練り馬場と呼ばれるその広い草原は、城下から北へ二十町あまりいったところにある。原の北から西は森と丘につづき、東辺に伊鹿野川が流れている。城主が在国のときは、年にいちどそこで武者押をするため、練り馬場と呼ばれるようになったと伝えられている。
いま一人の若侍が、その草原へはいって来た。月は落ちてしまって見えない、空はいちめんの星であるが、あたりはまだまっ暗で、原の南東にある源心寺の森がひどく遠く、ぼんやりと、墨でぼかしたようにかすんでいた。
「少し早かったな」とその若侍は
彼は周囲を眺め、空を見あげた。年は二十四五歳で、眼鼻だちのきりっとした顔が、寒さのためであろうか、仮面のように硬ばって白く、無表情にみえた。彼は東の空を見やり、それから首を振った。
「いや、そんな筈はない」と彼は呟いた、口は殆んど動かず、誰かほかの者が呟くように聞えた、「間違える筈はない、たしかに七つの鐘を聞いて起きたのだ、たしかに七つだった」
彼は自分をおちつかせようとして、腹に力をいれた。そしてゆっくりと、往ったり来たりし始めた。きっちりとはいた
その若侍のおちつかない動作は、眼に見えないなにかに追われているか、または追いかけているようにみえた。白く硬ばった顔は硬ばったままで、感情の激しい動揺をあらわしているようであり、歩きまわる足どりや、絶えまなしに左右を見やる眼つきには、追いつめられたけものが逃げ場を失ったときの、恐怖にちかい絶望といった感じがあらわれていた。
「なにを、いまさら」と彼は呟いた、「もう考える余地はないじゃないか、これでいよいよけりがつくんだ、もうなにも思い惑うな、なんにも考えるな」
腹部から胸のほうへと、ふるえが波を打ってこみあげ、歯と歯がこまかく触れあった。彼は歯をくいしばり、足に力をこめて歩きまわった。やがて、源心寺で鐘が鳴りだした。彼はうわのそらで聞いていたが、ぼんやり七つ(午前四時)かぞえたのでわれに返った。
「七つじゃないか」と彼は云った、「捨て鐘をべつにして、たしかに七つだった、すると刻を間違えたのか」
家で聞いた刻の鐘が七つだと思ったが、それではあれは八つ(午前二時)だったのか、と彼は思った。空のもようでみても、いま七つが正しいらしい。約束の六つ半まではたっぷり三時間ちかくある。ばかな間違いをした、あがっていたんだな、と彼は思った。
「どうしよう」寒さのためにふるえながら、彼は自分に問いかけた、「帰って出直すわけにもいかない、そうはできない、といって、ここにこうしていれば躯が凍えてしまう」
彼は舌打ちをし、両手の指を
岸のところで立停った彼は、なにかに眼をひかれてふと右の、川上のほうへ振向いた。およそ三十間ばかり先に、
火は岸の下で燃えていた。水のない河原の岸よりで、近づいてみると、そこは土合橋の下であった。若侍はもっと近づいてゆき、そこに人のいるのを見て、河原へおりた。焚火は土合橋の下で燃えており、その脇で二人の老人がなにかしていた。よく見ると一人は男、一人は女で、焚火には
老人のほうでも、彼が近づいて来るのを見ていたらしく、彼が立停ると、穏やかな声で呼びかけた。
「お見廻りでございますか」
「いや」と彼はあいまいに口ごもった。
老人は彼のようすを眺め、それからまた云った、「これからがいちばん凍てる時刻です、よろしかったら、こちらへ来ておあたりになりませんか」
若侍は迷った。かれらが乞食だということがわかったからである。だが、それはただの乞食ではなく、城下では「夫婦乞食」といって、数年まえからかなりひろく知られていたし、彼も幾たびか見かけたことがあった。||かれらはいつも二人いっしょだった。ほかの乞食とはちがって、
||人柄も悪くない、なにかわけのある夫婦だろう。
城下の人たちはそう云って、着古した物などを、わざわざ持っていってやる者もある、という話を聞いたこともあった。
「では、||」と若侍が云った、「邪魔をさせてもらおう」
老人はどうぞと云い、掛けてある鍋をおろすと、うしろから
頭上には土合橋が屋根になっていた。水の干いた河原に坐って見あげると、おどろくほど高いが、それでも屋根の役をすることはたしかであった。橋のつけねには石が組んであるが、その石垣と
