||ねえ、死にましょうよ、とおうめが思いつめたように云った。二人でいっしょに死にましょうよ、ねえ、おっ母さん。
表通りから笛や
||あたし独りで死ぬのは怖いの、ねえ、おっ母さんもいっしょに死んで。
あのお囃しは
||町をあるいていると、みんながあたしの顔を見るの、あれは人殺しの子だって、あそこへゆくのは人殺しの娘だよって、そういう眼つきでじろじろ見るの、あたしにはそれがはっきりわかるのよ。
表通りでは賑やかに、あんなに元気よく祭囃しをやっている。屋台の上の若者たちの、活気に
||悪いことをしたのは、あんたでもおっ母さんでもないでしょ、とおみきは娘に云った。自分がしもしないことで、世間の眼なんかに恐れることはないじゃないの。
||おっ母さんはあの人たちの眼つきを知らないからよ。
あたしはあの人の女房ですよ、世間の者がどんな眼で見、どんなふうに耳こすりをするか、知らないとでも思ってるの、女房のあたしを見る眼が、娘のおまえを見るより
||死のうと思えばいつでも死ねるわ、でもいったい死んでどうなるの、ごらんよ人殺しの女房と娘が、世間に顔向けがならなくなって死んだって、そこらの人たちの笑い話になるだけじゃないの。
||それでもあたし、もう生きているのがいやになったのよ、おうめは泣きだしながら云った。これまでだって、人並に生きたような日はいちんちもなかった、あたしもうたくさんよ。
||ここを出てゆくのよ、とおみきは仕事を続けながら静かな口ぶりで云った。引越しをするの、知っている者のいない土地なら、いやな思いをすることもないでしょ。
||だって
||むずかしいわね、おみきは娘にではなく、独り言のように云った。むずかしいけれど、二人で死ぬことに比べれば、やってみる値打はあるでしょう、あたしすぐ
差配の吉兵衛は首をひねった。というのは、それまでに三度おみきは町奉行所へ呼び出された、
町内には親しくつきあっていた家族が少なくない。
||そんなふうに思ってはいけない、とおみきは心の中で自分をなだめた。みんな自分が大切なのだ、田舎からこの江戸へ出て来て、どこでどのようなくらしにありつけるか、この江戸で、はたして生きてゆけるかどうか、という考えでいっぱいなのだ、人のことなど構っていられないのが、あたりまえじゃないかと。
「おっ母さん」とおうめが云った、「家主さんがおいでですよ」
おみきは仕事の手を休めて、振り返った。家主の喜六が
「あの角のね」と家主の喜六が云った、「今月いっぱいで空くので、そのあと、あんたたちにはいってもらいたいと思うんだがね」
「あの角というと、版屋さんのいるうちですか」
「ええ、あれがねえ」喜六は顔の汗を拭きながら云った、「わ
どうだろうと云われて、おみきは返辞に困った。その家はこのろじを出た横丁の角で、部屋も三部屋あり、井戸はすぐ裏で、西側にむくの樹が枝を張っていた。いかにも住みよさそうではあるが、
「おらおめえさんたちにはいってもれえてえんで、店賃はここと同じでいいんだ、遠慮するこたあねえんだよ」
「考えさせて下さい」とおみきは云った、「御親切はよくわかりますけれど、御存じのとおりの貧乏ぐらしですから」
「だから店賃はここと同じでいいって」
「店賃も店賃ですけれど」
「あとは云いなさんな」と喜六は片手で顔の汗を拭き、片手で胸を
おみきは眼が熱くなり、
そのとき「伊予巴」の芳造がはいって来、家主さんの云うとおりにするがいいじゃないか、と云った。彼のとしは二十三歳、小僧から伊予巴に奉公し、そのころからの出入りで、おうめとは兄妹のように仲が良かった。膚は浅黒く、
「せっかく家主さんがそう云ってくれるんだ、それにここじゃあ誰もあの事を知ってる者はねえんだし、いつまで肩をすぼめてくらしてるこたあねえじゃねえか」
「でもねえ、
「女世帯だって誰の世話にもなっているわけじゃあねえ」芳造はいきまくように云った、「じみちに人一倍よく稼いでいるんじゃあねえか、少しはおんめちゃんのことも考えて、世間なみのくらしをしてもいいじゃねえか」
「そんなにぽんぽん云うなよ」喜六は苦笑いをしながら芳造に云った、「おめえは
「日本橋本町三丁目の伊予巴の職人です」
「よくここの面倒をみてくれるようだな、家主のおれからも礼を云うぜ」
「よしてくんな、こっ
「芳っさん」とおみきが手で叩くまねをした、「そんなばかなこと云わないで」
「話はきまった」と喜六が胸を煽ぎながら云った、「引越しはあさって、掃除をして待ってるぜ」
そしておみきの返辞は聞かずに、芳造の肩を叩き、「いい娘だな」と
「じつは、お
「ええ」とおみきは
「そうだとすると」芳造は頭を
おうめが湯呑に水を持って来た。彼はひと口にそれを
「ねえ芳っさん」おみきはなだめるように云った、「三年まえにも
「そこなんだ」と芳造は云った、「おらあおばさんにそんな事をしてもらいたくはねえ、たいまいの代りに
「聞いたことがないわねえ」
「おっ母さん」とおうめが云った。
「いいんだいいんだおんめちゃん」と芳造は手を振った、「青海亀ってのはねおばさん、赤海亀っていう駄物と違って、

でも青海亀の甲羅は

「それじゃあ」芳造はちょっと口ごもった、「お二人のくらしをどうなさいます」
おみきは胸を叩いた、「その心配はないの、まだ半年ぐらいはだいじょぶよ」
「そのあとだよ」
「そのあとならたいまいの御禁止も解けるでしょ」おみきは振り向いて娘に云った、「お茶と
「おらあいそぐんだ」と云って芳造は腰をあげた、「じゃあ大丈夫なんですねおばさん」
「こっちはだいじょぶよ、本当にいそぐことなんかないのよ」とおみきは云った、「||御禁制だっていつまで続くものじゃないでしょ、いまも云ったとおり、たいてえな御禁制が、いつのまにかうやむやになってしまうわ、世の中ってたいていそうしたものなのよ」
「おばさんには口返しができねえや」芳造は頭のうしろを掻いた、「||念には及ばねえだろうが、そのあいだに、もしも困るようなことがあったら、うちの親方がなんとでもするからって」
「いいの、いいのよ」とおみきは片手を振って云った、「そんな心配はちっともないって、親方に云ってちょうだい」
「なんだか、どうも」と芳造はまた頭のうしろを掻いた、「小僧の使いみてえになっちまったが、とにかくそういうことだから」
「有難うよ、親方によろしく云ってちょうだい、おこころざしは本当にうれしゅうございましたってね」
「なんだか引込みがつかねえが、それじゃあ親方にそのとおり云っておきます」
