烈風と豪雨が荒れ狂っていた。
三之助は二階の六
二階には部屋が三つあり、その六帖は東の端になっていた。間の
「悪くはなかった、これも一生だ」三之助は口の中で
縞の
「生れてきたことはよかった」こんどははっきりと呟いた、「生れてこないよりは、やっぱり生れてきたほうがよかった、飢えや、寒さや、辛い、苦しいことが多かった、そうだったか、······いつもおれは逃げだすことばかり考えていた、そしていつも逃げだした、逃げださなければもっと悪いことが起こっただろう、······こんどは逃げなかった、逃げだすことができなかった、そして、こうするほかに手はなくなった」
彼の表情が変った。風と雨の音が家を押し包んでいた。乱打する太鼓の中にでもいるように、その荒れ狂う音が部屋いっぱいに反響した。三之助の眼は憎悪の光りを帯びた。唇も憎悪のために
「おれはこの腕でおぎんを抱いた」彼はまた呟いた。「おたいやお幸や、まさ公を抱いた。抱いたり
生れてきたからこそ、その味を知ることができたんだ。三之助はそう続けた。しかし、その呟きはあまりに低く、殆んど声にはならなかった。突風がするどく
「どういうわけだろう」彼は首を
はっと三之助は首をあげた。この家の北側のどこかへなにかの突き当る音がした。音というよりは響きであった、そうひどくはないが、たしかになにかが突き当ったようだ。
「||あの娘かもしれねえ」
三之助は自分に云った。
「||きっとそうだ、おしげだ」
首をあげたまま、三之助はじっと耳をすました。風雨の音のなかから、次に起こるであろう物音を聞き取ろうとした。二階の屋根瓦が飛ばされたらしい、からからと音がして、うしろの
風景はすっかり変っていた。
千住大橋の上から東に向って流れる川が、そこで大きく南へぐっと曲っていた。そこはその曲っている川へつき出た地形だった、不規則な三角形の突端のような場所に、地盛りをしてこの家は建っていた。対岸には水神の森があり、少し下流には真崎
男が一人、ずぶ濡れになって、廊下の西の端から、この二階へ
三之助は外を見ていた。どっちを見ても鼠色の水であった、どこにも地面は見えなかった。風のために波立ってはいるが、水は流れているようではなかった。洪水という激しさは感じられなかった。雨にかき消される
「おめえ舟で来たのか」
三之助が云った。彼は外を見たままで、ごくしぜんにそう云った。
風が襲いかかり、三之助の
「おめえ舟で来たのか」
こんどはまえより高い声であった。そして彼はそこへ坐った。男はぎょっとした。男は次の八帖にいたが、積んである家具の間で、慌てて濡れた手足を拭きながら、なにか答えた。
「断わりなしに入っちまったが」男は頭を拭きながら、こんどは大きな声で云った、「邪魔をしてもいいかね親方」
「舟の当る音がしたっけ」三之助は云った、「おめえ舟で来たんだな」
「小塚っ原から水だった」男は云った、「ちっとばかり
男はこっちへ来た。三十五六の小柄な男だった。柄は小さいが骨太で、がっちりしていた。手足も太く、指はごつごつしているが、どこかに
「おらあ親方なんて者じゃあねえ」三之助が云った、「またこれはおれの家じゃあねえ、ちっとも遠慮することなんかねえんだ」
男は三之助と
「こんな処に家があるとは気がつかなかった」男が云った、「いったいどんな人の家なんだね」
「船七の隠居所さ、隠居所で、客の会席にも使ってたんだ」
「船七ってえと、大橋の脇の船宿かね」
「おしげってえ看板娘がいる、おめえ知ってるんだろう」
「おらあ」男は煙草に
風で激しく雨戸が鳴り、男の言葉は聞えなくなった。三之助はほどけかかっていた三尺帯を巻き直し、そこへ寝ころんで
「なにか云ったかい」
「この家はその」男は
「どうだかな」三之助は唇で笑った、「この家は土盛りをして建てたものだ、七月の大しけのときに土台の石垣が崩された、それを直す暇がなかったんだ、······だから、この家の人たちは朝はやく逃げだしたのさ、命が惜しかったら一緒に逃げろって、おれにも
「だがおめえはそこにいるぜ」
