脇屋の家は七百石の老臣格で、代二郎は
「小森

「一人でか」
「一人でだ」と久良馬は

「その血のりはけがか」
「いや返り血だ」と久良馬は云った、「||二人を逃がした以上このまま腹は切れない、これから屋敷にたてこもって、討手とひと当てやるつもりだ、久保貞造、板土友次郎、丸茂源吾らが来る」
「いっしょにたてこもるのか」
「断わったのだが承知しなかった、人数はもっと多くなるかもしれない、ここへ寄ったのはそれを断わるためだ」と久良馬は云った、「||脇屋は妹と婚約しているが、初めからおれの説には反対だった。もし脇屋が来れば、
「考えてみるよ」
「いやその必要はない、おれははっきり断わる」と久良馬は云った、「||それから、妻と子はやむを得ないが妹は死なせたくない、桃世を引取ってもらいたいんだが、どうだ」
「もちろんだよ、云うまでもない」
「それで
こう云って久良馬は
代二郎はそのうしろ姿を見送った。去ってゆく久良馬の袴の裾のところが、横に五寸ばかり切り裂かれていて、そこから歩くたびに下の着物が見えた。久良馬は門を出るとすぐ右へ、振向きもせずに去っていった。||代二郎は居間へ戻った、
代二郎は机の前に坐った。その部屋は六帖で、北側に窓がある。机はその窓に向っているので、あけてある障子の外に庭の一部が見える。隣りは空地を隔てて御竹蔵があるが、庭の樹立が繁っているので蔵は見えない。三本ある古い桜の木が、窓の近くまで枝を伸ばしていて、その枝にはふくらんで色づいた
「大変なことになりましたね」
茂登女は代二郎の脇へ坐った。代二郎は黙っていた。
「どうなさる」と茂登女が云った、「||すぐにいらっしゃるのでしょう」
代二郎は「さあ」といって、母とは反対の方へゆっくりと振向いた。床間には「碧山雲層層」と書いた軸が懸っている、その下に香炉が一つ。ほかにはなにもない、その軸は
「
「少し考えてみます」
「考えるとはなにをですか」
「これは一藩の大事で、私一個の
茂登女は代二郎の横顔をにらんだ。肥えた多血質の顔が白くなり、その眼は怒りのためにきらきらしていた。彼女は幾たびもなにか云おうとしたが、やがて
「碧山雲層層、||」代二郎は
彼は机に左手の
||無思慮も思慮の一つだ、脇屋は思慮にとらわれすぎる。
それは久良馬の言葉であった。つい五日ほどまえ、湯の山の扇屋の会合のときにそう云った。
「彼にはかなわない」と代二郎は眼をつむったまま呟いた、「||彼にはおれのかなわないところがある、紛れのない決断や実行力もそうだ、彼は自分が好んですることを恥じない、むかしから知らない屋敷の柿でさえ、
代二郎は微笑しながら眼をあいた。
||
久良馬のそう云った言葉がおもいうかんだのである。それは四年まえ、代二郎と桃世とのあいだに縁談のまとまった直後のことであり、またこんどの(後に「
代二郎は十五歳の年に江戸へゆき、
代二郎が江戸から帰ると、久良馬が来て「練志館」でもう少し仕上げをするようにとすすめた。代二郎は断わった、彼は武芸にはあまり興味がもてなかったのである。久良馬は失望したらしいが、むりにはすすめなかったし、それからもずっと親しい往来が続いた。久良馬はよく脇屋へ訪ねて来たし、代二郎もしばしば除村へ招かれていった。この期間に彼は桃世を知ったのであるが、帰藩して三年めの春、久良馬が結婚してからまもなく、彼も桃世と婚約をむすんだ。
桃世はそのとき十四歳であった。兄に似て膚は浅黒く、
||代二郎さんはなかなか眼が高いのね、気性がいいばかりでなく、あのひとはいまに
久良馬は妹のことをいつも「栗」と呼んでいた。色が黒くてちんまりしていたからであろう、そのことを話すと茂登女は笑ったが、縹緻よしになるという主張は曲げなかった。
婚約ができてからすぐ、久良馬は彼を湯の山へ遊びに
