本田昌平は、ものごとをがまんすることにかけては、自信があった。
生れついた性分もあるかもしれないが、二十六年の大半を、そのためにも修業して来た、といっても不当ではない。三千石ばかりの旗本の四男坊というだけで、わかる人にはわかると思う。そのころ世間一般に、
||二男三男は冷飯くらい、四男五男は拾い手もない
などという失礼な通言があった。士農工商ひっくるめた相場で、なかでも侍はつぶしが利かないのと、体面という不用なものがあるだけ、実情はいちばん深刻だったと思う。
その朝も昌平はがまんした。
「飯のことで怒るなんてあさましい、男が怒るならすべからく第一義の問題で怒らなくちゃいけない、たかが腹の減ったくらい」
そんな独り言を云って下腹へ力をいれてみたり、深呼吸をして、机に向ってみたりした。机の上にはやりかけの写本がある、擬古体のごく
「二日や三日食わなくったって、人間なにも死ぬわけじゃあない」
昌平は筆写にかかった。
「知らせて来るまでひと
だがいけなかった。手が震えて字がうまく書けない。
「ちぇっ、いったいあいつら、なにをしてるんだ」
彼は筆を
「べらぼうめ、なにが第一義だ」
障子へ日のさしてきたのを見て、昌平はついにがまんを切らした。
「腹が減れば空腹になるのは人間の自然じゃあねえか、おれだって人間だ」
ばかにするなと思いながら、少しは憤然として外へ出た。
彼は侍長屋に住んでいる。横庭の霜を踏んで、台所へはいってゆくと、温かい飯と味噌汁の匂いが、むっと鼻におそいかかり、腹がぐうるぐうるると派手に鳴って、口の中へ生唾が
「私の飯はどうしたんだ、まだなのか」
下女たちは一斉に
||忘れたんだな。
昌平はそう云おうとした。そのとき下女の一人が、「奥さまに伺がって来ます」と云いさまばたばたと廊下へ駈けだしていった。
「支度が出来たら知らせてくれ」
どなりたいのを抑えて、昌平は自分の住居へ戻った。
「奥さまに聞いて来る、か、······するとおれは、奥さまのお許しがなければ、飯を食うこともできないわけか」
昌平は泣きたいような心持になった。
旗本で三千石といえば、それほどむやみに貧しくはない、長兄の安左衛門は勘定奉行の勝手係を勤めているので、役料のほかに別途収入もかなりある。にも
||本田の家には類のない能なし。
と云って、殆んど下男同様に扱かわれた。
||外へ出るな、みっともない。
||客が来るんだ、すっこんでいろ。
||のそのそ歩きまわるな、眼障りだ。
兄たちは昌平を見るたびにこうどなる。着る物は順送りのおさがりで、満足な品は一つもないから、みっともないのは当然である。
||誰がみっともなくさせて置くんだ。
たまにはそのくらいのことを云ってやりたくなるが、云った結果を想像すると、やっぱり黙って聞いているより仕方がなかった。それだけではない、あによめがまたひどく無情なのである。三百両とか持参金附きで来たというが、
||
彼女の生家は四千石ばかりの旗本であるが、たいそう質実剛健で、食事は麦の他に
||いざ合戦というときのためでございますって、戦場には女を
そして皮肉なそら笑いをする。つまり、縫い繕ろいや洗濯などは自分でしろ、というわけなのである。······兄たち然り、あによめ然りだから、召使たちもしぜん彼には冷淡で、こちらの
「あのう、
ようやく下女の一人が知らせに来た。
「あ、有難う、すぐゆく」
昌平はつい知らず機嫌のいい返辞をして、いそいそと立ってから、そんな自分のだらしなさに
台所の隣りの薄暗い長四畳。そこが彼の食堂であった。二方が壁、一方が納戸で、廊下のほうだけは障子であるが、廊下の向うが戸袋と壁なので、真昼でも部屋の中は
昌平は膳の前に坐った。
もちろん給仕はして
「||なんだこれは」
彼はそっと汁と飯に口をつけてみた。どちらもすっかり冷えていた。昌平は逆上した。さっき下女たちは湯気の立つ飯を食べていたではないか、むっと胃を
