しかし自由とか平和とか独立などというやつは、人類の文化を阻害し毒するものに違いない、なぜならそれは朝顔の花のようにしぼみやすく、美人の容姿のごとくなが続きがしないからだ。佐貝市もその例外ではなかった、やがて叩かれる時が来た。織田信長がごっそり金と物資を運び去り、豊臣秀吉は市の三方にある
焼野となって五年、埋められた濠も復活され、地割りも出来、家もだいぶ建った。佐貝は西が海に面し、三方に濠がある。外と往来するにはこの濠に架した橋によるほかはない、橋には番人小屋があって、禁制品の密交易を厳しく監視する、非常に厳重だから注意が願いたい。||南北に延びている町のほぼ中央、殿馬場という所に「佐貝政所奉行役所」が建っている、与力同心の住宅もある、北と南の広小路には、富裕な商人や倉庫業者たちの家倉土蔵、問屋、商舖などが建ち、海に面した大丁浜には
一、米一日一人につき一合の事。
一、酒、菓子、煙草かたく禁止の事。
一、味噌、醤油、塩は時触れに従うべき事。
一、衣類、家具什器 等、新調すべからざる事。
一、夜間にも燈火を禁止の事。
一、酒、菓子、煙草かたく禁止の事。
一、味噌、醤油、塩は時触れに従うべき事。
一、衣類、家具
一、夜間にも燈火を禁止の事。
以上はおもなもので、他にも三十余カ条にわたる禁令
「つんぼ井戸の向こうよ、柳を左へけち臭く下れば鼻っ先だ、なあ杢」
権頭が胴震いをしながら云う、恐ろしく言葉が悪い、
「主じはまだずぶ
「ふん、よかりそだ、な」
中将はまたばかに言葉を詰める、
「||が、もなるか」「物はあるかというんですね」
杢が女のような優しい声をだす、
「おほん、それは、たとえて云えばですね、||石山の石ですよ」
「杢は象徴派でいけねえ、だがそいつはちょっと
「信じられなければですねえ、中将」
と杢が指をひらひらさせる、
「ひとつ晩になってその家の外へいってみるんですよ、そっとね、そして静かに聞いていればわかります、||お寺の十二刻ですよ」
「ほいそいつも
「もわかた、でじょぶだ、こんやろ」
市町の角に番所がある、その手前へさしかかったとき、後ろから三人を追い越して、一人の娘がばたばたと番所へかけ込んでいった。
「大変です来てください」
娘は狂気のように叫ぶ、
「いま
番所の中には三人の番士がいた。土間の炉に火を
「それはここじゃない、係りが違う、ここへそんな事を訴訟して来たって、||まるで係りが違う、冗談じゃない、押込だなんて」
「ではどこへ、どこへお願いしたらいいんでしょう」
娘は半ば狂乱して叫ぶ、
「もうこれで三度めなんです、みんな持っていかれてしまいます、どこへいったら助けてくださるでしょうか、お係りはどこでしょうか」
「そうさ、たしか、||広小路の
「札場のお番所へはもうゆきました」
「それじゃ西浜かも知れない」
番士はこう云いながら焼けた干魚を皿へ取った、
「このごろはよく係りが変わるから、そうさ、たぶん西浜だろう」
娘は西浜のほうへかけだしていった、「間に合うかしら、間に合うかしら」と
「米は一人につき一日一合という御禁令だ、ええか。五人家族なら五合だろう、さすれば一回量は一合六勺六分六厘六毛となる、ええか、しかるにこの
「なんとも申しわけございません」
女房の哀訴する声だ、
「やどは大浜へ荷揚げに出ますし、十五に十三の食べ盛りを抱えて、一日五合では生きてゆくこともできませんので、ない中から物を売っては」
「黙れこやつ、きさま下民の分際で御政治を
役人は絶叫する、
「法というものは至上尊厳、いやしくも犯すべからざるものだ、第一、ええか、法はもとお上の御都合によって
こう云っている、
「どうだ、おれが死んでるか、ひっく、死人が歩いたり口をきいたり、ひっく、するかあー、おれは佐貝政所奉行役所の御役人だ、けれどもが、不正はしない、一日一合といえば、ありがたい、一日一合ですませる、嘘も隠しもない、神仏は、ひっく、すべて、へっく、これ見のがしだ、いや見透しだ。しかも生きてる、現の証拠だ、にもかかわらず下賤なうぬらが生きてるというのは怪しい、これはありえねえ、
「うーん」
権頭が感じ入ってうなる、
「役人なんてものは学があるもんだ、ちゃんと理の立ったことを云うぜ、ああ理詰めでこられちゃあぐうの音も出やしねえ、||うう寒い、つっ走ろう」
市町の中ほどに「
「寒かったろう御苦労だね、いま一杯つけさせるから飲んでておくれ、
「わかったよお杉の
権頭がまた胴震いをしながら座敷のほうを見た、
「あっちにだいぶ役人がいるようだぜ」
「役人だから安心じゃないか、例によって旦那衆の御招待さ、驚くにゃあ当たらないよ」
ここだけはうす暗い土間の隅で、三人はつつましく酒を飲み始めた。ではこの暇にちょっと奥の座敷を拝見しよう、いちばん奥の最も上等な座敷を。
そこには招待した旦那衆と、招待された役人の中の身分の高い連中が集まっている。旦那衆というのは米問屋の
「どうも近ごろは道徳がみだれとる」
蓑賀参蔵殿が苦々しげに盃をあおられた、
「幾ら御禁令を出しても守らん、他人の迷惑などそっちのけで、自分だけ腹の裂けるほど食い、隠れて酒を飲み、ぬけ買いをやる、しかもこそこそ御政治の悪口ばかり申す、こんなことでは佐貝の復興なぞ思いもよらん、実になんたる世相であるか」
