青みを帯びた皮の、まだ玉虫色に光っている、活きのいいみごとな
「いったいいつまでにやればいいんだ」
「無理だろうが明日のひるまでに頼みたいんだ」
「そいつはむつかしいや、明日までというのがまだ
「そうだろうけれど、どうしても爺さんの手で研いで貰いたいんだ、そいつを持って旅に出るんだから」
「旅へ出るって」源六のびっくりしたような声が聞えた、「······おまえが旅へ出るのかい」
「だから頼むのさ、爺さんに研ぎこんで置いて貰えば安心だからな、無理だろうけれどそれでやって来たんだよ」
庄吉の声だった。おせんは胸がどきっとした、庄さんが旅に出る、出仕事だろうかそれとも、そう思ってわれにもなく耳を澄ました。
「そうかい」と源六が返辞をするまでにはかなりの間があった、「······じゃいいよ、やっておくから置いてゆきな」
「済まない、恩に
そしてその声の主は店を出た。おせんがその足音を耳で追うと、それが忍びやかに、けれどすばやくこの勝手口へ近づいて来た。おせんはそこの腰高障子をそっと明けた、庄吉が追われてでもいるような身ぶりですっと寄って来た。血のけのひいた顔に、両の眼が怖いような光を帯びておせんを見た、彼は唇を
「これから
「ええ」おせんは夢中で
「大川端のほうだからね、きっとだよ」
そう念を押すとすぐ庄吉は去っていった。おせんは誰かに見られはしなかったかと、······どうしてそんなことが気になるのかは意識せずに、······横丁の左右を見まわした。向う側にはかもじ屋に女客がいるきりで、貸本屋も糸屋も乾物屋もひっそりとしているし、主婦がおしゃべりでいつも人の絶えない山崎屋という飛脚屋の店も、珍しくがらんとして猫が寝ているばかりだった。障子を閉めたおせんは、
「お祖父さん、ちょっといって鯵のつまにする物を買って来ますよ」
「鯵のつまだって」源六は
「それほどの物じゃありませんよ、すぐ帰って来ますからね」
そしてなおなにか呼びかけられるのを恐れるように、店の脇から出て小走りに通りのほうへ急いでいった。······中通りをまっすぐにつき当ると
「有難うよく来て呉れた」
彼はおせんを見ると
「あたし柳原まで買い物をしにゆくつもりで出て来たの、遅くなっては困るし、もし人に見られるときまりが悪いから······」
「話はすぐ済むよ」庄吉はおせんよりおどおどしていた。ふだんから色の白い顔が、血のけもないほど蒼くなり、大きく
「でもどうして、どうして喧嘩になんぞなったの、幸さんとどんなことがあったの」
「今朝のことなんかたいしたことじゃあない、ただ喧嘩のきっかけがついたというだけで、はっきり云ってしまえば······」庄吉はそう云いかけてふと口を
「············」
おせんはこくっと生唾をのんだ。
「江戸にいれば頭梁の家で幸太の
「待っているって」
おせんは声がふるえた、「······あたし、庄さん」
「そうなんだ、きょうまで口ではなんにも云わなかったけれど、おれがおせんちゃんをどう思っていたかということはわかっていて呉れた筈だ、おそくとも五年、帰って来れば頭梁の株を買って、きっとおまえを仕合せにしてみせる、おせんちゃん、それまでお嫁にゆかないで待っていて呉れるか」
「待っているわ」おせんはからだじゅうが火のように熱くなった。そして殆んど自分ではなにを云うのかわからずにこう答えた、「······ええ待っているわ、庄さん」
「ああ」庄吉はいっそう蒼くなった。「······有難うおせんちゃん、おかげで江戸を立つにもはりあいがある、そしてその返辞を聞いたから云うが、実は幸太もおせんちゃんを欲しがっているんだ、喧嘩のもとは詰りそれなんだ、だからおれがいなくなれば、きっと幸太はおまえに云い寄るだろう、そいつは今から眼に見えている、だがおれはこれっぽっちも心配なんかしやあしない、おせんちゃんはおれを待っていて呉れるんだ、どんなことがあっても、そう思っていていいな、おせんちゃん」
そのときおせんは
庄吉に別れるとそのまま家へ帰った、もう柳原へいって来るには遅いと思ったから。帰るみちみち、おせんの胸はあふれるような説明しようのない感動でいっぱいだった。それは生れて初めての、あまい、燃えるような胸ぐるしいほどの感動だった。庄吉と逢ったわずかな時間、庄吉から聞かされた短いその言葉、その二つが彼女のなかに眠っていた感情と感覚とをいっぺんによび
「おそくなって済みません」おせんはそう声をかけながら、店へはいろうとしてふと気がつき表に掛けてある看板を外した、雨かぜに
「だから有合せでいいって云ったんだ、つまなんぞどうでも秋鯵の酢があればおれは殿様だぜ」
「それではすぐお膳にしますからね」そしておせんはもう暗くなった台所へはいっていった。
庄吉はその明くる日、たのんだ研ぎ物を受取りかたがた別れに来た。源六には「三年ばかり上方で稼いで来る」と云っただけで
おせんは四五日ぼんやりと、気ぬけのしたような気持で日を送った。なにかしていてもふと庄吉のことを考えている。蒼ざめた顔や、思いつめたきみの悪いような眼や、おずおずした、けれど真実のこもった
茅町二丁目の中通りに
||おせんちゃん、小母さんの子におなりでないか、そのじぶんお蝶はよく頬ずりしながらそう云った。するとおせんは生まじめな顔になり、いかにも困ったというように首をかしげながら、あたしおっかさんの子でなければおばさんの子になるんだけれど、きまってそういう返辞をしたそうで、そんな幼さに似あわない、情の
おせんの九つの年に母が
茂七が死ぬとすぐ、源六はおもて通りの店をたたんで、中通りの今の住居へ移った。もうおせんも十二になっていたし家も離れたので、巳之吉やお蝶とはしだいに疎くなったが、職人たちは道具を研いで貰うためにしげしげやって来た。「いちにんまえの大工が自分の道具をひとに研がせて申しわけがあるのかい」源六はいつもそう叱りはしたが、そのあとでは彼らによく職人
「へん腕で来い」そう云って兄弟子たちにも突っかかることが少なくなかった。芝居を見にゆくと花簪とか役者の紋を染めた手拭とか
幸太が杉田屋の養子にきまったのは、去年の冬のことだった。かなり派手な披露宴があり、源六やおせんも招かれた、十九という年になっても幸太は幸太らしく、巳之吉と親子の
||庄さんのほうがおとなしくって人がらなのに、杉田屋さんではどうして庄さんをご養子にしなかったんでしょう。おせんはそれが不服でもあるように云ったものだ。
||どっちでもたいした違いはないのさ、と源六は笑いもせずに答えた。杉田屋の養子になったからといってゆくすえ仕合せとはきまらないし、なり損ねたからって一生うだつがあがらないわけではなかろう。運、不運なんというものは死んでみなければ知れないものさ。
元もと温順な庄吉は、それまでと少しも変らず黙ってよく稼いでいた。もう腕も幸太に負けなかったし、仕事に依っては彼のほうが上をゆくものもあった。然しおせんにはそれが幸太と張り合っているように、腕をあげることで意地を立てようとしているようにみえ、いっそう庄吉が孤独な者に思われて哀れだった。······だがいずれにしても、幸太と比べて庄吉のほうが好きだと考えたことなどはなかった、幸太のてきぱきした無遠慮さ、自分を信じきった強い性格はにくいと思っても不愉快ではない。庄吉の控えめなおとなしさ、いつもじっとなにかをがまんしているというようなところはあわれでもあり心を
「けれどもうそれもおしまいなんだわ」おせんはあまいようなうら悲しい気持でそう
おせんは自分の心も感情も、庄吉のことでいっぱいだと思う。するとそれがさらに彼のうえを思うさそいとなり、時には胸の切なくなるようなことさえあった。||もう大阪へ着いた頃であろう。宿はきまったかしらん。うまく稼ぎ場の口がみつかるだろうか、もう手紙くらい来てもいい筈だけれど、そんなことを思いつつ秋を送り、やがて季節は冬にはいった。
霜月はじめの或る日、向うの飛脚屋の店にいる
「まあ」おせんはかっと胸が熱くなった。
「······どこで、この手紙どこで頼まれたの」
「大阪でひょっくりぶっつかったんだ、そうしたらこれを内証で、おせんに渡して呉れと云われてね、元気でやっているからってさ」
「そう有難う、済みません」
権二郎はまだなにか云いたそうだったがおせんは逃げるように彼から離れていった。······山崎屋はさして大きくはないがともかく三度飛脚で、大阪の取組先があり若者も五人ばかり使っていた、権二郎はその一人だが、
その夜お祖父さんが寝てから、おせんは行燈の火を暗くして手紙を読んだ。それはごく短いものだった。道中なにごともなく大阪へ着いたこと、
自分では意識しなかったが、その手紙のおせんに与えた印象は決定的だった、突込んで云えばおせんは顔つきまで変った、庄吉を思うそれまでの感情は、十七になった少女のものでしかなかった、現実と夢とのけじめさえ定かならぬ、ほのかな
或る日の午後、杉田屋から源六を呼びに使いが来た、そんなことは絶えてなかったし、用事もはっきりしないので、源六はちょっとゆき渋ったが、追っかけ催促があったのでやむなくでかけていった。······それは
「あらおよばれだったんですか」
「なにそうでもないんだが」上へあがるとき源六はふらふらした、「······これはひどく酔った」
「たいそうあがったのね、臭いわ」
「水を貰おうかな」
「床がとってありますから横におなりなさいな」
おせんはお祖父さんを援けて寝かしながら、老人が自分のほうを見ようとしないのに気づいた。なんとなくおせんの眼を避けているようだった。どうしたのかしら、水を
「済まないもう一杯くんな」源六は湯呑の水をたてつづけに三杯もあおった、「······何百ぺん云っても酔醒めの水はうまいもんだ、若いじぶんまだ酒の味を覚えはじめた頃だったが、酔醒めの水のうまさを味わうために、まだうまくもない酒を呑んだことさえあった」
「ねえお祖父さん」と、おせんは源六の眼をみつめながら云った、「······杉田屋さんではなにか御用でもあったんですか」
「そうなんだ」源六はなにか思案するように、ちょっと間を置いて頷いた、それから仰向けに寝たままで、しずかにこちらへ顔を向けた、「······話というのはな、おせん、正直に云ってしまうが、おまえを嫁に呉れということなんだ」
まあとおせんは
「それで、お祖父さんは、どう返辞をなすったの」
「おまえには済まないが断わった」
「············」
「本当に済まないと思う、杉田屋はあれだけの株だし、幸太はどこに一つ難のない男だ、そればかりじゃあない、杉田屋の御夫婦とおまえとは、乳呑み児のじぶんから馴染だ、おまえはきっと仕合せになるだろう、だがおれにはできなかった、どうにも頼むと云えなかった」源六はそこでぐったりと寝床の上に身を伏せた、「······人間には意地というものがある。貧乏人ほどそいつが強いものだ、なぜかといえば、この世間で貧乏人を支えて呉れるのはそいつだけなんだから、おまえはなにも知らないだろうが、おまえのおっ
源六はそこまで云ってふと言葉を切った。灰色の薄くなった髪のほつれたのが、行燈の光をうけてきらきらと
「杉田屋のおかみさんに悪気はなかったろう、けれども聞くほうにはずいぶん辛い言葉だった、というのは、······おまえのおっ母さんという人は、初め杉田屋の頭梁のところへ嫁にゆく筈だった。けれどおっ母さんは茂七が好きだったので、いったん親たちのきめた縁談を断わって茂七といっしょになった」源六はそこでほっと
おせんは胸が詰りそうだった。茂七さんのゆくすえも知れたものだとか、おまえさんは病身でいつどうなるかわからないとか、うちへ来れば着たいものを着、喰べたい物を喰べておもしろ
「あたしが死んだらすぐあとを貰って下さい。そしてどうかおせんはうちで育てて下さい、杉田屋さんへは、どんなことがあっても遣らないで下さい、おっ母さんはなんどもなんどもそう念を押した、おれもそれを聞いているんだ、おせん、もうおまえも十七だ、これだけ話せば、おれが縁談を断わった気持もわかって呉れるだろう」
「わかってよお祖父さん」おせんは
「ああわかって呉れればいいんだ、金があって好き勝手な暮しができたとしても、それで仕合せとはきまらないものだ、人間はどっちにしても苦労するようにできているんだから」
いろいろなことがわかった。母親が死んだあと、父やお祖父さんが杉田屋へやりたがらなくなったこと、あんなに親しくしていたのに、杉田屋の小父さんは決してうちへ来なかったこと、そして父が亡くなるとすぐお祖父さんが店をたたんでこっちへ移転したことなど······これらのなかでいちばんおせんの胸にこたえたのは、「······どんなことがあってもおせんを杉田屋へ遣らないように」という母親の言葉だった。お祖父さんはそれを貧しい者の意地だと云ったが、おせんはそうは考えなかった、杉田屋はおっ母さんが嫁に望まれたのを断わった家だ、自分の選ばなかった人に自分の娘を託すことができるだろうか、意地ではなかった、もっと純粋な女の誇りだったというべきである、おせんには母親の気持が手でさぐるようにわかるのだった。
「お父っさんもおっ母さんもずいぶん苦労したようだ、
おせんはそれを疑わなかった、なぜなら、彼女もいま人から愛され、自分もその人を愛していたからである。
外へ出るときには、おせんはきまって柳河岸を通った。柳はすっかり裸になり、川水は研いだような光を湛えて、河岸の道にいつも風が吹きわたっていた。おせんはいっとき柳の樹のそばに
寒さの厳しい年だった。
「そういう風にまっすぐに生きられればいいな」幸太は話を聞きながらよくそう云った、性質のはっきり現われている線の
「······この頃の職人はなっちゃあいないよ、爺さん、一日に三匁とる職人が
「それは今にはじまったことじゃあないのさ」と源六は穏やかに笑う、「······どんなに結構な御治世だって、良い仕事をする人間はそうたくさんいるもんじゃあない、たいていはいま幸さんの云ったような者ばかりなんだ、それで済んでゆくんだからな、けれどもどこかにほんとうに良い仕事をする人間はいるんだ、いつの世にも、どこかにそういう人間がいて、見えないところで、世の中の
こうしてまた昔語りが始まるのだった。
幸太が来ているとき、おせんはなるべく店へ出ないようにした。
おせんはその前の年の春から、
「だって道がまるで違うじゃないの」
「いいのよまわり道をするから」おもんは肩をすり寄せるようにした、「······ちょっとあんたに話があるの」
おせんは身を離すようにして相手を見た、おもんはなにか気がかりなことでもあるように、じっとこちらを見かえしながら「あんた杉田屋の幸太さんという人を知っていて」と云いだした。おせんは思いがけない人の名が出たので、なにを云われるかとちょっと不安になった。
「知っていてよ、それがどうかしたの」
「あんたがその人のお嫁さんになるのだって、みんながその
「嘘だわそんなこと」おせんは相手がびっくりするような強い調子で云った、「······誰が云ったか知らないけれどそんなこと嘘よ、根も葉もないことだわおもんちゃん」
「でも幸太さんという人は毎日あんたの
「いったい誰が」おせんはからだが震えてきた、「······そんなひどいことを、いったい誰が云いだしたの」
「元は知らないけど、あんたの家の前にいる人が見ていたっていうことだわ、でも嘘だわねえおせんちゃん、あたしはそんなこと嘘だと思ったわ、おせんちゃんに限ってそんなことがある筈はないんですもの、あたしだけは信じていてよ」
飛脚屋の者から出た噂だ、おせんはすぐにそう思った。山崎屋の主婦はおしゃべりで、いつも店先には近所のおかみさんや暇な男たちが集まる、お祖父さんがそれを嫌ってつきあわないため、常づねずいぶん意地の悪いことをされていた、その店からは
「人の口に戸は立てられないというのはつまりこういうことなのさ」源六は研いでいた剃刀の刃を、
「おじいさんはそれでいいだろうけれど、あたしそんな噂をされるのは
「いいよいいよ、そんなに厭ならそのうち折をみて断わるよ、いきなり来るなとも云えないからな、まあもう少し眼をつぶっていな」
然しそれから数日して、赤穂浪士の吉良家討入という出来事が起こり、どこもかしこもその評判でもちきったまま年が暮れた。
正月には度たび杉田屋から迎えがあった。けれど縁談を断わったあとでもあり、これからのこともあるので、源六もおせんもゆかずにいると、四日の夕方になって幸太が
