加川
「またですか」と云う妻の声がした、「またいつものことを考えていらっしゃるのね」
銕太郎は黙っていた。
彼は両の
||これは祖父の造った庭だ、と銕太郎は思った。
くぬぎ林は百本ちかくある。林を縫って細流が蛇行し、
銕太郎の坐っている位置から見て、くぬぎ林は右手にあり、正面が百坪ほどの芒野。左手には小高く、芝を植えた
「兄さん」と弟の佐久馬が手にした書物を見て云った、「これはなんと読むのかな、御なんとか花記というこれ、
「おさばなの記だ」と銕太郎が答えた。
「へえ、この宇冠に最という字がですか」と佐久馬が
「和学の中だ」と銕太郎が云った。
くぬぎ林へ
「
終りの言葉は、銕太郎の耳の奥で、こだまのように長く、繰り返し尾をひいて反響した。御家名に瑕がつく、御家名に、瑕がつく、瑕がつく、瑕がつく、つくのです。銕太郎は静かに振向いた。妻のゆきをは化粧をしてい、鏡の中からこちらを見ていた。
||これはあとのことだ、と銕太郎は思った。
かんじんなことはもっとまえだ。結婚したそもそものときから始まって、始まったことがわからないままで、悪いほうへと続いていった。
「なにが気にいらないんだ」と銕太郎は鏡の中の妻の眼を見ながら訊いた、「いったいなにが不満なのか、云ってみるがいいじゃないか」
「どうしてそんなことを
「自分で知っている筈だ」
「わたくし不満などはございません」とゆきをは答えた、それは心の底に強い不満のあることを、証明するような調子であった、「あなたはわたくしがお気にめさないので、そんなふうに仰しゃるのでしょう」
「話をそらすことは上手だ」
「御不満なのはあなたです」ゆきをは悩ましげに
銕太郎は眼をあげた。くぬぎ林で騒いでいた百舌鳥の群が、突然なにかをみつけたように、一斉に舞いあがったとみると、群は二つに別れて、一方は「沼」のほうへ飛び去り、片方はまたくぬぎ林に舞いおりた。
「この包んであるのはなんです」と弟の佐久馬が呼びかけた、「包紙に中川書林とありますがね」
「中川書林、||知らないな」
「解いてみてもいいですか」
銕太郎は黙って
「へええ」包を解き、中から書物を取出した佐久馬は、第一冊の頁をめくってみて笑った、「おどろいたな、こいつはどうも」彼は次つぎと、五冊を順にめくってみた、「みんな好色本ですよ、知らなかったんですか」
板塀のかなたの「沼」のほうで、鴨の鳴く声がし、水を叩く翼の音が聞えた。
「わたくしがまんができませんの」とゆきをが云った、「ほかのことは辛抱しますけれど、この男臭さだけはだめなんです」
「知らなかったね」と銕太郎が弟に云った、「中川ではときどきそんな物を送って来た、たいてい返したつもりだが、それだけは忘れていたんだろう」
「お願いですから」とゆきをが云った、「わたくしの
男には男の
||それでおれは、岡野
あれは結婚してまもないときのことだ、と銕太郎は思った。たしか村尾で祝宴のあったときだ、村尾の家で母堂の床上げ祝いをしたときのことだろう、そうだ。岡野は例のとおりすぐに酔って、誰かにからみ始め、ついでおれのほうへ来た。
||
おれにはなんのことかわからなかった。
||奥方ですよ、と岡野は云った。安島家のゆきをどのといえば、
「お願いです、あなた」とゆきをが云った、「どうぞなにも訊かずに、わたくしの望みをかなえて下さいまし」
いや、それはもっとあとのことだ、と銕太郎はそっと首を振った。一年の江戸番が終って帰ったとき、寝間をべつにするという話になった。おれはむろん承知したが、男臭さが辛抱できない、という理由は不愉快だった。他人のことは知らない、けれども、夫婦になればもう単なる男と女ではない、
「それは男のわがままと自分勝手な考えかたです」とゆきをが云った、「男はなにごとも自分を中心に考えたりふるまったりなさる、女を愛するときはことにそうです」
銕太郎はまた振向いた。ゆきをは鏡に向って化粧をしてい、鏡の中から良人のほうを見ていた。
「たとえば、
「ではおまえはどうだ」と銕太郎が訊き返した、「おまえはおれのどこが気にいらないんだ」
「そのお答えはもう幾十たびも申上げました」ゆきをは鏡の中で眼をそらした、「あなたはわたくしに不満があるので、それで逆にわたくしをお責めになるのですわ」