「おうめ」おみきは娘に眼くばせをした、「その包みを持ってその辺まで送っていっておあげ」
それにゃあ及ばねえ、と芳造は慌てて云ったが、おうめは待っていたように、包みを持って立ちあがった。
「困るよ」と芳造は強い調子でなく云った、「女といっしょにあるいたりすれば、町の連中のいい笑い者になるばかりだ」
「ここは浅草だよ芳っさん」とおみきが微笑しながら云った、「御徒町とちがって、若い二人伴れなんか珍らしいこっちゃありゃあしない、いいからまあいってごらんなさいよ」
二人が出てゆくのを、うっとりした眼で見送ってから、おみきは仕事台に向かって坐った。おうめは十七、芳造は二十三。あたしとあの人とは七つ違いだった、七難九厄などということは信じもしなかったけれど、やっぱりそれが当ってしまった。||あの人も初めからあんなではなかった。お父っつぁんに見込まれて養子になり、あたしと夫婦になったころは、まじめで仕事熱心で、酒もタバコも口にしない、素っ堅気な職人だった。それが、お父っつぁんが亡くなってからぐれだし、仕事はそっちのけで酒びたりになり、悪遊びに浸りきるようになった。
「どうしてだろう」とおみきは仕事を続けながら
そのじぶんは日本橋
||おまえはおふくろにそっくりだ。
という父の口ぶりにも、
おみきが十六歳のとき、千太郎が養子にきまり、まもなく二人は祝言をした。彼は二十三歳、職人なかまのつきあいもせず、仕事だけに精いっぱいうちこんでいた。肉の緊った小柄な躯で、口かずが少なく、いくらかぶあいそなところがいかにも男らしくて、おみきも嫌いではなかった。
父は肝の臓が悪いそうで、医者から酒を節するように云われた、
||人間はいつかなにかの病気で死ぬものだ、先月は将軍家の子だって亡くなったろう、と父は口ぐせのように云った。それに、酒は人間が作りあげたいちばん
人間はいつかなにかの病気で死ぬものだ、どんなに養生に凝っても、人間は死ぬことから

千太郎が跡目を継ぐと、職人たちはみな店から出てしまった。
||あんな
職人たちはそう云って、半年ばかりのうちにみんな去っていってしまった。
角店へ移ってから五六日して、繩屋喜六がやって来た。
「どうしたんだね」と彼はふきげんな口ぶりで云った、「この出窓を
「仕事のためなんです」とおみきは伏眼になって答えた、「あんまり明るいと、仕事がしにくいんです」
喜六は上り框に腰を掛け、タバコ入れと
「おらあまた」と彼は云った、「まだ御亭主のことを恥じて、せっかくの出窓まで閉めてしまったのかと思った」
おみきは「まさか」と口の中で云った。
「こんなことをきくのはてれくせえが」と喜六はタバコをふかしながら云った、「窓が明るくっちゃあぐあいが悪いって、いったいどんな仕事なんだね」
「そんなにむずかしい事じゃないんですよ、ちょっとあがってみて下さいな」
おうめにお茶を
出窓のある六帖には
「たいまいの甲羅は十三枚重なっているんです」とおみきは云った、「これを一枚ずつに剥がして、
それから押しをして干し、
「いま考えると、それがいけなかったのかもしれません」とおみきは云った、「わたしの作った生地が、鼈甲屋に売れるようになると、まもなくうちの人はぐれだしたんです」
「強い風のために、枝の折れる木もあり、びくともしない木もある」と喜六はタバコをつけ替えながら、呟くように云った、「風のためじゃあねえ、木のたちだと思うがな、へたな
「有難うございます」とおみきは頭をさげた、「そう云って下さると気が楽になります」
おうめが茶を淹れて来、喜六はそれをひとくち啜ると、自分が云い過ぎたことを恥じるように、用があったらいつでもいって来てくれ、と云いながら去っていった。
「人間はさまざまだって」とおみきは茶を啜りながら、ぼんやりと呟いた、「||そうかもしれない、そうではないかもしれない」
「なあにおっ母さん」とおうめが云った、「なにがそうではないっていうの」
「なんでもないのよ」おみきはちょっと髪を撫で、そして娘の顔を見た、「||いつかきいてみたいと思ったんだけれど、あんた芳っさんが好き、それとも嫌い」
おうめは答えずに、茶道具を片づけた。その動作のあいだに、「好きよ」と恥ずかしそうに囁いた。おみきは呼びかけようとして急にやめた。おうめも父のためにどんなに苦労をしてきたか、忘れてはいない筈であるし、人間の性分はさまざま、どんな注意や意見をしてみたところで、実際の役にたつことはないだろう。芳造はいい男らしい、女房に泣きをみせるようなことはないと思うが、自分の亭主の千太郎も初めはそうだった、それがぐれだしたのは、自分が稼ぎだしたからではないかと思うが、家主の喜六に云わせれば、やはりその人間によるのだという、だとすれば、娘になにを助言することがあるだろうか。
「たいていの夫婦はうまくいっている」とおみきは呟いた、「あたしたちの場合は珍らしいのだろう、本当にひどいとしつきだった」
||そのほうは婦道ということを知っているか、と町奉行のなんとか壱岐守という人が云った。夫婦は一心
ほかにも云われたことはあるが、要点は女の道に外れていた、ということであった。そうかもしれない、そういう点では自分はいい妻ではなかったかもしれない。けれども、あの人は
||千太郎の罪の幾分かは、そのほうにもあるということを忘れるな。
町奉行はそうきめつけた。夫婦となり、いっしょに生活していれば、善悪ともに共同の責任がある、それはそのとおりであろう、けれどもそれが全部だろうか、人はさまざまだと家主が云った。夫婦のかたちもいちようではない、どんなにうまくいっている夫婦でも、或るときひょっと狂ってしまうことがある。一心同躰というのは言葉で、本当には育ちも性分もまちまちな、女と男がいっしょにくらしていれば、いい事ばかりはないのが自然であろう、それがうまく納まるか、だめになってしまう場合もある。それにしても、自分たちの場合はひどかった。
石町の家は父の物であった。千太郎はいつかそれも売ってしまい、おみきやおうめの着物まで売るようになった。鼈甲の生地作りはいい手間賃になる、千太郎はむろんそれを知っていて、毎日のように酒をせびり、銭をしぼった。ちょっと拒んだりすれば、障子
それが十幾年も続いたのだ。ぐれだしてからの千太郎はおみきに触れたこともなく、おうめを抱いたこともなかった。金の必要なとき帰ってくるだけで、あとは寄りつきもしない。そしてたまに帰ってくれば、金や金になりそうな物を奪ってゆくのである。近所でも評判になり、町役人からもたびたび注意をされた。
