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金五十両

山本周五郎





 遠江のくに浜松の町はずれに、「柏屋」という宿があった。

 城下で指折りの旅館「柏屋孫兵衛」の出店として始まり、ごく小さな旅籠はたごだったのが、ちょっと変った庖丁ほうちょうぶりの料理人がいて、それが城下の富商や近在の物持たちのにんきを呼び、しぜんと料理茶屋のようなかたちになってしまった。

 見つきは軒の低い古ぼけた宿だが、奥には二階造りに離屋の付いた建物があり、女中たちも若い綺麗きれいなのが十人あまりいた。

 ······梅雨どきの或る暮方に、どうして紛れたか一人のみすぼらしい旅人がこの柏屋へ草鞋わらじをぬいだ。

 ばかに客のたて混む日だったし、雨の黄昏たそがれどきで番頭も女中も気がつかなかった、旅人のほうでも見つきで入ったものらしい、客がひと退きしたあと、お時という女中がみつけて帳場へ知らせた。

 そこで番頭がいって、ここは旅籠はしていないからどこか他の宿へ移ってれと云ったが、云い方が悪かったのか相手はひらき直り、御宿という看板を見て入ったのだし、いちど上げて置いて出ろという法があるか、てこでも動かないからとあぐらをかかれ、始末に困って番頭はひき下った。

「いったい誰が上げたんだ」

「あたしはずっと魚庄さんのお座敷にいたから知らなかった」

「あたしも気がつかなかったわね」

 そんなことを云い合っているところへ、お滝という女中がしらが来て、

「なにかあったのかえ」と口をはさんだ。

 それまで離屋の客に付いていて、知らなかったのである。話を聞くといつもの癖のふんと鼻を鳴らせて、おぜんは持ってったのかといた。

「気がつかないけれど、まだでしょう」

「それで手を鳴らさなかったのね」

 お滝はちょっと眉をひそめたが、

······いいよ、あたしが後でなんとかするから、お時さんおまえお膳だけでも持ってっといてお呉れ、お酒を一本つけてね」

 こう云ってまた離屋へ去った。

 受持の客を送りだしたのが九時過ぎ、ちょっと鏡をのぞいてから、酒をもう一本持ってお滝はその部屋へいった。

 ······客は二十五六のせた貧相な男だった、木綿縞の着物も角帯もしおたれているし、開けてない両掛が投出してあるところをみると、着替えはもちろんろくな持物はないらしい、血色の悪い顔に眼ばかり神経質な光りを帯びていた。

「お愛相がなくって済みませんでした、熱いのを一つどうぞ」

 お滝はこう云いながら膳の脇に坐った。

「まえには旅籠をしていたんですが、二三年あとからこんな風に変ったんですよ、気を悪くなすったでしょうが堪忍して下さいましね」

「旅籠をよしたんなら、御宿という看板を外すがいいんだ」

「それはそうなんですが、いまお茶屋は御禁制になってるもんですからね、それに場所が場所で旅の方なんかのいらっしゃることはないし、······お一ついかが」

「これで貰おう」

 男は汁椀の蓋を取って差出した。

「この家がそういう仕掛になっているならこっちも気は楽だ、もっともどっちにしたところで、たいしたことはないがね」

「なにがたいしたことはないんですか」

「なにもかもさ、いつかみんな死んじまうということの他、世の中にあ一つもたいしたことなんぞありゃしないと云うのさ」

「おやおや、まだこれからというお年で、たいそう年寄りくさい事を仰しゃるんですね」

 お滝は膳の上からさかずきを取り、自分で酌をして一つ飲んでから、弟を見るような眼で微笑した。

「さんざんいい事をし尽して、ちょっと世の中に飽きがきたというところですか」

「違えねえ」

 男はとつぜん笑いだした。

「さんざんいい事をしてな、まったくだ、図星だよ」

 片手を後ろへ突き身を反らせて、まるでひきつるような、かさかさに乾いた笑いだった。その笑い声がなにかの古い傷にでもしみたように、お滝は眉をしかめながらいやいやをした。

