「なにか用でもあるのか」と益村がきいた。
「べつに」と畠中が答えた、「たぶんここだろうと思ったんでね」
益村はゆっくりと頭をめぐらせて畠中の顔を見た。それからまた
「少しは釣れたのか」と畠中がきいた。
益村は脇に置いてある、乾いたままの
「それでも面白いのかい」
「この川は
「豊水期にもこれらの洲は冠水することなく」と畠中が
「釣れても釣れなくっても」と益村は問いに答えた、「こんなことはかくべつ面白いものじゃないさ」
畠中は黙っていたが、やがて水面を指さし、引いているぞと云った。けれども益村には聞えたようすがないので、もういちど「引いているよ」と注意した。
「魚じゃないさ」と益村は答えた。
「
「
畠中は眼をみはって益村の顔を見、すぐにその眼を細めた。むっとしたのだろう、なにか云い返そうとして、二三度その唇をむずむずさせたが、思い直したようすで、逆に皮肉な微笑をうかべた。
「なにか困ったことでもあるんだな」
「あの木を知っているか」と云って益村は対岸のほうへ顎をしゃくった、「あそこに大きな濃い緑の木があるだろう、葉の表はひどく濃い緑だが、裏は白いんだ、そら、||風が吹きあげて葉裏が返ると、ぜんぶの枝に白い花が咲いたようにみえるだろう」
「だからどうした」
「頭のめぐりの悪い男だ」
「なにをそんなに悩んでるんだ」と畠中は励ますような口ぶりで云った、「||もうはらをきめてもいいころじゃないか、なにか故障でもあるのか」
ははあそうか、と益村安宅は思った。彼はその話で来たのか、それはそれは、と心の中で
「益村はおれとおないどしだから、もう三十一だろう」
「おれのほうが半年はやく生れた筈だ」
「しかも、お
おれの母は二十五で父と結婚した、二十二だからってそういそぐこともないさ。益村はそう思ったが、やはり口にはださなかった。
「あの洲を見るたびに」益村は川上のほうを見やりながら云った、「||ここへ来て、この川の水とあの洲を見るたびに、おれはいつも人と人との関係を連想する」
「またはぐらかすのか」
「まあ聞けよ」と益村は続けた、「友人でも夫婦でもいい、心と心がぴったり合っているかと思うと、川の水が洲にぶっつかったように、なにかの拍子でふっと、身も心もはなればなれになってしまう、それがいつかまた、洲のうしろで水が合流するように、しぜんと双方からよりあい、愛情や信頼をとり戻すが、やがてまた次の洲にぶっつかって分れ分れになる、||この川の洲は十三しかないけれども、人間の一生には数えきれないほどの洲がある、とね」
畠中はちょっとまをおいて云った、「益村には昔から、そういう思わせぶりなことを云う癖があった、よくない癖だ」
「家風でね、祖父もそうだったし、父もこんなふうだったよ」
「代々の留守役ということか」
益村は肩をすくめた。
「留守役は一般の勤めかたとは違う」と畠中が続けた、「||他藩との折衝が多く、それには政治的なかけひきが付きものだし、ときには幕府の重職とも交渉に当らなければならない、話術にも特別な技巧が必要だろうし、酒席の設けかたにはむずかしい
「けれども」とひと息ついて畠中は云った、「それが留守役に欠くことのできない資格ではない、鶴井家は同じ留守役でも
「名臣伝にでものせるか」と益村が気のぬけた調子でさえぎった、「||本当のところ、畠中はなんの用があって来たんだ」
「おれは江戸へゆくことになった」
益村は振り向いて畠中を見た。
「川普請が難こうしていることは聞いたろうが、資金の調達がこっちではどうにもならなくなった」と畠中が云った、「||それで殿が御在府ちゅうに、なんとしてでも
「鶴井を褒めるわけがそれでわかった」と云って益村は唇で笑った、「これは冗談だが、||しかしそいつはたいへんだな、幕府では財政緊縮でこちこちになってるそうじゃないか、殿も汗をかかれるだろうが、鶴井はそれこそ骨を削るぞ」
去年、酒井氏が
「江戸のことを心配するより」と畠中は云っていた、「おれが帰って来るまで身を慎んでくれ、それともう一つ、杉原との縁談のはらをきめておいてくれ」
「身を慎めだって」
「だいぶ噂が
益村は
「返辞によってはね」
「それはかたじけない」
益村はゆっくり釣竿をあげて、
「ときに、出立はいつだ」と益村がきいた。
「二三日うちだろう、十五日までには立つ筈だ」
「別宴でもやるか」
「まさか」と云って畠中はじっと益村の眼をみつめた、「||衣笠ではないだろうな」
「酒というものはうまいものじゃないな」と益村はまた竿をあげ、上のほうへ糸を投げてから云った、「五つのときじいさまに飲まされてこのかた、今日まで一度もうまいと思ったことがなかった、||畠中はたぶん」
「兼しげさ、云うまでもない、別宴をやってくれるなら南小町の兼しげだよ」
益村は
「衣笠はごめんだからな」と云って畠中は慌てて水面の浮子を指さし、「おい、くってる」と云いかけたが、すぐに気づいて、憤然と口をつぐんだ。
「きせちというものは正直なものですね」と女中がしらのおわきが云った、「ふんとに、八月にはいったとたんに、こんなんも[#「こんなんも」はママ]涼しくなるんですもの、ばかみたようですわ」
「正直なのか、ばかなのか」
おわきは
益村安宅は「なんでもない」と首を振りながら盃をさしだした。おわきはそれに酌をして、徳利を持ったままの手を膝へおろし、ひどくまじめな顔で益村を見た。
「わたし」とおわきは低い声で云った、「益村さんに申上げたいことがあるんですけど、いきませんかしらん」
「いいだろう」と益村は答えた。
おわきが話し始め、益村は庭のほうを見た、この料亭「衣笠」はコの字形の二階造りで、中庭には
「そのかた芳村
この中庭はあるじの造ったものだ、と益村は思った。祖父の安左衛門がそう云ったのである。「衣笠」のあるじの金助はもう八十歳ちかいとしだが、まだ健在であり、いまでも木や石を買って来ては庭いじりをしている。若いころ江戸へ出て修業をし、道楽のはてに幾たびも「
「でしからね、旦那」
「旦那はよせ」と益村が云った、「それに、酒がぬるくなったぞ」
あらしいませんと云い、おわきは二つの徳利を盆にのせて、立っていった。
おりうには
「こんな噂が弘まってるんだな」と独りになって益村は呟いた、「||たぶん畠中もこういう噂を聞いたんだろう、これが初めてではないんだがな」
おりうがこのうちへ来て十カ月、それとなく益村に耳うちをした女中が、おわきのほかに二人いた。おりうさんてこわいような人だ、かげに男があっておりうさんを見張っている、「わるくすると闇討ちにあいますよ」と云った女中さえあった。
「岡野さえのときと同じだ」そう呟いた益村は、苦しげに顔をしかめ、眼をつむって、うなだれた、「||さえのときもこんなことが重なって、それであんなひどいことをしてしまった」
酒を持って来たのはおりうであった。彼女は浴衣にひっかけ帯で、洗い髪を手拭で巻いたままであった。
「あなたがいらっしゃってるって聞いたもんだから、おぶにはいってたのをとびだして来たの、こんな恰好でごめんなさい」おりうは
そして酌をしながら、すぐに着替えて来るから待っていてくれと云った。益村はそのままでいいだろうと云った。
「そのままのほうが涼しくっていいよ」
「でもこんな恰好では」おりうは浴衣の両袖をひろげてみせた、「まあさまはいいって
「なるほどね」と云って益村は
「でもね」と云っておりうはすり寄り、益村の膝を手で押えた、「あなたがお帳場へひとこと、あたしをここに置くって仰しゃって下されば、よその座敷へゆかなくってもいいのよ」
「まさかね」益村は酒を
「薄情な方、あたしがいてはいけないんですか」
「ごらんよあのさるすべり」益村は盃を持った手で庭のほうをさし示した、「酒のみはああいう花を
おりうは押えたままでいた手で、益村の膝をかなり強くつねった。その膝をおりうの手からよけながら着替えて来い、と益村は云った。ではこれ一本だけお酌してから、と云って、おりうは膝をすり寄せた。湯あがりでほてっている、やわらかに充実したおりうの
||仇名で呼ばれるようになってから、あたしは初めて仕合せになった、と彼女はいつか告白した。貧乏人の子に生れたしこんなぶきりょうなので、いつも近所の人や子供たちにからかわれ、いじめられてばかりいたが、このお店へ来て、だんごという仇名をつけられたときから、みんなに可愛がられるようになった、だからあたしにとってはこの仇名が大切であるし、この名で呼ばれるあいだは仕合せでいられるのだ。
それだものだから本名は誰にも教えないのである、と彼女は大事な秘密でもうちあけるような口ぶりで、まじめくさって語ったものであった。
「いまね、先生」とだんごはぶきような手つきで酌をしながら
「だんごはもう酒が飲めるのか」
彼女はまるい顔の中の小さな眼を、まるくみひらいて彼を見た。そして、いま自分の云ったことがまあさまには気にいらないのだ、ということを理解したらしく、いそいで笑顔をつくりながら、ときには飲むこともできると答え、追っかけて「ときどきには飲むこともあります」と訂正した。いまはどうだときくと、だんごは右手で胃のところを押え、首をかしげて思案したのち、いまのところ飲みたいようではない、と済まなそうに答えた。そうして益村に酌をしながら、あたしは十二の秋に殿さまを見た、という話を熱心にし始めた。彼はどきっとしたが、顔色にはみせなかった。ついさっき||岡野さえのときと同じようだ、と思ったが、いままただんごの言葉でさえのことが思いだされたのだ。
