軍服を着た肩のたくましい背丈の眼だって高い青年が、
「よう、生きていたな」彼は鸚鵡に話しかけながら呼鈴を押した、「······おまえが生きているくらいなら皆さん大丈夫だろう、どうだ、今でも豆腐屋をやるか」
扉が明いて中年の婦人が顔を出した、そして「まあ
「まあ来さん」と、婦人はもういちど息を吸い込むように叫んだ、「······あなたお帰りになったの、ご無事だったんですか」
「ええ生きて帰りました」
「まあ、それはまあ、それなら電報くらい打っておよこしになればいいのに、とにかくまあお上がりになって」
「お邪魔します、しかし二時間しか余裕がありませんからどうか構わないでください」
「はいはい承知いたしました」婦人は来太の鞄を受け取りながら振り返って呼んだ。
「由利さん、来太さんがお帰りになってよ」
わあという声がした。そして来太が婦人の跡について廊下へはいると、向こうから十八くらいになる少女がとびだして来た。白いスウェターの胸が固く張り切って短めのスカートから日焼けのした健康な脚がぬっと伸びている、頬骨は高く、眼は細く、口は大きくて美人という型ではないが、誰の眼にも愛くるしく見られる顔だちの一種である。
「まあ生きていたの来さん、ほんとう?」
「こんなはずじゃなかったんだがね」
「いいわよ堪忍してあげるわ」由利はいきなり手を伸ばして握手を求めた、「······その代わりあたしをお嫁にもらってよ」
「あ痛、このごろの庭球にそんなルールでも出来たんですか奥さん」
「しようがありませんよ悪くなるばかりで、さあこちらがいいでしょう」
通された部屋は十畳の客間だった。この家の主人は吉村英作といって農科大学の教授であるが、若いころから版画の
「それで、いったいどこにいらしったの」挨拶がすむとすぐ夫人がきいた、「······あなたの軍隊は玉砕したということで、私たちみんなすっかり
「その話は勘弁してください、生きて帰って来たということが説明の全部です、······先生はおでかけですか」
「学校よ、四時にはお帰りになるわ」と由利が答えた。彼女には来太の気持がぴったりきたに違いない、なお問いかけようとする母の言葉をさえぎって元気に云った、「······今夜は泊まっていらっしゃるでしょう、梶井さんに電話をかけて
「いやだめなんだ、午後三時に上野発の汽車へ乗らなければならない、ひとりならいいがつれが五人あって待ち合わせる約束になっているんだから」来太はぶっきらぼうに断わって夫人のほうへ振り返った、「······皆さんの御安否が知りたかったのと、先生にお眼にかかれたら御意見を伺いたいことがあってお寄りしたんですが、四時では間に合いませんから、こんどはお眼にかからずにゆきます」
「だめよ、そんなこと、お父さまお怒りになるわ」
「なにまたすぐ出て来るよ」来太はむぞうさに一
「ああそう御存じなかったのね、去年の二月に国へお帰りになりましてよ」
「帰った、宮城へ帰ったんですか」
「あなたの隊が玉砕したという報道があって、そう、一週間ばかりしてでしょうか」夫人は頭を傾けながら云った、「······急に
「すると今は長瀞にいるわけですか」
「ええそうでしょう」夫人はちょっと云いにくそうに口ごもった、「······多分お家にいらっしゃるでしょうと思いますけどね」
「とおっしゃるのは、なにか変わったことでもあったんですか」
「由利さん」夫人は娘をかえり見た、「······あなたおビールを持っていらっしゃい、時間がないっておっしゃるんだからせめて喉でも湿していっていただきましょう」
「損だわねえ、すぐ帰る人になんか」来太をにらみながら由利は立った、「······お
「ピーナツがあるでしょう」
わあますます損だと云いながら由利が去ると、夫人は少し声を低くしながら、
「去年の十月でしたわ、富美子さんから私にお手紙がありましたの、そのなかに近いうちお家を出て新しい生活にはいる、くわしいことは後から知らせるという意味のことが書いてありました」
「新しい生活とはなんのことなんです」
「それがそれっきり手紙がないのでわからないんですよ、まだお家をお出にならないのかとも思うし、それともお出になって······」
腕白小僧のような彼の顔を、烈しい痛みでも感じたかのような表情が走った。もちろんそれはほんの瞬間のことで、彼はすぐ唇を押し上げるような笑い方をしながら、夫人の眼を見て云った。
