青木は須磨寺の近くに、
須磨は秋であった。
青木の嫂の
「君なら一眼で恋着するだろうなあ」
青木は話の出るたびにかならずそう云ったものである、従って打明けて云えば、青木の暗示的な言葉は、彼女の写真を見たり性情を聞いたりすることに救けられて清三の心の中でいつのまにか育っていた。
月見山の家に着いた夜、清三のために風呂が
「東京の人には何を差上げても
康子が云った。
「でも牛肉だけは自慢できますわ」
清三は微笑しながら肉の煮えたつ
「遠慮なぞしないで、ゆっくり遊んで行ってくださいね、二人きりで寂しいんですから」
飯が終ると康子は女にしては鋭い
茶がすんでから、康子が月が
浜には波がなく、淡い霧が下りて寂然としていた、三人の息は月の光を含んで白く
「おい相撲をとろう」
足の甲までさらさら没してしまう深い砂地に出たとき、清三はそう云って青木の手を取った、二人は踏応えのない砂の上で
「おい離せ離せ、息が切れて耐らん」
青木はそう云うと砂の上に腰をおとした。
「弱い人たち」
康子が月を背にして清三の顔を見下ろしていた、清三は手を
「ひどいやつだなあ」
青木も腋の下を
「御覧なさい、淡路島の灯が見えます」
康子の指示した遠い海の夜の
「いつごろまでいてくだすって」
「お正月まで?」
康子が云った、清三はただ笑って答えた。康子の表情が月光の下でちょっと変った、が清三はその変化の解釈がつかなかった。
青木が汀で野蛮な声を張上げて詩を吟じ始めた、それを合図のように康子はすっと立上った、清三も続いて砂から尻をあげた。
清三は温い幸福なものを抱いて寝た、夜晩くまで階下で康子の
清三はじゅうぶんこの新しい家に満足できた、そして当分この温い情的な(云い得べくんば)家に慰まぬ心を隠しておこうと思った。
二三日してから大阪に来ている先輩を訪ねて
「早く帰ってらっしゃい」
康子はかならず朝、門の裏まで送って来てそう云った、清三はいつもそれに感謝の笑で応じた。帰って来て清三が門を潜るとかならず康子の白い
「労れたでしょう」
康子はそう云う、清三はやはり感謝の微笑でそれに答えた、そして自分に注がれる鋭い情熱的な冷たい瞳をわくわくしながら味っていた、神戸の新聞社に出ている青木は毎日午近くに出て帰るのは夜晩くなった。清三は二人きりの時間を、毎日何か事件でも起こるような気持で過ごした。
雨の降る日、例より早く帰って来た清三と茶を飲んでから康子はその辺を歩こうではないかと云い出した。清三はすぐ同じた。二人は家を閉めて雨の細い夕暮の中に歩き出した。
「よい処へ連れてってあげます」
上目使いにちらと
康子はときどき何か話しかけた、清三も言葉
清三は大きな池のある広場へ連れて来られた、ここが須磨寺だと康子が云った。池の水には白鳥が群を作って遊んでいた、雨がその上に静かに
池を廻って、高い石段を登ると寺があった。そこには
寺の前から裏山へかけて、八十八ヶ所の地蔵堂が造られてある、二人はそのほうへ進んだ、がもはや夕闇が拡がり出して、木樹の蔭には物寂しい影が動き始めた。
「ここへ入って少し休みましょう」
朱い小さい山門の下へ来たとき、康子は傘をすぼめてその下に入った。清三もその後に従った、そして康子のために台石の
「静かでしょう」
康子はちょっと耳を澄ませてから、呟くような声で云った。
「地の中で虫が土を掘る音まで聞えそうだ、と云っている人がゲエテの詩の中にありましたね。||雨さえ降っていなかったら、こんな静かさをそう云うのでしょうか」
清三は恐縮して、そうですねと云ったばかりである、康子はその静寂の中から何か聞き出すもののように、しばらく眼を閉じてじっとしていたが、まもなく帰ろうと云いだした。清三はその甘い溶けるような静寂の中にいつまでも二人きりでじっとしていたかったが、康子に添ってすぐ立った。
「清水さん」
康子は傘を拡げようとしながら清三の顔を見て云った。
