魚金の店は北八丁堀の河岸にあった。二丁目と向き合った角で、東と南の両方から出入りができた。魚金は一
金助は四十五であった。彼はもと深川で魚屋をしていたが、お梅が八つになったとき女房に死なれ、まもなくこっちへ移って来て、このしょうばいを始めた。がっちりと骨太に肥えた、
||おれは
誰でも考えることかもしれない。が、金助はそれを実行し、その気構えをいつまでも忘れなかった。
娘も父親によく似た性分であるが、八つの年から片親で、おまけにこういうしょうばい柄(女の子だけに)早くからませていた。顔だちも
店の土間には五人ずつ並べる飯台が四つ、坐って飲むための四帖半の小座敷が一つあった。二方の壁には品書などはなく、片方に桜井秋山の山水、片方に師宣の肉筆の風俗画が懸けてある。秋山はそのころ流行の画家であり、師宣の肉筆は浴後の美人で、むろんどちらもさして高価な品ではないが、そんな店には似合わない飾付であった。
二人の小女、おそめとおよのはおない年の十五であった。おそめのほうが
魚金は朝五時から夜十時まで店をあけていた。
二百二十日も過ぎて、にわかに秋めいてきた或る朝。ひとわたり客が来て去ったあとのことだが、顔色の
「あらいらっしゃい中さん、おひとり」お梅がにっと笑いかけた、「ばかに早いじゃないの、六さんはどうなすって」
「||一本つけてくれ」
若者は云った。娘のほうは見もしなかった。ふところ手のまま飯台へ
「また
「酒をつけてくれってんだ」
若者はそっぽを見たまま云った。娘はなにか云い返そうとした、けれども右手で誰かを呼ぶような身振りをし(「しようがない」とでもいうように)のれん口から板場へ入っていった。二人の小女は奥で朝食を喰べていた、店にはほかに客はなく、拭き込んだ飯台に外からの光りが映って、冷たそうに光っていた。若者は顔を
「ちぇっ、
娘が膳を運んで来た。
「お
若者は黙っていた。
「かきたまお好きだったわね、かきたまに
「いらねえよ、そんなもの」
若者は膳の上から徳利を取った。
「どなることはないでしょ」お梅は悲しそうな眼つきをした、「自分たち同志で喧嘩をして、あたしにとばっちりをくれることはないわ、あたしなんにも知りゃあしないじゃないの」
「どなったわけじゃねえ」若者は手酌で四五杯、続けさまに
「あんたたちどうしてそう喧嘩をするんでしょ、いっそべつべつになっちまえばいいんだわ」
娘は板場へ入っていった。金助はいましがた買出しにでかけたあとだった、お梅は
「四年も五年も一緒に
「うるせえ、よけいなことを云うな」若者がお梅を
「なにもあたし、悪くなんか、あたしただ」
「六助はいい人間なんだ」若者は椀を取りながら云った、「おめえなんぞ知ったこっちゃねえや」
お梅の眼に涙があふれてきた。お梅は黙って板場のほうへ去った。それは愛する者にすげなくされた娘の、哀しくやるせなげな姿に似ていた。そういう情合がかなりあらわに感じられた。若者は酒を二本飲み、飯を喰べて帰った。お梅はしまいまで給仕をしたが、ひと言も口をきかなかった。そして若者がたち去ると、あとからそっと往来へ出て、うしろ姿を見送った。若者は気のぬけたような歩きぶりで、弾正橋の手前を右へ、越中堀に沿って曲っていった。
お梅が店の中へ戻ると、待っていたように、また一人の若者が入って来た。
「お早う」と彼はお梅に云った、「済まないが酒をつけてくれないか」
「いらっしゃい、いま中さんが帰ったとこよ」お梅は元気そうに微笑した、「また二人で喧嘩したんでしょ、中さんたらいきなりひとをどなりつけたりして、あたしがさも悪いみたいにけんつくをくわすんだもの、あのひとすっかりいけなくなったわ、まるっきり
「済まないがやめてくれないか」彼は穏やかに
「中次はおれの友達だからな、おれの前で友達のことを悪く云うのはよしてもらいたいんだ」
お梅はきっと唇を
「いつもこれなんだから、いい
六助と中次は棒組の