「結婚じゃないんですか」
「············」夫人はまぶしそうに見返した、
「そんなことはないと思いますけどねえ」
由利がビールを運んで来たのでそのまま話は途切れた。来太はさっきから時どき左腕をぐっと伸ばしては
「奥さん、お願いがあるんですがね、どんなのでもいいですから先生の服の古いのを貸してくださいませんか」
「どうして、なにかお必要なの」
「この
「お貸しするような物はないけど、そうね、あなたは着丈が合っておいでだから、なにか見てみましょう」由利さんちょっと手伝ってちょうだいと云って、夫人は立っていった。
来太はなにか思いついたという風に、ビールをひと口あおると、立ち上がって庭へ下りた。百坪足らずの前庭はいちめん茶色に枯れ縮んだ芝生におおわれているが、その一部にひとところ新しく土の
「抜き棄てたのか、それとも、持っていったのだろうか」
来太はそっと
縁側から由利の呼びごえが聞こえた。
「僕のリラはどうしたかと思ってね」来太は庭を戻りながらそういった。
「あああれは杉浦さんが抜いておしまいになったわ」由利はむぞうさに答えた。
「······だってあのリラったら花が咲かないんですもの、あの春に咲くからって植えていらしったでしょう、それがいくら待っても丈が伸びるばかりで花はちっとも咲かないの、それで『花咲かぬリラ』って
「来さん、ちょっと当ててみてください」
夫人が二組ほどの背広を縁側へひろげながら呼んだ。
「······みんな着切ってしまって良いのはないんですよ、これどうかしら······」
午後三時過ぎに上野を出た青森行の列車は非常に混んでいた。近ごろは乗客の数もずっと緩和されて、列車地獄などという形容も聞かれなくなっていたが、その日の混み方は特別で、客は昇降口にまではみだしていた。······ぎしぎしに詰まったその車室の中を、来太は最後部から前へと突進していた。本当にそれは突進という感じであった、「押すな」とか「痛い」とか「だめだ、もう入れやせん」とかいう
こういう努力を続けてゆくうちに、ある車室の中で、「小父さん馬鹿だなあ」と呼びかける子供があった。振り返ると十歳くらいの少年が座席の
「失敬ですが、ごめんなさい」そう繰り返しながらも、今にどなりつけられるだろうと覚悟していたが、若者が云ったとおり珍しいことではないとみえ、誰一人どなりもせず不平を云う者もなかった。そして
「皆さん、一言お
「それにはおよばねえ」と叫び返す声がした、「······こんなときはしようがねえお互いさまだ」
「ありがとう、しかしこんなときだからしようがないではすまない」来太は声を張って云った、「それでは食えないから泥棒をするというのと同じだ、非常に恥入ります、どうか勘弁してください」
云い終わって通路へ下りると、ちょうど客から客へリレーで送られた鞄が来た。彼はそれを頭上に高くあげながら、「ありがとう」と叫び、次の車室へ移ろうとした。するとその扉口にひしめき合っている人混みの中から、
「隊長ここです」と呼ぶ声がした。
見るとその車室の最後部の席から、尋ねる五人の者が立ち上がって笑顔を重ねるようにして手を振ってい、「よかったですね、隊長がどなってくれなかったら会えないところでした」
「しかしびんびんとよく響いたなあ」
「久しぶりの大音声で胸がすっとしたよ」
「こいつは拍手しました」彼らは来太が側へゆくとわれ勝ちにそう云った。
「みんなそろってるな、よしよし」来太は一人の明けてくれた席へむぞうさに掛けながら、五人の顔を順々に見まわした。
「······訪ねた先で時間を取ってあぶなく乗りおくれるところだった、しかしみんなよくこの列車へ乗ったな」
「それはもう、隊長が乗るとおっしゃれば必ずお乗りになると信じていましたから、その点は安心していました」
「結構だ、しかし隊長はもうよそう」来太は吉村家で借りて着た背広の前を
戦場生活をした者は思考のテンポが速い、一瞬間に何十年かの過去を回想する機会に馴らされてるからである。来太は眠ろうとして眼を閉じたが、
