布施半三郎はその
加能川には釣り場が多い、雇い
半三郎は満足そうに
「申し分なしだ」彼は云った、「まるでお
翌日、半三郎は支度をしてでかけた。
釣道具は江戸から持って来てあった。袋へ入れた
「もし旦那」と段平は云った、「魚籠をお持ちなさらねえのですか」
半三郎は「うん」といっただけで、振向きもせずに出ていった。
「おかしな旦那だ」段平は
段平は頭のうしろを
城下町からその淵まで、約一里二十町ばかりあった。はじめの一里は殆んど
「こんなふうに触られると
断崖の途中で休みながら彼は呟いた。
「擽ったいかもしれないがね、おい」と半三郎は断崖に向って云った、「どうかおれを振り落さないように頼むよ」
下へおりると川風があった、彼は初めて手拭を出して埃と汗を拭き、平らな
「頼むぜ、きょうだい」
そのとき魚が跳ねた。淵から三段ばかり上に棚瀬があり、水が白く
「
半三郎の見込に狂いはなかった。
午後四時ごろまでに、半三郎は三十二尾釣って放し、満足して家へ帰った。仲間の段平は、旦那が手ぶらで帰ったので同情した。
「あの川にはいるんですがな」と段平は云った、「きっと場所がいけなかったんですな」
半三郎はなにも云わなかった。
翌日もでかけていった。爼板岩へ腰をおろすとき、彼はまたその岩をそっと叩いた。口ではなにも云わなかったが、いかにも親しげな「よう、きょうだい」とでもいうふうな叩きかたであった。その日は
「なんだ、おい、またか」半三郎は一尾の鮠を握って云った、「おまえさっき放してやったばかりじゃないか、ばかだね、いま釣られたばかりでまた釣られるなんてまぬけなやつがあるかい、おい、しっかりしてくれ」
彼はその鮠を放してやった。
その鮠は水の中でひらっと腹を返し、見えなくなって、次にまた銀色の腹をひらめかせて、そしてすばやく底のほうへ消えた。すると、人間の白い
半三郎はぎょっとした。
初めはなんであるかわからず、
半三郎がそれらを見たのは殆んど一瞬のことであった。ほんの「
半三郎はぎょっとし、そして両方の眼をつむった。眼をつむったうえに、両手で(そのつむった)眼を押えた。すると、持っていた釣竿が落ち、岩角で跳ねて、川の中へ落ちこんでしまった。彼は気がつかなかった、やや暫くそうしていて、やがておそるおそる眼をあけてみた。それから身を
「幻か」半三郎は呟いた、「眼がどうかしたのか、いや、
彼は暫くのあいだ茫然と、気でも喪失したように、岩の上からじっと水面を見まもっていた。
竿を流してしまったから、その日は早く帰った。段平は旦那が今日も手ぶらで、おまけに竿も持たずに帰ったので首を振った。
旦那が井戸端へゆくのを見送りながら、段平はまた首を振り、頭のうしろを掻いた。
「なにをしにゆくだかさ」と段平は呟いた、「魚は一尾も釣らねえ、おまけに竿までなくして来るなんてさ、あんな立派な竿をよ、へ、||」
夕飯のとき、段平は客があったのを思いだした。彼は給仕をしながら旦那に云った。
「午めえに柏原さまがおめえになりました」
すると半三郎は眼をつむった。半三郎は手に持った茶碗の飯を見ていた、
「どうかなせえましたか」
驚いて段平が
「うん」半三郎が云った、「なんでもない」
「柏原さまがおいでなせえました」段平が云った、「えらくお気にいらねえあんべえで、どういうつもりだって、来るそうそうから毎日出てばかりいてなんのつもりだって、||旦那は御謹慎の都合でこのお
「そんなことはない」半三郎が呟いた、「眼がどうかしたんだ、ある
段平は口をあいて旦那の顔を見た。
「へえ、||」と段平が云った、「すると御謹慎じゃあねえのですか」
「少し黙れ」と半三郎が云った。
段平はへえと云った。へえ黙るべえ、と彼は思った。おらの知ったことじゃねえ、お
||おかしな旦那だ、解せねえひとだ。