銕太郎は眼を庭のほうへ戻した。
枯れた芒がさっと風に揺れたち、くぬぎ林で騒いでいた、百舌鳥の声がやんだ。
なま温かい夜であった。銕太郎は自分のうなされる声で、眼がさめた。深い眠りの底から、少しずつさめてき、やがて、暗くしてある行燈の光りで、立てまわした
彼は起きあがった。その声は妻の寝所から聞えて来る、うなされていたのは妻なのだ。彼は立ってゆき、
「どうかしたのか」と彼はまた云った、「躯でも悪いのか」
「いいえ」とゆきをのねぼけたような返辞が聞えた、「わたくしどうか致しまして」
「うなされていたんだな」と彼が云った、「それならいいんだ、おやすみ」
おやすみあそばせ、申し訳ありませんでした、と答えるゆきをの声は、まだねぼけているように力なく、けだるそうであった。そんなことが三度あったのだ。三度めは雨の夜で、銕太郎は疲れていた。その日は藩主の越後守
||いまに眼がさめるだろう。
妻のうなされる声を聞きながら、銕太郎はそのまま眠ろうとしていた。しかし、
「ゆきを、ゆきを」と彼は呼んだ、「眼をさませ、またうなされているぞ」
呻き声は止った。彼は屏風をまわっていった。すると、暗くしてある行燈の光りで、妻の夜具から誰かのぬけ出るのが見えた。それはつるという若い小間使で、
「どうしたんだ」と銕太郎が云った。
「胃が痛みまして」と夜具の中からゆきをが答えた、「いままでつるに押えていてもらいましたの」
銕太郎は小間使を見た。つるは坐ったまま深くうなだれ、片手でしきりに裾前を合わせていた。つるは十六歳になるが、躯つきはまだ少女らしいまるみに包まれ、口のききようも幾らか舌足らずで、知恵がおくれているのではないか、と思われるくらいだった。いま深くうなだれている
「薬はのんだのか」と彼は妻に訊いた、「いつから痛みだしたんだ」
「もうらくになりました」とゆきをはもの憂げに答えた、「わたくしの胃は長い持病で、急に痛みだすと薬では効きません、押えてもらうよりしようがございませんの」
「初めて聞くようだが、これまでにもたびたび痛んだのか」
「いいえ、そうたびたびはございません」ゆきをはつるを見て云った、「有難う、もういいからいって寝ておくれ」
つるはそっと会釈をして去った。銕太郎がはいって来てから、いちども顔をあげず、口もきかなかった。
「医者には診せたのか」
「ええ」とゆきをは脱力したような声で答えた、「わたくしのは病気ではなく、躰質だということです」
「それは治らないということか」
「そんなに
銕太郎は立ったまま見おろしていた。妻の顔は
結婚してから四年めの秋、参覲のため出府する藩主の供で江戸へ向う途中、銕太郎は初めて悪酔いをし、思いがけない女に触れた。舞坂で暴風雨にあい、浜松までゆくと、天竜川が出水のため川止めだということで、浜松に五日滞在しなければならなかった。本陣の
口論のもとはゆきをのことであった。岡野は初めから銕太郎に
「側女を捜す」と彼は岡野を見た、「それはどういうことだ」
「跡取りですよ」と岡野は云った、「花としてはすばらしくとも、実の生らない花がありますからね」
銕太郎は顔をそむけた。
「加川夫人には昔から
「待て」銕太郎は
「薊の花には実が生らないというわけです」
「おれの妻がうまずめだということか」
「祝言をして何年になりますか」
「それは岡野の知ったことではない」
「どうしてわかります」
銕太郎はかっとなった。岡野の表情や口ぶりに、あからさまな
「きさまいったい、なにが云いたいんだ」
その声で一座が急にしんとなり、みんなが二人のほうを注視した。岡野は
「云ってみろ」と彼は叫んだ、「男なら男らしく、云いたいことをはっきり云ったらどうだ、云えないのか」
「私は加川さんのことを心配しただけですよ」
「おれのなにが心配なんだ」
「薊には
「おれは薊のことなど聞いているんじゃあない」
「それならそれでいいです」
銕太郎は立ちあがった。岡野を殴ろうとしたのだが、二三人に抱きとめられ、べつの座敷へ
夜明けまえに、銕太郎は眼をさました。激しい
「お苦しいんですか」
彼は
「おひやですか」とおうたが云った。
銕太郎は首を振った、「おいで」