六助は肥えていた。年は二十七であるが、うっかりすると四十くらいにみえた。固ぶとりで毛深くて、あぶら性で、太い眉毛や大きな眼や鼻のまわりに、いつも
||どうして
六助はにやにや笑って、それから
||これにはわけがあるんだ、これをきれいに剃るわけにはいかねえんだ。よっぽどの事がねえ限り、こいつはこのくらいにしておかなくちゃならねえんだ。
そして胸毛を
中次は肥えてもいず
六助は動作がゆっくりしていた。話しぶりも
中次はせっかちでもなく、悪くおちついてもいなかった。少し
二人は与兵衛店の、堀のほうから数えて七軒めと八軒めに住んでいた。二人で七軒めにいるときもあるし、八軒めにいるときもあった。また七軒めと八軒めとに、分れて住んでいることもあった。分れているときは喧嘩をしているので、そうなるとお互いに口もきかず、稼ぎにも出ずに遊んでいた。しかしそれは長くは続かなかった。二人ともほかに友達はないし、これという道楽もなかった。将棋と釣りが好きであったが、それは二人いっしょでなければ面白くなかった。たいてい五日か七日、長くとも十日くらいで仲直りをした。仲直りをするとどちらかがどちらかと一緒になった。六助が中次のほうへ移ることもあるし、その反対のこともあった。そのためには、どっちか一軒はいつも
||おまえさんは家主のくせにそんな生木を裂くようなまねをしていいのか。
与兵衛には意味がわからなかった。
||考げえてみろ、とかれらは云った、今は一緒にいるけれど、また喧嘩をすれば分れなければならない、そのとき隣りが空いていないとすれば一人はどこかよそへゆく勘定だから、つまり生木を裂くわけだろうじゃないか。
与兵衛は初めて了解した。けれども家主の立場としては、たとえ長屋の一軒にもしろ唯で空けてはおけなかった、そこで両者は相談をし、空いているときでも、二軒分の店賃を払うということで落着した。
二人は小ざっぱりと暮していた。食事は三度とも外で(殆んど魚金のことが多い)済ませ、家では煮炊きをしなかった。勝手には
かれらは京橋の北詰で
駕籠は五郎兵衛町の「駕籠庄」で借りた。二人はもと駕籠庄に雇われていたが、金持や成上り者は客に取らなかった。威張っている人間や
||おれたちは堅気の稼ぎ人だ、道中の雲助とは違うんだ、みさげたまねをするな。
そしてやはり金持や成上り者は乗せなかった。
かれらはその言葉どおり「堅気」であった。
||女に好かれるわけがねえや。
中次も六助もそう信じていた。したがって「魚金」のお梅がいくら中次に熱をあげても、中次のほうでは感じないのであった。お梅が自分に熱をあげているなどとは、爪の
「どうしたのよいったい、いつまで遊んでるつもりなの」お梅が云った、「もう半月にもなるじゃないの、いいかげんに仲直りをしたらいいでしょ」
「そうしたいんだ」と六助が云った、「おれはもう飽き飽きしちまった、なんにもすることがないんで退屈で退屈でしようがないんだ」
「だからさっさと仲直りをすればいいじゃないの」
「それがさ」六助は頭を振った、「おれはそうしたいんだが、あいつの顔を見ると舌が動かなくなっちまう、またあいつも退屈しきって、身をもて余しているくせに、おれの顔を見るとむっとそっぽを向いちまうんだ」
「両方で意地になってるんだわ、ばかばかしい」お梅は六助に酌をした、「いったい喧嘩のもとはなんなの、こんどはなにがもとで喧嘩になったの」
夜であった。外は雨が降っていた、午前から降りだした雨が、そのまま時雨のように陰気に降り続いていた。魚金の店も静かで、六助のほかにもう一人しか客はなかった。四十ばかりになるその客は、小座敷で飲んでいた。およのに酌をさせて、およのをからかいながら、もうすっかり酔っていた。
「お世辞を云うわけじゃないがね」その客の云うのが聞えた、「お世辞じゃないが、おまえさんは男に好かれるよ、ええ、好く好かれるは顔かたちじゃないからね、これは気分のものだからね、本当ですよ、あたしゃお世辞は云いません、およのちゃんのようなひとは······」
「つまらない話さ」六助は