「なあ幸さん、こんな時に云いだすことじゃあないが、いつか頭梁からおせんのことに就いて話があったとき、わけを云って断わったのはおまえさんもたぶん知っているだろう、無いまえならいいが、あんなことがあったあとではお互いに気まずくっていけない、済まないがこれからはあまり来て呉れないようにたのみたいんだがな」
「悲しいことを聞くなあ」幸太も酔っていたらしいが、ぎくっとしたようすで坐り直した、「······断わられたのは知っているよ、まだおせんちゃんが若すぎるということ、爺さんがおせんちゃんにかかる積りだからということ、ああたしかに聞いているよ、けれども、それは、······それは、それとこれとは違うんだ」
「どう違うと云うんだね」
「おれは十三で杉田屋へ来た、おせんちゃんとはそのときからの馴染なんだ、爺さんとだって、今さらのつきあいじゃあない、なにも縁談が
「つきあいを断わるなんということじゃないのさ、なにしろこっちはこの老ぼれと娘だけの暮しだ、そこへ若頭梁がしげしげ来るというのは人眼につくし、ひょんな噂でも立つと杉田屋さんへおれが申しわけがないからな」
「ひょんな噂か······」幸太はぐらっと頭を垂れた、「······そうだ噂なんか構わないとは、おれに云えることじゃあない、世間なんてものは、平気で人を生かしも殺しもするからな、わかったよ爺さん」
「悪くとって呉れちゃあ困るぜ幸さん、おまえだって杉田屋の
「遠のくよ、爺さん」幸太は頭を垂れたまま独り言のように云った、「······悪い噂なんぞ立っちゃあ済まないからな」
「それでいいんだ、そこでまあ一杯いこう、おせん酒が冷えているぜ」
なんというしっこしのない幸さんだろう、おせんはこの問答を聞いて
「おや若頭梁じゃあありませんか」という声がした、「······たいそういいきげんで御
「聞いた風なことを云うな、誰だ」幸太の高ごえが更けた横丁に大きく反響した、「······なんだ権二郎か、つまらねえ顔をしてこんなところになんだって突っ立ってるんだ、呑みたければ呑ましてやるからいっしょに来な」
「そうくるだろうと待ってました、ひとつ北へでもお供をしようじゃあありませんか」
「うわごとを云うな、来いというのは大川端だ、おまえなんぞは隅田川の水が柄相応だぜ、たっぷり呑ませてやるからついて来な」
「若頭梁は口が悪くっていけねえ」
話しごえはそのまま遠のいていった。おせんは雨戸を閉めようとしてこれだけのやりとりを聞いたが、権二郎という名とその卑しげな声とが、いつまでも耳について離れなかった。
酔ってした約束なのでどうかと思っていたが、幸太はそれから遠のきはじめ、たまに来てもちょっと立ち話をするくらいで、すぐに帰ってゆくようになった。
二月になって赤穂浪士たちに切腹の沙汰があった。去年からひき続いての評判が、もういちど、江戸の
「さっき状がまわって来て、きょう
「帰りはおそくなるんですか」
「ながくったって昏れるまでには帰れるだろう、台所に
「あら泥鰌があったんですか、それじゃあお酒も買っておきましょうね」
「酒は寄合で出るだろうが」
「でも初ものだから無くっては淋しいでしょう」
話しながら食事を終ると、源六は着替えをして出ていった。久しぶりで店があいたので、おせんは
「お祖父さんのおそいこと」
「そこだそこだ、その障子の立ててある家がそうだ」
とつぜん表のほうでそういう声がした。
「······いま明けるからそのまま入れよう、しずかにしずかに」
そして誰かが店の障子を明けた。おせんは不吉な予感にぎょっとしながら立った。入って来たのは同じ研屋なかまの
「騒いじゃあいかねえおせんちゃん」久造は両手で彼女を押えるようにした、「······たいしたことはないんだ、ちっとばかり酒が過ぎて立ちくらみがしただけなんだ、もう医者にもみせたしなにしてあるんだから、心配しないでとにかく先ず寝床をとって呉んな」
おせんは返辞もできず、なかば、夢中ですぐに寝床を敷いた。久造が指図をして、男たちは上まで戸板を
「そう巌丈な
おせんは乾いてくる唇を舐め舐め、黙って頷きながら聞いていた。そして彼らが薬を置いて去るときも、
「色いろおせわさまでした」
と云うだけが精いっぱいだった。······源六は
明くる日は朝から見舞い客が来た。食事拵えや茶の接待は近所の人びとがして呉れた、そのなかでも、すぐ裏にいる魚屋のおらくという女房がいちばん手まめで、まるで自分の家のことのように気をいれて働いて呉れた。夜どおし寝なかったおせんは、午すぎになるとさすがに疲れが出た、みんなもすすめるし自分でも堪らなくなったので、隅のほうへ夜具を敷いて横になったが、すぐに熟睡して眼がさめたときはもう昏れかけていた。
「眼がおさめかい」膳拵えをしていたおらくが、立ちながらそう云った、「······つい今しがたおもんさんという娘が見舞いに来て呉れたけれど、あんまりよく眠っておいでだから帰って貰いましたよ」
「おもんちゃんが、どこで聞いたのかしら」
「また明日来ますとさ、それから晩の支度はここにできているからね、お湯もすぐ沸くからおあがんなさいよ、あたしはちょっと家のほうを片づけて来ますからね」
そう云っておらくは帰っていった。
空腹ではあったが食欲はなかった、ほんのまねごとのように
源六の容態は少しも変らなかった。意識がないので薬の飲ませようもなくただ濡れ手拭で頭を冷やすほかにはなにも手当のしようがなかった。午後から熟睡したので、幾らか気持はおちついてきたが、一人になって、
「庄さん」おせんは小さな声で、西の方を見やりながらそう囁いた、「······あなたはなんにも知らないのね、なんにも、あたしどうしたらいいの、お医者にもかからなければならないし、薬も買わなければならないし、これからどうして生きていったらいいのかしら、庄さん、おまえが今ここにいてお呉れだったらねえ」
庄吉はあのように自分を想っていて呉れた。近いところにいたらすぐ駆けつけて、どんなにもちからになって呉れるだろう、だが大阪では知らせてやることもできず、知らせたところで来て貰うわけにもいかない。おせんにはそれが、自分の運命を暗示するもののように感じられた。自分がふしあわせな生れつきで、これからもだんだん不幸になり、いつも泣いたり苦しんだりしながら、寂しいはかない一生をおくるのだ、そういう風に思えてならなかった。······そうだ。十八になる今日まで、ほんとうに楽しいと思うことが一度でもあったろうか、いつもしんと病床に寝ていた母、むっつりとふきげんな眼をして溜息ばかりついていた父、客の少ない、がらんとした埃っぽい店、張もなく明日への希望もなく、ただその日その日の窮乏に追われていた生活、父母に死なれて中通りへ移って来てからも、祖父と二人の暮しは苦しかった、同い年のよその娘たちが、人形あそびや
「庄さん、あんただけがたのみよ」おせんはとり縋るような気持でそう呟いた、「······どうしていいかまだわからないけれど、でもあんたが帰るまでは、どんなにしてもやってゆくわ、だからあんたも忘れないでね、きっとここへ帰って来てね、庄さん」
源六はその翌日ようやく意識をとり戻した。四日めには口もきくようになったが、舌がもつれて言葉がよくわからなかった、眼から絶えず涙がながれ、
「
「わかったわお祖父さん」と、おせんは、祖父に笑ってみせた、「······でも大丈夫よ、お祖父さんはすぐ治るの、いつもお医者さまがそう云うのを聞いているでしょう、そんなに心配することはないわ、これまで休みなしに働いてきたんですもの、湯治でもしている積りでのんきに寝ていらっしゃるがいいわ、あたしちっとも可哀そうでなんかないんだから」
「ああ、おれにはわかってるんだ」聞きとりにくい言葉つきで源六はこう云った、「······おせん、おれにはわかってるんだよ、すっかり眼に見えるようなんだ、可哀そうにな」
云わないで、お祖父さん、おせんはそう叫びたかった、抱きついていっしょにこえかぎり泣きたかった、そうすることができたら幾らか胸が軽くなるだろうに、······けれども泣いてはいけなかった、そんなことをしたら、お祖父さんは気落ちがしてしまって、病気も悪くなるに違いないから。おせんは笑ってみせなければならない、心配そうな顔をしてもいけなかったのだ。
見舞いに来る客も、段だん少なくなり、魚屋の女房のほかは、近所の人たちもあまり顔をみせなくなった。或る日の午さがり、おらくが来て「きょうは桃の湯がたったからはいっておいでな」とすすめた、いつかもう土用になっていたのだ、暫く風呂へゆかないで、からだが汗臭かったし、できたら髪も洗いたかったので、おらくにあとを頼んでおせんは風呂へいった。······六月土用の桃葉の湯は、端午の
「ただいま、おばさん有難う」
そう云いながら勝手口からはいった、返辞がないので、風呂道具を片づけて
「近所の人の家から迎えが来てさっき帰っていったよ」彼はなんとなく冷やかな調子でそう云った、「······留守を頼まれたものだからね」
「済みません、有難うございました」
「もっと早く来る積りだったんだが、手放せない仕事があったもんでね······たいへんだったな、おせんちゃん」
「ええあんまり思いがけなくって」
「でもまあお爺さんのほうはもうたいしたことはないようだから、そいつはさほど心配しなくてもいいだろうけれど、このままじゃあおせんちゃんが堪らないな、なんとか考えなくっちゃあいけないと思うんだが」
「いいえあたしは大丈夫ですよ」おせんは
「それも十日や二十日はいいだろうがね」
幸太はもっとなにか云いたそうだったが、おせんのようすがあまりきっぱりしているので口を
「なにか不自由なものがあったら、遠慮なくそう云って呉んな」幸太は帰りがけにきまってこう云った、「······困るときはお互いさまだ、おれにできることならよろこんでさせて貰うからな、ほんとうに遠慮はいらないんだぜ」
「ええ有難う」
おせんはそう答えるが、伏し眼になった姿勢はそういう好意を受ける気持のないことを
||そうだ、幸太さんに限らず誰の世話にもなってはいけない、近所の洗濯や使い走りをしても、お祖父さんと二人くらいはやってゆける筈だ、世間にためしのないことではないのだから。
そう決心するとさばさばした気持になった。そしてそのつぎに幸太が来たとき、はっきりとけじめをつけた口ぶりで、これからはもう来て貰っては困ると云った。それは雨もよいの宵のことで、湿気のある風が軒の風鈴を鳴らし、戸口に垂れてある
「そんなにおれが嫌いなのか」幸太は暫く、黙っていたのち、なにか挑みかかるような眼でこっちを見た、「······おれのどこがそんなに気に入らないんだ、おれはおためごかしや恩に
「よくわかっているわ、でも幸さん、あんた覚えていないかしら、お正月あんたが家へ来て帰るとき、表で山崎屋の権二郎さんに会ったでしょう」
「山崎屋の権に、······そうだったかも知れない、だがもうよく覚えていないよ」
「あたしは覚えているわ、そして、一生忘れられないと思うの」おせんはこみあげてくる怒りを押えながらそう云った、「······あのとき権二郎さんは、あんたの顔を見てこう云ってよ、
「冗談じゃあない、あんな酔っぱらいの寝言を、そんなまじめに聞く者があるものか」
「それならよそでも聞いてごらんなさい、世間にはもっとひどいことさえ伝わっているのよ、あんたは男だから、そんな噂もみえの一つかも知れないけれど、おんなのあたしには一生の
「おれはなんにも知らなかった」幸太は頭を垂れ、またながいこと黙っていた、それからこんどはまるで精のぬけたような声で、
「考えてみて頂戴、これまでもそうだったけれど、こんなになったお祖父さんを抱えてやってゆくとすれば、これからはよっぽど身を慎まないかぎり、どんな情けないことを云われるかわからないじゃないの」
「そいつをきれいにする方法はあるんだ、おせんちゃん、おまえさえその気になって呉れれば」
「それはもうはっきりしている筈だわ」
「おれが改めて、おれの口から、たのむと云っても、だめだろうか」幸太の眼は
「あたしにこれ以上いやなことを云わせないで、幸さん、それだけがお願いよ、どうぞおせんを、可哀そうだと思って頂戴」
「おまえを可哀そうだと思えって」とつぜんまったくとつぜん幸太は
おせんは頷いた、自分でもびっくりするほどの勇気を以て、しずかに、むしろ誇りかに頷いた、そして立っていって、二つの紙包を持って来て、幸太の前へさしだした。それはお蝶と幸太の持って来た見舞いの金である。菓子や薬はとにかく、金に手をつけてはいけないと思い、そのまま納って置いたものだった。
「ほかの物はうれしく頂きました、でもお金だけは頂けませんから、おばさんにもどうぞ気を悪くなさらないようにと云って下さいな」
「······あばよ」幸太は二つの包を持って立った、「あばよ、おせんちゃん」
そして出ていった。
明くる日、おせんは裏の魚屋の女房に来て貰って、これからなにをしていったらいいかということを相談した。おらくは笑って、だってあんたには、杉田屋という後ろ盾がついているじゃあないか、なにもそんな心配をしなくったって困るようなことはありゃしないよ、と云った。もちろん悪気などは少しもない女で、ごく単純にそう信じていたものらしい、おせんがあらまし事情を話すとすぐ納得した。
「そうだったのかい、あたしはまた杉田屋さんでなにもかもして呉れるんだと思って安心していたのだよ、それじゃあなんとか考えなくちゃあいけないね」
「どんな苦労でもするわ、おばさん、あたしよりもっと小さい子だって、もっともっと辛い気の毒な身の上の人がいるんだもの、十八にもなったんだから、たいていのことはやってゆけると思うの」
「そうともさ、人間そう心をきめればずいぶんできない事もやれるものだよ、けれどもなにごとも
おせんは足袋のこはぜかがりを始めた。お針の師匠にも話してみたのだが、まだ賃縫いをするには無理だというし、洗濯や使い走りでは幾らのものにもならない。結局おらくの捜してきて呉れたのがその仕事だった。その頃はまだ足袋は多く
七月のなかば頃から源六はぼつぼつ起きはじめた。左の半身はやっぱり不自由で、手も足も、そっちだけは満足に動かせず、舌のもつれもなかなかとれなかった。十五日の中元には
「久しいもんだが、はらわたへしみとおるようだ」源六はうっとりと眼を細くしながら云った、「······ほんとうに毒でなければ、これから少しずつやってみるかな、なんだか身内にぐっと精がつくようだ」
「お医者さまがそう云うんですもの、それはあがるほうがよくってよ」
「だがなにしろこんなからだで酒を呑むなんぞは、それこそ罰が当るというもんだからな、みんなおまえの苦労になるんだから」
「いやだわ、また同じことを」
「おまえに礼を云うんじゃあない、自分が仕合せだということを云いたいんだ、子にかかる親はざらにあるが、こうして孫にかかれる者は世間にもそうたくさん有るわけじゃあない、然もまだ十八やそこらの娘になにもかもおっかぶせて、こうして気楽に養生ができるということはたいへんなもんなんだ、まったくたいへんなもんなんだ、おれは、そいつが嬉しいんだ」病気からなみだ脆くなっていた源六は、もうぽろぽろと大きな涙をこぼしていた、「······おれはおまえになんにもしてやらなかった。十三や十四から飯を炊かせたり肴を作らせたり、使い走りをさせたりしただけだ、帯ひと筋、いや簪一本買ってやったことがなかった、ところがおまえはむすめの手内職で、おれを医者にもかけ薬も買って呉れる、おれが好きだと思う物は、そう云わなくとも膳へのっけて呉れる、諄いようだが礼を云うんじゃあないぜ、おれは、来年はもう六十九だ、この年になって、はじめておれはおんなというものがわかった、おまえのして呉れることを見て、はじめておんなの有難さというものがわかったんだ、男のおれにできないことを、まだ十八のおまえがりっぱにやってのける、それはおまえがおんなだからだ、ああおせん、おれはこれが四十年むかしにわかっていたらと思うよ」
四十年むかしといえばまだ生きていたお祖母さんのことを云うのではなかろうか、おせんはお祖母さんのことはなに一つ聞いていない。父も母もそのことはついぞ口にしなかった。そこにはなにか事情があったに違いない、そして今源六は悔恨にうたれている、どんな事情かわからないけれど、おんなというものの有難さをその頃に知っていたら、そう云う言葉の
