあとでは
だが留さんは急に黙った。
その赤い火の群れが、左と右へひろがり、同時に数も三倍くらいになった。少なくとも二十くらいになり、その位置も一段ほど上へあがったのである。これは人の話ではなく、私が現実に自分の眼で見たことだ。その赤い火は初め七つか八つであり、それが突然、左右へ数を増してひろがり、一段ほど高くあがったのだ。
「狐火だ」と留さんが云った、「おっかねえ」
「留さん初めてじゃないでしょ」と高品夫人が云った。
「おら見ねえことにしてるだ」と留さんは答えた、「あれを見ると化かされるっていうだからな」
「どう化かされるだ」と漁師の吉さんが訊いた、「おめえもう見ちまったじゃねえか」
「おらを見てくれ」と留さんは振り向き、自分が固く眼をつむっていることを示した、「狐火だなと思ったからおらすぐに眼をつむっただ、みんなも見ねえほうがいいだよ」
「どう化かされるだってば」
「よくは知らねえが」と留さんはあたりを
「たましいを抜いてどうするだ」
「化かすのよ」と留さんが云った、「人間にたましいがあるうちは化かせやしねえ、だからまず先にたましいを抜くだってえだ」
「へえ」と吉さんが云った、「へええ、おら初めて聞いた」
吉さんはなお留さんに構い続けた。
私は狐火のほうを見ていた。その火はまた変化して、元の位置にさがり、数も七つか八つになった。そうかと思うと等間隔のまま左へ大きく移動し、安ガラスをとおして見るように
||気流のいたずらだな。
私はそう思った。密度の異なる気流の層が交わると、一種の
「いいかげんにしろよ、吉」と末吉エンジが云った、「留さんをからかったって一文にもなるわけじゃなかんべえに」
彼は狐火にさえ関心がないらしい。ずっと碁盤の上をみつめていたらしい眼を、ゆっくりとあげて私に云った。
「先生の番だよ」
たぶん九月だったと思う、私は「青べか」を漕いで、堀を東の浜へ出た。その浜にはまえに書いた海水浴場があるし、海へ出るまでの浅い水路はごかいを捕る場所になっていた。ごかいはもちろん魚を釣るのに使う
私が初めて東の浜へ出たのは、ごかい捕りとは関係がない。その浜には芦の畑があり、魚がよく釣れると聞いたからである。芦の畑などというと不審に思われるかもしれないが、実際に水際の広い地域に、幹の太さや葉の色などで個性をあらわした芦が、||たぶんそれぞれの用途によって区別されるのであろう。||稲や麦を作るように、規則正しく分類して育てられ、晩秋から冬にかけて順に刈り取られるのであった。その芦畑のあたりは、冬になると水鳥類のよい猟場になり、芦の茂っているうちは、縦横に通じている水路が魚の寄り場になる、といわれていた。
私は「青べか」を水路の一つへ漕ぎ入れ、例のとおり漠然とした勘によって釣糸をおろした。どれだけ収獲が[#「収獲が」はママ]あったか、それとも一尾も釣れなかったか、私のノートにはなにも書いてない。それよりも水路を釣り廻っているうちに、私は十七号の廃船と、幸山船長にめぐり会ったのである。いつそんなところにいったかわからないが、人の呼びかけ声に振り返って見ると、十メートルほどうしろの芦の中に、白く塗った一
「そんなとこじゃ釣れねえだよ」と老人は特徴のあるしゃがれ声で云った、「こっちへ来せえま、この船の上から釣ればいいだ」
私はへどもどとなにか答えながら、その老人のようすを観察した。
そこは水路のゆき止りで、向うに松並木のある岸が見え、船はそちらを
老人は私と話したいようすを示したが、私はなんとなくおちつかず、||というのは、そんな芦畑の中に古い通船があることも、その船にそんな老人がいることも、少なからず非現実なような感じがしたからであるが、||またこの次に来よう、という意味の返事をして、まもなく「青べか」を漕ぎ戻した。
それから二三日経った或る夜、高品さんの家の炉端でその老人の話をした。
「ああ幸山船長ですよ」と高品さんが穏やかに笑いながら云った、「息子もちゃんとしているし、嫁にいった娘もいるんですがね、ああやって独りぐらしをしているんです、人嫌いでね、おかしなじいさんですよ」
幸山船長は東湾汽船に四十年の余も勤めた。十三か四で見習いになり、それから水夫、エンジナー、船長になったが、四十余年のあいだ一度も事故を起こさなかったし、その勤めぶりも模範的だったので、会社から幾たびか表彰された。停年になったが、幸山さんは船からおりることを拒絶し、そのまま五年も
ここでちょっとブル船長のことを記しておこう。ブルさんと
||おらあがいねえば三十六号はやみだ。
それでもなお船をおりないブルさんのように、幸山船長も頑強にねばった。そうして、幾たびかめの辞職勧告に、多額の退職金が示されると、幸山船長は「金は要らないが十七号を呉れるなら退職する」と答えた。
十七号はすでに廃船となって、徳行の岸に繋がれていた。いくらで払いさげるということにさえ、関心を持つ者がなかったくらいなので、幸山船長の交換条件はこころよく受入れられたのであった。||そこで彼は、十七号を東の浜まで
船乗りの船に対する執着と愛情については、外国の小説などによく描かれているが、私はブルさんがいまなお見えない眼を剥いて舵輪を放さないことや、この幸山船長の話に深い感動をおぼえた。
「あの十七号は」と私は訊いた、「老人がずっと乗っていた船なんですね」
「いや」と高品さんは柔和に答えた、「まだ水夫だったころに四五年乗っただけでしょう、あれはもと外輪船だったのを改装したもので、廃船になるまえは荷物専門に使われていたそうですからね」
私はちょっと失望した。高品さんの云うことが事実とすれば、その話のロマンティックな味わいはずっと減少するからである。
「それにしても」と私はまた訊いた、「どうしてあんな人けのない芦畑の中でなんぞくらしているんですかね」
「さあね」高品さんは炉べりでキセルをはたき(高品さん夫妻はどちらもキセルで刻みタバコを吸われた)新しく詰めたタバコに火をつけてから云った、「いろいろな話があるけれど、本当のところはわかりませんね、なにしろ変ってるじいさんだから」
秋の末ごろになって、私は一夜その十七号で幸山船長と語りあかした。
それまでは四五回ばかり、「青べか」を漕いでそこへゆき、船長と話したり、一度は船の上へあがってみたりした。幸山船長の一日の大部分は、十七号の清掃と機関を磨くことに費やされるようであった。船体の白いペンキはいつも塗ったばかりのようにみえたし、
「そうさな」と幸山船長は考えぶかそうに、特徴のあるしゃがれ声で云った、「そうさ、||おらが乗ったのは十九の年の二月で、それからまる四年くらいだっけかね、まる四年とちょっとだと思うが、詳しい月日は覚えてねえだよ」
それでは高品さんの云うとおりなので、十七号船そのものに特別の執心があるわけではないのだな、と私は思った。
たぶん十月の中旬だったと思う。月のいい晩で、風はないが気温は低かった。釣舟宿「千本」の倉なあこが、ごかいを捕るところを見せるというので、私は「青べか」を漕いでいっしょに東の浜へいった。||夜の十時ころだろうか、堀が海へ出るところは浅瀬で、左右の岸が、退き始めた汐の中で二条の
振り返ってみると、反対側の砂嘴に、幸山船長がカンテラを持って立っていた。
「ごかい捕りかね」と船長が云った。
私が答えると、船長は片手に持っている袋を、胸の高さまであげてみせた。
「今夜はぬけるのが早かっただ」と幸山船長はしゃがれ声で云った、「おらもう捕ったからけえるとこだよ」
それから人恋しげな口ぶりで、問いかけるように云った、「いっしょに船へ来ねえかね」
私は倉なあこを見たが、彼は黙って次の仕掛をやっていた。ちょっと迷ったが、人恋しげな船長の口ぶりは私をとらえてしまい、それを振り切ることはできなかった。私は倉なあこに声をかけておいて、船長のべか舟のあとから「青べか」を漕いでいった。伸びるだけ伸び、茂るだけ茂った芦のあいだの水路は、月の光の蔭になって
三十分ほど経ってから、私たちは長四帖ほどの狭い船室で、窮屈に坐って茶を飲んでいた。それはどの船にもある設備で、腰掛ける客のほか、坐る客のために設けられているのだが、その十七号はもと外輪船だったからであろう、他の通船のそれより幾らか広いように感じられた。||左右は
「あの人形が
私は船を大切にする船長の、船乗り
「さっき倉なあこが先生って呼んでたっけだな」と幸山船長は笑った、「なんの先生かおら知らねえし、そう思ってくれるのは
それから
話は単純なものであった。
船長は十八歳のとき初恋をした。相手は新堀川の小さな雑貨屋の娘で、名はお秋、年は彼より一つ下であった。その恋はあどけないほど幼く、けれどもあたたかい、きれいなものであったが、きれいなままで、三年あまり続いて終りになった。二人の気持が変ったのではなく、娘の親がかれらの仲を裂いたのである。||その父親というのはなかなか切れる男で、芦畑を作ることを思いつき、県からその許可を取ると、根戸川の下流から浦粕の東の浜へかけて、広大な地域の権利を手に入れた。
「大叶屋、||」と云って、幸山船長は
娘は二十一歳で嫁にいった。
根戸川に沿った永島というところの、かなりな資産家だったそうで、その結婚が迫った或る日、娘は幸山船長としめし合せ、東の浜の松並木でひそかに逢った。娘は持って来た人形箱を渡し、躯は嫁にゆくが自分の心はこの人形にこめてある、どうかこれを私だと思って持っていてくれ。そう云って泣いた。||こういう話は文字に書くと、あまりにありふれていておかしくもないが、幸山船長からじかに聞いていた私は、その「ありふれ」ている単純さのため、却って深く感動したことを覚えている。||娘はなお、どうせ嫁にいくのだから、このからだをあなたの好きなようにしてくれと云って、やけのような態度で幾たびも迫った。船長もいっそのことそうしようかと思ったが、まだ女に触れたことがないため、どういう手順が必要なのかはっきりわからず、娘が積極的になればなるほどおじけづいて、ついになにごともなく別れてしまった。
娘の婚家は根戸川に近いので、幸山船長の乗った船が通ると、彼女は
やがて十七号船は荷物専用になり、彼は十九号船に移った。そのあいだに一度、五十日あまり彼女が姿を見せなかったことがあった。もうこれで終りだろうか、娘の気持はさめてしまったのだろうか。彼は二人の仲を裂かれたときよりも激しい不安と、絶望感におそわれた。だがそれは思いすごしで、彼女はそのあいだ
「おかしなことだが」と幸山船長は云った、「まったく根もねえ話だが、そのときおらあ、あのこが抱いているのはおらの子だっていう気がしたっけだ、あの子がおらの子を生んだ、いま抱いているのはおらたち二人の子だってよ、先生なんぞにゃあばかげて聞えるかもしれねえだがね」
彼女の生んだのは女の子であった。
あとでわかったのだが、彼女の産は重く、そのため躯が弱ったということで、土堤へ姿を見せないことが多くなった。しかし、こんどは彼は疑いも不安も感じなかった。相当な資産家の主婦であり、また子も生んだとなれば、ときには都合の悪いこともあろう。番たび土堤に出て来られないのは当然だ、というふうに考えるようになった。
彼は二十七歳でエンジナーになり、結婚した。相手は郷里の水戸在に育った娘で、気が強く、言葉も動作も荒っぽく、彼は始めから好きになれなかった。妻は息子と娘を生み、三十二歳で死んだが、死なれるまで彼は愛情というものを感じたことがなかった。妻のほうも同様であったか、硝子箱の京人形を見てもべつに気にしなかったし、彼に愛情があるかないかを知ろうともしなかった。
「芦が風を呼んでるだな」幸山船長はふと頭を傾けて云った、「||ちょっと外へ出て風に吹かれようかね」
私たちは甲板へ出た。
火鉢のある狭い船室から出ると、晩秋の冷たい夜気がこころよく肌にしみとおった。だらけたような肌の細胞の一つ一つが、新しい酸素を吸っていきいきとよみがえるのを感じた。
「そうさ、芦は風を呼ぶだよ」私の問いに答えて船長は云った、「見せえま、東のほうで呼んでるだ、東のほうから風が吹きだすだよ」
幸山船長は船長の席にあがって腰を掛け、両手で舵輪を握って、ちょっと左右へ廻してみた。それから、すぐ右にある打金の紐を引いて、ちん、と鳴らし、ちんちん、と鳴らし、一つ鳴らして次にすぐ二つ鳴らしてみた。
「ゴースタン、これが合図だっただよ」と船長は云った、「永島へ船が近くなると、こう鳴らしてゴースタンとどなる、それからスローアヘーとどなってこう鳴らすだ、||おらが二十九号の船長になってからだがね」
彼は三十五で船長になった。水上と土堤との三百メートルの
「それでもたった一度だけ、側へよって口をきいたことがあるだよ」幸山船長は舵輪に
幸山船長は口をつぐみ、岸の松林のほうをじっと見まもっていた。
「すみませんねえ」と船長は
彼が四十二の年に、彼女は死んだ。
それを知ったのは、六十日の余もあとのことであった。そのくらい姿を見せないことは幾たびもあったので、彼はかくべつ心配もしなかった。そして、彼女が六十日以上もまえに病死したと聞いたとき、ちょっと云いようのない感動に包まれた。悲しいことは
「どう云ったらいいか」と幸山船長は凭れている舵輪を指で
彼女は嫁にゆくが、心はその人形にこめてあると云った。彼はいまこそそれが現実になった、というように感じられたのだ。
彼は妻に死なれてから、ずっと独身でとおしたが、もはや独りではなく、彼女が彼といっしょであった。子供たちの眼があるので、口や動作には決してあらわさないが、心の中ではいつも互いに話しあっていた。
||今日は
||そりゃあたいへんでしたね、疲れ休めに酒でもつけましょうか。
||いやよしにすべえ、おらあ酒を飲むと却ってあとが疲れるだから。
||それだけがあんたの損な性分ねえ。