「要するに人心の腐敗堕落ですな」
矢土真平が慨然として椀の蓋へ酒を注ぎ、ぐっとあおって眼を怒らす、
「これではだめです、まず準法の精神と社会道徳と良心を
「手ぬるいんだよ」
こう云って池名勘兵衛が鯛の塩焼をつつく、
「もっと絞め上げるんだ、ぎゅうぎゅうとね、下民どもにはその他に手はない」
「それでございます、もっと厳しくお取締りを願わぬといけません」
米問屋の田丸屋が申し上げる、
「貧民どもは夜にまぎれて濠を渡り、
「いやそれは綿も糸も呉服も太物も同じことです」
折屋伝内が出っ歯を
「なにしろみんな濠をぬけて外へ買いに出る、なんのためでしょう、||御禁令があればこそ手前どもではちゃんと裏口で商売をしております、それを
「厳しいお取締りですな、もっと徹底的な」
魚問屋が
「やつらの中には自分で魚を釣って来て食べるのがいます、これでは二十日に一度という御禁令も無になり、御禁令によって成り立ってゆく私どもの商売もやってまいれません、どうかぜひとも厳重なお取締りを願います」
この

「われらの姫、まどんな、のうとるだあむよいずこへいった」
と、
「ねえなんとかおっしゃいましな、若旦那、女のあたしにこんなことまで云わせて、可哀そうだぐらい思ってくだすってもいいでしょう」
「なにもあなたのお嫁さんにしてくれなんて云やあしませんわ」
お杉のまどんなはこう続ける、
「あたし結婚なんてもの
木像はなんとも答えない。お杉の姐さんはもうぼっとしてしまって、木像の躯へ手をまわし、抱きしめるといっしょに顔を重ねた。||どうもうす気味の悪いことに相成った、姐さんは堕村理論に傾倒するの余り気が狂ったのだろうか、それともなにかに化かされでもしたのだろうか、ともかく気味が悪いから、ちょっと失礼して元の部屋をのぞいてみよう。······幹部役人と旦那衆の懇談は終わった、すなわち、主食副食をはじめ日用雑貨の割当を削減し、価格を倍に値上げする、そしてぬけ買いを厳重に取り締まる、犯した者は逆さ
みんなそろって出ていったが、間もなく三人だけ引き返して来た。筆頭与力の蓑賀参蔵に持木成助と来六屋出平である。戻って来た彼らは
「江戸から御使者があった」参蔵殿はこう申される、「来月初めに監察使が来る、それまでに仕事をしなければならない、来六屋の倉は大丈夫として、持木屋、金のほうはいいか」
「三千や五千くらいはすぐに出せます」
成助はにこりと笑う、
「もし足りなければ集めることにいたしますが」
「少なくとも二十箱は必要だ、あと二十四五日あるから、食糧物資の統制をぐっと締めれば、法定備蓄量はそれでうくだろう、十日すれば肥後と庄内から米がつく、それとこれまでの
「田丸屋と折屋、この二人が難物ですな」
成助が分別ありげに云った、「彼らは自分たちで品を動かそうとしております、もし監察使の来ることがわかったら
「もちろんすべて極秘だ、二人が品を出ししぶったら禁令品蔵匿で縛る手もある、とにかく金の手配を急いでもらおう」
そのとき突然「聞いたぞ聞いたぞ」という声がした。三人は仰天の余りほとんどとび上がりそうになった、蓑賀殿は刀をつかんで、「なに奴だ」と云いながら見まわしたが、部屋の中には彼らのほかになに者もいない、「はてふしぎ||」三人が思わず眼を見交わしたとき、
「おいここだここだ、眼の前だよ」
という声がした。
「ほら私だよ、見えないのかい」
こう云って食膳の上の燗徳利がぐらぐらと左右へ揺れた。三人はもういちど仰天し
「おまえたちのする事はわかった、官と商人と結託して消費禁令を出し、領民の生活を拘束してあらゆる物資を退蔵し、裏口商売による暴利をむさぼるのみか、退蔵物資を横に流して巨額の利を得てきた、今また幕府の監察使が来ると聞いて、その前に大量の蔵匿物を処理して
えいという絶叫と共に蓑賀殿が燗徳利に抜打ちをくれた。燗徳利はひょいと宙に浮き、蓑賀さんの上へ来て横にかしいだ、蓑賀氏は頭から酒を浴び、怒って刀を振り廻した。
「あははははまた会うよ」
徳利はこう嘲笑したと思うと、来六屋出平の上へ落ちて来て、その頭に当たってがちゃんと三つに割れた。三人は夢中になって徳利のかけらにとびかかり、一つ一つ手に取って念入りに調べた、だがそれらはいささかの
「ばかばかしいこんな事はありえない」蓑賀殿は笑いながら断言した、「ありえない事は存在する道理がない。わる
「お立ちですよ、姐さん、御前のお立ちですよ」
こういう声が聞こえて、お杉の姐さんは
「うるさいのねえ、端下役人のくせに御前もないもんだ、||若旦那、ちょっとごめんなさいましよ」
こう云って抱いていた者に頬ずりをしたが、とたんに、
「きゃっ」
と恐ろしい悲鳴をあげてとび
「お杉姐さんどうなすって、御前の御帰りですよ」
「わかったようるさいね」
姐さんは落ちていた
「若旦那はどうしたか知らないかい」
「あら御存じなかったんですか、もうさっきお帰りになりましたわ」
お杉は店へ出ていった。
蓑賀の御前を送り出したお杉の姐さんは、その足で小走りに表の土間へかけつけた。そこでは権頭に中将に