「それなのにこれはなんだ、ゆうべの残りの冷飯じゃないか、おれはこんなものを」
彼は逆上のあまり膳をはね返した。
二十六年の大半を費やして練りあげた自制力が、そのとたんに切れた。まるで糸かなんぞが切れるように、ぷつんとみごとに切れたのである。昌平はその部屋をとびだし、住居へ戻って、大至急で着替えをし、刀を差し、再たび外へ出ると、中庭を横切って、母屋の縁側からあによめの居間へ踏み込んだ。
あによめは古足袋を繕ろっていた。
「持参金を
昌平はこう云って、刀を抜いた。あによめはあっけにとられ、平べったい狐のような顔をぽかんとさせ、だらしなく口をあけてこちらを見た。昌平はその鼻先へ刀をつき出しながら云った。
「人をなんだと思うんだ、金を出せ」
義弟が本気だということ、眼が血ばしって、刀の
「声をたてるな、じたばたすると斬ってしまうぞ」
「しょ、しょ、しょ」
「金を出すんだ、有るったけ、静かにしろ、早く、ものを云うな」
ぐいと刀をつきつけた。あによめは操り仕掛の
「馬鹿にするな、そんな小銭じゃあない」
昌平は刀であによめの帯を突いた。
「その仏壇の蔭にあるのを出せ、この際ごまかそうなどとはふといやつだ、斬るぞ」
「で、でも、こ、こ」
刀で帯を突かれ、あによめはこんどは「ヒ」と声をあげながら、そこからかなり大きな
「自分であけろ、まごまごするな」
袱紗をあけさせると、中に小判の包が八つばかりあった。昌平はそれを六つ取って左右の
「兄貴が帰ったらそう云え、これまでの貸を貰ってゆく、唯取ったんじゃあないと、わかったか、······この、この、強慾非道な、女め」
廊下へ出たが、なにかすばらしく
「おれの残りの冷飯でも食え」
それ以上のあくたいは考えつかなかったのである。
彼は通用口から外へ出ると、二丁ばかり走って
「もっとこたえるような事を云ってやればよかった」
昌平はどこかしらむず
「この狐おんな、おっぺしゃんこ、卑劣漢、ふ、幾らでもあったのに、それからもっと気を
彼はあによめの頬ぺたを刀のひらで叩いてみる空想をした。これまでの辛抱を思い知らせるとしたら、髪の毛ぐらい切ってやってもよかったかもしれない。
「兄貴のやつ帰って
昌平はその夜、新吉原の遊女屋へあがった。
自分ではそれほどの謀反気はなかったが、両国橋の近くで、飲んでいるうちに、えいっということになったらしい。駕でゆくか舟にするか、誰かとそんな問答もしたようである。どっちで来たかは覚えがない、気がついたら広い座敷で、大勢の女や男の芸者たちに取巻かれていた。百匁
彼は一瞬どきりとした。
||これはたいへんな事になったぞ。
だがすぐに肚を据えた。
こんな事ぐらい誰だってやるじゃないか、おれだって人間だ、三千石の旗本に生れて、このくらいの遊びをしてなにが悪い。二十六という年まで芸妓遊びはおろか、満足に酒を飲んだこともないじゃないか。おれだって人間だ、男だ。ろくな小遣も呉れないで、冷飯なんぞ食わせやがって、なにがなんだ。
「さあ、
昌平は勇気りんりんと叫んだ。
「金はあるぞ、おれはけちなことは嫌いだ」
それからまたなにがなんだかわからなくなった。
女や男が唄ったり踊ったりした。彼の側にいる女は「りんせん」とか「なまし」とかいう、妙な助動詞のついた言葉で、彼に
最後のところで昌平は吃驚した。
「こむらがえりが起るって、その、そんなに気分でも悪いのか」
「まあ大きな声で、
女はこう云ってまた膝を抓った。そして、自分は本当に好きな人とそうすると、しまいにこむらがえりを起す癖があるのだと説明した。よくはわからないが、それはたいそう濃情だということでもあるらしかった。
昌平は感動させられた。女性の身としてそこまでうちあけて語るということは、なみたいていな情緒ではない。けいせいのまこと、などというくらいのものではないと思った。
