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山本周五郎




 加川銕太郎てつたろうは机に向って坐り、ぼんやりと庭のほうを眺めていた。部屋の片方では弟の佐久馬さくまが、本箱を前にして書物の整理をしていた。

「またですか」と云う妻の声がした、「またいつものことを考えていらっしゃるのね」

 銕太郎は黙っていた。

 彼は両のひじで机にもたれ、両手であごを支えながら、やや傾きかけた陽の当る、冬枯れの庭を眺めていた。赤錆色あかさびいろの、少しも暖かさの感じられないうすら陽は、林になっているくぬぎの木の幹を、片明りに染め、枯れたすすきのくさむらの、ほほけてしまった穂を、鮮やかに白く浮き立たせていた。

 ||これは祖父の造った庭だ、と銕太郎は思った。

 くぬぎ林は百本ちかくある。林を縫って細流が蛇行し、板塀いたべいの外へと流れ出ている。板塀の外は「沼」と呼ばれる湿地で、蘆荻ろてきがまが密生してい、冬になるとかもがんしぎばんなどが集まって来る。祖父の代にはそちらが四目垣よつめがきになっていたので、沼のけしきはよく見えたが、父はそこへ板塀をまわしてしまったので、いまでは家の中からは見ることができなくなっていた。

 銕太郎の坐っている位置から見て、くぬぎ林は右手にあり、正面が百坪ほどの芒野。左手には小高く、芝を植えた築山つきやまがある。その裾から竹垣のところまでは、梅の老樹の疎林がひろがってい、竹垣の向うは、門から玄関へ通ずる敷石道であった。

「兄さん」と弟の佐久馬が手にした書物を見て云った、「これはなんと読むのかな、御なんとか花記というこれ、高楷たかはし宗恒という人の」

「おさばなの記だ」と銕太郎が答えた。

「へえ、この宇冠に最という字がですか」と佐久馬がいた、「これは雑書の部へいれますか」

「和学の中だ」と銕太郎が云った。

 くぬぎ林へ百舌鳥もずの群が舞いおりて来、やかましく叫びながら、枯れた枝のあいだを飛びまわった。

仔細しさいは申上げられません、どうぞなにもお訊きにならないで下さい」と妻のゆきをが云った、「このお願いを聞いて下さらなければ、私は自害するほかはありませんし、加川の御家名にもきずがつくのです」

 終りの言葉は、銕太郎の耳の奥で、こだまのように長く、繰り返し尾をひいて反響した。御家名に瑕がつく、御家名に、瑕がつく、瑕がつく、瑕がつく、つくのです。銕太郎は静かに振向いた。妻のゆきをは化粧をしてい、鏡の中からこちらを見ていた。

 ||これはあとのことだ、と銕太郎は思った。

 かんじんなことはもっとまえだ。結婚したそもそものときから始まって、始まったことがわからないままで、悪いほうへと続いていった。

「なにが気にいらないんだ」と銕太郎は鏡の中の妻の眼を見ながら訊いた、「いったいなにが不満なのか、云ってみるがいいじゃないか」

「どうしてそんなことをおっしゃいますの」

「自分で知っている筈だ」

「わたくし不満などはございません」とゆきをは答えた、それは心の底に強い不満のあることを、証明するような調子であった、「あなたはわたくしがお気にめさないので、そんなふうに仰しゃるのでしょう」

「話をそらすことは上手だ」

「御不満なのはあなたです」ゆきをは悩ましげに溜息ためいきをした、なまめかしいと云ってもいいほど悩ましげな、訴えるような溜息であった、「でもわたくしにはどうにもならない、どうにもならないんです」それから銕太郎に向って云った、「||教えて下さいまし、あなた、わたくしどうしたらいいのでしょう」

 銕太郎は眼をあげた。くぬぎ林で騒いでいた百舌鳥の群が、突然なにかをみつけたように、一斉に舞いあがったとみると、群は二つに別れて、一方は「沼」のほうへ飛び去り、片方はまたくぬぎ林に舞いおりた。

「この包んであるのはなんです」と弟の佐久馬が呼びかけた、「包紙に中川書林とありますがね」

「中川書林、||知らないな」

「解いてみてもいいですか」

 銕太郎は黙ってうなずいた。

「へええ」包を解き、中から書物を取出した佐久馬は、第一冊の頁をめくってみて笑った、「おどろいたな、こいつはどうも」彼は次つぎと、五冊を順にめくってみた、「みんな好色本ですよ、知らなかったんですか」