「いま脇の木戸から奉行所の役人が出ていった、蓑賀参蔵という肥った侍だよ、木挽町の与力屋敷へ帰るんだからね、三人でいってしめておいで、今夜はたっぷり持っているはずだ、ぬかるんじゃないよ」
「合点です」
三人はこう云うなり立ち上がり、互いにうなずき合って出ていった。
市町から大通りへ出て北へ、かなり更けた街を蓑賀殿がひとり歩いてゆかれる、材木町、神明町、九間町、柳町、······燈火はないがよい月夜だ、蓑賀殿にはなにか気がかりなことがあるとみえ、首をかしげたりひとり言を云ったりしながら、錦町の角を右へ曲がられた。その時である、後ろからつけて来た三人のうち、杢がすっと蓑賀殿を追い越して、
「つかぬことを伺いますが」
と
「なに者だ」とわめかれる、その頭を中将が後ろから
「今夜の酒は悪くなかった」
権頭と中将が被害者の
「そだ、あならいっしゃちゃのこだ」
「ほい財布だ、かんかんはずっしりだぜ、嘘あねえ」「きもなよすか」
「いやそれはいけません」
と杢が女のような声を出す、
「やっぱり
「ほら始まった、どういうおちなんだそれは」
「つまりですね、裸になれば早く眼が覚める」
「
こうして三人は蓑賀殿を裸に
「この財布には百両ちかい金がへえってる、いいか、中将、杢も聞いてくれ、おれ達あなげえことお杉の姐さんの下で稼いだが、もうそろそろ一本立ちになってもいいころだ、大の男が三人で危ねえ橋を渡り、姐さん一人に八割も頭をはねられるんでは
「それがいな、もたくさだ、おれもめもおとこだ、てきろ、そのこた」
「私も賛成ですよ」
杢もこう云って指をひらひらさせた、
「やりましょう、それはですね、つまり」
「まあ象徴派は取っとけ、それより相談が定ったら宵の口の話をやっつけよう」
権頭は歩きだした、
「例のつんぼ井戸の向こうの家よ、きっとまとまった金が握れるに違えねえ、そうしたらこの土地を売ろうじゃねえか」
「いかんげだ、すぎこすぎこ」
「杢もいいな、じゃ急ごうぜ、濠を越すんだ」
三人は道を西へ急いだ。
材木内久町の濠には夜になると小舟が待っている。これは市民たちが夜にまぎれて食糧物資を買い出しに出るのを、番所の小役人が内職稼ぎに渡してやるもので、取締りのある時など事前に教えてくれるから、この三人なども便利に使っているわけである。||彼らはこの舟で濠を渡った、そこから外はまったくの田園風景だった、青い月光を浴びて田と畑と森と、遠く近く農家がおぼろに
「あれだよ」
権頭が中将にこうささやいた、
「静かにいってみよう、またきっと金勘定をしているにちげえねえ、杢、この着物を持ってくれ」
三人は大根畑のほうから足音を忍ばせて近寄った。||家はまだ建てたばかりで新しいが、二十坪余りの隠居所といった感じのものだ、権頭は先に立って、かすかに
三人は凍てる大根畑にしゃがんで、襲撃の方法を打ち合わせた。三人はいま息をはずませている、彼らはその眼で見た、部屋の中に積んである千両箱の山を、それは間もなく三人の所有に属するだろう。王者の富、快楽と安逸と自由の保証、なんたる幸運の
「小田原評定はたくさんだ」
「相手はあの若僧ひとりあとは老いぼれの
「そだそだ、むずかしいことね、やっけろ」
中将もこう云って腕をまくった。||杢は蓑賀殿から剥いで来た物を背中へ縛りつけ、三人それぞれに身ごしらえをした、そして大根畑から出てかの家の裏口へ忍び寄った。
こう云って権頭が刀を抜いた、杢も中将も刀を抜いた、呼吸を合わせた。そして権頭がいきなりその戸を押し明けた、誰か人がいるだろうと思ったら、そこもまっ暗な土間である。そしてこんどは左側に燈の漏れる戸がみえる、「ははあここだよ」こう権頭が云った、なるほどそこに上り
「ああ胆をつぶした」
権頭は口から泥を吐き出しながら、腰をなでなで立ち上がった、
「どっちへいっても土間ばかりありやがる、わけがわからねえ」
「よし、おれやてみる、わけねさ」
中将はじっと周囲を見まわし、右へ見当をつけて足を進めた。すぐに戸へ突き当たった。要慎に
「やいこの家の野郎、出て来い」
三人は土間から土間へこうわめき歩いた、
「この刀が見えねえか、あり金残らず出しあがれ、四の五のぬかすと命あねえぞ、やいどこにいる、出て来やあがれ」
「出て来なければ命はないですぞ、われわれは抜刀斬込み隊くずれ命知らずですぞ」
「やいふざけると承知しねえぞ、みな殺しだぞ」
だが誰もなんとも答えない、どっちへいっても暗い土間だし、人のいそうなけはいもない。やがて三人とも歩きくたびれ、わめき疲れた余り
「こりゃだめだ、始末にいけねえ」
権頭がやがて立ち止まった、
「今夜はやめにして出直すとするか」
「それがい、もらつかれた」
中将もうんざりしたように首を振った、「もらねむくなた」
じゃあ出ようということで、三人はくたびれた足をひきずりながら後へ引き返した、こんども土間から土間への旅だ、幾らいっても同じこと、暗い土間から土間続きである。権頭はたまらなくなってどなった。
「やい、罪なまねをするな、出口はどっちだ」
夜が明けるときれいに晴れた朝になった。玉造の家から八百助が出て来た、例のきらびやかな着付けに黄金作りの太刀を
「離れるなよ、もうちっとの辛抱だ、元気をだせ」
