庭さきに暖い小春日の光が
お
町いちばんの絹
白い
鼓の音は
曲は三段の
「そこにいるのは誰です」
と呼びかけた。······一輪だけ咲き残った菊の籬の蔭で誰か動く気配がした。そして間もなく、一人の老人がおずおずと重そうに身を起した。ひどく
「おまえ
「申しわけのないことでございます」
老人は
「鼓の音に誘われて、······おまえが」
お留伊の眼は老人の顔を見た。
加賀国は能楽が
お留伊は暫くして冷やかに云った。
「おまえ
「わたくしは旅の者でございます」
「隠しても駄目、あたしは
「わたくしは旅の者でございます」
老人は病気でもあるとみえて、苦しそうに
「ではどうして福井へ行かないの、どうしてこの森本でぐずぐずしているの」
「持病の具合が思わしくないので、
老人は急に灰色の頭を左右に振った。
「こんな話はなんの興もございません。本当になんの興もございません······。それよりもお嬢さま、今まで通りこの老人に、お庭の隅からお手並を聴かせてやって頂きとう存じます」
「いつ頃から
お留伊は疑の解けた声音で云った。
「はい、ちょうど五日まえでございましょうか、ふとお庭外を通りかかって『男舞』をうかがいましたが、それ以来ずっとお邪魔をしていたのでございます」
「あたし二三日まえから気付いていました。でもまるで違うことを考えていたのよ」
「津幡の能登屋がどうとか
「もうそのことはいいの、それから庭の外なら構わないから、いつでも聴きにおいで」
老人は
明くる日も老人は来た。
それからその翌日も······お留伊は次第にその老人に親しさを感じはじめた。そして色々と話しあうようになった。老人は口数の
老人は名もない絵師だと云った、そして僅かな絵の具と筆を持って、旅から旅を渡り歩く困難な生活を過して来たという。苦しかったこと、悲しく辛かったこと、お留伊には縁の遠い世間の、
「そうです、わたくしはずいぶん世間を見て来ました。なかには万人に一人も経験することのないような、恐しいことも味わいました。そして世の中に起る多くの苦しみや悲しみは人と人とが憎みあったり、
老人の言葉は静かで、少しも押しつけがましい響を持っていなかった。それで斯ういう風な話を聞いたあとでは、ふしぎにお留伊は心が温かく和やかになるのを感じた。
「いつか能登屋がどうしたとか仰有っていましたが」
或日老人が
「別にむずかしい訳ではないのだけれど、お正月に金沢のお城で鼓くらべがあるの、それでこの近郊からは能登屋のお宇多という人とあたしと、二人がお城へ上ることになったんです」
新年の嘉例として、領主在国のときには金沢の城中で観能がある。そのあとで民間から鼓の上手を集め、御前でくらべ打ちを催して、ぬきんでた者には賞が与えられる、······今年もまたそれが間近に迫っているので、賞を得ようとする人々は懸命に技を磨いていた。
お留伊は幼い頃からすぐれた腕を持っていたので、教えに通って来る師匠の
「そうでございますか」
老人は納得がいったようにうなずいた。「······それでわたくしを、能登屋から探りに来た者と思し召したのでございますな」
「でも同じようなことが何度もあったのだもの」
「わたくしはすっかり忘れて居りました」老人は遠くを見るようにして云った。
「······鼓くらべはもうお取止めになったかと思っていたのです」
「どうしてそう思ったの」
老人は答えなかった。······そして、どこか遠くを見るような眼つきをしながら、ふところ手をしている左の肩を、そっと揺りあげた。
それから二日ほどすると、急にお留伊は金沢へ行くことになった。師匠の勧めで、城下の観世家から手直しをして貰うためである。その稽古は二十日ほどかかった。観世家でもお留伊の腕は抜群だと云われ、大師匠が自分で熱心に稽古をつけて呉れた。······もう鼓くらべで一番の賞を得ることは確実だった。大師匠もそうほのめかせていたし、それ以上にお留伊は強い自信を持っていた。
森本へ帰ったのは十二月の押迫った頃であった。||あの老絵師はどうしているだろう。家へ帰って、なによりも先に考えたのはそのことだった。······まだこの町にいるだろうか、それとも故郷の福井へもう立って行ったか。
けれど老人の姿は見えなかった。