||泊って来ますが御心配なく。
久良馬は代二郎の父にそう断わった。父の唯右衛門はまだ存命ちゅうで、「泊りがけ」という意味がわかったのだろう、ひどく渋い顔をしたが、いけないとは云わなかった。湯の山というのは城下から北へ二里ばかり、峠を一つ越した山峡の湯治場で妓楼もあるし「
||脇屋のふっきれないのは女を知らないからだ、今日はおれが男にしてやるよ。
久良馬はそう云った。代二郎は「へえ」といった。
||自分の妹婿に売女を抱かせようというのか。
||妹婿になる人間だからさ。
こう云って久良馬はにやっとした。それから例の「売女を抱くことは、||」が始まったのである。代二郎は
||おれは脇屋が男になるまで
代二郎は苦笑しながら黙っていた。
妓楼を出てから、久良馬は「新しい銀札が通用しない」と不審そうに云いだした。はっきり口では云わないが、明らかにその銀札をいやがるふうで、彼は
||そんなことになると思ったよ。
||それはどういう意味だ。
久良馬は
||新銀札には加印がないからさ。
代二郎はそう答えた。この土地では古くから、銀札には必ず領内に住む豪商らの加印があった。つまり表記の金額を藩と連帯で保証する意味であるが、去年の冬に発行したものには加印がなかった。それは、今年(明和五年)の二月、朝廷で立太子の大礼があり、幕府からも祝儀のため使者を
||このたびの御役は予期しないもので、調達は急を要するから、他の方法ではまにあわない、善後の処置はあとのことだ。
右京亮はそう云って押し切った。そのとき押し切らせてはいけなかった、そのときこそ右京亮を抑えるべきであった。そうでなくとも、すでに無謀な政治の弊害が、いろいろな方面に現われだしていたからである。
||おれには経済のことなどわからないが、そういうわけだとすると捨ててはおけないな。
城下へ帰る途中、「銀札」に関する代二郎の説明を聞いて、久良馬はじっと考えこんだ。妓楼などでは客のほうで世間
||現に去年十月に比べると、一般の物価は一割ちかくも高くなっているよ。
と代二郎が云った。すると久良馬が訊いた。
||問題はやはり右京亮さまだな。
||そして御側近の三人だろうね。
||よし考えよう。
久良馬は濃い一文字眉をぴくっとさせた。
老臣たちが右京亮を抑えにくいのは理由があった。右京亮康貞は石見守の子ではなく、松平出羽家から養子に入ったものである。石見守康富が幕府の閣老として江戸常府だから、右京亮を

だいたい右のような事情だったのである。
それから約半年、久良馬はしきりに代二郎を湯の山へ誘いだした。どうしても彼を男にせずにはおかない、と云うのであるが、実際は同行者がしだいに
久良馬はその実行力にものをいわせて、老臣方面にもはたらきかけたらしい。だが、それは保守的な老臣たちに逆効果を与え、久良馬はひどく叱られた。
||政治に口を出すことは
久良馬は沈黙した。そして、なおしげしげと代二郎を伴れて湯の山がよいを続けた。十五人ばかり集まっていた同志も解散したが、これは隠密に連絡がとられていたらしい。久保貞造、板土友次郎、丸茂源吾らの三人が、ごくときたま湯治宿でいっしょになった。代二郎が警戒するような顔をみせても、久良馬はいつも先手を打って話を避けた。
||いいから今夜こそ男になってみろよ。
などというのである。道楽は若いうちにすべきだとか、道楽の経験のない者は半人前の価値しかないとか、また代二郎が遊ばないのは、
||初夜といえば、おれは妻を
久良馬はあるとき卒然と云った。
||生れた家を出て、育てられた親や兄弟姉妹と別れて、殆んど見も知らぬ他人の生活の中へ入ってゆく、どんな運命が待っているかもしれない「初夜」の
代二郎は苦笑しながら云った。
||それは男だって同じことだと思うがね。