布施半三郎は約一と月まえに江戸から移って来た。すぐに段平が雇われ、ずっと世話をしているのだが、勤めにも出ないし、同家中のつきあいもない。こっちから誰かを訪ねるとか、向うから誰か訪ねて来るなどということが絶えてない。また、ずばぬけた無口で、段平が話しかけてもろくすっぽ返事をしないし、用事のほかに話しかけることもない。しかも奇妙なことには、家の柱だとか壁だとか、庭の木だの石だのにはよくものを云う。犬や猫や、小鳥などにも機嫌よく話しかけるのであった。
||彼は謹慎の意味で国詰になったのだ。
午まえに来た柏原
半三郎はそういういざこざを避けるために、庭木いじりや魚釣りを始めた。
||木や石や魚はおれに
彼はそういうのであった。もう二十八にもなるが、縁談が幾らあってもつっぱねるし、役に就かせようとしても承知しない。「私のことは放っといて下さい」というので、三年間の国詰を命ぜられた。謹慎の実がみえたら江戸へ帰らせてやる、というのだそうである。
食事が済むと半三郎は段平を見た。
「なにか云ったか」
「柏原さまがおめえになりました」段平が云った、「今日の午めえに、柏原図書さまがおめえになって、えらくへえ不機嫌のあんべえで、いってえどんなつもりだかって」
「わかった」と半三郎が云った、「それはもう聞いた、同じことを二度云うな」
段平はへえといって黙った。
二日続けて雨が降った。三日めに半三郎は釣りにでかけた。江戸から持って来た竿は三本ある、流したのは安物であるが、中でもっとも調子のいい竿であった。彼は残りの中から一本を選み、すっかり手入れをして、でかけた。
「その」と段平が云った、「もしも柏原さまがおめえになったら、どんなあんべえに云ったらいいですか」
「釣りにいったと云え」
「その」段平が云った、「おらが考げえるに」
「釣りにいったと云え」
そして半三郎は出ていった。
淵へおりた彼は、爼板岩の上に釣竿が置いてあるので驚いた。四日まえに流した竿である、あのとき流した自分の竿だということはひと眼でわかった。半三郎は
そこはいつものとおりだった。どこにも人は見えなかったし、どこかに隠れているようすもなかった。
「幻でも眼がどうかしたのでもない」と半三郎は呟いた、「あれは事実だった、あの······女は本当にいたんだ」
あの裸の女は実在のものだった。それで彼の流した竿を拾って、
「頼むぜ、きょうだい」彼は眩しそうな眼をした、「あんまりおどかさないでくれ」
雨あがりで、水はまだ濁っていた。
午まえは濁りがあって成績はよくなかった。午後になって濁りが薄くなると釣れだし、一刻ばかりのうちに十尾ほどあげた。むろん釣るそばから放してやるのだが、十何度めかに山女魚を放したとき岩の下から呼びかける声がした。
「なぜ魚を逃がすんですか」
半三郎は「うっ」といった、そして同時に眼をつむった。
「ねえ」とまたその声が云った、「せっかく釣ったのになぜ逃がしてしまうんですか」
「||竿を有難う」と半三郎が云った。
「なんて
「竿をどうも有難う」
「どう致しまして」その声は含み笑いをし、それから云った、「わたくしが悪かったんですもの、ずいぶん吃驚なすったようね」また含み笑いが聞えた、「わたくしも吃驚しましたわ、この淵は決して人の来ない
「いや」と半三郎が云った、「今日は、いつのまにそこへ||まえから来ていたのか」
「ええさっきから」とその声が云った、「向うから潜って来て見ていました、ちょうどあなたが鼻を擦っていたとき」
半三郎はつい鼻を擦った。
「ねえ」とその声が云った、「いっしょに泳いで頂きたいんだけれど、いかが」
半三郎は答えられなかった。
「ねえ」その声はしだいに乱暴になった、「あなた泳ぎを知らないんでしょ」
「知っているさ」
「じゃあいらっしゃい」その声が云った、「今日は大丈夫よ、ほら」
水の音がして、岩蔭からすいと、女が向うへ泳ぎ出た。腰に巻いている赤い
「いらっしゃいよ、早く」女は云った、「そのくらいの勇気はあるでしょ、あなた」
半三郎は立って帯を解いた。
「わあ嬉しい」女が叫んだ、「早くよ、早く」
半三郎は下帯だけになり、岩の上からいさましく跳び込んだ。女は泳いで来て、半三郎が浮きあがると、頭を押えて沈めた。半三郎は水を飲んだ。女は絡まって来て、浮きあがろうとする彼を押えつけた。半三郎は息が詰り、女を振放して脇へ逃げた。ようやく浮きあがると、女は水を叩いて笑った。