 板塀のかなたの「沼」のほうで、鴨の鳴く声がし、水を叩く翼の音が聞えた。

「わたくしがまんができませんの」とゆきをが云った、「ほかのことは辛抱しますけれど、この男臭さだけはだめなんです」

「知らなかったね」と銕太郎が弟に云った、「中川ではときどきそんな物を送って来た、たいてい返したつもりだが、それだけは忘れていたんだろう」

「お願いですから」とゆきをが云った、「わたくしの寝間ねまをべつにして下さいまし」

 男には男の躰臭たいしゅうがあり、女には女のそれがある。おれには妻のからだの匂いは、好ましく刺戟しげき的であった、と銕太郎は思った。妻のからだの触感は、いまなお彼の手や肌になまなましく生きている。妻のからだはやや大柄であるのに、胸乳や腰は小さいほうであった。小さいけれども固くて、吸いつくようになめらかな乳房や、すんなりと少年のようにのびやかな腰の線は、嬌めかしいというよりも、むしろ匂やかにすがすがしい感じであった。

 ||それでおれは、岡野弥三郎やさぶろうの言葉をそのまま信じていたんだ。

 あれは結婚してまもないときのことだ、と銕太郎は思った。たしか村尾で祝宴のあったときだ、村尾の家で母堂の床上げ祝いをしたときのことだろう、そうだ。岡野は例のとおりすぐに酔って、誰かにからみ始め、ついでおれのほうへ来た。

 ||御側おそば用人、と岡野は云った。すばらしい花をお手に入れたそうですな。

 おれにはなんのことかわからなかった。

 ||奥方ですよ、と岡野は云った。安島家のゆきをどのといえば、家中かちゅうの娘たちのあこがれの的でしたからね。

 追従ついしょうするような笑いに、一種の皮肉なものが感じられた。それから約半年、おれは「すばらしい花」という言葉をそのまま信じ、藩主はんしゅ参覲さんきんの供で江戸へいった。

「お願いです、あなた」とゆきをが云った、「どうぞなにも訊かずに、わたくしの望みをかなえて下さいまし」

 いや、それはもっとあとのことだ、と銕太郎はそっと首を振った。一年の江戸番が終って帰ったとき、寝間をべつにするという話になった。おれはむろん承知したが、男臭さが辛抱できない、という理由は不愉快だった。他人のことは知らない、けれども、夫婦になればもう単なる男と女ではない、良人おっとと妻とは一心同躰というくらいではないか。おれの躰臭が特に強いならばべつだが、これまでそんなことを云われた記憶はない。しかもおれには妻のからだの匂いが極めて好ましい、妻の肌に触れ妻の匂いに包まれていると、おれはたとえようもない安息と満足感に浸される。それが妻には辛抱できないというのはどういうわけか。

「それは男のわがままと自分勝手な考えかたです」とゆきをが云った、「男はなにごとも自分を中心に考えたりふるまったりなさる、女を愛するときはことにそうです」

 銕太郎はまた振向いた。ゆきをは鏡に向って化粧をしてい、鏡の中から良人のほうを見ていた。

「たとえば、額田ぬかださまの御夫婦は仲のいいことで評判です」とゆきをは云った、「けれどもそれは表面だけのことで、妻女の松世さまは良人の毛深い手足や肌に触ることが、身のこおるほどいやだと仰しゃっています」

「ではおまえはどうだ」と銕太郎が訊き返した、「おまえはおれのどこが気にいらないんだ」

「そのお答えはもう幾十たびも申上げました」ゆきをは鏡の中で眼をそらした、「あなたはわたくしに不満があるので、それで逆にわたくしをお責めになるのですわ」

 銕太郎は眼を庭のほうへ戻した。


 枯れた芒がさっと風に揺れたち、くぬぎ林で騒いでいた、百舌鳥の声がやんだ。


 なま温かい夜であった。銕太郎は自分のうなされる声で、眼がさめた。深い眠りの底から、少しずつさめてき、やがて、暗くしてある行燈の光りで、立てまわした屏風びょうぶの絵が、ぼんやりと眼にうつった。うなされていたなと思い、ふと気がつくと、その声はまだ聞えてい、銕太郎は頭をもたげた。けんめいになにかをこらえるような、かすれたうめき声で、絶え絶えに細くなり、そのまま消えるかと思うと、急に切迫し、よじれるように高まり、激しく暴あらしくなった。

 彼は起きあがった。その声は妻の寝所から聞えて来る、うなされていたのは妻なのだ。彼は立ってゆき、ふすまをあけた。中廊下を隔てて妻の寝所がある、彼は「ゆきを」と呼びかけた。呻き声はすぐに止った。

「どうかしたのか」と彼はまた云った、「躯でも悪いのか」

「いいえ」とゆきをのねぼけたような返辞が聞えた、「わたくしどうか致しまして」

うなされていたんだな」と彼が云った、「それならいいんだ、おやすみ」

 おやすみあそばせ、申し訳ありませんでした、と答えるゆきをの声は、まだねぼけているように力なく、けだるそうであった。そんなことが三度あったのだ。三度めは雨の夜で、銕太郎は疲れていた。その日は藩主の越後守信俊のぶとしに望まれて、「新律」の講話をした。下城の太鼓のあとから始め、夕餉ゆうげをたまわったあと八時まで続けた。それは出府ちゅうに、銕太郎が老中の某侯から借覧し、許しを得て筆写したもので、寛永年代から享保にかけての、幕府の公事くじ、訴訟、仕置などの記録であった。講話は七日かかる筈で、帰宅したのは九時過ぎであった。

 ||いまに眼がさめるだろう。

 妻のうなされる声を聞きながら、銕太郎はそのまま眠ろうとしていた。しかし、ひさしを打つ雨のひっそりした音が、かえって妻の呻き声を際立てるようで、彼はすっかり眼がえてしまい、太息といきをつきながら起きあがった。これまでは部屋の外から呼びかけたが、雨が降っているので聞えないかと思い、廊下を越えて向うの襖をあけた。

