「やはりそうですか」と孝也が
道円は聞えなかったように、じっと、
唇の厚い、眉毛の太い、酒焼けで
「間違いありません」と道円は云った、「お気の毒ですが、もう間違いはありません」
孝也は足袋のこはぜをしっかりと掛け、坐り直して医者の眼を見た。
「すると、期間は、どのくらいですか」
道円は「さよう」と云って、庭のほうへ眼をやり、それから煙管を詰め替えて、またいっぷく吸いつけた。
「さよう」と道円は云った、「人によって違うが、このようすだと、おそくとも一年、早ければ百日、······百日より早いことはあるまいが、一年よりおそくはないと思います」
孝也は
「||百日、というと、み月ばかりですね」
「人によって違うから、むろん断言はできません」と道円は云い、初めて孝也を見た、「それに、私がそう診たてたというだけで、診たては医者によっても違うし、人間の
「ほかにはもう、なにか」
云いかけて孝也は黙った。道円が彼を見た。孝也は首を振った。
「いや」と彼は口を濁した、「ではもう、あの薬を塗るだけでいいのですね」
「痛みがひどくなったら、そのほうの薬を調合しましょう」と道円が云った、「また変ったことがあったら来てみて下さい」
孝也は礼を述べて立ちあがった。あとから道円が送って来た。明るい二月の陽の
「まだ梅が咲いていますね」と孝也が云った。
「あれはばか梅で」と道円が云った。
辞去して門の外へ出ると、非常な力で緊めつけられるように胸が苦しくなり、呼吸が詰って、われ知らず孝也は
「覚悟していた筈じゃないか」と彼は
彼は立停って空を見あげた。よく晴れた空に、白い綿雲が幾つか浮いていた。孝也の眼はそれを見ながら、なにも見てはいなかった。胸に大きな空洞があいて、そこを冷たい風が吹きぬけてゆくようである。彼はまた激しく喘ぎ、首を振って歩きだした。
||坪田へゆかなければならない。
頭の中でそう思いながら、孝也は反対のほうへ歩いた。形容し難いほど重い荷を背負っているような、危なっかしい歩きぶりである。冷たい
||坪田へゆかなければならない。
頭の中でまたそう思った。小泉村の坪田与兵衛のところへ、地境の事で話しにゆく筈であった。しかし彼は(そう思いながら)やっぱり小泉村とは反対のほうへ歩き続け、大渡橋を渡ると街道からそれて裏道へ曲った。
茂庭家の屋敷のある
坂を登りつめた孝也は、道から松林の中へ入ってゆき、枯草の上へ腰をおろした。そこは北向きなので枯草の根にもまだ青みはみえない、前方はなだらかな斜面になっており、低くなってゆく松林の向うに栂ノ庄村の一部と、小高い丘の上にある茂庭家の
「百日||」と彼は
松の
約半刻ほどのち、茂庭家へ帰った孝也には、いつもと変ったようすはなかった。
茂庭邸は栂ノ庄村の北端の台地の上にある。石段を登ると古い長屋門で、門を入ったところに

「お帰りなさい」
孝也の姿を認めて、道場の臆病口から西秋泰二郎が出て来た。稽古着のままだし、木剣を持って、おもながの眉の濃い顔に、活き活きと血が浮いていた。道場の中からは、稽古の物音が聞えて来た。
「ようすはどうでしたか」
泰二郎が近よって来て訊いた。孝也はけげんそうに相手を見た。
「坪田ですよ」と泰二郎が云った、「承知したんですか」
「うん、いや」と孝也は眼をそらした、「留守でだめだった、また改めていってみる」
「世話をやかせるやつだな」
「今日は稽古を休むからね」孝也は歩きだしながら云った、「済まないが頼むよ」
「弥六が熊の
孝也は長屋の自分の住居へ入った。
長屋はT字形になって二棟あり、一方が召使たち、一方が門人のもので、こちらには二部屋ずつの住居が七戸並んでいる。いまは孝也と泰二郎のほかに三人。孝也のは南の端であった。||夕刻、母屋のほうから、小間使のお品が食事を知らせに来た。孝也だけは母屋で(茂庭父娘と)食事を共にする習慣だった。お品は戸口で二度呼んだ、すると奥の部屋で孝也の断わる声が聞えた。
「食事はしない」と彼は云った、「少し腹痛ぎみだからと申上げてくれ」
その夜、孝也は眠ることができなかった。夜具の中で
すっかり明けはなれてから、桂がみまいに来た。茂庭(
「そんなにお悪かったのですか」桂は非難するように云った、「どうしてそう
「いや、たいしたことはないんです」
「すぐに誰か医者へやりますわ」