老人は焚火に湯沸しを掛けていた。焚火には太い枯枝を三叉に立て、結びめのところに
「あれは刀のようだが」とやがて若侍が訊いた、「御老人はもと武家だったのか」
「これ」と老人は妻女に云った、「おまえもうひと眠りするがいい、
妻女はなにかを片づけていた。
「立町の国分という材木問屋の主人が亡くなって、ゆうべ通夜がございました」と老人は若侍に云った、「残り物があるから取りに来い、と云われたものですから、頂戴にいってさきほど戻ったところでございます」
妻女は口の欠けた
「寒くはないか」と老人は振返って妻女に呼びかけた、「
妻女が低い声でなにか答え、老人はまた若侍の着物を見た。その白い着物が、老人になにごとか思いださせたらしい、焚火に枯枝をくべながら、老人はゆっくりと
「さよう、私はもと侍でございました」と老人は云った、「
老人は土瓶の中を見た。それから、たぎり始めた湯沸しをおろし、土瓶に注いで、二つの湯呑に茶を
「その」と若侍が云った、「こんなことを訊いては失礼かもしれないが」
老人は静かに
若侍は茶を
「さよう、じつのところ、申上げるほどの話ではない、私は四十年ほどまえに、一人の娘のために親しい友を斬って、その娘といっしょに出奔しました、つづめて云えばそれだけのことです」
老人は茶を啜り、それからゆっくりと続けた、「その友達とは幼年のころから親しかった、私のほうが一つ年下でしたし、友達の家は
老人は唇に微笑をうかべ、さもたのしそうに、頭を左へ右へと振った。
「三人でなにをしていたのか、場所がどこだったか、私がなんで怒ったのか、いまではすっかり忘れてしまいました、うろおぼえに落葉の音を覚えています、私は落葉を踏んで歩いていました、するとまもなく、うしろでも落葉を踏む音が聞える、その音がずっと私のあとからついて来るのです、私はてっきり娘が追って来たものと思い、振返ってみると友達でした。
||ついて来るな、帰れ。
私はそうどなって、もっといそぎ足に歩き続けたのです、友達はやはりついて来ますし、私は二度も三度もどなりました」
老人は自分で静かに頷き、茶をひとくち啜った、「その友達は躯も小柄でしたし、眉は濃いが、まる顔で頭が
||どうしてついて来るんだ。
すると彼は答えました。
||だって、友達だもの」
老人は口をつぐみ、眼をつむって暫く沈黙した。若侍はそっと老人を見たが、すぐにその眼をそらし、両手で持っている湯呑を静かにまわした。
「だって、友達だもの」と老人はくり返し、それからまた続けた、「もし正確にいうなら、二人が兄弟より親しくなったのは、それからあとのことだったでしょう、彼は学問もよくできましたし、武芸でもめきめき腕をあげました、十五六のころから
老人は焚火の上から湯沸しをおろし、脇にある鍋を取って掛けた。使い古した鉄鍋で、もとのつるは


「私がどんなふうだったか、ということは申しますまい、私も私なりにやっておりました」と老人は云った、「もし私が、彼に
老人は土瓶に湯を注いで、若侍のほうへさしだした。若侍は首を振り、老人は自分の湯呑に茶を注いだ。
「つまらない話で、御退屈ではありませんか」
「いや、うかがっています」と若侍が答えた、「どうぞ続けて下さい」
「父が病死したあと、私にすぐ縁談が始まりました」と老人は云った、「二十一の冬のことですが、私はまえからそのつもりでいた娘を、自分の嫁にと望みました、娘の家は番がしら格で、彼女の年は十七歳、もちろん当人も私の妻になることを承知していたのです、しかし、その申入れは断わられました」
||せっかくではあるが、娘はもう婚約した相手があるから。
娘の親は仲人にそう云った。そして婚約の相手を訊くと、その友達の名をあげたのだという。老人はちょっと口をつぐみ、茶を啜ろうとしたが、湯呑を口までもっていったまま、それを飲もうとはせずに、顔を低く
「私は友達に会いにゆきました」とかなり経ってから老人は続けた、「友達は婚約したことを認め、私はかっとなりました、彼は私と娘のことをよく知っている、幼いころから知っている筈です、娘の親にぜひと懇望されたのだそうですが、私と娘のことを知っている以上、断わるのが当然ではないか。
||きさまは他人の妻をぬすんだ。