「人間は調子のいいときは、自分のことしか考えないものだ」源六は涙をながれるままにしてそう続けた、「······自分に不運がまわってきて、人にも世間にも捨てられ、その日その日の苦労をするようになると、はじめて他人のことも考え、見るもの聞くものが身にしみるようになる、だがもうどうしようもない、花は散ってしまったし、水は流れていってしまったんだ、なに一つとり返しはつきあしない、ばかなもんだ、ほんとうに人間なんてばかなものだ」
「もうたくさんよお祖父さん、そんなに気を疲らせては病気に悪いわ、過ぎたことは過ぎたことじゃないの、それよりこれから先のことを考えましょう、あせらずゆっくり養生すれば、お祖父さんだってまた仕事ができるようになってよ、二人で稼げば暮しだって楽になるし、ときにはいっしょに見物あるきだってできるわ、今年は忘れずに
「ああそうしよう、おせん、見せる見せるといって、ずいぶん前から約束ばかりしていたからな、そうだ今年こそきっと見にいこう」
けれども菊見にはゆけなかった。悪くはならないが、左半身がいつまでもはっきりせず、とうてい遠あるきなどできなかったから、······利くという薬はできる限り試してみた、加持も
その月は二十二日の夜にひどい地震があって、小田原から房州へかけてかなり被害があり、江戸でも家や土蔵が倒れたり
おせんは身を起こした、たぶん後架だろうと考え、そちらへ耳を澄ましていると、戸外のひどい風の音に気がついた、いつ吹きはじめたものかひじょうな烈風で、露次ぐちにある
治りたいのだ、薬も祈祷も
「泣くことはないじゃないかおせん」源六は穏やかに笑いながら孫の背へ手をやった、「······風が耳について、眠れないから、ちょっといたずらをしてみただけだよ」
「わかってるわお祖父さん、でもあせっちゃあだめよ、ずいぶん
「そういうことじゃないんだ、おれは決してあせったり焦れたりしやあしない、ただどうにも、どうにも砥石がいじりたくってしようがなかった、
「よくわかってよお祖父さん」おせんはそこにあった手拭で源六の濡れた手を拭いてやった、「······でもがまんしてね、これまで辛抱してきたんですもの、もう少しだから、なんにも考えないでのんきに養生をしましょう、もうすぐよくなるわ、来年はとしまわりがいいんだから、なにもかもきっとよくなってよ、ほんとうにもう少しの辛抱よ、お祖父さん」
「ああそうするよ、おせん、おまえに心配させちゃあ済まないからな」
さあ寝ましょうと云って、おせんが援け起こそうとしたとき、源六はふと顔をあげて、
「半鐘が鳴っているんじゃあないか」
と云った。おせんも耳を傾けた。たしかに、
「近いようじゃないか」
「ちょっと出て見るわ」
おせんはひき返して、着物を上からはおり、雨戸を明けて覗いてみた、
「······大丈夫よお祖父さん、高いところだからたぶん本郷でしょう、風が東へ寄っているので、火は駿河台のほうへ向いているわ」
「地震のあとで火事か、今年の暮は困る人がまたたくさん出ることだろう」源六はゆらゆらと頭を振った、「······さあ、風邪をひかないうちに寝るとしよう」
横にはなったが眠れなかった。風はますます強くなるようすで、雨戸へばらばらと砂粒を叩きつけ、ともすると吹き外してしまいそうになった。そのうちに表で人の話しごえが聞えはじめた、
「
「また大きくなるんじゃあないかしら」
おせんが眼をつむったままそう云った。源六はそれには答えず、やや暫くして、
「風が変ったな」と独り言のように
「のんきだねえおせんちゃん寝ていたのかえ」とおらくはまだ明けない戸の向うで云った、「······火が下谷へ飛んでこっちが風下になったよ、出てごらんな大変だから」
「さっき見たんだけれど」
おせんはそう云いながら雨戸を明けた。すると、いきなりぱっと赤い大きな火の色が眼へとびこんだ、こっちが見たというより、火明りのほうでとびこんだという感じだった。向うの家並はまっ暗で、その屋根の上はいちめんに赤く、
「······まあずいぶんひろがったわね」
「そんなこともないだろうけど、手まわりの物だけでも包んで置くほうがいいね、うちでもとにかくひと片付けしたところだよ、なにしろここにはお祖父さんがいるんだから」
「どうも有難う、そうするわおばさん」
「いざとなったらお祖父さんはうちが
おらくが去るとすぐ、おせんは手早く着替えをし、すぐ
「もう支度はできたかえ」おらくがそう云って入って来た、「······慌てなくってもいいんだよ、また少し風が変って、火先が西へ向ってるからね、こっちはたぶん大丈夫だろうって、うちじゃあいま
「でもさっきよりかがりが大きくなったようじゃないの、おばさん」上り
「お江戸の名物だもの、風が吹けばじゃんとくるにきまっているのさ、それにしてもれっきとしたお
「あらおばさん」おせんは急に身をのり出した、「······こっちのほうが明るくなったけれど、どこかへ飛び火がしたんじゃあないかしら」
「あらほんとうだね、おまけに近そうじゃないか」
おらくはあたふたと外へ出た。たしかに飛び火らしい、元の火先は西へ靡いているのに、それとは方角の違う然もずっとこちらへ寄ったところに、新しい
「おせんちゃんまだいたのか」と、右隣りの主人がびっくりしたように呼びかけた、「······もう逃げなくちゃあいけない、
そう云うと、背中の大きな包を揺りあげながら、大通りのほうへと走っていった。おせんは足がぶるぶると震えだした、よく気をつけてみると、僅かなあいだに近所ではだいぶ立退いたらしく、往来の激しい騒ぎとは反対に、たいていの家が雨戸を明けたまま、ちょうど黒い口をあけているようにひっそりと鎮まりかえっていた。おせんはぞっとして露次へとびこんだ。裏の魚屋へいって「おばさん」と呼んでみたが返辞はなく、包を背負った男たちがおせんを突きのけるように、
「お祖父さん」おせんはできるだけしずかな調子で云った、「······たぶん大丈夫だと思うけれど、なんだか火が近くなるようだからともかく出てみましょう」
「おまえゆきな、おせん」と、源六は仏壇の前へ坐った、「······ここは焼けやあしない、おれにはわかってるんだ、ここは大丈夫だ、けれども万に一つということがあるからな、おまえだけは暫くどこかへいっているがいい」
「そんなことを云って、お祖父さんを置いてゆけると思うの、あたしを困らせないで」
「人間には
「それじゃあ、あたしもここにいてよ」
「ばかなことを云っちゃあいけない、おれとおまえとは違う、おまえはまだ若いんだ、おまえは、これから生きる人間なんだ、若さというものは、時に定命をひっくり返すこともできる、七十にもなれば、もうじたばたしても追っつかないが、おまえの年ごろにはやるだけやってみなくちゃあいけない、どん詰りまでもういけないというところから三段も五段もやってみるんだ、おせん、おれのことは構わずにゆきな、
「お祖父さん」
おせんはお祖父さんの
「もう立退かなくちゃあいけないよ爺さん、立花様へ飛んだ火が
「よく来てお
「ばかなことを云っちゃあいけない」幸太は
「ええもう包んであるわ」
「じゃちょっと手を貸して爺さんを負わして呉んな、なにか細帯でもあったら結びつけていこう。色消しだがそのほうが楽だ」
構わないで呉れと泣くように云う源六を、幸太はむりに肩へひき寄せ、おせんの出して来たさんじゃく帯で、しっかりと背へ
「よかったらゆくぜ、おせんちゃん」
「あたしはこれを持てばいいの、ああいけない火桶に火がいけてあったわ」
「いけてあれば大丈夫だ、そんなものはいいよ」
それでもと云っておせんは手早く火の始末をし、幸太といっしょに家を出た。······大通りは人で
「おうまやの渡しから向うは大丈夫だ」
そう云っている男があったので、幸太はその男をつかまえて
浅草橋まであとひと
「押しちゃあだめだ、戻れもどれ」
「どうしたんだ先へゆかないのか」
「御門が閉った」
そんな声が前のほうから聞え、まるで
「幸さん御門が閉ったんですって」
「そんなことはないよ」彼は頭を振った、「······なにかの間違いだ、この人数を
「御門が閉ったぞ」そのとき前のほうからそう叫ぶ声がした、「······御門は、閉った、みんな戻れ、浅草橋は渡れないぞ」
その叫びは口から口へ伝わりあらゆる人々を絶望に叩きこんだ、沸き立つような
「門を叩き
「踏み
するとあらゆる声がそれに和して
「門を毀せ」
「押しやぶってしまえ」
それは生死の際に押詰められた者のしにものぐるいな響きをもっていた。群衆は眼にみえないちからに押しやられて、再び浅草橋のほうへと
幸太はここの群衆の中から脱けだした。彼には浅草橋の門の閉った理由がすぐわかった。門の彼方もすでに焼けているのだ、風が強いから火はみえないが、さっき茅町の通りで見たとき、もう柳原のあたりが赤くなっていた、おそらく馬喰町の本通りあたりまで焼けてきたに違いない。よしそうでないにしても、「御門」という制度は厳しいもので、いちど閉められたらたやすく明く筈はなし、群衆の力ぐらいで毀せるものでもなかった。彼はすばやくみきわめをつけ、けんめいに人波を押し分けて神田川の岸へぬけ、そのまま
神田川の落ち口に沿った
「病人だから頼みます」
と繰り返し叫びながら、人と人とのあいだを踏み越えるようにして、いちばん河岸に近いところへぬけていった。そこは三方に胸の高さまで石が積んであり、その間にちょうど人が三人ばかりはいれるほどの隙間ができている。
「ここがいいだろう」そう云って幸太は源六をおろした、「······暫くの辛抱だ、爺さん寒いだろうが、がまんして呉んな」
「それより幸さん、おまえ家へ帰らなくちゃあいけまい」
「なあに家はいいんだ」幸太は源六を積んである石の間へそっと坐らせた、「······家はすっかり片付けて来たし、親たちは職人といっしょに立退いたんだ、おせんちゃんその包をこっちへ貸しな、そいつを背中へ当てて置けば爺さんが楽だろう」
「済みません、あたしがしますから」
おせんは背負って来た包をおろし、お祖父さんの後ろへ、
火のようすを見て来るといって、幸太は通りのほうへ出ていった。おせんはひきとめたかった、こんな混雑のなかで、もしはぐれでもしたらどうしようと思ったから。けれども呼びかけることはできなかった、幸太が火を見にゆくというのは口実で、ほんとうはおせんのそばにいることを
暫くして幸太が蒲団を担いで戻って来た、「ちょっと思いついたもんだから、断わりなしにはいって持って来たよ」彼はそう云って源六とおせんとをそれでくるむようにした、「······こうしていれば寒くもなく
「あら、お握りなら持って来てあるのよ」
「そいつはとっとくんだ、明日がどうなるかわからないからな、爺さん一つ喰べておかないか、ちょうどまだ湯が少し温かいんだがな、おせんちゃんもどうだ」
「ええ頂くわ、お祖父さんもそうなさいな」
「なんだか野駆けにでもいったようだな」
源六は独り言のように、そっとこう
「まあそんなものさ」源六が笑いながら云った、「男があんまりですぎるのもげびたものだ」
「いいわよ、梅干を出すから待ってらっしゃい」
おせんは手早く包をひらき、重箱をとりだして蓋をあけた。||ほんとうに野駆けにでもいったようだ、と思いながら······。
火事のことは源六も幸太も口にしなかった、火のようすを見にいった幸太がなにも云わないのは、云わないことがそのまま返辞だからである。それでなくとも、横なぐりに叩きつけて来るような烈風は、すでに濃密な煙とかなり高い熱さを伴っているし、頭上へは時おりこまかい火の粉が舞いはじめて来た。
「爺さんもおせんちゃんも、少し横になるほうがいい、火の粉はおれが払ってやるから」
そうすすめるので、源六とおせんは蒲団をかぶり、包に倚りかかって楽な姿勢をとった。······家は焼けてしまうだろう、おせんはそう思ったが、悲しくも辛くもなかった、お祖父さんが病気で倒れたり、地震があったり、今年はひどく運が悪かった、いっそ家もきれいさっぱり焼けて、どん詰りまでいってしまうほうがいい、悪い運が底をついてしまえば、こんどは良い運が始まるだろう、なにもかも新しくやり直すんだ、||庄さん、とおせんは眼をつむり遠い人のおもかげを空に思い描いた、あたし弱い気なんか起こさなくってよ、あんたが帰るまでは、どんなことがあっても他人の厄介にならないで待っているわ、今夜のことは堪忍してね庄さん、だってほかにしようがなかったんですもの、あんたがいたら幸さんなんかに頼みはしなかったのよ、わかるわね庄さん。
危険は考えたより
「おいみんな荷物に気をつけて呉れ」とつぜん幸太が叫びだした、「······荷物へ火がつくとみんな焼け死ぬぞ、よけいな物は今のうちに河へ捨てるんだ」
彼は石の上へとびあがり、同じ
「向う河岸も焼けてるのね、幸さん」おせんが立ちあがってそう云った、「······どこもかも焼けているわ、大丈夫かしら」
「出て来ちゃあいけない、蒲団をかぶってじっとしているんだ」幸太は叱りつけるように云った、「······馴れない眼で火を見ると気があがって、それだけでまいってしまう、おれがいる以上は大丈夫だからじっとしていな」
おせんは坐って、頭からまた蒲団をかぶった、然し熱さと煙とで、息が苦しくなり、ながくはそうしていられなくなった。
「お祖父さん、苦しくない」
そう訊いたが「うん」というなりでなにも云わない、堪らなくなって、おせんは頭を出した。ごうごうと、大きな
「幸さん」
と喉いっぱいに呼んだ。
「······幸さん、どこ」
「頭を出すな」そうどなりながら、石の上へ向うから幸太がとび上って来た、「······
「苦しくってだめなの、息が詰るわ」
「苦しいぐらいがまんするんだ」そう云いながら彼は石から下りた、「······爺さんは大丈夫か、爺さん、もうひとがまんだぜ」
源六の返辞はなかった、身動きもしないので、幸太が蒲団を
「済まない、勘弁して呉んな」幸太が泣くような声でそう云った、「······おれがへまだったんだ、もう少し早くいって伴れだせばよかったんだが、こんな処で死なせるなんて、ほんとうに済まなかった」
「いいえそんなことはなくってよ幸さん、ここまででも伴れて来られたのはあんたのおかげだわ、お祖父さんはどうしても逃げるのはいやだってきかなかったんですもの」
「おまえの足手まといになると思ったんだ、病気で倒れてっからも、爺さんはおまえの世話になることが辛くって、どんなに気をあせっていたか知れなかった、おれにはよくわかったんだ。他人ぎょうぎじゃあないぜ、爺さんはおまえを可愛がっていた、どんなお祖父さんがどんな孫を可愛がるよりも可愛がっていたんだ、おまえに苦労させるくらいなら、いっそ死ぬほうがいいとさえ······おれにそう云ったことがあるんだ、だからおせんちゃん、薄情なようだが
「幸さん」
おせんが、そう呼びかけたとき、畳一枚もありそうな大きな板片が、燃えながら二人のすぐ傍らへ落ちて来た。
まるで雪崩の襲いかかるように、
「苦しくなったら地面へ
おせんはとつぜん中腰になり、すぐ脇に積んである石の蔭を覗いた。さっきから赤子の泣くこえが耳についていた、ひとところで、少しも動かずに、たまぎるような声で泣いている、あんまりひとところで泣き続けるので、堪らなくなって覗いてみた、石の蔭には大きな包が二つあり、その上に誕生には間のありそうな赤子が、ねんねこにくるまって泣いていた、まわりには誰もいない、ねんねこも包も、ところどころ焦げて煙をだしている、おせんは衝動的に赤子を抱きあげ、刺子半纏のふところへ入れて元の場所へ戻った。
「ばかなことをするな」幸太が乱暴な声でどなった、「······親も死んでしまったのに、そんな小さな子をおまえがどうするんだ、死なしてやるのが慈悲じゃないか」
「みんなおんなじよ」おせんはかたく赤子を抱きしめた、「······あたしだってもうながいことないわ、助けようというんじゃないの、こうして抱いて、いっしょに死んであげるんだわ、一人で死なすのは可哀そうだもの」
「おまえは助ける、おれが助けてみせる、おせんちゃん、おまえだけはおれが死なしあしないよ」彼はそう云って、刺子半纏の上から水を掛けると、おせんのそばへ跼んで彼女の眼を覗いた。「······おまえにあ、ずいぶん厭な思いをさせたな、済まなかった。堪忍して呉んなおせんちゃん」