久良馬はにらみ返した。なんというだらしのない人間だ、とでもいうようなにらみかたであった。代二郎は知らないふりをして、そっぽを見ていた。
加印なしの銀札はいちど回収された。物価の高騰に対する不評を緩和するためであろう。事実それを機会に物価は下るけはいをみせた。しかし、回収するためには資源がなくてはならない。そこで右京亮は領内全般の田地に
この藩に限らず、当時は諸侯ぜんたいが経済的に
||これは取返しのつかぬことになるぞ。
||根本的な改革をしなければだめだ。
そういう声が高くなった。
その声は右京亮を制するよりも、さらにその無謀さを
||こんな事をわざわざ江戸まで申告げて来てどうする。国許に人はいないのか。
こう叱られて使者は帰った。
これは秘密にされていたが、いつ漏れるともなく評判になり、除村久良馬たちの耳にもはいった。そして湯の山の会合になり、側近の三人を斬ろうという結論が出た。苛酷な年貢(二回の検地竿入れによる)に耐えかねて、土地を捨てて去る農民が出はじめていた。銀札の濫発で物価はあがるばかりだし、商人にも倒産するものが相次いで出た。
||右京亮さまを動かしているのは側近の三人だ、責任のすべてが三人にあるとはいわないが、右京亮さまを老臣重職から隔離し、藩政をここまで
会合に集まったのは十七人、代二郎もその席にいた。三人を斬ろうという説は、代二郎をべつにして全部の者が賛成した。代二郎は反対だった。三人を斬ればこちらからも犠牲者を出さなければならない、それよりもっと穏便な方法がある筈だ。こう主張した。
||脇屋は思慮にとらわれすぎる、ときにはその思慮を捨てろ、無思慮も思慮の一つだぞ。
久良馬はそう云ったが、「こちらからも犠牲者を出さなければならない」という言葉で、その場の熱狂した空気はちょっと冷えたようにみえ、もういちど集まろうということで、そのときの会合は終ったのであった。
「彼は感づいたのだ、あのとき熱狂した空気が冷えたのを」代二郎は呟いた、「||そして彼は、自分がやろうと即座に決心し、今日それを実行したのだ、しかし、小森は討ちとめたが他の二人は逃がしてしまった······そうだ、このまま切腹できない気持はよくわかる」
そういう呟きとはべつに、彼の
「代二郎さん、||」
廊下から茂登女の呼ぶ声がした。障子があいたので振返ると、母が除村の桃世を伴れて入って来た。桃世はもう十八歳になり、躯の小柄なところは変らないが、肌の色は白く、少し
「除村から縁を切ってまいりました」桃世は手をついて云った、「||どうぞこれからお頼み申します」
「待っていたところです」と代二郎が云った、「||早速ですがこれから登城しますから、母に訊いて支度をして下さい」
「除村さんへいらっしゃるんでしょう」
茂登女がそう訊くと、代二郎はそれには答えないで桃世に云った。
「登城ですよ、
桃世はおちついて着替えを助けた。少し
「除村が私を湯の山へ伴れていって、道楽をさせようとしたことを知ってますか」
桃世は「はい」と頷いて、代二郎を見あげながら、
「それではとうとう道楽ができなくて、彼に
「はい」と桃世が答えた。
「
「いいえ」と桃世は赤くなりながら答えた、「||うれしゅうございましたわ」
「それは有難い」
代二郎はそう云いかけて振向いた。家扶の小泉専之丞が入って来た。彼は家士たちを
「よし、わかった」代二郎は桃世から扇子を受取りながら家扶に云った、「||私は登城するから、誰も外へ出さないように頼む」
そして彼は玄関へ出ていった。茂登女は来なかったが、桃世が式台まで送って出た。代二郎は刀を差しながら桃世を見た。桃世の眼は涙ぐんでいるように見えた。彼はその眼に笑いかけながら云った。
「心配しなくてもいいよ」
そして静かに履物をはいた。