「お願いだからよして下さい、そんな風に笑われると胸が痛くなってくるわ」

「手玉に取ったことでも思いだすのかい」

「わざと憎まれ口をきくことはないの、そんな柄じゃないことは御自分で知っているんでしょう、いいからおあがんなさいよ、酔ったときぐらい人間はすなおになるもんだわ」

 男は初めて相手の顔をつくづくと見た。二十五にはなっているだろう、お滝のゆったりと角の取れたからだつき、面ながの肌理きめのこまかな顔、眉や眼は少し尻下りで、唇は薄手にのびやかな波をうっている。

 決して美しくはないが、美しいよりもっと人をきつけるもの、云ってみれば子に甘い母のようなふところの温たかさ、誘うような懐かしい感じを持っていた。殆んどびっくりしたような眼でお滝を見まもっていた男は、やがて頭を垂れながらふんと鼻で笑った。

「すなおになれか、ぶん殴って置いて泣くなと云うやつさ、わかってるよ」

 こう云って彼はたて続けにぐいぐいと酒をあおった。

「たいしたこたあねえや」

「酔うがいいわ、そしてゆっくりおやすみなさい、あなたは疲れてらっしゃるのよ」



 男は柏屋に三日泊った。

 宿賃も持ってないことは察しがついたけれど、お滝はあたしがひきうけるからと云って、朝から膳に酒を付けさせ、暇なときは自分が酌をしに坐った。宿帳には江戸日本橋どこそこ某店で宗吉、年はひつじの二十六と書いた。上手ではないが書き馴れた字癖で、商人育ちということがわかる。

 ······たぶん住所からなにからでたらめだろうが、宗吉という名はひとがらに似合っている、お滝はそう思った。

 三日めの晩だった、あまり強そうでもない酒を、すすめられるままにやや飲み過した男は、それ以上もう黙っていられないという調子で、身の上を語りだした。

 かなり強く雨が降っていて、他には珍しく客もなく、まだ宵のくちだというのに家の中はひっそりと物音も聞えなかった。

馬喰ばくろ町二丁目のその太物問屋に十一から二十二まで勤めた、七つの年おふくろに死なれ九つの秋にお父っさんが死んだあとおふくろの兄に当る五兵衛という人の手で育てられ、近江屋へ奉公するにもその伯父さんが親許おやもとだった。

 人はごく好いんだがずぬけた酒好きで、担ぎ八百屋のかせぎくらいでは追付かないほど飲んだ、宗吉なんとも済まねえがな······こう云って、よく店へ飲み代をせびりに来た、痩せこけた顔に無精ひげを伸ばして、猫背の肩をすくめながら、水ばなすすり啜り僅かな銭をせびるんだ、どんなに僅かでもまだ小僧の身には痛かった、けれどもいやじゃあなかった、店を閉めたあとの買食いはお店者たなものの楽しみの一つになっている、その仲間はずれになっても、幾らかずつめて置くようにした。

 ······びしょびしょ時雨の降る、寒い日の昏方くれがただっけ、下働きのお松という女中に知らされていってみると、伯父さんは頬冠りをした頭からずぶ濡れになって、土蔵の脇にしゃがんでいた、立っていられないほど酔っぱらってるんだ······もうたくさんだ、なあ宗吉、伯父さんは躯をぐらぐらさせながらこう云った。

 なにごとにも限というものがあらあ、己だって男のはしくれだ、もうたくさんだ己あ今日という今日あいつを叩き出してやる、お鈴のあまを叩き出して、酒を断って、人間らしい暮しを始めるんだ、まるっきりろれつの廻らない舌でそんなことをくどくど云うんだ、己にあなんのことかさっぱりわからなかった、そして伯父さんは帰った」