||わたくし八歳の夏、殿さまのお姿を拝見したことがございます、とさえは彼に告げた。初めてお国入りをなすった年でしょうか、珂知川へ水練にいらしったのを、わたくしほんの近くから拝見したんですの。
いま川普請をしているところから、ほぼ十町あまり川上に、藩主のための水練所があり、そこから上下五町の川筋は「お止め場」といって、一般の者は立入り禁止になっていた。岡野さえはそのとき、三人の友達と水あびにいった。彼女にとっては初めての水あびだったそうで、珍らしさと面白さに、自分がどこにいるのかもつい忘れてしまった。そのうちに友達の一人が驚いて声をあげ、お止め場だと云って、慌てて川岸の
||よく見ると、そこに三人の人が泳いでいました、とさえは語った。
三人は川下のほうへ泳いでいったり、川上のほうへ泳いで来たりした。さえはまん中の一人が殿さまだろうと思い、舌が上顎へ貼りついたようになって、息をするのも苦しくなった。友達の二人もまん中にいるのが殿さまだと思ったらしい、やがてその三人が水からあがるのを見て、あれが殿さまよと囁きあい、芦の中でいっそう激しく身ぶるいをした。
||その方は痩せがたで背が高く、肌が眼にしみるほど白うございました、とさえは語った。眉が濃く、眼が澄んでいて、きりっとした一文字なりの唇が、おもながなお顔の中に際立ってみえました。
他の一人は中背の目だたない侍だったし、もう一人はずんぐりした躯に大きな頭で、色が黒く、ひどくぶ恰好にみえた。少女たち三人は、殿さまの
||友達の一人はそのとき十一歳になっていましたが、自分はなんとかして殿さまのお側へあがるのだ、殿さまのお側へ召されるためならどんなことでもするつもりだ、ってわたくしに繰返し云ったものですわ。
少女たちは人を間違えていた。藩主の
||おれが十七、さえが十六、知りあってから二年めのことだったな、と彼は心の中でおもい返した。
さえの父は岡野久太夫といい、足軽組頭であった。益村の屋敷の裏が地境で、その向うは組長屋になってい、こっちから見ると、いちばん手前の端に岡野の家があった。安宅は一人息子であり、おじいさん子で、隠居した祖父がいつも側からはなさなかった。益村の広い庭は、なに流とかいう凝った造りで、別棟の数寄屋や茶室があり、先代の藩侯が幾たびか来て、そのたびに「おれの庭よりもはるかに立派だ」と、褒めるような
「ねえ先生」とだんごが云った、「聞いていらっしゃるの」
「先生はよせ」と益村が云った、「どうしてまた、おれのことを先生なんて呼ぶんだ」
あたし聞いたんですもの、とだんごは云った。いつか
「あれはないしょだ」と益村は云った、「これからは先生なんていうんじゃないぞ、||酒を持っておいで」
だんごが
「あらだんごちゃんだったの」おりうは男のような口ぶりで云った、「済まないけれどね、お
「はい」とだんごは答え、益村に振り返って云った、「あたしいま云われたこと決して忘れませんわ」
そして出ていった。
「なんのこと」おりうは坐って徳利を持ちながら問いかけた、「決して忘れません、だなんて、なにを仰しゃったんですか」
「きれいだな」益村はおりうの姿を、細めた眼で眺めながら云った、「||きれいだ」
「あの子にもそう仰しゃったのね」
彼は右手をさし出して「こっちへおいで」と云った。おりうは微笑してすり寄り、彼の胸へ肩を押しつけた。彼女の躯はまだほてっているように熱かった。益村はその肩を抱いた。
「痩せているんだな」彼は抱いている手でおりうをそっと揺すった、「折れてしまいそうじゃないか」
急にばねでもかかったような動作で、おりうは益村にしがみついた。庭でないていたこおろぎの音が止まった。
||若旦那さま、あのさえという娘にはお気をつけなさいまし、との
||岡野の娘はたいへんな子ですわ、昨日も裏庭の塀の外で、組長屋の誰かと抱きあっていましたわ、わたくしうっかり外へ出て、
それだけではない、似たような告げ口を幾たびとなく聞き、安宅はすっかり
||さえが尼になったのは、あのときの傷心のためだろうか。
益村はそう思いながら、背後の暗がりに人のけはいを感じた。彼は
「益村さんですね」とうしろから呼びかける声がした、「ちょっと待ってくれませんか」
安宅は立停って、ゆっくり振り返った。追いついて来た男を、すぐにこっちの提灯の光がとらえた。背丈は益村と同じくらい、としも三十を出ているようにみえる。色白で眼つきに険はあるが、すっきりとしたなかなかの美男子で、着ながしに両刀を差していた。
「私は芳村伊織という者です」
益村は相手の顔を見たまま、黙って次の言葉を待った。芳村はどう云おうかと迷ったようすで、けれどもすぐに続けた。
「私のことは聞いていらっしゃると思いますが」
益村は静かに首を振った、「知りませんね」
「本当に知らないんですか」
益村は頷いた。芳村の険のある眼がすっと細くなった。
「じゃあ云いますが」と芳村が云った、「衣笠のおりうという女中は私の女です、あなたが御執心でかよっているという評判だが、どうかおりうには近よらないで下さい」
「どういうわけで」
「あの女にはわるい癖がある、男をひきつけ、手だまにとり、夢中にさせておいて棄てる、その手にかかって身をほろぼした男が幾人いるかわからないんです」
益村はあるかなきかに微笑した、「||つまり、私をそういうめにあわせたくない、というわけか」
「そう思ってもらっても結構です」
「かたじけないな」と益村は云った、「よく覚えておきましょう」
そして振り向いてあるきだした。芳村伊織という男はあとに残った。
芳村はどういう立場にいるのか、と安宅は考えてみた。衣笠のおわきの話では、二千石とかの旗本だったが、おりうを追ってこの山ぐにまではるばる来たのだという。事実とは信じがたいが、もし事実だとすれば、少なからず異常だ。旗本御家人というのは幕府の中でも別格な存在で、他のことはともかく、その進退にはきびしい制限があり、女のあとを追って江戸からはなれる、などということは不可能だと聞いている。もちろん人間のことだから、すべての者がその制限に服従して誤らないとはいえない。幕府の禁制も家名も捨てて、江戸から出奔するという例もあるに違いない。||だが、芳村伊織はそんなふうにはみえなかった。人品も悪くないし、暗くてよくは見えなかったが、みなりもきちんとしていた。女のために前後を忘れて、旗本二千石の家名を捨て、こんなところまであとを追って来るような、だらしのない、崩れたような感じはどこにもなく、どこか
||いずれにしても、と安宅は思った。あの男がおりうにのぼせていることは慥かだろう、人を追って来て、おれの女だなどと云うのは決してありふれたことではない。
そして、闇討ちにあうかもしれない、と云った女中たちの囁きが、それほど誇張ではないかもしれない、と思いながら、いったいおりうのほうはどうなのかと考えてみた。
益村安宅は三日に一度ぐらいの割で「衣笠」へゆく。おりうが来るまでは月に一度か二度だったし、知人か友達といっしょでないときはなかった。けれども去年の十月におりうがあらわれてからは、でかけてゆく度数も多くなったし、いつも独りだけであった。このあいだに、しばしば芳村伊織のことを聞いたのであるが、安宅はまったく気にとめなかった。おりうのようすには、そんな男がいるような感じは
「さえとはまるで反対だ」と安宅は独りで呟いた、「さえは少しも自分を語らず、黙ったままで尼になってしまった、おりうは自分の存在をはっきり主張し、男をひきつけるためにある限りのてくだを使う、欲しいものは必ず手に入れるだろうし、失敗しても決して尼になるようなことはないだろう」
おりうとさえと対比しながら、益村はふと自分のことを思った。ぜんぜん反対な二人の女性のなかにいた自分が、どちらに対しても「自分」でいたし、現在も「自分」でいる、ということに、おどろきよりも自分の中にある非人情なものを強く感じた。
「そしてお梶だ」と安宅は呟いた、「||さえともおりうとも似ていない、お梶は黙っていて、黙ったまま死んでしまった」
男の一生はもちろん仕事であろう、けれども男に仕事をさせるのは「妻」であり、妻によって伸びも縮みもする。
「おりうなら留守役としての勤めを、安心してはたせるような支えになってくれるだろう」と益村は自分に云った、「||
だが彼の表情には、その呟きとはおよそ反対な、しかんだ色があらわれていた。
江戸へいった畠中辰樹から、八月のうちに手紙が二通きた。初めの一通は江戸をこきおろしたもので、冷静な畠中にも似ず、
そして九月になると、三通めの手紙が届いた。その日は亡くなった妻のお梶の命日に当り、こちらの親族二家と、亡妻の実家である園部の人たちを、祥西願寺に招いて法要をすることになっていた。||畠中の三通めの手紙は長文であった。出府して以来まる三十日以上にもなるのに、いつ帰国できるかまだわからない。みれんなようだがそろそろ国が恋しくなってきた。という書きだしで、「川普請の実状を報告すれば、それで用は済むものと思っていたが、幕府の役向きとの交渉にひとやくかわされてしまった。江戸屋敷の者だけでなく、国許の者が加わっていれば、訴願にも
そこまで読んだとき、
「使いの者が待っておりますが、いかが致しましょうか」
「中はなんだ」と安宅がきいた。
「
「いま手が放せない」と安宅が云った、「あとで見るから受取っておけ」
沢井はなにか云いたそうにしたが、益村がまた手紙を読み続けるようすなので、しかたなしにさがっていった。
