追手門を出ると、遠い空でかみなりが鳴りだした。
石段を登るところでざっと来た。そして彼が山門へ入るのといっしょに、侍女をつれた武家の娘がうしろから駈けこんで来た。玄一郎はそちらを見ないようにしながら、濡れた頭や肩裾を拭いた。······いちめん雲に
「困ったねえこれは」とうしろで娘の声がした、「······おまえが通り雨だと云うから来てしまったのだけれど、これではちょっとあがりそうもないじゃないか、こんなことなら待っているか傘を持って来るんだった」
ひどく権高な調子だし、言葉つきがまるで男のものだった。玄一郎はわれ知らずふり返った。娘はそれを予期していたらしい、そのくせそ知らぬ風を装っているのがよくわかった。年はまだ十七くらいだろう、うわ背のある肉付ゆたかな体で、横顔だからよくはわからないが、線のはっきりした
「宗田でも気が利かないねえ」娘は玄一郎を無視した態度で続けた、「······私が途中で降られているくらいわかるだろうに、雨具を持たせてよこす気にもならないのかしら、こうしてぼんやり雨宿りをしているくらいばかげたかたちはないよ」
これはたいへんな者だと、玄一郎は驚いた。
宗田といえばこの大垣藩の老職を勤める戸田
「ひどい飛沫じゃないか」と、娘は片手で裾前をつまみながら云った、「······こうしていては雨をよけても飛沫で濡れてしまう、おまえ宗田までいって雨具を借りておいで」
侍女は「はい」と答えたが、どしゃ降りの空を見あげて、ちょっと足が出せないようすだった。娘はまったく無関心に、「なにをしているの」と促す、侍女は思いきったように両方の袖を頭の上へ重ねてとびだそうとした。玄一郎は見かねて、「ちょっとお待ち」と呼びかけ、着ていた羽折をぬいで侍女の手へ投げ与えた。
「それを冠っておいで、幾らか
「では······」と、侍女はなにか云おうとしたが、殴りつけるような雨なので、軽く会釈をするとそのまま、羽折を頭から冠って駈けだしていった。
娘は初めてこちらを見た。こんどは玄一郎がすばやく顔をそむけた、それでもなにか云いかけそうなそぶりだったので、彼はくるっと
「雨宿りかね、こう激しくては雨宿りも風流とはいえないな」
又作はそう云いながら近寄って来た、「······こいつはなかなかやみそうにもない、どうせ途中だから家まで送っていこう、入らないか」
頼もうと云って、玄一郎は傘の中へ入った。山門を出ようとしたとき、又作はそこにいる娘をみつけた、そしてたいへん
「老人はまるで、眼の中へでも入れたいような可愛がりようさ、それだもんですっかり野放図になってしまった、立ち居ふるまい言葉つきまで男そっくりだよ、いつかなんぞ客のいる部屋の前を風呂からあがった素裸のまま平気で通ったというからな」
「世間の
「然しあの女の場合は噂以上さ、現におれがこの眼で見ているんだから、それに」
「有難う」
曲り角へ来たので、玄一郎は傘の中から出て別れを告げた、「······もうそこだから駈けていこう、おかげで助かったよ」
玄一郎はそれなりその日の事を忘れた。小雪という娘のことも、侍女に貸してやった羽折のことも、······それというのが間もなく彼に縁談が始まったし、書院番から馬廻り
「人間は謙虚であることもよいが、然るべき場合には堂々と自分を主張することも大切だ。才分というものは備わっていると同時にみずから認めなければ
繰り返しそう云った。単にそれだけが原因ではなかったが、その言葉から思い当ることもありまた権太夫の熱心さにうたれて、結局その縁談を承知したのであった。
佐田のほうで知己に語ったのであろう、はなしが
その八月中旬のことである、玄一郎は御しゅくん左門氏西の仰付で、急に彦根の井伊家へ使者に立った。
家を出たのはもう午に近かった。供は弥九郎という下僕ひとりである、秋とはいっても日中はまだ暑く久しく雨が無かったので、乾ききった道からは歩くたびに
「そう、ちょうど宿あいになったな」と、玄一郎はちょっと立止った、「······昼は暑いし、山を越すには夜のほうがいいだろう、今夜は月もいいだろうから」そしてまた歩きだした。
「大丈夫でしょうか、伊吹越えには時どき悪い狐が出るという噂でございますが」
「狐は困るなあ、然し、御用も急ぐからな」