「ああ面白い」と女が云った、「いじめてやった、弱いのね、あなた」
「いつもそうとは限らない」
「あたしを沈められて」女は笑った、「沈めてごらんなさいよ、沈められないでしょ」
半三郎は泳いでいった。女は潜った。半三郎も潜って、水の中で眼をあいた。明るい暖色の青がひろがり、つい鼻先を一尾の魚がはしり去った。半三郎は脇へそれて浮きあがった。女は見えなかった。半三郎はまた潜った。それから用心して浮きあがって、女の浮いて来るのを待った。
女は浮いて来なかった。
「おい」半三郎はどなった、「出て来ないか」
彼は岩の上へあがった。
四時ころまで釣りながら待ったが、女はついに姿をみせなかった。その夜、半三郎は奇妙なおちつかない感情に悩まされて、よく眠ることができなかった。眼の前にあの女のすはだかの姿がうかび、
「どういうつもりだろう」半三郎は呟いた、「ただからかっただけなのか、それとも恥ずかしくなって逃げたのか」彼は枕の上で頭を振った、「とにかく
翌日、彼は一刻ばかりも寝すごした。段平は食事の支度をして待ったが、旦那が起きないので、旦那の起きるまで裏で米を
「お釣竿がめっかったようなあんべえですな」と段平が云った、「どけえか流れ着いてたですかえ」
旦那は「うん」といっただけであった。
おそい朝食のあとで、釣りにいったものかどうかと、半三郎はちょっと迷った。心のどこかに「またあの女に会いたい」という期待があったからである。彼が迷っていると、段平が来て云った。
「旦那、お餌のお支度ができました」
半三郎は元気よく立ちあがった。
だがその日、女は来なかった。
「ばか者」と彼はふいにどなった、「だらしがないぞ」
段平は眼を
「わしでごぜえますか」と段平は云った。
半三郎は段平を見て、夢からさめたような眼つきをし、黙って立ちあがった。
その翌日、半三郎は家にこもっていた。しかし次の朝には段平に餌掘りを命じ、ひどくそわそわとでかけていった。淵へおりてゆくと、女が待っていた。
女は断崖の下の、日蔭になったところにいた。やはり
「もう泳いだのか」と半三郎が云った、「まだ水が冷たいじゃないか」
「どうして昨日いらっしゃらなかったの」
女の声はふるえていた。激しい感情を抑えるためにふるえるようであり、怒りのためにふるえるようでもあった。半三郎は振向いてみた。すると女は突然しがみついた。両手で力いっぱいしがみつき、危うく抱きとめた男の腕のなかで、がたがたとふるえた。
「きつく」と女が云った、「もっときつく抱いて、つぶれるほどよ」
半三郎はそうした。濡れている膚の下に、火のような躰温が感じられた。そんなに強く抱き緊めても、女の躯のふるえは止らなかった。まるで
「おれは、漁師じゃあない」半三郎がしゃがれた声で云った、「おれは釣りをたのしむだけだ、漁師じゃないから、魚は要らないんだ」
「なにか仰しゃって」
「いや、なんでもない」半三郎は云った、「なんでもないよ」
女はうっとりと溜息をついた。半三郎の胸に
「逢いたかったわ」
半三郎はつよく眉をしかめた。
「名を訊いていいか」と彼は云った。
「いや」女は首を振った、「あなたがお付けになって、あなたの好きな名で呼んでちょうだい、それがあたしの名よ」
「おまえの小さいときからの名が知りたいんだ」
「いや、笑うから」
「云ってごらん」
「ただこ」と女が云った。
「ただこ」と半三郎が云った。
女が泣きだした。半三郎は女を抱いたまま左右に揺った。そしてもういちど囁いた。
「ただこ、||」
二人は毎日のように逢った。
雨の降らない限り、一日として逢わないことはない。女はいつも川上のほうから、棚瀬をすべって淵へ来た。そうして、淵を下のほうへくだって去るのである。淵から下のほうに、誰かが着物を持って待っているらしい。名はさだ、||ただこというのは幼いころ自分で