畠中は江戸の留守役である鶴井清左衛門について、かなり詳しく書いていた。「四十七歳にもなるのに、留守役としては新任者のようにしかみえない。酒が飲めないとは聞いていたが、本当に一滴も飲めないし、口のききかたもへた、少し
それを読みながら安宅もふきだした。城下の南小町にある料亭「兼しげ」の老主人は、帳場に坐っていつも自分の大きな鼻をいじっていた。その赤くて肉の厚い鼻を、擦ったりつまんだり、また鼻毛を抜いたり、鼻の穴へこよりを入れて、喉の裂けるようなくしゃみをしたうえ、「くそうくらえ」とどなる。そうしないと風邪をひくのだ、ということであった。||手紙にはなお江戸屋敷の消息がいろいろ並べてあり、幕府との交渉は容易にはまとまりそうもない、と結んであった。
安宅が手紙を巻いていると、また家扶の沢井がはいって来、自分はこれから寺へゆかなければならないが、使いの者をどうしようかときいた。
「使いの者」と云って安宅は振り向いた、「||なんの使いだ」
「さきほどの松茸と鮎でございます」
「それは受取ったのだろう」
「さようでございますが、使いの者がおめにかかりたいと申しますので」
なに者だときくと、御婦人であると答えた。どこの婦人かと問い返すと、衣笠の使いで来た者で、おめにかかればわかる、と云っているとのことであった。おりうだな、安宅はそう思い、とおせと云った。沢井が出ていってほどなく、おりうがあらわれた。誰かから借りたのだろう、着物も帯もひどくじみな品であるし、髪も化粧もごく目立たないようにしているのがわかった。
「あたし伺ったりしてわるかったでしょうか」とおりうは坐るとすぐに云った。
「そんなに固くなるな」と彼は笑った、「侍屋敷だって人間の住居に変りはない、坊主も来るし掛取りも来るさ、||鮎と松茸だそうだが妙なとり合せじゃないか」
「どっちもあんまりみごとなものでしたから、それに久しくおみえにならないし、どうしていらっしゃるかと思って」そしていつもの
「せっかくだが」と安宅は答えた、「今日は寺で法事があるから、まもなくでかけなければならないんだ」
おりうはじっと彼の眼をみつめた、「怒っていらっしゃるの」
「死んだ女房の法事なんだ」
「あたしのこと、なにかお聞きになったんでしょ」おりうは安宅の言葉を
縁側のほうから、若い家士の栗原が茶菓の盆を持ってはいって来、益村の脇へそれを置くと、おりうに会釈して去った。おりうはすり寄って盆を引きよせ、茶を
「昔こんなことがあった」と安宅は茶碗を取りながら云いだした、「||まだ少年のころだったが、好きな娘ができてね」
ちょうどあの庭のうしろに、その娘の家があった、と彼は手をあげて指さしながら、岡野さえとのいきさつを語った。いま益村家の庭は秋のさかりで、別棟になった数寄屋のまわりにある杉林の、黒ずんだ緑のあいだから、若木の
「その娘がふしだらだという告げ口は、二人や三人から聞いたのではなかった」と彼は続けた、「おれはまだ十八そこそこだったし、生れて初めての経験だから、辛抱しきれなくなって娘を問い糺した」
おりうは眉をひそめ、いかにも心が痛むというふうに呟いた、「可哀そうに」
「娘は弁解らしいことはなにも云わなかった、黙って、きつい眼つきでおれの顔を見まもったまま別れ、それっきり会わなくなった」彼は茶を啜り、茶碗を持ったまま、ちょっと息をついでから続けた、「||若いからおれは長くは悩まなかった、まもなく忘れたんだろう、そして二年ばかりのちに、その娘が尼になったと聞いてびっくりした」
藩の
「よく聞いてみるとほかにも事情があったようだ」と安宅は話し続けた、「||相手はわからないがみそめられて、どうしても嫁にゆかなければならなくなったという、下には弟が二人いるし、断わる口実がない、それで尼になったのだということだ、そのほうが実際の理由だったかもしれないが、おれにはそれだけだと思いきることができなかった」
「もちろんよ」とおりうが低い声で云った、「それはあなたの罪にきまってますわ」そして安宅をにらんでからきいた、「いまその方、どうしていらっしゃるんですか」
「五年ばかり京のほうへ修業にゆき、いまは戻って
「おきれいな方なのね」
「そういうこととはもう縁のない人だ」と云って安宅は顔をそむけ、さりげない口ぶりで呟いた、「||それ以来、おれは、噂やかげぐちでは、人の判断をしないことにしているよ」
おりうはうなだれて、安宅の言葉をあじわうかのように、独りでそっと頷いた。
「もうでかける時刻だ」と安宅が云った、「近いうちにゆくからこれで帰ってもらうよ」
おりうがたずねて来たことで、益村安宅の気持は少しはずんだ。けれどもそのあとで、はずんだ彼の気持に水をあびせられるようなことがおこった。祥西願寺は鶴尾山にあり、深い杉の森を隔てて藩侯の菩提所と接している。寺はその森に沿った石段の上にあり、本堂、講堂、
庄司の叔父は話し好きで、どんな席でも、また相手が誰であっても構わずに、自分の好きなことを勝手に
その叔父が園部の人たちを、例のとおり話のとりこにしていたとき、園部鎌二郎がはいって来た。彼は二男で、兄の金三郎とは腹ちがいで二十一歳、躯つきも顔だちも兄とは似ていないし、一族ちゅうの暴れ者といわれていた。||彼がはいって来たとき、益村安宅は鵜殿の叔父と話していたが、誰かがこっちを見まもっているけはいを感じて振り向いた。そして、園部鎌二郎が左手に刀を持ち、立ったままこっちを
「
金三郎が「鎌二郎」と制止した。とたんに彼は安宅に向かって指を突き出した。
「あんたはなんのためにこんな法要をするんですか、なんのためです」と鎌二郎が叫ぶように云った、「こうすれば世間や親族の者が、貞心の
安宅はまた鵜殿の叔父のほうへ向き直り、それまで話していたことを話し続けようとした。園部金三郎と一族の米村平太夫が立ちあがって、鎌二郎を押し出そうとし、鎌二郎はこんどは声いっぱいに叫んだ。
「生きている者はごまかされても、死んだ者のたましいはごまかされないぞ、
終りの言葉は、押し出された縁側から聞え、金三郎と米村に押されて、そのまま玄関のほうへ遠ざかっていった。誰もなにも云わなかった。ははあ、と安宅は思った。みんな鎌二郎の云ったことを正しいと思っているんだな、噂はここまで弘まっていたんだ、鎌二郎が亡くなった姉のたましいなどを口にしたのは、姉のたましいが問題ではなく、おれの不行跡をあばきたかったのだろう、それにしては絶好の席でありいい機会だったというわけだ。そう思って安宅はひそかに苦笑した。||庄司の叔父は園部の人たちとの話に戻り、鵜殿の叔父も安宅との話を続けようとした。婦人たちは婦人たちで、やはりなにごともなかったように、やわらかい声で話したり含み笑いをしたりしていた。
||孤立無援、
安宅は心の中でそう
||おれが交代留守役だからだ。
留守役は他藩との政治的な折衝や、御用商人との交渉がおもな役目であり、しぜん招待の応酬で酒席にのぞむことが多い。それは「役目」であり、自分が望んですることではないから、飲む酒もうまくはないし、女たちに興味をひかれることもない。けれども他人にはそうとは思えないだろう、はたの者からみれば酒は酒であり、遊興は遊興なのだ。そればかりではない、「かれらは御用商人たちから
||それが今日の席であらわになった。
こちらの親族はどうしようもなかったろう。だが園部一族はかたちだけでも詫びを云うべきである、金三郎と米村とは、ともかくも彼を外へ押し出していった。しかし、鎌二郎の云いたいことは云わせてからであった。おやじもこんなめに幾十たびとなくあったことだろう、それからあの祖父も、と安宅は思った。祖父が藩侯から皮肉を云われるほど庭に凝ったのは、そういう不快な、理由のない
客を送り出し、方丈に寄って用を済ませた。住職の徹心和尚は七十幾歳かになるが、安宅の差出した
「それ、||こんな法要はごまかしだ、と喚いていた若者よ」と和尚は云った、「おまえさんのほうへ指を突きつけていたが、眼つきは

「それは気がつきませんでした」と安宅は答えた、「どこから見ておいででした」
「あの男は弓をやるだろう」
「家中では五人のうちに数えられているそうです、しかしどこから見ておられたんですか」
「これで助かった」和尚は布施の金を掌でもてあそびながら、へらへらとそら笑いをした、「||これだけあれば塀が直せるだろう、このあいだの風でな、南側の塀が二十
益村安宅はいとまを告げた。徹心和尚は必要なときにいつでもつんぼになれる、自分の云いたいことだけは云うし、聞く必要のあることは聞くけれども、それ以外のことには決して耳をかさない。突然つんぼになり、どんなに大きな声を出しても、平気でしらをきりとおすのであった。
境内をぬけて石段にかかったとき、下から登って来るさえと会った。黒の法衣に白の頭巾をかぶってい、片手に白い
「暫くですね」と安宅が呼びかけた、ごく自然に声が出たので彼は自分でも意外だった、「お達者ですか」
「はい」さえは眼を伏せた、「||あなたも御壮健で」
言葉はそこで切れた。言葉をしまいまで云わないようなことは、昔はなかった。いつでも語尾をはっきり云う少女だったが、と安宅は思った。
「今日はどうしてこちらへ」と安宅がきいた、「ああ、清法院はすぐ隣りでしたね」
さえは静かに顔をあげて安宅を見た。もとから浅黒い膚だったが、陽にやけたのだろうか、その小さな細い顔は小麦色につやつやとして、意志の強そうな眼や、ひき緊った