山にかかると夜になった。幸い山峡に月が出たし、気温もこころよく冷えてきたので登りには楽だった。峠の路高みへ出たところで、岩清水を井にしてあるのをみつけ、そこへ腰を下ろして夜食の弁当を
「旦那、賊です、賊です」と、下僕の弥九郎はなかば悲鳴のように叫びながら、玄一郎の背後へ身を隠した。
玄一郎は左手で刀の
「なんだ、貴公たちはなんだ」
「見るとおりさ」と、玄一郎の問いに対して一人のずぬけた巨漢が答えた、「······それとも
「こちらはべつに馬子とも駕籠舁きとも思わないが、それで、······なにか用があるのか」
「大した用ではない、金品はもちろん、身ぐるみ脱いでいって貰いたいのだ」その巨漢はひどくおちついた声で云った、「······然し断わって置くがわれらは野盗でも山賊でもない、みんな志操高潔な武士だ、志操高潔なるがゆえに汚らわしい世間と交わることを欲せず、同志あい求めて山中に隠れ清浄なる自然のなかで身心を鍛錬しているのだ、伊吹山はすなわちわれらが城地、此の峠はわれらの関所だ」
「さむらいにして此の関を通る者は」と、巨漢の脇にいた一人が、大地に槍を突き立てながら喚いた、「······たとえ大名諸侯、将軍たりともわれらに貢しなければならぬ、清浄の地を汚濁の足で踏む代価だ、所持の金品は云うまでもない、大小衣服のこらず置いてゆけ、不承知なら論には及ばぬ、ひと戦だ」
「やるか」と叫びながら、叢林の中から背後の暗がりから、合せて
「話はよくわかった、貴公たちの申し分はよくわかった、それが
「人にはそれぞれ用のあるものだ。これはそんな
「そこで相談をしたいのだ」玄一郎はふところから
「貸して欲しい、それはどういうわけだ」
「御用をはたせばすぐこの道を帰って来る、おそくも明後日の夜には戻って来る、そのとき衣服大小を渡すと約束しよう」
「ばかなことを云うやつだ」槍を持った男がわっはっはと
「子供だましかどうか自分は知らない、然し約束は約束だ」と、玄一郎はしずかに云った、「······御用をはたした帰りには必ず身ぐるみ脱ぐ、志操高潔だという貴公たちがさむらいならわかるだろう、武士に二言はない」
「やかましい、裸になるかひと戦さか二つに一つだ、文句はぬきだ」
「武士なら武士らしくきっぱりしろ、抜くか、脱ぐか」
「ええ面倒だ片付けてしまえ」
段だん気合が乗ってきた。かれらは自分たちの
「いいからみんなちょっと待て、こんなばかげた話は初めてだが、武士に二言はないという言葉が気にいった、それに嘘がないかどうか試してみよう」
「それでは承知して呉れるか」
「待とう、但し断わって置くが、約束を破ったり変なまねをしたりすると、この始終を天下に触れて笑いものにするぞ」
「念のいったことだ」
玄一郎は微笑しながら頷ずいた。
「······では借りてまいる」
そして主従はそこを通りぬけた。······峠を越えて下りにかかると、月光の下に坂田郷の山々の美しい起伏が展開し、道の左右にもちらほら人家がみえだした。供の弥九郎はそれまでものも云えず、足も地に着かぬようすだった、然し明り障子に灯影のさしている家などがみえはじめると、ようやく生気をとり戻したとみえ、急にわっはっはと笑いだした。彼は急に能弁になり、「あんな間の抜けた山賊は伊曽保物語にもあるまい」とか、「あいつらが今日か明日かとばかな面をして待っている恰好が見たいものだ」とか、「それにしてもあれほどうまくかれらを言いくるめた旦那の奇智と胆力はすばらしい」とか、たいそうな元気で
「そんなことをむやみに口にしてはいけない、人に聞かれたら恥になるぞ」
彦根に着いて用事をはたしたのはその明くる日のことだった。用事が済むとすぐ、彼は弥九郎ひとりを
月は高かったが雲があるので、道は明るくなったり暗くなったりした、谷のほうからはしきりに冷たい風が吹きあげて来た。······ちょうど十二時ごろであろう、一昨夜の場所まで来ると玄一郎はそこで立止った。左の手で刀の鍔元を掴み、
「おーい山だちどの、おーい」
「旦那なにを」弥九郎はびっくりして
「山だちどのはいないか」と、玄一郎は構わず叫び続けた、「······一昨夜ここを通った者だ、山だちどのはいないか」