ゆきをゆきを」と彼は呼んだ、「眼をさませ、またうなされているぞ」

 呻き声は止った。彼は屏風をまわっていった。すると、暗くしてある行燈の光りで、妻の夜具から誰かのぬけ出るのが見えた。それはつるという若い小間使で、寝衣ねまきのままであり、夜具からぬけ出るとき、乱れた裾から白い太腿ふとももがあらわになった。

「どうしたんだ」と銕太郎が云った。

「胃が痛みまして」と夜具の中からゆきをが答えた、「いままでつるに押えていてもらいましたの」

 銕太郎は小間使を見た。つるは坐ったまま深くうなだれ、片手でしきりに裾前を合わせていた。つるは十六歳になるが、躯つきはまだ少女らしいまるみに包まれ、口のききようも幾らか舌足らずで、知恵がおくれているのではないか、と思われるくらいだった。いま深くうなだれている頸筋くびすじから、肩へかけてのなだらかな柔らかい肉付は、かつて見たことのないほど女らしく感じられた。銕太郎は妻を見、つるを見た。灯を暗くし、屏風で夜具を囲った部屋の中は、二人の女性のからだが放つ、重たくこもったような匂いが満ちていて、彼は殆んど圧倒された。

「薬はのんだのか」と彼は妻に訊いた、「いつから痛みだしたんだ」

「もうらくになりました」とゆきをはもの憂げに答えた、「わたくしの胃は長い持病で、急に痛みだすと薬では効きません、押えてもらうよりしようがございませんの」

「初めて聞くようだが、これまでにもたびたび痛んだのか」

「いいえ、そうたびたびはございません」ゆきをつるを見て云った、「有難う、もういいからいって寝ておくれ」

 つるはそっと会釈をして去った。銕太郎がはいって来てから、いちども顔をあげず、口もきかなかった。

「医者には診せたのか」

「ええ」とゆきをは脱力したような声で答えた、「わたくしのは病気ではなく、躰質だということです」

「それは治らないということか」

「そんなに大袈裟おおげさなことはございませんの、ときたまおこるだけですから」とゆきをは云った、「どうぞおやすみになって下さい、御迷惑をかけて済みませんでした」

 銕太郎は立ったまま見おろしていた。妻の顔は蒼白あおじろく、灯のかげんか、眼のまわりに黒くしみができているように感じられた。

 結婚してから四年めの秋、参覲のため出府する藩主の供で江戸へ向う途中、銕太郎は初めて悪酔いをし、思いがけない女に触れた。舞坂で暴風雨にあい、浜松までゆくと、天竜川が出水のため川止めだということで、浜松に五日滞在しなければならなかった。本陣の鍋屋三右衛門なべやさんえもん定宿じょうやどで、銕太郎も少年時代から宿の者たちを知っていたが、泊って三日めの夜、藩主から慰労の酒肴しゅこうが出、目見めみえ以上の者が集まって酒宴をするうちに、岡野弥三郎と口論したあげく、おうたという、宿の娘の世話になった。

 口論のもとはゆきをのことであった。岡野は初めから銕太郎にくどくからみ、前に坐ったまま動かずに酒をしいた。彼はほどよく受流していたつもりであるが、側用人という気ぼねの折れる勤めと、旅の疲れが重なっていたからであろう、知らぬまに量をすごして、したたかに酔った。そのとき岡野が妻のことを話しかけ、へんに皮肉な調子で、自分がいい側女そばめを捜そうかと云った。

「側女を捜す」と彼は岡野を見た、「それはどういうことだ」

「跡取りですよ」と岡野は云った、「花としてはすばらしくとも、実の生らない花がありますからね」

 銕太郎は顔をそむけた。

「加川夫人には昔からあざみの花という仇名あだながあったそうです」と岡野は続けた、「これも妹や妹の友達の話なんですがね、夫人は乙女のころから薊の花がお好きで、着物や帯などにも染めさせていた、それがまたよく似あうし、夫人御自身の印象が、じつに薊の花そっくりだというのです」

「待て」銕太郎はさえぎって反問した、「薊の花はわかった、しかし跡目のことをなにか云ったが、跡目のことがどうだというのだ」

「薊の花には実が生らないというわけです」

「おれの妻がうまずめだということか」

「祝言をして何年になりますか」

「それは岡野の知ったことではない」

「どうしてわかります」

 銕太郎はかっとなった。岡野の表情や口ぶりに、あからさまな嘲弄ちょうろうと悪意が感じられたからだ。村尾家のときには、ただいつものくだだと思い、すばらしい花を手に入れた、という言葉もそのままで受取った。しかしいまのようすはまったく違うし、「花」という一語も、「薊」という表現につながっている。岡野はなにかを知っており、そのことで銕太郎を嘲弄しているのだ。そう思うと、酔のために誇張された怒りで、彼は平生の慎みも忘れ、片膝かたひざ立てになって叫んだ。

「きさまいったい、なにが云いたいんだ」

 その声で一座が急にしんとなり、みんなが二人のほうを注視した。岡野はゆがんだ微笑をうかべ、そんなにどならなくてもいいでしょう、と云った。その卑屈な微笑が、かえって銕太郎の怒りをあおった。