三之助は黙って、また唇で笑った。男は疑わしげに、そして念を押すように云った。
「おめえは逃げなかった、まさかこの家がだめだと知って残ったわけでもねえだろうが」
「どうだかな」
「おめえおれを
「ちょいと聞いてみな」三之助が云った、「下の方でごぼごぼ音がしているから畳へ耳をつけるとはっきり聞えるぜ」
男は耳をすませた。それから畳へ耳をつけた。
「土台のどこかに穴があいてるんだ」三之助が云った、「崩れた石垣がどうかして、この家の土台の下に水の抜ける穴があいたんだろう、この音はそこから水の抜ける音だ、さっきよりずっと大きくなってるが、そうさ、こいつがもっと大きくなれば、この家はたぶんぶっ倒れるか、水に
「じゃあなぜ逃げねえんだ、そうとわかっていて、なぜ逃げるくふうをしねえんだ」
三之助はからかうような眼で男を見た。
「おめえを威かしたってしようがねえ」三之助は云った、「威かすつもりなんぞこれっぽっちもありゃあしねえ、おれが
「なんだって」
「聞き返すこたあねえや、その暇におめえやることがあるんだろう、やることがあって此処へ来たんだろう、そうじゃあねえのか」
男の眼が絞るように細くなった。その眼ですばやく、三之助の顔を見やった。風がどっと襲いかかり、家ぜんたいが揺れた。裏手のほうでどこかの板のひき裂ける音がし、なにかが庇をぎしぎしと
「おれが、なにをしに来たって」
「待つことはねえってんだ」三之助が云った、「おめえがなにをしに来たかは初めからわかってる、入って来たときのおめえの身ごなしと眼つきで、おれにゃあすぐわかったんだ」
男はきせるを置いた。三之助は寝ころんで肱枕をしたままで顎をしゃくった。
「早くやんねえ、おらあ手向いはしねえよ、おらあこの家と一緒に自分の片をつけるつもりだった、今でもそのつもりなんだ、ひとおもいにさっぱりとな、······おらあ決して手向いはしねえぜ」
「それは本気か」男は右手をふところへ入れた、「本当に手向いはしねえか」
「おめえは律義らしいな」
「お上にも慈悲がある、神妙にすれば」
突風が来て雨戸を一枚また吹き飛ばし、部屋の中まで横さまに雨が吹き込んだ。男は身構えをしながら三之助を
「神妙にすればお上にも慈悲がある、神妙にお繩を受けるか」
「お慈悲だって」三之助の表情がするどく歪んだ、眼に憎悪の色があらわれた。しかしそれは殆んど瞬間のことで、すぐにまた
男は三之助にとびかかった。相手が寝ころんでいるにしては、びしびしと容赦のない動作だった。三之助は二度ばかり「うっ」と声をあげたが、反抗はしなかった。男は三之助をうしろ手に縛りあげ、壁際へひき据えて、立ちあがった。彼の顔は
「||
十手の古びた朱房が三之助の頬を撫でた。三之助は壁へ背を
「やっぱりおめえは律義なんだな」
「黙れ、もうむだ口はきかせねえぞ」
男は三之助を睨みつけた。
「むだ口か、ふっ」三之助は肩を揺った、「それより舟を見て来たらどうだ、おめえの乗って来た舟をよ、その方が大事じゃあねえのか」
男はぎょっとした。彼は十手をふところへ差込み、慌てて隣りの部屋の方へいった。三之助は皮肉な冷笑をうかべながら、男が合羽を衣る音や、廊下から屋根へ出てゆくのを聞いていた。僅かなあいだに、風の勢いは衰えていた。突風はまだ相当に烈しいが、途絶える時間が少しずつ延びてきた。
「おーい」裏の屋根で男の叫ぶのが聞えた、「おーい、······おーい」
三之助は左右の肩を
水が軒庇についたのだろう、たぷたぷと重く、下から庇板を打つ音が聞えだした。水面は驚くほど高くなっていた。それは三之助の位置からも見えた、あけてある障子と、雨戸の隙間越しに、······濁ってふくれあがる水の面を、斜めに
「惜しいことに舟の
「だから逃げられるとでも思うのか」
「||おれがか」
「おらあ武井屋の佐平ってえ者だ」男はきせるを拾った、「気の毒だがいちどお繩にした以上、どんなことがあったって逃がしゃあしねえから、そのつもりでいろ」
