曇日であった。
わたしは青べかを
曇ってはいるが降りそうでない空、不機嫌な
そこは沖の十万坪とよばれる荒地のちょうどまんなかどころであった。北のほうに遠く村の家並が見える。貝の缶詰工場や石炭焼場から吐き出される煙は上へゆくほど薄くなる棒のように、たゆたいもせず立ち昇っている、村はずれからこちらは見るかぎりの荒地で、ひとところだけこんもりと松や
松並木のかなたに、ところどころ暗く
「蒸汽河岸の先生よ」
ふいに声をかけられたので、わたしは驚いて振り返った。
いつやって来たものか十三四になる少女が岸の上に立っていて、わたしの振り返るのを見るとにいっと笑った。
「
わたしが云った、「どうした、なにしに来たんだね」
「ええびだよ、ええびに来ただよ」
「一人かい」
「おんだらいつも一人だ、知ってんべがね」
「妹はどうしたんだ」
「あまか······」
お繁はくすんと鼻を鳴らせた、「墓ん場にねかしてあんよ」
「墓場に?||川獺に喰われてしまうぞ」
「ふん、つまんねえ」
少女は眼をそらせながらそこへかがんだ。
そのときつぎはぎだらけの
彼女の体にそんな美しいところがあろうとは思いがけないことである。その村でいちばん汚い子供、乞食阿魔、墓場に供えた飯や菓子を喰う
それにしては、わたしの見た彼女の体の一部がなんと美しかったことだろう。ほんの一
お繁は数年前に、生後百日に満たぬ妹とともに親たちから捨てられた。
お繁の父親は
そのときのことは今でも村の人たちの話の種になっている。未明から
銀太郎がいかに磯釣りを得手としていたかを伝えるには、朝出かけるときに彼が云う言葉がもっとも適切であろう。
「さあ······」
と彼は云う。「
ある日、彼は五番の滑木沖で釣っていた。||霧の深い朝でほとんど五六間先も見えぬほどだった。その霧のなかを一艘の大型機械船がやって来たのである。
「おーい」
銀太郎は濃霧のなかをこちらに近づいて来るエキゾスの音に気づいて大きく叫んだ。「ここに舟があるぞ、頼むぞ」
エキゾスの音で、相手が大長丸だということが分った、大長丸ならこの辺があなで、いつも釣舟がいるということを知っているはずである。銀太郎はじっと変るのを待った。||しかし向うはまっすぐにやって来た、そして壁の中から
「あ! いけねえ、おーい!」
銀太郎が驚いて立上ったとき、大長丸は銀太郎の機械船の胴中へ舳を突きかけ、銀太郎を海のなかへはね飛ばした。
機械船は半分に砕け、舳のほうはそのまま沈んでしまった、そして銀太郎が浮上って、残った舟のかけらへ
その村で機械船を持っていれば漁のほかに良い
ひどい貧乏の沼で生立った銀太郎にとっては、この夢想は心臓を

「ひどいやつだ、ひとの機械船をぶっ壊して、ひとを死ぬようなめに遭わせて、知らん面あして行ってしめえやがった、おらあ大長丸を訴えてやるだあ」
銀太郎は怒りたけって叫んだ。
しかし、まだ彼は絶望してはいなかった、彼は大長丸の持主にかけあって弁償させるつもりであった。
「よし······」
と彼は
銀太郎はでかけて行った。
だがすぐに
「そんなことはないよ」
と扶原老人は云った。「うちの大長丸の船長は腕利きだ、四五年前までは銚子沖でかじき船に乗っていたくれえだ、なんのためにいし······
「ばかなことかどうか知んねえが、大長丸がおらの機械船を沈めたなあ本当でがすよ」
「わしがねえと云ったらねえのだ、そんなこたあねえよそれともいしゃあ因縁をつける気かね、そんならそうとわしのほうにもつもりがある、出るとこへ出て黒白をつけべえ」
銀太郎は舌が角張ってしまい、胴震いさえ出てきた。ああ出るところへ出る······金もなく地位もない人たちにとって、この言葉はどんなに恐ろしい威嚇をもっていることであろう。
銀太郎は帰って来た。それから意を決して駐在所へでかけた。
「うむ······」
事情を聴きとった人の好い警官は、
「証拠にもなんにも」
と彼はせきこんで答えた、「おらがこの眼で見ただから間違えはねえ、エキゾスの音を聞いただけでも村の者ならちゃあんと分るだ、誰にでも
「それはそうだろう、しかし証拠となるとそんなことでは役に立たんよ。どこか
「そりゃあ旦那、旦那······」
銀太郎は
「とにかく、届けだけは聴いておく、それからいちおう大長丸を調べてやろう。だが証拠がなくてはそれ以上のことはできないからな」
そしてやはり駄目だった。
大長丸の船長はあたまから否定した。船長はそのとき、その現場から五丁も沖を通っていたと述べた。そしてそれを証明することもできぬしまた、否定する方法もないのだ。||人は絶えず刑事被告になる要心をしているわけではないのである。
銀太郎の夢はむざんにけし飛んだ。
彼は酒を呑みはじめた、ひどく呑んだ、機械船を失ってからしばらくして、彼は西堀の
