備前の国岡山の藩士に、
「珍しい上天気、いい日和でござるな」「······されば」「いや、妙な雲が見える、降るかも知れぬが、どうであろう」「······されば」「ここで降られては
これと面白い対照なのは伯父の三左衛門であった。三左衛門は、「
「若い者はもう少しはきはきとせぬか」顔を見ると小言である。「おまえのすることを見ていると背骨をかたつむりに
小言を云いながら独りで
ある年の春先、三左衛門は広縁に出て庭を見ていたが、ふと庭はずれにある梨の木の高い
「お呼びでございますか」「あそこを見ろ、あの梨の梢に鷺がとまっておる。見えたであろうが」「はい」「あれをここから一矢で射止めてみろ」「それでどういたします」
「どうするものか、その方が弓の稽古をはじめて五年、どれほどの腕になったかまだ見たことがない、ちょうどさいわいだから心得のほどを見てやる。さあやれ、急がぬと逃げてしまう、なにを愚図愚図しておるか」云い出したら承知しない、
藩の弓道師範に十三歳の時から就いて学び、まる五年稽古をしていた三之丞、上達したのかしないのか、てんで分らない。三左衛門がときどき師範に会って
「みどころはござる」という返事ばかりだ。どうみどころがあるのかと押して訊けば、「弓の道にみどころがある」という、弓を稽古しているのだからその道にみどころがあるのは当然だ。人を馬鹿にした返事だと思って、あるとき自分でしばらく稽古場へ通って見ていると、三之丞の矢はすこしも的に当らない、幾ら射てもみんな的から外れてしまうので、堪り兼ねて三左衛門が、
「これは驚いた。あれだけ射て一本も的に当らないというのは情けない、とても見込みはあるまいから
と云った。すると師範は、「いや、そう案ずることはござらん」と平気な顔で次のように云った。
「三之丞どのがこの道場へまいってから三年になる、ほかの者がめきめき腕をあげていくなかで、彼一人はすこしも進歩が表われない、ああやって幾ら矢を射てもすこしも的に当らない、しかし的に当らないのは当てようとしないからだと拙者は見ている。······拙者も未熟ながら師範の一人、門人たちの腕がどれほどのものか見ていればおよそ見当はつく、三之丞どのの構えを見るにほとんど天成弓の名手に生れついたと思われるほどだ。あのくらいの矢頃なら百発百中は当然な筈なのに、かつてまだ一矢も的に当てていない。つまりそこだ、三之丞どのは的に射当てる修行をしているのではない、道の極意をさぐろうとしておるのだ。何年先にその道の奥を極めることができるか分らぬが、やがては無双の名人にならるることは間違いない、良い甥御を持たれてお
弓と矢を持って戻ってきた三之丞、「五年来修行の腕のみせどころだぞ、ぬかるなよ」伯父が念を押すのをうしろに聞きながら、足場を計って弓を構えた。そこから庭はずれの梨の木までおよそ二十六七間、芽をふきはじめた高い梢に鷺はまだじっと翼を休めている。三之丞は弓に矢をつがえ、しばらく呼吸をしずめていたが、やがて位どりをしてきりきりとひき絞った。ひき絞った、と思うより
「未熟者、なんのざまだ」三左衛門はまっ赤になって怒った。「あればかりの矢頃でおまけに雀や
「父上さまはどう
「はい、去年の冬のはじめでございました、赤尾様や田沼様、それから森脇の右門作さまなどが
三左衛門は黙って腕を組んだ。||これは鷺を射落せと命じたのが誤っていたかも知れぬぞ。そう気がついたので、「なつ、おまえ三之丞の
十九歳で家督相続をした三之丞は、師範の推挙でお弓組にあげられた。備前岡山三十五万石の領主池田
はっきり云ってのけたから光政も驚いたがお側の者も胆を冷やした。お鷹野で獲物があると雁の吸物の御馳走が出るのは慣例なのだが、旗本側近の者だけでもたいへんな人数だから、雁の肉がその人数へゆきわたるわけがない、しぜん中には牛蒡だけ泳いでいるということになるのは当然で、今更そんなことをいうのは云う方がどうかしている。しかし光政はその若侍の顔をみつめていたがやがてしずかに