「云ってみろ」と彼は叫んだ、「男なら男らしく、云いたいことをはっきり云ったらどうだ、云えないのか」

「私は加川さんのことを心配しただけですよ」

「おれのなにが心配なんだ」

「薊にはとげがありますからね」と岡野は云った、「私の妹も傷ついたし、ほかにも傷ついた娘がかなりいるようだから」

「おれは薊のことなど聞いているんじゃあない」

「それならそれでいいです」

 銕太郎は立ちあがった。岡野を殴ろうとしたのだが、二三人に抱きとめられ、べつの座敷へれてゆかれた。抱きとめたのが誰と誰だか、はっきりした記憶はない。べつの座敷へゆくと苦しくなり、それからおうたに介抱された。||彼女は二十六くらいになっていたろう、いちど嫁にいったが、良人に死なれて実家に戻っていた。銕太郎はまえから親しかったし、嫁にいったことも、出戻りになったことも知っていた。躯も小柄だし顔も小さいが、愛嬌あいきょうのある明るい顔だちで、客たちみんなににんきがあった。

 夜明けまえに、銕太郎は眼をさました。激しいのどの渇きで眼がさめたらしいが、起き直るとすぐに、岡野と口論をしたことが思いだされ、われ知らず苦悶くもんの呻きをもらした。するとすぐ左側で、どうなさいました、と云う声が聞えた。

「お苦しいんですか」

 彼は吃驚びっくりしてそっちを見た。すると、そこにおうたがいた。夜具はなく、寝衣の上から薄い掻巻かいまきを掛けただけで、まろ寝をしていたのだろう。半身を起こしたえりが少しひろがり、柔らかな胸のふくらみがのぞいていた。暗くしてある灯の光りで、寝衣の華やいだ色と、白くて柔らかな、こんもりした胸のふくらみとが、銕太郎の眼をとらえた。彼は黙って、片手をおうたのほうへさしのべた。

「おひやですか」とおうたが云った。

 銕太郎は首を振った、「おいで」

 おうたはすり寄って来た。ほんの一瞬、その顔にべそをかくような表情があらわれたが、すり寄って来る動作はごく自然であり、それからあとはおどろくほど積極的だった。銕太郎はとまどいをし、圧倒された。妻のほかに女を知らない彼には、おうたのすることや、呼吸や、訴えや、求めなどが、すべて尋常でないことのように思われ、却って、彼の内部で燃えていたものが冷えてしまった。

「このお肌の匂い」おうたは彼の胸に顔をうずめながらあえいだ、「あたしこの匂いをぐだけで、いつも頭がくらくらしてしまいますの」

「おれの匂いはそんなにひどいか」

「好き、好き」とおうたはからみついた、「あなたがお立ちになると、いつもお寝衣を隠しておいて、このお肌の匂いがなくなるまで抱いて寝るんです、もうずっとまえから」

 恥ずかしい、堪忍して下さいと云って、おうたは痛いほど彼を抱き緊めた。


 くぬぎ林で百舌鳥の鳴き叫ぶ声がし、銕太郎は振返った。

「この本」と弟の佐久馬が云った、「貰っていっていいですか」

「どの本だ」

「この好色本です、読まないんでしょう」

「好色本だって」

「中川書林のやつですよ」

「ああ」と銕太郎は云った、「おれは読まないが、返さなければならないだろう」

「そんな必要があるもんですか、こういう本はたいてい、書肆しょしから上顧客へ謝礼に贈るものですよ」と佐久馬は云った、「しかし、こういうものに興味がないというところに、兄さんの弱点があるかもしれませんね」

 銕太郎は妻のほうを見た。

「そうよ、そこにお気がつかないのよ」とゆきをは云った、「そういう本さえお読みになれない御性分だから、女の気持などもおわかりにならないんです」

「おまえは読むか」

「わたくしのことではありません、あなたのことを申上げているんです」

 銕太郎は眼をそらした。いや、あれはそんなことは云わなかった。少なくとも、そういう言葉ではなかった。

 おうたとああなったあと、おれは二つの問題が頭からはなれなくなった。妻とおうたとの違い、あまりに大きい感覚的な差と、岡野の暗示した言葉、多くの娘たちがゆきをのために傷ついた、という言葉の意味。この二つのことがずっと胸につかえていた。そして明くる年、殿に参覲のいとまが出て帰国する途中、再びおうたとそういうことになった。おれはあやまちを繰り返したくなかったので、浜松では宿直とのいをするつもりだったが、殆んどもの狂おしいようなおうたの誘いに抗しきれず、夜半になって隠居所で逢った。

 おれは生れて初めて、充実した陶酔を味わった。まえのときには圧倒され、たじろいだものが、二度めのそのときには激しいよろこびの※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおとなった。おうたの全身はおれを包み、たとえようもない微妙さでなみうち痙攣けいれんした。おうたのからだは頭から手足の爪先まで、一分の隙もなく活き活きとうごめき揺れ、吸着しひきつりのけぞった。いまでも、そのときの触感はおれの肌に残っている、と銕太郎は思った。それからあの呼吸と声だ。火のように熱い、とぎれとぎれの呼吸と、そのままでは意味をなさない告知の叫び。あれもおれの初めて経験したものだし、おれを強烈な陶酔にひきいれたことも忘れられない、銕太郎はそう思いながら妻のほうを見た。