「そうでないことはないじゃないの」
「それにしてもさ」と六助が云った、「子供じゃあるまいしいい若い者が、雷獣はひっ
「あらどうして」お梅は云った、「雷獣ってかみなりさまの落ちるとき一緒に落ちて来るあれでしょ、あれなら六さんひっ掻くわよ」
「ひっ掻きゃしないんだ」
「だってみんなそう云うわよ、あたしだっていつかお
「ひっ掻きゃしないんだ」六助は辛抱づよく云った、「かみなりと一緒に落ちて来もしないんだ、もともと雷獣なんてものはいやしないんだよ」
「どうしていないの」
「どうしてって、いないからいないのさ、雷獣だなんて、つくり話に定ってるじゃないか」
「あらいやだ、それじゃあお日枝様の御神木のあれは誰がひっ掻いたの」
「誰がって」六助はお梅を見て、ぐっと渋いような顔をした、「どうしてそう、ひっ掻くことにこだわるんだ、誰がなんのために御神木なんぞ······まあお聞きよ、本当はこうなんだ」
「それは聞かないでもらいたいね」と小座敷の客がおよのに云った、「店の名がわかるとすぐ旦那なんて云われるからね、あたしは旦那あつかいをされるのが、なにより嫌いなんですよ、ええ、お世辞じゃないがおよのちゃんなんぞとこうやって気楽に飲みたいからこそ、このうちへも来るんでね、いいえお世辞じゃないけどさ、いそと呼んでもらいましょう、五十と書いていそとよむあのいそ、店の名はね、それはひとつ聞かないようにね、ええ」
おそめが酒の
「そうかしら、あたしはそう思えないけれど、でもそれ······誰が云ったの」
「おれの親父が云ったんだ、おれの親父はなんでもよく知っていたんだ」六助は眼をすぼめて、まじめな口ぶりで云った、「しょうばいは石工だったが、石工としても土地では腕っこきといわれたものなんだが、ずいぶんいろいろな本を読んで、······親父は字もうまかった、神主の丹波さまも
「じゃあ本は書かなかったのね」
「書かなかったよ」
「いったいどんな本を書くつもりだったの」
「それがさ」六助は両手で
「あら、神仏もないって云うの」
「そうなんだ、雷獣なんてものもないし、竜とか鬼とか、魔なんてものもない、狐や狸が化けるってこともないし、幽霊だの
「じゃあ、あんたのお父っさんてひと、ずいぶんつまらなかったでしょうね」お梅は同情の太息をついた、「わかるわ、あたし、どうしてあんたのお父っさんがいつも癇癪を起こしたり、酔ってばかりいたかってことが」
「おれの親父がつまらなかったろうって」
「そうよ、そんなになにも無いってことがわかったら、世の中なんてつまらないじゃないの」お梅は酌をしながら云った、「それもいいけれど、そんなことであんたと中さんが喧嘩するなんてもっとばかばかしいわ、だいたい六さんが大人げなくってよ、あんな女の腐ったみたいなにやけたひとを相手になにさ」
「今夜はいやにずけずけ云うな、そんなふうに云っていいのか」
「だってそうなんだもの」お梅はじれったそうに云った、「いつもむっつり、煮えたも焼けたもわからないような顔で、まるで女の腐ったみたいよ、銀流しだわあのひと」
「済まないが勘定をしてくれ」
「あら、また怒ったの」
「帰るから勘定してくれっていうんだ」
「怒るんなら怒んなさいよ」お梅は立ちながら云った、「半月も喧嘩をしているくせに、ちょっとなにか云うとすぐおれの友達だって、そんなに友達おもいなら喧嘩なんかしなければいいじゃないの、いくらでも云ってあげるわ、中さんなんか女の腐ったみたいでいやみでにやけた銀流しよ、あんなひと大嫌いだわ」
そして帳場のほうへ去った。
「ほんとですよ、お世辞なんか云わないよ」小座敷で男が云っていた、「あたしはおよのちゃんに首ったけだよ、お世辞ぬきで本当におまえさんとひと苦労してみたいね、ええ、ほんとうですよ」
六助はおそろしく苦い顔をして、残りの酒をぐっと
「ひでえことを云う娘だ」
六助は外へ出ると少しよろめいた。
「ひでえ娘だ」傘をひろげながら、彼は口の中で呟いた、「だんだん口が悪くなる、まえにはあんなじゃなかった、まえには、去年だってもっと