「そうか、それはこれまで気の毒であったな、幸い今日は獲物も多いことゆえ、まことの雁の吸物を遣わすぞ」そう云って去ろうとしたが、「その方、名はなんと申す」「恐れながら、青地三之丞と申し、お弓組に御奉公を仕ります」「すると三左衛門の甥だな」「御意にございます」
光政は奥へ入るとすぐ係りの者を呼び、家来たちにさげる吸物椀へは、必ず雁の肉がゆきわたるようにと申付けた。光政も今まで全部の椀に雁がゆきわたるとは思っていなかった。けれども三之丞の言葉を聞いてすぐ気付いたことは、||雁の吸物をさげると云う以上は、雁の吸物をさげるがよいので、ゆきわたらぬ物を名前だけそれにして、実は中身のないものをさげるのは間違いである。雁の吸物と云ってもまた牛蒡だろう、などという気持を起こさせることは、これを大きくすると、一つの藩の政治の信不信にも及ぼすことだ。そういう点であった。三之丞の顔つきは明らかにそういう意味を持っていたのである。これが三之丞の見出されるきっかけとなり、やがて「御秘蔵人」と呼ばれるほどのお気に入りになったのだが、この初めの一言で三之丞の心底を察するところに、光政の人柄の大きさと深さがあったのである。光政は生涯新太郎という幼な名で通した、池田新太郎少将光政、生れつき名君の質の高かった人であるが、ことに善かれ悪かれ、家臣の
「······はて、あの絃音は聞き取れぬが」と
「はて何者であろう」としずかに広縁へ出て見た。広前で弓を射ているのは青地三之丞だった。||見たことのある若者だな。としばらく見守っていたがようやく思いだしたので、あああの雁の吸物かと苦笑をもらしながら、「これ三之丞」と声をかけた。三之丞はしずかに弓を控え、そこに
「その方はここで初めて見るように思うが、いつから庭へまいっておるか」「はっ、恐れながら今日初めてにございます」「弓はよほど稽古をしておるな?」「さればにございます」さればと云うのだから、あとに言葉が続くかと思っていると、幾ら待ってもそれっきりなんとも云わない。
「誰に就いて学んだか」「はっ、御師範山川
「さればと申すのはよほど達者ということか、それともさほどでもなしということか、どうだ」「はっ」三之丞はしずかに頭をあげたが、「さればにござります」と同じことを繰返しただけであった。
そのとき光政の胸にはっきりと三之丞のことが刻みつけられたが、それでもまだ三之丞の弓術がどれほどのものか光政は見ていなかった。的場で射術御覧の時でも、至極平凡な成績で可もなし不可もなしという程度である。しかしそう見ているうちにやがて、三之丞の真骨頂を
承応二年四月光政四十三歳のときであった。
「毛物のようじゃな」「されば、
とその日は光晟は宿所へ帰った。光政はすぐ老臣に命じ、城中の小馬場に支度をさせた。なにしろ兇猛な人喰い狼を放つのだから外れたら大変である。馬場の中央に丸く竹矢来を結び、射手は馬でその周囲を廻れるように厳重に
やがて合図の太鼓が
「しまった」と取り直す二の矢、矢来に沿って左へ半廻り、またしても狼が立ったまま動かないのを、充分に狙ってふっつと射た。今度はずっと矢頃が近い、乗っかけるように切って放したのだが、
第二番目は要七之助、これも一の矢、二の矢とも射損じた。第三番目に出た森脇右門作、これは新参お召抱えになった
「えいっ」掛け声と共に射て放つ第一矢、ぴゅっと鼻先をかすめたから、狼がびっくりしてぱっと跳び
「やったぞ」と乗り出したが、狼はぱっと横っ跳びに、十二三尺右手へ跳び退いて立ち、矢は地面をかすってからからと遠く外れてしまった。「······無念!」右門作は馬上で思わず
「いや面白いみものであった」安芸守はにやにやしながら、「三人とも腕前はみごとでござるな、しかしなにしろ稀代の兇獣ゆえ、ひと通りではまいらぬのが当然、いや、無理もないところであろうよ」いつも弓の自慢をされてくさっていた光晟、このときとばかり皮肉を云った。光政としても日頃吹聴しているてまえ、そのまま引込んでいるわけにはいかない。
「なになに、いまの三名は馳走披露で、まことの射手はこれからでござる。これ重郎左を呼べ」弓術師範の山川重郎左衛門を呼んで、
