「好い男っていうんじゃあないんだ、うん、おとなしくって気の弱そうな性分が、そのまま顔に出てるって感じさ、まだ若いんだ」
「もういいかげんにおよしよ、おまえさん、それは罪だよ」おつねが
「黙っててよおつね
「たち
「どんなふうに······」
「ちょうど伝法院の門のところだったね、お勝ちゃんといっしょにうしろから追いぬいていって、ちょっと立停って、それからふらふらっとお勝ちゃんのほうへ倒れかかったのさ」
「それでたち昏みのように見えるの」
「こつがあるんだ」とおしのは帯をたたみながら云った、「腰の力をぬいて、片っぽの
「さんざ精をだしたあとで始末をしに立つときみたいにかい」
「お願いだから黙っててよ」ちよのは
「聞いて真似でもしようってのかい」げれ松は小指の爪で歯をせせった、「ふん、そんな柄じゃないよおまえは、そういうことのできるのは、おしのさんのような
自分の
この六帖の部屋は北に向いているので、うす暗く、陰気であった。古ぼけた
柳橋の
「それからあたしその人に云ったのさ、東仲町に懇意な茶屋がありますから、済みませんがそこまでお
「その人お侍だったのね」
「しかも御大身のさ」おしのは坐ったまましごきを解いた、「着ている物もぱりっとしているし、刀脇差の拵えもいいし、印籠は
「恰好を見ればわかるのね、ほんとにおしの姐さんが
「おまえさんに褒めてもらったってしようがないよ」
「この鏡はだめだわ」おつねは鏡に息を吹きかけ、肩に掛けている手拭でそのあとを擦った、「もう
「その人と、今日まで幾たび逢ったの」
「今日で五たびめさ」
「じゃあもうこっちのものだわね」
「聞いたふうなこと云うんじゃないよ、ちょっとあれ取ってちょうだい」おしのは胴抜の長
「おあいにくさまね、
「いまにひっかかるよ」おつねが云った、「きっといまにひっかかるから、いいかげんにしたほうがいいよおしのさん」
「心配しないでよ、あたし姐さんと違って薄情なんだから」おしのは立って着物を着ながら云った、「姐さんは情に
おつねは横眼でおしのを見た。子供のことを云われたのが
おしのは二十一になる。二十一という年が躯にも感情にも
「あら、お勝ちゃんが帰って来たわ」
ちよのが云った。彼女はなにかの空箱に入っている粉炭を、その箱ごと火鉢の上へ持っていって、箱の隅から
「ただいま、||」とお勝は抱えている小さな包を置きながら、おしのの前へ来て坐った。
「今日はうまくいきましたよ、姐さん、どこへも寄らずに今日はまっすぐお帰りになりました」
「それで、どうだったの」
「みんな本当でした」とお勝は云った。「神田の明神さまのちょっと手前で、立派な大きなお屋敷です」
「ちゃんと慥かめたろうね」
「うまく云って御門番に
おしのは当然なことを聞いたように、
「有難う、お汁粉でも
「いやですわ、番たびこんな」
お勝がそう云ったとき、格子戸のあく音がし、ひどくしゃがれた女の声が聞えた。
「ごめんなさい、おしの姐さんおいでですか」
「あら日掛のおばさんだわ」おしのは締めた細帯を
「お勝ちゃん、済まないけどいまこまかいのがないから、それをおばさんに
雪もよいに曇った、午後の空を映して、
「たぶん、よくある話だと思うだろう、どう云ったらいいかわからないが」折之助は口ごもり、手の甲で額を撫でた、「初めて見たとたんなんだ、まだ口もきかないうちに、ひと眼、顔を見たとたんに、ああと思った、まぎれもないこの人だ、||何十年も別れていたあとでようやく逢えた、やっとめぐり逢うことができた、この人だ、||いってみればそんなような気持だった」
「何十年も別れていたって」
「その娘も同じように云っていた、二度めのときだったが、いままで嫁にゆかないでいてよかった、ずいぶん縁談があったけれども、自分にはもっとほかに人がいるような気がして、どうしても承知することができなかった、それが貴方を見たときに、すぐに、||」折之助は眼を伏せながら声をひそめた、「こう云って、娘はながいこと泣いた」