いま彼の心を去来する思考の中心になっているのは「花咲かぬリラ」という言葉であった。昭和十七年の一月、出征する直前に彼は恩師吉村教授の家の庭へ一本のリラの若木を植えた、それはその春にはきっと咲くと植木屋が保証してくれたものだった。······そのとき杉浦富美子と将来を約したのだ、「もし生きて帰ったら」と、二人は一緒にリラを植えながら誓った。富美子は吉村教授の旧友の娘である、実家は宮城県
||いまみんなでトランプをするからいらっしゃい、勉強? なに勉強は待っててくれるよ。
そう云った調子である。明らかに不愉快だという態度を示しても、例の神経の太い笑顔で無視してしまう、それがたび重なるうちに、富美子もようやく馴れていったが、それでも親しみ近づくという様子はなかった。······こういう状態が三年ばかり続いた、そして来太に召集が来たとき、まるで初めから約束していたかのように、いっぺんに二人の心が結び合ったのである。リラの若木を植えたとき富美子は泣いた、二人で小さな立札に、来太が「むらさきはしどい」と書いたあと、富美子はそれに添えて「また逢う日まで」と書きながら泣いた。もっと冷静な娘だと信じていた来太は、そのとき初めて本当の富美子の心を見たように思ったのであった。
帰還して故郷へ帰るときめたとき、彼は新しい生活の中心としてまず富美子を考えた。将来を誓ってから五年という月日がたっているけれど、戦争の厳しいさなかではあり、彼女の気質からすれば必ず待っていてくれると信じた。それもおそらく片町坂の家で待っているに違いないと、······だが富美子はいなかった。来太の属する部隊が南方群島ちゅうの某所で玉砕したと信ぜられていたことは、日本へ帰って初めて聞かせられたのであるが、富美子はその玉砕の報道のあとで故郷の宮城県へ帰ったという、そして近く家を出て新しい生涯に入るという手紙を寄せたまま、音信が絶えているというのだ。
||新しい生涯とは結婚ではないだろうか。
来太がそう疑ったのも決して無根拠ではないだろう。あのとき二人で植えたリラがついに花咲かずじまいで、富美子が帰郷するとき抜き去ったということも、なにかしら二人の運命を象徴するように思えた。
||だが絶望するのは早い。
来太はそこまで考えをつき詰めると、いつもの癖で
||すべては長瀞の家を訪ねてからだ。
そして彼はぐっすり眠りこんだ。
呼び起こされたのは列車が水戸に着いたときだった。来太が覚めると、五人は
「ここはどこだ、ああ水戸か」そう云って彼はまた左腕をぐいと伸ばし、手頸のところを見る動作をした、「······さて時間はたっぷりあると、そこでおれの計画を話すんだが、村野から酪業農場をやるということだけは他の者も聞いているはずだな」
五人はぐっと前へ乗り出しながら熱心に彼の言葉をきき取ろうとした。来太は一房欠けた夏蜜柑の実を持った左手と、煙草を持った右手とで巧みなゼスチュアを交えながら、ちからのこもった早口で語りだした。
「われわれ日本人が米作農業から離脱しなければならぬということは幾たびも話した、稲は南洋圏内の原産であり、その地方に適した植物だ、その証拠には南洋地方だと肥料もやらず
来太はそこでぐるっと車内にひしめく乗客のほうへ手を振った。言葉はかなり
「日本は国土が狭くなったうえに人間はこのとおり多い、最小限の耕地で最大限の人口の食糧を賄うには、量ばかり多く要して内容の貧弱な米食より、少量で栄養の充足する酪農食法を採るのが当然だ、米飯二椀に焼き
彼はこういって水田というもののなくなった緑と野花に飾られた田圃を描写し、美しくなった郷土から生まれる新しい生活の詩と美とを語った、「こんな話はおれの柄ではないが」と断わるとおり、ぶっきら棒なぎすぎすしたものだったが、それでも五人の青年たちには楽しい空想を与えたとみえ、彼らはむしろ
「これでおれの理想の要点は云った」
と来太はやがて話を結んだ、「······君たちもこの気持をよく理解したうえで、中折れのしないように頑張ってくれ、戦争は終わり軍隊は亡んだが、戦友として死生を共にして来た精神的つながりは亡びはしない、戦時ちゅうしっかりと結び合ったこの精神的つながりこそ、今後あらゆることを行なう土台とならなければならない、現在の状態はいろいろな意味でばらばらだ、集中的に国を
「よくわかりました」五人の中でいちばん年長らしい固肥りの毛深い青年がそう云って
「こいつはすぐこれだ、なにかというと前祝いに一杯とくる、いつかなんか今夜はいい夢が見られそうだから前祝いに一杯やりたいと云いやがった」「それより今夜はちょっと呑めるから前祝いに一杯ほしいと云うたには