 彼は言葉を切って、酒を口まで持っていったが、眉をしかめて首を振ると、飲まずにそのまま膳へ戻し、深い溜息をつきながら続けた。

······それから間もなく伯父さんは死んだ、たいしたこたあない、己は二十で年期が終った、これから三年の礼奉公をするんだが、そのとき奉公ちゅう主人の積んで呉れたのとこっちで預けた金をそろえて、これだけ溜まったと並べて見せられるのが習慣になっている、己も習慣どおり見せられた、それが幾らだと思う······三両と一分二朱だった」

 宗吉はいちど置いた酒を取って飲み、じっと眼をつむった。

 雨は相変らず強く降っている、どこかといいたんでいる処があるのだろう、裏手のほうでざあざあとあふれ落ちる水音が聞えた。

 お滝は酌をしながら男を見た。

「それはいったいどういう訳なんです」

「伯母が持ってっちゃったんだ、飲んだくれの伯父が死ぬと間もなく、伯母は自分より若い男を後夫に入れ、段だんしだして、かなり大きい八百屋の店を持つようになっていた、その男とは伯父が生きていた頃から普通じゃあなかったと、近所の者から聞かされたことがある、それが厭で己はできるだけ寄りつかなかったが、伯母は手土産なんぞ持ってよく店へ挨拶に来た。

 そのあいだに己には内緒で、宗吉のために積んで置くからと、四十五両というものを受取っていったという、お前は知らなかったのかとその書付を見せられて、眼の前が急にまっ暗んなったような気持で己は店をとびだした」

「よせばよかったのに」

 お滝はつぶやくように云いながら、膳の上の盃に酌をした。

「いったってむだにきまってるじゃないの」

「唯むだなばかりじゃなかった、親無し子で乞食になる処を拾ってやったとか、生きているあいだは稼いで貢げとか、悪態のありったけを浴びせられ、塩をかれない許りに逐返おいかえされた。

 十年かかって溜めた金は、こうしてあぶくのように消えちゃった、己は帰りに大川へでもとび込んで死んじまおうかと思い、浜町河岸を往ったり来たり、灯のつくじぶんまでうろつきまわっていた、もちろん死にあしなかった、と云うのはそのとき······夫婦約束をした相手があったからだ」

 宗吉はかすかに身震いをした。

 その太物問屋に、おたまという娘がいた。宗吉と四つ違いで、縹緻きりょうもよく才はじけた早熟な子だった、奉公にはいった始めから好んで彼を遊び相手に選び、芝居見物の供などにも彼だけは欠かさずれてゆくという風だったが、宗吉が十八のとき奥土蔵の中で、彼女のほうから求めて夫婦約束をした。

「これから二人っきりのときはおたまと呼捨てにしてお呉れ」

 などと指切をしたり、

「お父っさんがあんな気性だから許して貰えないかも知れない、そうしたら二人で駆落をしてもきっと夫婦になろう」

 熱い息づかいでそんな事をささやき合ったりした。



「己は娘に打明けたものかどうか迷った、おめでたいはなしだがその金が無いといざというとき駆落もできなくなる、さぞ向うはがっかりするだろうと思ったんだ、よし死に身になって稼いでやろう、年期が明ければ月づき定った手当が貰えるし、うまく外廻りになれば売上げの分も入る、ひとの十倍はたらく気でやってみよう、こう決心した」

 髪結い賃から風呂銭まで倹約した、饅頭まんじゅうひとつ買い食いもせずに二年やってみて、これではらちがあかないと焦りだしたとき、手代のひとりで清吉という者に付けられ、外廻りをすることになった。

 仕事はおもに注文取りで、責任額を超えると配当が出る、古参の者に付いているうちは僅かな分前だが、そのあいだに顧客を分けて貰ったり自分で作ったりして、一定の数に達すると独立して外廻りになる仕組だった。

 ······清吉に付いて一年、もう独り立になってもよさそうだというとき、

「配当の分を増すから一緒にもう少しやろう」と勧められた。

 条件はよかった、半年ばかりのうちにかなりまとまった金を握ったが、とたんに番頭から呼ばれて、抜商ぬけあきないの事実をつきつけられた、蔵出し、売掛、仕切の三帳簿を巧みにごまかしたもので、彼にはちょっと理解のつかないほど複雑なからくりになっていた。