主馬は折之助を見た。
「その娘の家は商人だって」
「小伝馬町の
「もちろん慥かめやしないだろうな」
「その店をか、どうして」と折之助は友の顔を見た、「ああ、まだ伊丹には信じられないんだな」
「小出は純真すぎるからな、これまで友達づきあいもあまりしないし、酒も飲まないし、女あそびなんかもしたことがないだろう、学問所では模範生だが武芸は嫌い、||まるっきり世間というものを知らないんだから」
「それとこれとどんな関係があるんだ」
「まあ聞けよ」と主馬が云った、「そんなふうに道で出会って、ひと眼でお互いが生涯を託す相手だと認めたという、むろん絶対に無いことではないだろう、現実には
「ではなにを用心したらいいんだ」と折之助が云った、「私が誘拐されて身の
「なに、それには限らないさ、ほかにも手はいろいろあるよ」
うしろで足音がした。池畔の縁台で話している二人のうしろへ、茶店から老婆が湯沸しを持って近よって来た。
「熱いのをおさし致しましょう」
老婆はこう云って、縁台の上の
「金ということだったが」主馬は思いだしたように、ふところへ手を入れた、「頼まれ
「済まない、||」折之助は顔を赤くし、渡された紙包を受取って頭を下げた、「なにしろ五たび逢って五たびとも、娘が茶屋の払いをしているもんだから、いくらなんでも今日はこっちが払わないわけにはいかないんだ、といって、||ほかに頼めるあてはないし」
「小出家は五千石の大身じゃないか、おやじ殿は理財家で、金箱には小判がうなっているというのに、その一人息子がおれなんぞに小遣を借りるなんておかしいぜ」
「済まない、必ずこれは返すから」
「よせよ、つまらない」主馬は土瓶の茶を二つの茶碗に注いだ、「||それで、結局のところどうするつもりなんだ、嫁に貰おうとでもいうわけか」
「まだそこまで考えてはいないけれど、しかしやがてそうなるんじゃないかと思う」
「とにかくしっかりしてくれ、螢と蛇の眼とは同じように光るというからな」主馬は茶を
「有難う、近いうちにそうするよ」
折之助も茶碗を取りあげた。
主馬と別れて歩きだしたとき、折之助の顔には暗く
||おやじ殿は理財家だからな。
主馬の言葉が、錆びた
||金箱には小判がうなっている。
主馬は出まかせを云ったのではなかった。小出の家には慥かに金がある、父の又左衛門は偏執的な
||また下駄か、このあいだ買ったばかりではないか、あれはもう
台所の費用も限度まで切詰めてあり、物価の高低に関係なく、十年一日のように
||煮物を醤油で黒く煮るなどというのは馬子か人足どものすることだ。
父はいつもそう云って、その倍に薄めた醤油を「薄口」と呼び、それを使って煮るのを上品な調理法だと主張していた。
「そうだ、伊丹の云うとおりだ」歩きながら折之助は首を振った、「彼は五百石余りの小普請だし、妻もあり子もあるんだから、||おれが彼から借りるという法はなかった」
だが主馬のほかには、そんなことを頼める相手がなかった。父から貰う小遣は年に一両二分で、よほどの理由がない限り、臨時の必要などは絶対認められない。仮にうまく口実を設けたにしても、それで
「ああ、||そうか」と、彼はまた主馬の言葉を思いだした、「そういうことには気がつかなかった、慥かに、それなら父も反対はしないだろう、······もしも持参金を付けてくれるとしたら」
折之助はすっかり当惑した。
梅の井へ着いたのは、約束の時刻より少し早かったが、おしのはもう来て待っていた。そうして、彼が坐るとまもなく、さきに命じてあったとみえて、二人の前へ酒肴の膳が運ばれた。
||これでは払いが足りなくなるかもしれないぞ。
彼はすぐにそう思った。伊丹から借りた金は極めて小額だった、それでもこれまでのように、茶と菓子だけならまにあうであろうが、酒や料理を取っては足りそうには思えなかった。