家には妻と二人の娘がいた、上がお繁でその下はまだ生れたばかりであった。帰って来た銀太郎は、狂人のように猛りたって、妻と娘を死ぬようなめに会わせる。
「うぬらも敵だ」
と彼は怒鳴る、「世間のやつらはみんな敵だ、寄ってたかっておらを苦しめやがる。いいとも、持っていけ、何でも持っていけ、おら何もいらねえ何もほしかあねえ」
家へ帰らない日は、いつも彼は村役場の消防小舎へもぐりこんで寝るのだ。
一日じゅう、主人の帰りを待って飢えていたお繁たちは、夜更けてからそっと家を出て行く、そしてごったく屋······酌婦のいる小料理店······の裏口を廻り歩いて残り物をもらい、どこかの暗がりで
こうして半年ほど経った。
するとある日、銀太郎の妻は乳呑児とお繁を捨てて、
それはじつに思いがけないできごとであった。彼女は年からいえばまだ三十を出たばかりであったが、長いあいだの貧苦に疲れはてて、額はひどく抜けあがり、黄色く濁った眼のふちはいつも眼病のために赤く
「女にすたりはないというが、まったくこれは
と村の人たちは語り合った。銀太郎は十日あまり気のぬけたようなありさまであった。漁にも出なかったし酒を呑むでもなかった。部屋の隅にころがされて火のついたように泣く乳呑児の声も耳に入らぬのか、
「へん、逃げてみろ」
泥のように酔った銀太郎は、村うちをうろうろ歩きまわりながら喚く、「逃げられるものならよ。へん、
そしてしばらく経つと、ふいに銀太郎の姿がどこかへ見えなくなった。||お繁とその妹はこうして親たちから捨てられたのである。
哀れな姉妹をひきとってやろうという者は、しかし村には一人もいなかった。
二人はごく貧しい村人にさえ嫌われるほど汚く、穢れていた。おまけにお繁は半馬鹿だと······事実はそうでなかったが······云われていたし、親から受けていた悪い病気のために体には腫物が絶えなかった、そしてそれが垢の臭みといっしょになって側へも寄れぬほどひどく匂うのだ。||しかたがない、役場で面倒をみることにした。
お繁の生活がはじまった。
役場では彼女たちのために何をしたろう。何もしはしない、てんでかまいつけなかった。ぜんたいなんのために腫物だらけの臭い面倒をみてやるのだ? なぜそいつを風呂に入れてやったり食事の世話をしてやったりする必要があるのだ?||うっちゃっておけばよろしいではないか、腹が減ったら今までのようにごったく屋の裏口へ行けばいいし、体を洗いたければ河に水は絶えない、眠くなったら父親がしたようにどこかへもぐりこんで寝ればいい······。いかにもそのとおりである。
村人たちは、お繁が村役場の近くにいるのをみたことがない、虱だらけの茫々頭はいつも荒地にいる。||まだ暗いうち、ときにはほとんど夜明けの色もない三時半頃、貝掘に急いでいる漁夫が、荒地を横切る途中で妹を背負った彼女に会う。
「ええッ」
と男はとびあがる、「たまげた、おめえ繁あねじゃねえかよ、何してるだ」
「行けまあ」
お繁はじろりと白い眼を向ける、「おんだが何してべえと、いしの知ったことけえ」
彼女はまた村はずれの家並の裏にいる、そして竹きれで
彼女は粗朶置場へ寝る、またどこかの納屋の中で······腹が減るとごったく屋の裏口を
「わあ||い」
子供たちがそれをみつけて
げんがとは東京付近でいうえんがと同じ意味である。||お繁は妹を墓地へ置いたままとび出して行く、
「ぬかすなっ、源!」
と喚く、「墓場の物を喰うがどうした、おめえの阿魔あはもっとげんがだあ、中堀の
そして汚らしく唾を吐くのだ。
そのとき彼女の眼は
これが、村人たちから病菌のように嫌われているお繁である。
髪毛はひと掴みの
しかし、そんな見苦しい
まだ子供らしい腰つきにもどこやらまるみがつき、平たい胸にもこっちりとした二つのふくらみが見える、うるみを増した
「ああ行くべえ」
お繁がふいに云った、「釣れもしねえに、見てたってつまんねえ」
「そうだとも」
とわたしが答える、「早く行って妹をみてやるがいい、本当に川獺にでも食べられたらかわいそうだ」
「ふん、そんな嘘を云っておんだらを騙す気なら大違えだぞ、おかしくもねえ」
「············」
「ああつまんねえ」
吐き出すように云って、お繁は
わたしは黙っていた。お繁はぺっと唾を吐いて河のほうへ去って行った。関門のところを右へ、それから堤へむかったと思うと、哀調のある声でうたいだした。
「向うの山に鳴く鳥は、ちゅうちゅう鳥かみい鳥か、源三郎の土産、何をかにをもらって、金ざしもらって······」
沼地の蘆がざわめいて二羽の鵜がけたたましく飛び立った、川獺にでも追われたのであろう、高く高く舞上るとそのまま東のほうへ飛去ってしまった。||お繁の唄はもう聞えなくなった、わたしは煙草に火をつけ、