代二郎は父が生きていなくてよかったと思った。父の唯右衛門は去年の五月に病死し、そのため桃世との結婚も一年延びたのであるが、善良で小心な父が生きていたら、どんなに心痛し途方にくれるか、そうしておそらく桃世との婚約も破棄されるだろうということが、彼には眼に見るように想像された。······殿町の家から登城するには
大手門には槍組の人数が出ていた。代二郎が通ると、かれらは異様な人間をでも見るように、眼をそばだて、また聞えがしに
「脇屋だ、除村の妹のあれさ」
「どうしたんだ」と云う声も聞えた、「彼は徒党に加わらないのか」
代二郎は聞きながして通った。
そこから中の口へゆき、中の口からあがって、中老の役部屋へ入るまで、ゆき交う人たちすべてがそういう眼で彼を見、不審そうに囁きあうのであった。······殿中はひっそりしていた。出来事の重大さと、どうなるかわからない不安のために、あらゆるものが息をころしている、といったような静寂さであった。役部屋には誰もいなかった。代二郎は支度を直して、老職の詰所を
右京亮は上段で叫んでいた。彼は二十七歳になる。痩せた肉の薄い躯つきで、おもながな顔に
「ここでは余の意志はとおらないのか」と右京亮は叫んでいた、「||あのしれ者は小森を斬り落合を傷つけたうえに、徒党を集めて己れの屋敷にたてこもったというではないか、これは謀反だ、明らかに
上段のすぐ下に岡安益左衛門がいた。岡安は末席の家老であるが、もう六十歳を越しているし、温厚篤実というだけの人で、ただもう低頭しながら、おろおろと云い訳めいたことを云うばかりであった。老人のすぐ脇に井関藤也と落合庄次郎の姿が見えた。うしろ姿でよくわからないが、落合は頭の半分を
「討手を出せ、余の申しつけだ」右京亮は
益左衛門は平伏し、染谷が戻るまでいま暫く、必ず御意のとおりに計らうから、とふるえ声で同じことを繰り返しなだめた。代二郎は人々のあいだを静かに
「申上げます、中老脇屋代二郎、申上げます」
高い声ではないが、よくとおった。右京亮がこちらを見た。他の人たちも振向き、多くの者があっという眼をした。
「御上意のように討手を差向けましては
「刃傷の罪も罪、徒党を集めて家にたてこもるのは謀反だぞ」
「徒党を集めたと申すのは注進の誤り、事実は彼の暴挙を防ぐため、彼をとり鎮めるために親族縁者が集まったにすぎません」代二郎はひと膝進めて云った、「||おそれながら私に上使の役をお申しつけ下さい、すぐにまいって彼に詰腹を切らせます」
右京亮は井関と落合の顔を見た。二人がどういう反応を見せたかは疑うまでもない、除村久良馬は練志館の師範で、崇拝する門人も多いし、
「その言葉に間違いはないか」と右京亮がこちらを見た、「||間違いなく、彼に詰腹を切らせるか」
「御上意を頂ければ切らせます」
「よし、まいれ」と右京亮が云った、「||上使を申しつけるぞ」
「
こう云って、代二郎は左右に眼をやり、佐藤喜十郎という番頭のいるのを認めた。喜十郎は三百二十石で、
「つきましては検視役として、御側より井関藤也どの、またあれなる佐藤喜十郎をお差添え願います」
「よし、両名の者みとどけてまいれ」
井関藤也はびくりとした。
「私は辞退仕ります」藤也は云った、「||私は、私はそのお役には適しません」
「貴方は小森どのと親しかった」と代二郎が云った、「||除村久良馬の切腹をみとどけるのに、貴方ほど適した人はない筈です。それとも除村を怖れて辞退なさるのですか」
「井関、みぐるしいぞ」右京亮が叫んだ、「||余が申しつけるのだ、まいれ」
藤也は平伏した。代二郎は佐藤喜十郎を見て、それから静かに座を