こういうふうな会話が、現実そのもののようにとり交わされるのである。自問自答とか、空想めいた感じは少しもない。彼がこんなふうに云ってもらいたい、と期待するときに、彼女はしばしば彼の意志にさからったり、子供のように
「あのこはときどきうちへ帰りたがっただ」と船長は云った、「子供のようすをみて来てえだからってね、むりはねえさ、おら船が永島へはいると、ゴースタンをかけ、スローアヘーにするだ、そうするとあのこはうちへ帰るだよ」
これは誰も知らなかったし、誰に気づかれることもなかった。ただ、永島へかかるときに限って、船を「後退」にし、「微速前進」にするのがわからず、頭がどうかしたんだろう、と云われたことがあった。
「いまでもみんなは、おらの頭がどうかしてると思ってるだよ」そう云って、船長は可笑しそうに喉で笑った、「||ぶっくれの十七号船を貰って、こんなところで独りぐらしをしているのも頭がおかしいせえだってよ」
「独りぐらしだって」と船長はまた狡そうに笑った、「みんななんにも知っちゃいねえだ、おらもこんな話は誰にもしやしねえだがねえよ」
幸山船長は黙った。
私は彼のうっとりとした眼が、岸の上の黒い影絵のような松並木のあたりを見まもっているのに気づいた。やがて幸山船長は
「もうじき芦刈りが始まるだ」と船長は云った、「するとやがて鉄砲撃ちがやって来るだ、あれだきゃあうるさくってかなあねえだよ」
私は空が白みだしてから、私の「青べか」を漕いで帰った。そして、二度と幸山船長を訪ねてはゆかなかった。
根戸川の下流、沖の百万坪の地はずれに、某企業家が汚物処理の大規模な工場を建てようとし、県へ許可を申請したとか、すでに許可を取ったとかいう噂が広がった。
汚物といっても例の清掃関係のもので、その処理したあとの廃棄物は根戸川から海へ放流するといわれ、それは小魚や貝類を死滅させるから、周辺の漁民ぜんたいの死活問題であると、かなり大きな騒ぎになった。||その声はしだいに広がり、強く激しい
「こりゃあなんだ、その、あれだ」と漁師の一人が云った、「まるで業病かかさ持ちの女を嫁に取るみてえなもんだ、こっちはちっともいいおもいをしねえで、血の腐った子や孫ができる、そんなものはおめえまっぴらだ」
「かさ持ちってなんだ」と脇で聞いていた
「寝ちまいな」と和助が
「とけえ(都会?)のやつらがてめえでひり出した物あてめえで始末をするがいいだ」と中年の船頭が云った、「やつらのひり出した物をおんだらが押っつけられる義理はねえ、おらたちだって自分の始末は自分でつけてるだ、なせ」
「そのけえしゃ(会社?)のやつらあせんであぎ(千代萩?[#「千代萩?」はママ])のさけえごぜんみてえなもんだ」五十年配の船頭が、「なあ」と倉なあこに云った、「県の許可あ取ったなんてえらそうな
「ちゃん」と長がまた訊いた、「せんまつってなんだ」
「寝ちまえってえにな」と和助が云った、「そんなこたあ子供の聞くもんじゃあねえだ」
「そりゃあげでえ(外題?)ちげえだ」とやはり五十がらみの漁師が云った、「毒饅頭をくわされたなあ加藤清正だべえ、ありゃあおめえ徳川方の計略だあ」
「じゃあ」と先の船頭が訊き返した、「せんであぎで千松のくわされたなあなんだ」
「ありゃあ執権の計略だべえ、執権ともなればなんか上等な干菓子なんかだべえさ」
いやそうでない、このまえ歌左衛門の芝居で見たときには
こうした気運がしだいにふくれあがって、やがて、町民大会を開催せよ、という声になり、第一回が「梅の湯」でひらかれた。午後六時からというので、私は五時半ころにでかけていった。浴場の広い流し場へうすべりを敷いたのが聴衆席であり、
定刻まえに、会場は殆んど満員になった。ぎっしり詰った聴衆のあいだを、いつも寄席の「浦粕亭」に出ている中売りの女が、巧みに「えーおせんにラムネ、
六時二十分になって、司会者が演壇へあがった。足場が不安定なので、テーブルの前まで、いかにも危なそうなさぐり足で歩いた。
「へっぴり腰だぞ······」と誰かが呼びかけた、「おっかあを······んじゃあるめえし、しっかり腰を伸ばしてええべや」
高くて広い浴場の空間が、ばかげた
その司会者が誰であったか記憶がない、彼は
全聴衆がそんなふうだったわけではない。もちろんこれが町の死活問題に関する大演説大会だということを、しんけんに考えている者も少なくなかったので、制止の声や、司会者を励ます声も聞えだした。すると突然、聴衆の中から一人の若者が出て、すばやく演壇へとびあがった。年は二十六七だったろう、古びた
会場は静かになり、聴衆の眼はその若者に集まった。
「演説会もくそもねえ」と若者は怒った酔漢のような口ぶりで喚いた、「饒舌るだけで止められるもんじゃねえだ、会社のやつらをぶっ殺せ、おらが佐倉宗五郎になるだ」
とたんに巡査がサーベルを鳴らした。
「弁士中止」と巡査は白い手袋をはめた片手をあげて叫んだ、「演説会は解散」
それがどういうことであるかを、聴衆が理解するにはちょっと暇がかかった。
私はすぐに会場を出たが、そのあと、高品さんの家を訪ねると、やがて集まって来た常連が、大演説大会の話を始め、演壇へとびあがった若者の、勇気と決意を褒めあった。
「おらが佐倉宗五郎になるだって」と秋葉エンジが感動をこめて云った、「あんな大勢のめえでなかなかああは云えねえもんだ、いってえどこのもんだ」
「知んねえな」と三十六号船の留さんが首を振った、「誰も知んねえ顔だってよ、それにしちゃあえれえもんだ」
「おらが佐倉宗五郎になるか」と漁師の源さんが云った、「命を張るってえだからな、ああいう人間がもう五六人もいれば、会社なんぞひねり
「まったくのところ」と源さんは続けて云った、「こんどの問題じゃ、あの男が頼みの綱だぞ」
第二回は浦粕座で、もっと盛大に開催された。聴衆は第一回のときの倍ちかく集まったし、第一回のときよりまじめで、緊張していた。しかし、いよいよ開会が宣せられると、また例の若者が壇上にとびあがった。聴衆は
大演説大会は五回まで開催されたが、議題について演説した者は一人もなかった。それは番たび例の若者がとびだして来て、ぶっそうなアジテーションをとばし、そのまま解散になるからであった。私は第二回のあとは聞きにゆかなかった。というのはその台本の筋はほぼ推察できたし、何度やっても結果は同じだと思ったからである。||その若者は巡査に連れ去られるが、次の大会にはまたあらわれた。そうして、第五回の大会のあとで、主催者側は駐在所から非公式に「こういう過激な演説は時節がら好ましくない」という意味の通告を受け、それを機会にその催しをやめることになった。
若者もそれっきり姿を見せなくなったし、どこの誰ともついに判明しなかった。「おらが佐倉宗五郎だってよ」と住民たちは思いだすたびに感嘆しあっていた、「ああいう命知らずの骨っぽい人間が、もう五六人いてくれたらなあよ、ふんとに、あんなえれえやつはそうざらにはいねえもんだぞ」
汚物処理場がどうなったか、私は覚えていない。
秋の夜の九時ころ、船宿「千本」の店先に縁台が三つ出してあり、船頭や漁師たちが、涼みながら話したり、酒を飲んだり、将棋をさしたりしていた。||月のいい晩で、空にはほんの僅かな千切れ雲しかなく、根戸川の水面も明るかったし、対岸のいかずちの家並みも、一軒ずつはっきり見わけられるほど明るかった。現に二人の若い船頭が将棋をさしているが、そこは店の外で、電燈の光などは届かないのに、駒を動かすのに少しも不自由はなかった。||三つの縁台に十二三人いたであろうか、一時間ほどまえまでは子供たちも混っていたし、人数も多かったが、しだいに人が減ってゆき、道の往来も殆んどなくなっていた。
河岸には通船が三
「酒をもう一升」と少年は「千本」の店へはいってどなった、「野口エンジに付けといてな」
店の奥から二女のおすみが出て来た。
「あら銀ちゃん」とおすみが云った、「おめえまだ船にいたのか」
「野口エンジに一升」と少年は云った、「
店先の縁台から、よういろ男、と少年に呼びかける者があった。
「銀公か」と将棋を見ていた船頭の一人が云った、「三角のお吉はどうした、もうものにしちゃったか」
「昨日だっけ」と端の縁台で酒を飲んでいた中年の蒸気乗りが云った、「安田屋のおつゆがまた草履を呉れたってえじゃねえか、年もいかねえくせにてえした腕だな」
少年は振り向きもせず、口もきかなかった。その顔には誇らしい自尊心と、おとなたちに対する軽侮と優越感とが、少年らしいなまなましさであらわれていた。||店は電燈を一つ残して、あとは消してあったから、広い
「はいお酒」とおすみは云った、「この中にすずめ焼としぐれ煮がはいってるよ」
少年はその二つを受取って店を出た。
「よういろ男」と初めに呼びかけた男が云った、「今夜は三十二号で逢曳きか」
だが少年は黙って道を横切ってゆき、草履をぬいで
彼は三十二号船の見習い水夫であった。年は十七歳、みんなは彼を「銀公」と呼んでいる。銀次というのか銀太というのか、あるいは銀造とでもいうのか、苗字も正しい名もわからない。この土地では一般にそういうことに興味をもつ者はいないようだ。もちろん、所属の船会社の名簿には記載してあるだろうし、ことによれば町役場の戸籍簿にも記録されているかもしれない、だが、日常生活ではそんなことはどっちでもよかった。||三十二号船の「銀」といえば、徳行でも浦粕でも誰より娘たちにもてる若者、として知らない者はなかった。徳行や浦粕だけではない、通船の航路にあるすべての発着所と、その
たとえばこうだ。||三十二号船がAの発着所へ近づくとき、彼はそこに待っている娘の贈った草履をはいていて、極めてさりげなく、その草履をはいていることを相手に認めさせる。そして船がBの発着所へ着くときには、ちゃんとBで待っている娘に贈られた草履をはいて、その事実を相手の印象にしっかりと焼き付ける。これがCからD、DからE、Eから||と順を追って、正確に、決してAとCやEとFとを誤ることなしに繰返されるのであった。||これは一種の天才だと云ってもいいだろう、十五六足もある草履の、鼻緒の色によって贈りぬしを弁別するばかりでなく、いそがしい見習い水夫の甲板勤務に追われながら、間違いなく草履の「はき替え」をやってのける、などということは、天才なしにはとうていできがたいことなのだ。なぜなら、こういう類いの問題について後年、筆者みずから銀公の才能がいかに非凡であったか、ということを身にしみて感じた経験があるからである。
浦粕でも、彼に熱をあげている女性が幾人かいた。高品さんの女中のとみちゃんもその一人であった。繰返すようだが、高品家は東湾汽船の大株主であり、高品さんの蒸気河岸の住居では、発着所を経営していた。これは夫妻のあいだに子供がなく、高品さんは東京の新聞社へ通勤しているため、きん夫人はとかく暇をもてあますので、その暇つぶしにやっていたものだと思うが、||切符売場は住居とべつで、発着所の桟橋と道を隔てたところに建ってい、ほんの二坪足らずの小屋であるが、奥に畳が二帖敷いてあった。||とみちゃんは二十二か三だったと思う、骨太で、がっちり肥えていて、
そのうちにとみちゃんは、住居の用事が終ってから、切符売場へ泊るようになった。朝の一番は五時に出るので、売場に泊っていれば客をのがさずに済む。一番船は葛西汽船からも出るし、切符売場が時間どおりにあかなければ、客は葛西汽船のほうへいってしまうからであった。||いいだろう、とみちゃんの主張は、彼女の主家おもいを証明するものと受取られた。彼女は小屋へ夜具を運び込み、たいてい夜の十時には、住居のほうの用を片づけて、そちらへでかけていった。こうして日が経ち、やがて、高品夫人はおどろくべき場面を目撃するはめにたち到った。というのは、或る夜半、なにかのことで、どうしてもとみちゃんに訊かなければわからないことができた。夜半といっても十二時ころで、高品さんの家はいつも夜更しをするから、さしておそすぎるとも思わず、夫人は気軽に小屋へ訪ねていった。||すると、小屋の戸口へいったとき、その中から異様な
||そうしたら、おどろくじゃないの。
この話をしていた夫人は、しんじつ驚いたというように、眼をみはってみせたものだ。銀公に二度めに注意されると、とみちゃんの躯の律動はようやくにしてしずまった。そうして、とみちゃんはその恰好のままで、首だけ夫人のほうへゆっくりと振り向き、
||なんですか、おかみさん。
明くる日、高品夫人はとみちゃんを呼んで話を聞いた。とみちゃんは銀公と夫婦約束をしたと答え、だからなにをしようと誰に文句を云われる筋もない、とい直るような態度をみせた。夫人は銀公とどう約束ができたにしろ、相手が十七の少年であり、ほかにも娘たちが付けまわしていること。また、結婚するにしても、いま妊娠したりしては困るだろうことなど、いろいろと忠告したが、とみちゃんははっきり、自分のことは自分でよく考えているからと答えたそうであった。||ここで読者のために記しておくが、のちにとみちゃんはやはり妊娠してしまい、銀公もよりつかなくなったので、早いところ実家へ帰ってしまった。実家がどこであったか私のノートには書いてない、たぶん茨城県のどこかだったと思うが。帰るとすぐに、同じ土地で嫁にいった、というハガキが、高品夫人に届いた。
||あたしなんかがよけえなこと云う必要はなかったのね、と高品夫人はそのハガキを私に見せながら云った。あのこはちゃんと自分のことは自分で考えていたんだわ。
さて、||船宿「千本」の店先では、三つの縁台の人たちが、飲んだり饒舌ったり、将棋をさしたりしていた。銀公が酒と佃煮を取りに来たことも、彼がそれらを持って三十二号船へ戻っていったことも、もう誰の頭にも残ってはいなかった。しかしそのとき、こちらの人たちの気づかないところで、一つの事件が進行していたのである。縁台の人たちはぜんぜんなにも気づかなかった、将棋に負けた若い船頭の一人が、駒を投げだして大きな欠伸をし、「おらも一杯やんべえかな」と云った。そのすぐあとに、つまり若い船頭が一杯やるかなと云って立ちあがったとき、突然その騒ぎが起こったのである。
