「
「繁野、||」石沢金之助は筆を止めて、
「としよりの家老のほうだ」
「御家老なら兵庫どのだろう、むろん知っているが、それがどうした」
「おれはつくづく」と云いかけて、喜兵衛は石沢の机へ手を振った、「もう片づくんじゃないのか」
「そう思っていたところだ」
「じゃあ
そして足早にそこを去った。
老いぼれの、田舎者の、わからずやのへちゃむくれめ、次永喜兵衛は心の中でそう
「家でいっしょに夕食をしてゆかないか」石沢は来るとすぐに云った、「このごろあらわれないので家の者たちが心配しているぞ」
「一杯やりたいんだ」歩きだしながら喜兵衛は云った、「むしゃくしゃしてやりきれない、どうしても今日は一杯やりたいんだ」
「そんな気持で飲んだってうまくないだろう、とにかく家へゆくことにしたらどうだ」
「迷惑ならここで別れるよ」
「そろそろ癖が出るな」石沢は頭を振った、「そういう約束ではなかった筈だ」
「あんなくそじじいがいるとも云わなかったぜ」
「どこへゆくんだ」
「雪ノ井のほかにいい場所があったら教えてくれ」と喜兵衛が云った、「おちついて飲めるうちといえば雪ノ井がただ一軒、
石沢金之助は黙って歩いていた。
大手門を出て
その茶屋は池に東面し、左右とうしろに松林がある。二人のとおされたのは西の端にある座敷で、二方に縁側があり、庭へおりる段が付いている。そこから池まで約二十尺、向うに小さな桟橋が出ていて、小舟は二はい
「江戸屋敷に
「
「梅林を受持っていた」
「覚えているようでもあるな」
「酒を早く」と喜兵衛は女中に云った、「
おかやという女中は笑いながら、喜兵衛に向って舌を出してみせた。
「ごめんなさい」とおかやは云った、「この土地ではこれを舌と云いますけれど、お江戸ではなんといいますかしら」
「じたというんだ」喜兵衛は膝を打った、「そんな物はしまって早く酒を持って来い」
おかやは
「悪い癖だ」と石沢が穏やかに云った、「こういうところへ来るとまるで魚が水へ帰ったようになる、まず酔わないうちに文句を聞こうじゃないか」
「熊平という庭番は疑い深いとしよりだった」と喜兵衛は云った、「この世にある物、この世で起こることをなに一つ信じない、たとえばいま雨が降っているとすると、その雨を信じない、現に自分の着物が濡れていても、それが雨の降っている証拠だとは云えない、と云うんだ」
「話したいのはそのことか」
「まあ聞けよ」と喜兵衛は云った、「彼は自分の住んでいる小屋を信じない、湯呑を信じない、池を信じないし池の中で泳いでいる鯉を信じない、もちろん自分を信じないし、地面も天も、太陽も月も信じない、すべてはただそうあるようにみえるだけだと云うんだ」
「つまらない話じゃないか」と石沢が云った、「としをとると変屈になる人間はどこにでもいるものだ」
「しかし熊平のはただの変屈じゃない、なにも信じないということは彼にとってりっぱな信念だったんだ、或るとき梅林の脇にひきがえるがいた、おれは熊平を呼んでそのひきがえるを見せたのさ、すると熊平はそれをひきがえるだと信じない、おれはそこで棒切れでもってひきがえるの
「おまえの口まねをするわけではないが」と石沢金之助が
「だからおれはいま、||」喜兵衛は
「酒が来たよ」と石沢が云った、「一と口やったら思いだすだろう」
おかやが
「どうなさいましたの、なにをそんなに考えこんでいらっしゃるんですか」
「ひきがえるだ」と石沢が云った、「繁野老職とひきがえるを結びつけるために、苦労しているんだ」
「じゃあ肝心なことだけは云おう」喜兵衛はみれんがましい口ぶりで云った、「熊平の話から持ってゆきたかったんだが、||まあいい、問題はあの老人だ」
「繁野さんのことだろうな」
「むろんあのじじいだ」
「口を慎め」
「話が先だ」と喜兵衛が云った、「おれはこの土地へ来てもう九十余日になる、まだ九十余日しかならないともいえるが、この九十余日という
おれは