||なにが原因だろう、とおみきはいつも考えていた。なにが気に入らないのだろう、あたしを嫌いなのだろうかと。じかに幾たびかきいてもみたが、千太郎はなにも答えなかった。いってみれば縁もゆかりもないならず者が、ときどき踏み込んで来ては、うちの金や物を
どうにも風儀が悪いので、近所の人たちが町役へ訴えたのだろう、どこかへ移ってくれと云われた。家も自分の物ではなくなったし、しいて居据わる気はなく、まもなく下谷御徒町の裏店へ引越したのであった。
差配のよろず屋藤吉がたいそうひいきにしてくれ、亭主とは離別して、新らしいくらしを考えなさい、としばしばすすめられた。千太郎のことなら役人に願って、ちゃんと離別させてみせるから、とも云った。むろんおみきにそんな気は爪の
そして千太郎が人殺し兇状で牢へ入れられると、近所の人たちの母子を見る眼が、冷やかで
「おうめにこのことをよく云っておかなければならない」とおみきは呟く、「芳っさんはいい人らしい、十年以上も知っているけれど、働き者で、まじめで、悪い
あの人のことはもういい、
「いま肝心なのはおうめと芳っさんのことだ、おうめは芳っさんのことが好きだという」おみきは大きく溜息をついた、「向うではもっとおうめが好きなようだ、芳っさんがあんなにきまじめな働き者でなく、世間なみの、||少しは道楽もするような人だったら、安心なんだけれどね、どうしていいか、あたしにはわからない」
「おばさんはそれを心配しているんだね」
おうめはそっと頷いた。頭は少しも動かさなかったが、頷いたということは、芳造にはよくわかった。
「にんげん堅すぎてもいけず、道楽者でもいけず、むずかしいもんだ」と云って芳造は冷たくなった茶を啜った、「けれどもね、おれたちとおんめちゃんのおばさん夫婦とは、二つ、大きな違いがあるんだ、その一つはおれの育ちさ」
自分はあんたたちに劣らず、小さいときからひどい育ちようをした、と芳造は云った。彼の場合は父親ではなく、母親のために苦労させられたのだ。彼は玉川在の百姓の子に生れた。上の二人は女、男は彼一人だった。田が三段に畑が一段という貧しい百姓で、みのりのいいとしでも、親子五人のくらしは楽ではなかった。
「おやじは
おれが六つ七つになったころには、上の姉二人は出奔してしまった。氷のような玉川の水にはいって
「おれが七つになったとしの正月、川崎の
戸板でその死躰が運ばれて来たとき、妻は村の若者たちと酒に酔って騒いでいた。しかしそれは珍らしいはなしではないのだし、父の死とは関係のないことだ。芳造はいまでもそう思っていると云った。たとえ母がそのとき慎しくしていたとしても、父はやはり死んだろうからだ。ただそのあと、||と芳造が話し続けようとしたとき、障子の向うで声をかけてから、女中がはいって来た。そして茶道具を片よせ、二人の前へ食膳を据えたのち、おはちをおうめの脇へ置いて、お願いしますと云った。おうめはすっかり戸惑い、顔を赤くして芳造を見た。女中が去ってから、芳造は頷いた。
「こういう店ではね」と彼は云った、「男と女の二人
「ではあたしたち、そんなふうに思われてるのね」
「めしにするかい」
「話のあとを聞きたいわ、こんなうちへあがったの初めてだし、あたしなんにも喰べられそうじゃないの」
「おれも初めてさ、話には聞いていたけれどな」芳造は苦笑いをした、「けれども、ゆっくり二人で話すのには、どこがいいかわからなかったんだ」
「あんたは市村座の芝居へさそってくれたわ、それでおっ母さんが出してくれたんだけれど、芝居小屋ではいけなかったの」
「らしいな」と芳造はあいまいに答えた、「おらあ猿若町はおろか、浅草奥山の掛け小屋芝居さえ
おうめは眼を伏せた。祖父が生きていたじぶん、おうめは芝居さえあいていれば、市村座と中村座へはいつも
「あとを聞かせて」とおうめが云った、「それからどうしたの」
芳造はちょっと考えた。どこまで話したか、すぐには思いだせなかったのだ。
「ああ」とやがて彼は云った、「おやじが死んだところまでだっけ、おやじはのたれ死に同様に死んだ、すると、その葬式を済ませるなり、おふくろはおれに、しじみをとって売りにゆけと云いだした」
おうめは眼をみはった。十二月か正月か、いまではよく覚えていないが、玉川の水は氷のように冷たく、七つ八つの彼には、どこで蜆がとれるのかわからなかった。寒さのためにがたがたふるえながら、彼は川の中へ
「おらあ泣きゃあしなかった、泣くようなゆとりもなかった」と芳造は云った、「しじみをとらなきゃあならない、しじみはどこにいるんだろうと、それだけで頭はいっぱいだった」
初めは三十か五十しかとれなかったが、そのうちに五十がらみの男が、やはり蜆をとりに来ていて、可哀そうだと思ったのだろう、しじみはこういうところにいるんだ、と教えてくれた。嘘ではなかった。その男の教えてくれたところには、蜆がいくらでもいた。
「おらあ大名にでもなったような気持で、うちへとんで帰っておふくろに見せた」と芳造は云った、「||そのとき、おふくろがなんて云ったか考えられるかい、おふくろは温たかそうな綿入れの
そのまま売りにいってこいと云われたとき、彼は空腹で眼がまわりそうだった。しかし母親にさからうことは絶対にできなかった。彼は
「お父っつぁん、っておらあ泣きながら云ったもんだ、あれはおいらの本当のおっ母さんかい、ってね」芳造は微笑しようとしたらしいが、唇のあいだから、丈夫そうな歯がちらっと覗いただけであった、「||まだ七つかそこいらの子供のことだ、皮肉でも恨めしさでもない、おれは本気で、死んだおやじにそうきかずにはいられなかった」
蜆が売れ残ったときのことは、思いだすのもいやだ、と彼は云った。食事の差別や、酒に酔った母親のだらしなさも、いまになって思えばいちがいに非難する気はない。世間をよく見てみれば、それほど珍らしいことではないからだ。けれど、どうしてもがまんのならないことが起こった。彼が九つになったとしの春、母親に男ができたのである。
「こんな話は聞きたくないだろう、おれも本当のところ話すのはいやだ」と芳造は云った、「けれどもおれがどんな育ちかたをしたかって、いうことを知ってもらうためには、どうしても聞いてもらわなければならないんだ」
「そんなことないわ」とおうめはよわよわしくかぶりを振った、「なにを聞かなくったって、あたしには芳っさんがどんな人だかわかってるんですもの」
