秋の日はすでに落ちていた。
机にむかって筆を持ったまま、もの思いにふけっていた平三郎は、明り障子の
北に面した庭には
「そうだ、会ってはっきり云おう」かれは低い声で、そうつぶやいた。「······もう、そうしても早すぎはしない」
その時の印象はずっと後になるまで、あざやかに覚えていた。たそがれの鬱々としたスギ林も、ひっそりと垂れていた女ダケの葉むらも、飛びたったウズラの荒ら荒らしい羽音も、そして、ひとりごとのようにつぶやいた自分の低い声も······
平三郎はその明くる日、須川
「ことしはたしかだ。つぼみのつきが、しっかりしている。一輪はきっと咲かせてみせるよ」
「話があるんだ」平三郎は友の目を見まもりながら云った。「······いや、このまま聞く耳のないほうがいい。じつは松子さんのことなんだ」
そして平三郎は話しだした。できるだけ、ことばや感情をかざらないように、自分の弁護をしないようにつとめながら······生之助は、だまって聞いていた。かれもいつかは、こういう時の来ることを予想していたのだ。びんのあたりが、やや青くなっただけで、思ったほどおどろいたようすはなかった。
「いちおう相談というかたちにすべきだが、おたがいの仲では、ゆずりあいになりそうだ。それでは気持が割りきれなくなる。どちらかが苦しまなければならないとしたら、初めから、いさぎよく、はっきりするほうがいいと信じた。これだけは、わかってもらいたいと思う」
生之助はうなずいた。そして、手の土をはたきながら、しずかに空をふりあおいだ。雲のながれる高い空を、ゆっくりと渡っていく鳥がある。その鳥と雲との距離の
「松子には、おれが伝えようか」生之助は足もとへ目を落しながらこう云った。「······それとも自分で云うか」
「自分で云うほうがいいと思うけれど、あまり無作法だし、機会もないだろう。やっぱり、よい折をみて、そこもとから、話してもらうほうが自然ではないだろうか」
「そうかもしれない。いま風邪ぎみで寝ているようだから、起きたら······」
ふたりはそれぞれの気持で口をつぐんだ。平三郎は心のよろめきを感じた。すべてを投げだしてしまいたい、自分のことばをとり消して生之助にゆずりたい、そういう衝動に駆られた。かれはそれに負けなかったが、それ以上そこにいることには耐えられなくなり、では頼む、と云いおいて別れを告げた。
生之助は門まで友を送って来ると、また庭の一隅にあるかこいの前にかがんだ。そこには、いく種類かの蘭が植わっている。そのなかに、「寒蘭」というめずらしい一株があった。琉球から渡来したもので、冬の初めに咲くという。かれは、三年まえから丹誠しているが、これまでは花が咲かなかった。こんどは、しっかりした、よいつぼみがついたので、どうかして咲かせてみたいものと、怠らず手入れをしているのであった。
「どちらかが苦しまなければならない」風を入れるためにやわらげた蘭の根もとの土を、しずかに押しかためながら、生之助はそうつぶやいた。「······そうだ、どちらかが」
数日のあいだ、かれは力のない目をして、城中でも屋敷でも、だまりながら
しかし、やがてこういう濁りのない、まれな友情をもってしても、どちらかが傷つかなければすまない事が起った。
それは中原松子というむすめの登場に始まる。
松子は中原良太夫のむすめだった。中原は須川家の遠縁にあたるので、良太夫とその妻が、あい前後してなくなるとすぐ、生之助の父兵左衛門が、かの女を家にひきとった。不幸な境遇のためだろうが、はじめは口数の少い陰気な子だった。十三四になるまで、いつもひとりで、べそをかいているというふうだったが、やがて背丈の伸びるにしたがって、顔だちも明るく身ぶり声つきも、きわだって美しくなった。
平三郎と生之助が、その変化に気づいたのはほとんど同じころである。同時に、おたがいが引きつけられている感情のふかいこともわかった。こういう関係はまれでもなく、しばしば愚かしい結果をまねく例も知っているので、ふたりは必要以上に慎みとおした。もちろん、そういう状態が永くつづくものでないこと、いつかは苦しい瞬間に当面しなければならぬということは、わかっていた。なぜなら、ふたりはそれほど深く強く松子を愛していたからである。
生之助の心はしずまらなかった。平三郎から自分が嫁にもらうと告げられたときは、むしろ心の緊張をとかれたようにさえ思った。まったく平静ではなかったにしても、たしかに一種の
かれが松子にその事を話したのは、苦痛と絶望に耐えられなくなったからである。その時、かの女は病床から起きて、初めて髪をあげたところだった。風邪をこじらせた程度のわずらいなので、やつれるというほどではなかったが、みずみずしく髪をあげているためか、ほおから首筋のあたり、膚が薄くすきとおるようだし、うるみをおびた目もとや、どこかしら力なげな身ごなしなど、全体に、なまめかしいほど、ろうたけてみえた。それでなくとも、生之助は毒をのむような気持でいたが、常にない松子の美しさと、話を聞いたときのにおうような恥じらいのしなとは、むざんなほど、かれをうちのめした。