来太は笑いながら
「その口金を例の手で取れよ、一本きりしかないからまわし呑みだ」来太はこう云って
そして南京豆の袋をそこへひろげると、みんな一斉にぱちぱちと拍手した。毛深い青年は馬のようにみごとな大きな前歯を
夜半十二時過ぎ、来太は五人と別れて
駅員に宿屋をきいたが、こんな時勢だし時間が時間だから起きまいと云う、長瀞という所をきくと歩いて一時間足らずだとのことで、これも初めて訪ねるにはすぐ歩きだすと早く着きすぎてしまう、仕方がないので彼は待合室のベンチでひと眠りすることにした。
そういうことには馴れているので、さすがに北国の寒さはかなり厳しかったが、案外なくらいよく眠れて、覚めたときはすでにガラス窓の外がほのかに白みはじめ、一番列車に乗る客がちらほら集まりだしていた。······顔を洗おうと思ったが、どうやら洗面所もないらしいので、彼は手鞄を持って駅を出た。町はそこから離れているらしく、屋根の低いうら寂れた家並みのひと側並びに続く道が、霜を結んで
長瀞という地名から渓流の
「へえ」という間伸びのした返事が聞こえ、やがて
「用事はお会いしないと話せないことです」
「それではお眼にかかれぬと申しますが」
「なるほど」来太はうなずいた、「······では富美子さんのことでお話があると云ってください。それから僕が片町坂の吉村教授のゆかりの者だということも」
老人はややしばらくして引き返して来た。
「お気の毒ですが主人はいま多忙で、お眼にかかることはなりかねると申します」
「しかしそれはおかしいじゃないか」そう云いかけて来太は口を
「いいえここにはおいでなさいません」
「どこへいらしったんです、おかたづきになったんですか、それとも······」
「さようなことは私からはお返事がなりかねます」
「僕はききたいんだ、きかなくてはならない理由があるんだから、教えてくれたまえ、富美子さんはどこにいるんです」
「お返事はできません、お引き取りください」
「じゃあしようがない」来太はかがんで靴の
靴を脱ぐとそのまま玄関へ上がった。老人はあっけにとられ、いったいなにをするのかと云いたげに見ていたが、来太がそのまま奥へゆこうとするのでびっくりして押し止めようとした。しかし彼は大股にそこの廊下をつき当たり、広縁へ出ると右へ、いくつかの部屋の前を通ってゆくと、十畳ほどのひと間にこの家の主人と思える初老の人物のいるのをみつけた。黒っぽい
「僕はいま取次ぎの人に申し上げた麻川来太という者です、御多忙で会えぬということでしたが僕も多忙なので、はなはだ失敬ですがお邪魔をします」
「話はできません」主人は冷ややかな眼でちらと一
「僕は富美子さんに会いたいんです、会わなければならないんですよ、それはあなたがどうお考えになるかということとは問題がまったく別なんです、どうか教えてください富美子さんはどこにいらっしゃるんですか」
「君はいったい何者です、どういう権利があってそんな押付けがましいことが云えるのですか、家の娘がどうしたというのです」
「ひと言だけ申し上げましょう、僕は五年まえに富美子さんと将来を約束した人間です」
主人杉浦氏の
「君は他人の娘を侮辱するつもりですか、富美子がそんな
「将来を約束することは猥らではありません、それはあなたの偏見です、しかし今ここであなたの偏見を指摘してもしようがない、ただ申し上げたいのは富美子さんは親権者の承認なしにも結婚のできる年齢に達していることです、したがってあなたには富美子さんの結婚を阻む権利はないのです」
「いいだろうやってみたまえ」杉浦氏はふしぎな冷笑を浮かべた、「······私には富美子の意志を
「富美子さんの居どころさえ伺えば帰ります」
「源吉はいないか」杉浦氏はとつぜんそう叫んだ、謡曲かなにかで鍛えたらしい張りのあるよく
「どうぞ御心配なく」彼は右手でひょいと一種の身振りをし、尻下がりの眉と眼をあげてにやっと笑った、「······僕は帰りますよ、お手数はかけません、どうも失礼しました」
「文句を云わずに帰れ」若者の一人がそう云いながら来太の背中を小突いた、来太は振り返った。頬肉の盛り上がった眉毛の薄い野卑な顔の男である、小造りで醜いほど巌丈な体つきだ、来太はなにも云わずに玄関のほうへ出ていった。