芳造は首を振った。おうめがどう云おうと、これだけは話さずにはいられない、という感情が、かたくななほどその顔にあらわれていた。これまで秘めに秘めてきて、いま初めて聞いてもらえる相手、うちあけて話すべき相手をみいだした、という強い意志が感じられた。
「それまでは村の若者たちと、酒に酔ってふざけるだけだった」と芳造はおうめの言葉を聞きながして云った、「||それが急に、若者たちは姿を見せなくなり、代って、見知らない四十がらみの肥えた、いつも眼の赤い男が一人だけ、三日に一度ずつ来るようになった、そして男が来ると、おふくろはおれに、外へいって遊んでこいって云うんだ」
男はたいてい夜になってから来る。外へいって遊んでこいと云われるが、外へ出ても遊ぶ相手などいるわけはなかった。彼は夜の
||おっ母さんが病気なんだ。
彼はそう直感して家の中へ走り込み、おっ母さんどうしたのと叫んだ。すると呻き声がぴたっと止まり、やがて、へんにしゃがれた声で母親が云った。いまじぶんなにをのそのそ帰って来るんだ、外で遊んでこいって云ったのを忘れたのかい。それがどんな意味をもつ言葉なのかわからなかったが、彼はいそいで外へとびだした。
「なにかたいへん悪いことをしたような気持だった」と芳造は云った、「もう夜なかにちかかった、おらあ砂でも
「わけはわからなかったが、それからおれは用心するようになった」と芳造は続けた、「もう男はいっちまったろうと思って帰っても、うちの外に立って、中のようすをよくよく
蜆売りは相変らず続けていた。それで、うちへかよって来るその男が、川崎の宿の、飯盛り女郎を多く置くので有名な、「越中屋」という大きな宿屋の主人であることがわかった。名は勝兵衛、女ぐせの悪い性分で、いつもよそに
「おれは恥ずかしさで、道をあるくのにさえ顔もあげられなくなった」と芳造は云った、「としは九つだったが、飯盛り女郎とか妾とか、囲われ者とかいう言葉のもつ、世間の軽侮や嘲笑の意味は、おぼろげながら知っていたからだ、おれはおふくろをけがらわしいと思った、おふくろもおふくろのいる家も、そのまわりの田や畑や、草原や畦道までがけがらわしくなった、そしておれはうちへ帰ることはできないと思い、そのままとびだしちまった」
目的はなかった。ただ家へ帰りたくないだけで、江戸のほうへ漠然とあるいていった。
「その茶店で、伊予巴の番頭さんに拾われたんだ」と芳造は云った、「太吉さんていう人だが、四国までたいまいの買付けにいった帰りだったそうで、おれのことを病人だと思ったらしい、おれは孤児で空腹のあまりあるけなくなった、と嘘を云った」
あとにも先にも嘘をついたのはそのとき一度きりだ、と芳造は云った。それが縁で、彼は伊予巴の小僧になることができた。
「わかったろう、おれはこういう育ちかたをしたんだ」と彼は云った、「||いまでもおれは、
「それからもう一つ」と芳造はすぐに続けた、「おばさんは好きで千太郎という人と夫婦になったんじゃあねえ、おやじさんに云われていっしょになったんだ、それでも無事
おうめは黙って、膝の上で両手の指をこすり合わせていたが、やがて低い声で、囁くように云った、「||まえにも云ったでしょ、おっ母さんはあたしに、おまえ芳っさんが好きかえって、きいたことがあるって、||好きよ、ってあたし答えたことも、云った筈よ」
おうめが耳まで赤くなるのを見て、芳造も赤くなり、片手の
「二年うちに」と彼は
おうめはあるかなきかに頷いた。それからふと顔をあげて芳造を見、玉川在のおっ母さんはどうしているの、ときいた。
「知らねえな」と芳造は答えた、「知りたいとも思わない、もう一生、逢うこともないだろうさ」
ほぼ同じころ、猿屋町の家では、おみきが妙な男と話していた。||猿屋町は近くに天文台などのある、おちついたしもたや町で、まわりには大名屋敷や旗本の小屋敷があり、表通りでもあまり人の往来はなかった。これは御徒町の差配が、おみき親子のために選んでくれたもので、ここなら顔を知られた者に出会うこともあるまい、と差配の吉兵衛が云ったし、おみきもそうだろうと信じていた。今日はひるちょっと過ぎに、伊予巴の芳造が来て、中村座の木戸札を二枚貰ったからと、おうめを芝居見物にさそった。おみきは承知をし、おうめに支度をさせて出してやった。
||もうこの二人をさくことはできない、とおみきはまえから思っていた。人間のゆくすえは神ほとけにもわかるまい、実際に生きてみるほかはないのだ、かなしいけれど人間とはそういうものなのだ。
芳造が本当に芝居見物に伴れてゆくのか、それともほかに目的があるのか、どちらとも判断はつかなかった。けれどもおみきは、そんなせんさくをしようとは思わなかった。おうめがよろこんでいっしょにでかけた、それが事実なのだ。親が子供のためを思ってどんなに心をくだいても、子の一生を左右することはできない。もしそうなれることなら仕合せになってもらいたい、と祈るよりほかはなかった。||おみきは二人を出してやったあと、むだな思案から

||あなたが千太郎あにいのおかみさん、おみきさんでございますね、と男は云った。あっしは千太あにいと同じ牢にいた幸助っていうけちな野郎です、ずいぶんお捜し申しましたよ。
おみきは息が止まるかと思った。頭にかっと血がのぼり、全身がふるえた。幸助と名のる男は、
||あっしゃあ大事な話をもって来たんですよ、男は上り框へ斜に腰を掛けて云った。じつはね、と男は声をひそめた。千太あにいは無実の罪でお
おみきは眼を細めて男を見た。
||いったい、それはどういうことですか。
||済みませんが、と男は歯の抜けた口で卑屈にあいそ笑いをした。ちょうど切らしちまってるんだが、タバコがあったら一服だけふるまっていただけませんかね。
||うちにはタバコを吸うような者はおりません。
||そうですか、ほんの一服でいいんだが、と男はみれんがましく部屋の中を眺めまわした。この辺にタバコを売る店はありませんかね。
おみきは黙って仕事台に坐り直した。幸助という男は
||本当に千太あにいは無実なんですよ、あにいは人をあやめるようなことのできる人じゃあねえ、それはいっしょに牢ぐらしをしていた、このあっしが証明しますよ。
||御用というのはそれだけですか。
||大事なのはこれからでさ、男は上半身をのりだし、いっそう声をひそめて云った。じつはね、おかみさん、その殺しの現場を見ていた証人がいるんです、ええ。
おみきは仕事台の前でゆっくりと振り向いた。男は少しおろかしいほど人の好い目つきで、自分の言葉の真実さを強めるように、大きく頷いてみせた。
