紺野かず子さま。
この手記はあなたに読んでもらうために書きます。こういう騒がしい時勢であり、私は追われる身の一所不住というありさまですから、あるいはお手に届かないかもしれません。また、終りまで書くことができるかどうかもわかりませんが、もしお
いま私のいるところは、城下町から一里ほどはなれた山の中で、かなり近く宇多川の流れを見ることができます。西山での不幸な出来事、あの取返しようのない出来事があってから約十日、私はつぎつぎと隠れがを求めてさまよい歩き、三日まえからこの家の世話になっていますが、おそらく、またすぐに出てゆかなければならなくなるでしょう。いどころも、人の名もそのままは書きません。どういうことで迷惑をかけるかもしれないからです。しかしあなたにはおよそ推察ができるように
季候はすっかり夏めいてきました。今朝はやく歩きに出たら、山の林の中で
二人はどこを歩いているかも忘れていたのですが、紺野家の裏へ来たとき、杉永がふと立停ってあなたに呼びかけたのです。そこは朝顔の絡まった四つ目
あなたに別れて歩きだすと、私が黙っていたことを不審そうに、どうして知らぬ顔をしていたのか、と
「知らないからさ」と私は答えました。
「紺野のかず子だよ」と彼が云いました、「おれの家で二度か三度会っているだろう」
「覚えがないな」と私は首を振りました。
本当に記憶がなかったのです。
それから五年めの秋、明神の滝でおめにかかるまで、私はいつかあなたのことを忘れていました。変動の激しい、緊迫した時勢の中で、心のゆとりを失っていたためもあるが、うちあけて云えば、杉永とあなたのあいだに婚約がある、と聞いたからでしょう。明神の滝でおめにかかったときも、私の心は少しも騒がず、自分の耳がだめになったことなど、おちついて話すことができました。
それがいまはこんなに変ってしまった。私は今朝、歩きに出た山の林の中で、咲きかかっている石楠花の蕾を眺めながら、六年まえのあなたの姿をまざまざと思いだしたのです。滝で会ったあなたではなく、六年まえの、まだほんの少女だったあなたの姿をです。そうして、心の奥にひそんでいた胸のときめきが、燃える痛みのようによみがえるのを感じ、しかしなにもかも取返しがたく失われた、ということを改めて思い知ったのです。
私は杉永幹三郎を斬りました。たった一人の友、少年時代から誰よりも親しく、血のかよった兄弟よりも深く信じあっていた友を、この手にかけて斬ったのです。私がこの手記を書くのは、どうしてそんなことになったか、という理由を知ってもらいたいためです。ここには
「おすえ」と治兵衛が
揺り起こされておすえは眼をさました。いつもついている行燈が消えて、家の中はまっ暗であり、枕許にいるらしい父の姿も見えなかった。
「声を立てるな」と治兵衛が云った。
「どうしたの」おすえは囁き返した、「どうかしたの、お
「外に人がいるようだ」
おすえは急に眼がさめ、
「本当に誰か来たの」おすえが訊いた、「谷川さまを捜しに来たのかしら」
「わからない」と治兵衛が答えた、「だがこんなよるの夜中に来るとすれば、ほかに考えようはないだろう」
「どうしたらいいの」
「おちつけ」と治兵衛が云った、「着替える暇はないかもしれない、そのままで
「それからどうするの」
「こっちを押えているあいだに、谷川さまを案内して逃げるんだ、忘れたのか」
おすえが答えようとすると、治兵衛の手がさぐるように肩を押えた。おすえは黙り、戸の外で人の声がするのを聞いた。
「おちつけよ」と治兵衛が囁いた、「釜戸の蔭で待つんだぞ、慌てるな」
おすえは息が詰りそうになった。
「ちょっと起きてくれ」と、表の戸の外で男が云った、「坂下の茂七だ、人しらべに城下からお役人がみえている、ここをあけてくれ」
おすえは釜戸の蔭へ身をひそめてから、父がなぜそこに隠れろと云ったか、という理由に気がついた。戸外の人は表だけでなく、裏のほうにもいるらしい。裏の洗い場のところで物の倒れる音がし、「しっ」と制止する声が聞えたのである。||治兵衛は行燈に火を入れてから、土間へおりて
「変った事はない」と外で答える声がした、「出て来た者もない」
そしてすぐに、茂七のあとから若い娘と、下僕とみえる男がはいって来た。裏戸はあけたままであった。
「どうしたことです名主さん」と治兵衛が云った、「なんのおしらべです、盗賊でも逃げこんだのですか」