おうたはすり寄って来た。ほんの一瞬、その顔にべそをかくような表情があらわれたが、すり寄って来る動作はごく自然であり、それからあとはおどろくほど積極的だった。銕太郎はとまどいをし、圧倒された。妻のほかに女を知らない彼には、おうたのすることや、呼吸や、訴えや、求めなどが、すべて尋常でないことのように思われ、却って、彼の内部で燃えていたものが冷えてしまった。
「このお肌の匂い」おうたは彼の胸に顔をうずめながら
「おれの匂いはそんなにひどいか」
「好き、好き」とおうたはからみついた、「あなたがお立ちになると、いつもお寝衣を隠しておいて、このお肌の匂いがなくなるまで抱いて寝るんです、もうずっとまえから」
恥ずかしい、堪忍して下さいと云って、おうたは痛いほど彼を抱き緊めた。
くぬぎ林で百舌鳥の鳴き叫ぶ声がし、銕太郎は振返った。
「この本」と弟の佐久馬が云った、「貰っていっていいですか」
「どの本だ」
「この好色本です、読まないんでしょう」
「好色本だって」
「中川書林のやつですよ」
「ああ」と銕太郎は云った、「おれは読まないが、返さなければならないだろう」
「そんな必要があるもんですか、こういう本はたいてい、
銕太郎は妻のほうを見た。
「そうよ、そこにお気がつかないのよ」とゆきをは云った、「そういう本さえお読みになれない御性分だから、女の気持などもおわかりにならないんです」
「おまえは読むか」
「わたくしのことではありません、あなたのことを申上げているんです」
銕太郎は眼をそらした。いや、あれはそんなことは云わなかった。少なくとも、そういう言葉ではなかった。
おうたとああなったあと、おれは二つの問題が頭からはなれなくなった。妻とおうたとの違い、あまりに大きい感覚的な差と、岡野の暗示した言葉、多くの娘たちがゆきをのために傷ついた、という言葉の意味。この二つのことがずっと胸につかえていた。そして明くる年、殿に参覲のいとまが出て帰国する途中、再びおうたとそういうことになった。おれはあやまちを繰り返したくなかったので、浜松では
おれは生れて初めて、充実した陶酔を味わった。まえのときには圧倒され、たじろいだものが、二度めのそのときには激しいよろこびの

「人にはそれぞれ癖があるものです」とゆきをは化粧する手を休めずに云った、「との方でもそうでございましょう」
「おまえのも癖か」
「商家に育った者や色町の女などには、そんなことがあるようにも聞きました、みだらな、いやらしいはなしですわ」とゆきをは冷やかに云った、「武家ではそんなことは許されません、そういうことはものごころつくころから、繰り返しきびしく戒められます、どんな場合にも慎みを忘れてはならない、そう教えられることはあなたも御存じではございませんか」
いや、これも妻の本音ではない、と銕太郎は思った。妻はどんなときにもはっきりしたことは云わなかった。いつも話をそらすか、巧みに要点をぼかした返辞しかしなかった。いつもそんなふうであり、それがなによりおれを
「これは、||兄さん」と佐久馬が手に持った書物を見ながら云った、「この朝献上というのはどの部へ入れますか」
「朝献上」と銕太郎が聞き返した、「そうだな、故実の部へ入れてもらおうか」
「あっと、忘れていましたが、四十九日は明後日でしたね」
「うん」と銕太郎は口の中で云った、「||時刻は四つからだ」
「心光寺で四つから、わかりました」
銕太郎は庭のほうを見た。
「お願いです」とゆきをが云った、「わたくしの口から理由は申上げられません、理由は云わなくとも、あなたからそう申入れて下されば、それだけであの方にはわかる筈です」
「おまえは加川の家名と云った」彼は庭のほうを見たままで反問した、「おれがそうしなければ、おまえは死ぬほかにないし、加川の家名に傷がつくと云った、しかも理由を知らぬままでおれに決闘しろなどとは、まるで狂気の沙汰ではないか」
「ようございます」とゆきをが云った、「ではわたくしが死ぬことに致します」
銕太郎は振返って妻を見た。ゆきをは化粧をやめ、鏡の前で深くうなだれていた。みせかけでも
「ひと言だけ訊くが」と彼は云った、「それは岡野がおまえを薊に譬え、その棘で多くの娘たちが傷ついた、ということが原因か」