「お酒なんか取って、悪うございましたかしら」おしのは折之助の眼を見た、「でも堪忍して下さいましね、今日はどうしても少し召上って頂きたかったんですの、ねえ、どうかそんなお顔をなさらないで」
「いや、悪いなんてことはないけれど、私はあまり飲みつけないほうだから」
「でも今日は召上って」おしのはすぐに
「どうしてそんなことを云うんです、今日だけはなんて、なにかわけでもあるんですか」
「ええ、||」おしのは頷いて、それからぱっと明るく微笑した、「でもそのお話はあとでしますわ、さ、どうぞ
おしのは折之助に酌をし、やがて自分でも盃を持った。
ひどく当惑しながら、折之助はすすめられるままに盃を重ねた。おしのはいつもより際立って美しくみえた。紫色の地に菊の模様を散らした小袖が、色の白い顔によく似合い、少し衣紋をぬいた
「初めて
「そうかしらん、三日に一度ずつ、||今日で六度しか逢っていないがね」
「それでももう十六日めですわ」おしのはふと声をひそめた、「ほんとうにふしぎな気持ですわ、生れないまえからお逢いしているようでもあるし、||昨日おめにかかったばかりで、お顔もよく覚えられないようでもあるし、あたし、自分で自分がわからなくなりましたわ」
「本当に好きになると、その人の顔が思いだせなくなるというね」折之助が云った、「私も夜なかなどに思いだそうとするけれども、どうしても顔が思いうかんでこないんだ」
「お願いですからそんなふうに仰しゃらないで」
「だって本当に思いだせないんだよ」
「お願いですから」おしのは哀願するように云った、「そんなふうに仰しゃられると、あたし苦しくって、どうしていいかわからなくなりますわ」
「苦しむことなんかありゃしない、やがて二人はいっしょになるんじゃないか」
「いいえだめ、そんなことできやしませんわ」
「いやできるよ」折之助はきまじめに云った、「町家から嫁を迎えることぐらい、武家にだって幾らも例があるんだ、少しは面倒な手続きや条件はあるかもしれないが、私は必ず父を説きふせてみせるよ」
「それなら証拠をみせて下すって」
「みせられるならもちろんみせるよ」
おしのはじっと折之助をみつめ、それから卒然と立って、折之助の
「こうさせて頂いていいわね」彼女はそう云いながら、折之助の持っている盃を取った。
「あなたのお盃で頂かせて、ね、いいでしょ」
「いいけれども、大丈夫かな、あんまり酔って、いつかのように気持が悪くなると困るよ」
「あのときはたち昏みですもの、お酒に酔うのとは違いますわ」
おしのは浮き浮きと飲んだ。折之助に
||なにかわけがあるのだな。
すっかり戸惑いをしながら、折之助はしだいに強くそう思いだした。
「暗くなったね、灯を入れて貰おうか」
「いいえもう少し」おしのは首を振りながら、あまえた鼻声で云った、「酔っているから、あかりがつくと恥ずかしい、||ね、お手を抱かせて」
「今日はどうかしているね、なにかわけがあるらしいが、話してしまわないか」
「||いや、もっとあとで」
「同じことじゃないか」
「そのお盃をちょうだい」おしのは折之助の片手を抱いたままそう云った、「あたし酔わなければ、もっと酔わなければ、とても苦しくって」
「だから云ってしまえばいいんだ」
「口では云えないんです」
おしのの声は怒ったように聞えた。折之助はどきっとして顔を見た。すると、おしのは盃を
「どうするんです」
折之助はそう云いながら、手を伸ばして支えようとした。おしのは
「どうしたんだ」と彼は
そして坐ろうとしたとき、隣りの四帖半で呼ぶ声がした。
「こちらへいらしって」
おしのの声であった。襖をあけると
「ちっとも知らなかった」折之助はそっちへ入っていった、「やっぱり気持が悪くなったんだな」