「かみさんや娘がいないようだな」と茂七が訊いた、「二人はどこにいるのかい」
「女房はさとへゆきました、おすえもいっしょですが、あいつらを
「捜しているのは侍だ」と茂七のうしろにいた若侍が初めて云った、「谷川
「大手先の谷川さまなら知っております」治兵衛はおちついて答えた、「私が若いじぶん下男奉公にあがっていましたから」
「その谷川がいる筈だ」と若侍が云った、「訴人する者があったし証拠も
「治兵衛さん」と茂七が云った、「へたに隠しだてをしないほうがいいよ、おまえの家の裏に北寄貝の殻がたくさん捨ててあるし、毎日米のめしを炊くこともわかっている、そんな
「ええ客はありました」と治兵衛が答えた、「女房のおふくろさんが十日ばかりまえに来て、今日帰ってゆきました、女房とおすえはそれを送って
おすえはそこまで聞いて、裏の戸口からぬけ出した。
かれらは治兵衛の前に集まり、提灯をつきつけて、問答が激しく、互いに声も高くなっていた。おすえは釜戸の蔭から、土間を
谷川主計は眠っていた。暗くしてある行燈の光りが、蚊屋の中にある小机と、薄い夜具を掛けて
「お侍が来ました、逃げて下さい」
そう云ってから、おすえは急に口を手で
「来たのは大勢か」
「いいえ」とおすえは首を振り、二本指を出してから、ちょっと考えて自分を指さした。娘が一人と云うつもりだったが、主計にはわからない。彼は手早く着替えながら、不審そうな眼をした、「おまえがどうした」
「いいえ」とおすえは手を振り、こんどは指を三本立ててみせた。
「三人か」と主計が訊いた。
おすえは
||はだしでは山道は歩けない。
おすえはそう気がつき、暗い土間をさぐって草履をみつけた。主計の
「外は大丈夫か」
「大丈夫です」おすえは主計の手を取り、自分の顔へ当てて頷くのを触らせた、「いそぎましょう、あたしがご案内します」
おすえは手を引くことでその意味を知らせた。主計は旅嚢を背に結びつけて立ち、戸口から外へ出た。すると急に左と右に提灯があらわれた。かれらはうまくやったのだ、かこい小屋のことは茂七が知っていたであろう、しかしそこへ踏み込むより、外へおびきだすほうが安全だ。かれらは治兵衛が知らせに来るのを待っていたのだろうか、それともおすえがぬけ出したのを知っていたのかもしれない。
||突然くら闇の中からあらわれた提灯を見て、おすえは悲鳴をあげ、主計は一歩うしろへさがった。左には茂七と若侍、右にはあの娘と下僕らしい男がいた。提灯は茂七と下僕が持っていた。
「
吉川と呼ばれた侍は、ふところから折りたたんだ紙を出し、それをひろげて、提灯の光りにかざしてみせた。
||そのもとは杉永幹三郎を闇討ちにした。紺野かず子どのは祝言こそあげていないが、杉永とかねてから婚約の仲であり、そのもとを
およそこういう意味の文言であった。読み終った主計は振返って紺野かず子を見た。かず子は
「待って下さい、紺野さん」と主計は呼びかけた、「これは間違いだ、杉永を斬ったのは事実だがそれには
かず子は
「私はいまその仔細を書いている」と主計は続けていた、「書きあげたらあなたに読んでもらいましょう、そのうえでなお私をかたきと思うならいさぎよく討たれます」
「吉川」と主計はこちらへ振向いた、「杉永とおれのことはおまえもよく知っている筈だ、なにか事情があるくらいのことは想像がつくだろう」
「谷川さんは耳が聞えないから、なにを云ってもむだだろうが」と吉川が云った、「
そう云って吉川も刀を抜いた。
「だめか、私の云うことは、聞けないのか」主計は吉川を見、かず子を見た、「どうしてもだめなのか、どうしても」
紺野かず子が前へ出た。
「お父っさん」とおすえが絶叫した。
「動くな」と吉川がおすえに刀を向けた。
そのとき主計が吉川へ抜き打ちをかけた。かず子が踏みこんで来、吉川は大きくうしろへとびしさった。主計はかこい小屋の戸口へ引くとみえたが、そのまま板壁を背中で
「こっちは引受けた」と吉川が喚いた、「そっちを塞げ、紺野さん」
喚きながら、吉川は小屋の反対側へまわり、かず子は主計のあとを追った。茂七と下僕も、提灯をかざして走ってゆき、おすえは家のほうへではなく、小屋の背後にある丘の松林の中へ駆け登っていった。
紺野かず子さま。