||そうなんです、生き証人がいるんです、と男は云った。自分で云うのもなんだが、あっしはけちな野郎で、ほんのつまらねえしくじりのために伝馬町へ送られ、ひと月めえやっと御放免になったんですよ。
どんな罪で牢へ入れられたか、そして三十日ほどまえに牢を出てからなにをしてきたか、いまどんな仕事をしているか、ということについてもまったく触れなかった。それが自然なのだろう、とおみきは思った。こういう人たちは自分のことは話したがらない、話すとすれば嘘か、巧みな
||詳しく話して下さい、とおみきは用心ぶかく云った。その人の云うことは慥かなんですか。
||そいつは
辰は珍らしくいいきげんで、久しぶりで飲もうと云い、
||辰あにいは返辞をしなかった、と幸助という男は云った。それから三日間、あっしたちはいっしょでした、あっしは博奕のことは知らねえので、ただ
三日めの晩、二人はまた梯子酒をした。博奕をしているあいだ、辰は決して酒を口にしないが、飲みだすとつぶれるまで飲む。その夜も躯じゅうが酒臭くなるほど飲み、
||すると、もう明けがた近くだったでしょうか、変な声がするのであっしは眼がさめました、辰あにいが起きあがって、腕組みをして考えこんでいるんでさ、あっしがどうしたのかってきくと、いやな夢をみてうなされたっていう、三十に手の届こうという男が、夢をみてうなされたっていうのは
千太あにきのことだ、笑いごっちゃあねえぞ、と辰は眉をしかめながら云った。そして、しかめた眉をもっとしかめながら、千太郎の人殺し兇状は無実であり、本当の下手人はほかにいること、それを自分は現場で見ていたし、自分が見ていたのを千太郎が知っていたのだという。牢の中で千太郎に問い詰められたとき、大蛇の辰は口がきけなかった。千太郎はべつに咎めるようすはなく、牢から出てその気になったら、本当の下手人がほかにあり、それがいまでも御府内にいることを、どういう方法でもいいから証明してくれ、と云った。千太郎はその場に辰がいて、事実を見ていたことを知っていたのだ。
「ただいま」と格子をあけておうめの呼びかけるのが聞え、「おっ母さんいて」
おみきはぼんやり「ああ」と答えた。
「どうしたの」おうめはあがって来ながら云った、「こんなに
「そうだったね、ちょっと考えごとをしていたもんだから、うっかりしてたよ」
「芳っさんが送って来てくれたのよ、ああ、行燈はあたしがつけるわ」
おみきは立って、土間に立っている芳造に礼を述べ、あがって下さいと云った。芳造はてれたように、ここでもう失礼すると云ったが、おみきにすすめられると案外すなおにあがって来た。おみきはそれとなく芳造の顔を見た。酒に酔ってでもいるのではないかと思ったのであるが、芳造は少しそわそわしているだけで、酒を飲んでいるようすはまったくなかった。おそくなって済みません、めしを喰べてきたもんですから、と彼は云った。そして坐りながら、なにか変ったことでもあったんですか、ときいた。おみきはどきっとし、おうめの持って来た行燈の火皿のぐあいを直しながら、芝居はおもしろかったかときき返した。そのときおうめが、紙に包んだ折りを持ってこっちへ来た。
「はい、芳っさんからのお土産」と云っておうめはそれを母に渡した、「並木町の山城屋のかば焼よ」
「まあそんなことまで」おみきは芳造に眼で礼を云った、「いろいろ散財させちゃって済みません」
「その折りのまんまでね」芳造はいそいで話をそらした、「皿へのっけて蒸すんだって、
「芳っさんが注文しておいて、あたしたちはべつの料理屋で喰べたの」おうめは珍らしくうきうきと云った、「あたしね、このごろおっ母さんが寝酒を飲むことを話したのよ、そしたら芳っさんがそんならかば焼がいいだろうって、それで」
「いやだね、みっともない」おみきは娘をにらんだ、「寝酒を飲むなんて、大げさなこと云うもんじゃないよ」
そんなことはない、決してそんなことはない、と芳造はちからをこめて遮った。ながいあいださんざん苦労してきたのだ、寝酒くらい飲むのはあたりまえだし、そのほうがきっと躯にもいいにちがいない、と云った。そう云う言葉つきには、これまでにない親身な、情愛と
「おっ母さん晩ごはんまだなんでしょ」と手早く着替えをしながら、おうめが云った、「かば焼を蒸しましょうか」
「ありがと、もう少しあとにしましょう、なんだかいまは喰べたくないの」そして芳造を見た、「芳っさんもうおそいわ、お店へ帰らなくっちゃいけないんでしょ、せきたてるわけじゃないけれど、お店にいるあいだは」
「いまお茶を
「お茶はいいよおんめちゃん」芳造はそう云ってから、おみきに微笑した、「店のほうは休みだから構わないんだけれど、おんめちゃんを送り届ければ役目は済んだんだから、これでもう帰らしてもらいます」
「おっ母さんたら」とおうめがこっちへ出て来ながら云った。
「いいんだ、いいんだよ」芳造は手を振って云った、「門口まで送って帰るって云ったろう、それがつい、おばさんの顔が見たくなったもんであがり込んじまったんだ」
「でも、もしよかったら」とおみきが口ごもった。芳造は頭を振り、また微笑した。
「女世帯のうちに若い男が、うろうろしているのはみっともねえもんだ、おんめちゃんは慥かにお届け申しました、わたしはこれで帰ります」
いまお茶を淹れるのに、とおうめが云い、芳造は立ちあがった。気を悪くしたんじゃあないだろうね、とおみきも立ちあがったが、それ以上ひきとめようとはしなかった。芳造は明るい調子で別れを述べ、あっさりと帰っていった。
「ひどいわおっ母さん、芳っさんはもう少しここにいたかったのよ」とおうめは脇を見ながら涙声で云った、「||あの人はおっ母さんのことを、自分のおっ母さんのように思ってる、ずっとまえからそう思ってたって云ってたのよ」
おみきは自分の気持をひき緊めるような、しらじらとした口ぶりできいた、「中村座の番付は、買って来ておくれだったかい」
「忘れちゃったわ」おうめは火鉢の火に炭をたしながら云った、「初めて聞いたんだけれど、芳っさんは悲しい育ちかたをしているんだって、生みのおっ母さんというのがひどい人で、芳っさんに七つぐらいのとしからしじみ売りをさせたんですって、そして自分は御亭主をこき使いながら、よその若い
「よしてちょうだい」おみきはおどろくほどきっぱりと遮った、「話だけ聞いて人のよしあしを云うもんじゃないよ、人間にはみんなそれぞれの事情があるもんだ、その人の心の中へはいってみなければ、本当のことはわかりゃしない、||御徒町にいたとき、二人でいっしょに死のう、と云ったときのことを考えてごらん、まさか忘れたわけじゃあないだろうね」