すでに雪の季節に入っていた。重たく空にひろがった雲は今やまったく動かなくなり、毎日こまかい雪がちらちらと絶えず降ったり
おおつごもりの明日に迫った日である。お留伊が鼓を打っていると、庭の小柴垣のところへ、
||まあ、やっぱりまだいたのね。
お留伊はあの老人だと思って、鼓をやめて縁先まで立って行った。······けれどそれはあの老人ではなく、まだ十二三の見慣れぬ少女であった。
「あの? お願があってまいりました」
少女はお留伊を見ると、笠をとりながら小腰を
「おまえ誰なの」
「わたくし宿はずれの松葉屋と申す宿屋の娘でございますが、うちに泊っておいでの老人のお客さまから、お嬢さまに来て頂けますようにって、頼まれてまいりました」
「あたしに来て呉れって」
「はい、病気がたいへんお悪いのです。それでもういちど、お嬢さまのお鼓を聴かせて頂いてから死にたいと、そう申しているのです」
あの老絵師だということは直ぐに分った。
普通の場合なら、いくら相手があの老人であっても、そんなところへ出掛けて行くお留伊ではなかった。けれど······老人はいま重い病床にあるという、そして死ぬまえにいちど自分の鼓を聴きたいという、その二つのことがお留伊の心を動かした。
「いいわ、行ってあげましょう」
彼女は冷やかに云った。「······おまえあたしの鼓を持っておいで、それから家の者に知れてはいけないから静かにしてお呉れ」
手早く身支度をしたお留伊は、その娘に鼓を持たせて家を出た。松葉屋というのは宿はずれにある汚い木賃宿であった。老人はひと間だけ離れている裏の、狭い
「ようおいで下さいました」
老人は衰えた

お留伊はただ微笑で答えた。······自分の打つ鼓に、この老人がそんなにも大きなよろこびを感じている、そう思うとふしぎに、金沢で大師匠に褒められたよりも強い自信と、誇らしい気持が
「いやお待ち下さいまし」
お留伊が鼓を取出そうとすると、老人は静かにそれを制しながら云った。「······いま思いだしたことがございますから、それを先にお話し申し上げるとしましょう」
「あたし家へ断りなしで来たのだから······」
「短いお話でございます、直ぐに済みます」
老人はそう云って、苦しそうにちょっと息を入れながら続けた。「······お嬢さまは正月の鼓くらべに、お城へお上りなさるのでございましょう」
「上ります」
「わたくしのお話も、その鼓くらべに
「知っています、
「御存じでございますか」
十余年まえに、観世市之亟と六郎兵衛という二人の囃子方があって、小鼓を打たせては竜虎と呼ばれていたが、二人とも負け嫌いな烈しい性質で、常づね互に相手を
打込む気合だけで、相手の打っている鼓の皮を割ったのである。一座はその神技に驚嘆して、「友割りの鼓」といまに語り伝えている。
「わたくしは福井の者ですが」
と老人は話を続けた。「······あのときの騒ぎはよく知って居ります、市之亟の評判はたいそうなものでございました。······けれど、それほどの面目をほどこした市之亟が、それから間もなく何処かへ去って、行衛知れずになったということを御存じでございますか」
「それも知っています。あまり技が神に入ってしまったので、神隠しにあったのだと聞いています」
「そうかも知れません、本当にそうかも知れません」
老人は息を休めてから云った。「······市之亟はある夜自分で、鼓を持つ方の腕を折り、生きている限り鼓は持たぬと誓って、何処ともなく去ったと申します。······わたくしはその話を聞いたときに斯う思いました。すべて芸術は人の心をたのしませ、清くし、高めるために役立つべきもので、そのために誰かを負かそうとしたり、人を押退けて自分だけの欲を満足させたりする道具にすべきではない。鼓を打つにも、絵を描くにも、
お留伊を迎えに来た少女が、薬湯を
「では、聴かせて頂きましょうか」
老人はながい沈黙のあとで云った。「······もう是が聴き納めになるかも知れません、失礼ですが寝たままで御免を
金沢城二の
これには色々な身分の者が加わるので、城主の席には
やがて、ずいぶん長いときが経ってから、遂にお留伊の番がやって来た。
「落着いてやるのですよ」