おうと答えるのが聞えた。下僕は妙な声をあげ、刀の柄を握りながらうろうろと玄一郎の背後へ身を隠した。右手の杉林の中でがさがさという音がして、松の火がこちらへ下りて来た。見ていると、そこへ現われたのは例の巨漢と十人ばかりだが、やっぱり道の向うの暗がりへ十四五人、うしろ備えというかたちで身をひそめるようすだった。
「これはこれは」と、道へ下りた巨漢は要心ぶかくこちらの態度に注意しながら近寄って来た、
「······まさに先夜の御仁だな」
「約束をはたしにまいった。御用が済んだから借りた物を返してゆく、取って呉れ」
「なるほど二言なしという言葉どおりか、よろしい脱いでゆけ」
そう云いながらも巨漢はゆだんなくこちらの動作を注視している、玄一郎は無ぞうさに大小をとって渡し、くるくると思い切りよく裸になった。それをひと纏めにするのを待ち兼ねたように、片方から賊の一人が手を出して奪い取った。
「そこでひとつ頼みがある」裸になった玄一郎は下帯を緊め直しながら云った。「······おれは約束だから脱いだが、供の者は気のどくだから、みのがして貰いたい」
「いかんいかん、だいいち主人が裸になったのに下郎が着物を着ていては義理に欠ける、いっしょに裸になれ」
弥九郎も裸になった、主従とも下帯ひとつきりのまったくの素裸である。それで安心したのだろう、暗がりに隠れていた賊たちもぞろぞろとそこへ現われて来た。玄一郎は笑いもせずにかれらを見まわし、「これでいいか」と云った、そして供を促して歩きだした。······巨漢はじっとそのうしろ姿を見送っていた、そして主従が森蔭の暗がりへ入ると、感に堪えたというように低く
「さても世の中はひろい、妙な人間がいるものだ」
峠を下った玄一郎は松尾という村で朝になるのを待ち、通りかかった村人に頼んで駕籠を雇って貰った。むろん供の分と二
決して他言してはならぬと、かたく口止めをしたが、おそらく下僕がもらしたのだろう、その噂がたちまち人の口にのぼり始めた、「なんということだ、武士たるものが」「ひと太刀も合せるどころか、手を突かんばかりに命乞いをしたそうだぞ」「見そこなった、そんな腰抜けとは思わなかった」「なにおれはちゃんと知っていたよ、あれはあれだけの男さ、正体を出したというだけだよ」
そしてその評判は野火のように大垣藩の隅ずみまで弘がっていった。
確たる根拠もなく「郡は人物だ」と云って彼を推し挙げた世評が、今や事実を
二十日ほど経った或日、佐田権太夫がいかめしい顔をして訪ねて来た。ふきげんに眉をしかめ口をへの字なりにして、相対して坐った玄一郎をじろじろと見上げ見下ろした。
「世間の噂があまりひどいのでたしかめに来た。伊吹山で山賊に遭い、手をつかねて身ぐるみ
「嘘ではございません殆ど事実です」
「そうか、事実か」権太夫は口をねじ曲げ、
「特に所存というほどのこともございませんが」と、玄一郎は悪びれた風もなく答えた。
「······お上の御用を仰付かってまいる途中のことで、御用をはたすまでは大切な
「それが身ぐるみ脱いだ理由か」
「そうです、争いを避けるためには、どうしても衣服大小を渡すと約束しなければなりませんでした」
「それは往きのことであろう、御用をはたした帰りには他にとるべき手段があった筈だ」
「然し帰りには衣服大小すべて渡す約束でしたから」
「約束、約束、約束」と、権太夫は我慢を切らしたように叫んだ、「······正しい人間に対してならかくべつ、山だち盗賊を相手になんの約束だ、そんなたわ言は申し訳としても通用はせんぞ」
「そうかも知れません、けれど私はたとえ相手が山だち強盗でも、武士としていったん約束したことは守るのが当然だと信じます」
「信じたければ信ずるがよい、人間にはそれぞれ考え方のあるものだ、見解の相違を押し付けるわけにもゆくまいからな」
然しと権太夫はそこで開き直った、「······然しこのように見解の相違があっては婿
「それがお望みなれば致し方がありません、どうぞ宜しいように」
玄一郎はさすがに額のあたりを白くした。権太夫は、また改めてその使いをよこすと云って去った。······その事のあった翌日、下僕がふいと出奔した。自分の口から不用意にもれたことが意外な騒ぎに発展したので、たぶん居たたまれなくなったのだろうが、「こんな主人をもっていては世間へ出られないから」という置き手紙を残していった。これを知ると三人の家士も暇を取った、ごうごうと、なにもかもいっぺんに崩壊し去るような具合である。······あとには古くからいる老年の