井関藤也は臆していた。右京亮もそんなに激怒していなかったら、彼を検視役には出さなかったかもしれない。「除村を怖れてか、||」という代二郎の言葉は、右京亮の怒りを煽ったうえに、もっと強く藤也の拒絶を抑えたようであった。佐藤喜十郎もおちつかないようすだった、彼は徒士組総支配だから登城していただけで、この騒ぎには巻きこまれたくなかったし、もとよりそんな役は引受けたくなかった。
||これはただでは済まないぞ。
彼はそう思った。除村がおとなしく腹を切るとは考えられない、集まっている者たちが切らせもしないだろう。反抗された場合にどうするか、その点が心配でおちつかないようにみえた。
「警護の者を伴れていってはどうでしょうか」
長廊下をさがる途中で、佐藤喜十郎がそう云った。藤也はすぐに賛成しかけたが、代二郎はあたまからはねつけた。
「気の立った者が集まっているところへ、警護の人数など伴れてゆけば衝突が起こるに定っている、とんでもないことです」
代二郎はかれらに供を伴れることも許さず、「上使」の作法どおり、大目付の者五人の供立てで除村家へ向った。
除村の家は馬場下の角地にあった。辻町の通りを大馬場につき当った右の角で、こちらに倉沢重太夫という
大目付の者は門からずっと離れた
「乱暴してはいけない、||私は右京亮さまから
そのとき玄関へ板土友次郎があらわれた。彼も
「いま上使と云われたのは貴方ですか」
板土がそう云った。代二郎がそうだと答えると、彼は
「本当に貴方が、脇屋さんがですか」
代二郎は答えなかった。
「貴方は除村先生の立場を知っている」と板土友次郎が叫んだ、「われわれは貴方が、事を共にするために
「そのとおりだ」と代二郎が云った、「||どうか除村にそう取次いでくれ」
「まっぴらです」と友次郎がどなった、「私にはそんな取次ぎはできない、帰って下さい」
板土の声を聞きつけたのだろう、やはり武装した若侍たちが三人、どかどかとそこへ走り出て来た。その中に久保貞造がいて、なお板土のどなるのを聞きながら、烈しい敵意の眼でこちらを
「獲物がかかったぞ、出て来い、井関藤也だ」
井関は見えるほど震えだし、蒼白く硬ばった顔で、代二郎を横眼に見ながら、刀の柄に手をかけようとした。代二郎がそれと気づいて、その手を押えたとき、奥から五人ばかりの者がとびだして来た。先頭に丸茂源吾、ほかにも代二郎の知っている者が二人、みんな「練志館」の門人で、そしてあとから久良馬も来た。······除村久良馬は黒の紋服に仙台平の
「右京亮さまの上使として来た」と代二郎が云った、「||この二人は私から願った検視役だ、とおしてもらいたい」
久良馬の眼は井関から動かなかった。
「斬らないんですか」と貞造がどなった、「私がやりましょうか、先生」
その声でさっとみんなが殺気立った。電光のはしるように、三人を取巻いた全部の者が殺気立つのが感じられた。
「そうはしない筈だ」と代二郎が云った、「除村はそうはしない筈だ、除村は一藩の急を救うために小森

久良馬が初めて代二郎を見た。それまでじっと(またたくことの少ない眼で)井関をにらんでいて、
「それで」と久良馬が云った、「||おれにどうしろというのだ」
「まずこの人たちを解散させてくれ」
「われわれは御免です」と丸茂源吾が云った、「われわれは生死ともに先生といっしょです」
すると全部の者が口ぐちにどなりだした。久良馬は
「脇屋の言葉はもっともだ、おれの目的は十分に達した」と久良馬は云った、「||二人を討ちもらしたうえに、討手を向けられると思ったからひと当てやるつもりだった、しかし脇屋が上使として来た以上もうすることはない、みんなその男を見ろ」久良馬は井関を指さした、「息もつけないほど怯えあがって、がたがた震えているその男を見ろ、そいつはもう死んだも同然だ、われわれが手を出すまでもない、そいつも落合もやがて自分で逃げだすだろう、おれの目的はもう達した、みんなこのまま引取ってくれ」