「いや、たいしたことはない」と孝也が云った、「もういいんです、もう少ししたら御挨拶にまいります」
娘は黙った。孝也の口ぶりは突放すようだし、その眼もいつものようには桂を見なかった。いちどすばやく彼女を見たが、すぐ冷淡に脇へそらした。
||なにか変ったことがあったのだ。
桂はそう思った。そう思いながら、黙って孝也の顔を見まもった。
「先生には黙っていて下さい、本当にもういいんだから」と孝也は云った、「あとでうかがいます、······弥六が熊の仔を捉まえたそうですね」
彼は突然その唇を醜く
半刻ほど経ってから、孝也は母屋へいった。
寝ている信高の夜具の側に桂がいた。彼女は掛け夜具の下へ手を入れて、父の足をさすっていた。孝也が挨拶をすると、信高は枕の上でこちらを見、眼で頷いた。顔色は
信高が婚約のことを心配していることは、孝也にも桂にもよくわかった。信高は口がきけなくなった代りに、自分の要求を眼で表現するようになり、桂もそれを理解することにすばやく慣れていった。七歳のとき母に死なれてから、ずっと父の側で寝起きしていたし、父の身のまわりの世話もして来たので、父の眼の動きを見てなにを求めているかを判断するのに、それほど暇はかからなかった。
||父は婚約の披露のことを気にかけているようです。と桂が孝也に云った。ひどく気にかけているようですから、内輪だけでも披露をしてはいかがでしょうか。
それは去年の十月のことであった。孝也にも信高の懸念がわかっていたし、反対する理もなかったが、すぐにそうしようとは、ふしぎに、答えられなかった。
||奉納試合が済んでからにしましょう。と孝也はそのとき云った。先生には私からそう申上げます。
桂が承知したので、彼は信高にそう云った。信高は不満のようであった。気力が弱っているためだろう、早く二人のいっしょにいる姿を(たとえかたちだけでも)自分の眼で見たいようであった。そこで桂が主張し、信高の前で二人いっしょに食事をするようになった。
「昨日から少し腹が痛みましたので」孝也は挨拶のあとで云った、「用心のために食事をぬきました、もういいのですが、稽古も今日一日休もうと思います」
信高は眼で頷いた。孝也は坪田に会えなかったので、もういちどゆくつもりであると告げ、まもなく病間を去った。
道場を
「それでいけるか」孝也は口の中で自分に云った、「いけるだろう、充分いけると思う、もうひとつ足りないかもしれないが、仕上げをする時間はある」
もちろん誰にも聞えはしない、眼はするどく泰二郎を見つめていた。しかしまもなく、孝也はぐっと眉をしかめた。僅か四半刻ほどだったが、立ったままでいるのがいちばん悪いらしい、右足のそこにあの痛みが始まったのである。彼はさりげなく道場を出た。
茂庭家は古くから兵法をもって北条氏に仕え、代々掃部介を許されていた。四代まえの掃部介信剛のとき、小田原を去ってこの地に土着し、(農耕のかたわら)家に伝わる
||おれにもしものことがあったら。と父は死ぬまえに云った。この人を訪ねてこの手紙を読んでもらえ、たぶんおまえのことを引受けてくれるだろう。
父の死後、彼はその人を訪ねた。それは越前家の重役だったが、手紙を読むと孝也を茂庭信高に預けた。「修業を積んだら主家へ推挙しよう」という約束だった。しかし、それから数年のちにその人も死んでしまった。
その人が生きていたら、孝也は越前家へ仕えただろうか。そうではあるまい、男子のない信高は早くから彼に眼をつけていたようだ。
「自分もそれを望むようになっていた」孝也は
孝也は熊の仔の前で立停った。
黒い
「こいつは捉まって、鎖で繋がれている」と孝也は呟いた、「だが鎖を噛切って逃げることもできる、おいちび、おまえは逃げることができるんだぞ||おれは首輪もはめられてはいないし、鎖で繋がれてもいない、しかし確実に捉まってしまった、おれを繋いでいる鎖は眼に見えないが、どんなことをしても断ち切ることはできない、おれは逃げることができないんだ」
眼に見えないその鎖が、(現実に)非常な力で彼を緊めつけるようであった。孝也は大きく喘いだ、苦悶の衝動とたたかうために、大きく深く喘ぎながら、彼はそこを離れて自分の住居のほうへ歩きだした。
三日のちに、孝也は小泉村へでかけてゆき、用件をはたして戻った。