「重郎左、あの狼を仕止める射手、申付けてあるであろうな」「······はっ」申付けた者は三人ともしくじっている、重郎左衛門が解し兼ねて見上げる眼へ、光政はしきりにめくばせをしながら、「まことの射手は誰だ、何者だ」「はっ、それは」主君のめくばせで、もう一人誰か出せという意味を察したから、
「恐れながら青地三之丞と存じまするが、
「大切の場合じゃ、三之丞のほかに誰ぞないか、横川はどうじゃ」「恐れながら三之丞然るべしと存じまする」重ねてそう云われた光政は、日頃の三之丞の腕前を知っているから不安ではあったが、「ではすぐ呼び出せ」と命じた。
席を捜したが三之丞がいない、すぐに詰所を見にやると、非番に当っているというので先刻もう下城したという、慌てて
「今日は非番の筈だが、なにか御急用でもございますか」「なにかではない、安芸侯持参の狼、犬追い物で仕止めるということは御承知であろう」「あああのお慰みが、どうしました、誰が射止めましたか」「射止めておれば迎えにはまいらん、赤川、要、森脇三人が三人とも仕損じてお上は面目を失っておいでなさる、貴公に四番を射よという仰せだからすぐ登城されい」「
「それは折角ながら御免を蒙りましょう、いや拙者は御辞退申す、お上へはかようにお伝えねがいたい。三之丞はお座興、慰みのために弓道を学びはいたしませぬと」「青地、貴公それは本心か」使番が
青地三左衛門が使番のあとから追っかけ催促にきたのには訳がある。馬場の見物席にもいず、詰所にもいず、今日は非番だからと云って下城したという知らせを聞いた光政は、三之丞が今日の催しを苦々しく思っているということに気付いた。それで三左衛門を呼び、「今日の犬追い物は当藩弓道の名誉を見せるもので、その成敗は池田家の面目にも
「そう重ねて上が仰せられるのではなるほど辞退はかないますまい、
馬場の桟敷では光政が安芸守の相手をしながら
「重郎左、ほかに誰かおらぬか」何度もそう訊くが、「三之丞のほかにはござりませぬ」と重郎左衛門の返辞は同じだった。ではもう一人使をやれと、命じているところへようやくさきの使番が戻ってきた。すぐ登城するというので光政はほっと息をついた。
「ではどうやら馬場の埃もしずまったようだから、四番を射させて御覧に入れましょうかな」と、いかにもそれまで休憩していたような
「さよう、では御自慢の弓勢を拝見いたそう」と坐り直した。
やがて待ち兼ねていた太鼓が鼕々と鳴り響く、馬上手綱を絞って三之丞が出てきた。馬場を半分廻って桟敷の正面へ拝礼して裃の肩衣をはねると、しずかに馬首をかえしたが、そのとき安芸守がふと光政に振返った。
「あの者は命矢を持っておらぬようじゃな」「······いかにも」そう云われて光政も気がついた、三之丞は弓に則えて一筋の矢を持っているだけである、矢壺は空で命矢という二の矢がない。忘れたのか、と思うと気が気ではなかった。三之丞は気づいているのかいないのか、馬にだくを踏ませて結び矢来へ近づいたが、いきなり、
「え||い!」
と
三之丞は外側をだくでうたせながら、じっと狼の眼をみつめている。狼は三之丞の方を時々するどく
||なにを考えているんだ。||狼と馬競べをする気かも知れん。||なあに、ああしているといまに狼が疲れて寝てしまうだろう、そこを射止めようというのが秘術で、つまりこれを青地流で眠り取り術と名付けるものさ。
見物席ではそろそろ悪評がはじまった。馬場を五周まで、狼の身ごなし、駈ける速度の変化を篤と見定めた三之丞は、やがてもう一度、
「え||い!」
絶叫したかと思うと、もろかくを入れてぱっと疾駆しはじめた。今までほとんど同じ速さで駈けっこをしていたのが、急に気合をかけて疾駆しはじめたので、狼もぱっと脚を速めた。結び矢来の内と外、向うの端を風のように走っている狼、三之丞は馬上にはじめて弓を取り直し、矢をつがえた。
狼は走る、馬も走る、そのまま馬場を一周すると、馬と狼の速度がぴたりと合った、両方とも疾駆だ、三之丞の待っていたのはその刹那である。狼が
「それやった||!」
と乗り出す目前。空を
||ぎゃぎゃぎゃん!