「私はなにも知らない」

 幾らこう云い張ってもいけなかった、当の清吉は大阪の出店へいって留守、帰るまで待って呉れれば自分の潔白はわかる筈だ。泣きながら頼んだが老番頭はせせら笑うだけだった。

「おもて沙汰にするだけは勘弁してやる」

 と云って身ぐるみ||溜めた金はもちろん着たもの以外は帯ひと筋も残さず取上げて||店から逐出した。

 それでもまだ絶望はしなかった。主人の娘は自分の味方だ、ゆく末の約束もある、話せばきっとあかしを立てて呉れるだろう、······逢えさえすればと機会をうかがったが、それを知って避けるように、出ることの好きなおたまがまったく外へ姿を見せない、彼は餓えた犬のように夜も昼も店のまわりをうろついた。

「間もなく帰って来た清吉と逢った、清吉は小料理屋へ誘いこんで、なにもかも番頭とその仲間の手代たちの悪企みだと云った、抜商いをしていたのは実は彼等で、たまたま露顕しそうになったのですっかりこっちへ押付けたのだという。

 ······いまにおれが動かない手証を押えてあいつらを逐出したうえ、おまえをきっと店へ戻れるようにするから、清吉はこう約束をした、そして当分のあいだ自分の仕事の手伝いをして呉れ、決して困るようなめにはあわせない。

 ······わらにでもすがりたい気持の時だった、おれは清吉の云うことを頭から信じこみ、ついおたまとのことまで打明けてしまった、ばかもここまでくると底無しだ。

 相手は猫撫ねこなで声でそれも引受け、いつかおたまさんとも逢えるようにしてやろう、夫婦になる手助けもしようと神文誓紙を書かない許りに云って呉れたものさ」

 清吉の仕事のお先棒を担ぎながら一年、お預けをくった犬のように、よしという声のかかるのを待っていた。

 然しやがて少しずつ事実がはっきりし始めた、清吉がふっと姿をみせなくなり、続いて馬喰町の店の代が変った。

 ······彼は清吉の消息をしるために狂奔した、そしてなにがわかったろう、清吉はおたまと夫婦になって、新しく出店を開くために上方へ去ったという、おたまは十五六のじぶんからおとこ出入が多く、店の者だけでも五人より少なくなかった。親も親類ももて余していたのを清吉が承知のうえで貰い、その代償として出店を出して貰ったということだった。

「清吉という男はまえから売上をごまかしたり、蔵の品を持出して売ったりする悪い癖があった、然し商売がうまいので主人も番頭もみのがしていたんだそうだ、おたまを任せたのも清吉なら手綱をとれるとみたからさ。

 ······おれは躯じゅうの皮を剥がれて、荒塩を擦り込まれたような気持になった、世間がどんなからくりで出来ているか、人間にはなにが大事か、色んなことが見えだしてきた、亡くなった伯父さんがいつも泥亀のように酔っていた気持が、はじめておれにはわかったんだ」

 宗吉はすっかりあおくなった顔に、ゆがんだどす黒い嘲笑ちょうしょうを浮べながらこう結んだ。

······世の中に本当のものなんぞ有りあしねえ、かたりや盗みや詐欺が勝つんだ、それができない人間は阿呆のように酔うか、死んじまうより他に手はねえ、それでおれは、こうして旅へ出た、のたれ死をするまでの旅へさ、たいしたこたあねえ」

「そして此処ここまで辿たどり着いて、どうやら先がみえてきたというわけね」

 お滝は自分の盃へ手酌で注ぎ、しずかに飲みながら男を見た。

「それともこれからさきは物乞いでもしてゆく積りですか」

「どんな積りがあるものか、食逃げでこの家から番所へ突出されたら出るまで、牢へ叩き込まれたら入っているまで、縛り首でも島流しでも御意のままさ、どうせどっちへ転んだって」