小泉村の坪田与兵衛は地着の大地主であるが、十年ほどまえ当代の与兵衛になって、領主松平家の金御用を勤めだしてから、にわかに横暴になり、自分の持ち地所と接する到るところで地境の
幸い主の与兵衛に会えたので、案外なくらい簡単に取戻せたが、側に二人の侍がいて、
||紙きれ一枚が役に立つと思うのかね。
などと高声に云ったりした。だがもちろん孝也は相手にならず、用件をはたして戻ったのであった。
小泉村へいって来てから、孝也は道場へも出るし、母屋で食事もするようになり、日々は元どおりにかえった。ただ、孝也の泰二郎に対する稽古が、これまでより熱心に、そして厳しくなるのが眼立った。また、これは誰も気づかないことであるが、桂に対する態度が変りだし、ひどくよそよそしく、冷淡になった。
||なにかわけがあるのだろう。
桂はそう思って注意していたが、どうしてもこれと思い当ることがない。それとなく訊いてみたこともあるが、孝也はろくろく返辞もしないのであった。
||桂のことを嫌いになったのかしら。
そんな疑いさえ起こってきた。
三月中旬の或る夜、||桂は泰二郎と裏庭で会った。そこには裏の山から水をひいた池があり、池畔に腰掛が二つと亭がある、二人は亭のほうでおちあった。曇った夜で気温が高く、まっ暗な茶畑で地虫の声がしていた。
泰二郎は桂の話を聞いた。彼には桂の心配がよくわからないようであった。
「そうでしょうか、私は気がつきませんでしたが」と泰二郎は云った、「いったいどんなふうに変ったのですか」
「どう云ったらいいでしょう」桂はもどかしそうに首を振った、「どう云ったらいいかわかりませんわ、口では申せませんの、だからよけい心配なんです」
「じつは、||これはそれとは違うかもしれないんですが、私にもちょっと
「西秋さまはそれを、へんだとはお思いになりませんの」
「わかりません」
「なにかわけがあるんだというふうにはお思いになりませんでしたの」
「待って下さい」泰二郎は云った、「そんなことは考えもしませんでしたが、しかしちょっと待って下さい」
そのとき裏門のほうから、孝也が近づいて来た。
孝也はそのとき、茂庭家の
彼は広雲寺の無元和尚に会いにいった。その臨済派の老僧にはたびたび教えを受けたことがあった。禅堂で坐ったこともあるし、講話を聴きに通ったこともあった。彼は和尚と会って話せば、その苦悶から救われるかもしれないと考えた。
||そうだ、老師に会うだけでも、この苦しさを克服することができるだろう。
そして彼は広雲寺の方丈を訪ねた。
老僧は茶を
||飛花落葉。
老僧は生死を超脱していた。彼もまた老僧について生死の関頭を打破した。生があり、死がある。花が散り葉が落ちる、「死」はごく自然なものである、||
||そうだ、この恐ろしさは老師にはわかってもらえない、わかってもらっても、老師にもどうすることもできないだろう。
彼は方丈に
茂庭邸まで戻って来て、裏門のくぐりから入り、茶畑のあいだを歩いてゆきながら、孝也は池畔のほうで人の話し声のするのを聞きつけた。彼は立停って耳をすませた。それから、静かにそちらへ近づいていった。
「そうなんです、夜なかにです」と泰二郎が云っていた、「ときによるとひと晩じゅう聞えることもありました」
「そんなに苦しそうにですの」桂の声であった。
「ひどく苦しそうにです」泰二郎が云った、「私は疲れてうなされているのだと思っていたんですが、貴女のお話を聞いてみると」
孝也は「誰だ」と云いながら、亭のほうへ歩み寄った。二人ははじかれたようにお互いから離れた。
「こんな処でこんな時刻になにをしている」と孝也が云った、「誰だ」
闇夜であるが、側へ寄ればむろん人の見わけくらいはつく、泰二郎は
「お嬢さん、||」と孝也は云った、「おまえ西秋だな、密会か」
桂がああといった。
泰二郎は桂を
「弁解か、云ってみろ」と孝也が云った、「お嬢さんは帰って下さい、お帰りなさい」
「待って下さい、ひとこと云わせて下さい」と桂が云った、「西秋さまには罪はありません、桂が此処へ来て下さるように頼んだのです」
「家へお入りなさい」孝也が叫んだ。
「どうか聞いて下さい」泰二郎が云った、「貴方は誤解しているんです、密会なんてとんでもない、私たちはいま」
「西秋さま」と桂が
泰二郎は口をつぐんだ。それは云ってはならないことであった。孝也は黙って二人を見ていた。