あの夜からちょうど十二日経ち、どうやら気持もしずまってきました。あの夜のことはまったく思いがけなかったし、心外で、くちおしくてならなかった。吉川十兵衛は杉永や私たちの同志です、あなたが誤解されるのはやむを得ないとしても、彼が事情を察しようとしないのはなさけなかった。あのとき私は、いっそ十兵衛も、斬ってくれようか、とさえ思ったくらいです。しかしいまはそうは思いません、私はここへおちつくまでに、いろいろな世評を聞きました。私があなたにおもいをかけていて、恋の恨みで杉永を闇討ちにした、というのです。ばかげた
私はいま山の中にいます。治兵衛の娘のおすえが付いていて、身のまわりの世話をしてくれますから、べつに不自由なことはありません。おすえには家へ帰れと云うのですが、どうしてもはなれようとはしません。うちへ帰ってもお父っさんが、どうなっているかわからない、と云うのです。私にもそれがなにより気懸りです、治兵衛は昔の恩義のために私を
手記を続けるに当って、密勅をめぐる家中の論争は省略します。そこにこんどの出来事の原因があるのですが、要約すれば勤王か佐幕かということで、あらましのことはあなたにもわかっていると思うからです。
私と杉永とは初めから王政復古、開国の方向に動いていました。そうして吉川十兵衛、
その日、磯部へゆくまえに、私は杉永とこんな話をしました。
「どうしてあの人と祝言をしないんだ」と私が訊きました、「婚約してからもうあしかけ三年くらいになるじゃないか」
彼は口笛でも吹くように唇をまるくしました。なにか云いよどむときの、少年時代からの癖で、そうするとひどく子供っぽい顔になるのです。
「親たちにもそれを云われるんだが」と彼は答えました、「いまはそういう気持になれないんだ」
「なにか故障でもあるのか」
「故障というわけじゃない」こう云って暫く口をつぐみ、それから私の眼を避けるようにしながら続けました、「||こんな時代だし、結婚をいそいで、かず子に不幸なめをみせたくないんだ」
私は黙って杉永を見返しました。
「このあいだから考えていたことなんだが」と彼はゆっくり云いました、「おれはいっそ京へのぼろうかと思う」
「京へいってなにをする」
「王政復古は開国を伴わなければならない、これはかねてから谷川が主張していたし、おれもそのとおりだと思う、だが現に尊王をとなえている者の大部分は、攘夷問題を親柱のように信じこんでいる」
下田条約がむすばれて以来、すでに欧米諸国の多くと通商関係をもつようになった。現実にはもう開国しているのだし、これは国家と国家との公約である。にもかかわらず、王政復古の中に攘夷論が強い軸となっていることは危険だ。井伊大老を斬り、安藤閣老を斬ったような暴力が、王政復古の勢いに乗って攘夷を実行するとすれば、国家の信義を失うばかりでなく、欧米諸国の同盟によって、日本ぜんたいの存亡にかかわるような、非常な事態を招くかもしれない。
もっとも重大なことは、朝廷において攘夷親征が議せられたという点で、それがもし事実だとすると容易ならぬことになる。
「おれは自分でその実否が慥かめたい」と杉永は云いました、「はいって来る情報はそのたびに変転し、どれが真実かどれが
「話をはじめに戻すが」と私は云いました、「杉永はひとり息子だ、もし上方へゆくとしたらなおさら、祝言を早くするほうがいいじゃないか、杉永にもしものことがあれば家名が絶えてしまうぞ」
「万一のことを思うから祝言をする気になれないんだ、おれは家名のためにかず子の一生を奪おうとは思わない」
「祝言をしろよ」と私は云いました、「上方へゆくことは賛成できない」
「どうしてだ」杉永は眼を細めました。
「攘夷論は民心を統一する手段の一つだ、これはまえにも繰り返し云ってある、攘夷という名目は、それに対立するこの国、日本と日本人ぜんたいの存在をはっきりさせる、これまでかつて持ったことのない、共通の国民意識というものがそこから初めて生れるだろうし、すでに生れていると云ってもいいだろう、したがって王政復古が実現すれば攘夷論は撤回されなければ、杉永の云うとおりこの国は亡びるかもしれない、そのくらいの見識を持たない人間はないと思う」
われわれにとって当面の問題は、藩論を王政復古へ纒めることだ。というようなことを話しあいました。話の内容はともかく、こんなに