「わたくしには、お返辞の申しあげようがございません」かの女はまつげの長い目を伏せ、ひざの上で、かたく両手の指をからみあわせながら、
もちろん、否定の色はいささかも見えなかった。すべてが終った。これ以上は未練だ。心のうちで、そう自分に云い聞かせながら、しかしおそらく顔は青ざめたことだろう。生之助は追いたてられるような気持でそのへやを出た。
明くる日のことだった。城中で昼げの休息に平三郎の詰所へ行くと、近習番の者が五人ほど集まって、何か論じ合っていた。みんなかたい表情で、けわしく目を光らせて、ひざを突き合わせるような姿勢をしていた。平三郎だけは、いつもの端正さを失わず、目を伏せ、口をひき結んで、かれらの云うことを聞いていたが、はいって来た生之助を見ると、手をあげて話をとめ、「少し、とりこんでいるから下城の時······」と云った。生之助はうなずいて、そのまま引き返した。······午後からにわかに冷えはじめた。少しおくれた平三郎を待って、いっしょに城をさがって来ると、空は薄日になり、重畳とうち重なる四方の山なみの上に、雪を思わせるネズミ色の雲が、おしつけるように、じっとのしかかっていた。
「脇屋藤六がまたやった」追手門を出ると、すぐに平三郎がそう云った。「増島三之丞と中原又作を馬場へ呼びだして、仲間でとり詰めて、中原は腕を折り、三之丞は頭を割られたそうだ。こまった」
生之助は、だまってまゆをひそめた。法恩寺山から吹きおろす風は、武家町の広い乾いた道にほこりを巻きたて、樹々の枝に散り残った枯葉をひきちぎって行った。
「悪いことには、若い者の間に、だんだん脇屋の勢力が広がっていく。粗暴と
「たしかに、あれは将来きっとがんになる」生之助は低い、ささやくような声でこう云った。
「······なんとかしなければならない。心から藩家を思う者は、そう考えているのだろう。けれど、こういうおれ自身でさえ、やはり手をつかねているのだから」
「脇屋はそれを見とおしている。刀の柄に手をかけることが自分の存在の強大さだということを、そして、人が
「だが······」と生之助は云いよどんだ。
「······だが、正しさを守るために、払う代価は必ず大きい。したがって支払う時期と方法は、よほどたしかでなければならない」
須川の屋敷は下元禄にある。別れ道へ来たとき、平三郎は町屋のほうへ足を向けた。まだ、なにか言いたりないようだった。つま先あがりになっている道を、ふたりは
「松子へは話をした」別れるとき、生之助はそう言った。「······異存はないようだ」
平三郎は友の顔を見るに耐えなかったのだろう。わきを向いたまま、ありがとうと云った。
生之助は、つとめて脇屋藤六の問題に考えを集めた。藤六は老職のひとり脇屋七郎右衛門の子である。少年のころからからだはすぐれてたくましかったが、頭は単純で、どちらかといえば愚かなほうだった。老職の子で、からだがよくって、愚かだという条件は、しつけが十分でないかぎり、それだけで結果は察しがつく。まして七郎右衛門は子に甘かった。愚かな子ほどという親の弱点がむきだしだった。藤六は育つにしたがって親の威光と、自分の腕力のねうちを知った。そしてこの二つのものは、自分の愚かさを償う上に、権力をさえ与えてくれるということを······では権力を持とうではないか。しだいによれば、筆頭家老にもなれる身の上だ。藤六は、そういう欲望にそそられる年齢になった。それは自然、対立するものに気づくきっかけとなる。
かれは藩の人望が、生之助と平三郎を結びつけた将来にかかっていることを発見した。かれはいきりたった。かれはまず、主家百年のために
なにがし会とやら、ものものしい結盟の旗をあげたのは、去る冬のことだった。かれは士風作興という名目をふりかざし、腕力だけで頭のない、サルのように単純な若者たちと組んであばれだした。柔弱者だといってなぐり、結盟に加わらぬといって
しぐれの降る日だった。
「ともかく考える時間をもらって来たが······」平三郎は、常になく押しつけるような調子でいった。「······これはおれの役ではないと思う。ぜひ、そこもとに出てもらわなければならない。そうお答えするつもりだから頼む」
「せっかくだがことわる。重役がた合議といえば軽くはない。ほかのこととは違ってお家伝統の大事だ。だれの目にも、そこもとだということは動かないだろう。お受けすべきだ」
「だがおれは||」平三郎は、たたみかけるようにこうつづけた。「······おれは、いま江戸へ行きたくないんだ。松子さんとの話もまとめたいし······」