「ところがだめだ」と喜兵衛は首を振った、「今日までがまんして来たが、あの繁野のくそじじいには手をあげた、おれは辞職して江戸へ帰るぞ」
「帰れやしないさ」と石沢が云った、「おまえはもう北島家の二男ではなく次永喜兵衛なんだ、まあ話してみろ、いったい繁野さんがどうしたというんだ」
「おれを眼のかたきのように小突きまわすんだ、老職部屋へ呼びつけてどなる、こっちの役所へ来てどなる、おまけに住居まで小言を云いに押しかけて来るんだ」
「繁野さんは温厚な人だぞ」
「郡代支配という役はむずかしい」と喜兵衛は酒を
繁野兵庫はもちろんそれを知ってる筈だ。しかもまったく
「あんなひねくれた意地わるじじいは初めてだ」喜兵衛は唇を片方へぐっと曲げた、「あんなじじいを親に持った
「いや」と石沢金之助が云った、「繁野さんには子供はないんだ」
「あの年で、||子供がないって」
「繁野さんは家庭でもさびしいほど静かな人だし、
「ではどうして、おれだけをこうひどく小突きたてるんだ」
「理由はいろいろあるだろう」と石沢が云った、「まずおまえ自身の行状だ、江戸屋敷で北島の二男といえば、乱暴と
「おれはそれを守ったつもりだぜ」
「それは認めてもいい、しかし繁野さんは危ぶんでいるのかもしれない、ものごとは初めが肝心だというから、いまのうちに
「向うにそんな気持があればこっちに通じない筈はない、おれにだって人の気持を感じとるくらいの能力はあるんだ」
「もう一つの理由は」と石沢は構わずに続けた、「これはおれの想像だけれども、繁野さんがおまえを好いてるということだ」
「なんだって」
「あの温厚な人がそれほどきびしくするというのは、おまえを好いているからではないか、そうだ」と石沢は大きく
「そうだ」と喜兵衛は顔をあげた。
「そう思えるか」
「いや違う、ようやく思いだしたんだ」と喜兵衛は首を振って云った、「熊平のことを持ちだしたのはそのことが云いたかったからだ」
おかやは酒を取りに立っていった。
「あのとしよりはなんにも信じなかった」と喜兵衛は続けた、「おれもいまはなにも信じられない、たとえ繁野老職の口から、おまえを子供のように思っているとは云われても、おれは断じて信じないぞ」
「ひきがえるもか」と云って石沢は笑った、「だだっ子みたようなことを云わないでもう少し辛抱しろ、いやでも辛抱しなくてはならない立場だが、いやいや辛抱するのではなんにもならない、このへんで肚をきめて、もし不当な小言だと思ったら繁野さんにはっきり云ってみろ、自分の責任でないと思ったらそれもはっきりさせるんだ、不平や不服なことは胸にしまっておかず、じかに繁野さんにぶっつかってみるんだ、そのくらいの度胸がないことはないだろう」
おかやは酒を持って来た。喜兵衛はまだ
「諄いようだがやってみろ」と石沢は帰るときに云った、「
喜兵衛は返辞をしなかった。
「辛抱しろか、へ」と石沢が去ったあとで喜兵衛は云った、「江戸にいたころはもっときりっとしていたのに、僅か七年でいやにおさまっちまやあがった、へ、田舎者め」
石沢を送って戻ったおかやが、それを聞きつけて咎めた。
「そんなことを
「おいおい、おまえまでが意見をするのか」
「石沢さまの仰しゃったことは本当なんです」とおかやは彼に酌をしてから云った、「繁野さまはあなたをわが子のように思っているっていうこと、あれは石沢さまの当て推量ではなく、本当のことだと思うんです」
「でたらめなことを云うな」
「聞いてから仰しゃいまし」とおかやは云った、「あたし十三から十七の年まで、繁野さまのお屋敷へ奉公にあがっていたんです」
喜兵衛は口まで持っていった盃を止め、そのままでおかやの顔を見まもった。
「そのころお屋敷には、義十郎といって、繁野さまの一人息子がいました」とおかやは続けた、「あたしより五つ年上で、男ぶりのいい神経質な方でしたが、十六七のころから酒の味を覚え、まもなく悪いなかまができて、女あそびや
「ちょっと待て、繁野には子がいないと聞いたぞ」