その場所は磯部から北へ、十町ばかりいった砂丘の下で、集まった者は十一人。私と杉永、吉川、梓、田上らはご存じでしょう。他の六人の名はその必要もなし、まえに述べた理由から、ここでもやはり省略します。大砲は一貫目玉のモルチールというもので、急造の砲架の上に据えてありました。砲手は二人。一人が火薬を
私たちは五間ばかりはなれたところに立ち、仕様書に注意してあるとおり、両手で耳を押える用意をして見ていました。私の右に梓久也、左に杉永、次に吉川がいたようです。少し風のある日で、長い
「大丈夫かな」とうしろで誰かが云いました、「あの舟に当りゃあしないかな」
すると二人ばかり笑うのが聞えました。それはその冗談が
射手は火繩を火口に移し、
私は大砲の火口から煙が立っているのを見、こちらへ走って来る二人の、灰色にひきつった顔を見ました。失敗したのだ、このままでは砲身が破裂してしまう、と思いました。
||あの砲を失うことはできない。
そう思いながら、私はもう走りだしていたのです。それを手に入れるまでの苦心と、再び手に入れることの困難さとが私をそうさせたのでしょう。
「よせ、谷川」と杉永の叫ぶのが聞えました、「危ない、戻れ、戻れ」
私は火口の火を消すつもりだったのでしょう。はっきりそう思ったわけではない、ただもうその砲を失ってはならないという気持で、火口から立ちのぼる薄い煙をみつめながら、けんめいに走り、もう一と足というところで、砂に足を取られて倒れました。
そのとき砲身が破裂したのです。どこに手違いがあったか、大砲そのものが粉砕してしまったので、原因はわかりません。私は倒れると同時に、
自分のことを語るのはいやなものです。けれども、杉永を斬るというあやまちをおかした理由は、この二年余日にわたる私の心の状態にあったので、どうしても知っておいてもらわなければならないのです。||夏の終りになって、耳がまったくだめだということがわかりました。それまでは一時的なものだと思い、医者にかかりながら、久しぶりに静養だ、などと
「そう長いことではないだろう」と私は云ったものです。「おれは暫くつんぼ桟敷にいるよ」
もちろん、そんな暢気なことを云っているばあいではなかった。密勅があって以来、
七月いっぱい、私は家にこもったきりで、杉永が訪ねて来ても会わず、家族とも没交渉にすごしました。みれんがましいはなしですが、気持がややおちつくまでに、三十余日もかかったわけです。
「これで同志から脱落だ」と私は自分に云いました、「こうなってはなにもできない、いさぎよく脱退しよう」
私は杉永を訪ねて、同志から脱退すると告げました。みんなの足手まといになるばかりではなく、進退緩急の機をあやまって事のやぶれを招くおそれもある。残念だがこれで身をひくと云いました。杉永もがっかりしたようすで、暫くは
私は父を説きふせて、家督も弟の格二郎に譲り、長く空いていた隠居所へ移りました。父母にも、弟や妹にも顔を見られたくない。食事も召使にはこんでもらって、一人きりの生活を始めたのです。躯に故障はないのですから、早朝の
「うしろに勘がはたらくというのはふしぎだ」と私は自分で苦笑しました、「どこかが不具になると、それを補うように、躯の機能が変るんだな」
躯そのものが不具者になる用意を始めた。苦笑するどころですか、私はそのときもいちど、医者から不治を宣告されたときよりも深く、激しい絶望に押しひしがれました。
杉永は十日に一度ぐらいのわりで訪ねて来、たいてい半
紺野かず子さま。
私はいま山を歩いて来ました。ここへ移ってから初めての外出で、おすえが心配し、ずっといっしょに付いていました。初めてこの手記を書きだしてから、かれこれもう三十日になるでしょうか、和田村にいたとき蕾のふくらみはじめた石楠花が、ここではもう咲きさかっていますし、林の中では早朝から
「おすえ」と私は振返って訊きました、「いま蝉が鳴いているだろう」
おすえは微笑しながら頷き、手をあげてまわりの
「いや」と私は首を振りました、「聞えるんじゃない、感じるだけだよ」
ここでね、と云って頭のうしろを叩いたのです。おすえはいそいで顔をそむけ、前掛で眼を押えるのが見えました。
いまこの手記を書き続けながら、いつも石楠花が付いてまわることに気づいて、かなしいほどむなしい思いにとらわれました。年々咲く花は変らないが、||という古い詩の句などが頭にうかび、上町の屋敷の裏庭で、石楠花の下に立っておられたあなたの姿と、それから六年経ったいまの状態とを比べて、人のめぐりあわせの頼みがたさ、というおもいで、ただ