騒ぎは盛大なものだった。誰も彼もが愉快そうに飲んだり食ったりし、代る代る唄ったり踊ったり、そしてまた飲んだり食ったりした。かれらは昌平をいろいろとおだてるような名で呼び、気持が浮いてくるようなうまい世辞を並べ、交代で彼の前へ来てはあいそ笑いをしたり、ぺこぺこむやみにおじぎをした。
「わかった、私は嬉しい、みんなの気持はよくわかった、本当に嬉しい」彼は涙ぐみながら心から云った、「||私は今夜は生れて初めて、人の好意の有難さというものを知った、こんな嬉しいことは初めてだ、さあ飲んで呉れ、みんな好きなだけ飲んで喰べて呉れ」
だがそんな事を云うだけではいけないのだそうであった。言葉などはかれらは喜こばないはなを遣らなくてはいけないのだと、側にいる彼女(つまり彼のあいかたで名は花山という)が教えて呉れた。なおそれには小菊の紙を遣って、あとで引換えるというのが便法でもあり「通」でもあるそうで、わちきに任せておきなましいと云うから、すべて彼女に一任した。
「済まない、いろいろ世話をかけて、まことに済まない」昌平はしんみりした気持になって頭を下げた、「||私は実に嬉しい、なんだか他人とは思えなくなった、あとですっかり身の上を話したいが、聞いて呉れるか」
彼女はあでやかに笑って、「一夜添っても妻は妻」であるからには、もちろん二人は他人ではないこと。身の上も聞こうし、「今夜は眠らずに愛し合う」だろうこと。これからも末ながく契るであろうことなど、溶けるように嬌めかしく
すべてが楽しく豪華で、豊かに満ち溢れていた。しかもそのあとには、生れて初めて異性と歓こびを
「銀閣寺将軍がなんだ、もう内職なんぞはしないぞ、冷飯も食わない、人を馬鹿にするな、ざまあみやがれ」
それからの経過は判然としない。
眼をさますと独りで寝ていた。そこで枕元の水を飲んで、眠り、また眼をさまして、水を飲んだ。三度か四度そんなことを繰り返して、やがて、こんどは本当に眼がさめてしまった。見るとまわりに
「これは、どういうことなんだ」
昌平は起きあがった。
あれだけの騒ぎは嘘であったかのように、あたりはひっそりと寝しずまっている。どこかで廊下を歩く草履の音がし、もっと遠くで犬の吠えるのが聞える。近くの部屋で客と女の話し声もするが、それは寝しずまった静かさをいっそう際立てるように思えた。
「ともかく、こうしていても······」
彼は立って廊下へ出た。まだ酔ってはいるがひどい寒さである。手洗い場を捜すのにかなりうろうろし、すっかり冷えこんだのだろう、戻りには頻りにくしゃみが出た。ところで弱ったことにこんどは部屋がわからない、廊下を曲るところは
ほどなく向うから五十ばかりの婆さんが来たので、呼び止めて事情を話した。
「まあいやだ、おいらんはどなた」
婆さんは冷淡にじろじろ見た。どうも座敷で見覚えのある顔だが、紙ばなを遣ったような記憶もあるのだが、相手はぜんぜん知らないふうで、応対もいやにつっけんどんだった。
「さあ、なんといったか、その、か、······かせん······かせんとかいう」
「うちにはそんなおいらんはいませんよ、お部屋はどの辺だったんです」
「この辺だと思うんだが、廊下をこう来て、たぶんその」
「へんな客があったもんだ」
婆さんは口の中で、もちろん聞えるように
それから朝までの事は書きたくない。
昌平は独りで、空腹と渇きと、酔のさめてくる寒さとに震えていた。くしゃみばかりは景気よく出るが、水を貰おうにも喰べ物を取ろうにも、てんで相手になって呉れる者がなかったのである。
それはまあいい。そういう忍耐は割とすれば馴れている。また花山さんのおいらんが「今夜は眠らずに愛し合う」とか、身の上話しをよろこんで聞くとか、「こむらがえりが起るかしれない」などとまで囁やきながら、こんなにも徹底的に、ぜんぜんすっぽかしをくわせたことも、そこは遊女であってみれば、一方的に怒る気はなかった。
「これがふられたというやつだろうが、われながら相当なふられだと思うが」
まあこれも遊びとしては
だがそのあとがいけなかった。