私はそう云いました、言葉はもっと激しく、もっと卑しいものだったのです、友達はたいそう冷静でした、私の怒りをそらし、私をなだめようとつとめました、それが
老人は俯向いていた顔をあげた。そして、湯呑を脇に置いて、掛けてある鍋の蓋を取った。鍋の中から湯気があがり、香ばしい匂いが、あたりにひろがった。
「なだめあぐねたようすで、友達もはたし合を承知しましたが、彼は腕に自信もあったし、その場になってからでも話しあえる、と思ったのでしょう、あとで考えるとそう推察できるのですが、結果は逆になりました」老人はそこで言葉を切り、低い声で、なにか不快なものでも振り捨てるように、口ばやに云った、「介添もない二人だけの決闘でしたが、私は初
||もういい、これまでだ。
友達は倒れながらそう叫び、私は刀をひきました、私は私で、存分にやったと思ったのです、存分に、······友達は地面に倒れたまま、私にこう呼びかけました。
||人の来ないうちに、医者を呼んで来てくれ、早く。
私は刀にぬぐいをかけてそこを去ると、娘を呼びだして始終を話しました、そして、そのまま二人で、城下を出奔したのです」
老人は木の
「僅かばかりな金を持っただけで、私たちはすぐに窮迫しましたが、自分たちの恋に勝ったというよろこびと、若いころの無分別さとで、ただもうその日その日を夢中ですごしておりました」
老人はそこでまた、さもたのしそうに首を振った、「無分別、||さよう、無分別もあながち悪くはありません、一日や二日、食事のできないようなことがあっても、却って二人の愛情をつよめ、自分たちが恋に勝った、ということを
老人は低い声で笑った。薪を火にくべながら、喉でくすくすと笑い、失礼、といって続けた、「いまこの火を見ながら思ったのですが、火をもやすには薪がなければならない、薪がなくなれば火は消えてしまう、私たちの場合もそういうことだったのです、人を狂気にさせるほどの恋も、いつかは冷えるときが来る、恋を冷えないままにしておくような薪はない、それでも家を持ち子供が生れ、生活する能力があればべつでしょう、私たちにはそれがなかった、幸か不幸か子も生れず、職業といえるものも身につかず、家ときまった住居を持つこともできなかった。そのときばったりの稼ぎを追って、東へゆき西へゆき、二年と同じ土地にいたことがない、というくらしが続いたのです」
「出奔してから七年めのことですが」と老人は続けた、「私たちはいちど国許へ帰りました、いっそ名のり出て、処罰を受けようと思ったのです、しかしそれができなくなった、というのは、三年まえに母は死に、家名も断絶していましたし、私の斬った友達は生きていたばかりでなく、二百石あまりの小姓頭にとりたてられていたのです、||さよう、存分に斬ったと思ったのは誤りで、友達の傷はさしたることもなかったし、却って家中の同情を集める結果になったようです、これでは名のって出ることはできません、仮にそうする勇気があったとしても、世のもの笑いのたねになるだけで、なんの意味もないからです、私たちはすぐにそこを去りました」
妻をその実家へ帰らせることも不可能であった。妻にはもとよりそんな気持はない。そのくらいなら自害をする、と妻は云った。こうしてまた、二人は放浪生活に戻ったのだが、お互いの気持はまえよりも悪くなった。徒士にすぎなかった友達が、二百石あまりの小姓頭になっていたこと。たいそう藩主にめをかけられているので、将来さらに出世をするだろうこと。老職の家から妻を迎え、すでに一男一女の子があることなどが、二人の気持に深い傷跡を残したのである。
||あのとき自分さえでしゃばらなければ、妻はいま彼を
老人はそう思ったし、老人の妻はまたこう思った。
||この人をこんなに
そして二人はかの友達を憎んだ。彼さえいなければよかったのである。二人は幼いころから互いに好きあっていたし、成長してもその愛情は変らなかった。身分に少し差はあったが、結婚がゆるされないほどの差ではなかった。かの友達さえいなければ、二人はいっしょになれたであろうし、家柄と身分とで平安な生活ができたことだろう。二人をこのような不幸に追いやったのはかの男である、憎むべきはかの男だ。