すさまじい悲鳴と共に、さすがの兇獣も横ざまに
「やった、やった、やった」「わあーっ」見物の人々は思わず総立ち、手を
「いかがでござる」光政は得意満面である。
「すさまじきみもの、まことに古今
光政の感動は大きかった。日頃の様子は平々凡々ごくあたりまえな勤めぶりだし、それだけの腕があるなどということは気ぶりにも示さず、競べ矢をすればいつも中どころを射て知らん顔をしている。······こういう事にぶつからなければ生涯そのまま人に知られずに終ってしまうかも知れないのだ。しかも平然とおのれの真価を隠している心の堅固さ、大丈夫とはこういう人物を云うのであろうと、光政はあらためて三之丞を奥ゆかしい者に思い直した。
しかしそれよりも喜んだのは三左衛門である。愚図だの煮え切らぬのと怒鳴りつけてばかりいた三之丞が、岡山一藩の名誉を
「よき甥御を持たれてお仕合せでござるな」「三之丞どのなくば殿の御面目も
あっちでもこっちでも褒められる、根が明けっぴろげの老人だから、自分でも嬉しさを隠すのに骨が折れる。
「そう褒められては御挨拶に困る。あれに就いては拙者もかねがね見どころのある奴とは思っておったが。や、なにしろまだ若輩でな。まだまだ御奉公はこれからでござるよ」などと云っていたが、日を定めて心祝いをするからと、
さてその当日。三左衛門の家へ招かれてきたのは、老臣山内
「長門、長門」と声をかけた。お声が掛ったから、さあみつかったとみんな顔を見合せながら行列は停る。長門は平伏して待っていたがするすると
「今日は天気も格別よろしく、恐れながら長門、恐悦を申上げまする。御留守の儀は、例の如く家中いずれも申合せ万々大切に相勤めまする故、すこしもお心遣いなく。御旅中万福をお祈り申上げまする」よどみもなく言上した。光政もうなずいて、
「留守の事、頼むぞ」と云い、しずかに笑って乗物をあげさせた。両方とも閉門の事には一言も触れないので、お側の者たちは狐につままれたような顔をしていた。このときの事を光政が後に説明して「国の老職たる者が、いかに閉門を命ぜられているからとて、領主が他国へ旅立つのに閉門のまま送りに出ぬようではなんの役にも立たぬ。······あの折も、長門がもし出ていなかったらそのままには差しおかぬところだった」そう云ったと伝えている。
伊木長門はそういう人物である。また若手の滝川幸之進というのは、光政が三年まえ二百石で召抱えた新参者で、年は二十八歳、一刀流の剣では達人の腕を持っているという、癇の強そうな、ひと癖ある面魂。腕は出来るのだろうが少なからず高慢なので、あまり人によろこばれない、しかし一風変っている三左衛門は
やがて酒が廻りだすと、次第に話題が活溌になってくる。自然例の犬追い物の話が中心だ、赤川、森脇、要の失敗から、ただ一矢で射止めた三之丞の妙技を賞讃する言葉が次から次へと止め度もなく出てくる。ところが、席には
「なるほど、一昨日の弓は稀なお手柄御妙技のほど拙者も感服仕ったが、青地氏にひとつお訊ね申したいことがござる」「······はあ」「あの折青地氏には矢を一筋だけ持たれ、命矢はお持ちなさらなかったと存ずるが、見違えでござろうか」「······されば」「たしかにお持ちなさったは一筋、命矢は御所持なされなかったでござろうな」「······さればでござる」むしゃむしゃ芋の煮付を喰べるばかりで、幸之進の方には眼もくれない。
「ではお伺い申す。拙者格別その道の心得はないが、弓を射るには必ず、命矢と申して二の矢を控えて持つのが作法と聞き及ぶ。それを、わざと一の矢のみ持って出られたのは、なにか心得があってなされたことか、どうでござる」「······されば」三之丞はごくりと芋を呑み眼もあげずに答えた。「一矢で射止めることができると存じたゆえ、一矢だけ持って出たのでござる」「さもござろう」幸之進はにっと笑った。
「拙者もそうあろうとお察し申した。なれども青地氏、例え一矢で射止められるにもせよ命矢を控えて持つのが弓の作法ではござるまいか、一矢で射止められるからとてわざと命矢を持たぬのは、申せば高慢とも云うべく、弓の作法にはかなわぬと存ずるが
「これ三之丞、滝川氏の申されること道理とは思わぬか、返辞をせい、返辞を」「はっ、······ただ今」ごくっと音をさせて、鉢盛りの芋をきれいに食べおわった三之丞はじめて幸之進の顔を見て、
「伯父上のお言葉ゆえ、くどうはござるがもういちどお返辞を仕る。一矢で射止めることができるのに、なんのために二の矢を持つ必要がござろうか。弓道の作法とは命矢を持つにあるのではなく、一矢で射止めるところにあるのでござる。······なつどの、この芋は馬鹿にうまい、お代りを頼みます」