「あたしをただこのままにしておいてちょうだい」と彼女はいつも云った、「あなたは初めに、あたしの生れてきたままの、どこも隠さない||ありのままの姿をごらんになったわ、いまだって裸のままでしょ、これがただこよ」
「おれはすっかり知りたいんだ」
「これがあなたのただこよ」と彼女は云うのであった、「着物を着ておつくりをしたあたしは、もうただこではないし、あなたとは縁のない女だわ、ねえ、あたしをただこのままにしておいてちょうだい」
「どうしてもだめなのか」
「お願いよ、そんなお顔をなさらないで、あたしを困らせないでちょうだい」
六月が過ぎ七月になった。
このあいだに、柏原図書がしばしば来て、そのたびに段平があぶらをしぼられた。たとえ雇い仲間でも家来は家来である、主人がそんなに不取締りなのに黙って見ているやつがあるか、素行のおさまるように意見の一つもしてみたらどうだ。などと云われるのである。しかし段平にはどうしようもない、なにを云っても旦那はてんで受けつけないし、ちょっと
「それでは柏原さまの旦那にうかがうだが」と段平はついに云った、「いってえうちの旦那の素行がどう悪いですかえ、
柏原図書は顔をしかめ、段平の無知を
七月になると、ただこのようすが変りだした。彼女は胸を隠すようになった、白い
彼女のこういう変化に、半三郎は殆んど気がつかなかった。或るときふとそれに気づいたが、いつから襦袢を着はじめたか、いつから二布を晒し木綿に変えたか、はっきりした記憶はなかった。
||どうして気がつかなかったろう。
彼はただこに訊こうとして、口まで出かかったのをやめた。
||なにを訊く必要があるんだ。
と彼は自分に云った。ただこは初めすはだかで彼の前にあらわれた、次に腰を二布で隠し、それから胸を隠すようになった。
||この事実だけで充分じゃないか。
そうだ、充分だ。と彼は思った。
「いちどいっしょに食事をしよう」
七月の中旬になったとき半三郎が云った。
「無理なこと仰しゃらないで」
「どうして」と半三郎は云った、「食事をするくらいのことがなぜ無理なんだ」
「あなたとは此処で逢うだけよ」
「もうこんなに秋風が立ってきた」半三郎が云った、「泳ぐのももう僅かなあいだだ、泳げなくなっても逢いに来るか」
「そのときのことはそのときよ、そのつもりなら九月だって十月だって泳げるわ」
「いっしょに食事をしよう」と半三郎は云った、「おれは知らないから、場所はそっちで選んでくれ、できるだけ早くだ」
「どうしても、||」
「どうしてもだ」
そのとき二人は、爼板岩の上に並んで坐っていた。ただこは自分の(裸の)
||この方はもうあとへはひかないだろう。
彼女はそう思った。半三郎の口ぶりは静かであるが、これまでとは違った調子があった。そうして、彼女自身のなかにはもっと強く、その要求を拒めない感情がそだっていた。
「もしかして」とただこは云った、「そのために、こうして逢うことができなくなるとしても、それでも||あなたは構わなくって」
「それはどういう意味だ」
「わからないわ」
「そんな心配があるのか」
「わからない」ただこは首を振った、「そんな心配はないと思うけれど、でもわからない、ああ、あたしもうなんにもわからないわ」
彼女は両手で顔を押えた。半三郎は彼女の肩へ手をまわし、両の腕で乱暴に抱きよせた。ただこの躯は彼の腕の中で柔らかく、棉の実のように軽かった。ただこはふるえながら、半三郎の胸に凭れて云った。
「ねえ、もう少し待って下さらない、もう少し、||秋になるまで」
「同じことだ」
「もう少し待って下されば、すっかりいいようにしてお逢いしますわ」
「なにを」と半三郎はただこの顔を見た、「なにをいいようにするんだ、云ってごらんただこ、おれたちの邪魔をしているのはどんな事だ」
ただこは彼の胸へ顔を隠した。
「云えないのか、おれにも云えないようなことなのか」と半三郎が云った、「よし、それならなおさらだ、おれはただこ一人が苦労するのを黙って見ているほど
「わかってるわ、あなたにはこわいところがあるわ」