師匠の仁右衛門は自分の方でおろおろしながら繰返して云った。「······御簾の方を見ないで、いつも稽古するときと同じ気持でおやりなさい、大丈夫、大丈夫きっと勝ちますから」
お留伊は静かに微笑しながらうなずいた。
相手は矢張り能登屋のお宇多であった。曲は「真の序」で、笛は観世幸太夫が勤めた。······拝礼を済ませてお留伊は左に、お宇多は右に、互の座を占めて鼓を執った。
そして曲がはじまった。お留伊は自信を
お宇多の顔は
その時である、お留伊の脳裡にあの旅絵師の姿がうかびあがって来た、殊に、いつもふところから出したことのない左の腕が! ||あの人は観世市之亟さまだった。
お留伊は愕然として、夢から
老人は、市之亟が鼓くらべに勝ったあとで自分の腕を折り、それも鼓を持つ方の腕を、自ら折って行衛をくらましたと云ったではないか。······いつもふところへ隠している腕が、それだ。||市之亟さまだ、それに違いない。
そう思うあとから、眼のまえに老人の顔があざやかな幻となって描きだされた、それからあの温雅な声が、耳許ではっきり斯う
||音楽はもっと美しいものでございます、またと優劣を争うことなどおやめなさいまし、音楽は人の世で最も美しいものでございます。老人の声が再び耳によみがえって来た。······お留伊の右手がはたと止った。
お宇多の鼓だけが鳴り続けた。お留伊はその音色と、意外な出来事に驚いている客たちの動揺を聴きながら、鼓をおろしてじっと眼をつむった。老人の顔が笑いかけて呉れるように思え、今まで感じたことのない、新しいよろこびが胸へ溢れて来た。そして自分の体が眼に見えぬいましめを解かれて、柔かい青草の茂っている広い広い野原へでも解放されたような、軽い活々とした気持でいっぱいになった。
||早く帰って、あの方に鼓を打ってあげよう、この気持を話したら、きっとあの方はよろこんで下さるに違いないわ。お留伊はそのことだけしか考えなかった。
「どうしたのです」
舞台から下りて控えの座へ戻ると、師匠はすっかり取乱した様子で
「打ち違えたのです」
「そんな馬鹿なことはない、いやそんな馬鹿なことは断じてありません、あなたはかつてないほどお上手に打った。わたくしは知っています、あなたは打ち違えたりはしなかった」
「わたくし打ち違えましたの」
お留伊は微笑しながら云った。「······ですからやめましたの、済みませんでした」
「あなたは打ち違えはしなかった、あなたは」
仁右衛門は
「······あなたは打ち違えなかった、そんな馬鹿なことはない」と。
×
父や母や、集っていた親族や知人たちにも、お留伊はただ自分が失敗したと告げるだけであった。誰が賞を貰ったかということももう興味がなかった、ただ少しも早く帰って老人に会いたかった。森本へ帰ったのは正月七日の
「まあお嬢さま!」
松葉屋の少女は、不意に訪ねて来たお留伊を見て驚きの眼を
「あのお客さまは亡くなりました」
とあたりまえ過ぎる口調で云った。「······あれから段々と病気が悪くなるばかりで、到頭ゆうべお亡くなりになりました。今日は日が悪いので、お
お留伊は裏の部屋へ通された。
老人は北枕に寝かされ、逆さにした
||ようなさいました。
お留伊には老人の死顔が、そう云って微笑するように思えた。
||さあ、わたくしにあなたのお手並を聴かせて下さいまし。
「わたくしお教で眼が明きましたの」
お留伊は囁くように云った。「······それで色々なことが分りましたわ、今日まで自分がどんなに醜い心を持っていたか、どんなに思いあがった、
お留伊の頬にはじめて温かいものが滴った。それから長いあいだ、袂で顔を
「今日こそ本当に聴いて頂きます」
やがて
今はもう、老人が観世市之亟であるかどうか確めるすべはない、けれどお留伊はかたくそう信じているし、またよしそうでないにしても、その老人こそ彼女にとっては本当の師匠であった。
部屋はもう暗かった。······取寄せた火で鼓の皮を温めたお留伊は、老人の枕辺に端坐して、心をしずめるように暫く眼を閉じていた。······南側の煤けた障子に
「いイやあ||」
こうとして、鼓は、よく澄んだ、荘厳でさえある音色を部屋いっぱいに反響させた。······お留伊は「男舞」の曲を打ちはじめた。