居合腰になってすーと障子を明ける、そのまましばらく屋内のようすを聞きすましてから、そっと廊下へ忍び出た。とたんに、

袖も
「||またか!」
ここは伊豆の修善寺、
ところがここに妙なことが起った。というのは、宿の寝鎮まるのを待って、三次が自分の部屋をぬけ出すとたんに、隣の部屋で端唄を唄いだす者がある||それがまた不思議に三次の胆へびんと響いて、どうにも足が竦んでしまうのだ。今夜もこれで二度目になる、
「畜生」
三次は口惜しそうに呟いた、「高の知れた端唄ぐれえが、なんでこんなに胆へ
小首を

露のけはいもあさましや
麻の葉染めの
「まてよ。薗八節で文句はいつもきりぎりす、薗八節できりぎりす。どこかで聞いたことのある文句だぞ||」
しばらくじっと考えていたが、不意に、
「あっ、暗がりの乙松だ」
と
暗がりの乙松といえば、天保三年八月お仕置になった
「それで分った」
三次は
にやりと冷笑した野火の三次は、まだ聞えている隣の唄へ、まるで挑みかかるように
隣の部屋の唄声がはたとやんだ。
「||馬鹿野郎」
低い含み声が聞える、「とうとうやりゃあがったか、まだ若そうなやつだったが······」
人の立つ気配がして、ぼーっと
「泥棒だ||!」
と絶叫するのが聞えた。
「泥棒だ、泥棒だあっ」
しんと寝鎮まった宿の内へ、びん! と響きわたる喚き、騒然とあちこちで客の起出る気配のする廊下を、野火の三次||
「しまった、しまった」
と夢中で自分の部屋へ入ろうとした。そのとたんに、隣の部屋の障子が明いてすっと手が出る、素早く三次の腕を
「若いの、こっちへ入んねえ」
云いさま、ぐいと引入れて後手に障子をぴたりと
「そこへ坐れ」
と有明行燈の前の座蒲団を示した。
年は四十一か二であろう、浅黒い顔に眉の濃い、眼にちょっと凄みはあるが唇元の緊まった品のある顔つき、宿の浴衣に
枕もとには寝酒の支度ができていて、その向うに将棋盤があった。どうやら今まで独り指しを
「まあ一杯やんねえ」
男は落着いた手つきで
「へえ||」
「落着かなくちゃいけねえ、もうすぐ
「頂戴いたします」
三次は盃を額へもっていった。男は酒を
「お前指せるか」
「へえ、ほんの真似だけで」
「検めの
手を読む暇もなく三次は角道を止めた。
廊下をこっちへ、がやがやと人声が近づいて来る、部屋をひとつひとつ検めているらしい、男は手酌で一杯やると、
「うーむ、止めたか」
と
「ええ御免くださいまし」
声をかけながら障子を明けた。宿の亭主をはじめ七八人の男たちが、向う鉢巻に尻端折り、六尺棒を持ってずらりと並んだ。
「おやおや、たいそうな出立だな」
男は振返って、「何かあったのかえ||?」
「お騒がせ申して相済みません、いま向うの離室へ泥棒が入りましたので、順繰りに見回っているところでございますが」
「そいつぁ物騒な、何か盗られなすったか」
「いいえ、幸いとお客様が早く気付いたので、べつに盗まれた物はありませんが、どうやら外から入った賊ではないようすゆえ、念のために検めておりますので」
「そうかえ、こっちゃあまたさっきから将棋に夢中で何も知らなかった」
男は部屋を指さして、「かまわないからこの部屋も検めていっておくれ」
「とんでもない、
「そうかい、それは御苦労だったな」
亭主は
どうなることかと、腋の下へ冷汗をかいていた三次は、検めの人声が遠ざかり、やがて階下へ消えて行くと、いきなり座蒲団から滑下りて両手をついた。
「ありがとう存じます、お蔭で危いところを助かりました、暗がりの親分||」
「何だと?」
男の眼がぎらりと光った。
「お怒りなすっちゃあ困ります」
三次は声をひそめて、「あっしが仕事をしようと、部屋をぬけ出すたびにお唄いなすった薗八節、しかも文句はきりぎりす······三年まえに江戸から足をお抜きなすった、暗がりの乙松親分が御自慢の唄、江戸八百八町、今でも知らねえ者あごさんせん」