ごく短いあいだではあったが、息苦しく気まずい沈黙が、三人の上にのしかかった。
「家へお入りなさい」孝也が桂に云った、「人に見られないうちにお入りなさい」
「いらしって下さい」泰二郎も桂に云った、「あとは大丈夫ですから、どうか」
桂は母屋のほうへ去った。四、五間ばかりゆくと泣きだしたようであるが、そのまま小走りに去っていった。桂が去ってしまうと、孝也も歩きだした。
「どうか誤解しないで下さい」泰二郎は孝也についてゆきながら云った、「お嬢さんはいうまでもないし、私がそんなことをする人間かどうか知っていらっしゃるでしょう」
「おれが知っているって」
「お願いです」泰二郎は云った、「夜こんな処で話していたのが悪かったんですが、わけがあってほかにしようがなかったんです」
「おれが知っているって」孝也は云った、「よしてくれ、人間の本心なんて誰にわかるものか、おまえがどんな人間か、おれは知りもしないし知りたいとも思わない、ただこの屋敷の中でみっともないまねをすることだけはよしてもらおう」
「貴方はどうかしているんだ」
「黙れ」孝也は立停って叫んだ、「きさま、おれを非難するのか、自分のしたことを棚にあげておれを非難するのか」
「そうじゃありません、私はただ」
「云え」孝也は叫んだ、「云ってみろ、おれがどうしたというんだ、さあ云え西秋、||云わないのか」
「よします」泰二郎は頭を垂れた。
「云えないんだな」
「いまはよします」と泰二郎は云った、「云ってもわかってもらえないようですから、明日にでも改めて云います」
「ごめん
そして彼は足早にそこを去った。
孝也は一人になると身ぶるいをした。夜具の中へ入ってからも、思いだしては身ぶるいをし、呻き声をあげ、それから口の中で自問自答をした。
「あれでいいんだ、いい機会だった。広雲寺へいった利益かもしれない」孝也は眼をつむったまま呟いた、ごく低い、
つむっている彼の眼尻から、枕の上へ、涙が糸をひいた。
孝也は眼にみえて変りだした。
特に泰二郎へ稽古をつけるときの、烈しさと仮借なさとは徹底的で、少しでも気にいらないと、頭ごなしに
泰二郎は音をあげなかった。彼は意地になっていた、「倒れるまでやってやるぞ」と思っているようであった。しかし三人は見るに耐えなくなったらしい、或る日、かれらは泰二郎の相手をすることを拒んだ。
「なぜだ」と孝也が訊いた。
「理由はおわかりでしょう」宮原忠兵衛が云った、「西秋さんのようすを見て下さい、これではあんまりひどい、私たちはこれ以上西秋さんを疲らせるのはごめんです」
「よせ」と泰二郎が云った、「おれは疲れてはいないぞ」
「いや私たちはもうごめんです」
「よく聞け」と孝也が云った、「おまえたちはこの十月に奉納試合のあることを忘れたのか」
「知っています」と宮原忠兵衛が答えた。
「五年に一度の奉納試合は、世間に鞍馬古流の正統を示す大切な行事だ、ことに先生が御病気だから、万一にも不覚なことがあっては申し訳が立たない、今年こそ、どんなことをしても勝たなければならないんだ」
「しかしそれは」と益島弁三郎が云った、「その試合には御師範代がお出になるのでしょう」
「出るのは腕だ、席順ではない」
「御師範代ではないのですか」
「先生が御丈夫なら先生の御指名がある、しかしいちばん腕の立つ者が試合に出ることに変りはない」と孝也は云った、「西秋は席次だけでなく腕が立つ、西秋は試合に出るための稽古をすべきだ、試合に出るための稽古をする責任がある筈だ」
「それで理由がはっきりしたろう」と西秋泰二郎が三人に云った。孝也のほうは見ないし、孝也の言葉も信じていないような調子だった、「さあ続けよう」と泰二郎は云った、「こんどは庄司の番だ、おれは大丈夫だから心配するな」
そして木剣を取り直した。
その夜、泰二郎は桂と会った。二人には七日に一度ずつ会う機会があった。七日に一度、孝也が城下町へ用事にゆくのである、稽古が終ったあと、大抵は四時ごろにでかけて、帰るのは九時過ぎであった。その日も孝也がでかけたので、日が
その宵、桂は化粧をしていた。四月の暖かい宵の空気が、彼女のあまい香料で匂った。
「どうでした」と泰二郎がまず訊いた、「うまくつきとめましたか」
「だめでしたわ」
「どんなぐあいだったんです」