「人にはそれぞれ癖があるものです」とゆきをは化粧する手を休めずに云った、「との方でもそうでございましょう」

「おまえのも癖か」

「商家に育った者や色町の女などには、そんなことがあるようにも聞きました、みだらな、いやらしいはなしですわ」とゆきをは冷やかに云った、「武家ではそんなことは許されません、そういうことはものごころつくころから、繰り返しきびしく戒められます、どんな場合にも慎みを忘れてはならない、そう教えられることはあなたも御存じではございませんか」

 いや、これも妻の本音ではない、と銕太郎は思った。妻はどんなときにもはっきりしたことは云わなかった。いつも話をそらすか、巧みに要点をぼかした返辞しかしなかった。いつもそんなふうであり、それがなによりおれを苛立いらだたせた。しまいにはおれを苛立たせ、疑惑をいだかせるために、わざとそういう態度をみせるのだ、と思うようになった。

「これは、||兄さん」と佐久馬が手に持った書物を見ながら云った、「この朝献上というのはどの部へ入れますか」

「朝献上」と銕太郎が聞き返した、「そうだな、故実の部へ入れてもらおうか」

「あっと、忘れていましたが、四十九日は明後日でしたね」

「うん」と銕太郎は口の中で云った、「||時刻は四つからだ」

「心光寺で四つから、わかりました」

 銕太郎は庭のほうを見た。

「お願いです」とゆきをが云った、「わたくしの口から理由は申上げられません、理由は云わなくとも、あなたからそう申入れて下されば、それだけであの方にはわかる筈です」

「おまえは加川の家名と云った」彼は庭のほうを見たままで反問した、「おれがそうしなければ、おまえは死ぬほかにないし、加川の家名に傷がつくと云った、しかも理由を知らぬままでおれに決闘しろなどとは、まるで狂気の沙汰ではないか」

「ようございます」とゆきをが云った、「ではわたくしが死ぬことに致します」

 銕太郎は振返って妻を見た。ゆきをは化粧をやめ、鏡の前で深くうなだれていた。みせかけでもおどしでもない、妻のその姿は決意を示すものであった。いつもそうだ、ゆきをはいつも言葉でなく、行動で自分の意志を示して来た。鏡の前に坐って、深くうなだれているゆきをの姿は、死ぬことにします、という決意をはっきりあらわしていた。

「ひと言だけ訊くが」と彼は云った、「それは岡野がおまえを薊に譬え、その棘で多くの娘たちが傷ついた、ということが原因か」

「理由は云えないと申上げました」

「ひと言でいい、原因はそのことか」

 ゆきをはうなだれたまま黙っていた。銕太郎は庭のほうへ向き直った。


 風が起こって、枯れた芒がさわさわと揺れたち、百舌鳥の声が遠くなった。


 陣場ヶ原は若草におおわれていた。阿栗川あぐりがわは水が増して、両岸の広い河原を浸し、堤の際まであふれたまま、音もなく流れていた。時刻は朝六時、あたりは霧のために見とおしがきかず、城のある亀形山も見えないが、頭上にはひとところ、朝日をうつした雲が、明るい牡丹色ぼたんいろに染まっていた。

 岡野は霧の中を走って来た。なにかに追われているような走りかたで、強ばった顔は隠しようのない驚きと、狼狽ろうばいの色をあらわしていた。||銕太郎は草履をぬいだ。彼はすでに汗止めをしたすきを掛け、はかま股立ももだちをしぼっていた。

「支度をしろ」と彼は云った。

「どうしたんです、どういうわけです」岡野弥三郎は荒く息をしながらどもった、「いきなり決闘だなんて私にはわけがわからない、私がなにをしたというんです」

「覚えがある筈だ、支度をしろ」

「私にはなにも覚えはありません」

「ではどうしてここへ来た」

「なにを誤解しているか知りたかった」と岡野は口ばやに答えた、「なにが原因で決闘しようなどと云われるのか、その理由を聞きたかったからです」

「理由は口で云えない場合もある」と銕太郎は云った、「侍と侍のあいだでは、いちぶんが立たぬというだけで決闘の理由になる」

「待って下さい、それは私がなにか貴方あなたいちぶんの立たぬようなことをした場合でしょう、いったい私がなにをしたというんです」

「それは覚えがある筈だ」と云って彼は刀の鯉口こいぐちを切った、「支度をしなければこのままゆくぞ」

「無法だ」と岡野は片手を振りながらうしろへさがった、「なにも覚えがないのに決闘ができますか、まあ待って下さい、私の云うことも聞いて下さい」

 銕太郎は刀を抜いた。その動作につりこまれたらしい、それとも恐怖のため無意識に手が動いたのか、岡野弥三郎も刀を抜き、抜きながら、「待って下さい」と叫んでとびさがった。銕太郎は相打ちにでもするように、刀を正眼につけたままぐいぐいと進み出、岡野は左へまわりこんだ。

「待って下さい」と岡野が叫んだ。

 銕太郎は構わずにを縮めた。

「云います、云いますから待って下さい」岡野の顔色が変り、刀を持っている手の震えるのが見えた、「私が軽率でした、あやまります、どんなにでもあやまりますから、どうか刀を引いて下さい」