「しかしもし万一射損じたらどうなさる」「いや!」三之丞は鉢をなつに渡しながら、「万一にも射損ずるようでは、五の矢、十の矢を持つとも無駄でござろう」
「狼を相手にはさようには申されようが、もし相手に拙者が廻ったとしたらどうなさる、それでも一矢でお射止めなさるかどうだ」「······されば」「拙者も一刀流の剣法にはいささか心得がござる、貴殿の矢面に立って、一の矢を斬って落した場合、二の矢なくして如何なさる。それともやはり命矢は持たぬと云われるか」「······されば」三之丞にやっと笑いながら、
「やはり一矢で御相手をいたしますな」「なに一矢。それでは貴殿の一矢を、拙者に斬って落すことができぬと申すのだな」「······されば」「面白い、これは面白いぞ」幸之進は
「拙者は一刀流の剣を
その日はそれで別れた。翌日、滝川幸之進から日と場所を定めてきた。日は三日後、場所は城外鉄砲的場、刻限は朝十時ということである。······評判の長門がやれやれとけしかけたのだから、今更仲裁をすることもできないが、誰か止めたらよさそうなものだがと案じている。尤もそんな心配をする者ばかりはいなかった。多くの者は犬追い物で三之丞の腕を高く買っているから、||なに、滝川如きなにほどの事があろうぞ||青地の弓は天下無双だ、きっと勝つからまあ見ていろ。そういう者の方が多数をしめていた。
いよいよその当日になった。鉄砲的場は城の東南、旭川を渡った
幸之進は
果合いではないから、別に意趣を名乗ることもない、粕谷市郎兵衛が進み出て、
「では一応勝負の作法を申しのべる。間合は並足三十一歩。青地どのの射る矢は一筋、これを払い落せば滝川どのの勝だ······もとより武道の試合であれば、勝敗に
検分の人々は北側へ並ぶ、二人は三十一歩の間隔で相対した。三之丞はおのれの位置につくと、おもむろに右肌を脱ぎ三ところ
「いざ!」幸之進がさけんだ。三之丞は無言のまましばらく相手を見守っていたが、さっと弓をあげるや、きりきりと大きく引きしぼった。
とみる刹那、絃がなって、光のように飛ぶ矢。
「えいっ!」幸之進の口をほとばしる絶叫と共に、大剣がきらりと直線を描く、飛び来たった矢は、みごとに半ばから斬り折られて右へ落ちた。
「おみごと!」桜井と碇田の二人が同時に喚き、ばらばらと幸之進の側へ
「滝川どの、勝!」山内権左衛門が扇子をあげて云った。三之丞はしずかに弓の絃を外し、検分の人々の方へ近寄ってきながら、
「未熟な技を御覧に入れてお恥ずかしゅうござる」と丁寧に会釈をした。そこへ幸之進もやってきた。
「青地氏、やはり狼と人間とは違うようだな」「まことに、滝川どの、御手練おみごとでござる。失礼仕った」「お分りあってなにより、これからは命矢の御用意をお忘れにならぬよう。世間は広く、人間はさまざまでござるからな」「まことに······まことに」三之丞は
「なんたる態じゃ三之丞」と、あとを追いながらしきりと喚きたてた。
三之丞が自分の屋敷へ帰ってみると、玄関へ出迎えたのは意外にも伯父の娘なつであった。試合の様子を心配してきたのであろう。式台におりて手をつきながら、気遣わしそうに三之丞を見上げた。
「お帰りあそばせ」「ああいま帰った。どうしたんだ」「御首尾は如何でございました」「負けだ」三之丞は弓をなつに渡しながら、あっさり笑って云った。「負けだよ」
そして、そのまま奥へあがった。なつは受取った弓を持ってあとを追おうとしながら、ふとその弓に眼をつけてあっと云うと、つくづくとうち返し眺めていたが、なにか合点するところがあったとみえ、そっと微笑しながら三之丞のあとをしずかに追った。弓を家来に渡して居間へはいってから、なつは静かに訊いた。
「三之丞さま、御勝負の様子をお聞かせくださいませぬか」「おまえに試合の模様を話してもしようがない、女はそんなことに気を使う必要はないよ、それより伯父上がひどく御立腹だ。またひとつおまえの
明くる日、登城をすると、もう昨日の勝負のことがすっかり伝わっているとみえて、会う人毎に問いかけられる。
「滝川どのに負けたそうだな」「さぞ残念でござろう」「勝負に無理があったのではないか、それとも勝を譲られたのか」「馬鹿なことを」なにを云われても「されば」で片付けていたが、その日の
「青地どの、お上が召します」と小姓が知らせてきた。「はっ、参上仕る」「お庭でございます、御案内仕ります」
小姓が先に立って廊下を奥へ、杉戸口から庭へ下りる。泉水を廻って
「お召しにより三之丞、参上仕りました」「近うまいれ」「はっ」「弓の相手を申付ける。これ、その方どもは