「なに云うの幸さん、今になってそんなことを」
「いや云わせて呉んな、おれはおまえが欲しかった、おまえを女房に欲しかったんだ、おまえなしには、生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかったんだ」
苦痛にひき
「思いはじめたのは十七の夏からだ、それから五年、おれはどんなに苦しい日を送ったか知れない、おまえはおれを好いては呉れない、それがわかるんだ、でも逢いにゆかずにはいられなかった。いつかは好きになって呉れるかも知れない、そう思いながら、恥を忍んでおまえの家へゆきゆきした、だがおまえの気持はおれのほうへは向かなかった、そればかりじゃあない、とうとう······もう来て呉れるなと云われてしまったっけ」煙が巻いて来、彼は、こんこんと激しく
おせんは胸いっぱいに庄吉の名を呼んでいた、できるなら耳を塞いで逃げたかった、「おれがいなくなれば幸太はきっと云い寄るだろう」そう云った庄吉の言葉がまたしても鮮やかに思いだされた、「だがおれは安心して上方へゆく、おせんちゃんはおれを待っていて呉れるだろうから」そうよ庄さん、あたしを守って頂戴、あたしをしっかり支えていて頂戴。おせんはこう呟きながらかたく眼をつむり、抱いている赤子の上へ顔を伏せた。
「だがもう迷惑はかけない、今夜でなにもかもきりがつくだろう」幸太は泣くような声でこう云った、「······どんな事だってきりというものがあるからな、おせんちゃん、これまでのことは忘れて呉んな、これまでの
おせんは黙っていた、顔もあげなかった。幸太は立って再び水を汲んでは掛けはじめた。然し湯沸しなどでは間に合わなくなってきた。彼は蒲団を水に浸しておせんの上から冠せ、手桶かなにかないかと捜してみた、そのときはじめて、そのあたりいちめん人間の姿がひとりもなく、荷という荷が赤い火を巻きだしているのに気がついた、ついさっきまで犇めいていた人たちが、かき消したように見えなくなり、
彼は湯沸しを投げだした。そして積んである石材を抱えあげ、石垣に添って河の中へ落し入れた、一尺角に長さ三尺あまりの
「大丈夫だ、赤ん坊はおれが預かるから、そこへ足を掛けて下りな、落ちても腰っきりだ、よし、こんどはここへ捉まって、ゆっくりしな、そうそう、いいか」
「赤ちゃんを水に
「焼け死ぬより腹くだしのほうがましだろう、いま上から蒲団を掛けるからな」
幸太は岸の上から蒲団を引き下ろし、いちど水につけておせんの頭から冠せた。······水はおせんの腰の上まであった。然も潮はひきはじめているとみえ、神田川の落ち口なのでかなり強い流れが感じられる。おせんは赤子を抱いたからだを石垣へ
「もう少しの辛抱だ、河岸の家が燃え落ちれば楽になる、まわりを見ちゃあいけない、なにも考えずにがまんするんだ、苦しくなったら水の面にあるいきを吸うんだぜ」幸太は手で蒲団へざぶざぶと水を掛け続けた、「······ちょっと待ちな、あそこへ手桶が流れて来る、手じゃ
そう云って幸太は流れの中へすっと身をのしだした、仕事着のずんどに
がぶっという異様な水音を聞いて、おせんが蒲団から頭を出した、
「幸さん」彼女はひきつるように叫んだ。
「······幸さん」
すると思ったよりずっと川口に近いほうで、はげしい水音がしたと思うと幸太がぽかっと頭を出した。彼は背伸びでもするように、顔だけ
「おせんちゃん」と、彼は
そしてもういちどがぶっという音がし、幸太は水の中へ沈んでしまった。おせんは
[#改段]
江戸には珍しく粉雪をまじえた風が、焼けて黒い骨のようになった
手足はもちろん骨まで氷りそうな風に
「そっちへいっちゃだめじゃねえか、だめだって云ってるじゃねえか、ばか」
とつぜんこう喚きだす者がいた。
「あの火が見えねえか、よね公、焼け死んじまうぞ、よね公、よね公、ばか」
そしてその喚きはすぐにうううという低い絞るような
おせんは痴呆のように
||おせんちゃん、おらあ苦しかったぜ、本当におらあ辛かったぜ、おせんちゃん。おせんは濁った力のない眼をみはり、唇をだらんとあけて宙を見上げる、なんの感動もあらわれない白痴そのままの表情だ。それから急に眉をしかめ、眼をつむって頭を振る、そういう幻視や幻聴を払いのけたいとでもいうように、||赤児はぐずぐずと泣きだし、小さな唇でなにかを
「おまえさんお乳を含ませておやりな」すぐ前にいた中年の女がこっちへ振返ってからこう云った、「||舌なんかで
「そのひとはあたまがおかしいらしいだよ」脇にいる別の女がそう云った、「||
「まあ可哀そうに、こんな若さでねえ、まだ十六七じゃないかね」
「いくら年がいかなくっても、わが腹を痛めた子に乳をやることも知らないなんて、本当に因果なはなしだよねえ」
そんな問答が聞えるのか聞えないのか、おせんは泣き叫ぶ子を揺すりながら、
「おめえまた来てえるな、家にいなって云ってるのにどうして出て来るのだ、赤ん坊が凍えちまったらどうするだ、聞きわけのねえもてえげえにするがいい、さあ帰るだ、帰るだ」
「勘さんよ、たいへんだねえ」さっきの女の一人がこう声をかけた、「||おまえさんもお常さんもよく面倒をみなさる、こんななかで出来ねえこったよう」
「なにをするもんだお互えさまさ」男はぶあいそに云い捨て、片手でおせんをそっと押した、「||さあ帰るだ帰るだ」
おせんはすなおに歩きだした。男はときどき鍋を持ち替えながら、自分が風上のほうへまわって、往来を右へ曲り、もうかなり積って白くなった道を、
油障子を
「お常、帰ったぜ」勘さんはこう呼びながら笠と合羽をぬいだ、「||ひでえひでえ、骨まで氷ったあ」
「お帰んなさい、いま湯を取りますよ」
台所でこう答えるこえがし、すぐ障子をあけて、湯気の立つ手桶を持って女房が出て来た。二十八九になる小肥りの働き者らしいからだつきで、頬の赤いまるまるした顔に、思い
「しようがねえ、この寒さにまた出て並んでるんだ」勘さんは足を洗いながら云った。
「||欠け
「友さんのところへ乳を貰いにいっといでって出してやったんだよ、そこからいっちまったんだねきっと、あらまあ頭からこんなに濡れてるじゃないか、持ってった傘をどうしたろう」
「いいからあげてやんなよ、傘は友助んとこへでも忘れて来たんだろう、ああ人ごこちがついたら腹が減ってきた、早いとこそいつを
「あいよ、さあおまえお掛けな、足を拭いてあげるから」
お常は残った湯で雑巾を絞り、おせんを上り
おせんのそういう状態はかなり長く続いた。烈しい感動からきた精神的虚脱とでもいうのであろう。もちろん白痴になったわけではない、その期間に経験したことは夢中のもののように
彼女の新しい記憶はお救い小屋から始まっていた。それは蓆掛けに床を張っただけの、うす暗くて風の吹きとおす寒い建物で、身動きもならないほど人が混み合っていた。四五日いたのだろうか、赤児が泣くので隅へ隅へと追われた。自分がわからないありさまだし、もとより赤児の世話などしたことがないから、なかば夢のように揺すったり頬ずりしたりするばかりだった。
||それから毎日、赤児を
||あの晩の火事は二カ所から出たんだってよ、一つは
そんな話もその行列の中で聞いた。
||
||回向院の
||地震のあとで火事、おまけに今年は凶作だというから、火を逃れても餓え死をする者がだいぶ出るぜ。
そういう話もたびたび聞いたのである。殊に関東八州の凶作はあらゆる人々の懸念のたねで、相当の餓死者が出るだろうということは耳の痛くなるほど聞かされた。けれどそういうきびしい話も、その頃のおせんにとってはまるで縁のない
勘さんは勘十といって向う両国に住んでいた。そこで
おせんはごく僅かずつ
「これはあの晩の騒ぎであたまを悪くしてますから」
と、代りに答えて呉れた。
「なにしろお祖父さんと誰とかが死んじまったていことは知ってるだが、そのほかのことはなにも忘れちまったらしいんですよ、自分の名はおせん、赤ン坊はこう坊って呼んでますが、
「父親知れず、母おせんか」町役の人はなんの関心もなくそう書き留めた、「||それじゃ子供の名は幸太郎とでもしておくか」
おせんはこの問答を黙って聞いていたのだが、幸太郎という名が耳についたとき危うく叫びそうになるほど
「おばさん、どうしてみんなこの子の名をこう坊って呼ぶんですか」
「それはあんたが初めにそう呼んだからじゃないの」お常は妙な顔をした、「||毎晩のように幸さんってうわ言を云ってたのよ、それであたしもうちのひともこの子の名だろうと思って呼んできたんだわ、そうじゃなかったのかえ」
「ええ違うんです、それは違う人の名なんです、あたしこの子の名は知らないんですもの」
「そんなら人別にそう書いちまったんだからそうして置きな、幸太郎ってちょっとすっきりした男らしい名じゃないの」
おせんは眉をしかめ、頭を振りながらなにか口の内でぶつぶつ
||それからまた痴呆のような虚脱状態にもどったので、これはそののちも一種の癖のようになった。ひじょうに驚くとか、ながく一つことを思いつめるとかすると、あたまが
赤児は丈夫に育っていった。肥えてはいないが肉付きの緊まった、骨のしっかりしたからだつきでお常のみたところでは百日前後らしかった。乳は梶平の帳場をしている友助の妻のを貰った、ちょうど同じ月数くらいの子があり、絞って捨てるほどよく出る乳だった。住居も二町ばかりしか離れていないで、日になんども通うのにも都合がよかった。夜なかの分は片口に絞って置いて呉れる、それを温めたり
「あらそう、
そしてこの子とさえいっしょにいればそのほかの事はどうなってもいい、自分の幸福はこの子のなかにだけある、などと思うのであった。
三カ所にあった施粥小屋も十二月の末までで廃止になった。焼け跡もずんずん片付いて、翌年の二月ころになると道に沿ったところはあらかた家が建ち並んだ。もちろんそれは表がわのことで、裏へはいると蓆掛けのほったて小屋がたくさんある。これらのなかには「どうせまたすぐ焼けちまうんだ」と悟ったようなことを云っていて、そのとおりまもなく次の火事で焼かれ、「へん、どんなもんだい」などとへんないばり方をする者などが少なからずいた。
||家は建ってゆくが町のようすはだいぶ変った。当時は大火などのあとでよく道筋や地割の変更がある、そのときも両国橋から
||大きな火事があると住む人たちの顔ぶれも違ってくる、俗に一夜乞食といって、家倉を張った
二月にはいってから、おせんの頭はしだいにはっきりし始めた。子供の世話をするひまひまに、炊事や洗濯くらいは出来るようになり、灯のそばで縫いつくろいなどしていると、すっかりおちついて顔色も
「あら、おせんちゃんはきれいなんだね、今夜はまるで人が違ったようじゃないの」お常がそんな風に眼をみはることもあった、「||それだけよくなったんだね、自分でそんな気持がしやあしないかえ」
「ええ頭が軽くなったような気がするわ、なんとなくすうっとしてなにもかも思いだせそうになるの、ひょいと誰かの顔がみえるようなこともあるんだけれど」
「あせらないがいいよ、そうやってひととおりなにかが出来るようになったんだから、もう暫く
「おばさん本所の
「
「なんだかそのことがあたまにあるの」おせんは遠くを見るような眼をした、「||誰かと見にゆく筈だったのか、それとも見て来たのか、そこがはっきりしないんだけれど、それからどこかのきれいな菊畑、······いろんなことがここのところへ出かかっているんだけれど、
「もう少しだよ、おせんちゃん、もう少しの辛抱だよ」お常はもうその話題に興味がなくなった、「||でもすっかり治って、あんたが紀文のお嬢さんだなんてことになっても、あたしたちを袖にしないでおくれよ」
世間の窮乏はその頃からめだってきた。幕府で米価の騰貴するのを抑えたからおもてむきの価格はそれほど高くはならないが、関東一帯の凶作に加えて地震と大火のあとなので、米穀その他の必要物資は極めて窮屈になり、またその流通が利を追う少数の商人たちの手に握られているため、庶民の生活は苦しく困難になるばかりだった。
||いったい
「浅草寺の境内にまたゆき倒れが五人もあったってさ」
「なかに死んだ赤ん坊を負った女がいたそうじゃないの、まだ若いんだって、そばには御亭主も倒れていたけれど、動かせないほどのひどい病人だったって話よ」
「いやだねえ、昨日は
「いつになっても泣くのは貧乏人ばかりさ、ひとごとじゃあないよ」
そんな話が毎日のように出た。
三月になって年号が
||焼け跡の木々にも新芽がふくらみはじめた。きみの悪いくらい暖かな日があるかと思うと、冬でもかえったように、とつぜん気温が下り、烈しい北風がいちめん茶色になるほど
「おや、おめえおせんちゃんじゃあねえか」
おせんは
「やっぱりおせんちゃんか」男は親しげに寄って来た、「||よくおめえ無事だったな、てっきり死んじまったとばかり思ってたぜ、おら正月こっちへ帰ったんだが、近所の知った顔にまるっきり会わねえ、おめえもやられたと思ってたんだが、なにはどうした、爺さんは、やっぱり無事でいるのかい」
おせんは子供を抱きあげ、不安そうにじりじりと戸口のほうへさがった。
「なんだえそんな妙な顔をして、おらだよ、山崎屋の
「おばさん、来て」おせんは
悲鳴のような叫びだった。お常は洗濯をしていたらしい、濡れ手のままとびだして来ると、慌てておせんを背に
「どうしたんです、この子がなにかしたんですか」
「冗談じゃねえ、なんでもねえんだよ」男は苦笑しながら手を振った、「||おらあこの娘を知ってるんで、いま通りがかりに見かけたからちょっと声をかけたんだよ」
「このひとを知ってるんですって」
「向う前に住んでたんだ、いま取払いになっちまったが三丁目の中通りで、この娘のうちは研屋、おらあ山崎屋という飛脚屋の若い者で権二郎っていうんだ」
「まあそうですか」お常はほっとしたように前掛で手を拭いた、「||このひとは火事の晩にどうかしたとみえて、以前のことはなんにも覚えちゃいないんですよ、ついした縁であたしたちがひきとってお世話してるんですけれど、じゃあ親類かなんかあるんでしょうか」
「そいつはおいらも知らねえが、茅町二丁目に杉田屋てえ
「いいえ、このひとのなんでしょう、ひきとったときもう抱いてたんですよ」
「へええ、やっぱりね」
「この子の親を知ってるんですか」
権二郎はにやりと笑った。それからおせんの顔と子供を見比べ、肩をしゃくって
「いま云った若頭梁に聞けあわかる、生きてさえいりゃあね」
そして自分には関係がないとでも云うように、よそよそしい顔をして去っていった。お常はそのうしろ姿を見やりながらなんていやみったらしい人だろうと舌打ちをした。
「おせんちゃんあの男を覚えていないのかえ」
「いいえ」おせんは硬ばった顔で、まだしっかりと、子供を抱いていた、「||いいえ知らないわ、あたし、あんなひと、誰かしら、幸坊を取りに来たんじゃないかしら」
「そんなんじゃないよ、もとあんたの近所にいて知ってるんだってさ、それならそれでもう少し挨拶のしようがあろうじゃないか、歯に
お常はこう云って裏へ去った。
勘十はこの話を聞いて、梶平へでかけていった。杉田屋が大工の頭梁なら、梶平に消息を知った者がいるかもしれないと思ったのだ。友助に話してきいて貰うと、主人の久兵衛が知っていた。けれどもそう親しくはなかったもようで、頭梁の
「ところがわかっていねえというんだから手紙の出しようもねえ」帰って来た勘十はお常にこう云った、「||幸太てえ若頭梁もいたそうだが、これもあの晩どっかで死んだらしいってよ、おせん坊もよっぽど運がねえんだな」
こんなことがあってまもなく、神田川の落ち口に地蔵堂が出来た。その付近で火に焼かれたり川へはいって死んだりした者の供養のためで、浅草寺からなにがし
「
参詣人のなかでそんな話をしている者があった。
「まったくよ、どんなに小さくとも橋があればあんなにたくさん死なずに済んだんだ、なにしろ浅草橋の御門は閉る、うしろは火で、どうしようもなく此処へ集まっちゃったんだ、見られたありさまじゃなかったぜ」
「橋を架けなくちゃあいけねえ、どうしても此処にあ橋が要るよ」
「そんな話も出ているそうだぜ」
おせんは河岸に立ってじっと川を眺めていた。少し暑いくらいの日で、満潮の川波がまぶしいくらい明るく光り、かなり高く潮の香が匂ってくる。両国広小路のほうにはもう水茶屋が出来て、