桂は話した。これまで三度、彼女は孝也のゆく先をつきとめようとした。きちんと七日に一度ずつ、城下町へなにをしにゆくのか、どんな用があるのかを知りたかった。それで下僕の弥六にあとを
「弥六はずっと待っていたけれど、とうとう姿をみせなかったと申しますの」と桂は云った、「馬で街道をゆくことは慥かだから、木戸で待っていればみつからない筈はないんですけれど」
「すると城下町ではないのかもしれませんね」
「わたくしもうたくさん、もう諦めることにしました」と桂は云った、「慥かめなくってもおよそわかります、二月から数えてもう九度もでしょう、桂がいくらぼんやりでも、なにがあるかくらいおよそ想像がつきますわ」
「私はこう思うんです」
泰二郎は云いかけて口ごもった。桂が「どうお思いなさるの」と訊いた。するとまた、彼女の躯から香料が匂った。泰二郎はその午後の(道場での)出来事を話した。
「わたくし信じられませんわ」と桂は首を振った、「奉納試合のためだなんて、わたくしには信じられません」
「私はこう思うんです」泰二郎が云った、「宗城さんはあの晩のことを誤解している、私たちが宗城さんのことを心配して、そのことで話しあっていたと云えばいい、けれどそれはあの場では云えなかったし、あとで説明しようとしても聞かなかった、聞いても弁解だと思われたかもしれない||、たぶん、そこにいろいろな原因があるんだと思うんです」
「でもあれは三月になってからのことよ」と桂が云った、「あの方のようすが変り始めたのはそれよりまえからでしょう、城下へ通いだしたのは二月の初めからでしたわ」
泰二郎は頷いた。孝也の自分に対する態度の変化は、あの晩を境に際立ってきた。誤解からうまれた嫉妬だと思っていたし、その点はいまでも誤ってはいないと思うが、桂の云うことも事実であった。孝也はそのまえから変りだした、彼女に対しても変りだしたというし、彼自身にも(久しく放していた)稽古をつけ始めていた。
「わたくしどうしたらいいでしょう」と桂が云った、「父はいつどうなるかしれませんし、あの方は離れていってしまう、もうすっかり離れてしまっているんですわ、西秋さま、桂はこれからどうなるのでしょうか」
「そんなふうに考えないで下さい」
泰二郎はよろめくように云った。彼はけんめいに自分を抑えた。桂は彼を見あげて喘ぐような息をした。泰二郎は唾をのんだ。
「そんなにつきつめないで下さい」彼は吃りながら云った、「私がいちどぶっつかってみます、折をみて本当のことを慥かめてみます」
「いいえもうだめ、もうそんなことをしてもむだですわ」桂は嗚咽した、「わたくしにはわかっているんです」
「お願いです、私がきっと慥かめてみますから」
「なにをですの」嗚咽の中で桂が云った、「なにを慥かめるんですの、あの方がどこに女のひとを隠しているかということをですか」
「そんなことを、お嬢さん」
「いいえ申します」桂は泣きだした、「あなただってそう思っていらっしゃるのよ、わかってますわ」
桂は泣きながら身を
泰二郎が長屋へ戻ったとき、彼の住居の前に孝也が立っていた。いつもはもっとおそく帰るのが例である、いつもより半刻も早いだろう。戸口の前に立っている孝也の姿を見たとき、泰二郎はとつぜん平手打ちをくったような驚きと同時に烈しい怒りにおそわれた。彼は
「なんですか」泰二郎は云った、「私になにか御用ですか」
「灯がついたままだ」孝也は指さした、「灯をつけたまま留守にすることは禁じられている、でかけるなら消していってくれ」
「それだけですか」泰二郎が云った。
「それだけだ」
「そうではない、もっと云うことがあるでしょう」泰二郎は挑みかかった、「
「でかけるときは灯を消してくれ」と孝也が云った、「私が云いたいのはそれだけだ」
孝也は歩きだした。泰二郎は前へ
「待って下さい、云うことがあるんだ」
「その話はよそう」
「いや私は云う、貴方も聞きたい筈だ」
「おれは聞きたくない、どいてくれ」
「どうしてもですか」
「まっぴらだ」
泰二郎はかっとなった。「宗城さん」と云って思わず相手の腕を
「勘弁して下さい」と泰二郎は云った、「乱暴するつもりじゃあなかったんです」
「酔ってるんだ」
「済みません」泰二郎はおろおろした、「ついかっとなってしまって、||どこか痛めたんですか」
「少し酔ってるんだ」孝也はようやく立ちあがった、「もういい、大丈夫だ」