「逃げるな」という叫びで、その騒ぎは始まった、「逃げてもだめだぞ、顔はわかってるぞ」
縁台の人たちは総立ちになった。
その叫び声は三十二号船から聞えて来た。いってみると、船の
「手入れだ」と漁師の一人が云った、「
月光の下で、黒い人影はすばやく走りまわっていた。さっきの水音は誰かが川へとびこんだのであろう、一人はもやってあるべか舟へとび移り、
「こら戻れ」と三十二号船の舳先のところで、一人の男(それは私服の警官だった)が叫んでいた、「逃げてもだめだ、戻って来い」
べか舟の男は振り返って相手を見、べか舟が少しも動いていないこと、そして、それがまだもやったままであることに気づくと、おそまきながら、櫂を持ったまま川の中へとびこんでしまった。
船室のまわりのあゆみでは、三四人の人影が入り乱れてい、一人が船室の屋根の上へとびあがり、そのあとから私服の一人がとびあがった。あゆみを逃げまわっていた二人の内の一人は、艫のほうから川へとびこみ、一人は並べてもやってあるべか舟へとび移り、それから次つぎと、舟から舟へとび移って、見えなくなった。これらのことは、時間にしてほぼ六七分、多くても十分はかからなかったであろう。捕えようとする者も、逃げようとする者も、極度に緊張しているため動作がぎごちなく、見ているほうで歯の根がうずくほどまがぬけて、鈍重にみえた。たとえば追っている私服が、相手のシャツの背中を
「しだらもねえ」と岸で見ていた人たちの中から誰かが云った、「みんな逃がしちまったじゃねえかえっ、まぬけな手入れがあったもんだ」
そのとき船室の中で「きー」というするどい悲鳴が起こり、続いて、あらゆる物音が墜落的にしずまった。やかましく鳴っていたラジオのスイッチを急に切りでもしたように、物音や人声がぴたっと止り、船の上も岸の人たちもしんとなった。
「痛えよう」という泣き声が船室の中から聞えた、「おっかあ、痛えよう」
「銀公だ」と岸にいる人たちの中で船頭の一人が
みんな息をころし、期待の眼をそばめて船のほうを注視した。まもなく、三人の私服が銀公の腕を取って船室からあらわれた。
銀公は両手で頭を押え、前後を私服に
「十手だ」と誰かが囁いた、「見せえま、芝居で使う十手だぞ」
「おっかあー」と銀公は叫んでいた、「おら死んじまうよう、痛えよう」
二人の私服に挾まれて、彼が渡り板を渡るとき、川の上へ水でもこぼすような音がぼしょぼしょと聞えた。それがなんの音だか、岸にいる者にはわからなかったが、岸へあがって来た銀公を見るなり、一人が
「こりゃあひでえ」と他の一人が云った、「ひでえことをするなあ、見せえま、あの血」
集まっていた人たちのあいだに、憤激の火が燃えあがった。それはそこにいる者ぜんぶの感情を一つに固め、一団の火となって「官権」に
「銀、おめえなにをしただ」と船頭の一人が呼びかけた、「いってえなにをしてこんなひでえめにあっただ、えっ」
「おらなんにもしねえ」と銀公はかなきり声で叫んだ、「おらただ番をしてただけだ、おらなんにもしねえ、おら抵抗もしなかっただ」
「そうだ」と誰かが喚いた、「おんだらもここで見ていた、銀公は抵抗しなかった、ここにいるみんなが証人だぞ」
「おら抵抗しなかっただ」と少年は自分に対する声援に力を得て、声と身ぶりにたっぷりと効果を加えながら叫んだ、「||おらなんにも抵抗しなかった、おら死んじまうよう、おっかあ、痛えよ痛えよう」
「歩け」と私服の一人が少年を小突いた、「おとなしくしろ」
「おら死んじまうよーっ」
「旦那方」と千本の[#「千本の」はママ]あるじの和助が前へ出て来た、「おめえさん方あその子供をそのまま連行するつもりかえ」
私服たちは振り返った。
「その血をみせえま」と和助は続けた、「そのまま連行すれば、出血多量で途中で死んじまあだぜ」
「そうだ、死んじまあだ」とみんなが口ぐちに喚いた、「一町といかねえうちにおっ
私服たちは立停った。三人ともすっかりあがっていて、むしろ
「おらの店へ伴れて来せえま」と和助が云った、「ちょっと手当をして、血だけでも止めてっからいくがいいだ、さあ銀、来な」
和助は銀公の腕を取って、店のほうへ伴れていった。そこにいる人たちもいっしょについてゆき、三人の私服はなにか囁きあっていたが、一人を残して、他の二人は誰にも気づかれないように、小さくなって、堀のほうへ去っていった。
銀公は縁台に腰を掛け、傷の手当をしてもらいながら、なお派手な声で叫び、泣き、訴え続けていた。
「しっかりしろ銀」と若い船頭の一人が、銀公の演技に調子を合わせて云った、「しょうばいにんが
「おら博奕なんかしやしなかった」
「そうだ、いしゃ博奕はしなかった」
「おら抵抗もしなかった」
「そうだ、みんなが証人だ」とその船頭は続けた、「いしゃ博奕もしねえし抵抗もしなかった、だからいばって出るとけへ出ろ、こんな小さな子供にこんなけがをさせて、どっちに罪があるかはっきり裁判をしてもらえ」
「みんなに逃げられたいしばらしだろ」と誰かが云った、「こんなひでえ話はおら聞いたこともねえ」
私服は
「さあよし」と和助が云った、「あとは医者にやってもらうんだ、しっかりしろよ銀」
「おらもうだめだ」と銀公は呻き、且つ泣いた、「死ぬめえにおっかあに会いてえよう」
「よしおっかあに知らしてやるぞ」と漁師の一人が云った、「おらがすぐに突っ走ってって、おっかあを駐在所へ伴れてくからな、おっかあの顔を見るまでは死ぬんじゃねえぞ」
そしてその漁師は「突っ走って」いった。
銀公の演技を中心としたこの一と幕の芝居は、少なからずあくどいものであった。それは若いその私服警官にもわかったに違いない。けれども自分のゆきすぎた行動のために、芝居とわかっていながら、彼もまたそれに同調することを拒むわけにはいかないようであった。
「いいか」と私服は銀公の顔を
眼がちらくらして立てねえ、と銀公が答え、すると若い船頭の一人が、おらがおぶってやらあ、と背中を向けて
「あのおまわりは成績をあげたかっただよ」と和助が薬箱や包帯やガーゼなどを片づけながら云った、「根戸川亭(洋食屋ではなく堀東にある寄席)のおはまあねに
「その縁談はきまったんじゃねえか」と倉なあこが
「そうかもしれねえが、今夜のしくじりで危なくなっただな」と和助が云った、「||あんまり
「銀の野郎もまた」と云って倉なあこはくすっと笑った、「いい気になりゃがってさ」
倉なあこは縁台から立ちあがって、大きな欠伸をし、和助といっしょに店の中へはいっていった。
或る日、||私は船宿「千本」の長を伴れて、浅草へ映画を見にいった。たぶん大勝館だったろう、やっていたのは猛獣狩り映画で、たしか「ザンバ」という題だったと思う。思い違いかもしれないのではっきりは云いきれないが、アメリカだかイギリスだかの夫婦の探検家が、アフリカの奥地で猛獣狩りをする、という筋だったことは覚えている。
この小学三年生の、こまっちゃくれの長は、映画が始まると同時に120%まで
あらゆる画面で、彼は猛獣どもに呼びかけ、探検家夫妻に注意を与えた。
「ライオンだライオンだ」と長は喚く、「見せえま、先生、生きてるライオンだぞ」
周囲の観客はびっくりして彼を見る。ライオンは仕掛けた
「やい危ねえぞ」と長はライオンに呼びかける、「そっちいいくと
ライオンは檻の罠にはいり、仕掛けの戸がばたっと落ちる。彼は拳を口へ入れ、ふるえながら眼を裂けるほど大きくみひらく。そして拳を口から出して、「ばかやつら」と、泣きそうな声で呟く、「ライオンのばかやつら」
画面の前景ににしき蛇が写る。ジャングルのなにかの樹に
「こっちへ来るな、危ねえぞ」と長は探検家夫妻に向って警告の叫びをあげる、「ここにでえじゃ(大蛇)がいるぞ、あっちいいけ」
だが探検家夫妻はおろかにも、長の警告には耳も貸さず、のそのそこっちへやって来る。
「ええばかやつら」長は両の拳で力いっぱい自分の頭を挾み、がたがたふるえながら絶叫する、「でえじゃがいるのも知らねえだ、ええばかやつら、呑まれちゃうだ、二人とも呑まれちゃうだ、ええばかやつら、いいきびだ、二人とも呑まれちゃうだ」
にしき蛇はさっとアタックをかけ、先頭にいた探検家の
「みんなばかやつらだ」長は猛烈に憤慨して云った、「虎も
映画館を出てから、私は彼を洋食屋へ伴れていった。彼の憤慨は少しもしずまらず、そこのトンカツにもカレーライスにもけちをつけ、「浦粕の四丁目(洋食屋)のほうがずっとうめえや」と云った。私は一本のビールを
「あのにしき蛇のところを考えてみろよ」と私は云った、「あの蛇が樹の枝にからまっていたろう、いいか、その向うから探検家が来るだろう、このフォークが探検家とする、な、蛇がこのナイフだ、とするとカメラはこっちにあるこのマッチさ」
「カメラってなんだ」
「活動写真を撮影する機械さ、うう」と私は考えて云った、ここでムービー・カメラの説明をすると話がこんがらかるからである。「機械があって、そのまわりには撮影技師だの助手だの、たぶん猛獣使いだのもいるんだ、あ、あ」と私は長の質問を止めた、「だから、蛇が樹にからまってるところは、こっちの連中、つまりカメラのまわりにいる連中にはちゃんとわかっているんだ」
「どうしてわかってるだ」
「だってこのフォークとナイフのこっちにマッチがあるだろ、そしてマッチのところから撮影した画面に、手前のナイフ、いや、にしき蛇とその向うのフォーク、つまり探検家が写ってた、そうだろう、とすればマッチのところから蛇は眼の前にいることになるじゃないか、つまり撮影技師や助手やたぶん猛獣使いなんかには、ちゃんとそこに蛇のいることがわかっているんだ」
「うん」長は少し考えてから訊き返した、「じゃあ、どうしてそいつらはあの毛唐に教えてやらねえんかい」
「教える必要はないさ、探検家のほうでもそこに蛇のいることは知ってるんだ」
「知っててどうして
「それはだな」と私はうまく説明しようと思った、「つまり、面白く見せるために、初めからそうするようにちゃんと相談ができているんだ」
「誰が面白がるんだえ」
「見物さ」と私は云った、「長だって面白かったろう」
「誰が、おんだらがかい、ちぇっ」と長は鼻柱へ
私は浦粕へ帰るあいだ、なんの理由もないのだが、小説の表現技術について、あれこれと考えめぐらしたことを覚えている。||町へ帰ってから、長はみんなに「ザンバ」の話をして聞かせたが、それはその映画の製作者や提供会社の人たちが、
おすずは船宿「野口」の娘で、年は十七歳だった。両親と姉が二人、弟三人の家族であるが、きょうだいがそれぞれ父か母か、または祖父か祖母に似ているのに、おすずだけは誰にも似ていなかった。ここに桃を八つ並べたとすると、その中の一つが
「ふん、野口のすずあまが」
貝を掘るための竹籠を作る「籠屋」のおたまが、或るとき私に向って云った。おたまも小学三年生であり、「千本」の長とは違った立場で、私にいろいろな情報を提供してくれていた。
||綿屋のおつゆちゃんは十二でちょぼちょぼと生えた。
||仁作んとこのおっかあは二十三号船の平井エンジとできちゃって、毎晩どっかへ二人でつるみにゆくだ。
||だいき(人名)のじいさまは毎晩ばあさまに手を合わせてあやまるだってよ、とても続かねえからってよ、ふん。
主としてそんな類いの情報であった。
「ふん、野口のすずあまが」とおたまは
「嘘じゃねえってば先生」とおたまは念を押すように云った、「だからみんなはすずあまのこと****(注・小題参照)って云ってるだよ」
私が増さんと初めて会ったのは、堀南にあるてんぷら屋「天鉄」の店であった。私は僅かな稿料がはいると、よく天鉄へいってめしを喰べた。てんぷら一人前で酒を一本ゆっくりと飲み、そのあと、その日の特にいいたねを二つか三つくらい揚げてもらってめしを喰べる。そのころ私はまだ酒に弱かったので、よほどのことがなければ二合飲むようなことはなかったし、一合を飲むのにも一時間くらいかかったろう。必ず本を持っていって、冬ならば小さな瀬戸火鉢を抱え、夏なら
店は昔ふうで、土間に
増さんは年のころ五十くらいで、背丈が低く、ひどいがに
ここでちょっと記しておくが、数年まえ、或る出版記念会のあとで、林房雄がこの「くるま蝦の頭だけ」のてんぷらを食わせてくれたことがあった。彼が自分で思いつき、銀座裏の某てんぷら屋に命じて作らせたのだそうで、それは豊富なカルシウムを含む極めて美味な食品であると、自分の着眼の独創的な点を大いに誇っていた。
||これを世間では捨てているんだ、と林房雄は繰返し強調した。こういうすばらしい物をさ、と林房雄は自分では
私は一つだけやってみたが、どれほどそれがカルシウムに富んでいるにせよ、とうていのみこめる代物ではないと知り、すばやくナフキンに吐き出して卓子の下へ捨て、「世間の人たちがみんな捨ててしまう」のは当然の理であり、林房雄は逆説を
右のように、林房雄は自分の独創性を誇っていたが、それより二十数年以前、すでに増さんという先覚者のあったことを私は知っているのである。私は吐き出したが、増さんはうまそうに、頭だの骨だの尻尾だの、一つ一つ丹念に噛み味わいながら、私以上にゆっくりと時間をかけて、燗をした水割り焼酎を啜るのであった。
その次には路上で会った。堀東のところで私がスケッチをしていると、一人の男が背中に初老の女をおぶって歩いて来、背中の女と、なにやらなごやかに話しながら、中堀橋を渡って去っていった。この土地でそんなところをみつけると、人は決して黙っていない。おとなはまあともかくとして、悪童どものからかいの好餌になることは疑う余地がなかった。だが、そこには
「ああ、そりゃあ増さんてえだ」
