岡田虎之助は道が
「······さて、どう捜したものか」途方にくれてそう
「少々ものを
「······はい」娘は笠をぬいだ。
「このあたりに別所
「はい、存じて居ります」娘は歯切れのいい声で、「······先生のお住居でしたら、あれあの森の向うでございます、彼処にいま掘り返してある土が見えましょう、あの手前を右へはいった森の蔭でございます」
「
彼は
教えられたとおり四五町あまり行くと、右手に土を掘り返したかなり広い開墾地があって、半裸になった一人の老農夫が、せっせと
「そうでございます」老人は鍬をとめて振返った、「······それは此処をはいって、あの森沿いの
「お留守、······と云うと」
「此処へ移ってみえたのが二月、それから五十日ほどすると、ふらっと何処かへお出掛けになったきり、いまだにお帰りがないようすでござります」
「然し門人なり留守の方がおられよう」
「門人衆という訳ではありませんが、先生のお留守に来た御修業者が五人、お帰りを待って滞在して居られますようで、ひと頃は十四五人も居られましたがな、いまは五人だけお泊りのようでござります」
「老人はこの御近所にお住いか」
「はい、あの栗林の向うに見えるのが、わたくしの家でござります」
虎之助は老人に礼を云って、
「······なにか御用か」
色の浅黒い、
「ああ駄目だ駄目だ」と、さも面倒くさそうに云った、「······せっかくだが先生はお留守だ、また改めて来るがいい」
「御不在のことは承知です」無作法な挨拶に虎之助はむっとしたが、それでもなお静かに続けた、「然し貴殿方もお帰りを待っておられるとのことゆえ、できるなら拙者もお住居の端なり、置いて頂こうと存じてまいったのです」
「いかにも、我々もお帰りを待っているには相違ない、然し此処はお救い小屋ではないからな、そうむやみに誰でも彼でも転げ込むという訳にはゆかんぞ」
まるで
「ではなにか条件でもございますか」
「されば、別所先生はそこらに有触れた町道場の師範などとは違う、先生の
「それは先生のお定めになった事ですか」
「いいえ違いますぞ」ふいにそう云う声がして、向うから一人の老人がやって来た、恐らく此の家の老僕であろう、六十あまりの小柄な
「うるさい、おまえは黙っておれ」黒子の男は
「その生白い面ではよう勝負はせまいて」そう
「おおかた
向うにいる連中が悪口を叩いた。虎之助は
遠慮もなく
「どうなされました」と不審そうに
「その積りでいったのだが」
「暴れ者になにか云われましたか」老人は案の定という笑い方をした、「······あのやまだち共は手に負えぬ奴等じゃで、まあ喧嘩もせずに戻って来られたのがなによりでござりましょう」
「御老人も知っておられるか」
「留守番の弥助どのからよく聞きまするし、此の辺をのし歩くので顔もよく存じております、あのようなあぶれ者が
虎之助は去ろうとしたがふと、
「御老人」と思いついて云った、「······実は、先生のお帰りまで待ちたいので、ぜひこの付近に宿を借りたいと思うのだが、むろん雑用は払うしどんな家の片隅でもよい、置いて呉れるところは有るまいか」
「御覧のとおり此の辺はまるで人家もなし、さようでございますな」老人は眼を細めて四辺を見やったが、「······もし
「忝ない、そう願えれば此の上もない仕合せだ、決して迷惑は掛けぬから頼む」
こうして思い懸けぬところで宿は定まった。
老人の家はさっき教えられた通り、其処から荒地つづきに、二反ほど北へ入った栗林の中にあった。内蔵允の屋敷に近いから、帰宅すれば直ぐに分るだろうし、また老人と留守番の下僕とが往来しているようすなので、旅からの消息も聞くことができるであろう。これなら留守宅に待つのと同じことだ。虎之助はほっとしながら老人の家へ向ったが、栗林のあいだの道を、農家の前庭へ出たとたんに、右手の洗場から立って来た一人の娘と顔を見合せ、両方でおやと眼を
「思わぬ御縁で、今日からこちらへ御世話になることになりました、岡田虎之助という者です」
娘は僅かに頬を染めながら、けれども歯切れのいい口調で答えた。