「ええ、みなさんそう仰しゃいますわ、繁野さまに遠慮して、そんな方がいたことは口にする人もないでしょう」とおかやが云った、「義十郎さまは小さいときから
喜兵衛は酒を啜り、からになった盃をぼんやり眺めていた。
「それだけならまだいいのですが」とおかやはなお続けた、「勘当になってここを
喜兵衛は盃を出し、おかやが酌をすると、黙って飲んでから、ふと顔をあげて訊いた。
「その義十という息子はどうした」
「知りません、それっきり音沙汰なしで八年も
「酒がないぜ」と喜兵衛が遮った、「こんどはちょっと熱くして来てくれ」
おかやは立っていった。
「すると、ずいぶん
医者嫌いな人間が悪い風邪にかかり、くしゃみと
雪ノ井で飲んだ日から十日ほどのち、城中の長廊下で、喜兵衛は石沢金之助に声をかけられた。
「その後どうだ」と石沢が訊いた、「辛抱ができそうか」
「うん」喜兵衛は
石沢は
言葉は簡単であるが、心から
「おい石沢」喜兵衛は顔をあげた、「江戸屋敷に時岡八郎兵衛という足軽がいたのを覚えてるか」
「知らないな」
「けいさん」と喜兵衛は石沢の妻に呼びかけた、「酒をもう少し頼みます」
けいは
「その時岡という足軽だが」と喜兵衛は続けた、「もう六十くらいのとしよりで、妻もいたし伜夫婦もいて、貧乏なもんだからなにかの内職をやっていたっけ」
「おまえは庭番だの足軽だのと、妙な人間ばかり知ってるじゃないか」
「そのとしよりが若いとき」と喜兵衛は構わずに続けた、「貰ってまもない女房が、同輩の足軽と密通している現場をみつけた」
八郎兵衛は怒った。まだ若かったし、新婚の妻に裏切られたのだから、
「私はいまでも妻をゆるしてはいません、と八郎兵衛はおれに語った」喜兵衛は云った、「娘は嫁にやりましたし、伜にも妻子ができました、貧乏だけはどうにもなりませんが、まあまあ平穏無事にくらしています、||どうしてだ、とおれは訊いてみた、殺そうと思ったほど憎み、いまでもゆるせないというのに、それでなおこんなに長いあいだ夫婦ぐらしができるのか、とね、||すると八郎兵衛は答えたよ、人間とはそういうもののようです、どんなに激しい憎みでも、憎むことだけでは生きてはゆかれない、愛情だけで生きることができないように、一つ感情だけで生きとおすことはできないようです」
石沢がなにか訊き返したように思い、喜兵衛は首を振った。
「いやおれは」と彼は云った、「そのとしよりのことが云いたいんじゃない、繁野さんがいまどんな気持でいるか、六十に手の届く年になって、勘当した放蕩息子のことをどう考えているか、ということが云いたいんだ」
石沢がまた義十郎のことでなにか云った。よく聞きとれないので、面倒くさくなり、「もういい、義十なんか知ったことか」と云い返したが、そう云う自分の声で眼がさめた。
||こまった、酔い潰れたな。
そう思って頭をあげると、枕許に暗くした
「そんなに酔ったのかな」彼は腹這いになって水を飲もうとした、「だらしのないやつだ」
そして急に口をつぐんだ。
勝手のほうで人声がし、誰かどたばた暴れる音と、「義十郎だ」と
勝手では家僕の仁兵衛が、一人の男と
男は家僕を押し放した。
「あるじだって」と男が云った、「嘘うつけ、これはおれの家だ、これは繁野家の控え屋敷、おれは繁野義十郎だ」
江戸の深川でこういう男と喧嘩をしたことがあった。三年か四年まえ、新大橋の
「なんの話かわからないが、とにかくあがったらどうだ」と喜兵衛が云った、「仁兵衛とおしてやれ」
「しかし旦那さま」
「心配するな」と喜兵衛は家僕に頷いた、「おれは大丈夫だからとおしてやれ」
そして彼は寝間へ戻り、行燈を持って客間へはいった。男は家の中を知っているようすで、家僕の先になってやって来、床ノ間を背にしてあぐらをかいた。男の躯から汗と
「おい、酒があるだろう」男は振返って、襖を閉めようとする家僕に云った、「