夜具の中におしのが寝ていた。折之助が近よるまで、掛け夜具にじっともぐっていたが、側へ来たとたんに、彼女はそれをぱっと剥いだ。絞りで模様をおいた
「証拠をみせて、||」
そう云いながら、おしのは(寝たままで)折之助のほうへ手をさし出した。長襦袢の袖が
「そんな、だってそれは」
「いやいやいや」おしのは殆んど叫びながら、半身を起こして折之助の手をつかんだ、「あなたは約束をなすったわ、証拠をみせてやるって、ねえ、お願いだからもうなにも仰しゃらないで」
おしのは折之助をひきよせた。まったく思いがけないほどの力で、折之助は夜具の上へ倒れかかった。彼は本能的に起きあがろうとしたが、おしのの両腕がすばやく首に絡みつき、燃えるように熱い唇が彼の唇を塞いだ。首を巻いた腕の力も強かったし、密着した熱い唇にも、放すことのできない力がこもっていた。
「おうさま、おうさま」おしのは唇と唇の間で
折之助は女の手が、自分の帯の結び目にかかるのを感じた。彼はそれを拒もうと思いながら、
「もう死んでもいい」おしのが
まるで
そうして、やがて、||おしのが低く泣きはじめた。折之助が起きて身支度を終っても、おしのは夜具の中で顔を隠したまま泣き続けた。
「堪忍して下さい」泣き声のなかで、おしのはおろおろと
折之助は夜具の脇に坐って、夜具の上からそっとおしのの躯を撫でた。
「悪いのは私だよ」と彼も声をひそめた、「泣かないでおくれ、頼むから、||あやまらなければならないのは私のほうだよ」
「いいえあたし悪い女です、あなたはなにも御存じがないんです、あなたとこんなことになってしまって、あたしとても、生きてはいられませんわ」
「なぜそんなことを云うんだ、二人は必ず結婚できるんだよ、私を信じておくれ、私はきっとうまくやってみせるよ」
「堪忍してちょうだい」おしのは叫ぶように云って、夜具の中でぶるぶると震えた、「あたし嘘を云ったんです、あなたを騙したんです、だから生きてはいられないんです」
折之助にはわけがわからなかった。
「ばかなことを云うもんじゃない、おしのはなにも騙したりなんかしやしないよ」
「済みません、堪忍して」
おしのははね起き、折之助の膝にかじりついて、激しく泣きながら
「あたし美濃庄の娘なんかじゃない」とおしのは喘ぐように云った、「どこの娘でもない、あなたなんかの知らない、
「はっきりお云い、それはどういうことなんだ」
「あたしあなたを騙しました、初めから騙していたんです」とおしのは云った、「あたしのうしろには悪い親方がいます、あたしは病気のおっ母さんと、三人の弟や妹を養うために、その親方に身を売ったんです、親方はあたしを使って、こんなふうに人を騙させ、それからお屋敷へ押しかけていって、お金を
折之助は茫然と口をあいた。
||螢と蛇の眼は同じように光るそうだ。そう云った伊丹の声が耳の奥で聞えた。しっかりしてくれよ······。
彼は震えだした。
「それでは」と彼は震えながら云った、「みんな嘘だったんだね、なにもかも」
「ええ、たった一つ、あなたが好きだということのほかは」
「私が好きだって」
「だから申上げてしまったんです、初めておめにかかったときから、あなたが好きになってしまいました、死ぬほども」おしのは男の膝を強く抱き緊めた、「お逢いすれば、あなたに御迷惑が掛る、でもお逢いしずにはいられない、どうしても、······いけないいけないと思いながら、どうしてもお逢いしずにはいられなかったんです」
「それは嘘じゃないんだね、それだけは」
「今夜、||」とおしのは云った、「こんな恥ずかしいことをお願いしたのも、本当のことを申上げたのも、あなたが死ぬほど好きだからなんです、堪忍して下さい、あたしもう思い残すことはありません。堪忍して、そしてどうか、今夜かぎりあたしのことを忘れて下さいまし」
「それで親方のほうはどうするんだ」
「あなたに御迷惑はお掛けしません、大丈夫だから心配なさらないで」