そして狭い小屋の中をぐるぐる廻っている。八百助はにこっと笑い、晴れあがった空を眺めながらゆったりと通り過ぎた。
彼が佐貝へ来て三十日ほどたつ、すでにこの市の不正と
「なに玉村の若旦那だって」
成助はとび上がった、八百助はここではそう呼ばれているらしい、成助にとっては伝説的な恩人、黄金的条件の金主である、彼は店へとびだしていった、
「これはこれは玉村の若旦那ようこそ、昨夜はとうとう
「いったよ」
八百助は奥へ通りながら、
「いったけれど、お杉につかまってね、離れへつれ込まれてどうしても放さないものだから、それで今朝は早く来たというわけさ、用というのはなんだい」
「ふむ、あと二十箱ね」
八百助は相手の話しを聞いてうなずいた、
「それはいいが、合わせるとこれで五十箱になるね、持木屋、おまえ
「失礼ながら私も商売です、これだけの金を動かすのにめどのないところへ手は出しません、実申しますと、||いま云った奉行所の役人ですな、若旦那は恩人だから申し上げますが、
「そんなことを云って、おれにも棒をかつがせるくちじゃあないのか」
「冗談じゃございません、商売は眼っぱりっこですが出資主は命の親です、かりにもそんなことをしたら持木屋は二度と世間へ出られなくなりますよ」
「世間へね」
八百助はからからと笑った、
「じゃあそれを信用して二十箱すぐ届けよう、だが合わせて五十箱となるとただじゃあいけない、十日期限で額面一万両の手形を五枚書いてくれ」
「手形でございますか」
「なにかたちだけだ、まるで形なしというわけにもいかないだろう、いやなら」
「とんでもない結構でございます」
成助はちょっと苦い顔をした。なぜなら、持木屋の手形はいま慶長大判と同じ信用がある、||もっともそれは玉村の若旦那の存在によるのだが、||したがって慶長大判で支払うのと同じ場合でない限り、絶対に手形は振り出したことがない。ふむ、自己保存の本能から成助はちょっと戸惑った、しかし相手は唯一の金主である、商売は地面を弓で射るほど確実である、
「結構でございます、すぐ書いてまいりますからしばらく」
こう云って成助は立っていった。
ほどなく持木屋を出た八百助は、広小路の通りをまっすぐにいって、穀物町にある米問屋の
「おそらくおっしゃるとおりでしょうて」老人はこう云って手をもんだ。
「蓑賀さんと来六屋と持木屋、この三人は油断がならない、私どもでもそう見ていたのです、が、それについてなにかぬけ道がございますかな」
「いったい米はどのくらいあるんです」
八百助が返問した、
「奉行所の
「さよう、正確なところはわかりませんが、およそ三千俵あまりでございますかな」
「じゃあ私がそれを買いましょう」
「あ、なた、が、||」
「私がね」
八百助はむぞうさにうなずいた、
「今夜のうちに西浜へ三
八百助は持木屋の手形を一枚そこへ出した、三千俵で一万両、百俵六十両という当時の相場としては、現在いかに闇値が高いとしても法外である、蓑賀殿の不当な横流しは目前に迫っているし、手形は金と同じ信用のある持木屋の振出しであった。
「それとも三人に儲けさせてやりますか」
八百助にこう微笑されたとたんに田丸屋の決心はついた。取引は定り、今夜の荷積の手はずもついた、そして田丸屋を出た八百助は、その足で呉服太物糸綿商の
「私が来六屋の主じでございます」
訪れた八百助の顔を、出平は
「なにか御用でございますか」
「倉は明いているかい」
八百助は立ったままぶっきら棒に云った、
「五六日うちにこれだけの荷が入るんだがね、ちょっと見てくれ」
出されたものをみると船荷証券が七枚、米五千俵、呉服太物四千反、糸綿千二百貫、海産物千二百貫、酒五百
「これはあなたの荷でございますな」
出平の態度がぐっと変わった、態度ばかりではない眼つきも顔つきも変わった、「で、なんでございますか、こういう荷にはたいてい御融通をすることになるのですが、そこのところは······」
「その証券だけじゃ無理だろう、これをつけるから五千両ばかり融通してもらえないかね」
八百助はこう云って、持木屋の手形を差し出した、
「四五日の小遣いがほしいんだ、ほんの五箱でいい」
四五日の小遣い五千両と聞いて、出平はひそかに舌を巻き同時に
出平が船荷証券で持木屋から五千両借り、馬に積んで北の庄村の家へ届けたとき、入れ替わりに八百助の家から
「なんという図う図うしい青二才だろう」彼女はつんぼ井戸のほうへ急ぎながら、歯がみをしてから
今日はまた、||とはなにごとがあったのであろう、拝見する機会のなかったのは残念であるが、わざわざ本宅まで押し掛けながら、恐らくまた若衆人形と同一の手を
「
姐さんは眼をみはってからこう叫んだ、
「杢に中将、||どうしたんだい」
「へえ、これはどうも、姐さん」
「姐さんじゃないよ」
こう云いながら姐さんは三人のほうへ寄っていった、
「三人はゆうべ出たっきり梨の
「それがその、なんです」
権頭はまだぼやっとして首を振る、
「なにしろ狐に化かされちまったもんでして、実を云えば、ほしをつけた家があったんで、事のついでにそっちも稼いで、姐さんに喜んでもらおうと思ったんですよ、なあ杢」
「つまりですね」