夜明け前についとろとろしたと思うと、やかましい声で起こされ、もう定刻であるから、居続けにするか勘定を払って帰るか、どっちかにきめて呉れと云われた。見ると廊下で部屋を教えた婆さんで、そのうしろに強そうな男が控えていた。
「もちろん帰るが、女はどうした」
昌平も少しはむっとして云った。
「おいらんは
婆さんはせせら笑うように答え、ではこれがお勘定ですと云って、べらぼうに長い書付をそこへ出した。ごたごたとなにか書き並べてあるが、とうてい読めた代物ではない。見たばかりで眼がちらくらしてくる、で、要するに合計であるが「百七両三分一朱」となっているのをみて、昌平はわれ知らず
「冗談じゃない、いくら見ず知らずの人間だからって、あんまり人を馬鹿にしては困る」
「おや妙なことを
もしも昌平にして、この世界の事情を多少でも知っていたら、そんなむだな口はきかなかったであろうし、少なくともその辺で
「うろんがあるかないか知らない、だが、侍のなかには一年に三両扶持で暮す者もずいぶんいる、一年に三両とちょっと、それで侍として家族を養なっているんだ、私は、それは遊んだには相違ない、かなり派手にやったとも思うけれども、いかにどうしたからといって一夜に百何両などとは」
「それみねえお倉さん」
控えていた強そうな男が婆さんに云った。
「おらあゆうべっからどうも臭えと
「なにを云うか、聞きずてならんぞ」
思わず昌平はそう叫んだ。
これまでさんざん馬鹿にされたうえ、こんな男に面と向って、そこまで云われては忍耐はできなかった。が、相手はもちろん承知の上である、寧ろそれを予期していたのかもしれない。
「大きな声を出しなさんな、おらあ
男はへへんと笑い、いやな眼でじろっと見た。
「勘定に文句があるんなら、その書附をよく見てここがこうと云ったらいいだろう、一夜に百七両幾らという大尽遊び」男はこちらの
刀があったらどうなったかわからない。しかし、刀は初めに預けてある、それが
「おれが悪かった。勘定をしよう」
彼は腸が
「どうせ払うんなら文句なんぞ云わねえがいい、金を出して恥をかく馬鹿もねえものさ」そして彼は立ちながら云った、「朝っぱらから縁起でもねえ、お倉さん、あとで塩華を撒いといて呉んな」
ひと言ひと言が辛辣な悪意と毒をもっていた。おもんみるに、かれらは日常おのれ自身を卑しくしているため、機会さえあればその返報をするらしい。また感性が単純で
そして大門をぬけるなり、救いを求めるように、いきなり道傍の飲屋へとびこんだ。
昌平はそれから三日三夜、酒びたりになって遍歴した。
どこをどうまわったか記憶はない、根津という処は覚えているが、ともかく岡場所というのだろう。不浄な匂いのする、うす汚ない、小さな狭っ苦しい家で、どこにも新吉原よりはもっと劣等な、口の悪い女や婆さんばかりいた。彼女たちは「なまし」とも「ありんせん」とも云わなかった。
「けちけちすんなてばせえ」
「さっさとしろってばな、いけ好かねえひょうたくれだよ」
「そんなとけえのたばるでねえッつ」
などと云うふうであった。そして、おそらく親愛の情を示すのだろうが、むやみに背中だの肩だのを殴りつけ、またふいに突き倒したり、馬乗りになって
「これが世の中だ、ざまあみやがれ」
昌平は絶えずそんな独り言を云った。
「これがみんなお互いに人間同志なんだ、お互いに仇でもかたきでもないんだ、どうだ昌平、文句があるか、へ、ざまあみやがれ」
二十五両の包が五つ。新吉原でまず百十両ちかく取られてから、こう乱脈なことを続けたのでは、底をつくのは眼に見えたはなしである。
四日めの朝、まだうす暗いような時刻に、彼はその妙な娼家の一軒から追い出された。雪にでもなりそうな、曇った寒い朝である。酔ってはいるが相当に空腹で、しかしもう飯を喰べにはいる勇気はなかった。
「||ひでえもんだ、ひでえやつらだ」
昌平は徹底的に
「||はは、このひょうたくれか、まったくだ、いいざまさ」
彼は寒い街をあてどもなく歩いた。