「理由は云えないと申上げました」
「ひと言でいい、原因はそのことか」
ゆきをはうなだれたまま黙っていた。銕太郎は庭のほうへ向き直った。
風が起こって、枯れた芒がさわさわと揺れたち、百舌鳥の声が遠くなった。
陣場ヶ原は若草に
岡野は霧の中を走って来た。なにかに追われているような走りかたで、強ばった顔は隠しようのない驚きと、
「支度をしろ」と彼は云った。
「どうしたんです、どういうわけです」岡野弥三郎は荒く息をしながら
「覚えがある筈だ、支度をしろ」
「私にはなにも覚えはありません」
「ではどうしてここへ来た」
「なにを誤解しているか知りたかった」と岡野は口ばやに答えた、「なにが原因で決闘しようなどと云われるのか、その理由を聞きたかったからです」
「理由は口で云えない場合もある」と銕太郎は云った、「侍と侍のあいだでは、いちぶんが立たぬというだけで決闘の理由になる」
「待って下さい、それは私がなにか
「それは覚えがある筈だ」と云って彼は刀の
「無法だ」と岡野は片手を振りながらうしろへさがった、「なにも覚えがないのに決闘ができますか、まあ待って下さい、私の云うことも聞いて下さい」
銕太郎は刀を抜いた。その動作につりこまれたらしい、それとも恐怖のため無意識に手が動いたのか、岡野弥三郎も刀を抜き、抜きながら、「待って下さい」と叫んでとびさがった。銕太郎は相打ちにでもするように、刀を正眼につけたままぐいぐいと進み出、岡野は左へまわりこんだ。
「待って下さい」と岡野が叫んだ。
銕太郎は構わずにまを縮めた。
「云います、云いますから待って下さい」岡野の顔色が変り、刀を持っている手の震えるのが見えた、「私が軽率でした、あやまります、どんなにでもあやまりますから、どうか刀を引いて下さい」
「よし」と銕太郎は足を停めた、「あやまるというのなら聞こう、云ってみろ」
「私は」岡野は喘ぎ、そして吃った、「私は、軽率に御内室の陰口をききました、つい、口がすべったのです」
銕太郎は黙って相手の眼をみつめた。
「しかし貴方以外には誰にも云ったことはありません、誓います」岡野はきまじめに低頭した、「そしてこれからは、御内室のことは断じて口にしません、断じてです、あのことについては私は
「あのこと、とはなんだ」
「私は誓いました」
「誓った証拠に云え」銕太郎は一歩、前へ出た、「あのこととはなんだ」
「
銕太郎は刀をおろした。
ゆきをはその友人たちと、毎月二度、望翠楼という料亭で茶会をする。望翠楼は亀形山の東端にあり、城下町とは反対のほうを向いていて、領境までの広い展望を、座敷に坐ったままでたのしむことができる。||城のある西端より一段低いが、昔は出丸があったそうで、台地になっている広い庭内に、京から移した茶室があった。茶室は小堀遠州の作だと伝えられ、「古月亭」と号されていて、家中や城下町の
岡野に決闘を挑んだ日から七日めに、ゆきをは「茶会があるから」と云ってでかけたが、
岡野に決闘を挑んだのは、むろん本気ではなかった。妻の云った言葉から、岡野が「なにか」を知っており、ぎりぎりまで追い詰めれば、そのことを告白するだろう、と思ったからであった。結果は推察したとおりになったけれども、「茶会」ということがわかっただけで、それがどういう意味であるかは不明だった。
||むろん御承知でしょう。
岡野はそう云ったし、あの場合それ以上問い詰めるのは、こちらの弱味を
銕太郎はその裏道から登った。登りきったところは松林で、台地の端を左へ廻ってゆくと、松とくぬぎの疎林があり、「古月亭」の屋根が見えた。彼は路地をはいってゆき、にじり口ではなく、玄関のほうへまわった。玄関には女の履物が二足あり、茶室の中はしんとして、人の声もなかった。履物の一つが妻の物であることを慥かめてから、銕太郎は奥へ呼びかけた。
「ゆきを、いるか」
茶室の中はしんとしたままで、戸外の松林のほうに小鳥の声が聞えた。
「ゆきを、おれだ」と彼はまた呼んだ、「急用があって来た、いるか」
すると奥で「はい」というかすかな返辞が聞え、人の動くけはいがした。銕太郎は刀を脱して右手に持ち、あがっていって襖をあけた。「古月亭」は数寄屋造りで、よりつきが六帖、控えが四帖半、そこに