杉浦家の門を出て、国道のほうへ向かいながら、彼は云いようのない焦慮と不安に苦しめられた。列車の中で五人の仲間と語り合っていたときは、理想の実現に対する情熱と確信とで、どんなに困難な事情があろうとも必ず富美子を自分の手に奪いかえしてみせると思った。なぜなら彼の理想の実現にはいつもその計画の中心に富美子というものがおかれてあったからだ。しかし杉浦家を訪ねてみて、その困難さの意外に大きいことを知った、事情は予想以上に複雑なものらしい、彼女が家にいないということだけはたしかなようだが、結婚したのかどうかさえわからない、そのうえ杉浦氏は「富美子にその意志があったとしても、現在それが許されるかどうか疑わしい」という意味のことを云った。要するにぜんたいとして、杉浦氏が彼女のとった行動を世間に対して恥じている、なにをしたかということも、どこにいるかということも人に知られたくない、その事実のほかは来太にはなに一つ知ることができないのだ。
「おれは今きっと落第生のような
道が二
「······そうか」来太はにやっと笑った、例の
「······ちょっとお礼をするだけでもいいだろう」
そう呟やくと手早く鞄を閉めて立ち、道へ上がって若者の跡を追った。······作男は小造りの体の上半身をかがめるような姿勢で、国道のほうへ急ぎ足にゆく、ちょうど小さな切通しになっている手前に、左側が
「ああ君、ちょっと待ちたまえ」「············」男は首だけこっちへ
「さっきは失敬した」そう云いながら近寄ると、来太は鞄を藪の中へ
「なにをするだ」男は「仰天」したようだ、びっくりとか
「なんにもしないよ」来太は男をずるずると藪の中へ引き
「なにもしないと云って、そんなに殴るじゃないか」
「なにこれ以上はなにもしないと云うんだ」彼はもう二つばかり平手打ちをくれ、相手の右腕を捻じあげながら云った、「······だがきくことに正直な返事をしなければなにをするかわからない、断わっておくが僕は戦地から帰ったばかりだ、まだ相当に気が荒いということを忘れないでくれ、いいか、そこできくが富美子さんはどこにいるかね」
男は懸命に来太の手からのがれようとした、力業をしているのでかなり
「云いましょ、お嬢さんは······苦しい」
「云うなら楽にしてやるよ、そら」
「お嬢さんは」と、若者は絞められている喉をぜいぜいさせながら云った、
「西洋の尼さんになるだとおっしゃって、山沢の修道院へお入んなさったですよ」
「山沢というのはどこだ」
「ここから南へ二里ばかりいった所です、仙台から疎開して来たとかいうことで、そこにゃあ尼さんが大勢いましたっけ。へえ、私がそのときお嬢さんの供をしてめえったです」
「それを人に話してはいけないと止められていたのか」
「旦那さまは家から
来太は手を放し、若者を援け起こした。
「わかった、ありがとう」彼は若者の肩を叩き、無邪気な明けっ放しな表情でにっと笑った。
「乱暴なことをしてすまなかったな、しかしこれはさっき君が小突いた背中のお礼も含めてあるんだ、じゃあ失敬」
まだ痛そうに、片手で殴られた頬、片手で
彼は力いっぱい大地を踏みつけ
山沢という村へはいってきくと、その修道院というのはすぐわかった。それは国道から西へ十町ばかり登った赤松という部落にあり、明らかに古材を持って来て急造したらしい
「どうぞお入りください」出て来たのは中年の日本人の尼僧だった、「······いま呼びますからしばらくお待ちくださいまし」
三坪ばかりの応接間へ通すと、尼僧はぎいぎい鳴る扉を閉めて出ていった。三方板壁で、幼児キリストを抱いた聖母の画像を掲げたほかには、なんの飾付けもないがらんとした室である、まん中に大きな長方形のテーブルがあり、それを囲んで荒削りの木で造った椅子が七つ置いてあった。······彼は窓の側へいって外を見た、抑えようのない感動が胸へこみあげてくる、とうとう逢えるということが、その事実を前にしてかえってふしぎな
そのとき扉が明いた。来太は
「面会時間は三十分に限られております」と、尼僧が云った、「······それからこの扉は明けたままにしておいていただきます」そして足音もなく去っていった。
二人はテーブルを