「よし」と銕太郎は足を停めた、「あやまるというのなら聞こう、云ってみろ」

「私は」岡野は喘ぎ、そして吃った、「私は、軽率に御内室の陰口をききました、つい、口がすべったのです」

 銕太郎は黙って相手の眼をみつめた。

「しかし貴方以外には誰にも云ったことはありません、誓います」岡野はきまじめに低頭した、「そしてこれからは、御内室のことは断じて口にしません、断じてです、あのことについては私はつんぼ盲目めくらおしになります、それを刀にかけて誓います」

「あのこと、とはなんだ」

「私は誓いました」

「誓った証拠に云え」銕太郎は一歩、前へ出た、「あのこととはなんだ」

望翠楼ぼうすいろうの茶会です、むろん御承知のことでしょうが、ほかのことは私は知りません」

 銕太郎は刀をおろした。

 ゆきをはその友人たちと、毎月二度、望翠楼という料亭で茶会をする。望翠楼は亀形山の東端にあり、城下町とは反対のほうを向いていて、領境までの広い展望を、座敷に坐ったままでたのしむことができる。||城のある西端より一段低いが、昔は出丸があったそうで、台地になっている広い庭内に、京から移した茶室があった。茶室は小堀遠州の作だと伝えられ、「古月亭」と号されていて、家中や城下町の数寄者すきものたちが、しばしば茶会を催すので知られていた。

 岡野に決闘を挑んだ日から七日めに、ゆきをは「茶会があるから」と云ってでかけたが、半刻はんときほどをおいて、銕太郎も妻のあとを追って家を出た。

 岡野に決闘を挑んだのは、むろん本気ではなかった。妻の云った言葉から、岡野が「なにか」を知っており、ぎりぎりまで追い詰めれば、そのことを告白するだろう、と思ったからであった。結果は推察したとおりになったけれども、「茶会」ということがわかっただけで、それがどういう意味であるかは不明だった。

 ||むろん御承知でしょう。

 岡野はそう云ったし、あの場合それ以上問い詰めるのは、こちらの弱味をさらすようでできなかった。茶会にその「なにか」があるとすれば、いってたしかめてみるほうがいい。銕太郎はこう思って、その機会を待っていたのであった。彼も望翠楼はよく知っていたし、たいていの人の気づかない、裏道のあることも心得ていた。それは松や桜や雑木林の中をぬける急勾配こうばいの坂で、岩に踏段がってあるだけだから、雨のときなどは滑って、とうてい登り下りはできないし、ふだんでも、両側からかぶさっている木の枝が邪魔になるのと、勾配が急すぎるため、殆んど使われることはなかった。

 銕太郎はその裏道から登った。登りきったところは松林で、台地の端を左へ廻ってゆくと、松とくぬぎの疎林があり、「古月亭」の屋根が見えた。彼は路地をはいってゆき、にじり口ではなく、玄関のほうへまわった。玄関には女の履物が二足あり、茶室の中はしんとして、人の声もなかった。履物の一つが妻の物であることを慥かめてから、銕太郎は奥へ呼びかけた。

ゆきを、いるか」

 茶室の中はしんとしたままで、戸外の松林のほうに小鳥の声が聞えた。

ゆきを、おれだ」と彼はまた呼んだ、「急用があって来た、いるか」

 すると奥で「はい」というかすかな返辞が聞え、人の動くけはいがした。銕太郎は刀を脱して右手に持ち、あがっていって襖をあけた。「古月亭」は数寄屋造りで、よりつきが六帖、控えが四帖半、そこに猿戸さるどがあって三帖の茶席に続いていた。||六帖には小さな包があるだけで、銕太郎はさらに四帖半の襖をあけた。(そのとき茶席へ通ずる猿戸が閉るのを彼は見た)ゆきをはそこに小掻巻こがいまきを掛け、箱枕をして横になっていたが、その部屋は女の躰臭と香料との濃厚な匂いで、せるように感じられた。

「いまそこから」と彼は猿戸へ眼をやって訊いた、「誰か出ていったようだな」

「山岸のしづさんです」

「山岸とはどの山岸だ」

御納戸奉行おなんどぶぎょうの山岸平左衛門さまで、しづさんはその御妻女、わたくしの昔からの親しいお友達です」

「それがどうして逃げた」

「逃げたのではございません」とゆきをはきつい口ぶりで云った、「あなたが断わりもなしにはいっていらっしゃるので、ただ座を外しただけですわ」

 彼はじっと妻のようすを見た、「茶会ではないようだな」

「ええ」と云って起き直ろうとしたが、ゆきをは眉をしかめて呻き、苦しそうにまた横になりながら云った、「五人集まる筈でしたけれど、四人に故障ができましたそうで、わたくしとしづさんだけでしたから、茶会はやめにし、二人で食事をして帰るつもりでした」

 そして、話をしているうちに、持病の胃痛が起こったため、いままでしづさんに押えていてもらったのだ、とゆきをは云った。銕太郎はそのとき初めて、妻が下着だけで横になっていること、小袖や帯などが、隅の暗がりにぬいであることを認めた。