「あなた、生きている目的が分かりますか」
「目的ですか」
「生活の目的ではなく、生きている目的よ」
清三にはちょっと康子の云う意味が分からなかった。康子は清三の返辞を待つ容子もなく、さっと傘を拡いて雨の中に歩み出た。清三は自分が失敗したと思って顔が熱くなった。||二人は傘を並べて黙って寺の前まで戻り静かに石段を下りた。
風のない、暖かい日曜日である、青木も社が休みだったので三人は六甲山へ
「嫂さん近ごろ若くなったなあ」
清三も青木も学校時代から歩くのでは負けないほうだったが康子はこの二人のあいだにあって、尠しも勉める容子なく楽々と歩いた、青木は、嫂が活発に裾を蹴る足元を見ながら何度もそう云った。
「これからだんだん若くなるのよ」
康子はそう云って清三の眼を横眼で見た、その瞳が清三にはひじょうに色っぽく思われた。
山ではまったく紅葉は晩すぎた、十王山という懸額のある寺の辺は、盛頃には大変な人出だというのに、その付近の平地には朽ちかかった落葉が佗しく風に飛ぶばかりであった、三人は六甲の頂上へ行くつもりなのだがその道順を訊く人すらない、寺から右へ
「道が分からないってことは興味があるじゃないの」
康子が清三を振返って云った。
「なぜです」
青木が反問した。
「どこへ出るか疑問だから||」
「じゃその興味には不安が伴いますね」
「どうして||」
康子は落着いて思うことを順序よく言葉の上に配列した。
「だって興味というものは不安があるから起こってくるものじゃないの」
清三は、康子が自分の云いたいことを、上手に相手から抽出させる技巧に思わず微笑した、青木はふと立止まって、
「こりゃいけない、川だ」
と云った、康子は川があればたぶんそれに添って路が山上へ行くに相違ないと云った、三人は川を越した。康子が川の中に
だんだん道が狭くなって、しかも次第に
「人間の一生に」青木が
清三は黙って聞いた、康子は白い雲を見上げていた。
帰りの道は下りなので楽だった。清三は康子と狭い道を並んで歩いた、青木は
「ありがとう」
康子の瞳が情的に動いた、清三は頬の熱くなるのを覚えた、それから青木が流れの端の石に腰かけて待合せているところまで、二人とも事件を待つような気持で黙って歩いた、青木は澄んだ秋の山の空気の中へ、煙草の
時間がたつに連れて、清三の胸の中では、康子の働きかけてくる情的な瞳が領域を拡めていった。それが清三にとってはひじょうに幸福だった、で清三はことさらにその中へ
「君は嫂をどう思うか」
青木が清三にそう質問したことがある。
「つまり性質だよ、たいていの人間は規範のなかに
清三は自分の胸にある思いをそのまま青木に云われたような気がした、だからそのとき、清三は、もちろん自分にも分からんと答えただけである。
夕飯の
「いったい、結婚はどういうふうに考えるべきものだろう」
青木が云った。
「幸福なものとして幸福に没頭すれば
清三は康子の顔を見た、康子は黙って魚に箸を運んでいた、それから飯が終って茶になったとき、ふいと康子が青木に云った。
「龍さん、あなた私たちの結婚が、幸福か幸福でないか分かりますか」
青木はびくっとしたようだった。清三も少なからず不意を打たれた。康子は静かに笑った。
雑誌の為事は月の半頃になると煩わしいほど忙しかった。天王寺にある印刷所まで校正に行って、そこで十時まで朱筆を持たなくてはならない日がすくなくとも四五日は続いた。汽車がなくなって、阪神の終電車に辛うじて間に合うようなことも再三あった。
為事するあいだは熱のあるように妙に怠い
その日は朝から独特の暗い冷たい雨が降っていた、前日に印刷所で職工が休んだので、二日分の原稿が校正机の上に重ねてあった、何だか朝家を出るときから少し熱があるようだったのが、時間とともにだんだんひどくなって、ちょうど夕方、再校の出る時分から後頭部が刺されるように痛み始めてきた。清三は耐らなくなって為事を同輩に頼んで印刷所を出た。天王寺の裏町の暗い汚れた、道の上に残っている薄明を十一月の寒い雨が濡らしていた。