「まあこんなとこにいたのかえ」
子供を抱いたお常が、こう云いながら近寄って来た。参詣する人たちの混雑で見はぐれていたらしい。
「どこへいったのかと思って捜してたじゃないの、どうしたのいったい」
「あたし此処に覚えがあるの」お常のほうは見ずにおせんがこう呟いた、「||あたし此処を知っているわ、いつのことかわからないけれど、
「たくさん、たくさん、そんなことであたまを使うとまたぶり返すよ、さあもう帰ろうおせんちゃん」
唯ならぬ表情をしているので、お常はこう云いながら腕を取ってせきたてた。そのときおせんは「庄さん」と呟いた。お常に腕を取られたとたんに、ふっとその名が、あたまにうかんだのである。
「ああ」
おせんは身をふるわせ、両手の指をきりきりと絡み合せた。
「||庄さん」
「おせんちゃん、どうしたのさ」
「おばさん、わかってきた、あたしわかってきたわ、庄さん、||と此処で逢った、あのひとは此処から
「いいからおせんちゃん」お常は不安そうに
「待って、もう少しだわ、だんだんわかってくるの、そうよ、庄さんは上方から手紙を呉れたわ」
おせんは両手で面を
||おれの帰るのを待っていて呉れるな、おせんちゃん、それを信じて、安心しておれは上方へゆくよ。
蒼白い思いつめたような庄吉の顔が、いま別れたばかりのようにありありとみえる。それから戸板で担ぎこまれたお祖父さん、裏のさかな屋の女房、露次ぐちにあった

「おばさん、あたしもう大丈夫よ」
「ああわかってるよ」お常はほっとしたように、しかしまだ半分は疑いながら
「||時が来さえすればよくなるんだから、とにかくいちどに考え過ぎないほうがいいよ、さあ帰りましょうね、幸坊」
「あたしが抱くわ、幸ちゃん、さあいらっちゃい」
おせんは幸太郎を抱きとり、固く肥えたその頬へそっと自分のをすりよせた。
それからは日にいちどずつ、願を掛けたようにお地蔵さまへおまいりにいった。あたまもはっきりしてきたし、気持もしっかりおちついて、からだにも精がはいったような感じである。例えば洗濯をしているとき、はっきり自分が洗濯をしているということを感ずる。道を歩きながら、自分がちゃんと地面を踏んで歩いていることを感ずる。あたりまえじゃないの、こう思いながらその「あたりまえ」が慥かなものだということに、形容しようのない嬉しさを覚え、われ知らずそっと微笑するのであった。
||おまいりをする往き来には河岸を通って、いっときあの柳の樹の下に
||待ってて呉れるね、おせんちゃん、おれの帰るまで、おれの帰るまで······。
勘十の商売はひと頃ほど
「馴れねえことに手を出すもんじゃあねえ」
こんな風に云って
末すぼまりになったとはいえ、そのままでゆけばとにかくその商売にとりつくことはできたかもしれない。荷のはけも悪く儲けも少なくなったが、「藁屋」としてはかなり知られてきたので小さなあきないはそれ相当にあった。また近いうちに町家を取払った跡へ書替役所が建つそうだし、松平なにがしの下屋敷も地どりを始めたから、もしてがかりがつけばかなりな仕事になる。それでそのほうへも内々できっかけをつけていたのだが、不運なことにそこへ水禍が来て、すべてを押流されるようなことになってしまった。
||その年はから梅雨のようで、五月から六月の中旬まで照り続け、近在では田植あとの水が不足で困っているという
「二度あることは三度というが、こいつはことによると水が出るぜ」
そう云う者もあったが、老人たちはたいてい笑って、
「昔からなが雨に
こんな風に云っていた。しかし、あとでわかったことだが、この豪雨は関東一帯に降ったもので、
幸太郎は粥を喰べるようになってから
「吸っちゃあいやよ、幸ちゃん、吸うと擽ったいからね、ただ
添寝をして
||三日の夜は幸太郎の寝つきが悪く、いくたびも乳をつよく吸っておせんを驚かした。十時ころにいちど用を
「いやよ幸ちゃん、
「ああちゃん、ばぶばぶ、いやあよ」
「なあに、なにがいやなの」
こう云って頭をもたげたとき、すぐ表のところで水の中を人の歩く音が聞えた。まだ眠けはさめきっていなかったが、おせんはただごとでないと思ってとび起き、
「おばさん、おばさんたいへんよ」
と、叫びだした。
それからあとの出来事は記憶が慥かでない。勘十がまず表へ見に出ようとして、「これあいけねえ土間がもういっぺえだ」と喚いたこと、なにかを取出したり包んだりする夫婦のひどく
「ほらじゃぶじゃぶ、おもちろいわねえ、じゃぶじゃぶ、みんなしてじゃぶじゃぶ、幸坊も大きくなったらじゃぶじゃぶねえ」
「ああちゃん、ばぶばぶ、おもちよいね、はは」
子供は背中ではねた。笑いごえもたてた。しかし同時に震えていた。怖いのだ、怖いけれども自分でそれをまぎらわそうとしている、こんな幼い幸太郎が、······おせんはいじらしさに胸ぐるしくなり、いくら拭いても涙が出てきてしかたがなかった。
「強いのね幸坊は」おせんは首をねじるようにして頬ずりした、「||なんにも怖くはないのよ、ね、じゃぶじゃぶ、みんなで観音さまへいきまちょ、はいじゃぶじゃぶ」
勘十夫婦とどこではぐれたかも覚えはなかった。
聖堂の裏の空地に建てられたお救い小屋で、おせんはまる十日のあいだ窮屈なくらしをした。そのあいだにずいぶん捜しまわったが、勘十にもお常にも会えず、見たという者さえなかった。そのときの水は本所と深川を海のようにし、西岸も浅草通りを越して、上野の広小路あたりさえ道に
水は七日めあたりから退きはじめた。おせんは子供を負って、まだ泥水が
おせんが本当に生きる苦しさを経験したのはそれからのちのことであった。それまでは勘十とお常がいて呉れたし、半分はあたまをいためてもののけじめも明らかではなく、苦労というほどの思いはせずに済んで来た。けれどもこんどは自分のちからで生きなければならない、さいわい住居だけはある、友助の女房がいろいろ気を配って、古いものだが
||庄さんは帰って呉れないかしら。
心ぼそくなるとよくそう思った。
||去年の地震や火事のことを聞かなかったのかしら、あんなにひどかったのだもの、上方へだって評判がいった筈だのに、もしも聞いたとしたら、せめて手紙ぐらい呉れてもいい筈だのに。しかしそのあとからすぐ自分を叱った。
||手紙のやりとりなどすると心がぐらつくから当分は便りをしない、そっちからも呉れるな、いつかはっきりとそう書いて来たじゃないの、二人が早くいっしょになるために、あのひとは脇眼もふらず働いているんだわ、つまらない愚痴など云っては済まないじゃないの。
秋風の立つじぶんから、おせんは足袋のこはぜかがりを始めた。まえに仕事を貰った家の
「あら、おせんちゃんじゃないの」
振返ると若い女が立っていた。濃い
「やっぱりおせんちゃんだね、あんた無事でいたんだね」女は上から見るような眼つきをした、「||あたし死んじゃったかと思ってたよ、いまどこにいるの、それあんたの子供なのかえ」
「まあ」おせんは息をひいて叫んだ、「||おもんちゃん、あんた、おもんちゃんじゃないの」
「なんだ、いまわかったの、薄情だね」
おもんは男のように脇を向いて唾をした。おせんはぞっと身ぶるいが出た、なつかしい友である。
「あたしの家もきれいに灰になったよ、感心するくらいきれいさっぱりさ」おもんはひとごとのようにこう云った、「||おっ母さんと小僧が焼け死んじゃった、面白いもんだね、人間なんて、お酒もろくに飲まなかったお父つぁんが、いまじゃあ酔っぱらって
「いいえ、この子はそうじゃないの、あたしひとりだわ」
「どうだかね」おもんは不遠慮にこちらを眺めまわした、「あんた楽じゃないらしいね、ふん、この不景気じゃ誰だって堪らないから、飢死をしないのがめっけものさ、いまどこにいるの」
「平右衛門町の中通りにいるわ」
「変ったわねあんた」もういちどじろじろ見まわしておもんは激しく
そしてふところ手の肩を竦め、唾をして向うへゆきかかったが、ふとなにか思いだしたというように振返って云った。
「ああおせんちゃん、あんた庄吉っていうひと知ってるかい」
おせんは首を振った。それが自分の庄吉であろうとは夢にも思えなかったのだ。
「知らないの、へんだね」おもんはちょっと考えるように、「||あんたのことをとてもしつっこく
おせんはああと叫び声をあげた。
「そのひと、おもんちゃん、そのひとどうしたの、あんた会ったの、どこで」
「あらいやだ、知ってるの」
「ええ知ってるわ」おせんは恥ずかしいほど声がふるえた、「教えて、いつ来たのそのひと、どこにいるの」
「そんなことわからないよ、お客で会ったんだもの、どこで聞いたのかあたしがおせんちゃんと仲良しだというんで来たらしいわ、そう、一昨日の晩だったかしら、あたし生き死さえ知らないからそう云ったら、||そうそう、あたしあたまが悪いな、思いだしたよ、そのひと杉田屋の幸太さんのこと云ってたわ」
「幸さんのことを、······なんて、||」
「そんなこと覚えちゃいないさ、
「どこにいるか云わなくって、あんたのところへまた来やしない」
「わからない、あたしあなんにも知らない、ただ思いだしたから聞いてみたまでのことさ、でもなにか
「お願いよ、おもんちゃん」息詰るような声でおせんは云った、「||会ったら云って頂戴、あたし生きてるって、平右衛門町の中通りにいるって、待っているって、そう云って頂戴、ねえ、待っているって、······」
風はないがひどく
||もちろん誰も来てはいなかったし、来たようすもなかった。おせんはその夜いつまでも寝ることができず、二時の鐘を聞いてからも行燈をあかあかとつけ、こごえる手指に息を吹きかけながら、足袋のこはぜをかがっていた。
||本当に庄さんだろうか、もしそうならどうして此処へ来て呉れないのだろう、おもんちゃんを訪ねるくらいなら此処だってわかる筈だのに、······それとも人が違うのかしら。
そんなことを繰り返し思った。
なか二日おいた朝、粥を
「五日ばかりまえから梶平の旦那のところへ泊ってるんだがね、なんでもあんたを知っているらしい、あたしゃなんだかわからない、うちのが聞いて来たんだけれどね」
「おばさん」おせんは叫んで立上った、「||そのひとまだいるの、梶平さんにまだいるのそのひと」
「今日はまだいるわ、でももうどこかへゆくらしいんだよ、あたしゃよく知らないんだけれどね、うちのが聞いた話だとなにかあんたとわけがあるらしい、それでちょいと耳に入れて来いと云われたもんだからね」
「有難う、おばさん、あたし会いたいの」おせんは息をはずませて云った、「||すぐにも会いたいの、おばさん、この子に喰べさせたらゆくから会わせて頂戴」
「ああおいでよ、うちのがああ云うんだからなんとか出来るさ、でもあのひとあんたとどんなわけがあるの」
「あとで、あとで話すわ、おばさん、あたしすぐいきますからね」
子供に粥を喰べさせるあいだも、もどかしいおちつかない気持で、思わず叱る声のとげとげしさに幾たびもはっとした。自分は喰べないでそこそこにしまい、子供を抱いて梶平へいった。||仕事場のほうからはいってゆくと、店の裏にある長屋のかどぐちに、友助の女房が子供を負って誰かと立ち話をしていた。おせんが近寄ってゆくと、手を出してすぐに幸太郎を抱きとり、「向うの置き場のところにおいでな」と云って、あたふた店の脇のほうへいった。
新しい木肌をさらして、暖かい日をいっぱいにあびて、
「庄さん」おせんはくちごもった、「||あんた、帰ったのね」
庄吉は投げるように云った。
「ああ、だが帰らなきゃよかったよ」
おせんにはその言葉が耳にはいらなかった。とびつきたかった、向うでとびついて呉れると思った。からだが火のように熱く、あたまがくらくらするように感じた。
「そしてもう、ずっとこっちにいるの」
「どうするか考えてるんだ、||もういちど上方へいってもいいし、······こっちにこのままいてもいいし、おんなしこった」
「あたし、ねえ」おせんはそっとすり寄ろうとした、「||庄さん、あたし、ずいぶん辛いことがあったのよ」
庄吉はすっと身を
「そんなことまで云えるのか、おせんちゃん、おれに向って辛いことがあったなんて、それじゃあおれは辛くはないと思うのか」
「どうして、庄さん、どうしてそんな」
「おまえは、あんなに約束した、待っているって、おれの帰るのを待っているって、おれはそれを信じていたぜ、お前の云うことだけは信じられると思って、それこそ冷飯に
「だってあたし、どうして、······あたしちゃんと待ったじゃないの」
「じゃあ、あの子は、誰の子だ」庄吉はあからさまな怒りの眼で云った、「||地震と火事のあとで水害、困っているだろうと思って帰って来たんだ、ところがどうだ、断わっておくが云いわけはやめて呉れよ、おれは、みんな聞いたんだ、おまえの家が幸太の御妾宅だと評判されていたことも、そしておまえが幸太の子を産んだことも」
おせんは笑いだした。余りに意外だったからであろう、自分ではそんな意識なしにとつぜん笑いがこみあげてきたのだ、しかし表情は泣くよりもするどく
「笑うなら笑うがいい、おまえにはさぞおれが馬鹿にみえるだろう」
「あたしが幸さんの子を産んだなんて、あんまりじゃないの、そんなばかな話、まさか本当だなんて思やしないでしょう」
「云いわけは断わると云ってあるぜ、自分で近所まわりを聞いてみるがいい、幸太がおまえの家へいりびたりということは、去年の春あたりもう耳にはいってた、それでもおれは大丈夫まちがいはないと思ってたんだ、||ところがこんどは幸太の子を産んだと云う、そして、おれはこの眼でその子を見たんだ」
「そんな話、どこから、誰がそんなことを云ったの」
「おまえとは筋向いにいた人間さ、始終おまえのようすを見ることのできる者さ、云ってやろうか、······山崎屋の権二郎だよ」
おせんはようやく理解した。庄吉が自分を訪ねて来なかったわけ、とびつきもせず、よろこびの色もみせないわけが。それどころかたいへんな思い違いをして、自分との仲がめちゃめちゃになろうとさえしていることを。
||どう云ったらいいだろう、権二郎、ああ、あの頃からもう告げ口をしていたんだ、大阪へ飛脚でゆくたびに、このひとと会って無いことをあれこれと云ったに違いない、このひとはそれを信じている。うち消さなければならない、本当のことを知って貰わなければ、······きらきら光る眼で、じっと相手をみつめながら、けんめいに自分を抑えておせんは云った。
「あの子は火事の晩に拾ったのよ、庄さん、親が死んじゃって、ひとりでねんねこにくるまれて泣いていたの、もうまわりは火でいっぱいだったわ、あたしみごろしに出来なかったの、||これが本当のことよ、庄さん、あたし約束どおり、待ってたのよ」
おせんは両手で面を
「それが本当なら、子供を捨ててみな」
「||||」
「実の子でなければなんでもありあしない、今日のうちに捨ててみせて呉れ、明日おれが証拠をみにゆくよ」
おせんは涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげた、唇がひきつり、眼が狂ったような色を帯びていた。おせんはふるえながら
「ええ、わかったわ、そうするわ、庄さん」
おせんは一日うろうろして暮した。||幸太郎を抱きづめにしてなんども出ては、ちぎり飴や、
||庄さんの云うのも
彼女はこう思った。何百里という遠い土地にいて、権二郎の云ったような告げ口を聞けば、愛している者ほど疑いのわくのは自然である。まして現にその子供を育てている姿を見たのだ、あきらかに否定する証拠がない限り、事実だと思うのはやむを得ないかもしれない。||庄吉はこのままこっちにいてもいいと云った、自分が証拠をみせれば二人はいっしょになれる、この家でいっしょに暮すことができるのだ。
「ああちゃんを堪忍してね」おせんは子供を抱きしめる、「||あんたがいるとああちゃんの一生が不幸になってしまうのよ、待ちに待っていたひとが帰って来たの、ああちゃんの大事な大事なひとなの、あのひとなしにはああちゃんは生きてゆけないのよ、ねえ幸坊、わかってお呉れ、堪忍してお呉れね」
あの火の中から抱きとり、腰まで水に浸りながら、身を蓋にして危うくいのちを助けた。自分で自分のことがわからず、他人の世話になりながら、満足におむつを変えることさえ知らなかったのに、ともかく今日まで丈夫に育てて来た。云ってみれば、ほんの偶然のめぐりあわせであった。なんの義理も因縁もなかったのにこれだけ苦労して来たのだ。もう誰かに代って貰ってもいいだろう、ことによると自分の手を離れるほうが、却ってこの子の仕合せになるかもしれない。