「急用とはなんでございますか」ゆきをはだるそうな声で訊いた。

「帰ってからにしよう」

「まだ痛みがおさまりませんし、しづさんを置いてゆくわけにはまいりません」

「その人に帰ってもらってもいい」と彼が云った、「話はここでしてもいいんだ」

 ゆきをはなにかを聞きすましていて、それから「しづさん」と呼んだ。すると、よりつきの六帖で女の答える声がした。茶席のにじり口から出て、そちらへまわっていたのだろう。ゆきをが呼ぶと、声をかけて襖をあけ、山岸しづがはいって来た。||年はゆきをより二つくらい若そうで、やわらかに肥えた躯つきや、色の白いまる顔など、まだどこやら少女めいた感じが残っていた。

「加川です」と銕太郎は会釈を返して云った、「妻が御厄介をかけたそうでお礼を申します」

 しづは口の中でそれに答え、ゆきをに向って、それではお先に、と挨拶した。しづはいちども銕太郎の顔を見なかったし、ものを云うのも口の中で、恥ずかしげに低く、殆んどつぶやくようにしか聞えなかった。

 ||誰かに似ているな。

 出てゆくしづを見ながら、銕太郎は首をかしげた。そしてすぐに、いつか夜半に妻の寝所で見た、召使のつるに似ていたようだ、と気がついた。つるは年もずっと若いし、躯も顔つきもまるで違う。しかし、それでいてぜんたいの感じに、おどろくほど共通したところがあるように思えた。


 くぬぎ林でにわかに百舌鳥の声が高くなり、銕太郎はどきっとしたように眼をあげた。弟の佐久馬は書物を整理してい、銕太郎はくぬぎ林のほうを見た。

「どうしてですの」とゆきをが云った、「なぜそんなことでやめておしまいになったんですの」

「岡野は謝罪した」と銕太郎は妻のほうを見ずに云った、「これまでは軽率だった、これからは決して陰口はきかない、聾で盲目で唖になる、断じてそれを誓う、そう云って謝罪する者を斬れると思うか」

「それならもう、あなたはさっぱりなさいましたのね」

 銕太郎は答えなかった。

「この、||なんと読むのかな」と佐久馬が取りあげた本を見て云った、「浅いという字に浮くという字に、抄とあるんですが、あさうき抄とでもいうんですか、これはなんの部です」

「せんぷ抄と読むんだ」と銕太郎が答えた、「故実の部へ入れてくれ」

 向うの「沼」で水音がし、十五六羽の鴨が舞い立つと、空を斜めに切って、北のほうへ飛び去るのが見えた。

「お願いですから」と云うゆきをの声が聞えた、「どうかはっきり仰しゃって下さい、あなたはわたくしのどこがお気に召さないのですか、わたくしどうすればいいのですか」

 銕太郎は黙って「沼」のほうを見ていた。

「わたくし妻としてできるだけのことはしているつもりです」とゆきをが云った、「これ以上どうしていいのかわたくしにはわかりません、ねえ、どうしたらお気に召すのか、わたくしに教えて下さいまし」

 銕太郎は妻のほうを見た。ゆきをは化粧を終ろうとしながら、鏡の中から彼の眼を見まもっていた。

「わからない、おれにもわからない」銕太郎は呻くように云った、「おまえは慥かに、妻の役を立派にはたしている、誰の眼にもおれたちは平安な生活をしているようにみえるだろう、だがおれにはおまえの本心をつかむことができない、この腕でおまえを抱き、肌と肌を触れあっているときでも、本当のおまえはべつのところにいる、抱きよせるとたんに、おまえの躯の中から本当のおまえがすりぬけてゆくのを感じるんだ」

「あなたがそうお感じになるのを、わたくしがどうしたらいいのでしょうか」とゆきをは鏡の中で静かに微笑した、「それにまた、||そういうことがそれほど大事なことなのでしょうか」

 そうだ、と銕太郎は心の中でうなずいた。一般的にはとるに足らぬことだろう、こういうことが感情に障らない者や、うまくいっている夫婦のあいだでは、こんなことは笑い話にもならないかもしれない。だが、おれにとっては大事なことだ。多数の人たちには些細ささいなことであっても、或る一人にとっては生涯をけるような問題もある。妻がそこにいて、しかもそこにいないという実感。なにかを妻と話しているとき、いっしょに食事をするとき、寝屋で抱きあっているとき、自分の眼で見、話しあい、触れあっているのは妻の形骸だけで、本当の妻そのものは遠いところにいる。それがまざまざと感じられる苦痛は耐えがたいものだ。

「大事なことだ」と彼は妻に答えた、「おれにとっては大事なことなんだ」

「わたくしでかけなければなりません」

ゆきを」と彼は云った、「岡野はなにを知っていたんだ、おまえはどんな秘密を彼に知られていたんだ」

「あなたはお聞きになった筈です」

「おれの聞いたのは茶会のことだけだ」

「それが全部ですわ」とゆきをは云った、「あの方はなにかを誤解して、根もない誹謗ひぼうでわたくしをはずかしめました、ですからはたし合をして頂きたいとお願いしたんです」

「あのつまらぬ陰口が、そんなにおまえを辱しめたというのか」

「あの方は軽薄な臆病者です」とゆきをは云った、「すてておけば、いつまでも卑しい陰口を云い廻るでしょう、それが広まってしまえば、あなたのお名にも瑕がつきますし、わたくしも生きてはいられなくなります」