小姓を下げて三之丞とただ二人。光政は弓を執って立った。三之丞は矢壺の側へすすみ寄って矢を捧げる。||的は
「三之丞、この弓を申付ける」「はっ、さようなれば、恐れながら弓を持参仕りまする」「許す、余の弓をもって射よ」弓を渡されたので、
光政の弓は五人張りと云われている。だいたい光政という人は非常な力持ちであった。三之丞は二人張りが限度で、あまり強いものは用いていないから、その強弓をこなせるかどうかも疑問であった。||どうするか。光政がじっと見ていると、ややしばらく的を睨んでいた三之丞、やがてしずかに矢をつがえ弓をあげた。身構えも尋常、呼吸をはかってきりきりきり、
的は吊ってあるものだし、檜板を牛の皮で包み、中に綿を縫い込んであるのだから、大抵の強弓で射ても射抜くなどということはないものだ。光政は思わず膝を打って、
「あっぱれ」と褒めた。「みごとだ、これへまいれ」三之丞は御前へ片手をついた。
「その弓は五人張りで、余にもいささか強いと思われるのに、いまみると無雑作に引いたようだがその方には強くはないのか」「恐れながら、わたくしにはいささか強過ぎるかと存じます」
「それをどうしてあのように楽々と引けたのか、なにか強弓を引く秘伝でもあるか」「······さればでござります」
これが出るといつも返辞をはぐらかされる、光政はもう慣れているからその手は喰わない。たたみかけて、
「ごまかしてはならぬ、強弓を引く秘伝があらば申せ、どうだ」「はっ、重ねての仰せゆえ申上げまする。およそ武術は戦場御馬前のお役に立つため修行を
光政は黙って聞いていたが、「そうか、よく分ったぞ」と
「その一言は達人の心得だと思う。しかし三之丞、いまその方は戦場馬前の役に立てるため武術を修行すると申したな」「はっ」「それなら、滝川と
光政はその場の様子を伊木長門から
「まことに三之丞の不調法、以後は必ず慎みます故このたびはお慈悲を以てお許しのほど願い上げ奉りまする」「あやまったと分れば、このたびだけ
「さあ取れ、遣わすぞ」「······はっ?」「そんな不審そうな眼をすることはない、先日狼を射止めた褒美じゃ」「······はっ」「家老共のあいだで加増の沙汰を願い出たが、あのくらいの事で加増しては戦場の手柄に遣わすべき恩賞に障る、それで加増はならぬと申した。これはその代りじゃ」「······かたじけのう」
三之丞は
こうして三之丞の方は叱られて済んだが、滝川幸之進はどうしたか。幸之進はあれ以来しきりに
都合のいい考え方で折をうかがっていた所へ三之丞の矢一筋という問題が起こった。これだと思ったから無理に喧嘩にして、勝負にもみごとに勝った幸之進。||今度こそおれの腕が分ったろう、なんとかお沙汰があるに違いない。
心ひそかに期待しながら、周囲の噂に耳を澄ましている。しかし五日たち十日たったが、別になんのお沙汰もないし、主君がどう思っているかという噂も聞かない、かえって三之丞が短刀を拝領したという評判が耳に入った。これではかねて計ったこととは逆である。||それが事実なら捨て置けんぞ。おのれの方がよっぽど捨て置けない。いらいらしはじめた幸之進、ある日城中の長廊下で三之丞と出会ったが、早速つかまえた。
「青地氏ではないか」「これは滝川どの、過日は失礼仕った」
「ほう、過日の事をまだ覚えておいでか、それはそれは。あの勝負の始末、まだ覚えておいでとは殊勝な事、拙者はもはやお忘れかと存じておったよ。ほう、あの負けをまだ覚えておいでだったか」
「されば」三之丞は軽く会釈して行こうとする、幸之進はたたみかけるように、
「覚えているなら申上げるが、武士としてあのような敗北をした者は、いますこし謙譲になさるがよいな。岡山のような田舎だからこそ世間も黙っていようが、これが江戸表でもあれば世の中への顔出しは無論のこと、すこし恥を知る者なら切腹ものだ······聞けばお上から何か拝領物があったそうだが、あのような敗北をしたあとでまさかのめのめ拝領物でもあるまい、御辞退なされたものと思うが如何でござる」「されば、如何とは存じたが、お上の御意志かたじけなく頂戴を仕った」「なに拝領した。拝領なすったのか」憎々しく大仰に眼をひらきながら、幸之進は声高に続けた。
「いやこれは驚いた、さても岡山の御家風は不思議なものだな。誠お役にたつべき腕があってこそ恩賞も下され、又拝領もするのが世のならわしだと思うに、それほどの心得もない者が、まぎれに狼を射止めて恩賞のお沙汰があり、それを又辞退もせず拝領するとは珍しい。これでは猟師などは
「お召し? 拙者をお召しか」「お泉水においであそばします、お早く」