「そうよ幸坊、どんなお金持のひとに拾って貰えるかもしれないんだもの、そうでなくってもああちゃんのような貧乏な者に育てられるよりずっとましだわ、そうだわねえ幸坊」
「さあたまたまのうまよ、おいちいのよ、幸坊、たくちゃん喰べてね」
「たまたまね、はは」子供は木の
「あら、たまたまいい子でちょ、幸坊においちいおいちいするんですもの、ああちゃん悪い子、ああちゃん、めっ」
「ああちゃんいい子よ、ばぶ」子供はこわい顔をする、おせんはいつもいい子でないといけない、おせんが自分を叱ってみせたりすると子供は必ず怒る、「||ああちゃん、わるい子、ないよ、いやあよ、ああちゃんいい子よ」
「ああいい子でちゅいい子でちゅ、ああちゃんいい子ね、はい召上れ」
「といで、ね、こうぼといでよ」
木匙は持たせるがまだ独りでは無理だ。しかし誕生からみ月にはなるらしいし、ぜんたいにませた生れつきとみえて、お膳のまわりを粥だらけにしても独りで喰べないと承知しない。今夜はやしなってやりたかったが、どうしてもきかないので好きにさせた。自分も冷たい残りの粥に、幸太郎の卵雑炊を少しかけ、別れの膳という気持で
家を出たのは七時ごろであろう。着ぶくれて眠ったのを背負い、包を抱えて、暗い露次づたいに表通りへ出ると、知った人にみつからないように、気をくばりながら浅草寺のほうへ歩いていった。風もないし、その季節にしては暖かい夜だった。そのためか往来の人もかなりあるし、腰高障子の明るい奈良茶の店などでは、酔って唄うにぎやかな声も聞えた。||もうなんにも思うのはよそう、ただこの子の仕合せだけを祈っていよう。自分の心のこえから耳を
浅草寺の境内へはいったが、さてどことなるとなかなか場所がなかった。奥山には
「あたし気が弱くなったんだわ、ここまできて捨てられなくなったんだわ」おせんはふと立停ってから呟いた、「||子を捨てるのにいい場所なんてある筈がないじゃないの、もう思い切らなければ」
そこは鐘楼のある小高い丘の下だった。すぐ向うに池があり、鯉や亀が放ってあるので、おせんは小さいじぶんよく遊びに来たものだ。此処にしようと決心して、
「おおよちよち、ねんねよ、おとなにねんねよ幸坊」
おせんは抱きしめて頬ずりをしながら、しずかにねんねこで子供をくるんだ、
「||堪忍してね、ああちゃんの一生のためだからね、いいひとに拾われて仕合せになるのよ、ああちゃんを仕合せにして呉れるんだから、きっと幸坊も仕合せになってよ、······ああちゃんそればっかり祈っているわね」
しがみついている手をようやく放し、そこへ置いた包を直して、自分も横になりながらそっと寝かせた。どこか遠くで酔った唄ごえがしていた。三味線の音もかすかに聞える。おせんは静かに身を起こした、足がわなわなと震えだし、喉がひりつくように渇いた。
||さあ早く、いまのうちに。
おせんは夢中で歩きだした。耳がなにか詰められたように、があんとして、いまにもたちくらみにおそわれそうだった。
||早く、早くいってしまうんだ。
おせんは走りだした。するとふいに子供の泣きごえが、聞えた、「ああちゃん」という声がはっきりとするどく、すぐ耳のそばで呼ぶかのように聞えた。子供の手がぎゅっと肩を
||堪忍して幸坊、堪忍して。
両手で耳を掩い、眼をつむって立停った。子供の泣きごえはさらにはっきりと、じかに胸へ突刺さるように聞えた。「ああちゃん、かんにんよ、こうぼいい子よ、めんちゃい||」
おせんは喘いだ、髪が逆立つかと思えた、そして狂気のように引返して走りだした。
子供は泣いていた。ねんねこをひきずりながら、地面の上を四五間もこっちへ
「ごめんなさい幸坊、悪かった、悪かった、ああちゃんが悪かった、ごめんなさい」
しがみついてくる子供の手を、そのままふところへいれて乳房を握らせ、片方の乳房を出して口へ含ませた。
「捨てやしない、捨てやしない、どんなことがあったって捨てやしない、どんなことがあったって」
おせんはこう叫びながら泣いた。
「||幸坊はあたしの子だわ、あたしが苦労して育てて来たんじゃないの、誰にだって捨てろなんて云われる筈がないわ、たとえ庄さんにだって、······ねえ幸坊、あたし幸坊もう決して放しゃしなくってよ」
子供は泣きじゃくりながら、片手できつく乳房を握り、片乳へ顔のうまるほど吸いついていた。おせんはやがて立ちあがり、抱いたまま上からねんねこでくるみ、包を持って、やや風立って来た道を家のほうへ帰っていった。
明くる朝、子供を負って洗濯物を干していると、庄吉が来た。彼は歪んだ皮肉な顔つきで、道のほうからこっちを眺めていた。
それからそばへ寄って来た。||おせんはできるだけのちからで微笑し、相手の眼をみつめながら
「ごめんなさい、庄さん、あたしゆうべ、捨てにいったのよ」
「||でもそこに
「いちど捨てたんだけれど、可哀そうで、とてもだめだったの、庄さんだって、とても出来ないと思うわ」
「||わかったよ、証拠をみればいいんだ」
「ねえ、あたしを信じて」おせんは泣くまいとつとめながら云った、「||本当のことはいつかわかる筈よ、あたし待ってるわ」
庄吉はなにも云わずに
「庄さん、あたし待っててよ」
しかし彼は振向きもせずに去っていった。
[#改段]
十二月にはいると間もなく幸太郎が
幸太郎は半月ほどできれいに治ったが、その前後からおせんは友助夫婦のようすの変ったことに気づいた。和助という子は生れつき弱いところもあったとみえて、幸太郎がよくなってからも唇のまわりや頭などに
もうかなりおし詰ってからの或る日、おたかが珍しく訪ねて来たので、しかけていた
「おせんちゃん、このひとは
「まあおばさんの、||それはまあ······」
おせんは寒いような気持におそわれた。これまでながいこと待っていたのに誰もあらわれず、もうこのままおちつくのだと思っていたが、こうして亡くなったひとの兄が来たとなると、もしかすればこの家を出てゆかなければならなくなるかもしれない、そんなことになったらどうしよう。なによりも先にそういう不安がわいてきたのであった。||ひきあわせが済むと、おたかはすぐに帰っていった。男はおせんに水を取らせて足を洗い、ぬいだ
「用が済んだらこっちに来なさらないか」物音が止んだのに気がついたとみえ、男が向うから呼びかけた、「||それからだいぶ冷えるが、火が有ったら貰えまいかね」
「済みません、火をおとしてしまいまして、あのう」おせんは赤くなった、「小さいのがいて危ないもんですから、家の中へは火を置かないようにしていますので、つい」
男はまた黙って部屋の中を見まわした。おせんは消した
「これは水の晩にあたしがお常さんのおばさんから預かったものですの」
「あらましのことは友助さんに聞いたがね」
男は包をちょっと見たばかりでこう云った。
「||わしも心配はしていたが、まさか死んでいようとは思わなかった、
彼の名は
おせんも幸太郎を膝に抱きおろして、あの夜の出来事を記憶するかぎり詳しく話した。死躰のみつからなかったことは捜さなかったためもあるかもしれない、しかし子供を背負った自分でさえ無事なのである、夫婦二人のことだし、洪水といっても堤を欠壊して濁流が押しかかるというようなものではなかったので、万に一つも死んでいるなどとは考えられなかった。どこかへ避難していていまに帰るものと信じていた。それがいよいよ帰らないことがわかり、それでは死躰をというじぶんには、川筋のどこでもすでにそういうものの、始末がついたあとであった。そういうわけで、世話になりながら死後のとむらいもせずにいたのは、申しわけのないことであるけれど、じつを云うと自分もまだ本当にお二人が死んでしまったとは思えない、いつか元気な姿で帰ってみえるような気がしてならないのである。||こういう意味のことを云って涙を拭いた。松造は
松造は泊っていった。千住に舟が着けてあって、朝早くそれに乗って帰るということだった。いまにも、家のことを云われはしないかと、そればかり胸に
「これで子供に
「まあそんなことは、いいえどうかそれは」
「厄介をかけた、||じゃ······」
そのまま出るようすである、おせんは思いだして風呂敷包をと云った。松造はむぞうさにそれはまた次に来たときにしようと答えた。そこでおせんは幸太郎を抱き、戸口へ送りだしながら思い切って
「あのう、あたしこの家にいてもいいんでしょうか」
松造は振返ってけげんそうに、こっちを見た、ゆうべとげとげしくみえた眼が、今はもっとするどく
「この家は友さんという人が、材木の残り木で建てて呉れたものだそうだ、それから水で
「それじゃ、あの、あたし、いてもいいんですわね」
松造は茶色になった
「ときどき泊らせて貰うからな」こっちは見ずにこう云った、「||その代りこんど来るときは、自分の
彼が去ったあと、おせんは幸太郎を抱いたまま嬉しさにこおどりをした。もう大威張りよ幸ちゃん、これ、ああちゃんと幸坊のお家になったのよ、ごらん、幸坊は三つで家作もち、えらいのねえ。||幸太郎はわけのわからぬままにおせんの首へ抱きつき、おせんのはしゃぐのに合わせてきゃっきゃっと躍り跳ねた。······昨日からの不安が解け、ようやく気持がおちついてくると、まず考えたのは友助夫妻のことであった。この家がおせんのものであるように云って呉れたのは友助夫妻である、かれらはこの頃ずっと疎んずるようすだった。そしてもし自分に好意を持たなくなったとすれば、ここから追い出すことはぞうさもない話である、それをこういう風にして呉れたのは、たとえ
「お礼にいきましょう幸ちゃん」おせんは子供に頬ずりをした、「||
友助の家へ礼にゆくにはもう一つの意味があった。それは庄吉のようすがわかるだろうということである。あの朝の悲しい別れからこっち、おせんはいちども庄吉に会っていなかった。あのときの口ぶりでは、江戸にいるかもしれないし大阪へ戻るかもしれない、どっちともきめていないという風だったが、その当座は梶平にいて仕事場を手伝っているということを、それとなくおたかから聞いたことがあった。||もちろん大阪へなどゆきはしない、きっとこの土地にいるに違いない。おせんはこう確信した。庄吉がおせんを疑っている気持はよくわかる、そして自分にはその疑いを解く証拠がない。大阪という遠いところにいて、飛脚屋の権二郎からたびたび忌わしい話を聞き、帰って来て現におせんが子を抱いているのを見たのだ。ここにもし多少の証拠があって、このとおりであると並べてみせることが出来たとしても、それで庄吉の疑いがきれいに解けはしないだろう。
||本当のことはいつかはわかる筈よ、あたし待っていてよ、庄さん。
あのときおせんはこう云った。深く考えて云ったのでない、しぜんに口を衝いて出た叫びであった。そしてそれがいちばん
松造の帰った翌日、おせんは彼の置いていった銭に幾らか足して大きな犬張子を買い、それを持って友助の家へ礼にいった。橋からはいって長屋のほうへゆくと、新しい木の香が
「いいえそんなことはありませんよ、うちじゃなんにも云やしませんよ、お礼を云われるようなことはしやしませんよ」
おたかは人の好い性質をむきだしに、けれども明らかに隔てをおいた口調でそう繰り返した。おせんはまた、久しくみないから幸太郎に
「そんなことしないで下さいよ、そんなことして貰うとうちに怒られますからね、本当に困りますよ」こう云って途方にくれるような顔をし、それでも手には取ったが、おたかの顔はやはり硬いままだった、「||せっかく幸坊が来たのに気の毒だけどねえ、あの子はいましがた寝かしたばかりなんで」
「ええいいのよおばさん、そんならまた来ますから」
おせんはこう云ってから、まわりに人のいないのをみさだめ、おたかのほうへそっと身を近寄せて云った。
「おばさん、こんなこと訊いて悪いかもしれないけれど、あたしなにかおばさんたちの気に障るようなことしたんでしょうか、||もしなにかそんなことがあるんなら云って下さらない、あたしこんな馬鹿だから、気がつかずに義理の悪いことをしたかもしれないし、もしそうならお
「そんなことありませんよ、そんな」おたかは
おせんは相手の眼を追うようにして見まもった。慥かになにかあると思ったから、そしてぜひともそれは訊きださなければならないと思ったから。||おせんは云った、自分がどんなに二人の世話になって来たか、それをどんなに感謝しているか、勘十夫婦の亡くなったあと、小さな者を抱えて生きてゆくのに、どれくらい二人を頼みにしているか、親ともきょうだいとも思ってるのに、さき頃から二人が自分を避けるようになった、これは自分にとってなにより悲しく寂しい、自分になにかいけないところがあったのだろうが、それがわかりさえすればどんなにでも直そう、どうか本当のことを云って貰いたいし、たのみ少ない自分をつき放さないで貰いたい。これだけのことを心をこめて云った。
||おたかは聞いているうちに感動したようすで、しかしその感動をうち消そうと、気の毒なほどうろうろするのがみえた。まちがいなく彼女は迷いだしていた。こうと思いきめていながらおせんの言葉につよくひきつけられ、気持の崩れだすのを防ぎかねていた。
「いいわ、じゃ云うわ、おせんちゃん」
やがておたかはこう云った、そしてすばやくあたりを見まわし、手招きをして家の中へはいった。||六
「あたしがよそよそしくしたのは、おせんちゃんがなにもあたしたちに不義理をしたからってわけじゃないのよ」おたかはこう話しだした、「||正直に云うと庄吉さんのためなの」
「庄さんのためって、だって庄さんが」
「いつだっけかしら、そう、あの人があんたと置場で逢って話をしたわね、あれから十日ばかり経ってだわ、うちのひとが庄吉さんを呼んで此処でお酒をいっしょに飲んだの、そのときあの人はあんたのことを話しだしたのよ、杉田屋にいたじぶんのことから大阪へゆくようになったわけ、そのときおせんちゃんと約束をしたことも云ったわ、固く固く約束したんだって、||大阪へいってから、それこそ血の
おせんは耳を
「あの人は泣いていたわ、あたしたちも泣かされたわ」おたかはこう結んだ、「||おせんちゃんにもそれだけのわけがあるんだろうけれど、まだそれほど年月が経ったというんでもないのにあんまりじゃないの、あたしは女だからそういっても薄情な気持にはなれない、出来たことはしようがないとも思うけれど、うちのひとがすっかり怒ってしまって、もう往き来をしちゃあいけないってきかないのよ、だからあんたも当分はそのつもりでね、いつかまたうちのにあたしがよく云うから、それまで辛抱して独りでやっていらっしゃいな」
「よくわかってよ、おばさん」おせんは乾いたような声でそう云った、「||庄さんは思い違いをしているの、この子はあたしの子じゃあないわ、でも今はなにを云ってもしようがない、云えば云うだけよけいに疑ぐられるんですもの、だから、あたし待つ決心をしたのよ、それがみんな根も葉もないことだということはいつかきっとわかると思うの、······おばさんやおじさんにまで嫌われるのは辛いけど、こうなるのもめぐりあわせだと思って辛抱するわ、そうすればいつかは、おばさんにも」
だがあとは続かなかった。わっと泣けてきそうで堪らなくなり、挨拶もそこそこに幸太郎を抱いて外へ出た。||友助夫妻の遠退いた意味はわかった。しかしなんと悲しく口惜しいことだったろう、女の自分でさえ誰にも訴えたり泣きついたりせず、大きすぎる打撃を独りでじっと
その年の暮に
貧しさには貧しさのとりえと云うべきか、日頃から掛け買いの出来ないおせんは、年を越す苦労もひとよりは少なく、白くはないが
「表を通りかかったもんだからね、どうしてるかと思ってさ、おお寒い」おもんは身ぶるいをしながらあがって来た、「||なんて冷えるんだろう、ちょっとあたらせてね」
「こっちへ来るといいわ、炭が買えないんで焚きおとしなの、暖たまりあしないから、||さあお当てなさいよ」
「坊やはおねんねだわね、こんど幾つ」
「四つになるのよ」
おもんは
「ほんの一つだけれど、お餅があるから焼きましょうか」