と杢もまだよく眼が覚めないという顔つきで云う、
「私たちとしてはですね、この、あれです」
「杢の
「ついそこなんで」
権頭が指さしをする、
「ついそこの松林の中にある一軒家なんで、主じはまだずぶ若え銀流しですし、老いぼれた爺婆が二人いるだけで。しかも毎夜ちりちりと金を」
「ちょっとお待ち」
姐さんはきゅっと唇をひきしめた、
「それは大根畑の向こうに見えるあの家じゃないのかい」
「へえあの家なんで、ところが姐さん」
権頭はぐらりと首を振り、手まね身振りで足らぬところを補いながら、土間から始まって土間に終わる、艱難辛苦を極めた体験をつぶさに物語った、
「||で、気がついてみたら朝でさ、三人で向こうの物置小屋ん中をうろうろしてた、ところを百姓たちに助けられて、狐に化かされたんだろうって、今まであの百姓家で寝かされていた、と、こういうわけなんでさ、どうも、なんとも面目ねえ」
お杉の姐さんは女である、女の中でもぬきんでて女らしい女である、彼女の唇には
「もういちどやるんだね」
姐さんは冷やかにこう申された、
「三人の名はあたしが番所へ届けちまった、もうおまえ達は佐貝を売らなくちゃあならない、今夜もういちどおやり、あの家にゃあ金がうなってる、いまも来六屋から五千両届けて来た、今夜は
「だって姐さん、あの家はもう」
「抜刀斬込み隊の意気でおやり」
姐さんはきっと眼を光らせた、
「裏口からこそこそいったりするからどじを踏むんだ、斬込み隊の意気で玄関から踏み込むがいい、たかが若僧ひとりじゃないか、おまえたちも男だろう、しっかりおしな、金はうなってるんだよ」
しかりしこうして三人は濠端に坐り、夜の来るのを待った。たしかに、裏口からお伺いするようなことだからどじを踏むんである、こっちは抜刀斬込み隊ではないか、男子はすべからく堂々とやるべしだ。||蓑賀殿から剥ぎ取った物は姐さんに召し上げられた、しかし弁当代だけは置いていってくれたので、腹ごしらえは出来た。
「やっぱり姐さんは姐さんだな」
権頭はなんどもこう云って溜息をついた、
「||堂々とおやり、男だろう、こういかなくちゃあいけねえ、おい、今夜こそやろうぜ」
「おてからな、どどとな、またなしだ」「要するにですね、つまり、||滞納した税金ですよ」
「それおはこが出た、そのおちは杢なんとつくんだ」
「遠慮なくはたるというわけです」
「うん悪くはねえ、ひとつその意気で踏ん
夜は初更に及んだ、すなわち十時の鐘が鳴って間もない時刻、三人は堂々と基地から出て、大根畑をつき抜け、かの家の玄関へ押し込んでいった。||今や抜刀斬込み隊の勢いである、遠慮は無用、杉戸をがらりと明けて、襖は土足のままこれを
「どうだ」
三人は互いに顔を見交わした、そのまま各自は豪雄
「||いいか」
権頭は盟友にこう云って、その襖をぱっと蹴倒した。みよ、部屋には八百助がいる、例のとおり
「やいそこな男、おれたちは大阪陣で抜刀斬込み隊と怖れられた命知らずの生残りだ、有金そっくり出してしまえ、四の五のぬかすとぶった斬るぞ」
「やあ、||」
八百助は静かに顔をあげた、
「たいそう元気ですな、なにか御用ですか」
「おちついたことを云やあがる、うむ、これを見ろ」
権頭は刀をぐいと抜こうとした、
「この、二尺八寸だんびら物を、||この、びっくりして腰を抜かすな、この二尺······」
顔をまっ赤にしていきんだが、刀はいっかな抜けないのである、権頭は焦った、満身の力をこめ、躯を曲げてけんめいに引っ張った。
「待ってろ、いまこのだんびら物を、||なにくそ、もうひと息だ、||この二尺八寸、びっくりするな」
杢と中将が心配して寄って来た。八百助はにこにこ笑いながら、平然とまた小判を数え始めた。
二尺八寸だんびら物、ずらりと抜いて、||
八百助は平然と小判を数えている。
「いけねらし、おれのやろ」中将があきらめて自分のを出した。だがこれも抜けなかった、杢の刀はどうだ、三度めの正直「えい」とやったが、こいつも全然いけなかった。
「どうしたんです」八百助が手を休めてそっちを見る、「抜けないんですか、||どこかぐあいが悪いんですね」
八百助は立って来る。どれと云って権頭の刀を取る、三人は疑わしげにのぞく、こちらは右手で柄を握ってぐいと引いた。だんびら物はすらりと抜ける、いちどおさめてもういっぺんやってみた。こんども楽にすらりと抜ける、「このとおり抜けますよ」ぴたりとおさめて権頭に渡し、八百助はまた自分の席へ帰った。||権頭は改めて刀を持ち直し、ぎっくりと
「さあこんどこそ覚悟をしろ、われらは抜刀斬込み隊、強い相手は避けて通るが弱いとみたら容赦なしの強盗さまだ、四の五のぬかせば伝家のわざ物、ずぶらずぶらと||えい」
腰をひねって抜き
「どうしたんです、また抜けなくなりましたか」
「なに、こんなもの」だが権頭は
「それはすごそうですね、ひとつお手並みを見せてもらいましょう」
「だから云ってるじゃあねえか、今は抜けねえんだ、それになるべくなら手荒いまねはしたかあねえ、さあ黙ってあり金を出してしまえ、じたばたすると」
「ちょっと待ってくれ」八百助は振り向いた、
「誰だ、||帰ったのか源兵衛」