「おれは待つだけ待った、初めて逢ってからまる一と月以上も経つのに、おれはただこのことをまだなにも知らない、もうたくさんだ」と半三郎は云った、「こんな状態はもうたくさんだ、ただこ、||いっしょに食事をするか」
「ええ、そうしましょう」
「いま此処できめてくれ、どこがいい」
ただこは顔をあげて彼を見た。
その翌日の午、二人は源ノ森の「
そこは城下町の西に当り、北野神社の境内に続いている。うしろを深い杉の森に囲まれ、千の池とよばれる池を前にして、掛け茶屋や料亭が並んでいるが、「蜂屋」はそのなかでもっとも構えが大きく、桟橋に屋根船なども
ただこは先に来て待っていた。それは別棟になった
ただこはすっきりと
「そんなにごらんにならないで」とただこは眼のまわりを赤くした、「こんな恰好、||似あわないでしょ」
「きれいだ」と半三郎が云った、「きれいだよ」
「もう、ごらんにならないで」
「見やしないよ」半三郎は濡縁のほうへ出てみた、「舟が出せるんだな」
ただこも出ていって、彼と並んだ。
「よければ舟で網をうって、捕った魚を舟の中で喰べることもできますわ」
「池の魚をか」
「加能川から水を引いてあるんです」ただこが云った、「だから川の魚がいろいろ捕れるんです」
「むかしから知ってるんだな」
「小さいじぶん父や母たちとよく来ましたわ」
「ただこのじぶんか」
「ええ、ただこのじぶん」
半三郎は片手をそっと彼女の肩へかけた。ただこは頭を
食事はうまかった。鮎の作身と塩焼、
「
「釣りをしていれば無事なんだ」
「それはそうよ、||」しかし彼女はふと眼を伏せた、「でも、こんなことになってみると、その釣りさえも無事ではなかったわけだわ」
「大漁だという意味か」
彼女はあいまいに首を振った。眼を伏せたまま首を振るその動作は、いかにもよわよわしく、困惑しているようにみえた。だが、ただこはすぐに顔をあげ、彼を見て眼で笑いながら云った。
「だってあなたは、せっかく釣った魚を、いつも逃がしておしまいになるじゃありませんか」
「どう云おう」半三郎は笑おうとした、「困ったな、おれはこんなときうまくやり返すことができないんだ」
ただこは乾いた声で笑った。自分で云った言葉に自分で「不吉」を感じたらしい、乾いたような声で笑いながらいそいで云った。
「それで手のほうが先になるのね」
「手が届きさえすればね」
そのとき、池のほうで激しい水音がした。見るとすぐ向うの水面で、一羽の
「いやだわ」ただこが笑いながら云った、「あの鵜はよっぽどしんまいなのね」
「そうらしいな」
「うちへ帰ってなんて云うかしら」
「黙ってるだろうね」
「そうね」とただこが云った、「||黙って、当分しょんぼりしているわね、きっと」
二人は笑いやんだ。
砂糖漬の
「ではまた明日」ただこは囁いた、「あの淵でね」
「あの淵で」と半三郎が云った。
ただこが去ると、彼は急に暑さを感じた。まるでただこが涼しさを持っていったように、むしむしと暑くなり、汗がにじんできた。彼は「はちや」と印のある
すると濡縁の向うへ、若侍が一人来て立った。木戸のほうから来て、そこに立ってこっちを見た。二十三、四歳の、
「なんだ」半三郎が云った、「なにか用か」
若者の顔がみにくく
「いや」と若者は首を振った、「なんでもありません、失礼しました、誰もいないと思ったものだから、どうも、||」
そして若者は木戸のほうへ去った。
若者は四つ目垣の木戸をぬけると、母屋へはゆかずに、そのまま
「どうしよう」彼は立停った、「どうしよう」
躯がふるえ、額から汗が流れていた。彼は右手に扇子を持ちながら、それで陽をよけようともせず、流れる汗にも気がつかないようすで、照りつける陽のなかを、そわそわと北野神社のほうへゆき、森を出て、鳥居前から
「滝山へやってくれ」と彼は云った。
「へえ」と駕籠屋は云った、「滝山のお別荘でございますね、かしこまりました」
半三郎のいつもゆく山道を、淵へおりずに四町ばかりゆくと、滝山という部落がある。そのまん中どころの、竹垣をまわした