三之助はふんと云った。そのときどしんと、なにかが家へぶっつかった。流れて来た材木かなにからしい、重たげな響きと共に、家ぜんたいがぐらぐらと揺れた。男は浮き腰になった、外へでもとびだしそうな恰好をみせたが、すぐに坐り直して、きせるを逆に持った。
「おめえは松島町で人をあやめた」男は三之助を見て云った、「日本橋松島町の家主、油屋仁兵衛を短刀でやった、それに間違えはねえだろうな」
「此処で口書きでも取ろうってのか」
「おれの云うことに返答をしろ、それから口のききようを改めるんだ」男は云った、「そんな口のききようをすると痛いめをみせるぞ」
三之助は黙った。
「おめえの気の毒な身の上はたいがいわかってる」男は云った、調子は厳しいが思い
「おらあ勘当されたんだ」三之助は眼をつむった、「十五の年に勘当されて、
「おめえがぐれたわけも知ってるぜ」
佐平という男は云った。三之助の家はごく貧しかった。父の政吉は愚直で、酒も煙草ものまず、人に
「おめえはいつも放っておかれた」と男は云った、「おふくろは千吉と一緒に伊三郎を背負ってでかける。おめえだけは家に残された。まわりは漁師町、遊びなかまは乱暴でだらしのない連中が多い、これで悪くならなければふしぎなくらいだ」
三之助は悪童だった。佃でも築地河岸の方でも、たちまち名を知られ、爪はじきをされるようになった。そのままいたら、やがては島から追い出されたにちがいない。彼は職人になるのだといって、十二の年に
「兄貴の千吉は漁師になった」と男は続けて云った、「今でも佃島でまじめに漁師をしている、およねも漁師の嫁になった、末っ子の伊三郎は
「そのとおりだ、おめえはよく知ってる、よく調べが届いたもんだ」三之助が云った、「しかしおめえは知っちゃあいねえ、おめえにはなんにもわかりやしねえよ」
「なにがわからねえっていうんだ、なにがだ」
「おめえにゃあ縁のねえことさ」三之助は頭を壁へ凭せかけた、「
「おれがなにを知らねえってんだ、云ってみろ、おれになにがわからねえってんだ」
三之助は黙っていた。眼をつむって、じっと暴風雨の音に聞きいるようすだった。凭れている壁から後頭へ、じかにいろいろな物音が伝わってくる。階下の土台のあたりの、ごぼごぼと鳴るあの音は、今ではもうべつの、もっと大きな響きになっていた。家の柱は絶えずぶるぶると震え、流れて来る物が当るたびに、家ぜんたいがみじめに揺れた。
「おれのおふくろは泥棒だと云われた」三之助が独り言のように云った、「いつも佃煮を売りにゆく
そのとき一家は飢えていた。母子五人(およねも子守り先から帰っていた、)が四五日なにも喰べない状態だった。特にこれという理由はない、飢えるのは常のことだった。条件のごく
||おいちさんは泥棒をした。
狭い島のなかで、
「その握り飯が手伝いに来た人間に出されたものだとすれば」と男が云った、「おめえのおふくろのしたことは泥棒だ、たとえ一家が飢えていたにしろ、おめえのおふくろはそいつに手を出しちゃあいけなかったんだ」
「おめえ一家で飢えたことがあるのか、親分」
「おらあまっとうな人間だ」佐平という男はいきり立った、「まっとうな人間は一家を飢えさせるようなまねはしねえ、一家を飢えさせるようなやつは人間の
「まったくだ、おれもそう思うぜ」
三之助は歯をみせて笑った。
「そういうやつらは」と男は憎にくしげに云った、「てめえの能無しを棚にあげて世間を
「そのとおりだ、おめえの云うとおりだぜ、親方」
「てめえおれを笑うのか」男は
「
「自分が悪いとはこれっぽっちも思っちゃあいねえんだろう」
「善いとも思っちゃあいねえさ、本当だぜ親方」三之助は云った、「おれが仁兵衛をやったのは善いことたあ思わねえ、悪いことかもしれねえ、そいつはなんとも云えねえが、おらあやらずにはいられなかった」
「なんとも云えねえって」
「そうなんだ、おれは仁兵衛を短刀でやったが、あの爺いはおれが短刀でやった以上のことを、金と強欲でやってたんだ」三之助の唇が歪んだ、「あの爺いは家主としても鬼のようなやつだったが、そのうえ法外な高利貸をして、貧乏人の血をしぼるようなまねをしていた、あいつのために娘を売った者、親子きょうだいが別れ別れになったり、裸で街へ放りだされた者が、どのくらいあるか親方は知っちゃあいめえ、それだけじゃあねえ、あいつに金が返せねえために、あいつの長屋で首を