「初めて山茶花が咲きましたので」と云いながらさえはまた眼を伏せた、「||御命日でもあり、お墓へ供えようと思いまして」
では亡き妻の墓参をしてくれようというのか、そう思って安宅は心が痛むのを感じた。心に痛みは感じたけれども、ふしぎに気持は軽くなった。||自分の誤解がもとで二人は別れ、そのあとお梶と結婚した。本来ならさえにとってお梶は恋がたきである、たとえお梶が亡き人になったとしても、女の気持としてはたやすくゆるせるものではないだろう。それをいまさえは墓参をし、供養しようとしている。安宅は気持の軽くなったのに気づくとともに、それまでさえのことが、そんなにも胸につかえていたのかと思って、われながらおどろいた。
「それはどうもありがとう」と云って安宅は会釈した、「||お宅のみなさんも御無事ですか」
「家族とは
「ああ」と安宅は空を見あげながら、無感動な口ぶりで云った、「それはめでたいですね」
なにかほかに云うことはなかったのか、十幾年ぶりかに昔の恋人と会って、ああそれはめでたいですね、とは芸がなさすぎるではないか、と安宅は思った。
「あたし今夜は酔うわ」とおりうが云った、「いいでしょ、飲んでも」
「その男ははらを立てていたらしい」と安宅が酒を
「なにを云いだすの」
「酔ってうっぷんをはらすつもりだったんだろう、村松庄兵衛という
「いやな方」おりうはふきだしながら安宅をにらんだ、「あたしお酒には強いのよ」
「酌はしないよ」と安宅が云った。
「お酌してちょうだい」おりうは盃を安宅のほうへ差出した、「||あたし六つぐらいのとき、お勝手でぬすみ酒をしたことがあるの、おじいさんの取って置きだったんだけれど、おいしかったわ」
いや、ほかに云うことはなかった、と安宅は思った。尼になっているさえに向かって、あのほかになにを云うことがあろう。昔の誤解を詫びても取返しはつかないし、慰めを云うのもそらぞらしい。やはり、弟に二人めの子供が生れたことを、祝うよりしかたがなかったであろう。それにしても、さえの目鼻だちはあのころと少しも変ってはいなかったな、と安宅は思った。
「そのひと芳村伊織っていうの」とおりうは話していた、「||三河以来の旗本で、代々八百石のお家柄なんですって」
「二千石じゃあないのか」
「やっぱり噂を聞いてらしったのね」
「二千石となるとね」安宅は酌をしてやりながら云った、「この藩では城代家老でさえ千石が欠けるからな」
「話を聞くのがおいやなんですか」
「べつに」と云って彼は片手をあげた、「話したいのなら聞きますよ」
おりうは打つまねをした。
彼女は男運が悪かったと云った。家は江戸の
「おかしいようだけれど、笑わないでね」おりうは酔いのために少し赤くなった頬へ、そっと手をやりながら云った、「||あたしの
躯に娘らしいまるみがあらわれるにつれ、自分の
「めぐりあわせってふしぎなものね」とおりうは云った、「女だということをそんなにも嫌ったあたしが、髪化粧をし派手な物を着て、女であることをひけらかして生きなければならなくなったのよ、その年の十一月、あたしは東両国の
「十五にもなれば早いとはいえないさ」
「あたし十七より下ではないって云われましたわ」安宅に酌をしながら、おりうはいたずらっぽく微笑した、「誰にも負けてはいないし、旦那にでもおかみさんにでも突っかかっていくから、十五やそこらの小娘とはみえなかったんでしょ、甚兵衛は二十日ばかりかよっただけでやめてしまいました」
安宅は庭を見た。
「甚兵衛をやめてから矢の倉の鳥万、
「そんなに喧嘩っ早かったのか」
「あなたは知らないのよ、お茶屋へ来るお客がどんなにいやらしいかっていうこと」おりうは手酌で飲み、膳の上を見て眉をしかめた、「あら、||お
「芳村という侍もその一人か」と安宅が盃を取りながらきいた。
「平河町へいくとすぐ」とおりうは答えた。
稲毛善兵衛というその料理茶屋は、周囲に旗本屋敷が多いので、客の大半は武家であった。おりうはうれしかった。おりうは小さいじぶんから侍にあこがれていたのだ。ふだん着に
「そのあいだに」と安宅がきいた、「||いい人はひとりもできなかったのか」
「ひとりも」とおりうは答えた、「おっ母さんにはできたのよ、あたしが十六になった春、呑んだくれの左官屋といっしょになったわ、躯がこんなに太って、どこもかしこもぶよぶよして、朝から晩まで呑んだくれていたわ、おおいやだ」おりうは顔をしかめて頭を振り、肩をすくめて身ぶるいをした、「いま考えてもぞっとするわ、女っていやなものだって、つくづくそう思ったものよ」
それで稲毛へ住込みにはいったのだ。
侍客の多い稲毛はおりうの気にいった。そうしてすぐに芳村伊織と会った。五人ばかりといっしょに来た芳村は、あびるほど飲んでもあまり酔わず、声もたてないでおりうを見ていた。ふと気がつくと、あたたかな、
「こんなこと云っていいのかしら、笑わないでね」
「珍らしいことじゃないさ」
「初めはほんとにそうだったの、正直に云うけれど、初めのころはあの人を見ると、ここんところに」おりうは下腹部へ手をやった、「ここんところの奥のほうに、ちょうど手を握ったくらいの大きさのものができて、それが生き物のようにぐうっと動くのよ」
「そんなことは云わないほうがいいらしいな」そう云って益村は酒を啜った。
「もうおしまいよ」とおりうが云った、「そんなことは初めの五たびか六たび、それからあとはうんざりだったわ」
お梶にもそんなことがあっただろうか、と安宅は思った。
「江ノ島へ三度、
そのとき障子の外で、「だいぶ評判がいいじゃないか」と云う声がし、すっと障子があいた。芳村伊織が、ふところ手をして立っていた。酔っているのだろう、おもながな、すっきりした顔が少し赤く、着ながしの裾がちょっと乱れて、粗毛の生えている
「この女には近よるなと云った筈だ」と芳村はふところ手のままで云った、「||そろそろ帰ってもらおうかな」
その次にいったとき、おりうはぶあいそで機嫌がわるかった。どうかしたのかときいても、初めのうちは返辞をそらして、女には自分で自分の気持をどうすることもできないときがあるのだ、などと云い紛らわしていたが、そのうちにふと坐り直し、眼を据えて安宅を見た。
「あんなふうに云われて」とおりうはなじるような口ぶりで云った、「どうしてなにか云い返さなかったんですか、どうしておとなしく帰ってしまったんですか」
安宅は眼を細めて庭を見た、「もみじが散ってしまったな」それからおりうに振り向いて微笑した、「||女でさえかなわないのに、男のおれにかなう筈はないじゃないか」
「なんのことを
「本当を云うと、あのときはもう帰りたくなっていたんだ」
おりうは彼をにらんだ。そのとき障子の外で「おねえさん」と声をかけてから、だんごがはいって来た。だんごは酒と肴をのせた盆を持っていて、安宅に笑いかけ、こっちへ来てその盆をおりうの脇に置いた。おりうは膳の上の徳利や皿をおろし、新らしい徳利や肴の皿小鉢を膳へ移した。
「先生」とだんごが呼びかけた、「この着物いいでしょ」
荒い
「うん、いいね」安宅は頷いた、「よく似あうよ」
「おりうねえさんにいただいたの、わりと似あうでしょ」
「よく似あうよ」
おかみさんもおわきねえさんも似あわないって云う、おわきねえさんが似あわないって云うのは、自分が欲しいからだと思う。だんごはそんなことを話し続けようとしたが、おりうに注意されると、盆を持って立ちあがり、なにやら残り惜しそうな動作で出ていった。
「おわきさんのお目付よ」おりうは安宅に酌をしながら云った、「みていてごらんなさい、こんどは自分でやって来るから」
「ちまらないことを気にするな、おわきはとちも三十だっちいうじゃないか」
おりうはふきだして「お上手だわ」と云った。安宅は眉をしかめながら酒を啜った。おわきの口まねをした自分の軽薄さに、自分でうんざりしたようであった。
「ねえ」とおりうが含み声で云った、「こんど袖ヶ崎へ伴れていって、ひと晩泊りで、いいでしょ」
「
「また話をそらす」
「知らないのか」
「
「袖ヶ崎へはいつかいこう」安宅は酒を啜って云った、「ついては本当の権八がどうして嫌いになったか、聞きたいものだな」
「聞いてどうなさるの」
「焼いて食うわけじゃないさ」と安宅が云った、「おりうほどの女が江戸から逃げだすくらいだったとすれば、相当ないきさつがあったと考えてもいいだろう」
「それが
「それでも江ノ島へ三度、大山へゆき、くるわがよいにも伴れてゆかれたんだろう」
「あの人は稲毛ではいい客の一人で、主人夫婦が守り本尊かなんぞのように大事にしていたものですから、お供をしていけと云われれば断わるわけにはいかなかったんです、||それに、||一杯いただいていいかしら」
安宅は頷いて、膳の上に伏せてある盃を取っておりうに渡し、酌をしてやった。
「それにまだそのじぶんは」と酒を飲んでからおりうは続けた、「||嫌いといってもそれほど嫌いじゃありませんでしたし、旅をするときには二人っきりではなく、ほかにも伴れがいましたから」
「話がきれいすぎやしないか」
「袖ヶ崎へいけばわからないけれど」と云っておりうは安宅をながし眼で見た、「あたしの躯はまだきれいですよ」
「そんなことを云ってやあしない、話のはこびがきれいすぎると云ったんだ」
「そこまではね」おりうは片頬で微笑し、手の中で盃をもてあそんだ、「||そんなことをしているうちに、お家が