「ようおいでなされました、わたくし奈美と申します」
「お客さま、
虎之助はそう呼ばれてようやく眼を覚ました。······だいぶ寝過したらしく、強い陽ざしの反射が部屋の中でも
「あんまりよくお睡りになっているので、お起こし申すのがお気の毒でございました」
「よく寝ました、ずっと旅を続けて来たのでいっぺんに疲れが出たのでしょう、ああ、栗がよく実っていますね」
「わせ栗ですから、もう間もなくはぜますでしょう」
娘は
「お
「ええ淋しゅうございますわ」奈美は素直に
「別所先生がお帰りになるまでは、三月でも半年でも御厄介になっていますよ」
「嬉しゅうございますわ」娘は大きく眼を瞠りながら、「······先生のお留守宅に
「それでは番人という役ですね」
「いいえ、いいえ、そんな積りで申したのではございませんわ、ただ心丈夫だと思ったものですから」
「やっぱり同じことですよ」笑いながら二人は家に入った。
夏菜の汁と粟飯との朝食が済むと、娘は支度を改めて荒地へ出ていった。······独り残った虎之助は、さてなにをするという事もなく、縁先へ出てぼんやり野の方を見ていたが、やがて立上ると、家の周囲を見に出掛けた。
それから暫くなにか考えているようだったが、やがてそこを離れると、雑具小屋の中から一
「やあ、その恰好はどうなさいました」
老人は虎之助の異様な姿を見て
「お手伝いをしたいと思いましてね」
「それは御殊勝なことですが」老人は微笑した、「······然し、眼で御覧になるほど百姓仕事は楽なものではございません、慰み半分になさるお積りならお止しなさいまし」
「いや慰みの積りではない、遊んでいては躯がなまくらになるので、力仕事をして汗を出したいのです、邪魔にならぬようにするからどうか手伝わせて下さい」
「それならまあやって御覧なさいまし、だが三日も続きますかな」
「まあお祖父さま」
娘は
三日も続くかと老人が云った。
その三日めに、虎之助の全身の骨が身動きもならぬほど痛みだした。幼少から武芸で鍛えた躯である。たかが土を掘り起こすくらいどれほどのことがあろうと思っていた。然し、いざやってみると、老人の言葉の正しいのに驚かされたのである。なにしろ鍬がてんで云うことをきかなかった、
「お躯が痛むでしょう、いやお隠しになっても分ります」三日めの朝老人が笑いながら云った、「······こんなことは貴方さまには無理でございますよ、まあ意地を張らずに是れでお止めなさいまし」
「まあもう少し頑張ってみましょう」虎之助は歯を食いしばって出掛けた。
苦しい一日だった、老人の言葉を押して来たことを何度も後悔した、けれど頑張った、もう意地ではない、彼は土に戦を挑んだのである、自分が負けるか土を征服するか、倒れるまでは鍬を手から放すまい、そう決心したのである。······
「岡田さま、ごらんなさいまし」と老人が鍬を休めて云った、「······やまだち共が水浴びをして居りますぞ」
「なるほど······」それどころではなかったが、虎之助は眼をあげて見た。
二町ほど離れた目黒川の河原で、別所家の留守宅にいた浪人たちが、
「
「武術の修業は詰らぬものか、御老人」
「そう仰しゃられますと、まことにお答えに困ります、私は百姓でございますから自然と考え方も
「ではもう兵法などは無用だと云われるのか」
「私の申上げた言がそのように聞えましたか」
虎之助は老人を見た、老人はゆっくりした動作で、然もひと鍬ひと鍬を娯しむもののように土を掘り起こしている、その姿はいかにも
「あれ」除草していた奈美がそのときふいに声をあげた、「あの人たちがこちらへ来ますわ」振返ってみると、水浴びをしていた浪人たちが、声高になにか笑い
「お祖父さま、またいつかのように乱暴をするのではないでしょうか」
「相手にならなければいい、構わなければ
「よう······」果して、近寄って来た彼等は、大きな声で無遠慮に呼びかけた、「よく精を出して
「待て待て、見慣れぬ奴がいるぞ、その男はなんだ爺、貴様の
「それとも娘の婿か」
「おいそっちの男」と先日応待に出た神谷小十郎と名乗る男が、角張った