「だってそんな男なら、黙って引込みはしないだろう、ねえおしの」折之助は女の肩を揺すった、「はっきりしよう、勇気を出してもっとはっきり考えようじゃないか、私にはこういう事はよくわからないけれど、結局、問題は金なんだろう、金さえ出せばおまえは自由になれるんじゃないのか」
「そんなこといけません、あたしにはそんなことはできませんわ」
「よくお聞き、私もおしのが好きなんだ、もうおまえなしにはいられないんだ」彼は女の肩へ手をまわした。「おまえは私を騙したと云うけれど、私はなにも騙されていやあしない、たとえ裏にそんな企みがあったにしろ、二人の気持には少しも変りはないんだ、おしのが自由なからだになれば、それでなにもかもうまくゆくんじゃないか、ねえ、勇気を出して云ってごらん、どのくらいあればその男と手が切れるんだ」
おしのは泣きながら首を振った。折之助は
「さあ、ひと言でいいんだ」と彼は云った。
「これでも私は五千石の跡取りだよ」
おしのはしゃくりあげた。子供のようにしゃくりあげて、全身の力をぬき、ぐったりと重く凭れかかりながら、口の中でかすかにその金高を囁いた。折之助は痛みを感じたように眉をしかめ、だがさりげない調子で訊いた。
「それで、その金はいそぐんだね」
「この月末までなんです、でもいや、あたしそんなこといやです」おしのは両手で男にしがみつき、激しく身を悶えながら云った、「あなたにそんな御迷惑を掛けるくらいなら死んだほうがましです」
「月末というと、あと三日しかないな」
「お願いです、どうかそんな御心配をなさらないで、そんなことをしたら、あたし生きてはいられませんわ」おしのはまた
折之助はおしのの肩を抱き、放心したように暗い壁の一点を見まもっていた。
父の居間の納戸に金箪笥がある。それには誰も手をつけることは許されていない、十幾つかある
||いや、絶対に肌身はなさずということはない、必ずどこかに置いておくときがある筈だ。
折之助はそう思った。もちろん鍵にこだわることはない。いざとなれば、金箪笥をこじあけるという法もある。父は三日にいちど登城するから、そのときに充分やれるだろう。
||どっちにしても家にはいられない。
彼はそう覚悟した。おしのの親方に渡す金は百五十両である。それだけの金を父に気づかれずに持出すことはできない。彼はできるだけ多く持出して、おしのを自由にし、そして二人でどこかへ出奔するつもりだった。
||もう二十五だ、どこへいったって二人の生活くらいはやってゆける筈だ。
十一月三十日が父の登城日であった。
それまでにも機会を
三十日はおしのと約束の日であった。
まさか風邪ぐらいで、登城をやめるようなことはあるまい。そう思っていたが、又左衛門は朝早く
||だが金だけは手に入れなければならない、あの金だけは、どんな事をしても。
午後になって、彼は外へ出た。
「どこへいらっしゃるの」と母が心配そうに訊いた、「父さまも御病気だし、こんな降りそうな天気なのだから、用でないのなら家にいて下さいな」
「風邪ぐらいで病気だなんて
「そういうけれど高い熱が少しもひかないし、今朝っから胸が痛いなんて云ってらっしゃるし、普通の風邪ではないかもしれませんよ」
折之助は気にかけもしなかった。伊丹と約束があるからと云い、注意された雨具も持たずに家を出た。
昨日から曇りがちだったのが、今日は鼠色の雲が空をすっかり
「ばかな、||」と舌打ちして
無意識のうちに、伊丹主馬の住居のほうへ歩いていたのである。彼は眉をしかめ、首を振った。それから、こんどは不決断な足どりで歩きだした。
||小出は純真すぎるからな。
また主馬の言葉が思いだされた。
||やつらにはいろいろと手があるよ。
折之助は唇を