「たいしたことはない······というんでしょう、おっしゃるとおりだわ、あたしのような者が意見がましいことを云ってもしようがないし、口先の慰めなんか三文の値打もないでしょう、だからなんにも云いません、けれど、······

 お滝はこう云いながらそこへ紙に包んだ物を差出した。

「その代り貴方も文句なしにれを取って下さい、そして明日の朝になったら宿賃を払って、きれいに此処から立っていって下さい」



······つまり」

 宗吉はもういちど冷笑した。

「この家の仕掛が仕掛だから、番所なんぞとうるさい係わりがもちたくないわけか」

「そうかも知れません、でも一つだけすなおに聞いて置いて下さいな、お天気だって晴れているとき許りはない、十日も二十日も降ったり、暴風雨や洪水になることもあるんですよ」

 宗吉はかさかさな声で笑いながら、両手を頭の後ろへ廻して仰向に倒れた。

 翌朝はやく宗吉は柏屋を立った。

 雨合羽がっぱと笠と新しい草鞋が揃えてあった、お滝という女の心配して呉れたものらしい、然し当人は姿をみせなかった。

 ······けむるような雨の降る、まだ仄暗ほのぐらい宿場町を歩きだしてから、彼はなんども足を停めて戻ろうとした、ひとめ会って来ればよかった、懐かしいような、温たかく惹かれる想いが心に残って、それがしだいに大きくふくれあがるようだった。

「へん、どこまでもあめん棒に出来てやあがる」

 思わずこう呟いて頭を振り、笠の前を下ろしながら、しかけるような足どりで彼は急ぎだした。

 舞坂へ二里半の道を馬郡まんごりという小さな宿まで来たとき、宿のかかりで一人の武士に呼止められた。雨支度をしているのですがたかたちはわからないが、まだ若そうなたくましい躯つきで、ひじょうに急いでいるようすが眼についた。

「失礼だが西へゆかれるか」

······へまいります」

 宗吉は相手の語気の鋭さに圧されて、我にもなく一歩うしろへさがった。武士は押冠せるように、

膳所ぜぜを通られるか」と訊いた。

「へえ、ぜ、膳所を、通ります」

「では頼まれて貰いたい」

 相手はこう云ってふところから袱紗包ふくさづつみを取出し、

「これに五十金ある、まことに相済まぬが、城下の中大手西ノ辻という処に藤巻中書という家がある、それへこの金子を届けて貰いたいのだ、源之丞よりと申せばわかる、頼むぞ」

 こう云って金包を渡したかと思うと、こちらの返辞も待たずに向うへ走り去ってしまった。宗吉は本能的に後ろへ駆けだした、なにを考えたのでもない。侍の走り去るのを見たとたん、いきなり躯がそれとは反対のほうへ駆けだしていたのである。

 ······五十両、五十両という、言葉ならぬ言葉が頭いっぱいに響きわたり、むが夢中で四五丁あまり走った、息苦しくなって振返ったが、追って来る者もない、かえって往来の人がいぶかしそうに眺めるので、ようやく彼は足を緩めた。

「巾着切とかごまの蠅とかいう奴だな」

 宗吉は我知らずこう呟いた。

「みつかりそうになったんで預けたに違いない、······世間ばなしというのもまんざら嘘じゃあないんだな」

 早鐘をくような動悸どうきだった、おちつこうとしても、跡をけられてはいないかというおそれで、ついのめるような足早になっていた。

 とにかく柏屋へ戻ろう。お滝の顔が眼に浮んだのでそう決心をし、篠原という処で勧められるままに馬へ乗った。もし追って来る者があったら乗方は知らないがそのまま馬を飛ばそうと考えて、······ついになに事もなかったが、今か今かと一寸刻みの道を続けて、ようやく浜松の町はなへ着き、そこで馬から下りた。