「そうかえ。薗八のきりぎりす、そんなに名が通っていたかえ、そいつぁ大笑いだ」
「あっしゃあまだ駈け出しで、野火の三次という者でござんすが、||改めて親分にお願えがござんす」
「何だかいってみねえ」
「こんなけちな青二才でお気にゃ召しますめえが、どうか子分にしてやっておくんなさい、お願え申します」
「ふっふ、いまの腕でか||?」
「今なあまったくどじを踏みやした、その代り今度は外れっこのねえ仕事をお眼にかけやす、それを手札代りにどうか」
「そりゃあこの土地か」
「へえ、つい街道向うでござんす」
相手はぎろりと三次を見たが、
「おらあ血を見るなあ御免だぜ」
「あっしも江戸育ちでさあ、けっしてそんなぶまなこたあ致しやせん」
「そうか、じゃあ何だ、とにかくお前の腕を見せてもらうとしよう、話ゃあそれからだ。||おっと三の字、断っておくがおいらここじゃ梅田屋で通っているんだぜ」
「承知でござんす、梅田屋の旦那」
「ふっふっふ、まあ忘れねえように頼む」
暗がりの乙松、ではない梅田屋は、
とっぷり暮れた空に夕月がかかっている。
風のない初夏の
娘のほうは十六か七であろう、
「聞くまではおらも知らなかっただ」
娘は
「お主の聞違えじゃあるまいの」
若者の声は慄えている。
「聞違えすることかよ、
「姉さんはどこへ行っただか」
「沼津の
「とんだことになったのう」
「姉さは家のために身を売らしっただに、妹のおらが安閑としてこんな······」
「何を云うだ」
若者は
「茂吉さ、そんなこと云わねえでくろ、おらこそ茂吉さに済まねえと思ってるだ」
「何が済まねえことがあるだよ」
「お女郎の姉さなどもつようになったおらを嫁にもらったら、世間できっと何ぞかぞ云うに違えねえ、それを考えるとおら······」
「お
茂吉は思わず娘の手を握った、「おぬし、いまからそんな心配してどうなるだ、たとえ世間が何と云おうと、家のために身を売った姉さんなら立派なものでねえか、おらあ大威張りでお主をもらってみせるだ」
「じゃあ嫌やしねえだの?」
「お稲さこそおらを忘れるでねえだぞ」
娘は身を
この丘を北へ、だらだらと下ったところに、土蔵二戸前、別棟の
「あの家でござんす」
と指さした。
「なんだえ、仕事というのは百姓家か」
「百姓は百姓でも
「お前ひどく
「めどをつけるからにゃ洗ってありまさあ、しかも今日はちょいとまとまった
「まあやってみろ」
「へえ、ちょいと御免を
三次はすっと杉林を出て行った。
そこから百姓家の母屋までは、歩数にしてほんの十二三歩だが、こっちはこんもり茂った杉林の暗がりで姿を見られる心配はない。三次は百合畑の脇から横庭へぬけて、すっと土間の中へ入って行った。
静かな宵だ、どこか近くに用水堀でもあるらしく、蛙の声が澄んで聞える。梅田屋は懐中から『夜の梅』という口中薬を取出して、ぷつりと前歯で
「||良い宵だの」
と独言を云った。
待つほどもなく、家の中から影のようにぬけ出して来た三次は、音もさせずに素早く杉林の中へ戻る、||古薩摩の胴巻包をぽんと叩いて、
「親分、上首尾でござんした」
「空巣だな||」
「親爺ゃあ湯治場へ女房を迎えに行った留守、ちゃんと
と梅田屋へ手渡をした。
「だいぶ重いの」
乙松はにやりと笑って、「まさか礫じゃあるめえの」
「切餅が四つあるはずです」
「もらっておくぜ」
「最初からそのつもりでさあ||お! 帰って来たようすですぜ」
丘の向うから人の来るのが見える。
「逃げやしょう、親分」
「まあ待ちねえ」
梅田屋は静かに制した。
「ど、どうなさるんで」
「急ぐにゃ及ばねえ、まあ落着け」
梅田屋は胴巻を納めて、「盗人をする
「何だか、あっしにゃ合点がいかねえ」