「それがおめえとなんの関係がある」男が云った、「油屋がもしそんな非道なことをしたんなら、された当人がお
「当人に訴えて出ろって」
「そのためにお上というものがあるんだ、しんじつ仁兵衛が悪人ならお上で放っておきゃあしねえ」
「だって爺いは放っておかれたぜ」
「それは油屋が御
「そうらしい、そういうものらしい」
三之助の唇が少しあいて、それが見えるほどもふるえた。顔には悲しみとも苦痛ともとれる、一種の絶望的な表情がうかび、眼には涙が
「貧乏人は貧乏だというだけで、自分から肩身を狭くしている」三之助は云った、「世間だって貧乏人などは相手にしやあしねえし、相手にされねえことは自分たちでよく知ってるんだ、血をしぼられるような非道なめに遭っても、お上へ訴えて出るより自分で死んじまう、どこへ出たって貧乏人の云うことなんぞとおりゃしねえ、金があって、ちゃんと暮している者にはかなわねえということを知っているからだ、おれもよく知ってる、おふくろが握り飯五つ取って泥棒と云われたのは、飢えていたからだ、おれたち一家が飢えてもいず、そんなに貧乏でもなかったら、たかが握り飯の五つくれえお笑い草で済むんだ、おらあ、······仁兵衛をやった、生かしてはおけなかった、そういう弱い貧乏人の血をしぼり、娘を売らせ、裸で放り出し、おもい余って三人も死なせやがった、生かしておけばこれからもするやつだ、おらあやらずにいられなくなってやった、それだって善いことをしたとは思やしねえ、決してそんなことは思やしなかった、だからこうして、この家と一緒に身の始末をしようとしたし、おめえが来ればおとなしく
「人並なことを云うな、てめえはどれほどの人間だ」男がやり返した、「きいたふうなことを云やあがって、てめえは油屋を悪く云えた義理じゃあねえぞ」
「おめえにはおめえの理屈があるさ」
「きいたふうな口をききやがって、おぎんやおたい、お幸やおまさのことはどうなんだ、てめえにくどきおとされて、身を任せて、棄てられて、泣きをみているあの女たちのことはどうなんだ」
「そいつはおめえにゃあわからねえ」
「あの女たちのことはどうなんだ」と男はたたみかけた、「四人だけじゃねえ、ほかにもっとあるだろう。そんなにも弱い女たちに泣きをみせて、それでてめえは非道じゃあねえというのか」
裏で屋根瓦の割れる音がした。やみかかっていた風がまた烈しく、戸障子を揺りたて、庇をかすめてするどく咆えた。
「そうだ、非道かもしれねえ」三之助は低い声で云った、「けれどもしようがなかった、自分でもどうにもならなかったんだ」
「そう云えば済むと思うんだな」
「おめえにゃあわからねえ」
激しい風の唸りが彼の言葉を
「おらあ
「飽きがくるからよ、すぐ女に飽きがくる、そして古
「そうじゃあねえ、違うんだ」
「知ってるぞ」男がどなった、「あの娘もひっかけるつもりだったんだろう、てめえがさっき云った船七の娘、おしげというあの娘もよ」
三之助は首を振った。隣りの部屋でがらがらと音がした。積んである家具のなにかが、家の震動で崩れたような音であった。
「そうだ、少しわかってきた」三之助はふと眼をあいた、「おしげのことを云われたんで、自分にもよくわからなかったことが、わかってきた」
「こじつけたって底は割れてるぞ」
「おしげとは古い馴染だ」三之助の声はやはり低かった、「こっちは川筋のやくざな船頭、向うは大きな船宿の娘だった、おれがこんな人間だということはよく知っていて、知っていながらおれにじつを尽してくれた、口では云えねえ、また云いようもねえほどの、じつを尽してくれた、おかみさんにしてくれと云われたこともある、だがおらあ、······おらあいつもそっぽを向いてた、涙の出るほど有難えと思うときでも、おらあ薄情にそっぽを向いてた」
「もっと相手をのぼせさせるためにか」