「帰ってきました」来太はしずかにそう云った、「······そしてこれから北海道へ帰り、いつか話した酪業農場の経営を始めます、どうかすぐその手続きをとって僕といっしょに来てください」
「······わたくし、まいれません」富美子はなにか物が喉につかえてでもいるような、乾いた
「······お願いします、どうかわたくしのことはお忘れくださいまし」
「僕の眼を見たまえ」来太は命令するように云い、両手をテーブルに突いて半身をぐいと前へ乗り出した、「······そして理由を聞こう、それだけの権利は僕にあるはずだ」
富美子はしばらく無言だった、
「······申し上げましょう」やや久しくして、彼女はうつむいたまましずかに口を切った、
「······ここへ入る決心をするまでには、単純には申し上げられないことがたくさんございました、でもいちばん重要なことは、あなたのいらしった部隊が玉砕したという報知のあったことです」
「その点はいま解決したはずだ」
「わたくしそのとき生きる希望を
「こんな云い方を許していただけるでしょうか」と、ようやく
「わかった」来太は性急に富美子の語尾を奪い、もういちど左の手頸を見ながら、ぐっとまた半身を乗り出した、「······生きる希望を喪った原因の一つは、僕が帰ったことで解決されたはずだ、次の問題は現在の日本が虚偽と悪徳に満ちている、救いようもなく汚れてゆく、だから世間を捨てて修道院の中で清浄に生きたい、······こういうのだね、よし、それではこんどは僕に云わせてもらおう」彼は片手でさっと空を払った、「······現在日本の国土はほとんど維新当時の狭さになった、その原因は簡単ではないが、多くの同胞を殺し、国土を喪い、そのうえ
来太はぎゅっと唇をひき結び、こみあげてくるものを抑えるようにしばらく言葉を切った。
「事ここにおよんだ理由や原因を千万ならべたところで、この責任がわれわれにあるという点はいささかも軽くはならない、せめて出来ることは、そういう苦難を与える子供たちのために、われわれはなにかをしなければならぬということだ、自分にできる限りなにごとかを子供のためにしのこさなければならぬということだ、······なんの罪もなく生まれ成長する子や孫が、どんなに苦しい
富美子は顔もあげず身動きもしなかった、来太は「時間がないんだ、早くしたまえ」と云い、床の上から自分の鞄を取った。しかしまだ富美子は動こうとしない、······とそのとき、来太の後ろの窓から、「いつまで問答を続けるのかね」という声がした。来太が振り返ると、窓の外に杉浦氏が来て立っていた。その後ろにはさっきの作男の姿もみえる。
「君の説はここで聞いたよ」と、杉浦氏は癇の強そうな顔に微笑も浮かべずそう云った、「······それ以上なにも云うことはあるまい、君はけさわしの家へずかずか踏み込んで来たが、どうして今あの手を使わんのかね」
来太は大股に窓へゆき、
「黙っていてください、僕のことは僕がやります」そう云いざま手荒く窓を閉めた。そのとき初めて、杉浦氏の半ば白い口髭がゆがみ、わずかに微笑のゆらめいたことを来太は知らなかった。彼はふたたびテーブルの前へ戻った。
「出かけるんだ、そのかぶっている物を脱ぎたまえ」圧倒するような声だった。
「脱ぎたまえ」
「············」富美子はたゆたいつつ被衣を脱いだ。そしてしずかに面をあげた、唇がふるえ、眼にはいっぱい泪がたまっていた。
「汽車の時間がある、幸いお父様が来ていらっしゃるから手続きや荷物のことをお願いしよう、それでいいね」
「······わたくし、家へ寄ってまいらなければなりません」富美子はしずかに被衣を折りながら、しかし今はもう心のきまった眼で来太を見上げた、「······あのリラの木を持ってまいりたいと存じますから」
「ほう、あれは長瀞へ持って来てあったの」
「花の咲かないということが可哀そうでしたから」
「なにリラは寒い所が合うんだ、北海道へいったらきっと咲かせてみせるよ」
二十分後である、地味なワンピースに着換えた富美子の腕を取って、来太は大股に修道院の門を出ていった。坂道を下りかかったとき、ふとまた左腕を伸ばして手頸を見ようとしたがいきなりえいと叫んでその腕を振った。
「ええ
富美子の明るい笑い声が遠のいてゆく足音とともに松林の中へ隠れていった。······ようやく中天に昇った早春の日を浴びて、