小姓はさっさと引返してしまった。時が時だから、これは光政がいまの声を聞いたのだなと思った。||しかし殿は名君だから拙者の申分はお分りであろう。殊によるといまの言葉をお耳にして、忘れていたおれのことを思い出したのかも知れぬ。いずれにしてもこのお目通りがおれの浮沈の瀬戸際だぞ。
なるべく都合のいい方へ考えながら奥へ行ったが、光政は泉殿で小酒宴をはじめていた。
「幸之進まいったか」「はっ、お召しにより参上仕りました」「相手を申付ける、近うすすめ」「かたじけなき御意、御免」
お側には給仕の小姓が両名だけである。光政はわざと
「先日三之丞となにか勝負をしたそうだな」と云いだした。待ちかねていた言葉だから、幸之進は盃を置いて乗り出した。
「はっ、恐れながら、青地が僅かの腕を誇って人もなげに申しますゆえ、いささか武士の心得を示したまでにござります。お耳を汚し、まことに恐入り奉ります」「あらましは余も聞き及んでおる」光政は眼を
「だが若いうちはその場の行きがかりで
「それでは鉄砲的場の勝負も、そのまぎらわしからぬ覚悟でやったと申すのだな」「御意の如く、武道の意地でいたします試合にまぎれはござりません、まかり違えば一命を捨てる覚悟でございました」
「ほう、それは不思議だな、その方、余に仕官をするおり、余の馬前に一命を捧げると申した筈ではないか、すべて君臣はこの一死を以て繋がれておると思うが、その方はおのれの意地ずくで光政にくれた筈の命を捨てるつもりだったのか」「それはしかし」ぐっと詰ったが、幸之進は服さなかった。
「しかしそれはまた理合が異なります」「理合が違う? どう違うのだ」「それはつまり、武道の面目の為には、もとより」「黙れ、黙れ幸之進!」光政は遂に我慢の緒を切った。
「ものを知らぬ奴、武道武道と高慢に申すが、矢一筋二筋、斬って落してそれほどの手柄か、戦場の馳け引きに一番首、一番槍の高名でもしたなら格別。その場限りの試合勝負に勝つくらいがなんだ、そんなことで武士の真価が分るものなら、盲人でも人を見誤りはせん、さきほども通りがかって聞けば三之丞を捕えて悪口雑言。余の家風まで
「三之丞は先日きびしく叱っておいた。その方は新参のことゆえ、わざとそのまま沙汰なしにしてあったのだ。それを察してみようともせず、かえって手柄顔に申したてるとは
||あやまりました。申訳ございません。とその場で謝罪しても怒りは解けたであろう、新規お召抱えにするほどなら、光政はもとより幸之進を充分認めていたのである。でなくてただ二百石捨てるような真似はしない、これは役に立ちそうだと思ったから抱えたのだ。しかしそれからよく見ていると、一刀流の腕こそすぐれているが人柄は粗暴で、到底家臣たちの間に立って師範をする人物ではない。||これはもう少し修行をせぬといかん。
そう思ったので、馬廻りを命じて様子を見ていたのである。だから光政が云うだけ云うのを聞いて、あやまったと謝罪すればよかったのだが、根の高慢がひねくれだしていたのでそんなことには気もつかず、幸之進はむっとした態度で下城してしまった。光政は叱りつけはしたものの、あれだけ理を尽して云ったのだから、心がしずまれば分るであろう、いまに
するとその翌日、なにか城外が騒がしいので見にやると、
「武家屋敷に出火がございます」ということだった。五月なかば、新暦で云えば六月である。失火に季節もないだろうが珍しいことだ。しかも武家屋敷というので、光政はすぐに天守へあがってみた。
城の北方、二番町のはずれと思われるあたりに黒煙があがっている、幸い風のない日のことで、煙はまっすぐに昇っているが、やがてちらちらと棟を
「まだ町奉行から知らせはないか」「はっ」お側の一人が駈け下りていった。するとほとんど入れ違いに青地三之丞が登ってきた。よほど急いで来たと見えて、汗が衣服の表まで
「おお三之丞か、許す、近う」「御免!」つつっと膝行したが、
「御城下二番町より失火をいたしました」「いま見ておる、誰の屋敷じゃ」「それを申上げますまえに、恐れながらお人払いをねがいます」「人払い」火事の報告をするのに人払いとは妙なことを云うと思った。しかしすぐにお側の者を下げて、
「申せ、なにごとだ」「恐れながら、火を出しましたるは滝川幸之進の家にございます」「なに幸之進の家とな」「まことに偶然のめぐりあわせでございますが、わたくしが彼の屋敷の門前を通りかかりますると、裏門が閉ざしてあり、その前に
「なんだ」光政が受取って読むと、
申し遺す事
書を以て馬を御すの法無し。当藩主池田侯は隠れなき名君と聞き及べども、まことの武士を滝川幸之進平友正
「恐れながら」光政が読み終るのを待兼ねて、「幸之進追手の役目、三之丞にお申付けくだされたく、