「空巣をくすねてそのままずらかるなんざあ、田舎出来の小泥棒でもするこった。盗んだ後で家のやつらがどんな慌てかたあするか、そいつをこう
三次は気圧されて黙った。
「見ねえ、帰って来たのは娘だ······」
梅田屋は
丘の斜面を娘が一人、家が気になるようすで小走りに下りて来る、やがて土間から入ったと思うと、間もなく部屋の障子へぽーっと
「お前大名屋敷へ入ったことがあるか」
梅田屋が低い声で
「とんでもねえ、まだそんな······」
「ふっふ。まあ聞きねえ、何と云っても後味の良いなあ大名屋敷だ、ふだん偉そうに四角張ってる侍どもが、
「よっぽどおやんなすったでしょうね」
「それほどでもねえがの、盗人をするんなら大名か大所の金持だ、日頃のさばってる連中が
梅田屋は向うを見た、「どうやら親たちが帰って来たようだぜ」
街道口のほうから、五十あまりになる百姓夫婦が帰って来た。ちょうどその時、娘は灯を入れた座敷の障子を明けひろげていたところで、
「お父つぁんおっ母さんお帰り」
と声をかけた。
「おお今帰ったぞ」
主人の嘉兵衛は縁先へ回って、「おっ母あが途中で足を痛めたでの、もっと早く帰るつもりがすっかり遅くなっただ」
「おっ母さん
「ありがとうよ、ちっとべえ辛かったっけ、今あもう何ともねえだよ、どっこいしょ」
縁先へ腰かける母親を、娘は座敷へ援けあげ、父親へもともに座蒲団を取って出した。嘉兵衛はどっかり坐りながら、
「留守に誰も来なかったか」
「二本松の茂吉さが来ただよ、今日おっ母さんが湯治から帰ると聞いたで、見舞に鶏卵を持って来てくれただ」
「そうか、そりゃあ済まなかったの」
嘉兵衛の妻お
「どうしただお秀」
嘉兵衛がみつけて、「おめえ泣いているだな||」
「お父つぁん、おらあ済まねえだよ」
「何を云うだ、お秀」
「不幸続きのあげくがおらの長患いで、とうとうお
「馬鹿なことを云うもんでねえぞ」
嘉兵衛は
この付近で『上畑』といえば、田地山林の五六十町歩もある大百姓であった。
前代の嘉兵衛までは代々名主を勤め、
「おめえが今さら泣くよりも、お絹のやつが自分から||おらを売ってくれろと云われた時にゃ、男のおらが······

嘉兵衛は涙を押拭って、「だがのうお秀、お絹に煮湯を呑んでもらったお蔭で、二百両という金が手に入っただ。これで||今夜来る
嘉兵衛は悲しみの中にも、新しい希望を妻に与えようとして笑顔をみせた。
このありさまが手に取るように見える、せきあげる夫婦の声さえ痛いほど耳へ入ってくる杉林の中で、||三次は堪らず、
「親分、もうたくさんだ」
と音をあげた、「もうたくさんだ親分、どうか逃げさしておくんなさい」
「弱音を吐くな」
梅田屋は三次の腕を掴んで、「芝居はこれから面白くなるんだ。見ろ、蛙の遠音に宵月、書割からして本註文だ、まあ落着いてとっくり見物しねえ」
「だ、だってあっしゃあもう」
「うるせえ、いっぱし商売人になろうてえ者が、こんな愁嘆場に
「||へえ」
ぐいと掴みあげる梅田屋の腕力に、三次は詮方なく顔を振向けた。
二人が問答をしているあいだに、
「今晩は、お約束で野村屋から参りました」
「おおこれは御苦労さんで」
嘉兵衛は急いで起上った、「さっきからお待ち申していました、いま出しますで、どうかそこへお掛けくだせえまし」
「お敷きなさって」
と妻の押しやる座蒲団へ、野村屋の手代は会釈しながら腰を下した。||嘉兵衛は疲れた足取で仏間のほうへ去る、と間もなく······どしんというひどい物音がして、
「た、た、大変だっ」
と嘉兵衛の凄じい悲鳴が起った、「お稲、お稲、ちょっとここへ来う!」
「あい、どうしただか」
娘が
「
「いんえ寄りもしねえだよ」
妻のお秀が不安に
「お父つぁん、どうしただね」
「金が、金が無えだ、ここへ
「げえっ! それじゃあ······」
妻も娘も仰天して声を呑んだ。