新吉原の遊女の、嬌めかしくあまい、胸のどきどきするような囁やき、柔らかく凭れかかった肩、情をこめた抓りかた。それがすべてみせかけであり、ごまかしであり、そのうえ
岡場所でも同様であった。金を奪取するまでは好意的である。哀願的でさえある。殴りつけたり突き倒したりするのは、彼女たちの礼儀らしいが、ともかくいちおう嬉しいような気持にさせる。だがひとたび金の授受が済むが否や、たちまち仮面をぬぎ、酷薄無情の正体をあらわす。女はもちろん、いまこころづけを貰った男や婆さんまでが、くるりと鬼のように変貌するのであった。
「要するにふんだくりゃあいいんだ、人情なんてものは弱い人間の泣き言だ、この世にそんなものはありゃあしねえんだ」
なんというか知らないが長い橋を渡った。
橋の袂に番小屋があり、そこで「橋銭」なるものを取られた。その小銭を出しているときに雨が降り出した。
「悪くすると雪になりますね」
番小屋の爺さんが云った。昌平はつまらない皮肉でそれに酬いた。
「道の銭は取らないのか」
橋を渡ってからも、まったく無目的に歩き続けた。雨がやまないので頭から手拭をかぶったが、両刀を差した侍にしては、
「はてな、あの仏壇は、どこだったろう」
小さな社があったので、昌平はそこへはいってゆき、道から見えない裏へまわって、木の朽ちたような高廊下へあがった。そこなら雨は除けられる、彼は刀をとって腰をおろして、大きな溜息をついた。
「そうだ、麹町の家の仏壇だ」
昌平は苦痛を感じたように眉をしかめた。
彼は初めあによめに向って、持参金を出せと云った。そんなつもりはなかったのだが、日頃からそれが頭にひっかかっていたのだろう。持参金付きの嫁を貰う兄も兄だが、それを鼻にかけて、平べったい狐のくせをして、えらそうな顔をするあによめもあによめである。
「しかも金を隠していたじゃないか」
小銭の財布を出そうとして、刀を突きつけられて、仏壇のうしろから金を出した。それが持参金の内であるかどうかわからない、いわゆる
「夫婦の仲でごまかしあいか」
昌平はごろっと横になった。寒いし、空腹はますます募るが、それ以上に疲れて、ひどく眠かった。
「こっちはその金を六つ取って、一つ返すような馬鹿ときている」横になって彼は
彼はいつか眠った。どのくらい眠ったものか、強烈な寒さで眼がさめると、続けさまにくしゃみが出た。
そうしていてもしようがない、彼は社を出てまた歩きだした。骨のふしぶしが痛い、しきりにくしゃみが出た。
「いいきびだ、ざまあみやがれ」
そのほかにもう言葉はなかった。
||朝までお寝かし申しいせんよ。
||そんなとけえのたばるでねえ。
||こむらがえりがしんす。
||このひょうたくれア。
絶えずそんな幻聴が聞えた。
||ひと晩に百何両、うろんなのはこっちだ。
||金を出しな、金、金、勘定、勘定。
||番所へいって話しをつけやしょう。
これらの幻聴の伴奏のように、濡れて重くなった草履の、ぴしゃぴしゃという音が聞えた。気のめいるような、うらさびれたさむざむしい音が。
日は
稼ぎ帰りの合羽や
昌平は雨の中をただ茫然と歩いていた。
魚を焼き、汁を煮る匂い。気ぜわしい庖丁の音。それは生活の
「||いっそ
雨は肌着までとおっていた。
「||世間が世間ならこっちもこっちだ、どうせ堕ちるなら······」
暗くなった黄昏の街のひとところ、つい右側に「仲屋」と軒行燈を出した縄のれんがあった。昌平はふてたように、その店の中へはいり、長い台板に向って腰を掛けた。
||いざとなれあ刀を売ればいい。
辻斬りをやっつけようなどと、いま呟やいたばかりで、早くも刀を売るというのは矛盾である。むろん自分では気がつかない、腰掛けると十二、三の女の子が来たので、
「酒を呉れ」
些さかならず気負っていた。
ちょうど時刻なのだろう、店は殆んどいっぱいの客だった。彼には判別はできないが、日稼ぎの人足、土方、職人などという者だろう、若いのや中年者や、びっくりするような老人もいたし、なかには女(子供を伴れて稼ぐらしい)もいた。