「伊丹はそれみろと云うだろう、伊丹に限らず、話だけ聞けば誰でもそう云うに違いない」彼は口の中でぶつぶつ呟いた、「||おしのの気持のわからない者には、誰にだって理解はできやしない、······本当に騙すつもりなら、おしのはあんな話はしないだろうし、あんなふうに身を任せもしなかったろう、哀れなのはおしのだ、もうなにも心残りはないと云ったが、うちあけてしまえば逢えなくなると思い、おそらく死ぬ気になっているのだろう、······あの口ぶりでは慥かに死ぬ決心をしていたようだ、可哀そうに、可哀そうにな、おしの」
彼は浅草のほうへ向って歩いていた。極度にまで緊張し続けた三日のあいだに、顔色は悪くなり、頬がこけていた。眠りもよくとれなかったので、眼が
「伊丹に借りたのがある」
三日まえにも、茶屋の勘定はおしのが払った。払うときにみると、彼の持っているだけでは足りないようであった。それで、伊丹から借りたものはそのまま持っていた。
||
もちろんそんな店へ入るのは初めてである、ちょっと
客は三人ばかりいたらしい、だが折之助は誰の顔も見ないようにして、焼魚を肴に、酒を三本飲んだ。味もなにもなかったし、酔いもしなかったが、三本めの終りころに、思いがけない妙案がうかんできた。
「そうだ」彼はわれ知らず独り言を云った、「その手があったんだ、番頭の佐平も顔を知っているし、うまくゆけば······」
三本めを呷るように飲んで、勘定をした。これがまた驚くほど安かった。彼はにわかに軽い気持になり、その店を出ると、おりよく通りかかった
駕籠を着けさせたのは、蔵前片町の紀伊国屋の店先であった。紀伊国屋は
||疑われさえしなければ大丈夫だ。
折之助はこう信じて店へ入った。
小出家の係りは番頭の佐平で、折之助も顔はよく知っていた。彼はちょうど店にい、すぐにあいそよく立って来たが、用件を聞くとけげんそうな顔をした。
「じつは父が一昨日から寝ているので」と折之助はできるだけ平静に云った、「急に入用ができたものだから代理で来たのだが」
「それはいけませんですな、よほどお悪いのでございますか」
「いや風邪をこじらせたらしい、心配するほどのことはないと思う」背筋へ汗が出て来、足ががくがくしそうになった。「||突然で迷惑かもしれないが、非常に急な入用なので、それに、家には借分はない筈だと思うが」
「それはもう仰しゃるまでもございません、よろこんで御用立て申します」
折之助はかっとのぼせた。思わず声をあげそうになったが、佐平は続けて云った。
「すぐに用意をしてお供を致しますから、どうぞちょっとお待ちを願います」
「いや、それは」と折之助は慌てて手をあげた、「金は私が持ってゆくからわざわざ来るには及ばない、そのために私が代理で来たんだから」
「いえそれはいけません、暫く御無沙汰をしておりますし、御病気とあればおみまいも申上げたいし、お手間はとらせませんからどうぞちょっとお待ち下さい」
「しかしその金は、家で入用なのではなく、これからすぐ届ける先があるので、父の親しい知人なのだが、本所のほうの」
「いや、それだけは」と佐平は歯を見せて笑った、「折角ですがそれだけはどうも、なにしろ小出さまの御前は、金についてはごくきちょうめんでいらっしゃいますからな、これはもうじかにお手渡しするよりほかにございませんので、いえ、駕籠でまいれば暇はとりませんから」
こう云って、佐平は帳場のほうへいった。
||だめだ。
折之助は唾をのもうとしたが、喉のところに固い玉のようなものがつかえていて、どうしても唾がのみこめなかった。
「では、||」と彼は
彼は店を出た。うしろで呼びとめる声がした、彼は足を早め、ついで走りだした。
「||恥ずかしい、なんというぶざまだ」
走りながら呟いた。激しい屈辱と、自分に対する怒りのために、全身が火のように熱くなり、冷汗がながれた。
「もうだめだ、家へは帰れない」
折之助は立停った。灯のつきはじめた黄昏の街の中で、肩息をつきながら立停り、くしゃくしゃに顔を歪めた。