蒸気河岸の「根戸川亭」で、平二郎という老人の漁師が私に云った。平二郎は息子の嫁と寝るといわれ、そのはらいせに息子と平二郎の妻(後添いで息子には義母に当ると聞いた)が寝るという噂のある老人で、べらぼうに酒が強く、口もまた達者であった。
「背負ってるのはおっかあでね」と平二郎は云った、「ああやって背負っていって、着物をぬがして、躯をすっかり洗ってやって、きれいに拭いて、それから着物を着せて、うちまで背負ってけえるだよ」
私が質問すると、平二郎は大きな眼をそろそろとすぼめ、ふしぎなことを訊く人間がいるものだ、とでも云いたげな顔つきで私を見た。
「なんでだね」と平二郎は訊き返した、「||若えもんならともかく、あんなとしよりが女湯へへえったって別条なかんべえがえ、おらだって用があればいつだってへえるだ、女どもだってそんなこと
そして、増さんはおっかあのことを決して他人に任せない。おっかあのどんな親しい者がいて、たまにはあたしが洗ってやろうと云っても、増さんはきっぱりと断わり、おっかあの躯の隅ずみまで入念に自分の手で洗ってやるのだ、と平二郎は云った。
私は高品さんの炉端でも、増さんの話をもちだしてみた。高品さんのところではあまり収穫はなく、「昔は村一番の鼻つまみだった」とか、「
増さんはごく若いときから乱暴者で、信じられないほど力が強かった。十七歳のとき米俵を左右の手に一俵ずつ持ったままで、中堀から蒸気河岸まで、息もつかずに走りとおしたそうである。性分は短気で飽きっぽく、酒を飲むと
短気で飽きっぽい彼は、次つぎと仕事を変えながら、どんな仕事も一年とは続かず、一年か二年おきくらいに、家をとびだすようになった。どこでなにをしていたのかわからないが、徴兵検査のときも所在不明で、憲兵隊とのあいだにいろいろ面倒なことがあった。一年おくれて検査を受けたとき、背丈が規定の寸法に足りないため兵役をまぬかれたが、徴兵官はくち惜しさのあまり
増さんは二十三の年に結婚した。相手は貝の罐詰工場で働いていた娘で、名はきみの、年は十八歳であった。東北の生れであるが、両親に死なれたので、浦粕にいる遠い親類が引取ったのだという。その親類は漁師をしていて、子供が八人もいたため、きみのも十二の年から働かなければならなかったし、また家族の人たちにもあまり好遇されず、増さんとの結婚も本人は知らなかった。増さんが一円紙幣を五枚見せたら、これからすぐにでも伴れていってくれ、と云ったそうである。
「あのおっかあはそれを聞くと肝うつぶしてとびだしちまっただ」と平二郎は云った、「なにしろおめえさん、村一番の乱暴者で鼻っつまみだったからねえ、||みんなはきっと死ぬ気だべえって、えれえ騒ぎをしたもんだよ」
きみのはどこかの警察に捉まって保護され、増さんがいって引取って来た。
二人の結婚生活はごく平凡にすぎていった。結婚してからもきみのは大蝶の工場へかよっていたし、増さんもなんとなく大蝶へ出入りをして、雑役のようなことをしたり、旦那が猟にいくときは供もした。平凡な結婚生活は三年ほど続いた。むろんそのあいだにも、増さんの行状は変らなかった。酒を飲むと暴れるし、誰かと口論をしたり、殴りあいをしたりしない日はなかった。或るとき大蝶の工場のほうの支配人が、おまえのようなやつはもうくびだ、と怒った。増さんは鼻の先で笑った。
「冗談を云いなさんなって、増さんはえへら笑いをしたってえだ」と平二郎は云った、「おらあ好きで大蝶の仕事に来ているんで、雇われてるわけじゃあねえ、雇われてもいねえ者をくびにできるかってよ」
そこで支配人は旦那にそのことを告げた、すると旦那は、あいつはおれの命の恩人だから好きなようにさせておけ、と云った。命の恩人とはどういうわけなのか、旦那はその理由を云わなかったが、支配人はひきさがるよりしかたがなかった。そんなことのあった前後から、増さんの女房いじめが始まった。結婚の話が出たとき、どうして逃げたのか、というのが手をあげるきっかけであった。ほかに男がいたのだろう、正直に云ってしまえ。そう喚きながら殴ったり
「おら隣りにいただよ」と平二郎は云った、「いまでも隣りだが、そのじぶんも隣りにいたからよく知ってるだ、幾たびか止めにいったこともあった、なにしろ殴ったり蹴ったりする音が筒抜けに聞えるだからね」
だが平二郎は止めにゆくことをよした。止めにゆくと
そのころからまた、増さんの出奔癖もぶり返した。なにも云わずにひょいといなくなったまま、ときには半年、ときには二年くらいも帰っても来ず、手紙もよこさないのである。帰って来るのもまったく突然であった。まるで朝でかけた者が夕方に帰って来た、といったようすで、家へはいるなり、(きみのがいれば)「めし」とか、「酒」とか云う。きみのが工場に出ているときだと、山崎屋という酒屋で立ち飲みをしていて、きみのに、「銭を持って来い」と使いを出すというぐあいであった。
夫婦には子供がなかった。増さんが道楽のあげく悪い病気にかかって、そのため子が生れないのだといわれたが、きみの自身はそれだけがせめてもの
こういう生活が二十年以上も続いた。そうして増さんが四十五歳の年、||というのは平二郎と同年だからはっきり覚えているのだそうだが、||一年ばかり出奔していた増さんが、帰って来るといきなり、きみのを殴ったり蹴ったりした。帰って来て、家へはいるといきなり始めたのであった。||留守のあいだに男を作った、ちゃんと聞いて来たと云うのが理由で、いちど途中で焼酎を買いにやり、それを飲んでからまた始めた。
「あんまりひでえんでよ、おら聞いていられなかった」と平二郎は云った、「もう夜の十時くれえだったが、おっかあやがきを伴れて外へ出ちまっただ、うちのおっかあは駐在へ届けべえって云っただよ、そんなことをしてみろ、あとが恐ろしいだぞって云って、おらたちは蒸気河岸までいって一時間くれえもぶらぶらしてえただ」
かれらが家へ帰ってみると、隣りの騒ぎはもうしずまっていた。平二郎は、増さんがきみのを殺してしまったのかもしれない、と思ってがたがたと躯がふるえた。ところが、ふしぎなことにその夜かぎり、増さんが別人のように温和しくなった。||きみのは殺されはしなかった。明くる朝そっと、平二郎の家の勝手口へ来て、済まないがお米を少し貸してくれ、と云った。眼のまわりに青痣ができてい、顔ぜんたいが
増さんはまた大蝶へかよい出した。もう若旦那の代になっていて、若旦那といっても年は四十がらみだったが、亡くなった大旦那から聞いていたのだろう、若旦那も鉄砲射ちが好きで、その季節になって猟にでかけるとき、増さんにお供を命じたが、増さんはそのたびに断わり、どうしてもいっしょにはゆかなかった。それについて増さんは一度だけ「大旦那のときに大きなしくじりをやらかしたから」ともらしたそうである。かつて大旦那は増さんのことを「命の恩人」と云った。増さんが「大きなしくじり」と云ったのはそのときのことをさすらしい。二つの言葉はまるで反対だし、実際になにがあったかはわからずじまいだったが、若旦那もしいて供をさせようとはしなかった。
相変らず酒は飲むけれども、増さんは決して酒乱にはならなかったし、喧嘩などもしなかった。大蝶の工場で雑役のようなことをやっているうちに、大蝶の若旦那の口ききで、漁業組合へ勤めるようになった。||もちろん妻に乱暴するなどということはない。きみのは完全な
「人間があんなに変れるものかどうか、おらもう自分がばかにでもなったようにたまげけえったもんだ」と平二郎は云った、「||それでな、或るときおら増さんに訊いてみただよ、おめえもずいぶん変ったもんだ、まるで増さんじゃねえみてえだぜってよ」
「すると増さんはえへら笑いをして、こう云っただよ」平二郎は続けた、「||東の養魚場の旦那んとこで鶏を五十羽も飼ったことがあった、そのとき旦那が
平二郎老人の話は以上のようなものであった。
私は「天鉄」で増さんを見かけるたびに、だんだんと親しい気分になり、ちょっとふところに余裕があると、ビール一本とか、酒一本ぐらいを
「つまらねえ、あんなことっくれえなんでもねえだよ」と増さんは云った、「このおらがおっかあにしたことに比べれば、あんなことっくれえ
「先生は知るめえがね」と増さんは続けて云った、「おっかあを跛にしたなこのおらだ、おらがこの手でやったこった、||この手でおっかあの髪の毛をつかんで、うちの中じゅう
私は黙って聞いていながら、それはたぶん平二郎が妻子を伴れて、蒸気河岸へ逃げだしたというあの晩のことだなと思った。
「おら骨を折ったとは知らなかっただ」と増さんは続けていた、「ただ、おっかあのやつが妙な声をだしたんで、ひょいと手を引いた、するとおっかあが倒れたまま、おらのことをじっと見あげながら云っただ、||どうか殺さねえでくれ、ってよ」
増さんは恥ずかしそうに眼をしばしばさせ、右手で、銀色の無精髭の伸びた顎を
「どうか殺さないでおくれって」と増さんは少しまをおいて云った、「おらを見た眼つきと、そう云うのを聞いたとき、おらそれまでに自分のしてきたことを、洗いざらい一遍に見せられたような気がしただ、なんもかんも一遍によ、||まさか嘘かと思うかもしれねえが、おらそんとき男泣きに泣いちまっただよ、がきみてえになあよ」
私は嘘だなどとは思わなかった。嘘どころではない、私には増さんを見あげた妻女の眼つきや、その哀訴の声が、現実に聞えるように思えたくらいであった。私のふところにそう余裕はなかったが、増さんにもう一本酒を奢らずにはいられなかった。
私は青べかを三つ

本を読み始めはしたが、いくらも読み進まないうちに眠くなり、陽の光を除けるために、ちょっと顔へ本を伏せたと思ったが、そのまま眠ってしまったらしい。どのくらい経ってからだろう、眼をさますと、すぐ近くで人の話す声が聞えた。私は起き直って本を閉じ、
「よう、いいじゃねえかよ、なあ」と若わかしい男の声がなにかをせがんでいた、「なあってば、なんでもありゃしねえだからよう」
「よしな、まあ」と女の拒む声がした、「おらそんなこと知らねえもの、ええ、よせってばあ、悪いことすんならおらけえるだ」
「とくあねが病気になっただって」と男の声が云った、「きんのけえって来たってほんとかよ」
「おら知んね、ああ知ってる」女の声は少しやわらいだ、「流産してっからあんべえが悪いだって、
「なにがよ」
「女がよ、お産だの流産だのって、苦しいめにあうのはいつも女だ、ひん」
「女だって苦しむだけじゃねえだよ」と男が云った、「そうじゃねえだよ」どうやら彼には反論がみつからないとみえ、また話を変えた、「中堀のみよっこが足を
「知ってなくってさ、みよっこは、||よしな、まあ、いけ好かねえ」
「痛えな、そんなことしなくってもいいじゃねえか」
「よわ虫、なにさこんくれえなこと」
「痛えってば」
そこでちょっと声がとだえ、口笛のような妙な声が聞えた。なんの音かはすぐにわかった。
「おめえさっき女ばっかり苦しいめにあうって云ったっけが」と男が云った、「それがわかっていてどうして嫁にゆく女が絶えねえだえ、嫁にゆくめえにだって、男をこしらえる女は数えきれねえくれえいんじゃねえか」
「そりゃあみんな男が悪いからさ、男がうめえこと云って
「りょうは新しいべか舟を買っただな」と男が云った、「元のべか舟はじいさまの代からのもんで、浦粕一のぶっくれ舟だっけだが」
男は次に散髪屋で湯沸し器を買ったことや、消防組の組員の変ったことや、どこそこの誰かがどこそこへいったとか、その場の空気とはまったく無縁な話を、続けさまにきりもなく並べた。そうして、女が聞きくたびれたと思われるころ、また急に恋のくどきに戻った。
「女が騙されるって云うけれど、そりゃあ男が騙すんじゃねえ、女が騙されるようにできてんからだべえ」
「女がどうできてるって」
「女の躯にゃあ男と違ったきけえがあんだ」と男が云った、「どんなきけえだっていつも使ってるか、油あさして掃除をしなけりゃあ
「だから錆びねえように騙されるっていうのけえ、ひん」と女が云い返した、こんども間違いなく「ひん」と聞え、女はさらに続けた、「錆びねえようにまちょうに掃除のできるきけえを持ってる男がいたらおめにかかりてえよ」
恋の囁きにしてはあまりに率直すぎると読者の中には疑惑をいだく向きもあろうかと思うが、彼女が率直すぎることよりも、むしろ浦粕ではこんなに根気よく、恋のさそいかけをすることのほうが
「ためしてみっか」と男が云った、「まちょうに掃除ができねえかできっか、ためしてみねえじゃわかりゃしねえや」
「よせってばな、まあ」
「痛え、おお痛え、ひどえことすんな、ま」
「いやなことすっからよ」
「いしゃ爪が生えてんな」と男が云った、「よしこは小指の爪をいつも伸ばしてんだな、こんなにも長くよ、どういうつもりだかさ」
それから伝なあこが蛇を食ったとか、東の養魚場で池の上いちめんに網を掛け、それは
「ああ聞きたくもねえ」と女がやがて
「そんだっていしがおらの云うこときいてくんねえじゃねえかい」
「それでそうやって
「おら、この気持を知ってもらいたかっただよ、おらの本当の気持をよ」
「散髪屋の湯沸しだの養魚池の網だのでけえ、あああ」と女が云った、「おらけえるべえ」
男が慌てて女を呼び止めたが、女は返辞もしずに土堤へあがって来、そのままさっさと根戸川のほうへ歩み去った。||私が川やなぎの蔭から見ると、それはまだへこ帯をしめている、十五か十六くらいの少女であった。男はもそもそと、少女のあとを不決断に追っていったが、その男は二十五か六で、罐詰工場の工員のように感じられた。||彼はおそらくよその生れであって、この土地での恋のやりかたを知らなかったのであろう。それとも気が弱いだけだったのか。いずれにせよ、少女が怒って帰ったのは、男があいびきの目的に対して勇敢でなかったからに相違ない。私はそんなことを考えながら、帰り支度にかかった。
私が晩めしのあと、独りで酒を啜っていると、窓の障子を外からあけて「喜世川」の栄子が覗いた。