「どういう気持なのか」と六助は首を振った、「どんなこころもちなのか、銀流し······」
明くる日の夕方であった。長屋の七軒めの家で、六助は独りで酒を飲んでいた。もちろん食器もなにもない、みんな魚金から届けて来たものであった。二人が稼ぎを休んでいて、食事どきに店へゆかなければ、魚金のほうから届けて来るのが、定りになっていた。今日は届けに来たおそめに酒の追加を命じ、彼はもう五合ばかりも、冷のままで飲んでいた。けれども、そのために昨夜のことにこだわっているわけではなかった。酔っているために独りでお梅にからんでいるのではなかった。ただしぜんと口に出るのであった、ほかにはこれといってからむものがない、生活はつねに単純に割りきっていた。あとでむしゃくしゃしたり、いつまでも頭にひっかかるようなことは決して残さない習慣であった。中次のことを思うのがやりきれないとすれば、お梅の毒舌にからむよりしかたがないのであった。
「||いるか」
外で声がした。そして障子に人の影が映った。この長屋の家には入口がない。土間の付いた入口というものがなかった。六帖ひと間の、路次に面して障子があって、出入りはそこからするのである。その右にある腰高障子は勝手口だが、どっちから出入りするにしても、履物は戸外へ置くことになるし、雨の日や寝るときには勝手へ上げるのであった。
「||いるか」
外でもういちど呼ぶ声がした。こんどは少し高かったので、六助は「おい」と答えた。答えて、障子に映っている影を見て、彼は顔を崩しながら大きな声で云った。
「あけて入ってくれ、一杯やってるところなんだ」
障子があいて、中次が顔を見せた。
「やってるのか」
「このとおりさ」と六助はうきうきと云った、「まあこっちへ来てつきあってくれ」
「
中次はあがって、障子を閉めて、六助の脇へ来て坐った。やっぱり酔っているらしい、顔色が
「まあ、これで一つやってくれ」
「おらあ肚を立ててるんだ」中次は盃を受取りながら云った、「癪に障ってしょうがねえんだ」
「なにをそんなに怒ってるんだ」
「お梅のやつよ、あの魚金の娘のやつよ」
「聞いたか、あれを」六助が云った、「そいつをぐっとやってくれ、まあもう一つ、······おめえ聞いたのかあれを」
「だから肚が立つのよ、いつもは猫をかぶってやがって、ひと皮むけばげじげじ
「げじげじ閻魔だって」
「いつも無精髭を伸ばしてるし、胸からなにから毛むくじゃらで、おまけに二人の喧嘩でおっかねえ顔をしているから」
「ちょっと待ってくれ」六助は眼をすぼめて云った、「そいつは、まさか、よもや、おれのことじゃあねえだろうな」
「おめえのことよ」中次は盃を持った手で自分の
「おれのことをだな、お梅が」
「げじげじ閻魔ってよ」
六助はふくれた。自分でもふくれたのがわかった。中次は友の顔を見て
「ふざけた娘だ」六助は云った、「こうなると云ってやらなくちゃならねえ、おめえにはおれのことを悪く云い、その口でおれにはおめえの悪態をつく、ようし、ひとつこれからいってとっちめてくれよう」
「おれの悪態をついたって」
「癖になる」六助はひょろひょろと立った、「でかけていって、ひとつぎゅっというほど」
「おれのことをなんて云ったんだ」
「どうせでまかせよ」六助は口を外らせ、腕を貸して中次を立たせた、「女なんてものはおめえ、あとさきの考げえなしにものを云うもんだ、······けれども、こんどばかしは勘弁がならねえ」
「そうだ、こいつばかりは勘弁ならねえ」
二人は
「ねぎまに
などと他の客に掛りきりであった。
「なんにしますか」
およのが注文を聞きに来た。笑いたいのをがまんしている顔つきであった、注文を聞いて去るときにはいそいで前掛で口を押えた。二人はむっとして、さらに肩をいからかした。
二人は黙って飲んだ。もう酒は
「あいつはいってえなんだ」中次が云った、「この頃ちょくちょく