へえと答えながら、襖を明けて老人が出て来た。権頭のいわゆる「死っ損ないの老いぼれ」であろう、名を源兵衛と呼ぶこの
「たしかに船は着きました、二百石ばかりのものが四艘、さっそく荷積みを始めております」
「やいやい」権頭がわめく「こっちをどうするんだ」
「ちょっと待ってくれ急がしいんだ」八百助は見向きもしない、「それで番所のほうへあれは届いたんだな、よし、ではいいから寝てくれ、寒いところ御苦労だった」
老僕は挨拶をして奥へ去った、八百助は脇に置いてある文庫を明け、中から半紙を取り出しながら三人を見た。
「すまないがちょっと手を借りよう、ここに金が並んでいるね、これを五枚ずつ紙に包んでもらいたいんだ、手間賃は出すよ」
「ふざけるな」権頭が精いっぱいどなりたてた、「おれ達は家庭内職をしに来たんじゃねえ強盗だ、待つだけ待ったからには文句はあるめえ、金はもらってゆくからそう思え、さあ杢、中将、そこにあるったけ集めてくれ、おらあこの銀流しを押えてる、早いとこやってくんねえ」
「ぞさね」中将が叫ぶ、「いしやまの石切りだやっけろ」
杢と中将は仕事にかかった。そこらいちめん小判だらけである、燈火を映して黄金色に光っている、なんのぞうさがあろうとびかかってかき集めて、いな、||かき集めようとして手を出したが、とたんに二人とも「あっ
「びくらした、あちあち、火だ」
「これはですね、つまりふきたての小判ですよ」
杢が指をひらひらさせる、「少しあおいでさませばいいわけです、
「おらふく、こなもなけね」中将は四つん
「まて、もすぐだ」
八百助は依然として小判を数えている、五枚ずつに重ねてそこへ並べる、もちろんちゃんと手で持ってやっている。中将は眼をむいて、「やい、あつくねか」ときいた。八百助はにこりともしないで「そうさな」と云った。
「熱くないこともないが、なれているからまあ我慢ができるだろう、なにさしたることはないよ」こう云うと彼は静かに立った、「||さあ数は出来た、あとはおまえさん達が包むだけだ」
「やい動くな」権頭が刀の柄をひねくる、「坐ってじっとしてろ、承知しねえぞ」
「私のほうはすんだんだ、お付合いに見ていたいが、まだ用がたくさんあるからね」八百助は三人を見る、「あとは任せるよ、五枚ずつ紙に包んで向こうにある箱へ詰めといてくれ、三日もあれば出来るだろう」
そしてふいと消えた。ぜんぜん消えてしまったのである。三人は五秒ばかり石にでもなったように黙っていた、それからとつぜん笑いだした。笑いながらよくよく互いの顔を眺めあい墜落的に笑い止むと同時に、三人ともそれぞれの背後を振り返って見た。
「なんでもねえさ」権頭がそうっと云った、「なんにも起こりゃあしなかった、眼の迷いだ、||へっ」
「まったくです、眼の迷いですよ」と杢も声をひそめて
「またくだ、おかめなしにやれるか、さやろ、もへなにちげね」中将はこう云って、しかし不安そうに小判へそっと手をやった、が、とたんにあっちちちと手を振りながらとび上がった、「あちあちあち、また手をやいた、火だ」
権頭が肚を立て足袋
「つまりこれは徒労ですな、ちょっと待ってください」彼はこう云って指を立てた、「あのぺてん師は五枚ずつ紙に包めと云いました、ということは、五枚ずつ紙に包むことならできる、という理屈ではないでしょうか」
「おめうめ」中将が叫んだ、「そのこた、またくだ、いちえだ、すぎやてみよ」
中将は直ちに紙を取った。そしておそるおそる五枚ずつ重ねてある小判へ手を出した、熱くない、紙へ載せて包む、ちゃんと包める、中将は盟友の顔を見た、「こんてだ、へへへ、ばんぜだ」権頭も杢も坐り込んだ、「もでじょぶだ、こやて、あとさらてけばい、へへへばんぜだばんぜだ」三人は勇気千倍して包み始めた。
彼らの純一熱心な作業はまる三日続いた。この七十二時間は他の場所においても貴重な意味ふかい七十二時間であった。すなわち奉行役所の筆頭与力である蓑賀参蔵殿は、例の「誰が袖」のひと間でしばしば商談をした、相手は大阪のさる富商の手代で、両者の取引には虚々実々の応酬があり、お互いにお互いを「はめてくれた」と思うところで手がうたれた。手代は内金として壱万両の為替を切り、蓑賀殿は引き渡すべき物資の品数と倉出し証明書を呈出したうえ、商談成立を祝って盛大な酒宴を張った。
持木屋成助が蓑賀殿の私宅へとび込んだのは、実にその盛大な酒宴の翌々日のことである。彼は死人のように
「そ、それは本当か、いや、いや馬鹿な、······そんな、はははは、そんな馬鹿な事が」
「調べてごらんなさいまし」成助はもうひとくち飲む、「田丸屋の米倉、折屋の土蔵、水尾の酒庫、美那屋······どれもこれもすっからかんです、なんにもありません、からっけつのすかんぴんのがらんどうです」
「だがそんなはずはない、そんなべらぼうな」参蔵殿は憤然とひざを叩かれた、「わしは信じない、だって彼らにそんな事が出来る道理がない、なぜなら」
「彼らは感づいたのです、あなたと私どもとの密約を内偵したのです。それで先手を打ってやった仕事に違いありません」