食物の湯気と匂いと人いきれで、八間の燈がついているのに、店の中はごちゃごちゃとよく見通しがきかない。
「お待ちどおさま」
さっきの小女がすぐに註文の品を持って来た。寒さで震えていた昌平は、われ知らず喉が鳴ったが、
||もうそうはいかないぞ。
昌平は小女を呼び止めた。
「私はこんな物は註文しない、この店では客に押売りをするのか」
小女はけげんそうな顔をした。
「それはつきだしです」
「私は註文しないと云ってるんだ」
「でもつきだしですから」
「なんであろうと」昌平の声は高くなった、「||註文しない物は私は金を払わないぞ」
すぐ右側にいた三十ばかりの男が、問答の意味を察したのだろう、好意のある笑い顔をこっちへ向けて云った。
「いいんですよお侍さん、そいつは店のおあいそでね、酒に付いてるんで、代は取らねえもんなんですから」
「代を取らない、では只というのか」
「もう一本召上るともう一と皿付きますが、ほかの店と違って此処は酒も吟味するし、喰べ物も安いんで繁昌するわけです」
「このどかばも千い坊になってからたれがぐっとよくなったぜ」向う側にいる男がむっとしたような顔で云った、「||もう少しすると出て来ますがね、お侍さん、このうちの娘なんだが、孝行者で
昌平は安心し、また感動した。幾らの物でもないかもしれないが、ともかく酒の肴を只で提供する、代金を取らないというのは嬉しかった。
「おやおや、旦那はずぶ濡れじゃありませんか」
右側の男が吃驚したように云った。
「そいつあいけねえ、そのまんまじゃ風邪をひいちめえますぜ、おうねえやねえや」男は小女を呼んだ、「ちょいと来て呉れ、こちらの旦那がすっかり濡れてるんだ、奥へお伴れ申して千い坊にな、ちょいと早いとこ乾かしてあげるように」
「いや有難いが、それは、なにしろ下までだから」
「そんならなおさらでさあ、向うにゃあ火が幾らでも有るからすぐ乾きますよ」
それがいい。そうなさいまし。というふうに人々の声が集まった。それで辞退するのに困ってやむなく昌平は立っていった。
彼はすっかり戸惑いをしてしまった。いま聞いた「千い坊」というのだろう、色の白い十八くらいの娘が調理場からあがって来て、いきなり「まあどうなすったんです、こんなに濡れて」と怒ったように云い、父親の物だろう、袷を二枚重ねたのと、帯、羽折、足袋まで出して、まるで弟をでも扱うように、側からせきたてて着替えさせた。
「済むも済まないもありませんよ」彼女は小言を云い続けた、「||こんなぐしょ濡れの物を着て、躯でも悪くしたらどうなさるの、ほんとに男の人ったら幾つになっても眼が放せないんだから、いいえそんな物はようござんすよ、早くあっちへいらっしゃい、熱いのをあがってるうちに乾かしますから」
うしろから
「やあこれは、立派な若旦那ができましたな」
さっきの男が笑いながら迎えた。
「やっぱりそうですね、あっし共がお侍の真似をすると猿芝居だが、お侍の町人
「そんならこっちのがいいぜ」向うの男が徳利を差出した、「||これあいま来たばかりで、おらあ煮燗てえくちだから、これを先にあげて呉んねえ」
「それあいい、じゃあ旦那これを一つ」
右側の男がそれを取次いで呉れた。
「ふざけたことうぬかすな、やいさんぴん、表てへ出ろ」
こうどなる声を聞くまで、昌平は泣きたいような気持で飲み、ひたすら
||ざまあみろ、有るじゃないか。
彼はこう叫びたかった。
||こんなに温たかい世間が、こんなに善い人たちが、ちゃんと此処にあるじゃないか、ざまあみろ。
彼は三人の兄やあによめに、そう云ってやりたかった。麹町の屋敷ぜんたい、否、侍というものぜんぶに。そして新吉原から始まった、あの
||本田の家には類のない能無し。
||うろうろするな、すっこんどれ。
兄たちの声がなまなましく聞える。そして家人の眼を忍んで、艶冶な書物を筆写する自分の姿。二十六という年になるまでの、