「いそってえ名前だそうだ」六助が云った、「ゆうべは四十くらいにみえたが、今夜は五つ六つ老けてみえる、自分では
中次はふんと云った。六助は眼をすぼめ、盃を口まで持っていったが、眉をしかめて下へ置いた。まもなくお梅が酒を運んで来た。お梅は二人に気づかれないように、そっと来て、
「いらっしゃい、よかったわね」
二人はぎくりとした。そしてお梅を見て、お梅の笑い顔を見て、二人ともいっぺんにてれたような表情になり、殆んど同時に、ひょいと頭を下げた。
「やあどうも」と六助が云った。
「いろいろどうも」と中次が云った。異口同音だったので、お梅がぷっとふきだした。二人も笑いだした。
「いろいろ心配させちまって」六助が元気な声ですなおに云った、「どうも済まねえ」
中次も「済まねえ」と云い、二人でもういちど頭を下げた。かれらはお梅の笑い顔を見たとたんに、了解したのであった。どうすれば二人を仲直りさせられるか、お梅は知っていたのである。そして、二人はお梅の思う壺にはまったのであった。
「なるほど、そうばかりでもないもんだ」六助は首を振りながら呟いた、「女だといっても、あとさきなしにでたらめを云うとも定らないもんだ」
二人は陽気になった。鼻についた酒がまた美味くなり、飲めるようになった。半月間のお互いに
「あたしは気にいりましたよ、ええ、お梅ちゃんから聞いてましてね、友達というものはそうなくちゃあならない、お世辞じゃないがいいもんですな、じつにいいもんですよ、ええ」
六助は眼をすぼめた。いつのまにどうしてそんなことになったか、例のいそという商人風の客が、二人の席へ来て坐っていた。
「どうしたんだこれは」六助は中次を見て云った、「この人はいつ此処へ来たんだ」
「箱根までゆくんだ」中次がもつれる舌で答えた、「通し駕籠で箱根までよ、おれとおめえとで、駄賃は五両だ」
「箱根がどうしたって」
「まあまあ、一つぐっとやって下さい」いそという男が云った、「話はもう定ったんだから、おまえさんたちの仲の良さに
「わけがわからねえ」六助は首を振った、「通し駕籠で五両、······箱根まで、······ういっ」
じつのところ六助はわけがわからなくなった。暗闇や、八間の灯や、人の顔がちらちらし、器物の音や、誰かの話したり笑ったりする声などが、遠くなり近くなったりして聞えた。そして、やがて、それが混沌と重なり合って、子守り歌のように彼をあやし、彼の意識を
明くる日、六助は猛烈な
「案外だが人の好い旦那らしい」と中次は云った、「ちょうど湯治にでもゆきたいと思ってたところだから、二人の仲直り祝いに稼がせてやろう、よかったら二三日湯につかって来るがいい、という話なんだ」
「うますぎる」六助が浮かない顔で云った、「垢だらけの足で桐の駒下駄を貰うような心持だ」
「だって初めにおめえが承知したんだぜ」
「冗談いっちゃいけねえ」
「おめえが承知したんだ」中次は云った、「お互いに二十日ちかくも遊んですっからかんだ、五両なら悪くはねえ、初めての長丁場だが、肩代りなしに二人でやろうってよ」
中次はもう手配を済ませていた。駕籠庄へいって切手を作って貰い、小遣も借りて来ていた。駄賃を先に
「おらあ酔っていてなんにも知らねえ、そう云われてもまるっきり覚えがねえ」
「じゃあどうするんだ」中次は声を
「怒るのは勘弁してくれ、いやだと云うんじゃねえんだ、おめえが承知ならそれでいいんだ、ただ話のうますぎるのが気になっただけなんだから」
「おらあ無理にゆこうたあ思わねえんだ」
「わかったよ」六助は閉口して云った、「あやまるから機嫌を直してくれ、そして明日はひとつ、気持よくでかけるとしよう」
中次は「うん」と云ったが、機嫌は直らないようであった。六助の渋るのをみて、彼もまたいやきがさしてきた。本来なら断わる仕事であった。いそという客もじつをいえば気にくわないし、五両という駄賃も莫大すぎた。喧嘩のために半月以上も遊び、すっからかんになっていたのと、たまにはそのくらいの金を持ってみたいという気持から、つい引受けたのが、今になってみると逆に不愉快でいまいましくなった。