 柏屋へはいると番頭が厭な顔をした。

 彼はお滝さんを呼んで呉れと云いながら、構わず草鞋をぬぎにかかった、手がひどく震えるので濡れた緒がまるで解けない、いらいらして引切ったときお滝が出て来た。どうしたんですと云いたげな顔へめくばせをした。

「迷惑は掛けない、大事な話があるんだ、ちょっと上らして貰うよ」

 お滝は小女に洗足の水を命じ、女中のひとりに部屋へ案内を云い付けると、早いのにもう客があるとみえて自分は奥へいってしまった。

 ······彼は二階の元の部屋へ通されると、すぐに着替えと酒を注文し、女中に小粒を一つ呉れて遣った。ここまで来れば大丈夫という安心に、ふところの五十両がすっかり気持を大きくさせたのだ、まるで嘘のように愛相のよくなった女中が、着替えをさせ、酒を運んで来た。

「ざまあみやがれ」

 お世辞たらだら去ってゆく女中の後ろへ、こう浴びせながら彼は盃を取った。

「小粒一つで閻魔えんまが地蔵に化けやあがる、へ、たいしたこたあねえや」

 飲みながら、お滝から貰った銭勘定をした、それから金包を取出して切餅になっている方の封を切り、二両一分だけ別にして紙に包むと、たて続けにぐいぐい酒を呷った。

 ······四本許り飲んだとき、お滝が来た。はいって来たが障子際に立ったままで、

「お話ってなんです」と冷やかに訊いた。

 かん徳利の並んだ膳の上から、こっちへ移した眼もまったく冷たかった。

「まあ坐らないか」

 宗吉はこう云いながら、封を切った金をざらっと畳の上へ投げ、更に二十五両包をそこへ置いた。

······ここに五十両、これに就いて相談があるんだ」



······そうね」

 膳の脇に坐って、宗吉の話を聞き終ったお滝は、しばらひざを見つめていたが、やがて眼をあげた。

「貴方の云うとおり、ごまの蠅とか巾着切とかいう者かも知れないわね」

「そうでなくって五十両という金を、見ず知らずの旅の者にことづける訳があるかい、一分や二分じゃあない五十両だぜ」

 宗吉は酔わない酒をもう一つ呷った。

······おれはのたれ死をする覚悟まで決めたが、元の起こりは||伯母にさらわれた四十五両、それが返ったと思っちゃ悪いだろうか、これだけあれば小さくとも店が持てる、そしてお滝さん、······もしおまえに障りがないんなら、私と一緒に苦労をして貰いたいんだ」

 お滝はしずかに男の眼を見た。

 ······自分の気持が彼のほうへ、ありきたりでなく惹かれていることに、自分でびっくりしたような眼つきだった。それが男にも手で触るように通じた。

「今朝ここを立ってから、私の胸はお滝さんおまえのことでいっぱいだった、たった三日だったけれど、私はおふくろに抱かれたあとのようにここのところが温たかく、だらしのないほど別れてゆくのが辛かった、生れて初めてだ、こんな気持になったのは生れて初めてなんだ、お滝さん私はこれ以上もうなんにも云えない、けれども本気だということはわかって貰えると思うんだ」

「世の中に本当のものなんぞありあしないって、ゆうべ御自分で仰しゃったわね」

 お滝はじっと男の顔を見た。

「あれからまる一日も経たないのに、こんどは貴方の云うことを信じろと仰しゃるんですか」

「それとこれとは違うよ、私がどんなめに遭ったかはくわしく話した、あれを覚えていたら、私のああ云ったことはわかって呉れる筈だ」

「そうすると世の中はまるきり騙りやごまかし許りでもないという訳ですね」

 お滝の顔はにわかに引緊った。

「それじゃあお願いがあります、そのお金を頼まれた処まで届けて来て下さい」

「だってそんな、そんな、わかりきったことを」

「たぶんそうでしょう、仕事をしそこねた悪い人間が、危なくなって貴方にあずけたのかも知れません、けれどもそうではないかも知れない、なにか事情があって本当に貴方に頼んだのかも知れない、それをたしかめて来て下さいませんか」