「あれはあたしがはたちの年だったわ」おりうは安宅に酌をしながら云った、「いまからちょうど四年まえね、あの人がまっすぐにあるけないほど酔って来て、三河以来の家名が潰され、自分はいま知人のところで居候をしているって、ぐちをこぼしだしました」
庭で澄んだ鳥の声が聞えた。つぐみだな、と安宅は思った。さえの父の岡野久太夫は鳥を捕るのが上手で、捕った小鳥の幾種類かは自分で飼っていた。安宅には
「こんどはおまえの番だって云うの」とおりうは話し続けていた、「おれはおまえのために家名も侍の面目も投げだした、こんどはおまえが自分を投げだす番だって、そして、いきなりとびかかってあたしを押し倒したわ」
おりうは抵抗しなかった。躯の力をぬき、眼をつむって、されるままになっていた。芳村伊織は溺れそうになった人間のように、激しく
「刀ってこわいものね」おりうはぞっとしたように肩をすくめた、「||
おれに残っているものはおりうだけだ、芳村伊織は呻きながら、苦しそうに喘いだり身もだえをしたりしながら云った。おれはおまえをはなさないぞ、水の底、土の中、火の山へ隠れたっておれははなれない、おりうはこのおれのものだ、と芳村は繰返した。
「刀の刃を見てふるえだしながら、あの人がうわごとのようにそう云うのを聞いたとき、あたしは死びとの呪いを聞くように思いました、死んだ人が地面の下から手を伸ばして、あたしのことを
安宅はおりうに酌をしてやった。おりうが盃を口へ持っていったとき、声をかけておわきがはいって来、あちらでお呼びよ、とおりうに云った。おりうは盃の酒を飲みほして、あたしにですかときき返した。そう、あんたよ、ここはあちしがお相手をするからいっちらっしゃい、お座敷はいつもの菊よ、とおわきは答えた。いつもの菊と聞いたとき、おりうの顔色が変るようにみえた。おわきは安宅に一種の眼くばせをし、坐って
おりうは盃を置き、「お願いよおわきねえさん」と両手を合わせて云った、「今夜はあの人の顔を見たくないんです、すみませんけれど誰かに代ってもらって下さいな」
「あつらだって大事なお客よ」とおわきは安宅に酌をしながら冷たい口ぶりで云った、「それにあの方が、あんたのほかには誰もよせつけないっちことも知っちるでしょう」
おかしな
「あら、どうなしったんです」とおわきは眼をみはった、「あちしのお酌じゃあお気に召さないんですか」
「云いがかりをつけるな」立ちあがりながら安宅は苦笑した、「帰りたいから帰るだけだ、どうしても酌がしたければ屋敷まで来てくれ」それからおりうに向かって云った、「亡くなった母が云ったことだけれど、女はどんな
それから五日めに庄司家へ招かれた。
叔父の長男である祐四郎に二男が生れ、その七夜の祝いが催されたのである。五郎左衛門夫妻は
廊下で八歳になる長女のこそのをみつけ、産室への案内を頼んだ。なつは
「ごめんなさい、こんな恰好のままで」
「私こそ失礼しました、またあとでまいります」
「いいのよ」なつは微笑した、「もう五人の母になったんですもの、いまさら恥ずかしがってもしようがないわ」
安宅は坐って、なつの胸を見ないようにしながら祝いを述べた。彼女はあっさりした口ぶりで、おとうさまが子福者だから、自分たちもその筋をひいているのだろうが、このとしで五人もの子持になるのは気が重い、もうこの辺でおしまいにしたいと思う、などと云った。やがて眠った赤子を、並べて敷いた小さな夜具に寝かせると、彼女は
「ねえ安宅さん」なつは声の調子を変えて云った、「いちど伺って聞きたいと思っていたんだけれど、杉原さんとの縁談をどうなさるおつもりなの」
「この秋の初めのことですがね、大滝の上流で釣りをしていたんです」と安宅が云った、「どうしたわけだか
なつは「また始まった」といいたげな眼つきをしたが、黙っておとなしく聞いていた。
「そこへ畠中辰樹がやって来ましてね」彼は
「それでおよそのことがわかったわ」となつは云った、「つまりいまのところ安宅さんは、餌を付けない釣鉤というわけね」
「餌箱がからっぽだったんです」
「魚をよせつけたくないんでしょ」
「あなたはさきくぐりをなさりすぎる」と云って彼は微笑した、「私は釣りの話をしたまでですよ」
「もうひとつうかがうけれど」なつは彼の眼をじっとみつめ、声をひそめてきいた、「||衣笠に
安宅はちょっと当惑したようすで、眩しそうに眼を細めたが、すぐにそっと頷いた。
「そう、本当だったの、そう」なつの顔に心外そうな表情があらわれ、そこでさらに声をひそめた、「でもまさか、||その人を家へ入れようというつもりじゃあないでしょうね」
「そのときは御相談にあがります」
なつは口をあいた。もしもそうなったらの話ですと云って、安宅は彼女の詰問をそらすように
元の座敷へは戻らず、益村は若い家士に断わって、そのまま自宅へ帰り、独りで更けるまで酒を飲んだ。本当におりうを妻にする気なのか、と彼は自分にきいてみた。幾十たびとなくきいてみた。留守役という特殊な役目では、その妻の役割も一般とは大きい差があり、おりうならその役に耐える、ということは初めからみぬいていた。にもかかわらず、なつと話してから逆に、自分の気持が動揺するのを感じたのだ。
「もちろんさ」彼は冷えた酒を手酌で啜りながら、声に出して呟いた、「おれはもう若くもないし男やもめだ、杉原の娘は若いうえに初婚だし、留守役の妻は重荷だろう」
この城下勤めならどうにかなるだろうが、江戸詰めとなれば交際も多く、客のとりもちに慣れるだけでもなみたいていではない。おりうならこれらの条件にぴったりだ。
「面倒なのは芳村という男だが、これは片をつける手段があろう」と安宅はまた呟いた、「肝心なことはおりうの気持だ、||ひとつ袖ヶ崎へいったときにでも
おりうのほうから云いだしたことだ。本当に袖ヶ崎へいってみるとしよう、と益村は心をきめた。
十一月になるとすぐに、江戸の畠中から四通めの手紙が届いた。まえによこした便りのあと、ずっと鶴井清左衛門に付いていたらしい、どうやら幕府からの融資は許可されることになったが、そこまでこぎつけるのに、留守役がどれほど奔走し苦労したかを、実際にこの眼で見て驚嘆し、心から頭をさげた、ということが書いてあった。しばしば酒席を設け、遊里へ誘い、ときには
「まさかね」安宅は苦笑した。
杉原との縁談のことが書いてあるだろうと思ったが、それにはひとことも触れてはいず、安宅は
夕食を軽く済ませて出ると、外は雪になっていた。例年より半月以上もおそい初雪で、しかも積もるとは思えないくらい、僅かに白いものが舞っているという程度であり、いま降りだしたばかりなのだろう、まだ道も暗い土の色のままであった。||仁斎橋を渡って町人町へはいったとき、
「御無礼」と老人が云った、「雪が待ちきれないので一
老人はもういちど会釈し、笠をかぶって去っていった。
「いやな方、思いだし笑いなんかなすって」おりうは酌をしながら云った、「なにかいいことでもあったんでしょ」
「おりうも飲めよ、今夜は話があるんだ」
「珍らしいこと」おりうはすぐに盃を持ち、
「いいかわるいかはおりうしだいだ」
そう云いながら、安宅が酌をしてやった。おりうは神妙に、いただきますと云って一と口啜ってから、安宅の言葉を聞き咎めた。
「あたししだいって、||こわいようなこと
「いつか袖ヶ崎へいこうと云ったな」
おりうは安宅の眼をみつめてから、ゆっくりと頷いた。
「四五日うちにゆこう」と安宅が云った、「もちろん泊りがけでだ」
おりうは安宅の眼をみつめたまま、ちょっと息を詰め、そして静かにきき返した、「||それ、本気で仰しゃるんですか」
「いやならむりにとは云わないよ」
おりうは
「こわいわ、あたし」
「むりにゆこうと云うんじゃないんだよ」
「そうじゃないんです、ゆくのがいやじゃないんです」おりうの声はふるえた、「あたしのほうからお願いしたくらいですもの、
けれどもなんだかこわい、恐ろしいような気がする、とおりうはふるえ声で云った。もう少しいただいていいかしら、あたし躯のふるえが止まらないんです。いいとも、飲むのは構わないが、酔いを借りた返辞は信じないぞ、と安宅が云った。
「いつだったか、あなたは」と盃に三つほど飲んでからおりうが云った、「||女のおまえにできないことが、男のおれにできるかって仰しゃったわね」
「そうだったかな」
「あの人がここへ文句をつけに来たあとのことよ、あなたはなにも云い返さずに、黙ってお帰りになったわ」とおりうは云った、「どうしてなにも云わないままでお帰りになったのかって、あたしがうかがったら、そう仰しゃったわ」
「つまらないことを云ったもんだな」
「いいえ、つまらないことなんかじゃありません」おりうはかぶりを振った、「あたしはあの人に、はっきりけじめをつけなければいけなかったんです、それをそうしないで逃げてしまった、あの人の執念には勝てないように思ったからです、小さいときから自分は男まさりで、どんな相手にも負けないつもりでいたのに、あの人にだけはどうにも立向かえない、っていう気持からぬけられなかったんです」
「いまでもぬけられないのか」
おりうは首を振り、微笑した、「この土地へ来て、あなたにお会いしてからはね、||いまのあたしは誰にだって負けやしません」
安宅が「それはいさましいな」と云おうとしたとき、廊下でなにか
「旦那が自分で釣って、自分で料理したんですって」だんごはそこへ坐って説明した、「たまごっていう魚で、白焼にして干したのをまた煮たんです、
