貝殻を焼いて石灰をつくる工場が中堀から荒地へ出はずれたところにあった。
建物は百坪ばかりの高い二階建でもうすっかり古び、羽目板はみんなひどく乾割れているし、外側から二階へ通ずる段無しの足場も危なかしく朽ちていた。そして屋根から下どこもかしこも白い番
工場の前は荒地へ続く道を隔てて河になっている、
工場の中では七人の労働者が働いている、彼らは裸である、わずかに恥部を三角巾で隠しているだけだ。それから頭髪を
彼らのうち四人は男で、あとの三人は彼らのなかの妻たちであった(男の一人は独身であったから)。彼女たちも同じように裸である、髪も刈り込んでいる、もしもその大きく張出た乳房や運動につれて豊かに揺れ動く腰の肉付がなかったならば、ほとんど男たちと見分けつかぬようすである。恥部を
トルコの風呂の中へはいったような、濃密な灰煙のいっぱい立こめている建物の内部で、この灰まみれの蛮人たちは鈍重に黙々と動き廻っている、高い天床から
こんな環境にあっては人たちの感情が黙しひしがれ
男たちのなかに実際ひとりの懲役人がいた、彼は四十あまりの
彼は黙々として働いた。食事休みで仲間が河岸へ出るときにも、仕事をしまったあとの雑談にも彼はけっしてみんなと一緒にならなかった、いつも独りで工場裏の
彼は奇妙に生ものを愛した、もっともそれにはひとつの癖があって、釣って来た魚を沼地へ仕切りを作って活かしておくとか、よしきりを捕えて手製の籠の中で飼うとかするのである。猫とか犬とかいう放ち飼いのものには眼もくれないのだ。||そしてもっとも彼が愛していたのは鶏舎の中にいる
「こここここほらよ、ここここほらよ」
彼は虫を老鶏だけに与えようと苦心しながら云う、「ここここほらよ、ここここ」
それから鶏舎の前にかがみ、両手で
「どうするんだ」
と工場主が訝しげに
「その||欲しいんです」
「でもやつはすぐに
「一両だしますから」
彼はその老鶏を買い取った、そしてべつに自分で小さな鶏舎を作ってそれを飼い始めた。
仲間の男たちは、彼がどんな殺人を犯したか知りたがっていた。そこで誰かがときどきそのことを訊いた、けれど彼は黙って肩を揺り上げ、相手から外向きながらほとんど
「そんなことを訊いて||」
と云うのである、「それでどうしようと云うんだ、人をあやめるてえことは、なみたいていなことじゃねえ、もしもおめえが······」
結局なにものも彼は語らなかった。
女たちの中にお
彼女はすばらしい体をもっている。ルウベンスの描く女のように広い逞しい腰で、脇腹には厚い脂肪のひだが
みんなは少し以前からあの痩せた男が、いつも彼女にすばやい
始めのうちは控えめであったが、しかしだんだん彼のようすが変ってきた、絶えず口のなかで何かぶつぶつ呟きながらその辺をうろつき廻ったり、突拍子もなく足踏みをしたりする、ひどく悲しげな眼つきをしていたかと思うと、すぐに荒々しい態度で外へ出て行ったりするのだ。そして彼女を眺める眼つきは次第に無遠慮になり
みんなはそれを知った。ときには誰かが我慢のならぬようすで、たしなめるように見かえすか
「なにか文句があるのかね」
と彼の眼つきが語る、
「文句があるなら云ってもらおうじゃないか、どうせおれは人殺しの懲役人だ、え||? どうだね」
みんなは黙って彼から外向いた。
ある種の女たちが不健全な男や犯罪者に強く心を引かれることは知られている、そしてお房もまたそうした女たちの一人であったに違いない、彼女は痩せた男に
食事休みで河岸へ出ているとき、彼女はどこかの隅から自分を眺めている眼を感ずると、
「どこからどこまで浮気で、どこからどこまで本気か、おまえとわたしがよく知っている」
というような唄をうたったりした。
石膏像のような仲間うちで、彼女のそうした態度がみんなに気付かれぬはずはない、ことに茂吉は不安な眼で妻を
真夏のことであった。
午すこし前に、茂吉が焚口を見ようとして焜炉のほうへ近づくと、
茂吉は自分の妻が二三日前から具合の悪い体であることに気付くと、何ともいえぬ恥辱と怒りを覚え、かっとしながら我知らず拳を握緊めて彼のほうへ突出した。しかし彼はふてぶてしく茂吉を見上げ、
食事休みのとき、茂吉はそのことを仲間の者に話した、みんなは黙って聞いていたが、誰の顔にも苦しげな
「きゃつは気狂いだ」
やがて一人が低く呟いた、
「そんなものを独りでこそこそ見るなんて、どういうつもりかわけが知れねえ」
「だが気をつけなくちゃいけねえ、きゃつはそのうちに何かしでかすぞ」