私が明神の滝へかよいだしたのは、去年の夏のはじめからのことでした。母がどこかで聞いて来て、霊験があるそうだからとすすめたのです。滝に打たれるなどということは、信仰心があってこそ効果も望めるでしょうが、私にはそんな気持もないし、むしろ神仏を憎んでさえいたときですから、母の言葉もそのままききながしていました。けれども心のどこかには、やはり治りたい、という思いがひそんでいたのでしょう。四月下旬になり、青葉が強い日光にきらめくさまや、夏草が風にそよぐけしきなどを見ると、気ばらしになるだけでもいいと思い、初めて明神の滝へでかけていったのです。
そこへは少年のころ、二度か三度いったことがあります。
滝に打たれるといっても、ご存じのとおり細いものですから、
あなたに会ったあの日、||まえの晩に杉永が来て、藩論を纒めるには、どうしても除かなければならぬ者がいると云って、真壁綱の名をあげました。真壁は故君の側用人で、仙台の強いうしろ盾があり、老臣の中でもっとも頑固に佐幕を主張している人間です。杉永がそう決心した気持はよくわかりますが、私は反対しました。水戸藩における
滝をあがったのはいつもより早かったでしょう、着物を着、袴をはき、両刀を差すと、急に胸騒ぎがするように感じました。たぶん同じ問題を考え続けていたため、気持が不吉なことのほうへ傾いたのでしょう。自分では否定しながら、なにか事が起こったような、不安な思いにかられて、ついいそぎ足になっていました。すると、ちょうど明神の下あたりへ来たとき、うしろへなにかが襲いかかるのを感じました。人の出て来る筈はないので、それはわかっていながら、そんな気分でいたからでしょう、われ知らず刀を抜いて、抜き打ちにうしろをひっ払い、大きく三歩とんで振返りました。
刀に軽い手ごたえがあったので、刀を構えながら振返ると、女持ちの扇が二つに切られて、ひらっと地面に落ちるところでした。人の姿はどこにもありません、気がついて
「失礼しました」と私は云いました、「いまそちらへまいります」
刀を鞘におさめて私は扇を拾いました。それは薄く墨でぼかした地に夕顔の花が描いてあり、三分の一のところで二つに切れ、
「耳がだめになってから、いつも持って歩いているのです」と私は云いました、「よろしかったらどうぞそれへお書き下さい」
あなたは会釈をして、扇は落した自分が悪いこと、詫びは自分のほうで云うべきであると書いて、手帳を戻されました。私はそれを読み、紺野かず子という署名を見て、初めてあなただということに気づき、思わず声をあげてしまいました。
「これはこれは、ふしぎなところでおめにかかりますね」私はうきうきするような気分になって云いました、「あなたはご存じないだろうが、私はあなたを知っているんですよ」
するとあなたはまた手帳を取って、杉永から聞いて自分もよく知っていると書かれ、また、耳のぐあいはどうかと書かれた。私はどうして失聴したかを話し、耳は一生治らないだろうこと、家督も弟に譲ったし、これからは耳なしでも生活できるような仕事を考えている、などということを話したと覚えています。||あなたは
「杉永はなにを考えているんですか」と別れるまえに私は云いました、「あなたからもそう
あなたは唇に微笑をうかべたが、なにもお書きにはならず、矢立と手帳を返されたので、私は別れを告げて帰ったのです。
滝でおめにかかったのが八月。十二月には孝明天皇が崩御され、年があけると
杉永からこれらの事情を聞くたびに、私はまた自分の耳を
三月下旬だったでしょうか、杉永が訪ねて来て、同志の者が七人、藩吏に
「明らかに真壁のしごとだ」と杉永は云いました、「形勢が悪転で真壁が動きだしたに相違ない、領境には仙台の兵が詰めかけて来たし、このままではわれわれは
こう書いて示す文字も、いつになく筆が走っていて、ことの重大さをよくあらわしているようにみえました。
「やはり真壁は除かなければならない」と彼は続けました、「あのときやっておくべきだった、こんどこそやらなければならないと思う」
私は暫く考えていました。
「真壁のうしろには仙台の力がある」と私は念を押しました、「ほかに手段がないとしても、真壁をやったばあい仙台がどう出るか、奥羽連合が黙っているかどうか、その点のみとおしはどうなんだ」