「もういいわよ」とおりうは盆を引きよせながら制止した、「こっちをさげてちょうだい」
だんごはつんとして出ていった。
「ここもいにくくなるばかりだわ」と云っておりうは酒と肴を膳に移した、「旦那やおかみさんまで、あたしがあなたのことをどうかするかと思ってるのよ、どうしてかしら、あたしってどこへいってもそねまれていにくくなるの、どうしてでしょう」
「まだ降っているかな」安宅は立って、庭に面した障子をあけ、降っているというだけだな、と呟いて障子を閉め、こっちへ来て坐りながら云った、「||ここへ来る途中、仁斎橋のこっちで老人と会ったんだ」
「あたししんけんなのに、またはぐらかすんですか」
「老人は息が匂うほど酔っていた」と安宅は構わずに続けた、「そしてこう云うんだ、||雪のくるのを待っていたが、待ちきれなくなって飲みに出た、ところが飲むだけ飲み、いい心持に酔って帰ろうとしたら、そこで肝心の雪が降りだした」
「またはぐらかすのよ」
「それが本当のことなんだ」安宅は喉で笑った、「そうして老人は、さも不服そうに云ったよ、これはいったいどういうつもりのものか、一向にわけがわからないってね」
おりうは彼をにらんだ、「それを仰しゃりたかったのね」
「雪が降るのにどういうつもりもないだろう、おりうがいにくくなるのも自分の気のもちようじゃないのか」と彼は穏やかに云った、「このうちの者たちはみなおれのことをよく知っている、ことにあるじ夫婦はよくできた人間だ、遠い江戸から来ているおりうに、辛く当るようなまねはする筈がないよ」
おりうは眼を伏せて、暫くなにか考えていたが、ふいと自分の盃に手酌で酒を注ぎ、眼をあげて安宅を見た。
「いつ袖ヶ崎へ伴れていってくださるの」
「こっちはいつでもいい」
「では」と云っておりうは指を折って日を数えた、「そうね、では、||あさってにしていただけるかしら」
「いいとも」頷いてから、安宅は思いだしたように箸を取って、膳の上を見た、「||忘れないうちに箸をつけておこう、たまごっていう魚だそうだな」
「あたし魚のことはなんにも知らないんです、旦那が釣って来たのは夏のはじめごろでしたわ」
安宅は皿の魚を見て笑った、「やまめだ、||あまごともいうが、あのちびのやつ、たまごとはねえ」
その夜はいつもより早くひきあげた。それでも九時ごろにはなっていたろうか、雪はやんでいたし、道は白く
||なにか祝いごとでもあるのだろう、と安宅は思った。この男は酒くせが悪いので
いずれ知人の集まりだろうのに、こんなめにあわされるのはよっぽど悪い酒に相違ない。それにしても紋服袴という姿で、雪と泥の上に坐りこみ、わけのわからないことを喚きたてているようすは、気の毒というよりもむしろ滑稽であり、
「面白いですか」と安宅のすぐうしろで声がした、「それともあなたの知り人ですか」
振り向いてみると芳村伊織だった。羽折もなしの
「あなたに話がある」と云いながら芳村はついて来た、「そこまで来てくれませんか」
「あるきながら聞こう」と彼は云った。
「いい場所があるんですよ、このすぐ向う裏ですがね」そう云いながら、芳村はすばやく安宅の前へまわった、「てまはとらせません、ついそこだからつきあって下さい」
前を
「あの炭屋の
安宅はまだ相手の顔をみつめていた。
「仮にあなたが不承知でも」芳村は微笑を
安宅は芳村から眼をはなして、空を見あげ、町の左右を眺めてから、僅かに頷いた。芳村はどうぞお先にと云って道をひらき、安宅はあるきだした。降りそびれたためか気温が低く、道に積もった薄雪は、踏みしめる草履の下でかすかにきしんだ。芳村のいう炭屋の角を左に曲ると、かなり広い
「私はあなたに忠告した」うしろからついて来ながら云った、「あなたは忠告をきくべきだった」
「おれのためにか、それとも自分のためにか」
「あなたのためにです」
芳村はそう云った瞬間に、うしろから安宅の背へ抜打ちをかけた。安宅は背中に危険を感じ、大きく跳んで振り返ると、芳村が二の太刀を打ちこんで来た。安宅はすばやく右へまわりながら抜き合わせたが、右足の
「あなたはおりうと袖ヶ崎へゆく約束をした」と芳村が冷たい声で云った、「しかも泊りがけでね||だがそうはさせない」
「だから
「いまの私には、侍の作法や面目などは縁がないんだ」と云って芳村は笑った、「||もっと卑劣な闇討ちだってできたんだぜ」
益村安宅は
ずっとあとになってからも、そのときの背筋からそうけだった気持は、思いだすたびにそのときそのままの感じで、益村安宅の感覚を
安宅は自分の激しい呼吸の音を聞いた。だが芳村伊織の呼吸は聞えなかった。こいつは冷静だ、と安宅は直感した。氷のように冷静であり、おまけに馴れている。こんなことはこれが初めてではないだろう、腕がたつうえに幾たびも経験している、とうていおれのかなう相手ではない。||ほんの一瞬間のことではあるが、安宅はこれらのことを紛れなしに感じとった。
「おれの負けだ」と安宅はふところ紙を出して刀にぬぐいをかけ、
「こっちは本気なんだ」と芳村がするどい口ぶりで云った、「待ってやる、立って抜け」
「おれの親類に園部鎌二郎という若者がいる、おれの死んだ妻の弟で」
「ごまかすな、その口にはのらぬぞ」
「そう思うなら斬れよ、どんな卑劣な
「それがどうした」
「べつに」と云って、安宅は薄雪の上へ坐ったまま肩をすくめた、「||鎌二郎は実際には抜かなかったが、今夜は本当に斬られるらしい、そうなんだろう」
芳村は答えなかった。
「二度あることは三度というが」安宅は大きく
「おりうから手をひくか」
「斬るんじゃないのか」
「これが最後だ」と芳村は
安宅はじっと相手の眼をみつめた、「誓う、と云ったら信用するか」
「そっちは侍だからな」
安宅はまた溜息を吐き、眼を伏せた。殺意はもうぬけた、この男にはもうおれを斬ることはできない、と安宅は思った。
「刀をしまってくれ」と安宅は穏やかに云った、「刀を突きつけられたままでは返辞はできない」
芳村は一と足うしろへさがり、刀をよくぬぐって鞘におさめた。安宅は静かに立ちあがり、着物のうしろを払った、
「さあ聞こう」と芳村が云った。
「まだだな」安宅は首をそっと振った、「おまえさんにはおれのことがわかってるようだが、おれにはおまえさんのことがなんにもわかってはいない、あの人からあらましのことは聞いたけれども、おれは人の話を信じてひどい失敗をしたことがあるんだ」
芳村伊織は鼻でふんといった、「身の上ばなしでもしろというのか」
「おれはあの人を妻にしようとさえ思っているんだぞ」
芳村は仰向いて夜空を見あげ、それから益村安宅のほうへ振り向いた。
「立ち話もできないな」
「すっかり酔いがさめてしまった」と安宅が云った、「あったかいところへいきたいな」
「衣笠へでも戻るか」
「そこもとの住居にしよう」
芳村はすぐには答えなかった。
「住居はあるんだろう、聞く耳のないところがいいと思うんだ、
「こじきごや同然ですよ」
「酒を買っていこう」と安宅が云った。
芳村の住居は川端と呼ばれる裏町で、古い長屋がごたごたと並び、はだら雪のほの白さが、それらをいっそううらぶれた、みじめな眺めに仕上げているようであった。ろじを突き当った向うに珂知川が流れているのだろう、横丁からそっちへはいってゆくと、流れの音がかすかに聞えて来た。芳村はその長屋の一軒の前で立停り、ここですと云って、雨戸をあけにかかった。たてつけが悪くなっていて、雨戸はなかなかあかず、すると、右隣りの家の戸があいて、お帰りですか、と女の呼びかける声がし、あたしがあけてあげますよと、その女が出て来ようとした。
「ありがたいがやっとあいたよ」と芳村は女に向かって云った、「もう馴れてもいいじぶんだが、この戸にはいつもてこずる」
「お客さまですね」隣りの女がこっちを
芳村は礼を云い、益村安宅を見て、あいた戸口へ
「或る町かどへ来る、左側になにかの商家があり、窓の下に
「残念ながら代々の家柄でね、そういう
「初めておりうに会ったとき、私は同じような気持を感じてどきっとしたものです」
火鉢には炭火がよくおこっていた。隣りの女房が火だねを持って来て、自分でおこしていったものだ。三十がらみのはきはきした、いかにも
「おりうは自分が女だということを、しんそこいやらしく思っていた、私と会っているときには特に、女として扱われるのを嫌いました」
胸がふくらみはじめたとき、それを切って捨てたかったと、おりうの口から安宅は聞いたことがある。自分の躯に娘らしいまるみがついてくるにつれて、まるで誰かにけがされ、革袋が腐ってでもゆくかのように思えた、とも云っていたようだ。
「私はどうかしておりうに、女らしい気持をよびさまそうとして、できる限りの手をつくしました」と芳村は続けた、「||単に好きだというだけだったら、身をほろぼすまで溺れこみはしなかったかもしれない、だが私の場合はそうではなかった、女として扱われるのはもちろん、女とみられることさえ極端に嫌うおりうの心のしこり、||
あたし小さいじぶんからお侍にあこがれていました、とおりうはいつか話した。平河町の料理屋へ移ったとき、そこは侍客が多いのでうれしかったという。そしてこの男とめぐりあったのだ。おちぶれてしまったいまでも、この男はなかなかの人品であり、さほどよごれた感じは身についていない。さっき見た隣りの女房でも面倒をみているのか、着ている物もさっぱりとして、仕立て直しではあろうが、きちんと折目がついていた。おそらく、おりうと初めて会ったころは、相当ひとめをひく男ぶりだったに違いない、と安宅は思った。