「そうだ、もうだめだ」白くなった彼の唇がひきつった、「佐平は家へゆくだろうし、すっかり話をするだろう、||もう家へは帰れない、そして、······梅の井ではおしのが待っている」
彼は
宵の八時。雪が降っていた。
折之助は
その堤は新吉原へかよう道に当るので、降りだした雪にもかかわらず、酔って
「同じことじゃないか、だらしのない」と暗がりの中で彼は呟いた、「なにをびくびくするんだ、なにが
彼は眼をつむって腕組みをした。
折之助は梅の井へ寄って、おしのへ伝言を頼んだ。それから浅草寺のまわりをあてもなく歩き、山の宿という
「ああ、||」と彼は首を振った、「おしのは、あの伝言を、信じてくれたろうか、信じてくれない筈はないが、もしも信じられなかったとしたら、どんなに悲しみ絶望したことだろう」
堤の下で舟の着くけはいがし、なにかこわ高に話しながら、こちらへ登って来る者があった。折之助はさっと
「||酔ざめの水へとどかぬ手枕に」
さびたいい声でうたうのが聞えた。
「||おまえの髪とわしの髪
もつれて解けぬ仲ぞとや
逢いにゆくときゃ足袋はいて······」
登って来たのは三人伴れであった。一人がうたい終ると、他の二人がやかましくはしゃぎながら、小屋の前を
「だめだ」と彼は震えながら呟いた、「||やっぱり持っているようじゃない、それだけの遊びをする客はもっと違う筈だ、どう違うかはわからないが、どこかにもっと違う感じがするような気がする、まあおちつけ······」
彼は縁台へ戻ろうとした。そのときまた、下の舟着きからの人の声が聞えて来た。
「えっ、この二百両、みんなでげすか」としゃがれた太い声が云った、「これをそっくりでげすか」折之助はこくっと唾をのんだ。
「そうだ、そっくりよこしな」
「だって旦那それじゃあお約束が違いますぜ」
「考えてみるとな」おっとりした含み声が云った、「おまえが金を持っていると、どうしたって先方にわかってしまう、金というやつは、持ちつけない者が持つとすぐにわかるものだ、それでは面白くない、本当に一文なしということでなければ、あたしの出る幕がくさってしまう、そうだろう平孝」
「それはそうかもしれませんが、なにしろ旦那はお人が悪うげすからな」
二人は堤のほうへ登って来た。一人は客、伴れは
「あたしがなにが人が悪い」
「てまえが行燈部屋へ入れられる、旦那のところへ使いを出す、旦那が来て下さりゃあいいが、あの野郎もうちっと困らせてやれかなんかで、ねえ、旦那という方はまたやりかねないんだからこれが、そんな人間は知らないよ、なんてことでも云われたひには」
「ばかだね」客は笑った、「今夜は小格子の連中をあっといわせる趣向なんだ。おまえなんぞを困らせたってしようがあるかえ、いいからそれをこっちへ返して、手順を間違えないようにやってごらん」
「大丈夫でげしょうな、旦那、どうか殺生なことはなさらないように」
二人は小屋の前を通り過ぎ、三間ばかりいった処で立停った。
||二百両、······あの手にそれがある。
折之助は葭簀をはねて外へ出た。左右を見たがほかに人はなかった、濃密に降りだした粉雪のために見えないのかもしれない。彼は二人のほうへ近よっていった。幇間とみえる男が、片手に
折之助は刀を抜いた。刀は提灯の光りを映してぎらっと光った、その瞬間に、彼は覆面をしなかったことに気がついた。
||顔を覚えられる。
彼は提灯を刀で叩いた。
抜刀の光りを見たとき、二人は妙な声をあげたが、提灯を叩かれると、幇間はひっといってそれを放り出し、そのまま横っとびに、堤の下へ駆けおりていった。
「きさま、動くな」と折之助は客の胸元へ刀をつきつけた、「動くと斬るぞ」
「待って下さい、金はあります」
相手は震えながら、ふところへ手を入れた。折之助は刀をつきつけたまま、片手をぐっと前へ出した。