「わからない」杉永は答えました、「しかし近いうちに討幕の勅命が出るという噂もあり、奥羽連合の結束もぐらつきだしたようだ、真壁を失ったぐらいで、仙台が直接行動に出るとは思えない」
「それは確実なことか」
「こういう情勢の中では、確実だと云えることなどは一つもないだろう、いずれにせよ、ここはまず断行することが先だと思う」
私は立ちあがって縁側へ出ました。
||どうする。
心の中で私は自分に問いかけました。
「それはおれがやろう」と私は云いました、「真壁を斬るのはおれの役だ」
「いや」と私は手をあげ、なにか書こうとする杉永を制しました、「真壁をやったら名のって出なければならない、
杉永は口笛でも吹くように、唇をまるくつぼめ、庭のほうを見たまま考えていました。癖というものは直らないものだな、私はそう思うと、緊張した気分のほぐれるのを感じました。
「考えることはない、もうきまったことだ」と私は云いました、「帰ったらみんなにそう伝えてくれ、但し真壁の動静はおれだけではつかめない、みんなで手分けをして、いい機会があったら知らせてもらおう」
「みんなにも意見はあるだろう」と杉永がいいました、「相談したうえでもういちど来る」
杉永を送って出ながら、私は明神の滝であなたに会ったことを話しました。そのときまで、ふしぎに話す機会がなかったのです。彼はあなたから聞いて知っていたとみえ、頷きながら陰気に微笑しました。それとわかるほど、陰気な微笑だったのです。
「早く祝言をするほうがいいよ」と私は云いました、「もうあの人も二十になるんだろう、なにをぐずぐずしているんだ」
杉永は私の顔を見て、なにか云いたそうにしましたが、思い返したようすで、そのまま帰ってゆきました。
それから三日めの夕方です。母屋のほうの風呂へはいって戻ると、梓久也が訪ねて来ました。ちょうど妹が食事の
「真壁はあなたに任せると、一同の意見がきまりました」とそれには書いてあった、「||彼は今夕六時から、西山の
私は読み終ってから梓を見ました、「隈川さんは変節したのか」
隈川
「そうではありません」と梓は書きました、「西山の別墅はずっと留守で、家僕のほかに人はいません、真壁はそこを
「それはみんなの意見か」
「杉永さんもそう云われました」と梓は続けた、「どうなさいますか、私は見張り役で、これから西山へゆかなければなりません」
私は頷きました、「やろう」
では打合せをしますと云って、梓は別墅付近の図を書きました。ご承知のように、西山は城下のほぼ西南に当り、重職がたの控家や別墅のある閑静なところです。町とのあいだに田畑や林などがひろがってい、道は一と筋、見とおしもよくききます。梓はその道の一点に印をつけて待伏せるところはここがいいと思うと云いました。そこからは隈川別墅の門が見えるので、合図をするにも都合がよく、また邪魔のはいるおそれもないだろう、というのです。
「いいだろう」と私は頷きました、「それで、合図はどういうふうにする」
「私が提灯で知らせます」と梓はいいました、「これから西山へいって、真壁が慥かに来るかどうかを見さだめ、来たら帰るまで見張っています、そして彼が帰るのを慥かめたら、提灯で円を三度かきましょう」
「円を三度だな」
「人の違うときは提灯を見せません、まるく三度振ったら真壁ですから||」そして梓は書き加えました、「できたら私も助勢するつもりです」
「そんな必要はない、おれ一人で充分だ」と私は首を振りました、「それより見張りに誤りのないようにしてくれ」
梓は筆を置いて、静かに低頭しました。
夜の十時を過ぎていたでしょうか、私は約束の場所にいて、提灯の光りがゆっくりと三度、円を描くのを認めました。
そこは西山から来る道が、細い流れに架けた土橋を渡り、城下のほうへと、やや北に曲っている角で、道傍には松が二三本と、
「わかった」と私は云いました、「あとは引受けたからいってくれ」
梓は会釈をして去りました。
それから約一刻、農家の若者が二た組ほど通ったほかには、人のけはいもしませんでした。月はなく、星空だが雲があるので、あたりは殆んど闇です。眼が馴れてからも、乾いた道がほの白く、ぼんやりと見えるだけでした。||風が少し吹いていて、どこからか笛の音が聞えて来るようです。村ざとではおそらくもう祭の稽古を始めていることでしょう、暗い野づらの向うを見ていると、現実に笛の音が聞えて来るように思われました。