「もしそれが事実とすれば」蓑賀殿は思いだされた、大阪のさる富商との取引を、その取引がまとまったことを、まとまった代償として内金を受け取ったことを、しこうしてその壱万両の内金をすでにしかるべく割り振ってしまったことをこれらの個条は明々白々であって、いささかも否定しがたくかつ一条として取り返しのつかぬ事実である。「あの、あの豚ども、わしは破滅だあの虫けらの泥棒のいかさま師のごろつきの破廉恥漢めら、ああわしは破滅だ」蓑賀殿は
「どうぞ落ち着いてくださいまし」成助は逆に気の毒にさえなった、「そんなにおっしゃることはございますまい、蓑賀さまはただ御
「いやだめだ、おれは取引をしてしまった。倉出し証書をみんな渡し、壱万両という内金を取ってつかってしまった」
「なんとおっしゃいます」成助は眼をむいた、
「もう取引をなすった、あの、あなたが||」
「それはどうも」成助は同情の太息をつき、暗然と眼をつむった、「||なにしろ莫大な量の物資ですからな、たとえ内金を返したところで、商人は決して取引解消には応じますまい」
「やむをえなければ法定備蓄の分を吐き出させよう、米だけは肥後と庄内から間もなく着く」
「あれ、······まだ御存じないのですか」成助は口をあけた、「けさ早く浜へ知らせがありましたが、肥後の船も庄内も難破したそうです」
「な、な、なん、なんだと」
蓑賀殿が身ぶるいをなされたとき、奉行役所から池名勘兵衛がとんで来た。成助の言葉を証明するために、すなわち「片方は豊後水道、片方は明石沖で、両船ともきれいさっぱり沈没した」
という急報がもたらせられた。
「おれは破滅で、間違いなしに二重の大破滅だ」参蔵殿は
「いやむしろこれからですよ」成助はそろそろ鴨へ網を掛け始める、「蓑賀さんともある人物が、こんなことで弱音をあげる手はありません、お側に持木成助という人間のいることをお忘れになったのですか」
「おおおまえ持木屋、おまえなにか||」
「とにかくこれを見ていただきましょう」
成助は七枚の証書を差し出した。参蔵殿は手をふるわせてそれを見た、なにを隠そうかの船荷証券である。米五千俵、呉服太物四千反、糸綿千二百貫、海産物千二百貫、酒五百樽、醤油味噌八百樽、その他なになにという巨額な物資で、
「和忠の証券ならたしかだが」参蔵殿はぐっと威厳を示された、「しかしこれをどうにかできるのか」
「来六屋から私が五千両のかたに預かったのですが、日ごろの御恩返しにこれを御融通したいと思います、||これだけあればお間に合いになりますでしょう」
「それは間に合うが、しかしなにかその、これにはその、代償がなくてはなるまい」
「なに私の御恩返しですから」成助はごくあっさりと云った、「ただもし
「よかろう」参蔵殿は早くも証券をおしまいなされる、「どうせ商人どもにはひと
狐と狸はうちつれて出かけた。||これと同じとき、八百助の住居では三人の悪漢が助けを呼んでいた。彼らは七十二時間の労働によって、身のまわりいっぱいに金包みを積み上げたが、さてそれをさらって逃げようという段になって困惑した。金包みが動かないのである。包むときには平気で手に持てたのが、またしても
「もらあらへた、こなだ」中将は自分のぺしゃんこになった腹部をなでた、「こなだ、なんもね、からからだ、めくらむ」
「やあいこの家の野郎」権頭はじだんだを踏み、絶叫する、「おれ達をどうする気だ、ぺてんにひっかけやがって、とうとう人に家庭内職みてえなまねをさしあがって、おまけに出も引きもならねえようにするなんて、訴えてくれるぞ銀流し、なんとかしろ、出て来い、罪なことうするないっ」
「云ってみればですね」杢は細くなった指をそれでもかろうじてひらひらさせる、「これはですね、つまり、どうやらその、||失敗だったですなあ」
「もらたってらね、だみだ、めまたまもぐらぐらだ」中将はくたくたとぶっ坐った、「もなくいて、しんそだ」
権頭は暴れた、金包みの山へ躯を叩きつけ、押しこくり、とびかかった。あれほどの執着をもって押し込み、家人をみな殺しにしても強奪する決心だった金、現在眼の前に山と積まれたその「金」が、今や三人には身の仇であり生命の敵となっている。······幾百たびもへたばり、幾百たびも奮い立って脱出を試みた結果、三人とも力つき精根消耗してぶっ倒れた。
「かりにもし、子供があったら、ですね」杢はもうひらひらさせられない指をあげて、きわめて柔和にこう云った、「私はこう
右のごとくしてついに、三人はついに「助けてくれ」と叫び始めた。抜刀斬込み隊の勇士、三人組みの凶猛なる悪徒も自分の命は惜しい、死ぬか生きるかとなればやっぱり「生きたい」とみえる。
「助けてくれ、なんにもいらねえ、金もなにもほしくはねえ、命だけは勘弁してくれ」権頭が悲しげな声をあげた、「本当に死んじまう、おねげえだ、助けてくれ」
その悲鳴と同時に、
「どうした、金を盗んでいかないのか」
「かにあいらね」中将が気息えんえんとして頭を振った、「そなもな、みるせやだ、まぴらだ、もなくいて」
「つまりです、||われわれと、しましてはですね」「助けてくれ、食わせてくれ」権頭もぐらぐら頭を揺らかした、「なんでもする、眼が見えねえ、死んじまう」
「いや死にはしないよ、大丈夫だ」八百助は微笑しながら云った、「おまえさん達にはまだ仕事が残っている、仕上げはこれからだ」