「持って来てやれ」と喜兵衛が云った、「肴はいるまい、盃も大きいのがいいだろう」
家僕は去った。
「話はわかるらしいな」男は汚ない歯を見せて
「用はなんだ」と喜兵衛が訊いた。
「せくなよ、いま酒が来るんだろう」男はぼりぼり頭を掻いた、「もう一つ断わっておくが、おめえおれのめえで大きな面あしちゃあいけねえぜ、おめえはおれの屋敷を取り、おれの
家僕が酒徳利と盆を持って来た。盆の上にはなにかの
「おめえやらねえのかい」男はすぐに盃を取り、徳利を持ってみながら云った、「おれのような人間と飲むのはいやか」
「今夜は少しやり過ぎたんだ、いいから独りで飲んでくれ」
「大きなことを云うない、五合徳利に七分目もありゃあしねえぜ」男は盃を置き、徳利の口からじかに飲んだ、
憎みや怒りの中だけでは生きられない、と喜兵衛は心の中で思った。時が経つうちには、どんなに深い憎悪も怒りも、やわらげられ、いやされてゆく、時岡八郎兵衛が現にその事実をみせてくれた。
||繁野さんもそうではないだろうか。
六十歳近くなって養子も取らないのは、いつかわが子が帰って来る、
「おれがこんな人間になったのは、おれのせえじゃあねえ、わかるか」と男は
男はさっきから饒舌っていたのだ。
「聞いている」と喜兵衛は答えた。
「人間はな、
男は指で佃煮を
「ごらんの如く」と男は片手で胸を押えた、「おらあこんな人間になった、牢屋のめしこそ食わねえが、ぬすっと同様なこともし、女を売りとばしたことも五たびや六たびじゃあねえ、大阪では
「自慢されたのは初めてだ」と喜兵衛が云った、「もう要件を持ち出してもいいだろう」
「金五十両」と男が云った、「あさっての朝までに都合してもらおう」
「どういう理由だ」
「この屋敷と和泉の娘の代銀だ」と男は云った、「おれはこの城下へ半月めえに帰ったが、ここでもまたまちげえをやらかしてふけなきゃあならねえ、町にもいどころがねえから、鶴来の
「
「小粒一枚、と、一分か」
「草鞋代には多すぎるだろう」
「おいおい」男は片ほうの
「面白いな」と喜兵衛が云った、「できるなら取ってみろ」
男の顔が
「いい呼吸だ、負けたよ」男は卑屈に笑って徳利を取り、それを口へ持ってゆきながら云った、「さすがに江戸育ち、本場で鍛えただけのことはあるぜ」
徳利の口から飲むとみえたが、いきなり
「きさまは人間じゃない」喜兵衛は匕首をもぎ取って投げ、片手で男の首を押えながら、片手で顔を殴りつけた、「畜生にも劣ったやつだ」
彼が殴るたびに、男の頭が右へ左へと揺れ、唇が切れて血が出た。
「わかったよ、おめえは強いよ」男はなだめるように云った、「おれの負けだ、みっともねえからもうよそう」
「きさまなどにものを云ってもむだだろうが、よく聞け」喜兵衛は男の喉を押えた手に力を加えながら、云った、「きさまは親が甘く育てたからこんな人間になったと云った、きびしく育てればきびし過ぎたと恨むだろう、
男の顔がどす黒くふくれ、眼球がとびだしそうになった。男の躯から力がぬけ、手足がだらっと畳の上で伸びた。喜兵衛は喉の手をゆるめ、もう一つ平手打ちをくれてから、男を放して立ちあがった。
「けがらわしいやつだ」と喜兵衛は云った、「出てゆけ」
男は喉を撫でながら咳をし、仰向きに伸びたまま喜兵衛を見た。
「すると」と男はしゃがれ声で云った、「五十両はだめか」
「出てゆけ」と喜兵衛が云った。
「たった五十両、安いもんだがな」男は咳きいり、喉を撫でながら、ゆっくりと起き直った、「おう痛え、喉ぼとけが潰れるかと思った、おめえおっそろしく強えんだな」
喜兵衛は黙って立っていた。
「こうとは知らなかった、どうやら相手をまちげえたらしい、おめえなら話はわかると思ったんだが、おう」と男は喜兵衛を見て、わざとらしく首をすくめた、「そんなおっかねえ顔をするなよ、足がふるえて立てなくなるじゃねえか、いますぐに出てゆくよ」
男は掛け声をして立ちあがり、大げさによろめいて、また喉を撫でた。
「しようがねえ、もう運の尽きだ」男は