「友達を憎むことが、いっとき私どもの愛情をかきたてたようでした」と老人は首を振りながら云った、「しかし、それも長くは続かなかった、憎悪という感情のなかには、人間は長く住めないもののようです。そしてまた、その日その日の稼ぎに追われる生活では、どんな感情もすり減ってしまうのでしょう、||さよう、あとは申すまでもありません、四十の年を越すとまもなく、私は左足の痛風で力仕事ができなくなり、それ以来ずっと乞食ぐらしをしてまいりました」
そのとき、源心寺の鐘が鳴りだした。若侍は
「この橋の下には、人間の生活はありません」と老人は静かに話を続けた、「こういうところで寝起きするようになってからの私は、死んだも同然です、橋の上とこことはまったく世界が違いますが、それでも私には、橋の上の出来事を見たり聞いたりすることはできます、世間の人たちは乞食に気をかねたりはしませんし、もうこちらにも世間的な欲やみえはない、ですからどんなこともそのままに見、そのままに聞くことができます、いいものです、ここから見るけしきは、恋もあやまちも、誇りや怒りや、悲しみや苦しみさえも、いいものにみえます」
老人はまた鍋の蓋をとり、杓子で中のものを
「この足が痛風にかかり、乞食をしてまわるようになってから、私はしばしばあのときのことを考えるようになりました」老人は鍋に蓋をし、溜息をついて云った、「はたし合を挑むほかにやりかたはなかったろうか、どうしても娘を自分のものにしなければならなかったのだろうか、||少年のとき、怒ってたち去る私のあとから、友達は黙ってついて来ました、私が帰れとどなっても、やはり辛抱づよくついて来て、そうして、友達だから、と云いました、だって友達だから」
老人は頭を垂れ、垂れた頭を左へ右へとゆり動かした。焚火の明りをうけても、もう光りをみせなくなった灰色の薄い髪毛が、乾いたまま心もとなく揺れた。老人は薪をくべ、長い溜息をついて、静かに顔をあげた。
「あのとき友達のところへゆくまえに、茶を一杯啜るだけでも、考えが変ったかもしれない、堀端を歩くとか、絵を眺めるとか、ほんのちょっと気をしずめてからにすれば、事情はまったく変っていたかもしれません、そうでなくとも、あの少年時代の、うしろからついて来る足音、落葉を踏みながらついて来た足音や、友達の云ったあの言葉を思いだすだけでもよかったのです」
老人はどこを見るともない眼つきで、明けてくる河原の向うを見まもった、「あやまちのない人生というやつは味気ないものです、心になんの傷ももたない人間がつまらないように、生きている以上、つまずいたり転んだり、失敗をくり返したりするのがしぜんです、そうして人間らしく成長するのでしょうが、しなくても済むあやまち、取返しのつかないあやまちは避けるほうがいい、||私がはたし合を挑んだ気持は、のっぴきならぬと思い詰めたからのようです、だが、本当にのっぴきならぬことだったでしょうか、娘一人を失うか得るかが、命を
「どんなに重大だと思うことも、時が経ってみるとそれほどではなくなるものです」と老人は云った、「家伝の刀ひとふりと、親たちの
||これまでだ、人の来ないうちに医者を呼んでくれ。
友達が倒れながらそう叫んだ声が、年をとるにしたがって、しだいにはっきりと耳によみがえってくるようになりました、おそらく、友達はおもて沙汰にならぬように、事の始末をしようと思ったのでしょう、さよう、私にとってはこの一つだけが、癒えることのない傷口になりましたし、出世をしたのが友達であり、自分がこのようになりはてたことを、いまでは有難いとさえ思っているくらいです」
石垣の上の隙間で、妻女が身動きをし、なにかぶつぶつと呟くのが聞えた。うるさくって眠れない、と云っているらしい。老人はちょっと振返ったが、すぐに向き直って、焚火のぐあいを直した。
「なが話をしてさぞ御迷惑だったでしょう」と老人が穏やかな眼で若侍を見た、「茶をもう一ついかがですか」
「頂きましょう」と若侍が答えた。しかし声が喉でかすれたので、彼はもういちどくり返した、「ええ、頂きます」
老人は火のそばに置いてあった湯沸しを取り、手で触ってみてから、ゆっくりと茶を淹れた。