||ざまあみやがれ。
昌平の頭は空転した。彼はこの「仲屋」へ迷子犬のように入って来た。兄たちの順送りのお下りを着て、
||これをあいつらに見せてやりたい、世の中にはこういう処もあるんだということを、まだこんなに善い人たちもいるということを。
昌平は酔った。いろいろと自分の感動も語ったらしい、右側にいた男と、向う側にいた男とは、かなり長いこと一緒に飲んだり話したりした記憶がある。右側の男はこの店の上客らしいようすで、「あっしは佐兵衛てえ者です」と名を云ったりした。向うの男は絶えずむっとしたような顔つきだったが、これは顔だけのことで、格別に気むずかしいというのでもなく、自分はつまらない
だがどのくらい経ってからか、ひょいと見ると、二人の席には違う客がいた。次いで他の客と入れ替り、それがまたべつの顔に変った。
||佐兵衛と徳治がいなくなった。
彼は非常な孤独と寂しさにおそわれた。二人に戻って貰いたかった、二人にいて貰わなければ、なにかとんでもない事が起りそうな気がした。それで昌平は頼んだ。
||あの二人を呼んで来て呉れ。
自分ではそのつもりであるが、実際はそうではなかった。彼の酔は程度を越し、そのために頭はまた空転し始めていた。
||ざまあみろ、この卑しい虫けら共。
彼はそう喚きだしたのである。(もっと多くの殆ど
「ふざけたことうぬかすな、やいさんぴん、
「さんぴんとはなんだ」昌平はどなり返した、「||きさまたちはまだ人を馬鹿にするか、まだ馬鹿にし足りないのか」
彼は立った。相手はすぐ眼の前にいた、まだ若い
「おれはもうがまんがならないぞ、刀を返せ、こいつを斬ってしまう」
「笑あせるな、出ろったら出ろ」
若い男は右手で燗徳利を
白い短かい棒のような物が、顔の上へまっすぐに落ちて来た。「やめて」と女の悲鳴が聞え、顔の上でがしゃんとなにかが
||みんなぶった斬ってやる。
彼は右側へ手を伸ばした。が、刀は無くって、空を掴んで、彼はその姿勢のまま横倒しになった。
「ふざけた野郎だ、外へ放り出せ」
「待って、その人思い違いよ」
「吉公、くせになるぞ、のしちまえ」
「待って頂戴、乱暴しないで」
男たちの
||おれは
昌平は暴れた。吝嗇な長兄の恐ろしく怒った顔がみえ、あによめの無情な、平べったいせせら笑いの顔がみえた。彼女は片手に金の包を八つ持って、片手でこっちを指さし、そしてかなきり声で喚きたてた。
「この男がやったんだよ、この男が、刀を取上げちまいな、そいつは泥棒なんだ」
昌平は暴れた。すると誰かが頭を殴った。躯がぐるぐる廻転し、地面が斜に揺れた。どこかへ落ち、殴られ、首を絞められた。
||みな殺しだ、みんな斬ってやる。
彼は刀を取りたかった。しかし伸ばした手は濡れた冷たい泥を掴んだ。また首を絞められ、はね起きようとすると殴られた。
「お母さま」昌平は思わず叫んだ、「||堪忍して下さい、もうしません」
昌平がわれに返ったのは朝のことである。だが彼は医者から口をきくことを禁じられ、まる三日のあいだ、黙って寝ていなければならなかった。
彼はひどい病気なのであった。
あとでわかったのだが、あのばかげた遍歴と雨に濡れたのが原因らしい。高熱が続いて、始めは
佐兵衛という男や、
「この野郎がとんでもねえ御無礼を致したそうで、どうかまあ、そこんところをひとつ」
小助親方は幾たびも頭を下げた。吉公も口のなかでぶつぶつ
「あっし共がいれあよかったんだが」と済まなそうに云った、「||旦那の話しを聞いてねえし、なにしろ気の早え野郎で、まあ勘弁してやってお呉んなさい」
かれらは一と言も昌平を責めなかった。すべて自分たちが悪いといって謝まった。
昌平は黙ってべそをかいていた。
謝まりたいのはこっちであった。みんな己れの責任である、相手のみさかいもなくなるほど泥酔して、勝手なことを喚きちらしたり乱暴をやったりした。
||もしこれが麹町の屋敷だったとしたら。