「障子に先生の影が映ってたのよ」と栄子が云った、「あら景気がいいじゃない、あがらしてもらうよ」
私は隠しそこねた一升壜に向って顔をしかめてみせた。それは高品さんから貰ったものであった。まったく酒の飲めない高品さんが、どこかからなにかの祝いで、一升壜を三本おくられ、二本は炉端の客用にしたが、一本を私に呉れたのであった。私もそのころはまだ初心級で、一度に二合とは飲めないくせに、飲みたくなったときには一合買いをする、という経済状態だったから、一升壜が手許にあるということは、その豊かさと幸福感の心理的効果だけでも計り知れないものがあった。そこへ栄子があらわれたのである。「喜世川」というのは小料理屋で、これは幾たびも記したようにごったくやと呼ばれ、料理や酒よりも、女中たちによる特殊サービスを本業としている店であり、栄子もその一人であったが、典型的な一人というほうがよりわかりやすいと思う。||彼女は表からあがって来ると、小さな安物の
栄子は景気の悪い日が半月も続くことを嘆き、これは世間の男どもに
「あたし心中したことがあるのよ、先生」と栄子は云った、「飲ましてね」
もう何杯も飲んでいるのである。私が質問すると、栄子は湯呑のふちを舐めた。厚いうえに信じがたいほど長い舌であった。
「嘘じゃないよ、松の家のかあさんに
私が答えると栄子は舌打ちをし、下唇を突き出しながら湯呑へ酒を注いだ。
「どっこも不景気なんだね、やんなっちゃう、こんなだといっそまた心中したくなっちゃうわ」と栄子は云った、「岸がんと心中したのもちょうどこんなてえな不景気の続いたときだよ、話しちゃおうか、え、先生」
こういう場合には私は無関心をよそおうことにしている。この種の女性たちはいちように
私は気乗りのしない口ぶりで質問し、栄子は肩をゆさぶった。
「先生もわかりきったこと訊くわね、このとおりあたいは生きてるよ」と栄子は云った、「飲ましてね」
私は黙って自分の酒を啜った。
「あたいぱあっとしたことが好きなのよ」と栄子は云った、「めしだって鬼の
私はまた冷やかに訊いた。
「ああそのことか、ふふう」と栄子は鼻へぬける妙な笑いかたをした、「わかってるじゃないの、あたいこうしてここに生きてるんだもの、死ぬっくらい心中しちゃったら生きてられやしないでしょ、しっかりしてよ先生」
私はしっかりして、口をつぐんだ。
栄子は話しだした。||その出来事は五年まえの十月だったという。相手の男は岸がんと呼ばれ、華やかな病気専門の売薬で名高い「峰岸屋なにがし」という店の外交員であった。岸がんの「岸」は本舗の峰岸の一字であり、がんちゃんというのが男の名であるが、がんとはどういう字を書くのか、また「がん太郎」であるか「がん造」であるのか、栄子はまったく知らなかった。||あとで私がその点を
「心中するんだからって、名前を知ってなくっちゃならないってもんじゃないでしょ、寄留届をするんじゃなしさ、つまんないとこへ水を差さないでよ」
岸がんとは半年ほどの
岸がんは金使いが上手だった。来るとまずしょうばいを片づけ、堀東のおでん屋で酒を飲み、そこから栄子を呼ぶ。「松の家」は堀南だが、歩いて五分とはかからない。ごったくやの習慣として、よその店から女を呼ぶと一時間なにがしかの
半年あまり経った或る夜、岸がんはじかに「松の家」へあらわれた。あのガスをひるすてきな音も聞えなかったし、着物姿で、素足に古びた
「初めに岸がんの顔を見たとき、あたいははあんて思ったわ、そして死んでくれって云われてまたははあんって思ったのよ」と栄子はそろそろ酔いだした口ぶりで云った、「飲ましてね」
岸がんは店の金を五〇〇も使い込んだのであった。彼には妻もあり子供が三人もいたが、栄子のことが頭にきて、つい知らず店の金に手をつけた。はじめは五か一〇くらいで、それは集金の操作でうまくまじくなったが、一〇が一五となり一八となるうち、ますます栄子に熱があがり、ここが男のみせどころだと、すっかり太っ腹になってしまった。||そうしてついに、その金額が五〇〇という高額に達し、支配人に発見されて返済を迫られた。
||金を返さなければ訴える。
支配人は七十幾歳にもなるのに、まだ頭の毛がまっ黒で青年のようにふさふさしていたし、眉毛も黒く、幅が三ミリもあるかと思われるほど太かったが、その太くて濃い眉毛をぴくぴくさせながら、やさしい声でそう云い渡した。岸がんは駆けずり廻ったが、借りられる額はせいぜい二〇〇で、あとの三〇〇はどうにもひねり出しようがない。支配人は全額を要求するし、できなければ手がうしろへまわる。それでは妻子にも世間にも顔むけがならないうえに、かたときも栄子とはなれては生きられないから、いっそ二人で死ぬ決心をした、と云ったそうである。
「あたいははあんと思ったよ、きたなって思っちゃったよ、ははあんきたなってさ、わかるでしょ先生」と栄子が云った。
私が答えると、栄子は鼻で笑った。
「わかんないかな、あたいの躯だよ」と栄子は動物的に張りきった胸を叩いてみせた、「そんなこと云えばあたいがくしゃっとまいってさ、くらがえしてでも三〇〇ぐらいのお金は
そのときは栄子自身も不景気で、にっちもさっちもいかない状態だった。雑貨屋や銭湯にまで借りが
「たぶん来やしまいと思ったわ、でも念のためだと思って薬だけ拵えておいたのよ」と栄子は云った、「かあさんが頭痛薬のノーポンをのんでたでしょ、それを一服しっけえしちゃって、それにメリケン粉を少し混ぜたの、ノーポンて薬は白くって、ガラスを粉にしたみたいにきらきら光るのよ、それがメリケン粉と混ざったものだから、とっても強い催眠薬みたいに見えたわよ」
私が質問すると、栄子は片方の肩をぴくんと突きあげた。
「そんなことわかりきってるじゃないの、あたいは借りがほうぼうに溜まってるでしょ、だから心中したってことになれば、みんな同情して、そんなようなわけなら貸しは待ってやろう、ってことになるわよ」と栄子は云った、「そうでしょ」
要するに偽装心中をたくらんだのである。栄子は岸がんが来ないかもしれないと思ったが、岸がんは約束どおりやってきた。彼は
「来たのは九時ごろかしら、ずっと不景気が続いたときで、うちには一合の酒もないのよ」と栄子は云った、「岸がんにそ云ったら、今夜は心中する晩だから少し都合して来たって、一円さつを三枚も出したじゃないの、あたいやっぱり大川に水絶えずだなって思っちゃったわ」
彼女は自分が[#「自分が」はママ]酒と肴を買いにいった。一と二〇で酒を一升買い、〇・三〇で干物とうぐいす豆と
「それから二人で飲みだしたんだけれど、これから心中しようっていうばやいでしょ、いくら飲んだって酔やしないわ」栄子はおくびをして続けた、「いろいろ思い出ばなしをしたり、親きょうだいのことや、お互いに運の悪い生れつきのことなんか話しあったでしょ、二人ともすっかり身につまされちゃってさ、しまいには抱きあって泣いちゃったわ」
十一時に店を閉めた。ほかには客が一人もなく、かあさん夫婦も女たちも寝ついた。そこで岸がんが「やろう」と云いだした。十二時過ぎたころで、栄子はもう少しその気分に浸っていたかった。これで心中するのかと思うと、酒の酔いとはまったく違った、なんと云っていいかわからない酔いごこちと、止めようとしても止らない甘い涙とが、そのまま終るにはいかにも残り惜しかったのである。岸がんはさすが男のことで、こんな話をすればするほどみれんな気持が起こる、このへんできまりをつけようと主張し、持って来た催眠薬を出した。そこで栄子も
「それから寝床へ横になって抱きあって、またさんざん泣いたわ」と栄子は云った、「あとは話さなくってもわかるでしょ、心中する人間は死ぬまえに一生分もたのしむって、あれはほんとよ、あたいこむら返りを起こしちゃったわ、先生ったら、飲ましてよ」
いつか眠ってしまったらしい、変な声で眼をさますと、岸がんが苦しんでいた。大の字なりにのびたまま、しきりにげっぷうをしていた。栄子ははっきり眼がさめ、すると恐ろしさと苦しさとではね起きた。
「あたし心中したんだと気がついたら、胸の奥のところが焼けるように苦しいの、岸がんはのびたままげっぷうをしているでしょ、大変だと思ったらあとは夢中で、はだしのまま駐在所へ駆け込んじゃったわ」
私が問いかけると、栄子は
「毒をのめば苦しいにきまってるじゃないの、わからずやだな先生は」と栄子は云った、「それは本当はノーポンとメリケン粉を混ぜただけだけどさ、人間は気持のもんでしょ、人間ってものは気持のもんなの、わかって」
私は自分の酒を啜った。
若い巡査は

岸がんはみつからなかった。死躰は海へ流されたのだろう、数日にわたって海も捜索された。このあいだに、警察電話で連絡し、彼の勤めている薬品商店へ事故を知らせたが、店ではもう解雇したというし、住所をしらべると移転したあとで、移転先は不明だということであった。
栄子は警察で
「ここまではいいんだけどさ、||聞いてるの先生」と栄子が云った。
私は答えて、自分の酒を啜った。
「そんな気のない顔をしないでよ、これからくやしい話になるんだから」と栄子は酒を
話のようすで、私もそんなことではないかと想像していたが、むろん口には出さなかった。
それからまる一年経った或る日、堀東のおでん屋へ一人の男が飲みにはいった。くたびれた背広を着、
「松の家の女ですよ」と男は云った、「ごったくやの松の家の女で、名前は慥かお栄とか栄子とか聞きましたがね、ええ慥か薬の外交員と心中したとかって」
その話を漁師の一人が聞き
「おまえは岸がんじゃあないか」と巡査が訊いた、「ここに証人がいる、嘘を云ってもだめだぞ、どうだ」
「へえ」と岸がんはうなだれた、「私はその岸がんでございます」
岸がんは駐在所へ連行され、栄子も呼び出された。そのとき栄子は「喜世川」へ移っていたが、駐在所へいって、そこに岸がんのいるのを見たときは、肝がつぶれてすぐには口がきけなかった。
「あんた生きてたの」と栄子が云った。
「おまえ生きてたのか」と岸がんが云った。
それから取調べが始まり、岸がんはすぐにかぶとをぬいだ。栄子は岸がんの告白を聞くと、かっと頭へ血がのぼって、岸がんにむしゃぶりつき、平手打ちをくれたり蹴ったり、引っ掻いたり噛みついたりした。止めにはいった巡査にも噛みついたし、駐在所の窓ガラスも一枚砕いたそうであった。
「その巡査までが同類みたいに思えたのよ」と栄子が云った、「先生の前で云っちゃあなんだけどさ、男なんてみんなけだもののろくでなしのぺてん師だよ」
私が訊き返すと、栄子は顔をしかめながら首を振り、大きなおくびを三つもした。
「なにを怒ったかって、訊くまでもないでしょ、岸がんのやつ強い催眠薬だなんて云って、ほんとは重曹をのんだんですってよ、あんまり人をばかにしてるじゃない」栄子はそのときの怒りがまだおさまらないとでもいいたげに呼吸を荒くした、「こっちはおかげでいい笑いものにされちゃったわ、ばかばかしい、
私は笑いをかみころしてまた訊いた。
「そんなこと云えるもんですかよ」と栄子はふきげんに答えた、「こっちは本当に毒をのんだことになってたし、医者の手当まで受けてるんですもの、嘘だったなんて云えば詐欺罪にされるかもしれないじゃないの、現に岸がんのやつは駐在所から分署へ、そして本署までまわされて、何十日かぶたばこへ入れられたうえ、幾らとか罰金を払わされたっていう話よ、人を騙したばちね、いいきみだわ」
酒がすっかりなくなると、栄子はさばさばしたようすで、鼻唄をうたいながら帰っていった。
堀の南の洋食屋「四丁目」で、東浦バス会社の会計主任が、三人の運転手にビールを奢りながら話していた。彼は三十二歳くらいで、名は杉田春といい、周囲の人たちに「春さん」と呼ばれ、誠実さと頭のよさとでたいそう敬愛されていた。細おもてで色が(土地の者にしては)白く、濃い眉毛にもいやみはないし、まっ白で丈夫そうな歯を見せて、笑いながら話す口ぶりは静かで考え深く、自分で納得のいかないことでもすぐには反対しない。よく検討し慥かめてみたあとで「どうも月にゃ兎は
「おらは看護兵だっただ」と春さんはバスの運転手たちに話していた、「おんだらのめえの兵は看護卒と云ってたようだっけだが」
「やっぱりな」と運転手の一人が云った、「頭がよくなくっちゃ看護兵にゃなれねえってえだが、春さんはそのじぶんから違ってただ、なせ」
「そんなこともねえさ」他の二人が同意を表するまえに春さんが云った、「看護兵なんてのは、ふつうの兵として役に立たねえ者がなると云ってもいいくれえだ」
運転手たちは反対した。病気の兵が多くて手のまわらないときなどには、「軍医の代診もする」と云うから、或る程度以上の切れる頭を持っていなければならない筈である、と運転手たちは云った。春さんが会社の会計主任であり、自分たちがビールを奢ってもらっているから、お世辞を云っているのだ、と疑えるような気配はどこにもなかった。かれらは心から春さんを敬愛し、春さんの頭の明敏なことを、むしろ自分たちの誇りにしているようでさえあった。
「こんなことがあったっけだ」春さんはかれらの讃辞から身を除けるように云った、「二年兵になった秋ぐち、三連隊でひどくたちの悪い風邪が
「注射してもだめだかい」
「せえぜえ強心剤を打つくれえだっけだ」と春さんは答えた、「それはまあとにかく」と彼は話を脇へそらせまいとして続けた、「おらがいまでも覚えてることを話すべえ、まあ飲みながら聞いてくれ」
「飲むこたあ忘れねえだよ」と運転手の一人が云った、「
「その病気の兵隊の中に」と春さんは構わずに云った、「島田っていう初年兵がいただ、うちは慥か
「その」といちばん若い運転手が訊いた、「うちが能登か佐渡だとすると、連隊区が違やあしねえかね」
「寄留すればいいだよ、東京で寄留届けをしてあれば寄留地の連隊にへえることもできるだ」と春さんが説明した、「