「失礼ですが」と若侍は湯呑を受取りながら、声をひそめて訊いた、「||あれが、そのときの御妻女ですか」
老人は首を振った。否定したのかとみえたが、老人は首を振りながら云った、「そうです、あれがいま申上げた妻です、まえにはしばしば、そうでなければと思ったものですが、いまではそんなことさえ気にならなくなりました、さよう、あれが命を賭けて得た、私の妻です」
若侍は河原のほうを見た。河原には
「いかがでございますか」と老人が鍋のほうへ手を振りながら云った、「粟の
「頂戴したいが」と云って、若侍は湯呑を下に置いた、「人と会う約束がしてあるので、また次のことに致しましょう」
そして彼は立ちあがり、刀を持って、老人に振返った。
「こんどはゆっくりお話をうかがいたい、席を設けますが、来て下さいますか」
「いや」と老人は微笑した、「おぼしめしはかたじけないが、この御城下には少し長くお世話になりすぎました、じつは今日にもここを立とうと思っていたところです」
「お立ちになる」
「ひとところに長くいると、その土地の情がうつります」と老人は云った、「人にも、町にも、川にも草木にも、路傍の石ころにさえ、はなれがたい思いがしてくるものです、いや、この御城下には少し長くいすぎました、もうおいとまをしなければならないと思います」
若侍は刀を腰に差しながら、いかにも心のこりらしく云った。
「ではせめて、今夜だけでもここにいてくれませんか、私だけではなく、私の友人もいっしょに、もういちどお話をうかがいたいのですが」
老人は微笑した。もう若侍の白装束には眼もくれず、なにやらたのしいことでもあるかのように微笑し、二度、三度と頷きながら、穏やかな声で云った。
「ではそう致しましょう」
「きっとですか」
「そう致しましょう」と老人は云った。
若侍は老人の眼をみつめた。
||この人はいってしまうな。
と彼は思った。老人は微笑しながら見返していた。
若侍は礼を述べて、そこを出てゆき、岸の上へあがった。
東のほうに遠く、隣藩との境をなす伊鹿山が見え、その上にひろがっている棚雲が、
||ここはまったくべつの世界です。
老人はそう云った。
たしかに、岸を歩く者も、橋の上をとおる者も、そこに人が住んでいるなどとは気づきもしまいし、たとえ気づいたにしても、なんの関心をもつこともないだろう。いままで老人と語りあった彼でさえ、岸の上へあがってみると、眼のさきにあるそこがはるかに遠く、焚火の火や、老人の姿や、茶を啜ったことまでが、まるで現実のことではないように感じられるのであった。
「怒りや悲しみや、苦しみさえも、いいものです」と若侍は呟いた、「||いいものです」
彼は自分が変ったことに気づいたようだ。彼の顔はなごやかになり、その眼には
「心に傷をもたない人間がつまらないように、あやまちのない人生は味気ないものだ」
彼は伊鹿山のほうへ眼をあげた。
棚雲は明るい
若侍はそのけしきを、しっかり覚えておこうとでもするように、やや暫く見まもっていたが、やがて向き直ると、練り馬場のほうへと歩きだした。
その広い草原にも靄が立っていた。靄は地上二尺ほどのところをいちめんに
「もう刻限だろう」と彼は歩きながら呟いた、「まだ来ていないようだな」
彼は向うを見ながら立停った。源心寺の森が薄墨で描いたようにみえ、広い草原には人の影もなかった。彼はちょっと迷い、それからまた歩きだしたが、すぐに向うから人の来るのを認めた。一人の若侍が、源心寺の土塀をまわってあらわれ、
「おーい」と彼は手をあげた。
向うの若侍は立停り、こちらを見ると、くるっと羽折をぬいだ。下は白支度で、手早く刀の下緒を外し、それを
「待ってくれ」とこちらの若侍は叫んだ、「話すことがある、待ってくれ」
彼は腰から両刀をとり、
向うの若侍は不審そうにこちらを見た。襷をかけた手の片方は脇、片方は肩のところで、下緒をつかんだまま止め、きびしい眼つきでこちらをにらんだ。
走ってゆく彼の
陽がさし始めるとともに、靄はにわかにふくれて、地面から浮きあがりながら薄くなり、かれら二人の姿を包んでしまった。そうして、その靄がさらに薄れてゆき、明るい日光が草原いっぱいにあふれたときには、もうかれら二人はそこにはいなかった。