「出たい者は出てゆくがようございます」下婢は老年のおちついた態度で、若い主人を慰めるように云った、「······世間の評判を気に病んで主人を袖にするような人間は、どこへいっても芽の出るわけはございません、旦那さまも気になされますな、たかが七十五日のご辛抱でございますよ」
「いい時はよく悪い時は悪いものさ」と玄一郎も苦笑するだけだった、「······どっちにしてもたいした事はないよ」
そんなことを話し合っていた或夜、
「お眼にかかってお返しする品があるとか申しております、いいえわたくしもまるで知らないお女中でございます」
「なんだろう、とにかく会ってみようか」
老婢に案内されて入って来たのは武家に仕える侍女という
「もうお忘れかと存じますが」と、娘は眼を伏せたまま云った、「······わたくしなつと申しますが、今年の春の終り頃、昌光寺の山門で雨宿りを致しましたとき、お羽折を貸して頂いた者でございます」
「ああ思いだした」やっぱり見覚えがあった筈だと、玄一郎はわれ知らず声をあげた、「······そんなことがあった、すっかり忘れていたがひどい夕立のときだったな」
「さようでございます、あのときお羽折を拝借いたしまして、戻ってまいりましたら貴方さまはもうおいであそばさず、お所もお名前も存じあげませんので、お大切な品を今日までお返し申すこともかなわずまことに申し訳ございませんでした」
「そんなことは構わないでよかったのに」
「先日さるお方に伺いました、ようやくこなたさまとわかりましたのでお礼にまいりました、まことにながいあいだ有難うございました」どうぞお納め下さいと云って、包みにした羽折を老婢のほうへ差出した。
「詰らぬ品をわざわざ却って迷惑だったろう」玄一郎はなにやら明るい気持を感じながらそう云った、「······なにも無いがあちらで茶でも
はいといって老婢もいそいそと娘を促して立った。玄一郎は久方ぶりに胸のすがすがしくなるような、明るく楽しい気持を感じた。あの激しいどしゃ降りの日から百四五十日も経っている、こちらがすっかり忘れていたのに、向うではそのあいだ捜し求めていた、その気持が云いようもなく嬉しかったのである、殊に世間の軽薄な評判に叩きのめされていた時なので、感じ方もいっそう強かったのだろう、彼はしぜんと眉がひらくように思い、「やっぱり世の中に絶望することはないな」と
「あの娘を使ってやって頂けませんでしょうか」と、かねは主人の気を兼ねるように云った、
「······できたらぜひわたくしからもお願い申したいのでございますが」
「然しあれは戸田老職の家に仕えている筈ではないのか」
「それがお暇になったのだそうでございます。お羽折を拝借しましたとき、お所も名も伺わなかったのが戸田さまのお嬢さまの御きげんを損じ、そのように作法を知らぬ者は使っては置けぬと間もなくお暇が出たのだと申します」
「それはお気のどくだな」あの豪雨の中では所も名も訊くひまはない、悪いのは先に立去ったこちらで侍女のおちどではなかった、もしそれが原因で戸田家を追われたとすれば、その責任の幾分かは自分にもある筈だ、「······いいだろう、おまえが置いて差支えないと思ったら使ってやるがいい」
「それは有難うございます、さぞ娘もよろこぶことでございましょう」
「だが念のために
老婢は、自分のことのように喜んで立っていった。
悪評の嵐はなおやまなかったが、こちらがまるで平然としているため、さすがに張合がないのだろう、あまり手厳しいことは少なくなっていった。そして郡の家の日常はまるでそういうものの影響の外にあるかの如く、少しの変化もなく静かに明け暮れしていた。······当然お役替えになるものと覚悟していたが、幸いその沙汰はなく、勤めのほうもとにかく無事に過ぎて、季節は冬を迎えた。
ひっそりと時雨の降る宵だった。茶を運んで来た侍女のなつが「火をみましょう」といって
明くる朝のことだった。非番に当るのでゆっくり朝食を済ませた玄一郎が、雨あがりの暖かい日のさす縁側に出て庭を見ていると、向うの物置の蔭にある菜園で、なつが、