汽車はちょうど退けどきでひじょうな雑踏だった、清三は混雑している車室の隅にじっと身を
ずきずきと痛む頭を抱えて清三が家の門を潜ったとき、いつもかならず開かねばならぬ玄関の障子が動かない、物足らぬ心で書生部屋へ上ると、茶の間の
「何だ、今日は晩くなるって云ったそうじゃないか」
青木はすぐ見ていた新聞に眼を戻した。清三は朝康子にそう云いおいたことを想い出した。
「頭痛がしてね。あの人は?」
「嫂かい、ちょっと兄貴の上役の家へね、兄貴から電報がきたもんだから」
清三の胸がびしりと鳴るようだった、青木は手を伸ばして長火鉢の
水枕を造ってもらって、清三はすぐ寝た、けれど頭の痛むのと電報とがいつまでも眼を閉じさせなかった。躯中が悩ましかった。康子がますます恋しくなった。逢うことが許されなくなった恋人たちのように狂おしく恋しかった。清三は枕の白い
清三は何かに驚いて眼を覚した。とちょうど
「我慢なさい」
程経て康子がそう呟いた、そして清三の手を蒲団の下に入れて、立って階下へ去った。清三は干き切った唇を噛みながら、「我慢なさい、我慢なさい」と口の内で呟いた。
明る朝清三は十三弦の音の中で眼を覚した、なにかなしに
青木が上って来て、具合はどうだいと云った、これから社へ行くが、喰べたいものがあるなら買って来てやるぞと云った。清三は微笑しながら心からありがとうと答えた。
「おい、ちょっと」
去ろうとする青木を清三は呼び止めた。
「琴はあの人か」
「うん、うるさいだろう」
青木は悪戯らしく笑った。
「頭がすっとする、階下へ行ったら、いつまでも続けてくれるように云ってくれ」
「
青木は元気に去った、するとすぐ琴の音が止んだ。そして間もなく康子が来た。
「眠れましたか」
康子はそう云いながら
「電報が来たのを知ってらっしゃる?」
「ええ知っています」
「そう」
清三は黙って康子の言葉を待っている、が康子はそれきり何も云わなかった。
「さっき弾いていらした琴は何です」
「||千鳥」
清三はそこまできて初めて康子の顔を見た、康子は瞳を動かした。
清三は三日寝て起きた。
清三の心には明かに期待が生まれ始めた、従って家の中の空気がひじょうに緊張して感じられるようになった、そしてそのなかで幸福と不安との入混った落着かない日を送った。
ある日清三は、社で電話を受けた、でてみると康子だった。
「帰りにちょっと松竹座に寄ってちょうだい、二階の正面の五番にいます」
それだけの用件を云うと、電話はきれてしまった、清三は退けまでの時間をすこぶる愉快に過ごした。
神戸の駅に
劇場の前はいたずらに明るくして、人の姿は絶えていた、灯の色の華やかなだけ、ひっそりした前庭の雨は佗しかった、茶屋から行けばすぐ案内してくれるのは分かったが、なぜかそうするのが気まずかったので、清三は
二階の正面の席が見えるように、東の桟敷に坐った清三はすぐ示された座席から康子の姿を探し出そうとした。康子の姿はすぐ見出せた、康子はちょうど劇眼鏡で舞台を
燈火が一時にあかるくなって、座にいた人たちが一様にざわめきあった、清三は康子の姿を見逃すまいと立ったままそっちを睨んでいた、そして康子の立つ姿を見ると、すぐ自分も廊下へ出た、廊下の揉むような人のあいだを抜けながら二階へ下りて来るまでの気持は、形容できないくらいに焦せっていた、で、もう少しで見知らぬ男と連れ立って行く康子と行違ってしまうところだった、康子はすぐ慌てた清三の姿を見出したが、黙って行き過ぎた、そして男に何か云って待っている清三のところまで引返してきた。
「御苦労さま」
康子は白いものを
「次の幕が開いたら、二階の食堂に行っててちょうだい」
それだけ云うと康子は清三から離れた。