集まっていた者たちは解散した。
久良馬の翻意が動かないのと、久良馬が処罰でなく切腹だと聞いたからである。かれらの多くは泣きながら、竹矢来を除き、水手桶や夜戦の支度を片づけた。家の中も、あげてあった畳を直し、障子や
「それより丸茂に頼みがある」と代二郎は源吾に云った、「除村が切腹すればこの家は没収されるから、妻女と市松どのを私の家へお伴れ申してくれ、それから久保と板土は残って、遺骸の始末をてつだってもらおう」
その他の者はすぐ解散するようにと、代二郎は隙を与えない口ぶりで云った。
丸茂、板土、久保の三人が残り、十帖の客間に切腹の支度をした。畳一帖を裏返して、晒し木綿を張り、それを部屋の上段に据えた。久良馬はそのあいだに奥へ入って白装束に着替え、髪を水で結い直して戻った。······代二郎たち三人は、隣りの六帖に坐って見ていた。久良馬が置き畳の上に直ると、妻のいつきが短刀をのせた
母子は簡単な別れの言葉を述べて、すぐに奥へ去った。代二郎はいつきが男まさりで、気の勝った性分だということをよく知っている。また今日は親子もろとも死ぬ覚悟で、もう
代二郎はまだ黙っていた。奥のほうで人の出てゆく物音がし、それが聞えなくなると、家の中は急にひっそりと鎮まった。そのとき、井関藤也がまた震えだした。急にひろがった沈黙のなかに、再び危険を感じたのであろう、代二郎には彼の震えだすのがはっきりわかった。
「脇屋||」と久良馬が云った。
代二郎は頷いて立ち、久良馬の脇へいって坐った。そうして、久良馬が短刀を抜くと、静かに振向いて云った。
「井関どの、みとどけられたか」
藤也は眼をあげた。佐藤喜十郎もそちらを見たが、藤也は短刀のぎらぎらする光りと、
「慥かにみとどけましたな」と代二郎が云った、「||では御帰城のうえ、御前へその旨を申上げて下さい、私は除村の友人として、遺骸の処置をして帰ります」
佐藤喜十郎がなにか云おうとした。けれども代二郎は気もつかぬようすで、久保貞造と板土友次郎に云った。
「御検視が帰られる、お見送り申せ」
井関藤也はすぐに立った。喜十郎はちょっと
代二郎はそれから一刻ちかくもおくれて城へ帰った。右京亮はすぐに、黒書院へ彼を呼びつけた。さきに帰った二人のどちらが報告したか、切腹の現場を見せなかったというので、右京亮はすっかり怒っていた。······代二郎は平然と聞いていた、そのとき黒書院には染谷靱負と岡安益左衛門の二老職に、小姓と近習番とで五人。井関も落合の姿も見えなかった。
「申せ、代二郎」と右京亮が叫んだ、「検視役に見せずして、久良馬の切腹を誰が慥かめた、切腹の現場を見せずしてなんの検視役だ」
「おそれながら」と代二郎が答えた、「除村久良馬の切腹は、御上使として私がしかと慥かめました」
「証拠はそれだけか」
「彼はみごとに致しましたし、遺骸は玉林寺に葬りました、私は御上使として、この眼で慥かにその始終をみとどけてまいりました」
「もういちど
「彼を武士らしく死なせるためです」と代二郎は云った、「||申すまでもなく、検視役が立会うのは罪死のばあいです。彼は罪人ではございません、藩家の危急を救うためにその身も家も捨て、妻子と絶縁してその本分を尽しました、重ねて申上げますが彼は罪人ではございません、私は彼を武士らしく、心しずかに死なせてやりたかったのです」
「その言葉を余に信じろというのか」
「検視役の御両名も証人の筈です」と代二郎が云った、「||万一にも御疑念があってはと存じて、私は自分から検視役をお願い申しました、御両名はその場を見、彼が切腹の座につき、衿をくつろげ、短刀を取るまでみとどけられたのです、もしそこに