「そうだ」と他の運転手の一人が云った、「三連隊ってえば名誉連隊だからな」
「その島田ってえ初年兵は」と春さんはいそいでその話題からぬけ出した、「
「まにあっただかい」
「軍医はまにあうまいと云った、おらあ当番だったが、おらもこのようすじゃあまにあうめえと思っただ」と春さんが云った、「それがなんのおめえ、おふくろと妹が着くまっでちゃんと持ちこてえたし、それからも持ちこてえ続けただ」
「すると、治っただな」
「重態のまんまさ」と春さんは云った、「もうだめか、いま死ぬかっていう危篤状態でいて、それがいっかな死なねえだ」
「
「それどころの沙汰じゃねえさ、軍医は投げちまって寄りつきもしねえ、ほかにも患者は大勢あるってえのに、おらあ島田初年兵からはなれることができねえ」春さんは白い歯を見せ、肩をすくめて当惑の気持を示した、「||なぜかってえば、島田はいまにも死にそうな重態が続いているから、ときどき強心剤の注射をしなけりゃあなんねえし、息を引取るときに隊の者が付いていなかったとなれば、軍の責任問題になる勘定だべえさ、なせ」
「そうだな」三人の中では
「それでもおらあまだいいほうだった」と春さんは話を引戻した、「おらにゃあ交代ってものがある、交代になれば休むこともできるが、気の毒なのはそのおふくろさんと妹だった、小さな
「情愛だな」
「情愛だ」と春さんが云った、「おらなんぞ軍務の看護兵だが、とてもあの二人のまねはできなかった、とにかく付きっきりで一睡もしねえし、代る代る病人に話しかけては泣いてるだ、おふくろも妹も眼をすっかり泣き腫らして、いよいよ死ぬらしいと聞くたんびに、二人で島田に抱きすがって泣きひいるだ」
「それでも死なねえか」
「それでも死なねえ」と春さんが云った、「よっぽど心臓が丈夫だったんだべえさ、軍医もこんな
「専門家にゃあ専門家の意見があるだな」
「そんな状態がまる三日続いただ」春さんはまた巧みに話題のそれるのを防いだ、「口で云うと三日だが、実際その場で当事者ともなれば、三日は五日にも十日にも半月にもつくだべさ、そのあいだちっとの隙もねえだ、ひょいとすると死にそうになる、二人が泣いて抱きすがると、いやまだだ、ほっとして助かるかもしれねえと思って、それはそれで嬉し泣きをするてえと、すぐにまたそら危ねえとなるってえあんべえさ」
三人の運転手は黙ってビールを啜った。かれらの顔には、その「依怙地」な心臓に対する反感が、隠しようもなくあらわれていた。
「だが助からねえものは助からねえ、寿命が尽きれば天皇さまのお子さまだって死ぬだ」と春さんは三人の眼をさまさせるようなことを云った、「||まあ三日めの夜の十時ごろだっけか、ちょうどおらが交代になってまもなく、島田初年兵は死んだだ」
三人は春さんを見た。寿命が尽きれば天皇の子さえ死ぬ、というショッキングな指摘と、さすがの心臓がついに
「そうだかい」と運転手の一人がテーブルを撫でながら、いまにも笑いだしそうな、しかし悲しみの味をきかせた調子で、首を振りながら云った、「||やっぱりな」
「おらあ当直の軍医を呼んだだ」春さんは淡々とした口ぶりで続けた、「やって来た若い軍医は脈をみ、心臓へ聴診器を当て、
「しょうべえしょうべえだな」
「これはしょうべえじゃねえだよ」春さんはちょっと気を悪くしたようであった。しかしそれを表にあらわすようなことはせず、オクターブを半音さげたくらいの声で続けた、「||そのうちに島田初年兵の心臓が止っただ、軍医は用心ぶけえ人だったからうっかり信用はしねえ、聴診器を当てたまま辛抱づよくようすをみてただよ、だが心臓の止ったにゃあ嘘も隠しもなかった、そこで若い軍医は聴診器を耳から外し、ゴム管をぐるぐる巻きながら、おふくろと妹に御臨終ですって云っただ」
「軍隊でもやっぱりそんなふうに云うだかい」
「するとな」春さんは質問を無視して続けた、「その島田初年兵のおふくろが、しょぼしょぼした眼を拭きながら、大きな
「なにをしただって」
「おふくろの欠伸がうつったものか、妹も同じように大欠伸をしたっけだ」春さんはそのときの情景を噛み味わうかのように、眼を伏せて十秒ばかり黙り、それからゆっくりと頭を左右に振って、云った、「||三日三晩、一睡もせずに付き添ってただし、泣くだきゃあ泣いたあとだからふしぎはねえだろうが、息を引取ったと聞いたとたんに、その母親と妹が枕許でおめえ、······」
そこで春さんは口をつぐみ、年嵩の運転手が大きな欠伸をした。
私は青べかを大三角に
大三角は芦で
けけち けけち よしごで****突っ突いて おいてててて。
浦粕ではよしきりを「けけち」と云う。そして、長の説明によると、右にあげたように鳴くのだそうで、おたまに云わせると****は、長が云うのとは反対に男性の部分をさすということだが、そう云われてみると、慥かにそう鳴くように聞えた。
「ふざけるな」と私はどなった、「黙れ、やかましいぞ」
私の思考の邪魔をすることに成功したのがうれしいとでもいうように、けけちはひときわ声を張りあげて叫んだ。||けけち けけち よしごで****突っ突いて おいてててててて。
三十六号船の水夫である留さんは、年が三十四歳でお人好しで、ひどく色が黒かった。「どんな闇夜でも留さんの顔だけは黒く見える」と云われ、自分でもそれを認めていた。||三十六号の船長のブルさんは、すっかり視力が衰えているため、
彼は
留さんは
「だからお金は溜まるのよ」と高品夫人が私に云った、「お金は溜まるんだけれど、それが一〇〇くらいになると女ができて、それですっからかんになっちまうの、もうこんどこそ懲りたって云うでしょ、こんどこそ眼がさめたって、||それからタバコも人の吸いがらを拾うようにして溜めるんだけれど、ちょうど一〇〇くらいになるかなと思うとまた女にひっかかるの、留さんのほうでそうなるのか、女のほうで
女といってもみなしょうばいにんあがりであった。ごったくやから足を抜いたとか、むかし
幾たびそんなことがあったか私は知らない。私が浦粕へ移ったときは、しきりに貯金に精をだしている期間らしく、酒は高品さんの炉端か、なかまの奢り、タバコは人の吸いがらという、倹約なところをみせていた。それが一年ほど経ってからだと思うが、高品夫人がまたそろそろ始まるじぶんよと云い出した。
「いいえ、まだそんなようすはないのよ」と夫人は私の問いに答えた、「でも貯金が一〇〇を越したの、珍しいことに今日しらべたら一二〇近くになってたのよ、そんなに溜まったのはこれが始めてよ」
そんな話をしてから幾十日か経って、高品夫人の予言が事実になった。或る日、高品家の炉端で、夫人がそのことを私に告げた。高品さん夫妻と私の三人だけで、芝栗を
「とうとうできちゃったわよ、もう一と月以上にもなるんですって」夫人は、
「八兵衛っていうお女郎あがりだそうですよ」と高品さんがやわらかな調子で云った、「いや、八兵衛っていうのは女の名じゃあないんです、たしか
女は元は
「こうなったらだめなのよ」高品夫人は私の問いに答えて云った、「夫婦約束をした女だし、こんどこそ世帯を持っておちつくんだからって云われてみれば、貯金帳を渡さないわけにはいかないじゃないの、そうでしょ」
「それに相手がそんな女だからね」と高品さんも云った、「どうせゆき場がなくって来たんだろうから、こんどは、本当におちつくかもしれませんよ」
そして十日ほどのちに、私は浦粕亭でビールを飲みながら、留さんの女について、秋葉エンジから第一報を聞いた。
「たいへんな女だよ、先生」秋葉エンジは
私がためらいながら訊くと、秋葉エンジは素朴な、そしていくらか虚無的な笑いをうかべた。
「気づかねえだか、気づいてるだかわからねえだ、おらあ勘づいてると思うだがねえよ」と秋葉エンジは云った、「||現に三十六号船の者が代り番こにおりるだし、銀公(「おらあ抵抗しなかった」の章を参照)が聞いたところでは、それが気に障るならおめえ一人でまかなってみろ、って女がどなりけえしたっていうだよ」
私が嘆くと秋葉エンジも嘆いた。
「悪い野郎どもだ、まったく悪い野郎どもだ」と彼はコップの中でビールの
その話はすぐに、高品家の炉端でも出るようになった。しかし、これまで幾たびも記したように、そのことについて非難するような声は、||秋葉エンジを除いて、||ただの一度も聞かれなかった。尋常な家庭に起こるこの種の出来事でさえ、浦粕ではさして問題にしないのが一般的風習であり、留さんの場合は特に、その女が八兵衛あがりだったから、笑い話としてもさしたる価値はないようであった。||そうしてやがて、私は第二報を聞いた。女にはほかにしんじつ夫婦約束をした男がいる、というのである。新川堀の畳屋の職人で、あと半年ほど経つと自分で店を持つことになっており、女の荷物やなにかはその男のところへ持ち込んであるが、店を持つときが来るまで、留さんのところで食いつないでいるのだ、ということであった。
この第二報は通船の若い水夫たちがもたらしたものだ。水夫たちが彼女を訪問したのは、そう長い期間ではなかった。なぜかというと、女が
「三十二号船の仁公は十六貫もあったによ」と水夫の一人は云った、「五たびか六たびかよったらおめえ三貫目も痩せたっていうだ」
あれではあとで滋養を
その先客が新川堀の畳屋の職人であり、女とどんな深い関係であるか、という
「人は好きなこと云うだよ」留さんはまっ黒な顔をくしゃくしゃにし、てれくさそうに笑いながら、まるでお世辞でも云われたように
軽いのは口だけか、と誰かが云い、また高品夫人に叱られた。
私はそのときそこにいたのだが、留さんの「世間知らずだから」という言葉に少し感動した。留さんとしては自分の女を
春になってから、私は根戸川亭で留さんを見かけた。私はビールを一本と、カツライスを取り、本を読みながら、それらをゆっくり片づけていた。留さんは隅のほうのテーブルで、二人の蒸気乗りなかまと、酒を飲みながら話していた。空いた
かなり長いあいだ、留さんのことはみんなの関心の外におかれ、私も話らしい話は聞かなかったので、その晩の陽気な姿を見ても格別なものは感じなかった。しかし、その後また根戸川亭で、やはり蒸気乗りなかまに気前よく奢っているのを見かけ、どうしたことかと訝しく思った。そのうちに高品夫人が、どんなきっかけからだったか、留さんの「例の女」が、根戸川亭の女給になっていると云って、私をおどろかせた。
「あら、知らなかったの」と高品夫人は云った、「もう一と月くらいになるかしら、遊んでいても
私はちょっと考えてから質問した。
「あら、それも知らないの」と夫人は眼をみはるようにして答えた、「畳屋の職人にはべつに女があったんですって、お秀さん、||留さんの女の名前よ、お秀さんと夫婦約束はしたけれど、ねんがあけたからって、押しかけて来られたときには肝を
私は留さんのために祝意を述べた。
「さあどうかしら」と高品夫人はあいまいに微笑した、「畳屋の職人はいなくなったけれど、根戸川亭へ住み込んでからずいぶん発展するっていうし、もう留さんの貯金も無くなるじぶんなのよ」
ほどなく私は、そのお秀という女を自分の眼で見た。
彼女はあぶらけのない渋色の膚で、額が抜けあがり、ぐるぐる巻にしている髪の毛はごく薄かった。痩せていて躯は小さいのに、骨組はずばぬけて逞しく、そのため、うっかり見ると肥えているように感じられるが、実際には肉も脂肪もそげおちて、逞しい骨に貼り付いたような皮膚は、到るところで
幾たびか根戸川亭へゆくあいだに、私は悲しい現実を見なければならなかった。幾たびかといったが、私の経済でそうしばしばゆくことはできない。月に二度か三度くらいだったか、あるいは一度か二度くらいだったかもしれないと思うが、||留さんはもう気前よくなかまを奢るようなことはなく、お秀が客の相手をするあいだ付いていて、ビールや酒を取りにいったり、注文される肴や、洋食の皿を運んだりするのであった。
「留公、ビールだよ」とお秀はしゃがれ声でどなる、「さっさとしねえのかい、のろのろもたついてるんじゃねえよ、わかったかい」
「メンチボールつったろう、留」とお秀は眼を三角にしてねめつける、「なんだいこりゃあ、コロッケじゃねえか、まぬけだねえ取っ替えといで」
客がそれでいいと云う。お秀は耳も貸さずにどなりつける、「コロッケはメンチボールじゃねえんだよ、いいえうっちゃっといて下さいよ、
「そんなにがみがみ云ったって、おめえ」と留さんは中腰のまま悲しげに女を見る、「こうやって出来ちまったものを、おめえ、いまさら取っ替えられやしねえと思うがなあ」
「そんならその分はおめえが払いな」とお秀は云う、「てめえでまちげえたんだからね、早くいってメンチボールをそいって来な、お、そのコロッケは置いてっていいよ、片づけるだけはおらが片づけてやっから、払いはおめえだよ、いいかえ」
留さんは「ああ」と云って立ってゆく。
「ほんとにまぬけでのろまで」とお秀は舌打ちをする、いかにも
私はその女を憎んだ。
||どういうわけだ、留さん。
そんな女にどうしてこき使われているんだ。横っ面をはりとばすか、蹴倒してやるか、唾でも吐きかけてやればいいじゃないか、男じゃないか留さん、と私は心の中で叫んだ。そのとき私は、怒りのために躯がふるえたのをいまでも覚えている。だが、と私は自分を抑えるために反省した。
||あの女は世間からいためつけられて来たのだ。
どんな事情かはわからないが、若いころから身を売り、色街を転々として、「八兵衛」にまで落ち、ねんがあけるまで身受けをする客もなかった。しかも、ねんがあけて約束した男を頼って来れば、その男にはほかに女があり、彼女の預けた荷物もろとも逃げてしまった。これだけ
||はらいせをするなら、する相手がある筈である。
もしも彼女が世間からいためつけられたとするなら、留さんも同様に世間からいためつけられている。いつも少年の水夫たちにさえ