光政は本心から怒っていた。昨日叱りつけたあとでも、いつかは自分の悪いことに気付いてあやまってくるものと信じていた。ところがあやまるどころか、暴慢無礼な文字を書き遺し、家に火を放って立退いたのである。光政は生れて始めて心から怒った。こちらで充分認めてやっていただけに、憎さもまた一倍である、できるなら八つ裂きにもしてやりたいくらいだった。
「三之丞なら仕損じはあるまい」光政はそう呟いたが、ふとそのとき、いつかの二人の勝負のことを思いだした。||矢一筋、斬って落すか、射当てるか。
鉄砲的場の勝負では三之丞が負けている。もしかすると三之丞、今日も矢一筋で向うかも知れない。······そう気がついてみると、検分役に選んだ四名は鉄砲的場での勝負に立会った者ばかりだ。そうだ、||三之丞めあのときの勝負をもう一度やる気に違いない。そうだとすると危ない。幸之進も剣だけは抜群である、これは捨て置けぬぞ。
光政は天守を下りると、なにも云わず馬を
「供無用!」ひと言叫んで、そのままぱっと城下へ疾駆していった。供無用と云われてもそのままにしてはおけない、お側頭矢田八郎左衛門と小姓二人が馬であとを追った。
大手外まで出た光政、追いついてきた矢田八郎左衛門に、
「青地の屋敷へ案内せい」「はっ御免」八郎左衛門がすぐ先乗りになる、遠くはない、京橋の辻さがりにある三之丞の屋敷へ案内した。門前で八郎左衛門に馬を預け、「入ってはならんぞ」と自分ひとり、つかつかと玄関へ。
「三之丞、三之丞」声の大きい光政、奥までびんびんと響く、すると
「三之丞は戻ったか」「はっ、立戻りまして今しがた」「出掛けたか」「弓を持ちまして馬にて」「矢は一筋だな」「御意にございます」「いかん」すぐに引返そうとする。三左衛門が、
「お上、いずれへ
「無礼者、御前だぞ、退れ」「待て三左衛門、なに者だ」「はっ、わたくし娘にござります」頷いた光政。「許す、なにごとだ申せ」「恐れながらお直の言上、お赦しをねがいます、ただ今お上の仰せに、矢一筋では三之丞危なしとございましたけれど、矢一筋にて立派にお役を果しましょうかと存じます」
「ほう、なぜだ。矢一筋で幸之進を仕止めるとどうして分る」「はい、過日、鉄砲的場に
「当日わたくしは帰宅しました三之丞から弓を受取りまして、はじめてそれと気付いたのでございますが、もとより三之丞が誰にも知れぬようにいたしましたことゆえ、今日まで黙っていたのでございます。······このたびこそは一矢で射止めるに相違ございません、御心易く思召されてしかるべく存じまする」「そうか、そうだったか」光政はふたたび頷いた。
「如何にも思い当るぞ、常の弓を持って射れば勝ったのだ。弓勢のするどさは余が知っておる、恐らく幸之進の胸板を射抜いたであろう。その腕を持ちながらわざと知れぬように弱い弓を用い、おのれの恥を忍んで事を穏やかに済ませたのだ。······三左衛門」「はっ」「その方たいそう三之丞を叱ったそうだが、これはしくじったな」「恐入り奉ります」「余もしくじった。三之丞は憎いな」光政の眼には、熱いものがうかんでいた。その頃追手の一行は、馬を列ねて東へ疾駆し、財田の里を過ぎた
「滝川幸之進、上意であるぞ」と大きく呼びかけた。幸之進は下郎を一人供につれ、悠々と歩いていたが、この声に振返って笠をあげる。「おお来たか、待兼ねたぞ」と笠をはねて向き直る。三之丞は馬上に弓を執り直し、ただ一筋の矢をつがえた。見るより幸之進はあざ笑い、
「懲りもせずにまた一矢か、過日は試合勝負だからあれで済んだが、こんどは斬って落しただけでは済まぬぞ、一刀流の剣が貴様の首へ飛んでいくぞ」「拙者からも念のために申す。今日の一矢はすこし違う、心して受けるがよい。······御検分の方々」と三之丞はうしろへ声をかけた。「三之丞の一矢、篤と御覧をねがいます」「まいれ」きらりと幸之進が大剣を抜いた。矢頃もよし、三之丞は馬上に伸び上るや、きりきりと弓を引き絞って幸之進をねらった。いつもは、引き絞るとたんに射放つのが三之丞の得意であった。しかし今日は充分に引き絞ったまま、二タ息、三息。
「えいっ」
「あっ」と云って幸之進、よろよろ、うしろへ四五足よろめいたが、大剣をぽろりと取り落すと、そのまま前のめりにばったりと倒れる。見ていた下郎はまっ蒼になって、まりのように街道を逃げ去っていった。検分の四名はあまりのみごとさ、すさまじさに
「大儀であった」
と一言賜わっただけであった。口に出して褒めるにはもったいないほど奥ゆかしいと思ったのである。三之丞が光政の「御秘蔵人」と云われるようになったのはそれからのことで、間もなく伯父の娘なつを妻に迎え、ながく岡山藩にその家を伝えた。