「そうだ、笠も脱がぬとは無礼な奴だ、やい土百姓、笠をとらぬか」
娘は気遣わしそうに虎之助を見た、虎之助は鍬を休めて静かに笠を脱いだ。小十郎は意外な相手なのであっと云った。
「なんだ、貴様はこの間の」
「さよう、その節は失礼仕った」虎之助は微笑しながら、「······お留守宅を断わられたので、致し方なくこの老人の家に厄介になっております、諸公は水浴びがお上手でございますな」
浪人たちは息をのんだ。······そして一人がなにか云おうとした時、虎之助は再び笠を冠り、鍬を執って静かに土を起こしはじめた。
陽ざしにも風にも次第に秋の色が濃くなった。別所家の留守宅からはときおり老僕の弥助が話しに来た、内蔵允の消息はまるで無い、北国筋を廻っているのだろうというのも、弥助老人の想像でしかなかった。然し虎之助は、自分の気持がいつか少しずつ変ってきたことに気づいた、内蔵允に秘奥を問おうとする目的は動かないが、それよりも先に、そしてもっと深く、閑右衛門老人から学ばなければならぬものがあるように思う······、それが何であるかという事は口では云えない、然し老人の静かな挙措や、なんの奇もない平板な話題のなかに、虎之助が求めている「道」と深く
十三夜の宵であった。川原の月が美しかろうというので、虎之助ははじめて奈美と一緒に、老人の許しを得て家を出た。すっかり穂になった
「岡田さまのお国はお遠くでございますか」
「近江です、近江の蒲生というところです」
そう云いながら、虎之助はふと、もう二十余日も一つ家に暮していて、まだ故郷の話もしていなかったことに気づいて驚いた。何処へいっても
「お母上さまはお達者でございますか」
父親は、兄弟はと、もつれた糸が
二人は川原へ出ていた。虎之助は奈美と並んで、川原の冷たい
彼が水を浴びたように感じたのは、然しもっと別の感覚からきたものだったかも知れない、それは虎之助が立ち上ったのと殆んど同時に、とつぜん四五人の人影が二人の前へ殺到して来たからである。
五人は二人の前に半円を作って立った。
「ふん······」神谷小十郎が白い歯を見せながら、「こんなところで野出合いか、我等と勝負する力はなくとも、百姓娘を
「いや武士ではあるまい、この生白い面を見ろ、此奴はおおかた世間の娘を
「いかにもそのくらいのあぶれ者だ」一人がぺっと唾を吐いた。
「やい、なんとか
虎之助は黙っていた、黙ってはいたが、衝き上げてくる
「返答は是れだ」そう叫ぶや否や、彼を
「こんな場所ではお互いに充分な立合いはできぬ、また気弱な娘をおどろかすこともあるまい、娘を送り届けてから場所を選んで充分にやろう」
「その手に乗るか、逃げる気だろう」
そう叫ぶ男の面上で、烈しく柳の枝が二度めの音をあげた。今度のは前のよりも痛烈だったとみえて、打たれた男は絞り出すような叫び声をあげながら、脇の方へよろめき倒れた。それと見て、四人は
「奈美どの、家へお帰りなさい」と叫んだ、「貴女がいては働きにくい、拙者のことは心配無用です、先に家へ帰っていて下さい」
「岡田さま······」
娘はなにか云いたげだった、然し虎之助の言葉を了解したのであろう、身軽な動作ですばやく草原の方へ走り去った。
彼等は動けなかった。······娘が走りだすのを見て娘のいるうちにかかるべきだったと気づいた、それで一人が跡を追おうとした。然し虎之助の青眼につけた柳の枝は五人の気と躰を圧してびくとも動かさなかった。虎之助は微笑しながら、
「貴公、神谷小十郎と云ったな」と静かに眼をやった、「別所先生の鞭を受ける資格が
勝負は直ぐについた、強く面を打たれて、眼が
「さあ返すぞ」と笑いながら云った、「······貴公がよい物を貸して呉れたので、誰にも怪我がなくて仕合せだった、帰ったら小十郎に云え、彼とはまだ勝負がついておらぬ、改めて立合いにまいるからと、忘れずに云うんだぞ」
相手は息を殺して動かなかった。虎之助はそのまま何事もなかったように川原をあがった、すると直ぐそこの叢林の中から、「岡田さま」と云って奈美が走り出て来た。虎之助は立止ってじっと娘の眼を