「
「······まあ」なつはふいを衝かれて大きく眼を
「······びっくり致しました」
「まあ鍬を置かないか、少し話がある」玄一郎はじっとなつの眼を見まもった、「······おまえは此家へ来るまえにおれの評判を聞いていた筈だ、そうではないか」
「はい」なつは
「山だちに遭ってひと太刀も合せず、身ぐるみ脱いで命乞いをした臆病者、小心で、人にとりいることが巧みで、上役に袖の下を遣うことが上手で」
「おやめ下さいまし」なつが堪りかねたように叫んだ。
「······どうぞそんなことは、どうぞ、お願いでございます」
「だが世間ではみなそう云っている、そしておまえもそれは知っている筈だ、それなのにどうして此家へ住みこむ気になったのか、いやごまかさないで正直なことを聞きたい、なぜだ」
「わたくし、戸田さまを、お暇になりましてから」なつは
「私は正直なことが聞きたいのだ、小雪どの」玄一郎は冷やかに云った、「······どうして郡玄一郎の家へ来る気になったのか、なぜ侍女だなどと偽わらなければならなかったのか、それをはっきり聞かせて頂きたいのだ」
「············」娘はふかく頭を垂れた。
「答えては貰えませんか」やや暫く待ってから玄一郎はそう促した。
「お答え申します」
娘はようやく心を決めたように、しずかにその眼をあげて云った、「······そのまえにひと言お伺い申します、郡さまはわたくしに就て世間にどんな噂があるかお聞きではございませんでしょうか」
「聞いたと云えるほどは聞いていません」
「なみはずれた男まさり、気が荒くて、我が
「噂のことは云いますまい」玄一郎は無遠慮に娘を見た、「······然し私は昌光寺であなたに会った、あなたの言葉を聞きあなたの態度を見た、そしてあれが身分正しい大家の息女の作法とは思えなかったということを告白します」
「そう云って下さる方があったら、もし五年まえにそう云って下さる方があったら」と、小雪は訴えるような調子で云った、「······そうしたら小雪は違った育ちようをしたと存じます、わたくしは負け嫌いの生れつきでした、我が儘でもございました、けれどもそれを好んでいたわけではございません、自分では恥じて、
小雪は矢内又作から彼の名を聞いたと云った。彼に会って礼も云い、自分の苦しい気持をうちあけたいという激しい欲望を感じて、その機会の来るのを待っていたと云った。然しその機会もなく決心もつかないうちに時日が経って、「山だち騒ぎ」が起った。そしてたちまち玄一郎に対する悪評が彼女の耳にも伝わった、それはそれまで彼女が聞いていた玄一郎評とは似ても似つかず、およそ無責任な悪意に満ちたものだった。小雪はここでも世評が人を殺そうとしていると思い、どうか玄一郎だけはそんな世評に負けないで欲しい、小雪のように自分を失わないで呉れるように本当に心から祈ったと云った。だが悪評はなかなか
「わたくし、息が詰るように思いました」と、小雪は苦しげに声をおとして云った、「······郡さまがどんな気持でいらっしゃるか、自分でその苦しみを味わったわたくしにはよくわかります、その苦しみを知っている小雪なら、いって郡さまの、心の支えになってさしあげることができる、そう考えましたとき、佐田権太夫さまがみえて、あなたとの問答を父に話すのを伺いました、武士の約束に相手の差別はない、たとえ山だちの強盗なりとも約束した以上その約束を守るのが武士の義理だ、······そう仰しゃったと伺って心がきまりました、このようにおりっぱな方を無責任な悪評で殺してしまってはならない、お側へあがって心の支えになってさしあげなければ、そして、わたくし父に願いました、侍女だと偽わったのは素性を隠すという父との約束ですけれど、そうしなければお側へあがることができなかったからでございます」
玄一郎には、彼女がどのようにして父親を説き伏せたか見えるようだった。そしてそういう決心をさせた原因は玄一郎に対する同情もあろうが、根本的には自分が救われたかったのだ、世評のためになみ外れた者になってしまった自分を、同じ境遇にある玄一郎の許で、彼といっしょに生き直したかったのだ。それはこの家へ来てから百日あまりの生活でよくわかる、柔かいしとやかな立ち居、つつましい言葉つきや表情、侍女ということが不自然でない控えめなしずかな態度、······小雪は玄一郎の心の支えになろうと思いながら、実はこうして自分がむすめらしく生きはじめたのである、然もそれがどんなに彼女に似つかわしかったことだろう。