「この留公はね」とお秀が客に云った、「こんなまぬけのくせえしてばか踊りがうめえんだよ、ばか踊りとはにん相応だけどさ」
「ねえ、留公に一杯飲ましてやってごらんよ」とまたお秀が云った、「ビールなんてもってえねえ、その燗ざましでたくさんだから、いいから飲ましてごらんよ、ばか踊りをやらしてみせるからさ」
客がなにか云った。その客が誰であったか、一人だったか伴れがいたか、私にはまったく記憶がない。私のところから見えなかったことは慥かであるが、どうも土地の者ではなく、よそから魚釣りに来た客だったように思う。
「さあ飲みな、留公」とお秀が云った、「がつがつするんじゃねえよ、みっともねえ、一杯だけだよ」
留さんがなにか云って、
「さあ、ばか踊りをやんな」とお秀は留さんの手から盃をひったくって云った、「うまく踊んなよ、そしたらまた飲ましてやっから、さあ踊るんだよ」
留さんは立ちあがり、手拭で頬かぶりをし、いかにもてれくさそうに笑いながら、やおら
||なんという女だ。
私は歯をくいしばりながらそう思った。留さんは踊りだした。てけて、どんどん、と自分で
「巡礼だ、巡礼だ」暗い土堤を家のほうへ歩きながら、私は
私は浦粕から逃げだした。その土地の生活にも飽きたが、それ以上に、こんな田舎にいてはだめだ、ということを悟ったからであった。私は町の隅ずみを歩いた。沖の百万坪、白い煙霧に包まれている石灰工場、芳爺さんの住居に近い三本松、消防小屋、堀南から中堀橋を渡り、堀に沿った堤の左側に、養魚場の広い池を眺めながら、東の海水浴場へもいってみた。こうして、土地や風景には別れを告げたけれども、東京へ去ることは誰にも云わなかった。高品さん夫妻にさえ話さず、売り残って半ば不用の本の詰った四つの本箱や、机や、やぶれ蒲団や穴だらけの蚊屋。よごれたまま押入へ突込んである
「東京へ出たら」と私は力んだ気持で
「東京へ出て」と私は不安を抑えきれずに呟いた、「はたしてやってゆけるだろうか、生きてゆく、ということだけでもいいのだが」
次には「なにをくそ」と呟いていた。気負い立ったり、自分の才能のなさや、小説を書いてゆくことの困難さを思って、息苦しいような感じにおそわれたりしながら、私は
それから八年ほどのちに、私は浦粕町へいってみた。いま小西六にいる秋山
私はそのとき殴られるかと思った。||というのは、それより半年ほどまえに、私は「留さんとその女」という題で、二十枚ほどの短篇を発表していた。載せたのはアサヒグラフであって、そのじぶん編集を担当していた宮田新八郎の好意によるものだが、浦粕のノートから幾つか短篇小説にした中でも、留さんの話がもっとも事実に近かったからである。||私は自分をなだめた。留さんが小説などを読む可能性はない、少なくともアサヒグラフを読むような機会はないだろう、おちつけ、と自分をなだめた。にもかかわらず、留さんは「あれを読んだだ」と云った。
「おらんこと小説に書いたって」どんな闇夜でも黒く見えるという、石炭のような黒い顔に、てれくさそうな
「あれは」と私はいそいで云った、「あれは、つまり小説なんでね」
「おら大事に取ってあんよ」と留さんは私に構わず続けた、「一生大事にしておくだ」そしてさらに云った、「おら家宝にすんだよ」
そしてさも恥ずかしそうに、小さくなって事務所のほうへ去った。
留さんは少しも変っていなかった。秋山と森谷にあらましの事情を語り、乗った通船が
||誰と出会うかわからないぞ。
船宿「千本」の長少年、倉なあこ、芳爺さんはどうだろう。「SASE BAKA」とはっきり書いてしまったおすずは。ブルさんは。ごったくやの令嬢たち、幸山船長は。その他の多くの人たちと出会った場合、いったいどんなことになるだろうか。
できるだけ会わないようにしよう。
私はそう思った。これらの人たちをみんな小説に書いたわけではないが、留さんを書いたことは(留さんの口ぶりから察すると)相当ひろく伝わっていると考えなければならないし、ひがみっぽい性質の者は、どれを読んでも自分のことだと
「できるだけ人に会わないことだ」と私は船窓から外を眺めながら呟いた、「なるべく危険なところには近よらないようにしよう」
船が浦粕へ着くと、私はいそいで蒸気河岸を通りぬけた。
船宿「千本」の店先では、見知らぬ若者が繩船の
「変ったね」と秋山が云った、「まるでごったくやじゃないか」
私が蒸気河岸にいたじぶん、秋山は二度ばかり来たことがあり、「天鉄」でめしも喰べたので、変化の差がはっきりわかったのであろう。私も興ざめた気持になり、手早くめしを片づけて外へ出た。そして蒸気河岸へ戻る途中、おたまの親たちに会ったのだ。
道からちょっとはいった、十坪ばかりの空地で、老夫妻が籠を作っていた。それは貝を掘るためのもので、籠は約一メートル四方、一方に砂へ打ち込むための鉄の歯があり、四メートルほどの杉の若木の
||おたまの母親だ。
父親のほうははっきりした印象はないが、母親のほうはすぐにそれとわかった。その人とは親しかったし、いろいろと世話にもなった。男の独りぐらしは不衛生なことが多いと云って、三日に一度は掃除に来てくれたし、野菜を喰べなければ躯に悪いからと、漬物をかかさず届けてくれたりした。それにおたま、||船宿「千本」の長とともに、そのこまっちゃくれのおたまも、土地のニュースをいろいろと報告しに来たものである。
||綿屋のおつゆちゃんは十二でちょぼちょぼと生えた。
||どこそこのおっかあは誰それとくっついた。
女の子だけに情緒的なことがらのほうが多かったが、私の材料ノートはそのために得るところが少なくなかったのである。私は静かに老夫妻のほうへ歩み寄り、帽子をぬいで会釈をした。
「暫くでした」と私は云った、「お達者のようでなによりです」
二人はそろそろと顔をあげて私を見た。なんの反応もない顔つきであった。
「蒸気河岸の先生ですよ」私は笑ってみせながら云った、「おたまちゃんはどうしていますか」
娘の名を聞いた瞬間、二人は躯をぴくっとさせ、にわかに表情を
「旦那は」と父親のほうが、
私は母親を見た。
「おばさん、忘れましたか」と私は云った、「そら、蒸気河岸の先生ですよ、ぼくの家へよく掃除に来てくれたでしょう」
蒸気河岸のこれこれと、本名まで名のったが、おたまの母親にはまったくわからなかった。彼女は私をじっと見あげ、つくづくと見てから、ゆっくりと白髪の頭を左右に振った。まえにも肥えていた躯つきに変りはないし、肉の厚いまる顔も、皺が多くなった程度で、あのころと少しも変ってはいなかった。私にはそれがはっきりしている、その人は「男の独りぐらしは」と、よく私に小言を云ったし、掃除をするからと云って、私を外へ追い出したものだ。その人がそこにい、私にはその人がわかるのに、その人には私がわからない。私を見あげた眼つき、すっかり白髪になった頭を、力なく、ゆっくりと左右に振った動作、それは紛れもなく「記憶がない」という意味を表明するものであった。
「かなしいな」私は道のほうへ歩きだしながら呟いた、「人間なんてかなしいもんだな」
私は自分の胸が空洞になり、そこをこがらしが吹きぬけるような、云いようのないかなしさに浸された。云いようのないかなしさ。いまでもそう云うほかに表現する言葉がみつからないのである。私は二人の同伴者と通船に乗ったとき、もう二度とこの町へ来ることはないだろう、と心の中で呟いた。
十月下旬の或る日、私は二人の同伴者とともに浦粕町へいってみた。
江東区の
じつを云うと私は少なからずためらったのである。浦粕のノートを連載し始めてから一年、登場する人たちの中にはまだ健在な者も多いだろう。「おわりに」の章でも留さんと出会ってへどもどしたことを記したが、ことによると「青べか物語」を読んで、他人のことなのに自分のことを書かれたと誤解し、手ぐすね引いて待ち構えている、といったような人物もいるかもしれない。そんなごたごたはごめん
車が走っている時間を利用して、少しばかり「青べか物語」について注を加えたいと思う。第一回の末尾に記したが、この一連の物語の中には、すでに幾篇か小説化して発表したものがあるし、これから小説化する予定のものもあり、その旨を編集部、ならびに読者へ断わっておいたのであるが、||というのは、それらを除いてはこの一篇が不完全なものとなるし、小説として発表したものと、ここに集めたものとは根本的に違っているからである。もう一つ、この物語は戦前にいちど三田文学に載せる筈であった。和木清三郎氏(現「新文明」編集長)が編集していたころで、そのとき私はノートを整理し、「青べか物語」という題名をきめて連載の用意をした。結局は或る人事関係のため、私のほうから辞退したが、そういうことがなかったら、このノートはおそらく散逸してしまったであろうと思うと、おくればせながらここで和木清三郎氏に礼を申上げたいのである。
タクシーは東京を走りぬけ、
「そっちへゆくと千葉へいっちまうよ」とわが友人が注意する、「こっちの道だよ、こっちの道だと思うな、慥かにこっちだったと思うがな」それから自信をなくしたように云う、「ちょっと訊いてみて下さい」
わが若き友人はつねづね土地勘がいいと自任しているが、あまりに土地勘がいいためだろう、いっしょに車でどこかへゆくとき、しばしばとんでもない方向へと走らせ、間違ったことがわかっても「なに平気です、あれをぐるっと廻ればちゃんとゆけますよ」などとすましている。それはそうでしょう、道のあるところなら廻り廻ってゆけばたいてい目的地へ着くことができる。私はそんなとき心ひそかに、日本の国土の狭いことを感謝するのだが、||その日の運転手君もやがて、論争する
こうして、タクシーはともかくも浦粕町に着いた。根戸川に架かった大きな鉄橋を渡るとき、私は車を停めてもらって、川の上流と下流を眺めやった。どっちを見てもすっかりようすが変っていた。川沿いにあった草原や荒地には、すっかり家が建ち並び、川の中央にある小さな妙見島にも工場の建物が
「ああ、千本の店がある」と私は云った、「あれが長のいた船宿の千本だよ」
同伴した二人は「青べか物語」を読んでいたので、船宿「千本」と、こまっちゃくれた少年の長を知ってい、私の感動をすなおに受けいれてくれるようであった。まず「千本」を訪ねてみよう、私は車を蒸気河岸へ廻らせながら、どうか長がいてくれるようにと、それがそらだのみだということを覚悟しながら、心の中で熱心に祈った。
「待てよ」と私は思い直して云った、「先にぼくのいた家を見ておこう、車をそっちへやってくれないか」
車を蒸気河岸とは反対のほうへ、ゆっくりと走らせた。ごったくやの「喜世川」、次に「澄川」などの家がみつかったが、小料理の看板は出ていなかった。貧しげな小さい家がごたごたと並び、子供たちの遊んでいる
「これかな」と私は車を停めさせて、左右を見比べた、「いや、いやこれだな、こっちが空地で向うが
家はもよう変えがしてあった。西側にあった入口が南側になり、私が机を据えていた窓は
「戻ろう」と私は云った、「車を廻して下さい」
私たちは蒸気河岸へいった。車を「千本」の前で停めると、店の前にいた船頭らしい若者たちが、ばらばら元気よくやって来て、いらっしゃい、いらっしゃいまし、と景気よく呼びかけた。いかにもしょうばい上手な「千本」の者らしいが、釣りをするためにタクシーを乗りつけるような客は「かも」であって、私は車から出るとすぐ、かれらに片手を振った。
「客じゃない」と私は云った、「客じゃないんだ、ちょっと訊きたいことがあるんだが、このうちにずっとむかし長っていう子がいたんだがね」
いまどうしているか、と云おうとしたとき、店の中で網を片づけていた男が、ひょいと私のほうを見上げて答えた。
「長はわたしですよ」
「え、||」と私は息を吸った。
「わたしが長ですよ」とその男はいった。
細おもてに
「高品の先生かね」と長が訊き返した。
「いや、高品さんの世話で来たんだ」と私は云った、「あっちの一軒家を借りるまえには、この千本の二階に下宿していたこともあるんだ、君が小学校の二年から三年生ぐらいのときなんだがね」
「さあね」長はあいまいに笑った、「そんなに古いことだとするとな」
「倉なあこはどうしている」
「倉なあこはいるだよ、うん」と云って長は
「へえ、まだおばさんがいるのか」
「おやじは死んだけれどおっ母はいんだよ」
長は店の奥へいって、大声に母親を呼んだ。すると、穏やかな返辞をしながら、その人が出て来た。年はもう七十に近い筈だが、ずっと若くみえるし、柔和な顔だちには明らかに見覚えがあった。長が説明をし、私もまた話した。彼女はあいそよく挨拶はしたが、私のことを思いだしたようすはなかった。
「あがって茶でも飲んでくんなよ」と長が云った。
「いや、それよりも沖の百万坪へいってみたいんだ」と私は云った、「ずいぶん変ったようだが、まだ沼や荒地はあるだろうか」
「家がどっさり建っちゃったよ」と長が云った、「見にゆくんならおらが案内すべえか」
「しょうばいのほうはいいのかい」
「店のほうは番頭がいるからいいだよ」そして長は母親に振り向いて云った、「ちょっと百万坪までいってくんからな」
私もまた「あとで寄ります」と断わって、千本の店を出た。
東へ通ずる堀の、以前よりも根戸川へ寄ったところに、高い橋が架かっていた。その堀の両岸にも、やはり防波堤があり、橋は高いので両端は石段で登るようになっていた。キティ台風のときひどくやられてから、そういうふうに
「工場主の代が替っただよ」私の問いに対して長が答えた、「いまじゃみんな帽子をかぶってマスクを掛けて働いてるだ、頭の毛やなんぞも生やかしたままだし、もう女で裸になる者なんぞいやしねえだよ」
「堀からこっちには」私は二人の同伴者に云った、「この工場と、事務所と、工員たちの長屋だけしかなかった、あとはずっと百万坪に続いていたんだがね」