門を入った彼は、すぐ左の
「帰っているか」彼は云った、「奥だな」
小五郎は縁側へあがった。
「はい、あの」と侍女は慌てた、「いまお知らせ申しますから」
「自分でゆく、おまえは来るな」
「それでも、あの」
「来るな」と彼はどなった、「来ると承知しないぞ」
侍女は鬢盥を持ったまま
彼女の顔はするどくひき緊り、その眼は怒りのため燃えるようにみえた。
「みたよ」と小五郎が立ったままで云った、「蜂屋で男と逢っているところを、この眼で見たよ」
さだは黙って彼をにらんでいた。
「なんとか云わないか」小五郎は云った、「おれは知っていたんだ、ずっとまえから、おまえは梅雨あけからこっち、泳ぎにゆくといって毎日でかけた、おれが来るといつも留守だ、それでおれは注意しだした、おまえは泳ぎゃあしない、泳ぐふりをして、毎日あの男と逢っていたんだ、違うか」
「よく御存じだわ」とさだが云った、「そのとおりよ」
「そのとおりだって」彼はふるえた。
「ええそのとおり、あなたの云ったとおりよ」
彼は蒼くなった。彼はそういう返辞を聞こうとは予想もしなかった、彼は蒼くなり、かっとのぼせあがった。
「おまえは」と小五郎は
「そのおまえをよして下さい、わたくしまだ藤江内蔵允の妻ですから」
「父の妻だって」
「そして義理にもよ、あなたにとっては母の筈よ」
「このおれの母、||その汚らわしい女がか」
さだは一瞬あっけにとられたように彼を見た。小五郎も「あ」という顔をした。さだの眼は突刺すようにするどかったが、その唇には微笑がうかんだ。ぞっとするほど冷たい、人をたじろがせる微笑であった。
「わたくしがまだといったのは、まだいまはという意味よ」さだは云った、「御心配には及びません、すぐにこの家を出てゆきますから、あなたはもうすぐ、この汚らわしい女を母と呼ぶ必要はなくなりますわ」
「口がすべったんだ、勘弁してくれ」小五郎はまた吃った、「気が立っているものだから、つい知らずあんな」
「いいえそうじゃありません、汚らわしい女と云われたから出てゆくんじゃありません、そうでなくとも、自分でなにもかも話してお暇を頂くつもりだったんです」
さだは巧みに浴衣をひっかけて立ち、隣りの納戸へいって、
「まさか、そんな」と彼は吃った、「出てゆくなんて、まさか、||本気でいうんじゃないだろうな」さだは答えなかった。
「そんなことはできない筈だ」と彼は云った。
納戸で帯をひろげる音がした。
「そんなことができる筈はない」
小五郎はふるえながら云った、「父はあんなに
「あなたにそうみえるだけよ」
「なんでも云いなり放題だった、眉をおとさせない、歯を染めさせない、家政もみさせない、城下の屋敷がいやだといえば、すぐにこの控え家へ移ってくると、あの年で二里ちかい道を毎日お城へかよっている」小五郎はそう云った、「しかも父は不平らしい顔もしないし、元気でわかわかしくさえなった」
「そうみえるだけよ」納戸からさだが云った、「本当のことを知らないから、あなたにはそうみえるのよ」
「私だけじゃない、父を知っている者は誰でもそう云っている、まえの母に死なれてから、父はすっかり老いこんでいた」と小五郎は云った、「老いこんでいたときの父といまの父とでは、まるで人が違ったようだと誰でも云っている、それが嘘でないことは貴女にもわかる筈だ、そしてそれはみんな貴女のためなんだ、三十も年の違う貴女がいてくれるからだ」
納戸で帯をしめる音がした。きゅっきゅっという帯をしめる音が、まるで彼女の返辞の代りのように聞えた。
「こういう父を置いて出てはゆけない、そんなことが人間にできる筈はない、それは自分がいちばんよく知っている筈だ」
「わたくし出てゆきます」さだが云った、「わたくしこのまま実家へ帰ります」
彼女がぬいだ物を片づける音がし、箪笥を閉める音がした。
「あの父を置いてか、あんなに貴女を愛している父を、||」と小五郎が云った、「父がどんなになるかわかってもか」
さだが納戸から出て来た。