「ああたくさんたくさん」おもんは不必要なほど強く頭を振った、「||昨日からどこへいっても餅攻めで、それああたしお餅には眼がないほうだけど、でもこう餅ばかりじゃあいくらなんでも胸がやけるわ、あたしは本当にいいんだから心配しないでよ」
「うらやましいようなことを云うわね、でも一つくらいはつきあうもんよ」
おもんが嘘を云っていることは余りに明らかであった。おせんは一つでも惜しい餅ではあったけれど、見ていられない気持で三つ出し、網を火に架けたり小皿に醤油を注いだりした。ふっくらと焼けてくる香ばしい匂いが立つと、おもんは生唾をのみのみ活溌に話し始め、この頃は面白いように稼ぎのあること、世間の不景気なときは自分たちのほうがふしぎに客の多いこと、この調子なら間もなく、小さな家くらい持てそうなことなど、なにかが逃げるのを恐れでもするようにせかせかと語り続けた。そしておせんが焼けたのを小皿に取って出すと、話に気をとられているというようすですぐ口へもってゆき、三つともきれいに喰べてしまった。
「人間どうせ生きているうちのことじゃないの、あんたなんか
むりに元気づけた調子でそんなことを云いだした。思いだしたように
「可哀そうなおもんちゃん」
火桶の火を埋めながら、おせんはそっとこう
||可哀そうなおもんちゃん。
元旦は朝から曇っていた。雑煮を祝ったあと、おせんは幸太郎を背負って、
「祝う身寄りもなくって寂しいから、こちらで正月をさせて呉れって来たんですって、だいぶいい稼ぎをしたらしいって話でしたよ」
「それじゃあ、あの人、||あれからどこかへいってたんですか」
「あら話さなかったかしら」こう云っておたかはちょっと気まずそうな眼をした、「||あれから間もなくお店を出たんだけど、梶平さんの旦那の世話で、
「なんという頭梁かしら||」
「さあ、あたしは詳しいことはなんにも知らないからわからないけれども、でも頭梁っていえば一町内にそうたくさんいるわけでもなし、おせんちゃんがもし尋ねてゆくつもりなら」おたかはそう云いかけてふと空を見上げた、「||あらいやだ、雪よ、まあお元日に悪いものが降りだしたわね」
そして自分は
「ゆきこんこいいね、ゆきこんこ、ああたんゆきこんこいいね」
おせんは幸福な気持だった。庄吉が梶平の店を出たということは知らなかったけれど、住込みでよそへいっていた彼が、正月をしに帰って来たという、祝う身寄りもないからと云ったそうだし暫く厄介になった人たちへの懐かしさもあるだろうが、なんといっても近くに自分のいることが最も大きい原因に違いない。自分の近くへ来て、自分のようすを聞いたり見たりしたいのだ、殊によるとすっかり事情がわかって、その話をする積りで来たのかもしれない。||もちろんはっきりそうと信じられる理由はなかった、そういう臆測とは逆なばあいも想像することができる。しかしそれでもいい、どういう意味にせよ彼が自分の近くへ来ることは愛情のつながっている証拠なのだ。はかないといえばいえるけれど、それだけでも今のおせんは幸福な気持になれるのであった。
三日の午後に古河から松造が来た。野菜物を
「あの包はお持ちにならないんですか」
草鞋を穿いて出ようとするので、そう訊くと、彼はちょっと考えるようすだったが、やがて低い沈んだ調子で、おせんの問いとはまるで縁のないことを云った。
「人間は正直にしていても善いことがあるとはきまらないもんだけれども、悪ごすく立廻ったところで、そう善いことばかりもないものさ」
そして空いた袋や籠を
松の取れるまでそれとなく梶平の店の近くへいってみたり、表を通る人に絶えず注意していたりしたが、とうとう庄吉の姿を見ることはできなかった。やっぱりまだ疑いが解けていないのに違いない、殊によると会いに来て呉れるかもしれないとさえ思ったのであるが、それが間違いだとわかっても、おせんはさほど悲しくはなかった。庄吉は同じ浅草にいるのである、阿部川町といえば此処からひと
||その点には少しも迷いはなかったけれども、近所のことでどうにも当惑に耐えないことが起こった。もともとおせんは余り近所づきあいをしないほうだったが、それでも通りがかりに寄るとか、夜話しに来るとかいった女房たちが二三人はいた。それがまるで申し合せでもしたように、暮あたりからばったり顔をみせなくなり、道で挨拶をするくらいの人のなかにも、ふと白い眼でこちらを見るような風が感じられるのであった。まえに友助夫妻のことがあるので、こんどもなにかそれだけの理由があるのだろうと思い、しかしそう
元来がそう親しい人たちでもなく、こちらは満足に茶も出せないような生活で、来られれば
「そうともさ、義理だの人情だのといったのは昔のことで、今じゃてんでん勝ちが大手を振って歩くのさ、すえ始終の約束をしておきながら、相手が一年もいなければもうほかの男とくっつき合ってしまう、それも十六や七の本当ならおぼっこい年をしてえてさ」
その声には覚えがあった。振返って慥かめるまでもない、よく話に寄った女房のひとりで、亭主が舟八百屋をしているお
「ところが恥を知らないくらい怖いことはない、赤ん坊が生れたと思うと男に死なれちまった、たいていの者ならいたたまれない筈だが、火事で町のようすが変り、知った者がいなくなったのをいいことに、しゃあしゃあと元の土地にい据わって約束の相手の帰るのを待っていた、そして相手が帰って来るとこの子は自分の子じゃあないとさ、ちゃんとおまえを待っていたってさ」
「云えたもんじゃあないよねえ」こう
おせんは自分でも知らずに、並んでいる人の中からぬけてそっちへいった。頭がくらくらし躯が音を立てるほど震えた。どんな顔をしていたことだろう、彼女はお勘の前へいって叫んだ。
「いまのはあたしのことを云ったのね、おばさん、あたしのことだわね」
「さあどうだかね」お勘はちょっと気押されたように後ろへ身をひいた、「||あたしゃ人から聞いたんだからよく知らないよ、おまえさんだかなんだか知らないが、たとえ誰のことにしたってあんまり」
「なにがあんまりなの、どこがあんまりなの、はっきり云ってごらんなさいよ、誰が義理人情を知らないっていうの、誰が男とくっついたの、誰が、誰がよその男の子を生んで自分の子じゃないなんて云ったの、云ってよおばさん、それはどこの誰なの」
声いっぱいの叫びだった。参詣の人たちはなにごとかと寄って来ると、幸太郎は
「云えないの、云えないならあたしが云ってあげるわ、今あんたの口から出たことはみんな嘘よ、根も葉もない嘘っぱちよ、あんたもあんたにそんな話をした人も本当のことはこれっぽっちも知っちゃいない、みんなでたらめよ」
「そんならなぜ」お勘も
「あたしは、あたしはそんなこと云っちゃいないわ、そして、そんなことはおばさんの知ったことじゃないじゃないの」
「どういうわけでその人はあんたを貰いに来ないの」お勘は平べったい顔をつきだし、眼をぎらぎらさせながら喚いた、「||その人は帰って来たんだろ、会って話もしたというじゃないか、それで嫁に貰わないってのはどういうわけさ、おまえさんのほうであいそづかしでもしたってのかい」
「あの人のことはあの人のことよ、あたしは自分のことを云ってるんだわ、あたしがちゃんと待っていたことを、この子はあたしの子じゃ······」
おせんの舌はとつぜんそこで停った。幸太郎の悲鳴のような泣きごえが耳に突入り、
「そんな恥知らずないたずら女は町内にいて貰いたくないもんだ」お勘がなおもこうどなっていた、「||そんな者にいられたんじゃこっちの外聞にもかかわるからね、さっさとどこかへ出てってお呉れよ」
幸太郎は両手でおせんにしがみつき、全身を震わせながら泣きじゃくっていた。おせんはかたく頬を押付け、背中を
「めんちゃいね幸坊、ああちゃんが、悪かった、あんな恥ずかしい思いをさせて本当に悪かったわ、誰がなんと云ってもいい、幸坊はああちゃんの大事な子よ、なにもかもいつかはわかるんだもの、それまでがまんして辛抱しましょう、いまにきっと、||きっとなにもかもよくなってよ」
それからさらに近所の眼が冷たくなった。もちろんおせんも覚悟はしていた、どんなに辛く当られても仕方がない、そのときが来るまで黙って忍ぼうと決心していた。不自由なのは味噌醤油や八百屋物などの、こまこました買い物が近所で出来なくなったことで、駄菓子屋などでさえおせんには売って呉れない。これには当惑したけれども、そういつも買い物をするわけではなく、町内を出れば幾らでも買えるから、不自由なりにそれも慣れていった。
こうしてまわりの人たちと殆んどつきあいが絶えたが、二月じゅうはおもんがしげしげ訪ねて来た。たぶんどこかで噂を聞いたのだろう、それとなく慰めたり気をひき立てるようなことを好んで話すが、それはおせんの潔白を信じているためではなく、噂のほうを本当だと思っていて「それがなんだい」という口ぶりであった。
「よけいなお世話じゃないか、火つけ泥棒をしたわけじゃあるまいしなんだい、自分じゃ鼻の曲るような臭いことをしていて、ひとの段になるとお釈迦さまみたいな口をきくやつさ、なにを構うもんか、大威張りでどこでものしまわってやるがいいんだ」
おせんはむろん彼女の誤解を正そうなどとは思わない、けれどもそういうことを聞いているのは楽ではなかった。なるべく話題を変えるように、おじさんはどうしているか、躯の具合が悪そうだが養生をしたらどうか、そんな風に、こちらから問いかけることに努めた。おもんはそういうことにはなんの興味もないらしい、すてばちな投げた調子で、馬鹿にしたような生返辞ばかりしかせず、ついには
「きれいな顔をして
酔っているときはそんなように世間や人を
「気楽にやろうよ、おせんちゃん、どうせこの世にあ善いことなんてありあしない、自分の好きなように、勝手気ままに生きてゆくんだ、みんな死ぬまでしきゃ生きやしないし、死んじまえば将軍さまだって灰になるんだからね」
二月も末に近い或る夜、おもんが舌もまわらないほど酔って、着物から髪まで泥まみれになって、殆んど転げ込むようにはいって来た。それまでいちども泊めたことはなかったのであるが、坐ることもできないありさまでどうしようもなく、泥を拭いてやり着替えをさせて、同じ蒲団の中へいっしょに寝た。||明くる日は朝から
正月に来たきり音も沙汰もなかったので、||忘れたというのではないがちょっとどきっとした。いつものとおり草鞋と足袋を自分で干して、足を洗ってあがった松造は、そこに寝ているおもんの姿を見ると、眉をしかめた。||蒼ざめて土色をした膚、茫々とかぶさった
「あたしのお友達ですの」おせんはとりなすように小さな声で云った、「||お針にいっていたじぶんの仲良しなんです、ゆうべひどく酔って来て苦しそうだったもんですから」
松造は黙って莨をいっぷくした。それから立っていって土間へおり、持って来た包をそこへひろげた。大根や
「寒の水で
「足をどうかなさったんですか」
「冬になると痛むだ、大したことじゃねえ、二三年出なかったっけが、||水のあとの無理が
そんな話をしているとおもんがむっくり起きた。そして黙ってよろよろと土間へおりた、おせんが
「なんだいあの田舎者は、あれがおせんちゃんの旦那かい」
こう云って激しく
「||向う山で鳴く鳥は、ちゅうちゅう鳥かみい鳥か、
おせんは立っていって切窓の隙からそっと
その夜また泊って明くる朝。松造は草鞋を穿いてから思いついたように、お常の風呂敷包にある物は使えたらおまえが使うがいいと云った。それから、おせんのことは亡くなった勘十からも聞いていたし、こっちへ来て友助から聞いたこともある、いろいろ事情があるらしいが、自分はそれに就いてどんな意見も持ってはいない。だがお常がひき取って世話をした、その気持を亡くなった者のために続けてやりたいのである。自分たちは三人兄妹であったが、下の妹を火事でとられお常を水でとられて、とうとう自分ひとりになってしまった。これも約束ごとというようなものだろうが、||そういう意味のことを
おせんの物を着ていったまま、おもんはふっつりと姿をみせなくなった。おせんは彼女の泥まみれの着物を洗って干し、
花も見ずに三月も過ぎ、四月、五月と日が経っていった。松造との話で、七月の命日には勘十夫妻の供養をし、墓石へ名を入れようということになっていた。そのまえ三月の中旬ころに松造が友助から聞いて本所四つ目にある
両国橋の脇から舟に乗っていったが、明日は
「こうぼ、あんよしないよ、こうぼ、えんちゃよ、おうち動くよ、おうちみんな動くよ」
自分が坐っているのに家並の移動してみえるのがふしぎらしい、松造は珍しくにっと笑った。母親のそばに、きちんと坐っていた、お
「お家が動くんじゃないね、お舟が動くからそう見えるんだね、かあちゃん」
こう云った。おいくはするどい調子でよけいなことを云うんじゃないと叱りつけ、怒ってでもいるようにぐっとそっぽを向いた。
||この家族も単純ではない、おせんは溜息をつくような気持でそう思った。まだ初対面で深いことはわからないが、夫婦のあいだも親子のあいだもしっくりいっていないようだ、良人であり妻であり子であるのに、それが一つにならないでばらばらに離れている。どうかすると、他人よりも冷たいようすが感じられる、松造が自分に親切をつくして呉れるのも、そんなところに動機の一半があるのではなかろうか。······
宗念寺で法会をしたあと、すぐ近くにある支度茶屋で早めの食事をした。まわりは青々とうちわたした稲田や林が多く、武家の下屋敷らしい建物が、ところどころにあるばかりで、どんな片田舎へ来たかと疑われるほど、
平右衛門町へ帰ったのは日盛りのいちばん暑い時刻だった。そして家へはいると、土間へ
それがいつかの女だと知ると、松造は入りかけた足を戻してこのまま帰ると云った。おいくの顔にも露骨な
おもんは病気にかかっていた。汗と
「おせんちゃん、あんた見て呉れた」おもんはしゃがれた声でそう云った、「||ようよう家が持てたのよ、あんたに見て貰おうと思って、······これでひと安心だわ、あんたも越して来なさいよ、いっしょに此処で暮そうじゃないの、ねえおせんちゃん、あたしもあんたも、ずいぶん苦労したんだもの、いいかげんにもう楽になってもいい頃よ、ねえ、この家あんたに気にいって」
「ええ気にいったわ」おせんは自分の
おせんは幸太郎を負ってとびだした。
三軒たずねて断わられ、四軒めに
その月いっぱいおせんは満足に眠れない日を過した。もう高価な薬も、むだだというので、ふりだしのような物を呉れるだけだったから、
||松造は六七日おきぐらいに来たけれども、おもんの寝ているのを見ると、持って来た物を置いてすぐに帰っていった。あのときあのように云ったにしては、かくべつ機嫌を悪くしたようにもみえず、却って持って来て呉れる物のなかに卵や胡麻や
「お花さんていうひとがいたわねえ、髪の毛の
「それからお
「おもとさんと絹さん、それからおようちゃんの三人はお嫁にいったの、お絹さんは向う両国の
そんなに話しては躯に障るからと注意するのだが、すぐにまたひきいれられるような口ぶりで語りだすのである。その頃には頬のあたりが肉づいてきたためだろう、色こそ悪いが以前の顔だちをとり戻して、まなざし言葉つきなど、あの頃の明るい人なつっこいおもんがそのまま感じられるようになった。||その調子でゆけば或いは全快したかもしれない、全快はしなかったにしても、そう急にいけなくなるようなことはなかったに違いない、しかしそれから間もなく思いがけない出来事が起こって、おもんは悲しい終りを遂げなければならなかった。
八月の十五日、月見のしたくに団子を拵えたあと、柳原堤へいって供え物の
「庄さんがお婿さんになったんですって」おせんは半ばうわのそらで訊き返した、「||頭梁って、阿部川町の、住込みだっていうあの頭梁の家ですか」
「そうなんですってよ、頭梁ってひとが庄吉さんの腕にすっかり惚れこんだんですって、お
おせんはちょっと立停った。しかしすぐ歩きだしながら、いま聞いた話がなにを意味するか考えてみた。うわのそらで聞いていたのである、もちろん言葉そのものはわかっているが、その意味は聞きながしていた。それはとうてい有り得ないことであったから。
||が、おせんはとつぜん額から白くなり、おたかの腕を掴んで立停った、おたかは吃驚して声をあげた。
「庄さんが、お嫁を貰ったんですって」
「放してお呉れな、痛いじゃないかおせんちゃん」
「本当のこと云って頂戴、本当のこと」
「痛いってば、ここをお放しよ」