そして顔をそむけて歩きだした。右足をひきずるような、ひどく不安定な歩きぶりであった。
「宗城さん」泰二郎が呼びかけた。
「明日にしよう」
孝也は自分の住居のほうへ去った。泰二郎はそれを見送りながら、表現しようのない混乱した感情にとらえられた。暗い杉林の中のあまやかな香料の匂いと、桂の火のような喘ぎとが、あまりに
「明日にしよう」と泰二郎は呟いた、「そうだ、明日になればなにかわかるかもしれない」
しかし翌日になっても、孝也の態度に変りはなかった。
ただ一つだけ気がついたのは、孝也の動作にどこかしら力がなく、注意して見ると右足を少しひきずって歩くことである。また、もう四月中旬だというのに、いつも足袋をはいていた。道場へ出てもぬがないし、稽古
||あのとき転んで
泰二郎はそう思った。けれども、ずっとまえからそんなふうだったようにも思えた。
||なにかある、慥かになにかある。
彼は孝也のようすに絶えず注意しだした。
それから数日のち、西山村の河野から使いがあり、坪田の小作人がまた事を起こしたと知らせて来た。泰二郎は孝也に云われて、用人の俣野孫右衛門といっしょに西山へいった。そして、明らかに地境が無視されているのを見て、その次の日、泰二郎は小泉村の坪田へ一人で掛合にいった。坪田では主人が留守だし、「こちらはなにも知らぬ」と云うばかりだった。
「穏やかにしていてはだめです」泰二郎は孝也に報告した、「明日は郡代役所へ寄って、役人をいっしょに
「それがいいだろう」孝也は頷いた、「坪田にはよく松平家の人間が来ている、一人はこの道場へ通ったことのあるたちの悪いやつだ」
「日野数右衛門でしょう、私は彼が破門されたのも知っているし、昨日も坪田で会いましたよ」
「
「こっちで相手にしません」
「私がいきたいんだが」と孝也が云った、「彼はごくたちの悪い人間だから、||しかし役所の者を伴れてゆけばいいかもしれない」
「大丈夫です、決して喧嘩なんかしませんから」
明くる日、泰二郎は帰って来て、「掛合がうまくいった」と報告した。郡代役人を現場へ案内し、地境が荒されているのをみせ、それから坪田へいった。坪田では主人の与兵衛が出てあやまり、「なにかの間違いだろうから、すぐ小作人たちに中止させる」と答えたそうであった。
「明日いって慥かめて来ます」泰二郎はなおそう云った、「本当にやるかどうか慥かめて、やらなかったらその足で坪田へゆきます」
泰二郎は気負っているようであった。
孝也はちょっと不安だった。泰二郎があまり気負っているので、間違いでも起こらなければいいがと思った。しかし、その日いって来た泰二郎は、あっさり「見届けて来ました、あれなら大丈夫でしょう」と云った。極めてむぞうさなので、どんなようすか訊き
「念のためにもう一度いってみますが、しかしあれなら大丈夫だと思います」
孝也はそうかと頷いた。
その夕方、孝也は城下へでかけた。なが道は歩けないので、街道口の車屋で馬を借りていった。知人に見られないように、橋を渡って
治療を受け、薬をもらって出ると、孝也は「藤十」へ戻って酒を飲んだ。半月ほどまえから患部が痛みだして、痛みを止める薬を用いるようになっていた。
「この薬が倍量になったら」と道円は云った、「お気の毒だがどうか諦めて下さい」
諦めるという意味は明瞭である。孝也は酒を飲みながら、今日もらった薬の量が、明らかに
「来なければ押しかけてゆくさ、こんどは必ずものにしてみせる」
隣り座敷で客たちの話しているのが聞えた。三人ばかりいるらしい、もう酔っているとみえて声が高く、こちらへ筒抜けに聞えて来た。
||酔わなければならない。
孝也は汁椀の蓋でぐいぐい飲んだ。
早ければ百日と云われた。その百日がすでに七十日ちかく経っている、また医者の予告した症状が、殆んどその予告どおりに経過していた。それを忘れようとして、孝也は乱暴に飲んだ。
「そんな必要はないだろうが」と隣りの客が云った、「しかし伏せるだけは伏せるか」
「あんまり油断はできないんだ、あれでいまは師範の次くらい使うんだから」
「なに、真剣勝負はべつさ」もう一人がそう云った、「道場の試合と真剣勝負はべつものさ、まあ見ていろ、まあ見ていてもらおう」
孝也は
「じゃあおれは先へ帰る」と一人が云った、「これから三浦へまわって打合せをしておこう、時刻は十時だったな」