提灯の火は隈川別墅のあたりにあらわれ、打合せたとおり三度、ゆっくりと大きく円を描きました。私は深い呼吸をし、右手を眼の前へあげて、指をひらいたり
「おい、せくなよ」と私は
「供がいっしょかな」
提灯は供が持っているのではないか、と思ったのですが、姿が見えるようになると、一人だということがわかりました。私は草履をぬいで足袋はだしになり、刀を抜いて二度、三度素振りをくれ、呼吸をととのえて待ちました。||真壁は足ばやに近づいて来、土橋を渡って、すぐ前を通り過ぎました。
二間ほどやりすごしておいて、私は道へ出、うしろからすばやくまを詰めながら叫びました。
「真壁どの御免」
そして振向くところを首の根へ一刀、返す二の太刀で存分に胴を払いました。相手は提灯をとり落し、なにか叫びながら、片手を振り、よろめいてがくっと
「藩ぜんたいのためです」と私は云いました、「どうぞお覚悟を願います」
相手はなおなにか叫び、手を振り、そうして、その手で頭巾を
「杉永、||」私は刀を投げだして駆け寄り、彼の肩をだき抱えました、「どうしておまえが、これはどうしたことだ、真壁綱ということだったぞ」
杉永はなにか云っています。私が斬りつけたときも、人違いだと叫んだのでしょう、おれだ、杉永だ、と叫んだ。なにか叫ぶのを私は見たのですから。もちろん彼には私がわかったでしょう、だからこそ抜き合せることもできず、おれだ、杉永だとけんめいに叫んだに違いありません。
「梓と打合せたんだ」と私は
杉永はなにか云っています。だが私には聞えません、私は彼の肩を
「私の七生を
だが皮肉なことに私の刀はあやまたず、充分に深く急所に達してい、杉永はそのまま絶息しました。私は彼を抱きしめて泣き、謝罪をしました。少年時代からのたった一人の友、もっとも信じあった友を、こんなふうに自分の手で殺した。耳さえ不自由でなかったら、||この気持はあなたにもわかっていただけると思う、私はすっかりわれを失い、絶息した彼を抱いたまま泣き続けました。
しかし長い時間ではなかった。ふと気がついて振返ると、西山のほうから提灯が五つ六つ、こちらへ向って走って来るのが見えたのです。梓久也なら一人の筈ですが、提灯の数から察するとかなりな人数らしい。ここで捕えられてはならない、そう思ったので、杉永の
||どういう手違いだろう。
闇の中を走りながら考えました。考えるまでもなく、梓久也の裏切りだということは、初めからのことを思い合せればすぐにわかる筈です。けれども逆上している私には、そんな明白なことさえ見当がつかず、ただ「家へは帰れない」ということと、「真壁を討つまで死ねない」と思うばかりでした。
どこをどう逃げまわったかは書きませんが、和田村の治兵衛のところへおちついたときにはようやく裏切りだということに気がついていました。
||田上ら七人を売ったのも彼だ。
それも疑う余地はないでしょう。私は皮を剥いだ梓久也の正体を前にして、改めて時勢の複雑さと、その複雑な渦中に生きる人間の、それぞれの心のありかたを思って嘆息するばかりでした。
たぶんあなたは、私が梓に報復するだろうとお考えでしょう。私もいちじはそう思いました。こんな
||方法こそ残酷きわまるものだが、梓も自分の利欲でやったことではない、彼は彼の立場で、もっとも効果のある手段をとっただけだ。
私たちが私たちの信念によって行動するように、彼もまた彼の信念にしたがったまでだ。憎むとすれば梓その者ではなく、梓を動かした「佐幕」という観念だ。梓などは問題ではない、藩の大勢を王政復古にもってゆくことが第一だ。杉永にとってもそれが本望に違いない、と思ったのです。||これで私の手記は終ります、ここにはあったことのすべてを、できる限りあったまま記しました。幸いにしてお手許へ届いたとき、お読みになったあとでなお、私を杉永の仇だと思われるかどうか、めめしいようだが、それをうかがえればと願わずにはいられません。
かれらの来たとき、おすえは煮物をしていた。油で菜をいため、干した
「騒ぐな」と侍の一人が云った、「黙っておれの云うとおりにしろ」
おすえはその侍を見た。