代二郎はこう云い切って、相変らず平然と面をあげていた。右京亮の拳は(脇息の上で)わなわなと震えていた。彼は刺すような眼で代二郎を睨みながら、
「御老職おふた方に一言申上げます」と云った、「||除村久良馬は存念を残しております、藩家の危急が打開され、万事安泰となるまでは死にきれますまい、また、われら家臣一統も彼の存念の残るところを忘れは致しません、そのことをよくよくお含み下さるよう、お願い申しておきます」
そして右京亮に向って平伏した。右京亮は憤然と立ち、黙ってさっさと奥へ去った。二人の小姓が(一人は刀を取って捧げながら)そのあとを追った。
久良馬の初七日に当る夜、玉林寺でひそかに法事が行われた。まだ世間を
「わたくし残念です」といつきは云った、「||あなたのなされかたは道理にかなっているかもしれません、けれどわたくしは、除村を男らしく死なせてやりとうございました」
「男らしくですって」
「除村は思い切ったのです」といつきは云った、「||侍の義理も名も捨て、妻子もろとも斬り死にをしよう、そう思い切ったのです、男がそこまで思い切ったものを、どうして望みどおりに死なせてやって下さらなかったのですか」
「なるほど、その意味ですか」
代二郎はちょっと当惑した。いかにもいつきらしいが、そういう苦情をそんなにはっきり、しかも面と向って云われようとは思いがけなかった。
「しかし私はこう思うのです」代二郎は云った、「||彼が小森を斬ったのはどこまでも藩の安泰を守るためで、決して破壊するのが目的ではなかったでしょう、彼が小森を斬ってくれた、その決断があったからこそ、私があと始末を買って出たのだし、その始末もうまくいったので、これはみな彼の男らしい決断のたまものだと思いますがね」
「それはあなたのお道理です、わたくしは道理を申してはおりません」
そのとき向うの暗がりで声がした。
「そうだ、おまえの云うとおりだ」
三人は声のしたほうへ振向いた。すると、光りの中へ一人の僧が現われ、苦笑しながらこっちへ来た。それは頭をまるめ法衣を着た、
「まあ」いつきが叫んだ、「あなた||」
彼女は殆んどとびあがって、抱いている市松を危うく落しそうになった。
「おまえの云うとおり、脇屋は文弱だからおれたち夫婦の気持などはわかりゃしない」久良馬は近づいて来ながら云った、「||これを見てくれ、彼は斬り死にをさせなかったばかりでなく、おれをこんな姿に化けさせてしまったぞ」
いつきは茫然として、口をあけ、肩で息をしながら、またたきもせずに
「もっと云ってやれ、いつき」と久良馬は続けた、「||脇屋は文弱なだけではない、むしろ悪知恵に
いつきは代二郎を見た。顔が歪み、眼から涙がこぼれ落ちた。いつきは涙のこぼれるままの眼で、くいいるように代二郎をみつめ、それから眠っている子の上に頭を垂れた。
「堪忍して下さい、脇屋さま、||」
しかしあとは
「私は除村を死なせたくなかった」と代二郎が云った、「||小森のような人間と、命の引換えをさせたくなかったのです、右京亮さまもめがさめればわかって下さるでしょう、除村には出家してもらいましたが、時が来れば必ず家名の立つようにします、よけいなことをしたかもしれませんが、その時の来るまで辛抱して下さい」
いつきは嗚咽に
「今夜はお二人を此処へ泊める」と代二郎は彼に囁いた、「||
久良馬はむっとした顔で頷き、「桃世」と妹に呼びかけた。桃世は包み物をしていたが、その手を止めて兄を見た。
「脇屋に嫌われるな」と久良馬は云った。
桃世は黙って低頭した。眉を
「姿だけは妻らしいがね」と代二郎が微笑しながら云った、「||実を云うと祝言は今夜なんだ」
久良馬はけげんそうな眼をし、そして口ごもった。
「するとつまり、二人は今夜が」
「そうなんだ」と代二郎が云った、「||こちらは