「誰より好きだったからだ」三之助は静かに首を振った、「ほかの女とは違うんだ、まるで違うんだ、この娘に手を出しちゃあならねえ、おらあいつも自分にそう云ってた、どんなことがあっても触れるなってよ、······そうなんだ、おらあ身も世もねえほどおしげが好きだったから、おしげには手出しをしなかったんだ」
廊下へざっと波がかぶって来た。強くなった流れのために、家はぐらぐらと絶えず揺れ、家の周囲や階下の方で、水の
「そうなんだ」と三之助は云った、「あの女たちはどこかしらおしげに似ていた、性分はそれぞれ違っているが、みんなどこかしらおしげに似たようなところがあった、けれどもそうじゃあなかった、いっしょになって暫くすると、そうでねえことがわかった、おたいもお幸も、まさ公も、······似たところなんぞこれっぽっちもありゃあしねえ、まるで違う、まるっきり違ってるんだ」
「それがあの女たちの罪か」
「そのうえおらあ気がつくんだ」三之助は独り言のように云った、「あの女たちは、おれといっしょにいるとだめになる、まるでおれのやくざな火が移りでもするように、だんだんとだめな女になるのがわかるんだ、それが堪らなかった、どっちの罪かあ知らねえ、それがおれには見ていられなくなる、どうにも別れずにはいられなくなるんだ」
「笑あせるな」男は喚いた、「云わせとけばいい気になって、
男は平手で三之助の頬を殴った。そのとき隣りの部屋から、娘がそっとこちらへ出て来た、佐平という男には見えなかった。三之助には見えた。佐平はそっちへ背を向けていた、彼は片手で三之助の
「泥棒にも三分の理というが、てめえのは一分の理もありゃあしねえ、自分ひとりが善いつもりでいやあがって、そんな根性だから」
三之助があっと云った。
娘は男のうしろへ忍び寄って、持っている櫂をふりあげたのである、男のうしろに立って、両手で大きくふりあげて、力まかせにその櫂を打ちおろした。三之助は予想もしなかった、娘がそんなことをするとは思いもかけなかった。
「いけねえ、おしげさん」
「なんてことをするんだおしげさん」
「刃物はなくって」娘は
娘は部屋の中を見まわした。のぼせあがって、狂ってでもいるような眼だった。かたちのいいうりざね顔の、濃い眉が逆立ってみえた。小麦色のなめらかな肌で、
「堪忍して、三ちゃん、堪忍して」娘は三之助の繩を切りながら云った、「あんたが此処にいるって、この男に教えたのはあたしなの、あたしがこの男に教えたのよ」
娘の眼から涙がこぼれ落ちた。廊下へかぶる波はまえよりひどくなり、
「あたしお幸さんのことで嚇としていたの、あんたがお幸さんを
「いいんだ、それでいいんだよ、おしげさん」
「よかあない、あたしばかだった、ばかでめくらでつんぼだった、いま向うであんたの云うことを聞いて、自分のばかがすっかりわかったの、こんなに長いことつきあっていて、あたし本当のことはなんにも知らずにいた、まるでつんぼかめくらのように、なんにもわからずに泣いてばかりいたのよ」
繩が切れた。娘は繩をかなぐり捨てて、三之助にとびついた。
「堪忍して三ちゃん」娘は三之助の首へ両手で抱きついた、「あたし嬉しい、······あんたの本当の気持がわかって嬉しい、もうこのまま死んでも本望だわ、一緒に死なせて、三ちゃん」
「だめだ、いけねえ、おしげさん」
三之助は娘を押しのけた。娘の両手をふり放して立ちあがった。娘は悲鳴のように叫んだ、
「こんなことをしちゃあいけなかった、この男に罪はねえ、この男は役目で来たんだ、おらあ初めから死ぬつもりだったし、今でも死ぬつもりでいる、だがそれはおれ独りのことだ」
「あたし離れない、あたし三ちゃんから離れやしないわ」
「だめだ、それだけはだめだ」三之助は気絶している男を抱きあげた、「どんなことがあってもおめえを死なせるわけにゃあいかねえ、この男も助けなくっちゃならねえんだ、どうしてもだ、おしげさん」