「よくわかりました」玄一郎はやがてそう頷ずいた、「······そこまで案じて頂いたことは
「お待ち下さいまし」
「いやいけません、どんな事情があるにせよこのままいて頂くことは」
そう云いかけて玄一郎はふり返った。誰か門を明けてとび込んで来た者がある、「郡うじ、郡うじはいないか」と叫びながら、すぐにこっちへ走って来た。矢内又作であった。
「此処にいる」玄一郎は出ていった。
「大変なことがもちあがったぞ」又作は駆け寄りながら片手を振った、「······槍、薙刀、鉄砲などを持った十四五人の野武士どもが城下へ踏込んで来た、いま追手先で
そこまで聞くと玄一郎は足早に家の中へ入ってゆき、すぐに身支度をして出て来た。又作はあっけにとられた、
「貴公どうするのだ」
「徒士組が出たというのに馬廻りの者が黙ってもいられないだろう、他の場所ならいいけれど追手先だからな」
「然しもうその手配はしたんだし、一人や二人にんずが殖えたところで」
だが玄一郎はすでに門のほうへ歩きだしていった。
騒ぎは予想以上だった、追手の広場のまわりにはぐるっと人垣ができ、徒士組の者や足軽たちが右往左往している、馬に乗った番がしらが四五人、なにか指揮したり怒鳴ったりしている姿も見えた。······問題の野武士たちは広場のまん中にいた、みんな
売申す身命の事
一騎当千のつわものども十五名一党、食禄千石にて身命を売りたし、但し頼みがたき主には当方より断わり申す事天和三年吉日 伊吹山住人 赤松六郎左衛門
「面白いやって貰おう」一党の中からずぬけて巨きな
「火繩をかけろ、ひと戦だ」
「おのれ申したな」権太夫はぐっと馬の手綱をひき絞った、「······さらばその首十五討ち取って
呶号して馬を返そうとする
「赤松と名乗るのはそのほうか」
「赤松六郎左衛門、いかにもおれだ」
「伊吹山の住人と書いてあるがそうか」
「念には及ばぬ、勝負だ」赤松と名乗る巨漢はそう喚いた、「······みんなぬかるな」
応と答える十五人はすでに充分殺気立っていた。玄一郎はにっこと笑った。彼はうしろへ一歩さがり、刀の柄に手をかけながらこう云った。
「よく聞いて置けよ、おれはそのほう達に貸しがある、去る八月の月の夜半、伊吹越の峠路でそのほう共に身ぐるみ剥がれた、あのときの侍はこのおれだ」
「や、や、や」彼等はあっと眼を瞠った。
「御しゅくんの御用を帯びていたから恥を忍んで裸になった、然し今日はその必要がない、こんどこそはそのほう達の番だと思え、さて勝負だ」
「ああ八幡、なむ八幡」巨漢は棒を投げだし、仲間のほうへふり返って狂喜の声をあげた、「······みんな聞いたか、みつかったぞ、弓矢の神のおひき合せだ、この人だ、とうとうわれらの主人がみつかったぞ、みんな坐れ」
かれらは武器を投げ、巨漢といっしょにそこへ土下座をした。玄一郎も驚いたが、佐田権太夫はじめ広場を埋めた群衆の驚きはひじょうなものだった。······巨漢は大きな眼を子供のように輝やかせながら、
「あなたを捜していたのです」と玄一郎に向って云った、「······あのときから今日まであなたを探しながら
「でそれは、いったいどういうわけだ」
「正しく武士に二言のないという、あのときの純粋な御態度にまいったのです、あのように生きることができたら、いや人間ならあのように生きなくてはならぬ、そう思いました、そしてあなたを捜し当てたうえ、御家来の端に使って頂こうと相談をきめたのです、それだけを目的に今日までお捜し申しました、お願いです、どうかわれわれの望みをお
「命がけのおたのみです」と、みんな口を
世の中には、いつどこでなに事が起るかもわからないものだ。この「山だち騒ぎ」は藩主の耳に聞えた、左門氏西は事の珍しさに声をあげて笑い、「面白い、志もなかなか奇特だ、その者たちを玄一郎の家士にしてやれ、
「ちょっとお待ち下さい」玄一郎は相手の言葉を
そして、「小雪まいれ」と呼んだ、すぐに
「私の妻、小雪でございます」