「いまそこから」と彼は猿戸へ眼をやって訊いた、「誰か出ていったようだな」
「山岸のしづさんです」
「山岸とはどの山岸だ」
「
「それがどうして逃げた」
「逃げたのではございません」とゆきをはきつい口ぶりで云った、「あなたが断わりもなしにはいっていらっしゃるので、ただ座を外しただけですわ」
彼はじっと妻のようすを見た、「茶会ではないようだな」
「ええ」と云って起き直ろうとしたが、ゆきをは眉をしかめて呻き、苦しそうにまた横になりながら云った、「五人集まる筈でしたけれど、四人に故障ができましたそうで、わたくしとしづさんだけでしたから、茶会はやめにし、二人で食事をして帰るつもりでした」
そして、話をしているうちに、持病の胃痛が起こったため、いままでしづさんに押えていてもらったのだ、とゆきをは云った。銕太郎はそのとき初めて、妻が下着だけで横になっていること、小袖や帯などが、隅の暗がりにぬいであることを認めた。
「急用とはなんでございますか」ゆきをはだるそうな声で訊いた。
「帰ってからにしよう」
「まだ痛みがおさまりませんし、しづさんを置いてゆくわけにはまいりません」
「その人に帰ってもらってもいい」と彼が云った、「話はここでしてもいいんだ」
ゆきをはなにかを聞きすましていて、それから「しづさん」と呼んだ。すると、よりつきの六帖で女の答える声がした。茶席のにじり口から出て、そちらへまわっていたのだろう。ゆきをが呼ぶと、声をかけて襖をあけ、山岸しづがはいって来た。||年はゆきをより二つくらい若そうで、やわらかに肥えた躯つきや、色の白いまる顔など、まだどこやら少女めいた感じが残っていた。
「加川です」と銕太郎は会釈を返して云った、「妻が御厄介をかけたそうでお礼を申します」
しづは口の中でそれに答え、ゆきをに向って、それではお先に、と挨拶した。しづはいちども銕太郎の顔を見なかったし、ものを云うのも口の中で、恥ずかしげに低く、殆んど
||誰かに似ているな。
出てゆくしづを見ながら、銕太郎は首をかしげた。そしてすぐに、いつか夜半に妻の寝所で見た、召使のつるに似ていたようだ、と気がついた。つるは年もずっと若いし、躯も顔つきもまるで違う。しかし、それでいてぜんたいの感じに、おどろくほど共通したところがあるように思えた。
くぬぎ林でにわかに百舌鳥の声が高くなり、銕太郎はどきっとしたように眼をあげた。弟の佐久馬は書物を整理してい、銕太郎はくぬぎ林のほうを見た。
「どうしてですの」とゆきをが云った、「なぜそんなことでやめておしまいになったんですの」
「岡野は謝罪した」と銕太郎は妻のほうを見ずに云った、「これまでは軽率だった、これからは決して陰口はきかない、聾で盲目で唖になる、断じてそれを誓う、そう云って謝罪する者を斬れると思うか」
「それならもう、あなたはさっぱりなさいましたのね」
銕太郎は答えなかった。
「この、||なんと読むのかな」と佐久馬が取りあげた本を見て云った、「浅いという字に浮くという字に、抄とあるんですが、あさうき抄とでもいうんですか、これはなんの部です」
「せんぷ抄と読むんだ」と銕太郎が答えた、「故実の部へ入れてくれ」
向うの「沼」で水音がし、十五六羽の鴨が舞い立つと、空を斜めに切って、北のほうへ飛び去るのが見えた。
「お願いですから」と云うゆきをの声が聞えた、「どうかはっきり仰しゃって下さい、あなたはわたくしのどこがお気に召さないのですか、わたくしどうすればいいのですか」
銕太郎は黙って「沼」のほうを見ていた。
「わたくし妻としてできるだけのことはしているつもりです」とゆきをが云った、「これ以上どうしていいのかわたくしにはわかりません、ねえ、どうしたらお気に召すのか、わたくしに教えて下さいまし」
銕太郎は妻のほうを見た。ゆきをは化粧を終ろうとしながら、鏡の中から彼の眼を見まもっていた。
「わからない、おれにもわからない」銕太郎は呻くように云った、「おまえは慥かに、妻の役を立派にはたしている、誰の眼にもおれたちは平安な生活をしているようにみえるだろう、だがおれにはおまえの本心をつかむことができない、この腕でおまえを抱き、肌と肌を触れあっているときでも、本当のおまえはべつのところにいる、抱きよせるとたんに、おまえの躯の中から本当のおまえがすりぬけてゆくのを感じるんだ」