「みんなでよく見張るんだ」
と別のが誰のほうをも見ずに云った、「それから、女房たちにもきゃつの側へ寄らねえように云わなくちゃいけねえ」
それはお房の軽はずみな態度を云っているのであった。茂吉は重たく眼を伏せながら足の爪先で地面の灰を掻いていた。
その夕方。仕事をしまってから彼は工場裏の自分の鶏舎の前へやって行った。この頃めっきり衰弱した老鶏は、自分の体にわいた羽虫をせせる元気もなく、隅のほうにじっと
「こここここほらよ」
彼は飯粒を投げながら呼んだ、「こここここほらよ、こここここ」
いくら投げてやっても老鶏は動かない、もうほとんど死にかけているのである。
彼もそのことはとっくから知っていた、||実際、ものを喰べなくなればそれで生ものの死期がきたのだ。
彼はあぐねたように太息をつき、それからどかっと腰をおろして遠くのほうを見た、||よく晴れた日で荒地の雑草は活々と伸び、沼や
流れる雲や風に揺れる木葉は、人の胸に隠れている幻想をかきたてるものだ、彼の眼には数々の追憶がうかびあがる。
「||ふしぎだ」
と彼は放心したように呟く、「どうして、こんな遠い所へ来たんだろう、もしかしてこれがながい途方もない夢ででもあったら||女房があそこの道から夜業の弁当を持ってやって来るとしたら······家には子供が待ってる、
彼は突然その両手で頭を
「あら、この鶏は死にそうだわ」
ふいに後で声がした、彼はぎょっとして振返るとそこにお房が立っていた。
「もう駄目らしいわねえ」
「||うん」
彼は
「どうせ駄目なら今のうちにつぶしちゃったらどう、あたしが絞めてあげるよ、羽根でふわふわした首をぎゅっと絞めるのは良い気持だわ||」
「そんな······罪なことを云うものじゃねえ、商売でもおめえ||」
「気が弱いのねあんた」
女は眼を光らせながら云った、「それでよく人殺しなんかできたもんだ、ねえ||やったのは男? それとも······」
「おめえ何のためにそんなことを訊くんだ」
そう云って彼が鋭く見上げると、女は裸の腹を波打たせながら喉で笑った。||彼はその顔をしばらく覓めていたが、やがてものに襲われでもしたように
日が暮かかってきた、荒地には鼠色の
「今夜は堀のお縁日だ」
女がしばらくして云った、「みんなは行かないって云うから、あたしゃ一人で行くんだ······でも帰り道が暗くて怖いからね」
「茂さんは······茂さんは行かねえのかい」
彼がおそるおそる訊いた。
「どうだか、あの人は意久地がなくって、飯がすめば死人のように寝てしまう、まるで年寄みたいだから||」
「||なあ」
彼はふっと声をひそめた、しかし喉をごくりとさせただけであとを云わなかった。女は
「どこからどこまでが浮気でどこからどこまでが本気か、おまえとわたしがよく知っている||」
女は鼻にかかる声で唄いながら行った。
その明る日の午後のことである。もうもうとゆれかえる噴煙の中で不意に鋭く女の喚き声が聞えた。
「き||、この!」
灰煙の中を誰かがとんで行った。
「ど畜生、おれの······」
そういう声と同時に、どしんと誰かの倒れる響きが、ひどく迫った調子でひと言ふた言叫ぶと、烈しく咳き入るのが聞えた。そしてみんながそっちへ駆けつけたとき、ごつんという低い(ちょうどそれは
みんなは倒れている男を工場の外へ担ぎ出した、それは茂吉だった。裸の妻は
「あああ、ああああ」
と痴呆のように呻き続けた。
逃げた彼はすぐに
荒地の葦の中にひそんでいるところを、消防組の若者たちに狩出されたのである。彼はなんの抵抗もせずおとなしく繩をかけられ、そのまま駐在所へ
巡査の調べに彼はこう答えたという、
「わたくしは間違いをしました、わたしはあの牝豚の畜生をやっつけるつもりでした」
「なぜ女を殺す気になったのだ」
「あの男には何も恨みはなかったのです、あの阿魔こそ······」
どうして女に危害を加える気になったか、彼はついに云わなかった。||そして間もなく遠くの裁判所へ連れて行かれた。
茂吉は三月ばかり病院に入っていたが、彼のためにショベルで破られた頭は結局もとのようにならず、病院を出てからしばらく工場主の持家でぶらぶらしていたが、やがて妻と一緒にどこかへ行ってしまった。
村の人たちはこの事件の原因を知ろうとしてずいぶん根気よく根掘り葉掘りしたが、工場の者たちはいつも黙って、灰まみれの坊主頭を横に振るばかりだった。そこでいろいろ憶説がうまれた、途方もない情事がこねあげられたり、彼らの奇怪な生活の秘密が
彼らはしかしそんな