おうめは火鉢の火を直しながら頷いた、「はい、おっ母さん」
「芳っさんの話はいつかまた聞くよ」おみきは言葉をやわらげて云った、「かば焼を温ためてもらおうかね、一杯飲みたくなっちゃったよ」
もう夜半に近いだろう、昏くした行燈の光が、雨漏りの跡の
||五両でさ、五両だけでいいんでさ、と幸助という男は云った。辰あにいが証人になって名のって出れば、事実を知りながら黙っていたというかどで、少なくとも三十日くらいは牢へ入れられるでしょうな、ええ、地獄のなんとかも金しだいと云って、幾らかでも持っていれば、牢屋のくらしも少しは楽になるんです、ええ、ほんとなんですよ。
そうかもしれない、そんな話を聞いたような気もする、とおみきは思った。大蛇の辰はいま水天宮の近くの「佐野屋」という安宿に泊っている。千太郎のことを思いだしたら、それが気になるのだろう、博奕場へもゆかず、朝から酒浸りになっている。よほどこたえているらしいから、いまなら証人として名のって出るだろう。五両できなければ三両、いや二両でもいい、辰あにいの気の変らないうちに、「佐野屋」まで届けてもらいたい、と幸助は云った。
拵えごととは思えなかった。幸助は御徒町の長屋を足がかりに、
||その人が本当に証人になってくれれば、あの人は無実で放免されるかもしれない。
本当に無実だったら、そのままにしておくわけにはいかないだろう、とおみきは思った。いまでもなにがし壱岐守という、町奉行の言葉を忘れてはいなかった。||夫婦は一身同躰という、良人がぐれだしたと知ったら、命を
「そうかもしれないわ」おみきは天床を見まもりながら
あの、なんとか壱岐守というお奉行さまの
||四五日うちに頼みます、辰あにいの気の変らないうちにね、と幸助という男は抜けた前歯から息の洩れる声で云った。水天宮の脇にある佐野屋ときけばすぐにわかりまさ、あっしの名を云って下さいよ、辰あにいに
五両なんてむりだ、とおみきは思った。たいまいが御禁制になり、それがいつ解けるかわからない。青海亀などという物は手がけたこともなし、それでたいまいに似せた生地などを作るくらいなら、いっそほかの仕事をみつけるほうがいい。残っている五つのたいまいを作り終ったら、御禁制の解けるまで生地作りはやめるつもりでいるし、そのために少しは
「とてもむりだ」とおみきはまた呟いた、「二両くらいでもいいと云った、そのくらいならすぐにでも出せるけれど」
けれどと呟いておみきは眼をつむった。裏の長屋のほうで、なにか大声でどなりあう男たちの声が聞えた。酔って暴れているのか、それとも
おうめは仕立物の針をはこばせながら、芳っさんから聞いた話はこれでぜんぶよ、と云った。
「可哀そうにね」とおみきはぼんやりと云った、「でも世間には、もっと悲しい育ちかたをした者も、少なくはないのよ」
母の気持がうわのそらだということに、おうめはまだ気がつかなかった。
「おっ母さんがあたしたちのことで心配しているのを、芳っさんはまえから知ってたんですって」とおうめは続けた、「けれどね、おっ母さんたちとは二つだけ、まったく違うところがあるというのよ」
祖父が亡くなるまで、母は世間知らず、苦労知らずに育ち、祖父の云うままに結婚した。しかし自分たちはどちらも苦労して育ち、世間の荒く冷たい、用捨のない波風にもまれてきた。そうして、もっとも大切なのは、芳造が心から自分を好いていてくれること、自分も芳造が好きだけれど、芳造のほうがもっと強く、自分に愛情をもっていることなどを、おうめは控えめではあるが臆せずに語った。
「そうらしいね」とおみきはまたぼんやりと云った、「あたしもそうじゃないかと思っていたよ」
「あの人ね、二年くらいで自分のお店を持つんですって」とおうめは云った、「おそくとも二年うちにはって云うの、そして、おっ母さんもいっしょに来てもらいたいって、自分は母親の味を知らないし、まえからおっ母さんを、本当の親のようだと思っていたんですってよ」
「そうらしいね」おみきは同じようなことを繰返した、「あのこの眼つきで、そうじゃないかと感づいてはいたのよ」
「じゃあ、おっ母さん、||いいのね」
おみきはゆっくりと振り向いて、「なにがよ」と云った。その表情と声とで初めて、母が自分の言葉をよく聞いていなかったのだ、ということにおうめは気がついた。
「おっ母さん」とおうめは恨めしげに云った、「あたしの云ったこと、聞いてくれなかったのね」
おみきは娘の顔を見て、苦いような微笑をうかべながら、脇のほうへ向いた。
「聞いていたわよ」とおみきは力のない、だるそうな口ぶりで云った、「でもね、それにはいまむずかしいことが起こってるの、おまえは芳っさんが好きなようだし、芳っさんはいい人だと思うわ、それには心配はないと思うんだけれど」
「ほかになにか、都合の悪いことでもあるの」
「そうせっつかないでおくれ」おみきは云った、「おっ母さんにはいま、考えなければならないことがあるのよ」
おうめは
「ああ、いいんだよ」おみきは急にわれに返ったように、頬笑みながらかぶりを振った、「いいんだよ、おまえとはかかわりのないことなんだから」
「なにがかかわりのない、ことなの」
「せっつかないでおくれって云ったでしょ、芳っさんがお店を持つまでには、少なくとも二年はかかる、とか云ってたそうじゃないの」
「でもなにかむずかしいことがあるって」
「だから」おみきはそっぽを向きながら、強い調子で云った、「それはあんたの知ったことじゃないっていうのよ、たのむからうるさくしないでちょうだい」
おうめは息を詰めて母を見た、母の口ぶりがこれまでになく強く、きっぱりとしていたからである。おうめは口をつぐんで、仕立物の針をすすめた。胸がどきどきし、なにか悪い事が起こったにちがいない、いったいどうしたことだろうと、
「どうしたらいいだろう」あるきながらおみきは呟いた、「||本当に無実なら知らん顔をしてはいられない、どんなに悪くぐれたって良人だもの、知らないうちならともかく、証人がいると聞いた以上、そのままにしてはおけない、あたしにも、いけないところがあったのかも、しれないのだから」
けれども、おうめは芳っさんと、まもなく夫婦になるのだし、あの人の性分が変るとは思えない。とすると、||とすると。おみきはうなだれた。頭のどこかで
「どうしたらいいだろう」あるき続けながら、おみきは途方にくれたように呟いた、「||芳っさんとおうめを早くいっしょにして、どこかほかへうちを持たせ、あたし一人で待っていたらどうだろう、