||この男にも父母があり、友人があり、親族があった、式服をつけて江戸城へ登ったこともあろうし、学問をし武芸もならったことだろう、と安宅は思った。世襲の役がなかったにしろ、やがてめざましく出世したかもしれないし、平凡に妻をもらい子を
芳村伊織は語り続けていた。彼もまた湯呑で冷や酒を飲み、ときたま小皿に分けてある味噌を、箸の先につけて舐めた。彼の話の大部分は、おりうからすでに聞いていたものだ。けれどもそれらの話から受ける印象はかなり違っていた。おりうの話が反物をひろげたようだとすれば、芳村のほうはその反物を裁ち、身丈に合わせて縫いあげるような感じであった。
「家が
おりうは侍にあこがれていたし、初めて出会ったころの芳村は、まわりの者より際立った男ぶりだったに相違ない。その二人がどうして合わなかったのか、芳村伊織のどういうところがおりうに反感をもたせたのか、ただ性分が合わなかったというだけだろうか、と安宅は考えた。
「或る晩、私はひどく酔っておりうに会い、自分はおまえのため裸になった、こんどはおまえの番だ、おりうはこのおれのものだぞ、と云いました」と芳村は続けていた、「||するとおりうは、あたしはものではない、人間だと云い返しました、あたしは誰のものでもないし誰のものにもならない」
芳村はそこで口をつぐみ、次に云うことをどう表現したらいいかと迷うように、壁の一点をみつめたまま暫く黙っていた。その話はしなくともいいよ、と安宅は心の中で呼びかけた。酔っていたそこもとはおりうにとびかかって、彼女の着ている物を
「おりうはそう云いながら、自分も乱暴に酒を
風のぐあいだろうか、長屋のうしろのほうで聞える川波の音が、まえより少し高くなったように思えた。おりうはそのことは云わなかった。さむざむと肌にしみるような川波の音を聞きながら、安宅はそう思いだした。芳村を殺そうと思ったが、刃の光を見て恐ろしくなったとは云った。けれども心中しようと云い迫った、などとは話さなかった。待てよ、そこになにかあるぞ。この芳村は言葉を飾るような男ではない、またこの場合そんな必要は少しもないだろう。とすれば、おりうが心中を迫ったというのは事実だと信じていい。ではどうしておりうは二人で死ぬ気になったのか、||そこだな、そうだと安宅は考えた。稲毛という麹町のその料理屋で芳村と出会ってから、おりうは自分の躯の中で初めて、女らしい感情がめざめたようだと云った。こうしてひところは芳村の顔を見るだけで、からだの奥になまなましい変化がおこる、とさえも云っていた。それがいつからか嫌いになり、芳村と聞くとうんざりしたという。どこかで糸が切れたのだ。二人をつないでいた糸が、どこかで、なにかの理由で切れたのだ。なにかの理由で、と安宅は考えていた。
「そしておりうは私から逃げはじめました、稲毛の店を出てからここへ来るまで、同じ店に半年といたことはありません。どこをどう逃げて来たかは云う必要がないでしょう、ただ、これだけは知っておいて下さい、おりうは逃げだすたびに、ちゃんと足跡を残していったものです」
安宅は眼をあげて相手を見た。自分の考えにとらわれていた彼の耳が、いつも足跡を残していったという芳村の言葉を聞きとめ、注意力をよびさましたのだ。
「そのとおりなんです」と芳村は安宅の眼に
甲の店から乙の店へ移るとき、おりうは甲の店の者に「ないしょだ」と断わって乙の店のことを告げてゆく。乙から丙、丙から丁へと、店を変えるたびに必ず、「これは誰にも云わないでね」と云って、次にゆく店のことを告げたというのだ。
「仲のいい
芳村の話しぶりはこのあたりからたどたどしくなった。それは話の内容を的確に云いあらわすため、言葉を選んでいるというようでもあり、また、話に独り
「おりうは決して男には
珍らしいことではない、そういう性分の女はどこにでもいるものだ。もともと女には、多少の差こそあれそういう本性があるのではないか、と安宅は思った。安宅がそう思うであろうことを予期していたかのように、芳村は唇を
「わかっています、私の話はありふれていて、あなたには興味もなしさぞ退屈でしょう」と芳村は云った、「けれども、あしかけ四年ちかいあいだ、私は自分の眼でそれを見てきたのです、骨の髄までとり憑かれてしまい、家名も、侍の誇りまでも投げ捨ててしまった男が、あしかけ四年ちかくも
「べつに退屈ではないが」安宅は冷や酒を
芳村伊織はそっと首を振った、「ええ、待つこと以外にはね」
「待つとは、なにを」
「初めてあなたに話しかけたとき」と芳村は力のぬけた調子でゆっくりと云った、「あの女のために身をほろぼした男が幾人もあった、と云いました、実際に身をほろぼした男が幾人もいたのを、私は知っているんです」
益村安宅がきき返した、「なにを待っているのか、とおれはきいたんだよ」
「これまで話したことで、察してもらえると思ったんですがね」
「おれは銭勘定をする商人のように、現実的な人間だと云った筈だ、想像や推察でものごとの判断などはしないよ」安宅はちょっと皮肉な口ぶりで云った、「けれども、男がそんなに長いあいだ、一人の女を思い詰めていたということは信じかねるな」
「世の中には、あなたの思いもよらないような人間や出来事が、幾らもあるものです」
「なにを待っているか、という返辞はまだ聞けないのかね」
芳村は一升徳利の酒を、二つの燗徳利に移した。安宅と同じように、芳村もあまり量は飲まないらしい。半
「自分を弁護するわけではないが」と芳村は云った、「おりうのために身をほろぼした者がいること、おりうには近よらないほうがいいと、あなたに忠告したことに嘘はないんです」
「それならどうして袖ヶ崎へゆかせなかった、たとえ身をほろぼす男がもう一人できても、そこもとには関係のないことだろう」
芳村伊織は十拍子ほど黙っていて、それからおもむろに云った、「嫁菜という草がありますね、こちらではなんというか、江戸にいたころ野がけにいって摘んできて、浸し物にしたり、めしに炊きこんだりして食べた覚えがあります」
「ここでも嫁菜というのはあるよ」
「だがそれは、春の双葉のころだけです、秋になって紫色の花が咲くころには、野菊と呼ばれるようになるのを知っていますか」
「そいつは知らなかった」と云って安宅は相手の顔を見た、「本当だろうな」
「おりうもそうなりかかっているんです、ちょっと待って下さい」芳村はいまこそ言葉を選ばなければならないというように、手酌で湯呑に酒を注ぎ、一とくち啜ってから、両手で持った湯呑を膝におろしながら云った、「いい寄ってくる男を手だまにとっていたおりうの中に、変化が起こりだしたんです、おりうも今年で二十四になりますからね、あたりまえなら子供の二人や三人はあってもいいとしごろです」
嫁菜が野菊になるようにか、と安宅は思った。おまえさんもまた、昔のおまえさんのままでいたわけじゃあないだろうし、ものごとをそう
「失礼になるかもしれないが、袖ヶ崎へゆくのは益村さんでなくってもよかったと思う。おりうにとっては、好ましい相手なら誰でもよかったと思うんです」
「これは手きびしい」
「私にあてつけたいんです、自分が女だということをしんそこ嫌っていたおりうの中に、自分が女だったということをめざめさせたのは私でした、こんな思いあがった、きざなことを云うのを勘弁して下さい」芳村は気まずそうに眼を伏せ、すぐにゆっくりとその眼をあげた、「||おりうはたぶんあなたにも、この芳村伊織が嫌いだと云ったでしょう、どこでもそうだったんです、嫌いというより憎悪し、軽侮していた、そのくせ逃げだすときには必ず、ゆく先のわかるようにしていたんです」
「おりうが私から逃げ、私を憎んだり嫌ったりするのは」と芳村はさらに低い声で続けた、「||私がおりうに、自分が女だということを悟らせたためです、そして、おりうが嫌ったり憎んだりしているのは、この私だけではなく、小さいころから女でありたくない、という自分の心のしこりそのものでもあると思うんです」
益村安宅は暫く考えていたのち、芳村の顔を見ながら反問した、「もしそれが事実だと信ずるなら、おれと二人を袖ヶ崎へやって、ためしてみてもよかったんじゃないか」
芳村は極めてゆっくりと首を横に振った。
「それだけの自信はなかったのか」
「人間にはでき心というやつがあります」と芳村は答えた、「また、おりうはあなたに対しては、もう女になっていますからね」
安宅は酒を啜ってから、ふと眼をつむった。幾たびかしがみついてきたおりうの、熱いような躯のほてりや、ときとすると強く匂った
「よけいなことをきくが、いまなにをしてくらしているんだ」
「用心棒です」
安宅は不審そうな顔をした。
「
「それに、あれだけの腕があればな」
「腕ですって、冗談じゃない」
「むろん冗談じゃあない」と云って安宅は酒を飲んだ、「さっきあの空地でみたが、おれにはまったく勝ちみがなかった」
「冗談を云わないで下さい」芳村は苦笑いをした、「私のは実地に斬りあっただけの、法もなにもない乱暴なものです、私のほうこそ、あなたに抜き合わされたとき、これはしまったと思いました」
安宅は笑った、「お互いにおくゆかしい話になってしまったな、||ついでにもう一つきくが、仮におれが身をひき、そこもととおりうと無事に結婚したとして、そのあとどうしてやってゆくか、思案はついているのか」