「六郷から向うは初めてだな」六助が励ますように云った、「金を貰って遊山旅をするようなもんだ、しょうばい
中次は「うん」と云うだけであった。
翌朝の五時、二人は弾正橋でいそという客とおちあい、箱根へ向って出発した。気分は重かったし、大森で早めの昼食をするとき、二人は客がかなりな金を持っているらしいことについて、囁き合った。
肩に当る感じでわかるという、金五十両から上は間違いなくわかる、なかには十両でも「肩へこつんとくる」と云う者もあるが、そのときの感じではかなりな額らしかった。
||このくらいか、六助は指を二本みせて眼で
その日は神奈川泊りにした。第一日だから、ということだったが、宿へ着くとすぐ、客は二人に金を預けた。
「お世辞じゃないがおまえさんたちを
そして胴巻を預けられた。預かるについて、念のために数えてみたところ、大判で四百両、小判で五十両あった。もちろん封まで切りはしないが、六助と中次はわれ知らず眼を見合せた。その多額な金は、二人から不吉な予感を除いてくれたばかりでなく、浮かない気分からも解放してくれた。草津のときは二百両も盗まれたという、またこれだけの金をむぞうさに預ける。こんなことが大店の旦那でなくて誰にできるだろうか、悪人やいかがわしい人間に、そんなおうようなことができるだろうか。
「人はみかけによらねえものだ」六助があとで云った、「みかけだけで人を判断するのはよくないもんだ」
中次は頷いて、満足そうに太息をついた。
旅は快いものになった。客は(魚金にいるときとは別人のように)無口で、むだなことを殆んど云わなかった。二人にとってはそれはなによりも有難かった。二人は初めて見る野山の景色を眺め、家並や人の変った風俗に興じ、正しく六助の云うように「しょうばい冥利」を楽しむことができた。まだ昼のうちは残暑も感じられるが、江戸市中とは比較にならなかったし、渡って来る風はまったく秋であった。二日めは藤沢の西の、南湖という間の宿で泊った。
「大山へ登る道だったな、藤沢は」
宿で泊った夜、二人はそんな話をした。
「そうよ」六助が云った、「あそこには有名な
「それはお詣りのあとのこった」と中次が云った、「道了様は荒神だから、遊んだ人間なんぞ登ると大変なことになるんだ」
「どっちでもいいけれども、道了様てえのはおめえ小田原だ、大山はたしか阿夫利神社ってんだぜ」
「そうかい、へえ」中次はつんとした、「大山はあぶり神社ってのか、あぶり神社、へえあぶり出しでも売るのかい」
六助は黙った。雷獣の件もそうだが、中次はものを識らないくせに、間違いを訂正されたり教えられたりするとすぐに怒る。六助のほうにはわる気はないのだが、中次としては自尊心を傷つけられるらしい。二人の喧嘩の九割まではそういう問答から始まるのであった、六助はそれで話を打切りにし、寝返りを打って眠った。
三日めには馬入川を越して平塚、大磯から小田原までと思っていたが、花水橋というところでいやな事が起こった。代官所の下役人が道に出ていて、客が
「どこのなに者であるか、商売はなにか、どこへなに用でゆくか」
そんなことを、妙に
明くる朝、五時に宿を立って、
「その駕籠、おろせ」
と喚きながらこっちへ来た。喚いたのは役人らしい、
「中の者出ろ」同心態の男がこっちの駕籠の脇へ来て云った、「これへ出ろ」
「いったいなんですかい」中次が癇に障ったように云った、「この客はあっし共の知合で、江戸から箱根へおいでになる途中」
「きさまは黙れ、中の者に用があるのだ」と同心態の男はどなり返し、ふところから朱房の十手を出した、「もはや

いそという客が出ようとするので、六助が雪駄を
「こいつです、この男です、ええもう間違いはございません、この男でございます」
「なにが私でございますか」客は不審そうに反問した、「私は江戸日本橋槇町で、京呉服の店を営んでいる山城屋五十平という者でございますが」