嘉兵衛は狂気のように部屋の中を走り回った。もしや他へ納い忘れはしなかったか、
「泥棒だ、泥棒が入っただ」
嘉兵衛は
「······でも、ほんのちょっくらだに」
「明けたか、家を明けただか、おめえ家を空っぽにしただか、お稲!」
「か、勘忍してくろ父さん、おら、おら、ほんのそこまで茂吉さを送って行っただけだに、ほんのちょっくら||」
「何がちょっくらだ、お稲、おめえ||姉さはじめおらやおっ母あを殺しちまっただぞ」
「お父つぁん」
お稲はわっとそこへ泣崩れた。
野村屋の手代は、このようすをさっきから見やっていたが、やがて一度消した提燈へ灯を入れて起上った。
「お取込みのようですが、約束の物は返していただけますかね」
「ああ野村屋さん······」
嘉兵衛はどかりと坐った、「今お聞きのとおりじゃ、娘を売って拵えた二百両の金を、たった今の間に盗まれてしまいましただ、そちらへお返し申す金どころか、親娘三人||明日から生きる方途さえ失くしてしめえました」
「そりゃあどうも」
野村屋の手代は冷やかに云った、「とんだ御災難でございましたな。帰って主人にそう申し伝えますが、しかし||約束は約束ですからお返し願えないとすると、明日この屋敷は明け渡していただかなければなりません、どうかそのおつもりで、今夜のうちに荷物をまとめておいてください」
「そ、それじゃ······こんな災難の中で、この家屋敷を明けろとおっしゃるだか」
「
そう云い棄てると、なおも云い
お秀は泣くことも忘れて、石のように身動きもしなかった。嘉兵衛は茫然と、宙を
「駄目だ、これで何もかもおしめえだ」
やがて引裂けるように嘉兵衛が云った、「これ······お秀、お稲も来う」
お秀は放心したように振向く、娘は泣きながら父のほうへすり寄った。
「もうどうにもしようがねえだ、二人とも覚悟をきめてくれ、お秀、死んでくれ」
「おらも、いっそそのほうがいいだ」
妻は
「死ぬべえ、父つぁん、三人して死ぬべ、おらたちゃあ、こうなる運だっただ||ただ、可哀そうななあお絹だ、おらたちが死んだと聞いたら······」
「お秀||」
嘉兵衛は思わず妻の体を抱寄せた。
始終のようすを、杉林の中からじっと
「||親分」
「なんだ」
「一生のお願えだ、いまの、いまの金をあっしに返しておくんなさい」
「なんだ金を返せ?」
三次は思切った口調で云いだした。
「おらあたった今夢から覚めたんだ。今までおらあ盗みをしてきた、半分は欲だ、半分は
三次の眼からぽろぽろと涙が落ちた。しかし乙松の梅田屋は眉も動かさない。
「どうかその金を返しておくんねえ」
三次は続けた、「親分も江戸じゃ鼠小僧の二代目とまで云われなすった義賊、まさかこんな金ゃあお取んなさるめえ、どうかその金を」
「馬鹿野郎、つまらねえことを云うな」
梅田屋はせせら笑った、「おいら義賊だ? ふっふふふ、世迷言もいい加減にしろ、世中にゃ泥棒はいるが、『義』の付く泥棒はいねえ、人様の物を盗んで鼻糞ほどの施しをしたって何が義賊だ、泥棒をするやつぁしたくってするんだ、世間の毒虫、人界の芥屑、外道、畜生と相場あ
「それじゃ、いまの金は、返してはおくんなさらねえのか?」
「当りめえよ、盗人が一度懐中へ入れた金だ、手前っちが逆立できりきり舞をしても返すこっちゃあねえ、面あ洗って出直してこい」
野火の三次がぎゅっと唇を噛む。
「どうしても、いけませんか」
「
「||野郎!」
喚いたと思うと、掴まれた腕をぱっと振放す、不意をくらって乙松の体が傾く、隙、三次は右手にぎらりと
「抜きゃあがったな」
「腕ずくでも!」
だ! と跳びかかって来る、相手はとっさに体を捻って、三次の利腕を逆に、ぐいと引っ手繰って足を
「くそっ! むっ」
捨てばちの強引、三次は腰を落して、相手の体勢を利用、猛然と突っかけた。梅田屋の足が杉の根にかかる、斜面で足場が悪いから、