「父は、父が、父を」とさだは云った、「あなたはお父さまのことばかり仰しゃるけれど、本当にお父さまのためを思うなら、わたくしが出てゆくのをよろこんであげなければならない筈よ」
「父のためによろこべって」
「口では云えないいろいろなことがあるわ、でもお父さまにはわたくしが重荷です」とさだは云った、「わたくしの云うなりになっているようにみえるのも理由があるし、元気でわかわかしくみえるのにも理由があります」
「それを聞こう、その理由というのを聞かせてくれ」
「云えません」さだは首を振った、「夫婦のなかのことは他人には云えません、ただ、三十以上も年下の妻をもっていることが、お父さまのからだにも心にもどんなに重荷であり、どんなに大きな負担だかということを、||三年間いっしょに暮して来たわたくしが、それをいちばんよく知っている、ということだけ申上げます」
「その言葉をそのまま信じろというのか」
「わたくしがいなくなればお父さまはほっとなさいます」
「そしておまえも」小五郎はまたかっとなった、「おまえ自身も、あの男といっしょになってほっとしようというのか」
さだの眼がきらっとし、その唇にまた(あの)微笑がうかんだ。彼女は小五郎の眼をまともにみつめながら云った。
「それがあなたの本音ね」
「なんだって、||」
「それがあなたの本音よ」とさだは云った、「さっきから云っていることはお父さまのためじゃなく、みんなあなた自身のためよ、わたくしを
小五郎の持っている刀が、小刻みに
「あなたは気のよわい、
「だって、だって」彼はひどく吃った、「それならなぜ、おまえは、断わらなかった、おまえは承知したじゃないか」
「あなたはわたくしをお責めになるの」
「おまえは断わることができた筈だ」
「十六歳の娘のわたくしに」とさだは云った、「百石足らずの作事奉行の娘で、ようやく十六になったばかりのわたくしに、千石の筆頭家老の申し込を断われと仰しゃるんですか」
「しかしいま、いまおまえは、あの男のところへ出てゆこうとしているじゃないか、おまえにそんな勇気があるなら」
「そのおまえというのをよして下さい」さだは殆んど叫んだ、それから云った、「||いまこうする勇気が出たのは、わたくしが十六歳でなく十九歳になったからです」
「あの男のためにと云わないのか」
「あなたのためよ、あの方には関係はありません」
「おれの、||」と彼は吃った、「おれのためだって」
「あなたはずっとわたくしにつきまとっていました、自分で父の妻になってくれと頼みながら、わたくしが藤江家に
「そんなことは嘘だ、おまえのでたらめだ」
「お父さまに気づかれてもいけないし、なにかまちがいでも起こったら取返しがつかないと思ったからです」とさだは云った、「それでもだめ、あなたはやっぱり来る、この控え家へまで、用もないのに三日とおかずいらっしゃる、もういや、もうたくさん、わたくしこの家を出てゆきます」
「藤江の家名や父の面目を
「あなたが初めに、三年まえに」とさだは云った、「お父さまにではなく自分の妻になれと仰しゃっていたら、決してこんなことにはならなかったでしょう、あなたにはそれを云う勇気がなかった、そしてこの場になっても、家名や面目などでわたくしを抑えようとなさる、あなたは卑怯のうえに
「云いたいことを云え、だが、||この家からは決して出さないぞ」
「そこをとおして下さい」
「出してやるものか、断じてだ」
さだは静かに前へ進んだ。小五郎は立ち
「待ってくれ」小五郎は云った、「せめて、せめて父上が帰ってからにしてくれ」
さだは廊下へ出た。
「待たないのか、本当に出てゆくのか」
さだは玄関のほうへゆきながら、召使の名を呼んだ。侍女が返辞をして出て来た。すると小五郎が喚いた。
「おのれ、出るな」
侍女はふるえあがって、そのまま部屋へ引込もうとした。さだが振返った。
「義兵衛に云っておくれ」とさだは侍女に云った、「表へ乗物をまわすように、いそぐからすぐにと云っておくれ」
侍女は小走りに走った。