物語はポコ、ア、ポコよりアレグロに変わり申す。
浜には小屋が設けられた、そして直ちに救恤物資の配給が始まった。市民は歓呼し
「押してはいけません、順々に、静かにしてください」杢が云っている、「さあどうぞ、はいあなたにも、お次はそちら、立ちどまらないでください」
「おらっちは受難者だ、犠牲者だ」権頭は金包みを渡しながらなげいていた、「飲まず食わずで骨を折って金包みをこしらえ、死にそこない、汗みずたらしてここへ運び、あげくの果てにこうやって人に配っている、一文にもならねえ、||ただばたらきだ、受難者だ」
「わけしれね、むちゃくちゃだ」中将もぼやく、「はなしなんね、おたまげだ」
他の場所でも時間はいきいきと動いていた。まず奉行役所をのぞいてみよう、||そこではいま急使が来て、江戸幕府の監察使が予定より早く、すなわち「明日佐貝へ到着する」という報知をもたらせた。すわこそ一大事、直ちに高札
「手違いです、ほんのちょっとした手違いです」参蔵殿はうろうろ手文庫の中をかきまわしておられる、「お知らせしようと思ったのだが、待ってください、荷はあるんです、たいへんな物資です、船荷証券、菱垣船の和忠の振り出しです、はてどこへいったか、待ってください、きっとびっくりするでしょう、もうすぐです」
同じとき持木屋の店先でも
「これは、||」封を切って小判を出すなり益造旦那は汽笛のようにほえた、「これはどうだ、いやいけない、
「なあんですって、なんとおっしゃった」
「贋金です、皆さん調べてごらんなさい、これはくわせ物です、まっかな贋金ですぞ」
旦那連は驚倒し仰天した。箱は片端からこじ明けられ封印はすべてはがれた、まさにさよう贋金も贋金、正真正銘いつわりなし掛値なしの贋金である。当の成助は旦那連よりも
ちょうどその時刻である。玉村の若旦那、つまりわれらの八百助は、なんと誰が袖のお杉姐さんをつれて来六屋の店にいた、彼は馬に積んで来た六千両の金を、店先へ運ばせながら出平にこう云っている。
「いやおかげで小遣いの不自由をしずにすんだよ、利息として千両、少ないが取ってくれ」
「これはどうも、これは」出平はもみ手をした、「多分の御心配で、へえ、たしかに六千両、たしかにお受け取り申しました」
「それから例の預け物さ」八百助はおうように振り返った、「例の持木屋の壱万両の手形と和田屋の船荷証券七枚、あの二つはここにいるお杉さんに
「まあ若旦那、なんてまあ、若旦那」
「あたしもう、もう······」
だが八百助はもう店から出ていった。||あとが騒動である、来六屋は初めから手形も証券も
「文句はいらないんだ文句は」姐さんは目じりをつり上げてどなる、「持木屋の手形と船荷証券この二つをもらえばそれでいいんだ、へん、誰だと思う誰が袖のお杉姐さんだよ」
そして店先でくるりと裾をまくり、あられもない弁天小僧を
早朝まだほの暗い時刻に、「監察使到着」の報が佐貝全市に伝わった。いつ誰がしたものか、辻々に高札が立って、「政治向きに不正不義あれば訴訟せよ、監察使みずから奉行所においてきくべし」という
広間には
「ははあ、佐貝は楽土天国ですかな」使節は
使節は酒をひと口すすられたが、すぐ苦い顔をして盃をおいた。蓑賀殿は手酌で飲み、能弁に佐貝市政の公明について述べられる。
「どうぞお重ねくだされ」使節が盃を置いたのを見て彼はすすめる、「
「いやたくさんだ、それより探索がそこへ戻って来た。||ひとつ公務から先に片つけるとしよう」
なるほどそこへ
「申し付けたことは調べて来たか」
「取り調べてまいりました」権頭によく似た従者が答える、「食糧衣料日用雑貨、なんにもございません、御定法の備蓄までなに一つ残らず売られております」
「よし、さもあろうと思った」使節はうなずいて、「杢右衛門、訴訟にまいった市民があろう、許すから庭へ呼び入れろ、蓑賀参蔵そこ動くな」杢右衛門が出てゆくとすぐ、役所の庭へどっと人波があふれ込んで来た。あらゆる不法がさらけだされ、なにもかも
だが待ちたまえ、あれへ来六屋が逃げてまいる、この
「ああ痛え、ひでえめにあわしゃあがる」出平は額をさすりさすり起き上がった、「まるでつむじ風みてえな奴らだ、ああ
「でも私の背中の瘤より小さいよ」
突然うしろでそう云う者があった。出平はひえっと叫んで振り向いた。そこに誰か立っている、誰か||眼っかちで背むしで
「どうしたい出来六、私だよ、忘れたのかい」
「ば、化物だ」出平、すなわちかの
「いや幽霊じゃない、化物でない、よくごらんよ足がある、跛の足がね、背中の瘤へさわってみないか、ずいぶん久し振りだったね、八百助だよ、まだわからないかい」
「ははははは」出来六は眼を恐怖におののかせながら笑った「こりゃあ面白い、ちょっとした冗談だ、なかなかの洒落だ、はははははさあ踊るぞ」
そして「うー」とうめくなり
「踊りたいだけ踊るがいい、牢舎の仲間にさぞ
蛇足を加えれば、そのとき奉行所へは本物の監察使が到着し、八百助の後をうけて仕上げの最中だった、||三悪人はまだ走っている、懸命に走っている、土ぼこりをあげて······どうやら彼らは永久に走るつもりらしい。