「松山までかなりあるから、そうさ」とべつの声(その声には聞き覚えがあった)が云った、「そうさな、九時まえに坪田へ来てもらおうか」
その声には聞き覚えがあった。孝也はそれが日野数右衛門の声だということを知っている。そうして、かれらの断片的な話から、孝也は敏感に一つの事情をまとめあげた。
||真剣勝負。師範の次くらい使う。松山で十時。坪田へ来い。
孝也はその午後の泰二郎のようすを思いだしてみた。不審なようすはなかった、「あれなら大丈夫です」「念のためにもう一度いってみますが」ごくあっさりとそう云った。なにかあったようなふうは少しもなかった。「だがそれがなんの証拠になる」孝也は自分に云った、「彼は西山へいって来たのだ。そこで日野たちと会い、売られた喧嘩を避けきれなかった、と考えることはできないか」
孝也はなお暫く隣りの話を聞いた。それから勘定を払い、馬を
二人は「藤十」と印のある
「通れ、||」大道寺九十郎が云った、「おっ、茂庭の宗城だな」
「宗城孝也だ」と彼は馬上から云った。
「なんの用だ」日野数右衛門が云った、「果し合の取消しか」
やっぱりそうか、と孝也は思った。
「そうではない、時刻の変更だ」と孝也は云った、「十時では人が邪魔に入るかもしれない、もっと早朝にしたいのだ」
「きさま助勢する気か」
「おれ一人だ」と孝也は云った、「西秋は来ない、おれ一人だ」
「早朝とはなん刻だ」数右衛門が云った。
「四時なら明けている、四時ではどうだ」
二人は眼を見交わした。
「よかろう」と数右衛門が云った、「明朝四時松山の
孝也は馬を返した。
その夜、孝也は二通の手紙を書いた。一は掃部介信高、一は西秋泰二郎に。それから外へ出て、熊の仔の
「おい、どうしたちび、元気か」
孝也は檻の前に
「お母さんのところへ帰してやるぞ」と孝也は云った、「おれは両親のところへ帰る、たぶん帰ることになると思う、だからおまえも帰らしてやる、わかったかちび」
檻の戸口は
「ふざけるんじゃない、帰るんだ」孝也は立ちあがった、「さあ、山へ帰るんだちび、こっちへ来い」
孝也が歩きだすと、あとからじゃれながらついて来た。彼は茶畑をぬけてゆき、裏の生垣の隙間から仔熊を出してやった。その外はすぐに山へ続く
「こっちへ来てくれ」
孝也は長屋から離れた。弥六は黙ってついて来た。孝也はふところから封書を出して、弥六に渡した。
「明日の朝七時になったら、これを西秋に渡してくれ」と孝也は云った、「おれは用事ができて早くでかける、七時まえではいけない、七時になったら渡すんだ、わかったか」
「わかりました」と弥六が答えた。
「ほかの者には黙っていてくれ」と孝也が云った、「いいか、七時だぞ」
「七時になったら渡します」
「頼む、起こして済まなかった」
弥六は長屋へ戻り、孝也は住居へ帰った。部屋の中をすっかり片づけ、不要な物は焼いた。机を直して信高に宛てた封書を置き、それから着たままで横になった。気持はおちついていた。二月のあの日、道円に病気の宣告をされて以来、そんなに気分のおちついたことはなかった。薬の切れる時刻を過ぎていたが、ふしぎに痛みの起こるようすもなく、彼は少しのあいだ眠りさえした。
午前三時まえ、孝也は水を浴びて、身支度をした。薬は二服を一度にのみ、香を

「これでいいな」と孝也はやがて呟いた、「これでよし」
彼は立って行燈を消した。
地上には濃い
約束の時刻よりかなり早い、まだ来てはいないだろう。こう思いながら登りつめると、うしろで馬の
「ではさよなら、桂」孝也は口の中で云った、「どうか仕合せで、||」
孝也は砦跡のほうへ出ていった。登って来た斜面はまだ薄暗かったが、平らにひらけたそこはすっかり明るく、靄は地面を
砦跡の道へ寄ったほうに、日野と大道寺が立っていた。
かれらは来ていたのである。かれらはすでに来ていて、馬の嘶きを聞きつけ、孝也の来たことを知り、孝也の現われるのを待っていたのであった。孝也が二人を認めたとき、二人はこっちへ向って歩きだした。大道寺は右、日野は左、九尺ばかり離れて近づいて来る。
孝也もすり足で前へ出ていった。
「なるほど」と日野数右衛門が云った、「なるほど一人だな、あっぱれだ」
孝也は黙って進んだ。一歩、一歩と、すり足で、静かに、||二人は足を停めた。間隔はほぼ四間、大道寺が抜き、日野が抜いた。大道寺九十郎の刀は寸延び厚重ねの剛刀であった。孝也も抜いた。