「そうすれば、私の望みをかなえて呉れるんだね」

「膳所から帰っていらしったら」

 こう云ってお滝は金包を引寄せ、数を揃えてみたうえ、自分のふところから別に幾らか出し、それを紙にくるんでそこへ置いた。

······これは少しですけれど往き帰りの旅費です、お待ちしていますよ」

 昼飯を済ませるとすぐ、彼は膳所へ向けて柏屋を出た。

 さっきの男に会ってはいけないと考え、宿はずれで駕籠かごに乗った。舞坂から荒井までの舟渡しも、なるべく笠で顔を隠すようにし、上るとすぐまた駕籠を雇って、三河のくに二川の宿へ着くと、まだ日が高かったが旅籠を取った。

 お滝の頼みで来たものの、膳所へゆくのがむだだということは彼の頭から動かなかった。世の中がどれほど金と我欲と騙りで出来ているか、彼は骨身にしみて味あわされている、それなのにこんな大枚の金を道の上で、処も名も素性も知れぬ者にことづける人間があるだろうか。

「おとぎ草紙に書いて女こどもに読ませたって信じやあしない、わかりきったこった」

 往くのはそう、幾たびもそう考えたが、お滝との約束を破るということが気をとがめ、ずるずると不決断な旅を続けて、とうとう七日めに膳所へゆき着いてしまった。

 もうれていたのでその夜は宮前という処に宿り、明くる日はやく中大手西ノ辻を尋ねてみた。

 藤巻という家はあった、古びた黒い笠木塀かさぎべいをめぐらせた小さな構えで、門からひとまたぎの処に玄関が見える、宗吉はいちど通り過ぎて戻り、思いきって玄関に立った。声をかけると若い侍が出て、「とりこみ中だから主人は会えない」と云った。

「源之丞という方からお言伝を持ってまいったのですが」

「なに源之丞どのから」

 侍は急いで奥へ去り、すぐ出て来て庭へまわれと云った。そこから左へまわると三十坪ばかりの庭になり、床の高い縁側に五十歳あまりの中老の武士が立っていた。宗吉は腰をかがめて近寄り、持って来た袱紗包を取出しながら、馬郡の宿での仔細しさいを話した。藤巻という人は聞きながらそこへ坐り、両手を膝にきちんと置いて眼をつむった。

 頬骨の高い眉の厚い、謹厳そのものといった顔だちだが、癇性かんしょうなのか片頬だけ時どきかすかに痙攣ひきつるのがみえた。話し終って袱紗包を差出すと、相手はそれに眼も呉れないで鄭重ていちょうに頭を下げた。

「それはそれは、遠路のところわざわざお届け下すってかたじけのうござった、源之丞は拙者のせがれでござる、若年者のうろたえた思慮でかような御迷惑をお掛け申し、なんともおびの致しようがござらぬ、ひらに御勘弁が願いたい」



「いえ私のほうこそお詑びがございます」

 宗吉は慌てて低頭した。

······正直に恥を申上げますが、お預かり申したとき私は無一文でございました、そのうえ別に事情がございまして、どうしても二両一分ばかり必要になり、ちょっとした考え違いから小粒のほうの封を切ってしまいました、もちろんこの袱紗の中には五十金そろえてありますが、そういう訳で封を切ってございますので、そこをどうかお赦し下さいますよう、お願い申上げます」