こう想像すると膚がちり毛立った。
仲屋の父娘の親切には、彼としてはもう言葉がなかった。父親の弥平は五十四、五だろう、
「おい千代、薬をあげるんじゃねえのか」
などと声をかける、絶えず昌平のことが気になるふうであった。
娘の千代は十八だという。一人娘で、母親に去年死なれたあと、父の身のまわりの世話から店の事まで(佐兵衛たちに云わせると)母親以上に手際よくきりまわしているそうであった。······彼女は始めの二日は殆ど附きっきりで看護して呉れた。熱が高いので絶えず冷やさなければならないし、嘔く物の始末や薬の世話など、夜中でも自分でてきぱきやって呉れた。
「あの晩の騒ぎで町廻りが来たんですよ」五日めの朝、千代はそう云った、「||お父っつぁんが出て、親方のこと親類の者だっていったんですけれど悪かったでしょうか」
「悪いなんて、そんな、······有難いよ」
「お父っつぁんとても心配してるんです。貴方の話を伺って」
千代は薬を
「たとえ話し半分としても、とてもそんなお屋敷へはお気の毒で帰せないって、······佐兵衛さんや徳さんもそう云ってましたわ」
「||私にはまだ信じられない、どうしてみんなこんなに親切にして呉れるのか」
昌平は眼をつむって静かに云った。
「||眼がさめると、なにもかも夢になってしまうんじゃないか、そんな気がするくらいです、本当にそんな気がするんです」
「夢じゃないわ、もしか夢だったとしても、貴方がその気になれば」千代はちょっと
「||そしてもしもお気に召すなら、いつまでもさめずにいられるわ」
「そんなことが、まさかそこまで迷惑をかけるなんて」
「だって佐兵衛さんはそのつもりでいるんですよ」千代はいきごんで云った、「||貴方が此処で一生暮らすって仰しゃったのを本気にして、もう住む家の心配までしていますわ」
昌平はまた鼻の奥のほうがつんとなった。それから自分に舌打ちをして呟やいた。
「なんというだらしのない、······私は、いったいどんなことを話したんだろう」
「お屋敷のこと、お兄さまたちのこと、二十六年のお暮しぶりや、お金のことや、それからほうぼう遊びまわって、ひどいめにおあいになったこと、······でも、そんなこまかい話しより、喧嘩のとき貴方が仰しゃった一と言、あの一と言でみんなあっと思ったんです」
千代は顔をそむけた。そして指の先で眼がしらを
「馬乗りになっていた吉さんも、駈けつけて来た佐兵衛さんもあの一と言で息が止ったような顔をしました。······お母さま、堪忍して下さい、もうしませんって······」
抑えきれなくなったらしい、千代は泣きだした。自分も母に死なれて、そこはいっそう共鳴したわけかしれないが、両手で顔を
「あたし一生忘れませんわ、あの声、お母さま堪忍して下さい、もうしません、······貴方の話しがぜんぶ嘘でないってこと、あたし初めてわかりました、······貴方は、いじめられッ子だったんだって」
昌平のつむった眼尻からも、涙がふっと溢れだして、小窓のあかりを映しながら、頬を伝って枕紙へ落ちた。くくと
深川仲門前に「仲屋」というたいそう繁昌する居酒屋があった。安永年代の好事家の記録にも載っているが、千代という娘に武家出の養子を取って、ひと頃は「侍酒屋」などともいわれたらしい。
ずいぶん繁昌して、相当以上に金も出来たらしいが、仲屋はいつまでも居酒屋をやっていた。店を拡張するとか、料理茶屋でも始めたらどうかという客もあったが、その武家出の養子はまるで相手にしなかった。
「そいつはまあ、生れ更って来てからのことにしましょう、生きているうちは、この土地を一寸も動くのはいやですね」
すると側から女房が、横眼に色っぽく亭主を見て、それ以上に色っぽく微笑しながら、客にはわからない助言をするのだそうである。
「そうね、夢がさめないッて限りもないんですものね、······はいお待ちどおさま、あかだしお二人さんあがり」