「おまえには関係のないことだ」とその若侍は云った、「なにもなかったつもりで煮物を続けろ、いいか、騒ぐんじゃないぞ」
おすえは口をあけ、なにか云おうとしたが、言葉にはならなかった。侍の一人は土間を表のほうへゆき、表の戸口からまた三人はいって来た。かれらは部屋へあがり、なにか捜しているようすだったが、一人が刀を持って土間へおりて来た。
「大丈夫ここにいる」と一人が云った、「この刀があるから慥かだ」
「まる腰ででかけたんだな」
「
他の一人が戸口へゆき、手を振りながらなにか叫んだ。すると答える声がして、まもなく五人の若侍がはいって来、狭い土間はかれらでいっぱいになった。
「朝めしの支度をしているから、まもなく帰って来るだろう、どうする」
「刀を取りあげればこっちのものだ、ここでやるか」
「いや、大事をとるほうがいい、二人は中にいてその娘を動かすな、ほかの者は外に隠れて帰りを待とう」
「梓は用心ぶかいな」
「谷川主計には、どんなに用心してもしすぎるということはないんだ」
「梓は用心ぶかいよ」
そんな問答をしながら、二人をおすえの側に残して、他の八人は戸外へ出ていった。残った二人は土間の隅へさがり、一人は刀を抜いて、おすえに見せた。
「騒ぐとこれだぞ」とその若侍が云った、「いつものとおりやっていろ、谷川が帰って来てもへんなそぶりをするなよ」
そのとき戸外で叫び声がした。
「谷川だ」と一人が云った、「押えたぞ」
そして二人はとびだしていった。
この家の表に、三十坪ばかりの狭い空地がある。片側は低い
||まったく思いがけなかったらしい、主計は左の手を腰にやり、刀のないことに気づいて、かれらを見まわしながら右手をあげた。
「待て」と主計は云った、「おれはまる腰だ、そうでなくともこれだけの人数では

「そんな必要はない」と梓と呼ばれた侍が叫んだ、「理非は明白だ、やれ」
「梓久也」と主計は手を伸ばして、まっすぐに相手を指さした、「いまおまえはなにか云った、おれの耳は聞えないが、なにを云ったかは察しがつく、おれに口をきかせるな、このまま斬れと云ったろう、そうだろう梓」
「こいつにものを云わせるつもりか」と梓が叫んで刀を抜いた、「おれはやるぞ」
主計は両手をひろげて、かれらの中の一人に呼びかけた。
「吉川十兵衛、おまえはこのままおれを斬らせていいのか、このままおれを斬って、それでなにか得るものがあるのか」
「こいつ」と梓久也が叫んだ。
「待て」と吉川十兵衛が手で制した、「もう逃がすおそれはない、聞くだけは聞こう」
「なんのために」と梓が叫んだ。
「吉川、みんなも聞いてくれ」と主計が云った、「みんなはおれが杉永を斬ったことでおれを斬ろうというのだろう、慥かに、おれは杉永を斬った、しかし、おれが杉永を斬ったということをどうして知った」
梓久也が踏み出そうとした。吉川十兵衛が「止めろ」と叫び、二人が左右から梓を押し止めた。
「おれが杉永を斬ったことは、たった一人しか知ってはいない」と主計は続けていた、「その男がおれを
「こんなやつの云うことを聞くつもりか」と梓久也が叫んだ、「おれたちはこんなでたらめを聞くためにここへ来たのか」
「云え、云え」と主計はまた梓をまっすぐに指さした、「おれはきさまの罠にかかった、無二の友を手にかけたおれが、きさまを憎まなかったと思うか、梓久也、おれはきさまを斬りたかった、きさまの五躰を寸断してやりたかった、||だが思い直した、きさまがおれを罠にかけたのは利欲のためではない、佐幕という信念のためにやったことだ、梓久也その者の罪ではないと思ったからだ」
谷川主計はそこでかれらを見まわした、「これ以上くどいことは云わない、あとはみんなの判断に任せる、久也の眼とおれの眼を見比べてくれ、いま云ったおれの言葉に対して、久也がなんと云うか聞いてくれ、そしてもし彼の云うことが正しいと思ったらおれを斬るがいい、また、おれの云うことが信じられるなら刀を貸してくれ、おれはここで梓を斬る、||さあ、梓久也に云わせてくれ」
みんなは吉川十兵衛を見た。
「梓、||」と十兵衛が云った、「なにか云うことがあるか」
梓久也は刀を取直した。
「よし」と十兵衛が
一人が家の中へ走ってゆき、主計の刀を持って戻った。主計は十兵衛の顔をみつめ、受取った刀を腰に差してから静かにそれを抜いた。
||梓久也を残して、他の九人はずっとうしろへさがり、家の戸口にはおすえが