三之助は男を抱いたまま廊下へ出た。娘はとびかかって叫んだ、泣きながらしがみついた。三之助はするようにさせて、男の躯をいちど手摺へ凭せかけ、自分が屋根(そこはもう殆んど水に浸っていた)へおりると、こんどは肩に担いで、足さぐりに裏のほうへ廻っていった。娘もそのあとからゆこうとして、ふと思い返し、戻って来て、投げだしてある短刀を拾った。そしてすばやく、いま三之助の出た方とは反対の東の端から屋根へおりて、裏へと廻っていった。
「おしげさん」三之助の叫ぶ声がした、「来てくれ、来なくちゃだめだ、おしげさん」
そして裏屋根の方で、瓦を踏み割る音がし、三之助が喚いた。娘の悲鳴も聞えた。それは風雨に遮られて判然としないが、いかにも懸命な、切迫した声であった。
「お願いよ」娘が絶叫した、「一生のお願いよ、······三ちゃん」
その声はずっと遠のいた。強い力でぐっと引離されでもするように、すっと遠のいて、もういちど聞えた。
「||三ちゃん」
三之助が一人で戻って来た。濡れ鼠のようになって部屋へ戻って来ると、そのままそこへ仰向けに倒れた。
「これでいい」彼は呟いた、「これでいいんだよ、おしげ、······
彼は荒く息をしながら、左の腕で顔を
「どうしたんだおしげさん、どうして······」
彼は絶句した。水の中にある娘の躯は裸であった。白い
「あの人は息を吹き返したわ」
娘は激しく喘ぎながら云った。三之助に助けあげて貰いながら、両手で三之助にしがみつき、苦しそうに、二度ばかり水を吐いた。
「息を吹き返したわよ、あの人」云いながらおしげは泣きだした、「あの人だいじょぶよ、大丈夫助かってよ、三ちゃん」
三之助は娘を抱いて、元の六帖へ来て、抱いたままどしんと坐った。その震動で、東側の壁が崩れた。湿って緩んでいた壁が、上から崩れ、さらに大きく崩れ落ちた。
「一緒に死なせて、一緒に」娘は泣きながら叫び、裸の両腕で三之助の首に抱きついた、裸の胸を三之助の胸へ押しつけながら、身もだえをして叫んだ、「あんたがいなくちゃ生きていられない、あんたが死ねばあたし独りでも死ぬつもりよ、三ちゃん、ごしょうだから一緒に死なせて」
「わかったよ、おしげさん」三之助はうわ言のように云った、「勘弁してくれ、悪かった」
三之助は片手で娘の背中を撫で、娘の頬へ乱暴に頬ずりをした。家がぐらっと大きく揺れ、二人はいっそう強くお互いを抱き緊めた。まるく
「うれしい、三ちゃん」
偶然に二人の唇が触れ合った。そのとき家ぜんたいが宙に浮いた、ふわっと、まるで宙へ浮きあがるように感じられ、柱や
「おれは考え直した、おしげさん」三之助は顔を引き離して云った、「このまま死ぬなら、一緒に死のう、けれども、死ぬときめるのはよそう、死ぬかもしれないが、助かるかもしれない、いいか、もしも助かったら、二人で生きるくふうをしよう、わかるか」
娘は喘ぎながら頷いた。家が傾いたので、水はずっと隣りの部屋まで押して来た、水に浮いた家具が互いにぶっつかりあい、障子の折れる音がした。
「このようすじゃあだめだろう、もう死んだも同然だ、もし万が一、助かるとしたら、新しく生れ変ったようなもんだ、そう思わねえか、おしげ」
「そう思うわ」娘は三之助の胸へ顔を埋めた、「あたしあんたのするようにするわ、死ぬにしろ生きるにしろ、あんたと一緒でさえあったら本望よ」
「ああもし助かったら」三之助は娘を抱きすくめた、「もし助かったら、こんどこそ」
家がまたひと揺れして、ぐらっと西へ、さらに一尺ばかり傾いた。傾斜が大きくなったので、水がこの部屋まで入って来た。三之助は娘を立たせ、廊下へ出て手摺に捉まった。娘は両手で抱きついていたが、その指は精がぬけたように力がなかった。
「もうひと辛抱だ、おしげ」三之助は娘の躯をひき寄せた、「死ぬか、生きるか、······どっちにしろ長いことじゃあねえ、ほんのもうひと辛抱だぜ、おしげ」
「三ちゃん」
娘はくいいるように男を見あげた。三之助はそれをぐっとひき寄せた。かれらの上へ、雨がざッざッと降りつけ、かぶって来る波が二人の足を洗った。家のまわりで渦を巻く水のすさまじい音が聞え、空には千切れた雨雲が、低くせわしく、北へと動いていた。