「ま、待て」
突下す
「何だと?」
「金ゃあ返してやるよ、それ」
梅田屋は懐中から胴巻を掴み出すと、ぽんと向うへ
「そう、出てくださりゃ、お手向いはせずに済んだのだ、それじゃあいただきますぜ」
云い捨てざま、三次は杉林をとび出す、百合畑を駈けぬけて、いきなり母屋の縁先へ現われた。||胴巻を、相擁して泣いている夫婦の前へ、ぽんと投出す、
「お二人さん」
と声をかけた。
突然声をかけられて、びっくり振返ると見馴れぬ若者が立っている||しかも、眼の前へ投出された胴巻、嘉兵衛は、
「||あっ!」
と仰天した。
「どうか勘弁しておくんなさい」
三次は縁先へ手をついた、「あっしゃあ野火の三次という盗人でござんす、こんな事情があるとも知らず、大事なお金を盗みましたが、いまあそこの杉林の中で仔細のお話を伺い、あっしゃあ生れて初めて眼が覚めました、ただ今限りぷっつり悪事から足を洗います、きっと真人間になりますからどうか勘弁しておくんなさい||中のお金にゃ
嘉兵衛は聞く心もそぞろに、顫えながら胴巻を解いて見たが、転げ出た金包を見るなり、狂ったように躍上って、
「おお戻った、戻った、金が」
と歓喜の叫びをあげた、「二百両、手つかず戻った、お秀、お稲、金が戻った、金が戻ったぞ、もうこれで······」
わっと、燃上るような親娘の狂喜を、涙の滲み出る眼で見やった三次は、||手早く懐中から財布を取出すと、
「それから、ここに三十両ばかりござんす、こりゃあ博奕で
「まあお前さん、そんなことを」
慌てて嘉兵衛が出て来るのを、三次は素早く二三間とび退いて、
「蔭ながら、御繁昌を祈ります」
と云うとそのまま
「親分||じゃあねえ梅田屋さん」
三次の眼は活々と輝いている、「あっしゃあ、生れて初めて、腹の底からさっぱり致しました。お前さんにも子分にしてくれと頼んだが、改めて今取消しだ」
「||ふふ、そうかえ」
「会わねえ昔と思っておくんなさい、これでお別れ申します」
「どこへ行くんだ」
三次は答えずに歩きだした。
梅田屋はその後姿を見送っていたが、||嘉兵衛親娘の歓喜する声を聞くと、にっこり
「どこへ行くんだ、若いの」
「どこへ行くって?」
三次が足を止めた、「どこへ行くもんか、これから三島の御番所へ自訴して出るんだ」
「一年や二年じゃ帰れねえぞ」
「五年が十年でもいい、おらあ立派に年貢を納めて
「未練はねえか」
「冗談じゃあねえ、おらあ嬉しくって何だか足が地に着かねえくれえだ。お前にゃ来いとは云わねえが||まあ達者でいなせえ」
振切るようにして三次が行こうとする、梅田屋はそのようすを覓めていたが、
「ちょっと、ちょっと待った」
と呼止めた。
「まだ何か文句があるのかい」
「
梅田屋は紙入を取出して、そのまま三次の手へ渡す。
「若いの||」
と
言葉つきまでがらりと変った相手のようすを、
「その桶屋というのは何者ですえ?」
「武蔵屋政吉、素性を洗えば『暗がりの乙松』という人さ」
「げえっ······?」
三次は反った、「そ、それじゃあ、お前さんは乙松親分じゃねえのですか」
「昨夜宿の亭主が云ったのを聞かなかったかえ、私は沼津の酒問屋で、梅田屋
男はそう云って、
「それでもあの薗八節は?」
「ああ、あれかえ」
梅田屋は笑いだした、「あれはね、今から三年前の秋、妙な
「といいなさるのは······」
「商売人と見りゃ近づいて盗んだ跡の愁嘆を見せるのが私の道楽さ、はははは」
梅田屋宗兵衛のことばは、温かく力強く三次の胸へ滲込んでいった。
「さあ行こう、京へのぼって手に職がついたらそう云ってよこすがいい、店を出すくらいの金は都合してあげよう」
「············」
三次は無言のまま、万感あふれ出る眼で、じっと梅田屋宗兵衛の横顔を覓めた。||遠音の蛙。