「そうだ、あれがいかずちの船大工の工場だっただ」と長が私の問いに答えて、根戸川の対岸を指さした、「あれが工場の跡だよ、もうつぶれちまっただがねえっ」
語尾の「ねえっ」という尻あがりのアクセントに、私の記憶が呼びさまされた。それは紛れもなく、少年「長」のアクセントであった。少ししゃがれた、まっすぐな言葉つき。すぐむきになり、むきになったことをそのままあらわす独特なアクセントであった。||私はその感動を抑えながら、いかずちの船大工の跡を眺めやった。「青べか」を修繕してくれた工場であり、修繕した青べかを早く引取ってくれと催促した工場なのだ。私はそこの人たちとは知りあう機会がなかった。職人の一人すら顔を知らずじまいだったが、青べかが浦粕における私の生活の中心であったというだけで、なにか云いあらわしがたい親近感を持っていたのである。
||石灰工場主の代が替り、いかずちの船大工はつぶれたか。
私は心の中でそう呟いた。しかし、そのまえに、そうだ、私は少しいそぎすぎたようだ、「千本」の店を出るとすぐ、私は洋食屋の「根戸川亭」を見たのだ。根戸川亭もつぶれて、住む者もない建物は表を閉めたまま、泥のはねだらけになってい、看板もなにもなく、よごれた
||ああ、根戸川亭もつぶれちまっただよ。
長はむぞうさにそう云った。そして籠屋のおたまが、「おつゆちゃんは十二で||」うんぬんと報告した娘の家の綿屋も、やはり失敗してどこかへいってしまい、その家もまた空家になっていたのだ。
「沖の弁天はまだあるか」
「あんよ、弁天へいってんべえ」
私たちは土堤をさらに川下のほうへくだった。長は先に立って、話しながらさっさと歩いてゆく。痩せてはいるが
「あにきの鉄ちゃんはどうした」と私が訊いた、「鉄ちゃんと倉なあこは、釣りの穴場を知っている点で浦粕一番だったじゃないか」
「うん、二人とも腕っこきだったねえっ」と長が云った、「倉なあこって船頭は三人いんだよ、ぐず倉にがちゃ倉、それにぼぼ倉ってってねえっ」
「僕の知っているのは温和しくって、口が重くって、頬ぺたがいつもほんのり赤い倉なあこだがね」
「ぐず倉ってえだ」長はくすっと笑った、「温和しくっておっとりしてえんだろうが、することがのろくせえからぐずってえだ、がちゃ倉はいつもがちゃがちゃそうぞうしいからだし、夜になるとすぐおっかあに寝べえ寝べえって云うのが、ぼぼ倉ってえだよ」
「鉄ちゃんはうちを出ただよ」と長は私たちが笑うのに構わず続けた、「堀南でてんぷら屋をやっててねえっ、とても繁昌してえるだよ」
やがて土堤を左へおりた。その辺もすっかり家が建ち、それも文化住宅ふうのしゃれたアパートなどさえ見えた。きたなく濁った下水に沿ってゆくと、小さな掘割があり、「これが一つ

「え、これが一つ

「こんなきたねえ堀になっちまっただ」と長が云った、「田圃ができて農薬を使うからねえっ、いまじゃ
これが広い荒地の中に、澄んだ水を


一つ

「あれは海苔漉き場だな」と私は笑いながら長に訊いた、「あのころはよく
「あるだよ」と長も笑った、「いまでもやってるだ、場所がこんなところで、人に邪魔されるしんぺえがねえだからね」
前の日にひどく雨が降ったそうで、刈田も蓮田も水がいっぱいだし、畦道は土がゆるんで、足許がひどく不安定だった。そのうちに長がずんずん先へいったと思うと、引返して来て、畦道にちょっと水をかぶったところがあるからおぶって渡ろう、と云った。そこへいってみると、なるほど二メートル五〇ほど畦道が水をかぶっていた。
「おぶうって」私はしりごみをした、「それはだめだよ、おれは重いもの、だめだよ」
長は痩せていて十三貫ぐらいしかないようだし、私は春から少し痩せたものの、まだ十六貫くらいはあると思う。そのうえ、人に背負われるなどという経験はまったく記憶にないから、おぶさってもいいという気分はまったく起こらなかった。
「でえじょうぶだってば」と長は構わずにこっちへ背中を向けた、「こっちは馴れてるだからしんぺえはねえよ、さあ」
私は二人の同伴者を見、来た畦道を見やった。戻るのも遠すぎるし、土のゆるんだ畦道の危なさを考えると、これまたうんざりである。長は背中を向けて
||そうだ、人を背負うのは馴れているんだ。
釣客を船から陸へ背負ってあげることは、船頭には珍しくない仕事の一つである。私はそれを思いだしたので、おそるおそるではあるが長の背中へおぶさった。おぶさったとたん、長の躯の重心に加わる私自身の重量感が、極めて過重であることを私は知った。長は第一歩を踏みだし、その躯は左へ大きく傾いた。半長靴の泥に踏み込むぶきみな音が聞えた。次の一歩は右へ、大きくぐらっと傾き、私の足が水につきそうになった。
||だめだ、こいつは転ぶぞ。
私は長の肩にしがみついたままそう思い、同時に、長といっしょに水の中へ転倒するならそれもまたよし、と思った。あとで聞いたところによると、うしろで見ていた二人の同伴者も、「てっきり転ぶ」と思ったそうであるが、私はそのとき、あのこまっちゃくれの長であり、浦粕における悪童のうち、唯一人だけ私の擁護者であった長に、三十年を経たいままた、こうして背負われるということのふしぎなめぐりあわせに、心の奥深くからの感動とよろこびを味わっていたのであった。
観念していたにもかかわらず、長は無事に私を渡し、二人の同伴者をも渡した。同伴者の一人は女性で、私の原稿整理をしに来てくれる木村ふみ子君であるが、もう結婚して一年半くらいになるし、夫君のほかの男性におぶさる気持はどうであろうか、などとよけいなことが気にかかったので、私は振り向きもせずに、先へ歩いていった。||私たちは弁天社の境内へはいっていった。長は
道へ出ると、もう
「おばさんは」歩きだしながら、私は長に訊いた、「あのおふくろさんは、長とお静たちの本当のおっ母さんだったな」
長の上に、鉄なあこ、久なあこの男二人と、姉が二人いた。長の下に一つ違いぐらいでお静という妹と、五歳ぐらいの、いつも泣いてばかりいる弟がいて、その三人がのちぞいの妻の子である、と聞いていたのである。ところが、私の問いに対して長はあっさりと首を振った。
「おっ母あはみんなの
私はそこで黙った。
長男の鉄なあこは、専属の船頭である倉なあこ(ぐず倉)とともに、浦粕きっての腕っこきといわれた。それがどうして「千本」を出ててんぷら屋などになったのか。また次兄の久なあこは当時は小学六年生ぐらいだったが、やはり家を出て、いまでは「千本」の隣りに小さな「久千本」という釣舟宿を経営している。つづめていえば、長男も次男も家を出、本家の「千本」を長が継いでいるのであって、私の推測によれば、それこそ現在のおっ母あが長太郎とその下の二人の実母である、ということを証明していると思うのであるが、「おっ母あはみんなの継母」であり、「そのためにうちがうまくいっている」という、混りっけなしに割切った長の認識に、私はひそかに感嘆の念を禁ずることができなかった。
それから私たちは堀南へ戻り、鉄なあこの「てんぷら屋」へいった。てんぷら屋といっても仕出し専門であり、店では客は取らないという。鉄なあこも私を覚えていないし、私にも彼は初めて会ったようにしか思えなかった。||私は長に、タクシーをこっちへ廻すように云ってくれ、と頼み、せいぜい四帖半くらいの狭い、ごたごたした部屋へ同伴者といっしょにあがった。
私は鉄なあこにビールを頼み、てんぷらを揚げてくれと云った。そのとき仕出し専門でやっていることがわかったのだ。鉄なあこ||いや、もうそう呼んではいけないだろう、一日に六千個のてんぷらとフライを揚げて捌く、という店の主人なのだから、||一日に油を
「大蝶はつぶれただよ」と鉄さんはビールを啜りながら云った、「四丁目(洋食屋)は旅館に転業してえらく
「大蝶がねえ」私はなにかしら遠いこだまを聞くように思った、「あんなに盛大にやっていて、浦粕一の罐詰工場だったのにな」
実際は「大蝶」などどっちでもよかった。その工場にかかわりのある幾つかの出来事や、そこで働いていた人たちのことが思いだされるくらいで、それよりも留さんの死のほうが強く私の心を打った。高品家の炉端で、みんなにからかわれながら、怒りもせずに笑っていた彼、三十六号船の
「旦那の話を聞いていると昔を思いだすだよ」と鉄さんは云った、「いまじゃあそんな言葉は使う者もいねえし、いろんなうちがつぶれたりな、おらのちゃんも死んだし、大勢死んだ者があるしよ、浦粕もすっかり変っちまっただよ」
「長か、長は四十二になるだ」と鉄さんは私の問いに答えた、「まる年で四十一か、七年も兵隊に取られたでねえ」
私がおおかんけ(大勧化)のことを云うと、鉄さんは思いだし笑いをした。
「そうだ」と鉄さんは云った、「おーかんけ おーかんけ おいなりさんの おーかんけ おぞーにと おあげ おあげの段からおっこって あーかい***ーすりむいた」うんぬんと云ったあと、寄進をした家には、「しょーばい はんじょ」と
私は頷いたが、それは鉄なあこの時代で、長の時代には「くれねーと、||」以下の囃はしなかった、ということを思い出した。||このあいだに、店の女の子が大皿へフライを盛りあげたのを持って来た。たぶん
やがて長が来た。鉢巻のタオルが新しいのに替り、ズボンも新しいのに替えてあった。彼は「車をそこへ来さしてあんよ」と云って坐り、私の注いだビールをぎこちない手つきで啜った。酒のほうがいいかと訊くと、ビールで結構だと答えた。自分でもちょっと納得がいかないのだが、鉄なあこは「鉄さん」と呼びかけられるのに、長にはどうにも敬称が付けられない、つい「長」と呼びかけてしまうし、長のほうでも極めて自然にそれを受け止めてくれる、というあんばいであった。
「かんぷりっていう子はどうしているかね」
「かんぷり」長は首を捻った。
「ほら」と私は云った、「痩せっぽちで頭の鉢がひらいていて、泣き虫の子がいたじゃないか、慥か長と同級生だったと思うがね」
「かんぷり」と長は兄のほうを見、ちょっと考えてみてから、あいまいな笑いをうかべた、「ああ、吉井エンジの子だな」
「うん、そんな子がいたっけ」と鉄さんは云った、「なにしろ
「あとのは損得とも云うだ」と長が口を添えた、「何年かめえに百万坪で
私たち三人は笑った。
「その、あたまとしっぽとどっこいどっこいのことだが」と鉄さんは云った、「むかしこの土地に大金持がいて、三人の
「いや、それは違うね」と私がつい知らず云った、「ぼくが聞いた話によると、財産ではなく鯨だったね、いつのことかわからないがこの浜へ一頭の鯨があがった、それを三人の漁師がみつけて三等分したんだな、そのとき頭のほうを取ったのがあたま、
「鯨はときどきあがったらしいよ」と鉄さんは穏やかに云った、「旦那の話のほうが本当かもしれねえ」
これが船宿「千本」の流儀なのだ。和助の時代から、客に対してえらぶった口は決してきかない。他の船宿だと、客に対して釣りの講釈をしたり、いいの悪いのと文句を云う。「千本」では腕っこきの船頭を
話はあちらへとびこちらへとびした。きょうだいの死んだ父は和助といい、浦粕の船宿では誰よりもしょうばいがうまく、上客はみな「千本」に集まったし、船頭も腕のいいのが揃っていたこと、朝日紙へ週一回ずつ釣通信を書いていたこと、鯉釣りの名人で、いつも蒸気河岸の上で鯉を釣り、不漁で帰る客があると、その鯉を持たせてやったこと。長の姉の一人は浦粕小町といわれる美人だったが、若くて死んだし、長の妹も死んだこと。いつもぐずぐず泣いてばかりいた末弟は、京都大学を出て農事試験所の技官になっていること。東の養魚所ではいま専門に金魚を扱ってい、また、二つの通船に乗っていた人たちはみなよそへいってしまい、ほんの二三の人しか残っていないこと。ごったくやは売禁法でみんなつぶれ、女たちも散り散りになってしまったこと。そうして、こういうとびとびの話のあいだで、「SASE BAKA」も娘のままで死んだということを私は知った。||そしておたまのことも、||籠屋のおたまは若くて遊廓へ身を売り、その後もみもちが悪く、親類じゅうに迷惑をかけたが、いまは行方知れずだということであった。私はいつか秋山青磁たちと浦粕へ来たとき、彼女の両親がおたまのことを訊かれて、びくっとしたことを思いだし、それではあのときすでになにかあったのだなと、心の中でそっと嘆息した。
鉄さんにも長にも仕事がある。そうなが話もできまいと思い、やがて私たちは立ちあがった。鉄さんに別れを告げて出ると、長が車のところまでいっしょに来た。
「こんど釣りに来てくんなよ」と長が云った、「おれもいい穴場を知ってるからねえっ」
「ああ、ぜひ近いうちに来るよ」私は長の手を握った、「||どう、まだぼくのことを思いだせないか」
「さあねえ」長はたよりなげな微笑をうかべた、「わかんねえなあ」
「釣りに来るよ」と私は云った。
鉄さんの店の若者が二人と長とが、車の脇に立って見送っていた。私たちは車に乗り、車は走りだした。
「よかったわ、ほんとに」と木村ふみ子君が感動のこもった口ぶりで云った、「沖の百万坪も石灰工場も、||あの人たちまでみんな、いま青べか物語から出て来たっていう感じだったわ、ほんとうによかった」
私は初めから終りまで、長の名を呼びすてにしていたし、長もしごくあたりまえのようにそれを受けいれていた。数えてみると、私が浦粕を去ってからまる三十年になる。長も四十一歳、子供も五人いるということだ。その彼を「長」と呼び、彼が「おう」と答えるとき、私の心には三十年という時間の距離はなかった。にもかかわらず、彼には私の記憶がないのだ。青べかのことを訊いてみたが、それもごくかすかに覚えている程度とみえ、「なにしろ古いことだからねえっ」と云って話をそらしてしまった。したがって、題名の青べかがどうなったかは、ついに不明のまま、この物語を終らなければならない。||私は近いうちに、もういちどぜひ浦粕へ、こんどは釣客としていってみるつもりである。