喜兵衛はなお黙っていた。
「勘当されても血はつながってる」と男は続けた、「当藩の家老、繁野兵庫の子だ、義十郎だと
「この城下のことはそれで済むかもしれない、だが海道筋に人相書の廻っているという、凶状のほうはどうだ」
「人のこった、
喜兵衛は
「きさまの勝ちだ」と喜兵衛は云った、「
「五十両だぜ」
「あさっての朝早く、鶴来八幡へ届けよう、但し、金を受取ったらその足で城下を立退いてもらおう、その約束ができるか」
「口約束でいいのか」男はまた嘲笑した、「それとも証文でも書こうか」
「約束も証文もいらない、立退くか立退かないかだ」
「金を見てからだな」男はまわりを眺めまわし、落ちている匕首を拾った、「じゃあ、あさっての朝、||待ってるぜ」
袂から
喜兵衛は立ったまま、裏戸のあいて閉る音を聞き、それから「仁兵衛」と家僕の名を呼んだ。家の中はしんとして、答える声も、物音も聞えなかった。彼は行燈を持って、寝間へはいった。||明くる朝、喜兵衛は家僕に向って、昨夜のことを口外するなと、固く命じて登城した。石沢に相談しようとも思わなかった。相談することはない、手段はたった一つなのだ。
喜兵衛は胸の中で怒りを育てた。怒りが少しでも軽くなったり、決心した気持がにぶったりすることをおそれ、絶えず義十郎の言葉や態度を、ことこまかに思い返していた。
「石沢の云ったことは本当だ」彼は下城しながら呟いた、「繁野さんは子の育てかたを後悔して、おれには必要以上にきびしくしたんだ、ぶきような人だな、正直すぎてぶきような人だ、育てかたで人間の性分がきまるなら、世の中に悪人なんか出やあしないのに、うん、おれを好いているというのも本当らしい、たぶんおれが、あいつのようになることを恐れたんだろう、いい人だな」
「あんないい父親を持ちながら」とまた彼は呟いた、「ひとでなしめ」と云って唾を吐いた、「きれいに片をつけてやるぞ」
その夜、喜兵衛は差替えの刀を出して、手入れをした。常の
翌朝、家僕が知らせに来るまえ、喜兵衛はもう起きて着替えをし、井戸端へ洗面に出た。東は白んでいるが、あたりはまだ暗く、地面は霜で白く
八幡社へゆくには五十段の石段と、その先は稲妻形になった坂道を登らなければならない。その左右は苔の付いた崖で、僅かながらいつも水が湧き出ているため、石段は薄く氷に掩われてい、喜兵衛はそこで三度も
「おい、しっかりしろ」と三度めに彼は舌打ちをした、「だらしがねえぞ」
石段が終って坂道になった。
上からおりて来る者があった。
||義十郎か。
そう思ったのだが、霧の中をおりて来たのは繁野兵庫であった。喜兵衛は口をあき、兵庫がよろめくのを
兵庫は彼の見ている前で倒れ、低い
「御家老」と彼は
「済ませて来た」と兵庫が歯と歯のあいだから云った、「おれは自分の手でやりたかった、人の手に掛けたくはなかったのだ」
喜兵衛はぎゅっと顔をしかめた。兵庫の躯から血の匂いがたち、見ると、脇腹を押えている手が赤く染まっていた。
「傷をみましょう」と喜兵衛が云った。
「大丈夫、深手ではない」と兵庫がしっかりした声で云った、「あの臆病者は、霧の中からとびだして来て、いきなり刺した、深くはない、急所も外れている、||ばかなやつが、おれだとわかったら、ふるえだして、人違いだと云った」
「血を止めなければいけません、傷をみせて下さい」
「医者を呼ぶほうが早い、こうしているから、済まないが馬場脇の
「しかしお一人で大丈夫ですか」
兵庫は微笑してみせた、「次永、||仁兵衛を叱ってはならんぞ、彼はおれの申しつけを守っただけだ、いいか」
やっぱりそうだったのかと思い、喜兵衛は「はい」と答えて立ちあがった。
「あの臆病者が」と兵庫が呟いた、「||ふるえながら、人違いだと云った、······哀れなやつだ」
兵庫のかたくつむった眼尻から、涙のこぼれ落ちるのを、喜兵衛は見た。彼はすぐに顔をそむけて、滑りやすい道をおりていった。