「なんにも」と芳村は答えた、「||しかしおりうといっしょになれば、なにかが始まるだろうとは思っています、ここまで落ちればどん詰りですからね」
安宅はなにか云いかけたが、思いとまり、
「相談があるんだ」安宅はそう云ったが、そこでまた自分の言葉を否定するように首を振り、「いや、その必要はないだろう」と湯呑を膳の上に置いた、「||もしも用事がないのなら、このままここにいてもらいたいんだがね」
「べつにでかける用もありません」
「それはよかった」
「というと、ここへ戻って来るんですか」
ことによるとね。そう云って安宅は、刀を取って立ちあがった。
外はまたさざめ雪が降りだしてい、ろじから横丁まではそれほどでもなかったが、表通りの道はまっ白になっていた。ふだんより酒を飲みすぎているせいか、寒さは感じなかった。そうかもしれない、と益村安宅は心の中で呟いた。おりうが嫌っているのは、自分の心のしこりだと芳村伊織は云った。安宅はそれを聞いて、こじつけだと感じた。あんまりうがちすぎている、塗りの剥げた鞘を見て、あの刀身はなまくらだと鑑定するようなものだと。けれどもいま、彼は考え直してみて、自分の感じたことが疑わしくなった。
「そうかもしれないな」あるきながら彼は声に出して呟いた、「慥かにおりうは女になりきっている、したたるような
安宅は顔にかかる粉雪を手で払いながら、意味ありげな微笑をうかべ、口の中でなにやら呟いてから足を早めた。そんな時刻にあるいたことのない街であり、両側の家並はみな雨戸を閉めているため、自分が目的の方向へあるいているのかどうかわからなくなった。そのとき町角に赤い
「あつ
老人は唇を歪め、無遠慮に安宅の恰好を見あげ見おろしてから、きせるをはたいて、お武家さんですねと云った。
「ああ、川普請の係の者だ」と安宅はあっさりと云った、「ばかに静かじゃあないか」
「あいのときといいましてね」老人は酒を徳利に移し、湯のたぎった
「ここへ来るのは初めてなんでね」
「何番方へお詰めですか」
「やぼな吟味をするじゃないか」
「お取締りがきびしいもんですからね」
「そいつはいい心掛けだ」と云って安宅はきまじめに
「そののれんにあるとおりです」
安宅は振り向いて見た。
「熱すぎましたかな」と老人は云った。やはり人をこばかにした顔つきで、唇のあたりに
「燗にはやかましいらしいな」と安宅は穏やかに笑い返した、「勘弁してくれ、知らなかったんだ」
「酒は燗のぐあいで生きもし死にもします、むろん御存じでしょうがね」老人は次の徳利を銅壺へ入れながら、ぶあいそに云った、「私ああつ燗で飲むような酒は、昔っから置いたこたあねえんですよ」
「おそれいった」安宅はにこっと笑った、こんどはあいそよく眼を細めて、「なにしろこっちは、酒にはしろうとなんでね」
そして急に、安宅の顔がひき緊った。どういう連想作用かわからないが、弥六というその老人との短い問答のあいだに、おりうの本心をどうしたら突き止められるか、ということを思いついたのである。彼はふところから銭入れを出し、小粒銀を一つ、つけ板の上に置いて老人に笑いかけた。
「こんどはじいさんの燗で飲むよ」
「そんな」と老人は小粒銀を見て眼をみはった、「お武家さん、そんな金につりはありませんぜ」
「燗の伝授料だ、つりはいらない」と安宅は云った、「あとの一本は
屋台店から出ると、雪は小降りになっていた。一町ほどゆくうちに林昌寺の鐘が鳴りだし、その音を数えて「十一時だな」と安宅は呟いた。「衣笠」の表は閉まっていた。彼は裏へまわりながら、地面から泥と雪を取って、顔や着物にこすりつけ、髪の毛を二三十本ばらっと顔へ垂らした。
「博奕だな」黒板塀の勝手口を叩きながら、安宅はそっと呟いた、「うまくゆけばいいが」
もちろん勝手の者はまだ寝てはいない、まもなく返辞が聞え、勝手口の油障子をあけて誰か出て来た。くぐり戸の向うへ来たのは男の声で、わかったよ、そう叩くな、みんなに聞えるじゃねえか、と云った。
「益村安宅だ」と彼はひそめた声にちからを入れて云った、「ちょっとおりうを呼んでくれ」
「益村の旦那ですか」相手は
「おりうをここまで呼んでくれ、いや、中へははいれない、いそぐんだ」
ただいま、と答えて男は戻った。
「佐助だな」と安宅は呟いた、「これからぬけ遊びにでもゆく約束があったんだろう」
板前の佐助はもう四十のとしを越している、躯こそ小柄であるが、なかなかのおとこまえであるし、
「そう叩くなよ、みんなに聞えるじゃねえか、か」と呟いて安宅は微笑した、「佐助には佐助の生きかたがあるんだな」
勝手口に提灯の光があらわれ、下駄の音といっしょにこっちへ来た。
「まあさまですか」とくぐり戸のところでおりうの声がした、「どうなすったんですか」
「こっちへ来てくれ」と安宅が云った。
おりうがくぐり戸から出るまでに、彼は刀を抜いていた。出て来たおりうは、提灯をかかげるなり、口をあけて「あ」と息をひき、片手でその口を押えた。雪泥にまみれ、さんばら髪で、抜き身の刀を持っている安宅の姿が、片明りの提灯の光のため、実際よりもはるかにすさまじく見えたらしい。
「驚かして済まない」安宅は右手に持った抜き身の刀をひらっと動かした、「これからいっしょに逃げてくれないか」
おりうは
「あいつを斬った」
「斬った」おりうはけげんそうに安宅のようすを見た、「なにを
安宅はふところ紙を出し、念入りに刀身をぬぐった。
「あいつが騙し討ちをしかけた」と彼は白刃をみつめながら云った、「それで斬った」
おりうはまた大きく息をひき、それからふるえ声で、「あの人をですか」ときいた。
「芳村伊織をだ」と安宅は答えた、「浪人者でも人間ひとりを斬ればこの土地にはいられない、いっしょに逃げてくれ」
「あの人を斬ったんですか」おりうの手から提灯が落ちそうになった、「あんな気の弱い、可哀そうな男をあなたは殺しちまったんですか」
「向うが騙し討ちをしかけたんだよ」
「あなたほどの方が、騙し討ちをしかけるようなみれんな男を、斬ったんですか」とおりうは叫んだ、「女ひとりのために身をほろぼしたあげく、こんな遠い田舎の城下町まで追って来て、うろうろ付きまとうようなだらしのない男を、情け
「おまえもそれを望んでいたんじゃあないのか」
「あたしがですか」
「そうじゃあなかったのか」
「ああ」おりうは悲鳴をあげ、片手で安宅の着物の
「川端町の裏長屋だ」安宅は小突かれてうしろへさがりながら云った、「||まだ死んではいないかもしれないよ」
「じゃあ生きているっていうんですか」
「わからない」と安宅はあいまいに首を振った、「だがおりうはおれと、いっしょにゆく筈じゃあなかったのか」
おりうは敵意のこもった眼で安宅を
「
畠中辰樹が江戸から帰ったのは正月の八日であった。元旦の登城から八日まで、益村家には客が絶えず、畠中が帰藩の挨拶に来たときも、鵜殿の
||あら、あなたにも挨拶なしにですか、ひどいしとだこと、とおわきが云った。お帳場からも来月分のお手当までそっくり持っていったんでしってよ。
||あっぱれだな、とそのとき安宅は云った。嫁菜が野菊になったんだ、この衣笠ならそのくらいの損はすぐに取り返せるさ。
嫁菜がどうしたんですか、とおわきが問い返した。安宅は笑って答えなかった。
九日は城代家老に招かれた。相客が十人あまりあったし、「衣笠」からも料理人が呼ばれ、日の
「おい、もうそろそろぬけだそうじゃないか」うしろから
振り向くと畠中辰樹であった。知らなかったので安宅はおどろいて眼をみはった。
「いつ来たんだ」
「初めからさ」と云って畠中は末席のほうへ手を振った、「身分が違うからな、あっちの隅でおそれいってたんだ」
「江戸のほうの結果はどうだ」
「うまくいったさ、知らなかったのか、とにかくここを出よう」
安宅は隣りにいた
「だめだ」安宅は手を振った、「今日は料理人がみな城代の屋敷へ雇われて、あの店は休んでる筈だ」
「では兼しげにするか」
「食うのも飲むのも今夜はもう飽きた、うちへいって茶にしよう」
残念だな、せっかく軍資金があるというのに、畠中はそう云ったが、おとなしく安宅についてあるきながら、旅の途中の宿で、女客が他の客の座敷へ忍びこみ、金を盗もうとしたのがみつかって、夜なかに大騒ぎをした、などという話をした。病気の亭主を抱えた旅先で、宿賃も
「まだ若いきれいな女だったがね」
「あとはどうなった」
「主人が客座敷をまわって心付を集めた」と畠中が云った、「親切なあるじだったが、客の一人が女の
おりうではないな、自分を云いくるめるように、安宅は心の中で首を振った。芳村という男もそんなおろか者ではないようだし、おりうはなおさら、そんなことのできる性分ではない。まったく違う人間だ、と彼は断言するように思った。
「畠中は滝口っていう言葉を知っているか」
「話の腰を折るじゃないか」畠中は振り向いて安宅を見た、「それがどうした」
「知っているかときいたんだよ」
「滝の落ち口のことをいうんだろう」
「そのとおり」安宅はにっと微笑した、「||珂知川の上流に十三の
「なんの話だ」
「合ったり離れたりして来たその流れが、滝口のところで一つに
あの夜「衣笠」の裏手から、狂ったように走りだしていった、おりうのはだしの姿を思いだしながら、なにかをいとおしむように、もう一度やわらかな微笑をうかべた。
「おまえ酔っているのか、益村」
「らしいな」と安宅が云った、「だから杉原の縁談のことなんぞもちだしっこなしだぜ」
畠中は振り向いて睨みつけたが、安宅はぜんぜん気がつかないようであった。