「いやその斟酌しんしゃくには及ばない、このほうにはお志だけで充分でござる、失礼ながら暫く······

 藤巻中書はこう会釈をし、袱紗包を持っていちど奥へ去ったが、やや暫くして戻り、紙に包んだ物を白扇に載せて差出した。

「お招き申して粗飯など差上げたいが、さし迫ったとりこみがござってそれもかなわぬ、謝礼と申しては無躾ぶしつけだが、かたち許りの寸志どうぞ御笑納下されたい」

 そんなことをと辞退したが、相手はどうしてもきかず、結局それを貰って藤巻家を辞去した。

 ······宗吉の心は夜が明けたように明るくはずんでいた。

「本当だった、本当だった」

 外へ出るなり彼は躍りあがるような気持でこう叫んだ。

「ごまの蠅でも巾着切でもない、あのお侍は見ず知らずのおれを信じて、あれだけの金をあんなにあっさり預けたんだ、くすねられやしないか、たしかに届くだろうか、そんなことは爪のさきほども疑わず、出会いがしらの人間をいきなり信じてだ、······こんな人もいるんだ、世の中にはこんなに嬉しい事もあるんだ、おれも生きるぞ」

 打ちひしがれ絶望していた心が、活き活きと熱い血を噴きだした。これからはなんでもしよう、どんな苦しい事でもやりとおそう、暴風雨も洪水もおしまいだ、雲は散り日が輝きだしたんだ。

 ······まったくよみがえったような気持で、宗吉は宿へ帰るとすぐに立つ支度をした、するとふところからばったり紙包が落ちた、謝礼に貰ったまますっかり忘れていたのである。

「こりゃあ、······少し許りじゃあないぞ」

 受取ったとき金だということは見当がついていた、然しいま畳へ落ちた音は重たかった、さすがに胸を踊らせながら包を開くと、まず上に手紙のようなものが載っている、彼は手早くひらいて読んだ。

 それは極めて簡単なもので、

「昨日、早の使者があって、伜源之丞が舞坂において決闘し、相討となって死んだという報知があった、理由は云えないが膳所藩のおための死で、自分として心残りはない、然し伜の決闘は親の自分が責任を負わなければならぬ、今日あすにも追放の御達しがあると思い、その支度をしている。

 就いてはせっかく遠路お届けにあずかった物だが、自分たち夫婦にはもはや使途もなし、旁々かたがた伜が最期の際の御縁もゆかしく思われるので、是れはそのままそのもとに納めて頂きたい、いかなる境涯の人かは知らないが、末ながくお栄えなさるよう祈っている」

 あらましそういう意味のことが書いてあった。

 ······それはさわやかに割切った、清すがしいほどあやのない文言である。

 深い仔細はわからないが、国のため主家のためによろこんで死ぬ子、いささかも心残りなくその責任を負って追放される親、······彼が馬郡の宿でことづかった金の蔭には、こんなにも悲痛な、けれどこんなにも力づよい生きざまが隠れていたのだ。

 彼は手紙を巻いて金包をあけた。持っていったままの五十両がそっくり出てきた、五十両。

 ······丁稚奉公を十年して溜めたあげく、伯母に奪られた金は四十五両、殆んど労せずしていま此処に五十両。

「金じゃあない、金じゃあないんだ」

 宗吉はうめくようにこう呟いた。

「十年溜めたものを横取りされた、おたまにだまされた、清吉にどうされた、おれはそんなことくらいでやけになっていた、······みんなてめえのこと許りじゃあないか、てめえ独りの······

 宗吉は身ぶるいをした。

「源之丞という人は自分のために死んだんじゃあない、あの親御さんはろくを放されても悔んだりうらんだりしちゃあいない、それ許りかちっとも心残りはないとさえ云っている、······こう生きなくちゃあいけないんだ、人間はこう生きなくちゃあいけないんだ」

 世の中の広さ、人間の生き方の深さ、宗吉にはいまおぼろげながらそれが見えだしたようだ。彼は大きなちからが躯いっぱいに溢れるような気持を感じながら、そっと眼で笑ってこう呟いた。

「おまえに逢えてよかったな、お滝、······これからいっしょにやろう、世の中は苦労のしがいがあるぜ」






底本:「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」新潮社

   1983(昭和58)年8月25日発行

初出:「講談雑誌」博文館

   1947(昭和22)年9月号

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:栗田美恵子

2021年12月27日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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