「お願いよ、おばさん」おせんは縋りつくように云った、「||庄さんがお嫁を貰ったって、嘘でしょう、ねえ、そんなことがある筈はないもの、嘘でしょうおばさん、ねえ云って、そんなことは嘘だって」
「いって自分で訊いてみれば、いいじゃないの、あたしは知ってることしか知っちゃいないよ」
「そらごらんなさい嘘じゃないの」
こう云いながらおせんは歩きだした。きみ悪そうにおたかが去っていったことも、曲り角を通り越したことも知らず、
「おもんちゃん、あんた済まないけれどそのままでもうちょっと幸坊の相手になって呉れない、あたし急いでいって来るところがあるんだけれど」
「ええいいわよ、このとおり
「ここへ
「こっちは構わないわよ、悠くりいってらっしゃいな」
おせんはそのまま家を出ていった。
森田町からはいって三味線堀についてゆくのが、阿部川町へはいちばん近い道である。秋とはいってもまだ日中は暑かった、乾いた道は照り返してぎらぎらと輝き、あるかなきかの風にも埃が舞立つので、おせんの足は
頭梁は山形屋というのであった。家は寺町へぬける中通りの四つ角にあり、さして大きくはないが総二階で、白壁に黒い腰羽目のがっちりした造りだった。大工の頭梁の家というより、てがたい問屋の店という感じである。おせんはその前を眺めながら通った、それから十間ばかり先にあるかもじ屋へはいって、油元結を買いながら、庄吉のことを訊いた。店にいた老婆は少し耳が遠いようだったが、訊かれたことがわかると舌ったるい口でくどくど話しだした。おたかの云ったことは嘘ではなかったのである、庄吉は気性と腕をみこまれて山形屋の婿養子になった、六月の十幾日とかに祝言もして、夫婦仲も
「お加代さんも評判むすめだったけれどねえおまえさん、お婿さんもそれあよく出来たひとで、腕はいいしおまえさん、腰は低いしねえ、なにしろちょっとのま来ているうちに、職人衆みんなから、
おせんはそこを出て、ちょっと考えたのち、戻って四つ角を左へ曲り、みかけた筆屋へはいってまた同じことを訊いた。そのあとでさらに二軒ばかり訊いたらしい。||幾たび訊いても事実に変りはなかったが、おせんにはどうしても信じられないのである。
||だってあたしという者がいるじゃないの、きっと待っていて呉れって、庄さんが自分の口からはっきり云ったじゃないの。
そして自分は待っていた。今でもこのとおりちゃんと待っているではないか、それなのにほかのひとを嫁に貰う筈があるだろうか。いやそんな筈は決してない、庄さんに限ってそんなひどいことをする気遣いはない、どこかでなにかが間違っているんだ、その間違いをうっちゃっておいてはたいへんなことになる。そういう気持で飽きずに訊きまわったのだ。||家へ帰ったのは日の傾いたじぶんで、幸太郎がひどく泣いていた。おもんは床の上に起き、あやし疲れたのだろう、前に玩具を並べたまま途方にくれたような顔をしていた。おせんは気ぬけのした者のように、おもんにはろくろくものも云わず、すぐに幸太郎を負って夕餉のしたくを始めた。
「おせんちゃんごめんなさいね、幸ちゃん泣かせて悪かったわ」夕飯のときおもんはこう云った。
「||ずいぶんだましたんだけれど、しまいにはああちゃんああちゃんって追ってきかないのよ、頼まれがいもなくって済まなかったわ」
「なんでもないのよ、そばにくっついてばかりいたから······」
無表情にこう答えたまま、おせんは黙って
「あんたどこか悪いんじゃなくって、おせんちゃん、それともなにか厭なことでもあったの」
「どうして、||あたしなんでもないわよ」
そう云って振返る眼が、おもんを見るのではなくずっと遠いところをみつめるような眼つきだった。あんまりおかしいので、寝るときもういちど訊いてみた、するとおせんは眉をしかめながら突っ放すようにこう云った。
「お願いだから黙っててよ、それでなくっても頭がくちゃくちゃなんだから」
そして夜中に幾たびも寝言を云った。
明くる日、朝の食事が終るとすぐ、あと片付けもせずにおせんは出ていった。石のように硬い顔つきで、幸太郎を負って、||帰ったのはうす暗くなってからだった。よほどなが歩きをした者のように、足から裾まで埃だらけになり、帰るといきなり上り框へ腰掛けたまま、暫くはなにをする力もないというようすだった、幸太郎は首のもげそうな恰好で、くたくたになって背中で眠っていた。······翌日も、その翌日も同じことが続いた。なにをしにどこへゆくかは知らなかったが、おもんは幸太郎が可愛そうになったので、自分がみるから置いてゆくようにと云った。するとおせんはすなおに置いていった。
「今日はすぐ帰るわね、もうあらまし用は済んでいるんだから、今日は早く帰って来るわ」
そんな風に云ってゆくが、やっぱり帰るのは夕方になった。あとから考えてみるのに、そのじぶんもうおせんは普通ではなかったのである。いかに信じまいとしても、庄吉の結婚が事実だということ、山形屋の婿としてすでに六十日あまりも幸福に暮していることがはっきりし始めた。||いいえ嘘だ、そんなことがある道理がない。こう思うあとから事実はますます
「||庄さん、······庄さん」
おせんは口のなかでそっと呟いた。それからふらふらと寺町のほうへ歩きだした、||苦しい、頭が灼かれるようである、非常に重い物で前後から胸を圧しつぶされそうだ。
「||庄さん、······庄さん」
とつぜんおせんは立停って、道のまん中へ跼んで
||おせんちゃん、おらあ辛かった、おらあ苦しかった、本当におらあ苦しかったぜ。
おせんは悲鳴をあげながら道の上へ倒れた。
自分ではもちろん覚えがない。東本願寺の角のところで倒れたのを、いちど番所へ担ぎこまれたが、そこに佐野正へ出入りする人がいて、これは足袋屋の仕事をしている者だと知らせて呉れた。それから佐野正の店の者が来て、医者も呼んだらしい、少しおちつくのを待って平右衛門町まで送って呉れたのだそうである。しかしそれらのことはもとより、それからのち半月ばかりの明け昏れは、まったく夢のようで記憶がなかった。その期間はすべて幻視と幻聴で占められていた。なかでも鮮やかなのはあの訴えの声であって、それだけは意識が
そういう状態であったから煮炊きも出来なかった。幸太郎の世話だけはするけれども、敷いてやらなければ夜具を出す気もつかず、眠くなると平気でごろ寝をしたという。またそのあいだに松造が二度来たけれども、おせんは気違いのように地だんだを踏み、庄さんに疑われるから帰れと叫んできかなかった。松造は、しかたなしに持って来た物を置き、なお幾らかの銭を預けて帰ったそうである。||こうして前後二十日ほどのあいだ、おもんが起きてすべてをひきうけた、食事はもとより、買い物にもゆき洗濯もした。ゆだんしていると、おせんは夜中にも外へ出るので、おちおち眠ることも出来なかったということだった。
九月になって
「今日は十一日、あさってはお月見よ」
「||そう、九月なのね」
こう云ったと思うと、おせんの眼から涙がぼろぼろ落ちた。おもんが驚いて、どうしたのかと立上ると、おせんは手を振りながらおちついた声で云った。
「いいのいいの、心配しないで頂戴、あたしよくなったのよ」
「||おせんちゃん」
「二三日まえから少しずつはっきりしだしていたの、まだ本当じゃないかと思ってたんだけれど······今日はもう大丈夫だわ、まえにやったことがあるからわかるの、もう大丈夫よ、ながいこと世話をかけて済まなかったわねえ」
「あたしなんにもしやしなくってよ、それより具合がいいのはなによりだから、もう少し
「いいえもう本当にいいの、あたしのは病気じゃないとこのまえのでわかっているんだから、あんたこそ休んで頂戴、折角もちなおしたのにまた悪くでもなったら申しわけがないわ、おもんちゃん、さあ、あたしと代ってよ」
九月十三日は
おせんは眼をつむり、両手で顔を掩いながらじっとあの声を聞こうとした。幾たびも幻聴にあらわれ、今では言葉のはしから声の抑揚まで思いだすことのできるあの声を。||おれはおまえが欲しかった、その声はこう云いだす。ごうごうと焔の咆え狂うなかで、おせんのそばに跼み、その耳へ
||おまえなしには生きている張合もないほど、おれはおせんちゃんが欲しかった。十七の夏から五年、おれはどんなに苦しい日を送ったかしれない、おまえはおれを好いては呉れない、それでも逢いにゆかずにはいられなかった、いつかは好きになって呉れるかもしれないと思って。
||だがとうとう、もう来て呉れるなと云われてしまったっけ、······そう云われたときの気持がどんなに苦しかったか、おせんちゃんおまえにはわかるまい、おれは苦しかった、息もつけないほど苦しかった、······おせんちゃん、おれは本当に苦しかったぜ。
おせんは喉を絞るように噎びあげた。
「幸太さんわかってよ、あんたがどんなに苦しかったか、あたしには、今ようくわかってよ」
今はすべてが明らかにわかる、自分を本当に愛して呉れたのは幸太であった。少年の頃から向う気のつよい性質で、そぶりも言葉つきもぶっきらぼうだった。もの
これだけ深くつよい幸太の愛を、どうして自分は拒みとおしたのであろう。云うまでもなく自分が庄吉から愛されていたからだ、自分も庄吉を愛していたからである。しかし本当に庄吉と自分とは愛し合っていたのだろうか、いったい庄吉と自分とのあいだにどれだけのことがあったろう。自分が彼に同情していたことは慥かだ、特に幸太が杉田屋の養子になってから、悄然とした彼のようすには同情を唆られた。けれどもそれは決して愛ではなかった。彼が大阪へゆくまえにおせんを柳河岸へ呼びだして、帰って来るまで待っていて呉れと、思いもかけぬことを囁かれたとき、ええ待っていますと答えたのも、そういうことに疎い十七という年の若さと、それまでの同情にさそわれなかば夢中のことだったではないか。||庄吉が去ってしまってから、いやいや、もっとはっきり思いだせば大阪から彼の手紙が来てから、その手紙を読んでから初めて自分は、彼を愛しだしたのである。どんなことがあっても待っていようと決心したのもそれからだ、彼は幸太が云い寄るに違いないと云い遺した、だからおせんはどこまでも幸太を拒みとおした。杉田屋へも義理の悪いことをし、幸太の親切も断わり、病気で倒れたお祖父さんを抱えて、乏しい手内職で生きていたではないか。······もちろんそれは彼を愛していたからである、庄吉が自分を愛し自分が庄吉を愛していると信じたからである、けれど庄吉は本当に自分を愛していたのだろうか、たまたま悪い条件が重なって、解けにくい誤解がうまれたのは事実だ、しかしそれはどこまでも誤解である、彼の疑うようなことはまったく無かった、自分は待って呉れと云ったではないか、いつかきっと本当のことがわかる筈だ、待っていますよと云ったではないか。||だが庄吉は待って呉れなかった、眼と鼻のさきにいて結婚した、りっぱな頭梁の婿になり可愛い娘を嫁にした、それは同時に、おせんがいたずら女であることを証明する結果になるのに、······それでも彼はおせんを愛していたのだろうか、それがおせんに、あれほどの代償を払わせた愛だったのだろうか。
「よくわかるわ、幸太さん、あなたは本当におせんを想って呉れたのね、||庄さんがお嫁さんと歩いているのを見たとき、あたし
おせんは噎びあげながらそう云った。高く高く、月を
「かんにんして頂戴、幸太さん、あたしが悪かった、あたしがばかだったのよ、||庄さんにあんなことを云われるまで、あたしあなたが好きだったと思うの、だってあなたには遠慮なしに話ができたし、ずいぶん失礼なことも頼んだりしたじゃないの、あなたならなにを頼んでもして貰える、頼んだ以上のことがして貰えるって、ちゃんと知っていたんだわ、······幸太さん、あんなことさえなければ、おせんはあなたの嫁になっていたかもしれないわね、杉田屋さんのおじさんもおばさんもそのお積りだったんですもの、そうすればいまごろは······」
おせんの声は激しい
「||たったひと言、あの河岸の柳の下で聞いたたったひと言のために、なにもかもが違ってしまった、なにもかもが取返しのつかないほうへ曲ってしまったのよ、あなたは死んでしまい、おせんはこんなみじめなことになって、そうして初めてわかった、なにが真実だったかということ、ほんとうの愛がどんなものかということが、······幸太さん、それでもあたしうれしい、あなたにはお
そこにその人がいるかのように、おせんはこう云いながらまたひとしきり泣いた。眼のまえの
その翌朝おもんは血を吐いた。柳河岸から帰ったおせんがなかなか寝つかれず、明け方の光がさしはじめて、ようやくまどろみかけたときのことだ、異様な声でとつぜん呼び起こして、

松造が来て八百屋の店を出さないかとすすめたのは、おもんが倒れて十日ほどのちのことであった。考えるまでもなく、重い病人を抱えてそんなことは出来ない、いずれおちついてからと云って断わった。||おもんはそれから三十日あまり寝て亡くなった、病気してからひとがらの変ったおもんは、顔つきも穏やかに美しくなり、いつも眼や唇のあたりに微笑をうかべていた。
「あたしは仕合せだわ、おせんちゃん、本当ならどこかの空地か草原ででも死ぬところだのに、仲良しのあんたに介抱されて、わがままの云いたいだけ云って死ねるんだもの、考えると
そんな風にしみじみと繰り返し云った。少しも誇張のない、すなおな
「わたしずいぶん苦労したわ、思いだすと今でも身ぶるいの出るような、苦しい、みじめなことがあったわ、||でもこれでようやくおしまいになるの、死ぬことは楽になることだわ、あの世というところは静かで、いつもきれいな光があたりを照らし、いろいろな花がいっぱい咲いているように思うの、そこへゆけばもう憎むことも
おもんが亡くなったのは十月下旬の、すさまじく
「あたしおせんちゃんを護っていてよ、おせんちゃんと幸坊が仕合せになるように、あの世からきっと護っていてよ、||お世話になって済まなかったわね、ごめんなさいね」
風は雨戸を揺すり屋根を叩いた。おもんは暫くしてふっと眼をあき、戸口のほうを見やりながらはっきりと云った。
「表をあけてよ、おせんちゃん、誰かあたしを迎えに来ているじゃないの」
それから
振返ってみるとそのときからおせんの新しい日が始まっているようだ。おもんの葬いを済ましてから後のおせんは、もうそのまえの彼女ではなかった。世を
店が順調になると松造はまた五六日おきにしか来なくなった。相変らずぶすっとした顔で
店をはじめた明くる年の春の彼岸に、宗念寺へ墓まいりにいったとき、別に
「ひとこと詫びが云いたくって来たんだ」
彼は、こう云って、こちらを見上げた。一年まえに、見たきりだが、彼はあのときより少し肥り、酒を飲んでいるのだろう、顔が
「あたしこれから出るところですけれど」
「ひとことでいいんだ、おせんさん」庄吉は慌てた口つきで云った、「||おれは去年の暮に水戸へいってきた、杉田屋の頭梁が亡くなったんでね」
「杉田屋のおじさんが、||おじさんが亡くなったんですって、······」
「いまいる山形屋とは手紙の遣り取りが続いていたんだ、それでおれが
「おばさんは、お蝶おばさんは」
「お
「いいえ違うわ、それは違ってますよ」
「||違うって、なにがどう違うんだ」
「お神さんの云うことがよ、お神さんはなにも御存じないんだわ、幸さんとあたしがなんでもなかったなんて」おせんは声をたてて笑った、「||そんなこと
「||おせんさん」
「いつか貴方の云ったとおりよ、あたし幸さんとわけがあったの、あの子は幸さんとあたしのあいだに出来た子だわ、もしも証拠をごらんになりたければ、ごらんにいれるからあがって下さい」
こう云っておせんは部屋の隅へいった。仏壇をあけて燈明をつけ、香をあげて振返った。庄吉はあがって来た、そして示されるままに仏壇の中を見た。
「それが幸さんの位牌です、そばに並べて朱で入れてある名を読んで下さいな、おせんと書いてあるでしょう、||戒名だけで疑わしければ裏をごらんなさいまし、俗名幸太とあのひとのも書いてありますから」
庄吉はなにも云わずに頭を垂れ、肩をすぼめるようにして出ていった。||おせんは独りになると、位牌をじっとみつめながら、小さな低いこえで囁いた。
「これでいいわね、幸さん、お蝶おばさんにだって悪くはないわね、||これでようやく、はっきり幸さんと御夫婦になったような気持よ、あんたもそう思って呉れるわね、幸さん」