「こういうしらじらしいことを」
「いや宜しい」役人は男を制した、「こやつが紬屋藤吉だということは自分がよく承知している、ひとまず番所へ
役人は十手を自分の額にかざしてみせた。つまり法が発動されるという意味で、当今の令状呈示より尊厳な作法であった。いそという客は温順に頭を下げた。
「宜しゅうございます、どこへでもまいりましょう」おちついた声で云った、「なにかのお間違いと思いますが、調べて頂けばわかることで」
「神妙である、歩け」
役人は十手で道の向うを示した。
「ちょっと待っておくんなさい」六助が
「
「ぺてん師」六助は眼を
「これにいるのは小伝馬町の米村と申す太物問屋の手代、こいつに大きくひっかけられた被害者の一人だ」役人は歩きながら、ふとこっちを見た、「きさまたちもくわされた組らしいな、駄賃は五両と云ったのか」
「しかしそれにはちょいと訳がありますんで、へえ、あっし共の仲直りの祝儀という」
「江戸の人足にも似合わない」役人は皮肉に微笑した、「どんなわけがあるにしろ、箱根まで五両とは法外な駄賃だ、それをまに受けるとはきさまたちのほうがどうかしているぞ」
六助は「ぎゃふん」と云いたかった。役人の言葉はそう云わせるような調子だったし、六助としてはまさにそう云いたいような気持だった。
「そうするとどうなるんですかい」中次が肚を立てたように云った、「あっし共はまだ一文も貰っちゃあいねえ、此処まで手弁当で来て、江戸へ帰る小遣にも困ってるんですがね」
「諦めるんだな」役人は笑った、「欲にひっかかった罰だ、これからは気をつけるがいい」
六助と中次は茫然と立停った。
役人と米村の手代という男とは、いそを伴れて、(あとから二挺の駕籠も一緒に)大磯のほうへ去っていった。そっちに代官所でもあるらしい、······こちらの二人は道の上に駕籠を置いたまま、ながいこと気の抜けたように立っていた。
「しょうがねえ」やがて六助が云った、「帰るとしようか」
中次は頷いて、先棒のところへいったが、そこで六助のほうへ振返った。六助もそっちを見ていたが、とたんに二人一緒に云った。
「おめえはおれを悪く思ってるんだろう」
異口同音であった。お梅がいたら笑うところだろうが、お互い同志ではくさるばかりである。二人とも顔をしかめて、無精ったらしく駕籠を担ぎあげた。むろん空駕籠であるが、担ぎあげたとたんに、ずんと肩に重みのかかるのが感じられた。
「おい、へんじゃねえか」
中次が云った。六助もへんだなと思ったところで、「うん」と云った。が、とたんにおっとばかり高い声をあげた。
「金だ、きょうでえ、あの客の金だぜ」
中次もあっと叫び、慌てて駕籠の中を調べた。すると敷物の下から例の四百五十両、ずっしりと重くふくれた胴巻が出て来た。二人はぎょっとして眼を見合った。
「追っかけよう」六助が云った。
「しかし」と中次が云った、「まさかぺてんのかかりあいになりゃあしめえな」
「なっても因果だ、いそげ」
二人は駕籠を担いで走りだした。正金で四百五十両、そのままずらかることもできた。江戸からこの大磯まで手弁当、帰りの銭にも困っているのに、「このまま逃げたら」という考えさえうかばない、
それから約
「禍い転じて福となるってのはこのことだな」六助が云った、「あの米村の手代って人はよっぽど嬉しかったらしい」
「金がそっくり返ったんじゃねえか」中次はわざと冷淡そうに云った、「諦めていた金がそっくり返ったんだ、このくらいのことはあたぼうだ」
「だっておめえ十両だぜ、箱根までいって五両、それが倍になったんだ、盗めば首の飛ぶ高だぜ」
「驚くにゃあ当らねえ」中次が云った、「五両が十両になるのもあたぼうだ、事の起こったのがおめえ大磯じゃねえか」
「大磯ならどうしてあたぼうだ」
「大磯は曽我兄弟に縁のある土地だろう、とすればおめえ五りょう十りょうだ」
「この野郎」と六助が喚いた。
「ざまあみろ」と中次が笑った。街道には馬の鈴が平穏に聞えていた。