「金を出せ、早くしろ」
「金は差上げます」相手はおろおろと云った、「金はみんな差上げますから、どうか乱暴なことはしないで下さい」
「早く出せ、騒ぐと斬るぞ」
つきつけている刀がひどく手に重かった。降りかかる雪が
「早くしろ、早く」
折之助は手を振ってせきたてた。受取った包は、びっくりするほど重く、危なく手から取落しそうになった。
||二百両、これでできた。
そう思ったとたん、折之助は全身がふるえだし、両方の膝がしらががくがくとなった。そうして、刀をつきつけたままの姿勢で、うしろ向きにさがりだしたとき、相手が猛然ととびかかった。彼はまったく不意をつかれた。そんな事をされようとは思いもよらなかったので、躰当りをまともに受け、足を取られて
「誰か来てくれ」とその男は叫んだ、「助けてくれ、辻斬りだ、誰か来てくれ」
そう叫びながら、起きあがろうとする折之助の肩や
折之助ははね起きて逃げようとした。左の頸のところで、「びゅっ」というふうな音がし、なま温かい湯のようなものが
「騒ぐな」と折之助は手を振った、(その手にはもう金包はなかった)それからまたどなった。「||騒ぐな、おれは乱暴はしない、騒ぐと斬るぞ、じっとしていろ」
相手の男はけもののように喘ぎ、刀を持ったままうしろへさがった。
折之助は走りだした。
||逃げるんだ、早く。
雪が口の中へとびこんだ。三四間走ると、急に眼が
「逃げるんだ」彼はすぐに起きようとした、「早く、さもないと
だが躯の自由がきかなかった。むりに起きようとすると、ずるずると滑って、殆んど堀へ落ちそうになった。彼は左手で地面を
「できたよ、おしの」と彼は呟いた、「しかも二百両、······ほら、ここにある」
彼は掴んでいる草の根を揺すった。
「待っておいで、すぐにゆくからな、もう大丈夫だ、これで、······なにもかもよくなるよ」
堤の上はひっそりしていた。そして、やがて山の宿のほうから、とばして来る駕籠の、けいきのいい掛声が近づいて来た。
「だからあたしがそう云ったでしょ、世間にはそうそう鴨ばかりいるもんじゃないって」おつねが針へ糸を通しながら云った、「あんたは縹緻も頭もいいし、自分でも
「でもまさかと思ったわ」おしのは火鉢の縁できせるを叩いた、「あんたは会わないから知らないけれど、まるっきりお坊ちゃんで、気のやさしそうな人柄なんだもの」
「それはあんただって同じことじゃないの」
「少しおどおどするくらいうぶで、寝たときなんぞ固くなって震えていたし、まるでなんにも知っちゃいなかったわ」
おしのは煙草を詰め、火鉢の炭火を転がして吸いつけた。部屋の中は、やはり散らかり放題であるが、二人のほかには誰もいず、明るい窓の障子の外では、雪解の雨垂れの音がしていた。
「結局どのくらい損したのよ」
「壱両壱分とちょっとかしら」おしのは片手の小指で耳のうしろを
「さあどうかしら」
「甘くみすぎたのが悪かったのよ、だって疑わしいようなところはこれっぱかしもないんだもの」おしのは
「綿入がないっていって来たから」
「そんなこといちいちきいてやることないじゃないの、里扶持をきちんと遣ってあるのにさ、あんたは少し人が好すぎるんだ」
「さあどうかしら」おつねはせっせと針を運んだ、「||凄腕のおしのさんだって、これで案外人の好いところがあるからね」
「よしてったら、もうわかったわよ」おしのは
「負け惜しみを云うつもり」
「正直なはなし」とおしのは含み笑いをした、「みかけのうぶなわりにはいい味だったんだ」
「せめてね、||」
おつねがそう云いかけたとき、格子をあけて、女のしゃがれた声が聞えた。
「ごめん下さい、おしの姐さんおいでですか」
「ああいますよ」おしのはきせるを置いて、立ちあがりながら云った、「取られるものはきちんと取られる、こうなると日掛も楽じゃないわね」
そして次の間へ出ていった。