「あのくらいの陰口がそれほど重大なことになるとは、おれにはどうしても考えられない」

「いまはもう済みました」ゆきをは鏡台のまわりを片づけながら云った、「あの方は臆病ですから、陣場ヶ原で誓ったことはきっと守るでしょう、仮に、||誓いをやぶるにせよ、わたくしがいなくなれば、なにを云ったところで誰にも傷つきはしませんから」

「おまえがいなくなるって」

「兄さん」と佐久馬が呼びかけた、「松川さんの妻女もあね上と同じ病気だそうですよ」

「松川、||」と銕太郎がゆっくり反問した、「松川靱負ゆきえか」

「ええ、妻女が半月ほどまえから寝ていたんですが、こんど医者に診せたらあね上と同じ病気で、いつ急変がくるかわからないと云われたそうです」と佐久馬が云った、「あね上も急だったですからね」

 くぬぎ林から百舌鳥が舞いあがり、やかましく鳴き叫びながら、「沼」のかなたのほうへ飛び去った。気がついてみると、空は黄昏たそがれのように暗くなり、静かな風の中に、白いこまかな雪が降りだしていた。

「おまえはとうとう本心をみせなかった」と銕太郎は庭を見やったままで云った、「おれは本当のおまえを見、本当のおまえと語り、本当のおまえに触れたかった」

「わたくしでかけなければなりません」ゆきをは立ちあがった、「もう茶会の時刻です、みなさんが待っていますから」

「待て、まだ話すことがある」

「わたくしにはもう申上げることはございません」と云って、ゆきをは静かに帯をで、髪へそっと手をやりながら良人を見た、「お話しするだけのことはお話し致しました、これ以上なにをお答えしていいかわかりませんし、わたくしもうすっかり疲れてしまいました」

「ゆくなら、本心をうちあけてゆけ」

「本心ですって」ゆきをは微笑した、「||申上げてもわかって頂けませんでしょう」

 ゆきをたもとからなにかを取出して、そっと机の上に置いた。それは紫色の花をつけた、一本の薊であった。細い茎に葉が三四枚、冬のことで花も小さいが、その鮮やかな紫色は、机の上でみずみずしく、際立って見えた。ゆきをはすらりと背を伸ばし、(いつもの)ふしぎにきっとした身ぶりで、縁側のほうへ歩きだした。銕太郎は惘然もうぜんとした眼つきで、妻が机の上へ薊の花を置く動作を見、そして、縁側のほうへ出てゆくのを見た。

ゆきを」と叫んで彼は立ちあがった、「待てゆきを

「兄さん」と佐久馬が呼びかけた。

 銕太郎は妻を追って縁側へ出た。佐久馬はとびあがり、走っていって兄を抱きとめた。

「どうしたんです、兄さん」と佐久馬は兄の肩を激しく叩いた、「しっかりして下さい、どうしたんです」

 銕太郎は弟の顔を見た、佐久馬が兄の眼を強く見返すと、銕太郎は不決断に、庭のほうへ眼をやった。庭はすっかり暗くなり、降りだした粉雪が、早くも庭土を白く染めていた。

「なんでもない」と銕太郎は云った、「大丈夫だ、放してくれ」

「いいですか」

「もういい、大丈夫だ」

「びっくりしましたよ」と云って佐久馬は手を放した、「お茶でも持って来させましょうか」

 銕太郎は首を振った。

「もう出仕するほうがいいですよ」佐久馬は本箱の前へ戻りながら云った、「あね上が亡くなってからずっとこもりっきりでしょう、四十九日を済ませたら出仕なさるんですね」

 銕太郎は机の前に坐ったが、そこにある薊の花を見て、「あ」と云い、顔色を変えた。

「どうしました」と佐久馬が兄を見た。

 銕太郎はそっと薊を指さした。

「それがどうしたんです」

「この、||」と銕太郎は吃った、「これが、どうしてここにあるんだ」

「私が採って来たんですよ」佐久馬が不審そうに云った、「天神山の崖下がけしたに咲いているのをみつけて、あね上のお好きな花だから折って来たんです、忘れたんですか」

 銕太郎はあいまいに、「そうか」と頷いて云った、「こんな季節にも咲くのか」

「あの崖下は陽溜ひだまりで暖かいんでしょう、撫子なでしこも咲いていましたよ」

 銕太郎は悩ましげな眼つきで、じっとその薊の花を見まもっていた。

「このままではしおれてしまうな」と暫くして彼は云った、「納戸から花立を出して、水を入れて来てもらおうか」

「持って来ましょう」と佐久馬が云った。

 弟が出てゆくと、銕太郎はまた、机に頬杖ほおづえを突いて、向うを見た。黄昏の色の濃くなった庭に、風の絶えた空から、粉雪が白く、音もなく降っていた。彼は粉雪のかなたをぼんやりとみつめてい、やがて一人の若い侍が、灯をいれた行燈を持って、足音を忍ぶようにはいって来た。






底本:「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」新潮社

   1982(昭和57)年10月25日発行

初出:「小説新潮」新潮社

   1959(昭和34)年1月

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:栗田美恵子

2021年3月27日作成

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