狂ったような顔をして、襖や障子を
「お父っつぁん」おみきは祈るように眼をあげた、「あたしどうしたらいいの」
危ねえよ、どいたどいた、と云うどなり声でわれに返ると、右の脇をすれすれに、
波の静かな大川の上を、大きなにたり船や、ちょき舟、ひらた舟、屋根舟などが、あるいはゆっくりと、あるいは早い
「
それは意識しない独りごとであり、頭の中は千太郎のことでいっぱいだった。あの人をみすてるわけにはいかない、それは人間の道に外れたしかただ。無実の罪だということが立証されて、牢から出られるようになったら、あの人の性分も変るかもしれない。そしてもとの、ぐれだすまえのような、よく
||良人がぐれだしたとしたら、いのちを賭けてもいさめ励ますのが、妻のつとめではないか。
なにがし壱岐守とかいう町奉行の言葉が、そのままではないかもしれないが、おみきの記憶にまたよみがえってきた。そうだ、いのちを賭けても。それでいいのなら、あの人が悪いままで帰って来、まえのように乱暴をするようだったら、あたしがあの人を殺し、自分も死ねばいいのだ。
「あの人を殺す、どうやって」おみきはぞっとし、身ぶるいをした、白くなった唇を
そのときのことを想像したのだろう、おみきの顔から血のけがひき、唇をもっときつく噛みしめながら、よわよわしくかぶりを振った。
「だめだわ、あたしにはそんなことはできない、とてもできそうもないと思うわ」とおみきは呟いた、「あたしがそういう気持になったとしても、あの人のほうがもっとすばやいだろう、あたしがなにかしようとするより先に、あの人のほうであたしを、足腰も立たないようなめにあわせるにちがいない」
おみきはふるえながら肩をすぼめた。いざとなれば女は強くなるという。けれども、千太郎がどんなことをしてきたかを考えると、それだけでもう全身が
「あたしにはわからない」とおみきは呟いた、「||おおやさんに相談してみようかしらん、なわやの喜六さんは事情を知っているのだから、そうよ、おおやさんなら、なにかいい知恵があるかもしれないわ、そのほかにどうしようもないわ」
おみきは立ちあがった。ながいことしゃがんでいたので、ちょっとよろめき、両方の膝がしらをゆっくりと
「そうですか、そんなことがあったんですか」と芳造は
「おとついのことだったそうだ」となわや喜六が答えた、「ここへ相談に来たのは昨日の夕方だったがね」
芳造は自分の
「わからねえな」と喜六は首を振った、「わからねえ、千太郎という人間のことは、御徒町の吉兵衛から詳しく聞いているが、もし無実だとして帰って来るとすると、また面倒なことが起こるんじゃないかとね」
芳造はまた頷き、また頷いて、自分の足許を見た。
「
芳造は口ごもりながらきいた、「||水天宮の近くの、佐野屋とかいいましたね」
「安宿だそうだ、たぶん木賃はたごのようなものだろう」
芳造は顔をあげて空を見、唇を噛みながら、片手でうしろ首を押えた。
「その、||」と芳造は考え考えながら云った、「その男に、おれが会ってみたらどうかと思うんだけれど、どうだろう親方」
「おれもいっしょにいこうか」
芳造は手を振った、「それにゃあ及ばねえ、おれ一人で充分ですよ」
「相手が相手だからな、あんまり高飛車に出ねえほうがいいぜ」
そうします、有難うと、芳造は云った。
彼はおうめ親子の家へは寄らず、そのまま日本橋かきがら町の水天宮へ向かった。なわやがよく呼び止めてくれた、そうでなければおばさんはなんにも云ってはくれなかったろう、と彼は思った。もしも生き証人がいて、あの人の無実だったことがわかり、牢から出て来るとしたら、おれにとってもお父っつぁんだ。どんなに悪い人にもせよ、こっちがお父っつぁんとして大事にすれば、それほどあくどいことばかりする筈はないだろう。人間はときによってぐれることもある、それが生れつきならべつだが、あの人はぐれだすまえにはきまじめで、口かずも少なく仕事に精をだしていたそうだ。おれはよくは知らない、ぐれだしてからのことしか知らないが、伊予巴の店の者からよく聞いたものだ。
「ためしてみるのもいいじゃないか」と芳造はあるきながら呟いた、「||あの人も人間だ、こっちのやりかたによれば、世間なみなくらしに戻れるんじゃあないか」
そんな望みのないことはわかっていた。彼は千太郎がどんなことをしたかをよく知っている、ぐれだしたのに理由はなかった。
「あれはなにか理由があったからではない、本性だ、生れつきの性分だ」と芳造は呟いた、「あれはなおらない、こっちがどんなにやってみてもだめだ、だめだろうというほうが本当だと思うな」
佐野屋という
「おまえさんが猿屋町の」
「いずれは婿になる男です、名めえは芳造、おまえさんが幸助と仰しゃる人ですね」
幸助は口をもぐもぐさせて云った、「ちょっと外へ出ましょう」
「あっしは大蛇の辰っていう人に会いたいんだ」と芳造は云った、「小判で三両、ここに持って来ました、辰っていう人はいるんでしょうね」
「それがね」と幸助は口ごもった、「それがその、ここにゃあいねえんでね」
「じゃあどこにいるんです」
「ゆうべまではいたんだが、ゆうべおそく
「じゃあまた出直して来ます」
「ちょっ、ちょっと」幸助は慌て、そこにある草履を突っかけて土間へおりた、「まあそう云わねえで、辰あにいがここへ帰って来ることは間違いはねえんだから、ちょっとそこまで出て話すことにしよう」
芳造がなにか云おうとするのを、手まねで遮りながら、押し出すように外へ出、水天宮のほうへいった。宿屋の多い町並で、前に馬を
「そうですか」水天宮の境内へはいってゆきながら、芳造はさりげなく云った、「||おまえさんに見当がつくのなら、あっしもいっしょにゆきましょう、じかに会って、話が本当かどうか慥かめてみたいと思いますからね」
幸助は急に立停って振り向いた、「すると」と彼は反問した、「するとおまえさんは、おれの云うことが信用できねえってのかい」
「あっしはただ、大蛇の辰とかっていう人に会いたいだけですよ」
幸助は横眼で芳造をちらっと見た、「その、三両の金は本当に持って来たんだな」
「ここにありますよ」芳造はふところを押えてみせた。
「いやみなことを云うようだが」幸助は石の
「つまるところ、その人に会わせたくないんですね」
「なんだって」
「大蛇の辰なんていう人間はいねえんじゃねえのか」芳造はそう思って云ったのではなく、直感的に口から出たのだが、云ってみてから、それが本当ではないかという気がした、「||ええ、そうじゃあねえのかい」