「どうしても出るのだな」小五郎は逆上したように云った、「もういちど念を押す、どうしてもここを出てゆくつもりか」
さだは玄関へ出ていった。
「よし、できるならやってみろ」
小五郎は追っていった。彼の
「できるならやってみろ」と彼は逆上した声で叫んだ、「おれはこの家から生かしては出さない、おれはきさまを斬る」
さだが振向いて彼を見た。
「
玄関の向うへ駕籠がおろされた。
「履物をおくれ」とさだが云った。
「さだ、||」小五郎が叫んだ、「斬るぞ」
さだはもういちど彼に振向いた。
「どうぞ」とさだが云った。
小五郎は刀を振上げた。刀がぎらっと光った。さだは草履をはいた。小五郎は振上げた刀の柄へ左手を加え、大上段に構えて式台へおりた。さだはおちついて草履をはき、静かに玄関を出た。
小五郎は棒立ちになっていた。彼の大上段に振上げた刀が、ぎらぎらと光りながらこまかくふるえた。
陸尺が引戸をあけ、さだは駕籠の中へ入った。陸尺は彼女の草履を取り、それから棒に肩をいれた。||小五郎は見ていた。駕籠はあがり、それから静かに門のほうへ出ていった。門を出て、ゆっくりと左に曲り、そうして見えなくなった。小五郎の腕が力なくさがり、刀の
「どうしよう」と彼は呟いた、「どうしよう」
彼は刀を(ぬぐいもかけずに)鞘へおさめた。そのとき道のほうで
千切れるような叫びと呶号の声が||
小五郎は足袋はだしのままとびだした。とびだしていって門の外へ出ると、二十間ばかり向うに駕籠が見えた。その駕籠が殆んど
馬は
「さだ、ただこ」小五郎が叫んだ。
彼は
「よけられなかったのです」陸尺の一人が云った、「あんまりいきなりだったもので、どうよける法もなかったのです」
引戸が外れた。さだの躯は坐ったままねじれ、上半身が仰になっていた。ねじれた躯の帯の上が血に浸り、その部分がみるみるひろがるようであった。
「ただこ」小五郎はがたがたとふるえた、「聞えるか、ただこ、私だ」
「迎えに来て下すったの、あなた」とさだは云った、「迎えに、||うれしいわ」
彼女の眼はうつろだった、空虚な、
「あたし、なにもかも、いいようにして来ましたわ」彼女は嗄れた声で囁いた、「||なにもかも、······さあ、まいりましょ、あたしに、あなたの、そのお手を、かしてちょうだい」
さだは手を伸ばした。まるで誰かの手を求めでもするように、しかし伸ばした手は途中で落ち、その頭はぐらっと左へ傾いた。||さだの呼吸が絶えた。
淵には九月の、乾いて冷える風が吹いていた。半三郎は爼板岩の上で、釣糸を垂れていた。
「おい」と彼は爼板岩に云った、「今日もだめか、え、||頼み
半三郎は向うを見た。向うの断崖の裂け目には、
「あいつはぬけ作だ、段平のやつは」彼はまた爼板岩に云った、「あいつは、捜しようがねえですだよ旦那、などと云やあがった、||おい、聞いているかきょうだい、段平のぬけ作は、さだなんて名めえは幾らでもあるだ、すぐ向うの筆屋の娘もそうだし、その娘のばあさまもさだっていうだ、もしもなんなら、旦那がお順繰りに一人ひとり見て歩くがいい、おらはお顔もお姿も知らねえですだで、逆立ちしたって捜し出せやしねえだよ、······あいつはぬけ作のうえに人情のない野郎だ、そう思わないかきょうだい」
彼は手で爼板岩を叩いた。
蜂屋で逢って以来、ただこは姿をみせなかった。この土地に知人のない彼は、人に訊くこともできず、また、人に訊けることでもなかった。城下町をどれほど歩きまわったことだろう、||ただこは淵へも来ず、その姿をみせもしなかった、そうしてもう、七十日ちかい日が経っていた。
「あの日のおまえはきれいだった」半三郎は水を眺めながら云った、「本当にきれいだったよ、ただこ」
彼の眼がうるみ、声がふるえた。
「おまえあのとき、また明日、||って云ったろう、また明日、あの淵でって云ったじゃないか」彼は眼をつむり、そうして囁いた、「どうして来ないんだ、どこへいってしまったんだ、ただこ、おまえいまどこにいるんだ」
半三郎の持っている竿が
「ただこ、||」
水面で魚のはねる大きな水音がした。