電鈴が鳴ると、廊下の人波は皆扉の中に流れ入ってしまった、清三は命ぜられたままにした、食堂には客の姿は見えなかった。
康子の来るまでに清三は二杯の牛乳を空けた、時間にしたら二十分たっぷりであろう、いらだたしい眼が、何度か壁のクリムトの複製画に止まった。平常は大好きであるこの画家が、そのときはこの上もなく平凡に
「失礼、
康子は清三と向合って坐りながら云った。清三のいらいらした気持はすぐ
「すぐ帰る? それとも観ていらっしゃる?」
清三は思いがけない気持で康子の言葉を聞いた、すくなくとももう少し情に訴えるものを期待していたのである。
「帰ります」
「観ていらっしゃい、一緒に帰りましょう」
康子は清三の気持を感じたらしかった。けれども清三は康子の白い指を見ながら、もう一度、帰りますと繰返した。
「怒ったの?」
康子が清三の顔を
「怒ってるの?」
出口のほうへ近づいたときまた康子が云った。清三は静かな廊下の曲角の蔭で不意に立止まると、手を伸ばして女の指を握った、康子の瞳が驚いて男を見た、清三は
家では青木が
そうしているうちに、だんだん落着いてきた清三は、康子の気持が分かるような気がしてきた。とくに二人の食事を、そうした場所へもっていったことも
康子の帰りを待たずに清三は二階へ上って寝た、夜中躯が悩ましかった。
四五日後の夕刻二人きりで夕食の膳についたとき、康子がやや強い表情で清三を見ながら、
「清水さん下宿をなさい」
と云い出した。清三は
「須磨寺のすぐ前に佳い家を見つけておきましたよ」
「そうですか」
清三は糸に操られて手足を振る泥人形のような自分を見た、何か不快なものが胸先にこみあげてくるようだった、いままで耐えていた種々な感情が
「清水さん」
康子の声を背に受けながら、清三は階段を上った、悲劇的な感傷が頭の中で火のように
階下から上って来る
窓から来る宵明りで清三の姿を見出した康子は、素早く寄って来て、清三の
「あ||」
康子の短い叫びが清三の唇に触れた、二人の唇はしっかりと合った。しかし清三はすぐ康子の前に膝をおとした。康子の手が清三の髪毛の中に差しこまれた。二人の嵐のような呼吸が静寂な八畳の部屋に荒々しく続いていた。
「あたし来月の船で亜米利加へ行きます」
「||||」
「五日ほど前に電報がまた来てね! 船まで
康子の言葉は遠くから来るようだった。
「階下へ」
清三は辛うじてそう呟いた。
「あなたもいらっしゃい」
清三はわずかに首を振った。
「清水さん」
康子の熱い呼吸が清三の頬に近づいた。
「我慢なさい」
そう云って康子は静かに階下へ去った。
清三は冷たい畳の上に
明る朝起きて見ると雨だった、康子はもうとうに神戸へでかけていた。
「顔色が悪いぞ、熱でもあるんじゃないか」
青木は背広に着換えているところだった。
「少し頭が痛い」
「何だか嫂が、今日は君が休むそうだから留守を君に頼んでくれと云っておいたぜ」
「そうか」清三はちょっと微笑して見せた、心の中では康子の人の意表に出る態度がはっきり分かった。
「あの人、亜米利加へ行くんだそうじゃないか」
清三は靴をはいている青木に云った。
「なあんだ」
青木は苦しそうに首を
「もう知っているのか、嫂から聞いたんだろう」
「うん」
「俺ゃ、清水には内証にしておいてくれってずいぶん喧しく約束させられたんだぜ」
「へえ、そうかい」清三は康子の気持を探り当てた。
青木が寒いと呟きながら雨の中を出て行くと、清三は冷たい水で顔を洗った、茶の間には蠅帳を被せて食膳は出ていたがとても坐る気はない、重い不快な固りが腹の底に
冷たい清い空気を胸いっぱいに吸いたいような気がしたので清三は二階へ上って、北側の窓を開けた、雨の中に須磨寺や
「生きている目的が分かるか」清三は朱い山門の下で云った康子の言葉を想い出した。傘を開こうとしながら、横眼使いに自分を見た、女の色っぽい姿も眼に見えた。清三の眼の前で、山や森が呆と消えた。泪が続いて頬を流れた。