「いいか」日野数右衛門が云った、「云うことはないか」
孝也は黙って、なお前へ進んだ。間合が二間ばかりになったとき、孝也が云った。
「数右衛門」と彼は云った、「おれの教えた手を忘れるな」
日野の唇がまくれて歯が見えた。大道寺が前へ出た、大道寺は(右側から)仕掛ける姿勢をみせた。孝也はまっすぐに日野を
日野数右衛門の顔がさっと怒張した。孝也はするどく叫んで刀を右へ振った。それは(間合を詰めて来た)大道寺の面上へとぶかとみえた。大道寺九十郎ははじかれたようにとび退き、日野が絶叫して踏み込んだ。孝也はそれを期待したのだ、日野は絶叫し、刀を上段から打ちおろしながら踏み込んだが、踏み込んだ勢いのまま「ひっ」と悲鳴をあげて転倒した。丸太を倒すような倒れかたで、すぐに
大道寺は離れたまま見ていた。彼は右手を高くあげてなにやら叫んだ、誰かに合図をしているようである。孝也ははっとした。坂道に
孝也はその言葉を思いだした。「藤十」の隣り座敷で、かれらがそう話していた。||伏勢がいる。
孝也はそう思った。馬蹄の音は坂を登って来る。大道寺は孝也の右へまわった。孝也はその位置のままそちらへ構え直した。するとうしろで糸をひくような風音がし、左の背中へ矢が射込まれた。孝也は前へよろけた、そこへもう一矢、腰骨の上のところへ射込まれ、孝也ががくっと膝をつくと、とび込んで来た大道寺が右の肩へ斬りつけた。
||弓だったか。
孝也はそう思いながら倒れた。大道寺の二の太刀をよけようとして、本能的に振向くと躯がぐらっと仰向きになり、胸と腹とで(射込まれた)矢が内臓を突き破った。孝也は苦痛のあまり息が詰り、眼が
「西秋だな、早すぎた」孝也は云った、「あいつ、約束をやぶったな」
孝也は眼をあいた。西秋泰二郎の顔が眼の前にあった。泰二郎の頭の横に、高い空の白い月が見えた。
「私がむりに訊きだしたのです」と泰二郎が云った、「すぐに庄司や益島たちと馬で駆けつけたのですが、ひと足おそかった、宗城さん、貴方はどうしてこんなことをしてくれたんですか」
「おちつけ」と孝也が云った、「大道寺らはどうした」
「彼は仕止めたが、ほかの者は逃げました」
「二人だけで話したい」
孝也は喘いで、右手をゆらっと振った。泰二郎は振返った、そこには益島弁三郎、宮原忠兵衛、庄司勇之助たちと、ほかに上位の門人が五人(みんな武装して)立っていた。かれらにも孝也の言葉は聞えたので、泰二郎がめくばせをすると、静かにそこから遠のいていった。
「おれの足を見ろ、右の足だ」孝也が云った、「どうしてか、という理由は、それだ」
「ああこれは、宗城さん」
「触るな、それは
「脱疽ですって、あの骨も肉も腐る、||」泰二郎は息をのんだ、「しかし、いつからです、いつからこんな病気にかかったのですか」
「そうと宣告されたのは二月だ」
泰二郎は「ああ」という眼をした。
「では||それで貴方は」
「おれはうまくやったと思う」
「宗城さん、それでですか」突然、泰二郎の声がふるえだした、「それで貴方はあんなふうにしたんですか」
「うまくやったと思わないか」
「それはひどい、あんまりだそれは、宗城さん」
「よく聞け」孝也が云った、「おれは死ぬ躯だ、持てるものは持ってゆかなくちゃならない、はっきり云えなくなった、||こうだ、おれが自分を醜くすれば、あとが美しく纒まる、あのひとの気持には、もうおれは残ってはいないだろう、西秋、||あのひとを頼む、茂庭のあとを頼む」
泰二郎の喉へ嗚咽がつきあげた。
「手紙を読んだな」孝也が云った。
泰二郎は泣きながら頷いた。
「泣くな、これで万事おさまるんだ」と孝也は云った、「郡奉行へ届ければ、もう坪田も悪あがきはすまい、おれはいい死に場所に恵まれたんだ、おれは、||この病気、このくそいまいましい病気では、死にたくなかった。西秋、どうか病気のことを知れないようにしてくれ、この病気を知れないように、このまま焼くか埋めるかしてくれ、約束できるか」
「約束します」
「それでいい」孝也は頷いた。
「宗城さん」
「あのひとを頼む」と孝也は云った、「||熊の仔はおれが放した」
泰二郎は孝也の手を握った。孝也の呼吸は止った。泰二郎は孝也の手を握ったまま激しく泣きだした。靄は殆んど消えていた。