「お祖父さまには内証ですよ」
「······はい」
「では帰りましょう、冷えてきました」
奈美は頷いてそっと虎之助の方へ身を寄せて来た、娘の黒髪に、小さな露の珠が光っているのを虎之助は認めた。
その明くる早朝であった。声高な人の話し声に眼を覚まされた虎之助は、声の主が別所家の留守宅の弥助老人だと分ったので、急いで着替えをして出た。もしかすると内蔵允の消息があったのかも知れない、そう思ったのである。手早く洗面を済ませて戻ると閑右衛門が独り縁側で茶を啜っていた。
「お早うございます、いま弥助どのが見えていたのではありませんか」
「いま帰ってゆきました」老人は
「······銭を掠って」虎之助は眉をひそめた。
「留守中に修業者が来て、路用に困る者があったら自由に持たせてやれと、通宝銭がひと箱置いてあったのです、今日まで一文も手を付けた者は無かったのですが、あのやまだち共、それを掠って逃げたのだそうでございます」
「なんと、見下げ果てたことを」
「いや、あれがこの頃の流行でございますよ」老人は茶碗を下に置き、眼を細めて栗林の方を見やりながら云った、「別所先生を尋ねて来るお武家方で、本当に修業をしようという者がどれだけあるか、多くは先生から伝書を受け、それを持って出世をしよう、教授になって楽な世渡りをしよう、そういう方々ばかりです」
「それは先生が仰しゃったのか」
「百姓にも百姓の眼がございます」老人は静かに片手で
「それはもちろん、先生に道の極意をたずねたいためだ、刀法の秘奥を伝授して頂くためだ」
「ふしぎでございますな」老人は雲へ眼をやった、「······私どもの百姓仕事は、何百年となく相伝している業でございます、よそ眼には雑作もないことのように見えますが、これにも農事としての極意がございます、土地を耕すにも作物を育てるにも、是れがこうだと、教えることのできない秘伝がございます、同じように耕し、同じ
「岡田さまは若く······」と老人はひと息ついて続けた、「······力も私より何層倍かお有りなさる、けれども鍬を執って大地を耕す段になると、貴方さまには失礼ながらこの老骨の半分もお出来なさらぬ、行って御覧なさいまし、貴方さまが耕したところは、端の方からもう草が生えだしています、渾身の力で打込んだ貴方さまの鍬は、その力にもかかわらず草の根を断ち切っていなかったのでございます、どうしてそうなるのか、どこが違うか、口で申せば容易いことでございましょう、けれど百姓はみな自分の汗と血とでそれを会得致します」
「············」
「先日、岡田さまは私の言葉を
老人は暫くして再び続けた。
「仰せの通りです、若し耕作の法を人の教えに頼るような百姓がいたら、それはまことの百姓ではありません、いずれの道にせよ極意を人から教えられたいと思うようでは、まことの道は会得できまいかと存じます、銭を掠って逃げたあの浪人共が、そのよい証拠ではございませんか」
虎之助の背筋を火のようなものが走った。言葉や姿かたちではない、静かな、噛んで含めるような老人の声調を聴いているうちに、彼はまるで夢から覚めたように直感したのだ。
||此の人だ、別所内蔵允はこの人だ!
そう気づくと共に、虎之助は庭へとび下りて、土の上へ両手を突いた。
「先生······」
老人は黙って見下ろした。
虎之助は全身の神経を凝集してその眼を見上げた。かなり長いあいだ、老人は黙って虎之助の眼を瞶めていたが、やがてその唇ににっと微笑を浮めた。
「内蔵允は留守だ」
「先生!」虎之助は膝をにじらせた。
「いやいや、もう二度と帰っては来ないかも知れない、それでもなお此処に待っているか、虎之助」
「私に百姓が出来ましょうか」
虎之助は悦びに
「道は一つだ」と云った、「······刀と鍬と、執る物は違っても道は唯一つしかない、是れからもなに一つ教えはせぬぞ、百姓は辛いぞ」
「先生······」
虎之助は涙の溢れる眼で、
「お祖父さま、岡田さま」奈美が奥から出て来てそう云った、「······御膳のお支度が出来ました」