「へん」幸助は咳をし、横眼であたりを見まわした、「おめえ、おれにいんねんをつける気か」
「いんねんをつけられる弱味があるのかい」
幸助はあいそ笑いをした、「おどろいたよ、おめえは度胸がいいんだな」
「辰とかいう人に会えばいいんだ」
「三両の金は、そこに持ってるんだな」
「ここにあるよ」
幸助はまた横眼で、すばやくあたりを見まわし、唇を
「その、||」と幸助はうしろ首を
「そうくるだろうと思った」
「なんだって」
「大蛇の辰なんて人間はいねえんだろう」と芳造は
「いせえがいいな、あんちゃん」幸助はまた横眼であたりを見た、「おめえ、そんな大きなことを云っていいのかい」
「そんなら辰に会わしてもらおう」芳造はふところを叩いた、「おまえさんたちにはけちな金かもしれねえが、三両といえば堅気の職人にはたいした金なんだ、ちゃんと本人に会って、生き証人になれるかどうかを慥かめたうえでなくちゃあ、渡せねえってのはあたりめえじゃあねえか」
「つまり」と幸助はまた横眼で左右を見た、「要するにおれが信用できねえってことだな」
「信用するかしねえかじゃあねえ、辰っていう人とじかに会いてえっていうことだよ」
「なめるな、若僧」と幸助は云った、「おらあ辰あにいからじかに聞いて、それならと猿屋町のうちまで捜し当てていったんだ、日当にしたってちっとやそっとのたかじゃあねえんだぜ」
芳造は思わず、にやっとした、「日当ね、なるほど」
「なにが
「笑やあしねえ、正直に日当なんて云われたんでほっとしたんだ」と芳造は云った、「その辰っていう人に会わせてくれたら、おまえさんの日当はべつに払ってもいいぜ」
幸助は眼を細め、唇を舐めた、「とにかく金を見せてもらおう」
「辰っていう人に会うのが先だ」
「どうしても信用できねえっていうんだな」
「それはおまえさんしだいだ」
なめるなと云うなり、幸助はふところへ手を入れ、
「そんなおもちゃはしまっとけよ」と芳造は云った、「なにもむずかしい話じゃあねえ、考えてもわかるだろう、たいまい三両という金を、その人にも会わずに渡せると思うか、なめるんじゃねえとはこっちの云うせりふだぜ」
「おれにゃあおれの流儀があるんだ」と幸助はやり返した、「その金を出すか、それともこいつをずぶっとくらいてえか」
「おれは
野郎と云いざま、幸助は匕首をまっすぐに持って突っかけて来、芳造は
「大蛇の辰なんていう人間はいませんでした」と芳造はぬるくなった茶を啜りながら云った、「||幸助という男は
いつかもおうめちゃんと話したんだが、この世に生きていると、思いがけないところに
「でも、うちの人はどうなの」とおみきがきき返した、「まだ伝馬町にいるとすると」
芳造は手を振って遮った、「なわやの親方に頼んで、いっしょに北(町奉行所)へいってもらいました、そして調べてもらいましたら、あの人は五十日もまえに八丈ヶ島へ送られたそうです、人別を抜かれたあとだから知らせはしなかったということですが、島送りの書類も見せてもらいましたよ」
「ではもう大丈夫なのね」
「なにしろ八丈ですからね」と芳造は表情をひき緊めて云った、「||あっしは八丈がどこにあるかも知らねえが、いのち
「ありがと」とおうめが云った、「みんな芳っさんのおかげよ、本当にありがとう」
おみきもちょっと頭をさげたが、口ではなにも云わなかった。憎い、悪い男だったけれど、亭主は亭主、あの人が島流しになって、自分たちの生活は安泰になるだろうけれど、これからの一生、鳥もかよわぬといわれる八丈ヶ島で、囚人ぐらしをしなければならないあの人の気持はどんなだろう。そう思うと、おうめのように、すなおに礼を云う気持にはなれなかったのだ。
「それで」とおみきはきいた、「その幸助っていう男はどうしたの」
「弱い野郎でね、二つ三つ
「でも危なかったわ」とおうめは芳造の手をいたいたしげに見た、「||匕首だなんて、もしけがでもしたらどうするのよ、これからは決してそんなまねはしないでね」
「相手によるさ、||と云いてえところだが、いいよ、わかったよ、これからは決して乱暴なまねはしねえよ」
「きっとよ」
「ああ、きっとだ」
おみきは二人を見て頬笑んだ。この二人なら仕合せにやってゆけるだろう、おうめは苦労の味を知っているし、芳っさんは慥かな人だ。生みの母親からも愛されず、小さいじぶんから
「いろいろお世話になりました」とおみきはおじぎをし、おうめに云った、「おまえそこまで送っていっておあげ」
「よかったわ、ほんとによかった」あるきながらおうめは芳造をながし眼に見た、「みんなあなたのおかげよ、芳っさん」
「その芳っさんだけはよしてくれねえかな」
「あらどうして」
「どうしてってこともねえが、なんとなく子供っぽいようでな、ずいぶんなげえこと云われてきたもんだから」
「そうね」おうめは肩をすくめて、くすっと笑った、「そうだわ、あたしこんな小さなじぶんからそう呼び続けてきたわ、もうそろそろ変えてもいいころだわね」
「舌ったらずな口で、芳っさんと呼ばれたことはいまでも覚えてるぜ」
「こんどはなんて呼ぶの」と云ってから、おうめは赤くなった顔を片袖で隠した、「||あらいやだ、恥ずかしい」
「よせやい」芳造もちょっと赤くなり、うしろ首を掻いた、「へんなことを云うなよ」
「ごめんなさい、でも、||」
「いいよ、いいよ、いまっからそんなことを考えることはねえさ」芳造はてれたようにいそいで云った、「めしでも食おうか」
「向島までゆくにはおそいかしら」
「そんなことはねえさ、けれども花はもうおしめえだぜ」
「牛の御前へゆきたいの」とおうめがそっと云った、「亡くなったお
「そうだ、あそこには腰掛け茶屋があって、酒も飲ませるそうだからな」
「お祖父さんはそんなにお酒飲みじゃなかったわ」
「そうは云やあしねえ、そういうわけじゃあなく、そういう掛け茶屋で一本の酒をちびちびやる、っていうこともたのしみの一つだということさ」
「あたしお祖父さんに云いたいの」おうめはあるきながら眼を伏せた、「||牛の御前へいって、みんなうまくおさまりましたって、それだけを云いたいの、日本橋石町から御徒町、それから猿屋町って、引越してばかりいたでしょ、だから牛の御前にいちばんお祖父さんの心が残っているように思えるのよ」
「わかるよ、竹屋の渡しでいこうか」
「危ないっ」おうめは芳造を押しやった、「四つ手駕籠よ、気をつけてちょうだい」
「もうかみさん気取りか、渡し場はこっちだぜ」