「あなたがそうお感じになるのを、わたくしがどうしたらいいのでしょうか」とゆきをは鏡の中で静かに微笑した、「それにまた、||そういうことがそれほど大事なことなのでしょうか」
そうだ、と銕太郎は心の中で
「大事なことだ」と彼は妻に答えた、「おれにとっては大事なことなんだ」
「わたくしでかけなければなりません」
「ゆきを」と彼は云った、「岡野はなにを知っていたんだ、おまえはどんな秘密を彼に知られていたんだ」
「あなたはお聞きになった筈です」
「おれの聞いたのは茶会のことだけだ」
「それが全部ですわ」とゆきをは云った、「あの方はなにかを誤解して、根もない
「あのつまらぬ陰口が、そんなにおまえを辱しめたというのか」
「あの方は軽薄な臆病者です」とゆきをは云った、「すてておけば、いつまでも卑しい陰口を云い廻るでしょう、それが広まってしまえば、あなたのお名にも瑕がつきますし、わたくしも生きてはいられなくなります」
「あのくらいの陰口がそれほど重大なことになるとは、おれにはどうしても考えられない」
「いまはもう済みました」ゆきをは鏡台のまわりを片づけながら云った、「あの方は臆病ですから、陣場ヶ原で誓ったことはきっと守るでしょう、仮に、||誓いをやぶるにせよ、わたくしがいなくなれば、なにを云ったところで誰にも傷つきはしませんから」
「おまえがいなくなるって」
「兄さん」と佐久馬が呼びかけた、「松川さんの妻女もあね上と同じ病気だそうですよ」
「松川、||」と銕太郎がゆっくり反問した、「松川
「ええ、妻女が半月ほどまえから寝ていたんですが、こんど医者に診せたらあね上と同じ病気で、いつ急変がくるかわからないと云われたそうです」と佐久馬が云った、「あね上も急だったですからね」
くぬぎ林から百舌鳥が舞いあがり、やかましく鳴き叫びながら、「沼」のかなたのほうへ飛び去った。気がついてみると、空は
「おまえはとうとう本心をみせなかった」と銕太郎は庭を見やったままで云った、「おれは本当のおまえを見、本当のおまえと語り、本当のおまえに触れたかった」
「わたくしでかけなければなりません」ゆきをは立ちあがった、「もう茶会の時刻です、みなさんが待っていますから」
「待て、まだ話すことがある」
「わたくしにはもう申上げることはございません」と云って、ゆきをは静かに帯を
「ゆくなら、本心をうちあけてゆけ」
「本心ですって」ゆきをは微笑した、「||申上げてもわかって頂けませんでしょう」
ゆきをは
「ゆきを」と叫んで彼は立ちあがった、「待てゆきを」
「兄さん」と佐久馬が呼びかけた。
銕太郎は妻を追って縁側へ出た。佐久馬はとびあがり、走っていって兄を抱きとめた。
「どうしたんです、兄さん」と佐久馬は兄の肩を激しく叩いた、「しっかりして下さい、どうしたんです」
銕太郎は弟の顔を見た、佐久馬が兄の眼を強く見返すと、銕太郎は不決断に、庭のほうへ眼をやった。庭はすっかり暗くなり、降りだした粉雪が、早くも庭土を白く染めていた。
「なんでもない」と銕太郎は云った、「大丈夫だ、放してくれ」
「いいですか」
「もういい、大丈夫だ」
「びっくりしましたよ」と云って佐久馬は手を放した、「お茶でも持って来させましょうか」
銕太郎は首を振った。
「もう出仕するほうがいいですよ」佐久馬は本箱の前へ戻りながら云った、「あね上が亡くなってからずっと
銕太郎は机の前に坐ったが、そこにある薊の花を見て、「あ」と云い、顔色を変えた。
「どうしました」と佐久馬が兄を見た。
銕太郎はそっと薊を指さした。
「それがどうしたんです」
「この、||」と銕太郎は吃った、「これが、どうしてここにあるんだ」
「私が採って来たんですよ」佐久馬が不審そうに云った、「天神山の
銕太郎はあいまいに、「そうか」と頷いて云った、「こんな季節にも咲くのか」
「あの崖下は
銕太郎は悩ましげな眼つきで、じっとその薊の花を見まもっていた。
「このままでは
「持って来ましょう」と佐久馬が云った。
弟が出てゆくと、銕太郎はまた、机に