「そんな私事が辞退の理由なら、なおさらだ。よし、それだけでないにしても」と、生之助はわきへ目をやりながら、冷やかに云った。「······御用はさして長くかかりはしないだろう。ふたりのうち、ひとり勝山に残るとしたら、それはおれだよ」
「そのことばには、なにか意味があるのか」
「かくべつな意味はない。ただ何をするにも、そこもととおれとは、力をあわせなければならない。ふたりがいっしょにいて、かたく手をつないでやれば、たいていな困難は打開できる。しかしひとりではいけない。そう云いたかったのだ」
平三郎はうなずいた。生之助がかれを残したくないのは、脇屋藤六とのあいだに、きっとなにか起ると察したからだ。たしかに平三郎は、そのことを考えていた。穏健な生之助がいては果断な手段をとりにくい。江戸へ立たせた後、しかるべき機会を作って、一挙に藤六らを押えてしまおう。そう心をきめて来たのであった。けれども生之助はそれを推察してしまった。そして、推察した以上は動かないことは明白だ。ふたりいっしょに、ということばをこばむことはできない。平三郎はむなしく詰所から出ていった。
出立までに数日かかった。小笠原家における礼式作法は伝承の秘事である。淵源は遠く
あすは平三郎が江戸へ立つという、その前夜のことだった。夜食を終えて間もなく、当の平三郎が突然庭からはいって、生之助の居間をたたいた。ふたりだけで話がある、家人には聞かれたくないと云って、すわった。生之助は火おけの火をかきおこしながら、友の目を見た。それはきわだって力強い光をおび、寒い夜道を来たにもかかわらず、ほおには赤く血が広がっていた。
「とうとう脇屋をやった」
「どうしたんだ」
「きょう、お城をさがる時、二の丸の
「まさか応じはしなかったろうな」
「かれが、どんな雑言を吐きちらしたか想像がつくだろう。初めから
「あすの御用をひかえているのに、そして、つい先日もおれが云ったのに······」
「あの場にいたら、そこもともわかってくれたろう。おれは決して前後を忘れはしなかった」
「結局、どうしようというのだ」
「つい先刻、藤六から決闘状が来た。あさっての明け七つ、長山の丘で立ち合おうという申しこみだ。須川」と、平三郎は静かに友の顔を見まもった。「······どうしても避けられないばあいだ。頼む、江戸へはやはり、そこもとが行ってくれ」
「それはことわる。考えてみないか黒沢。決闘となれば、相手を切らなければならない。その結果は自分も切腹だぞ」
「もちろんだ。そして、これは藩家将来のために、だれかが必ずしなければならないことだ。だれかが······」
「ああ平三郎らしい。あまりに平三郎らしい。暴を押えるのに暴をもってするのは、無為というべきだ。そこもとの勝ち気は、こんなことにしか役だたないのか。いけない。断じていけない。そこもとは刻限どおり江戸へ立つんだ」
「だが、武士と武士との約束をどうする。この上おれに恥辱を重ねろと云うのか」
「長山の丘へはおれが行く。そこもとは穏健と笑うけれど、穏健にも一徳のないことはない。藤六のことはおれにまかせてもらう」
「そこもとには、これが、おだやかにおさまると信じられるのか」
「火を消すにも法はいくつかある。やけどにかまわず手でもみ消すのも法だ。しかし水をうちかけてすむのに、手を焦がす必要はない。そこもとが帰るまでには、穏健にけりをつけておこう。あとは引きうけた。安心して行くがよい」
大丈夫だろうな。まちがいはないだろうな||いくたびも念を押したのち、なお心を残しながら平三郎はようやく帰っていった。
明くる朝、同僚たちといっしょに、城下はずれまで平三郎を見送った。冬にはいった空は、目に痛いほど碧色に澄みあがり、雲のわたる遠い山なみのなかには早くも雪をかぶった
「お片づけ物でしたら、わたくし、お手伝いいたしましょう」
「なに、もうすんでしまった」かれはぜんの前に来てすわった。「······久しくなげやりにしておいたものだから、このとおりだ。あとで、ほごを焼くときに手を貸してもらおうか」
食事のすむまで、かれはついに目をあげなかった。
午後になって日が傾きかけたころ、かれは書状やほごや古い日記などを庭へ持ちだした。松子が附木に火を移して来た。菜圃の一隅に穴を掘って、その中で、かれは書きほごから焼きはじめた。風のない、どんよりと曇った日で、屋敷の裏にある雑木林のあたりに、しきりとツグミの鳴く声が聞えた。
「黒沢は江戸から帰ったら」と、生之助は古い日記をひきさいて火の中へ投げいれながら、しずかな温かい調子で云った。「······帰ったらすぐ正式にあの話を申しこむそうだ。松子は迷いはしないだろうね」
「はい······」
われ知らず、かの女は片手で胸を押えた。
「あれは、まれな人間だ。お家のためには、けっして欠くことのできない、やがては勝山藩の柱石ともなる人間だ。夫としてはいうまでもない。松子はきっと、しあわせになるよ」
「でもわたくし、黒沢さまの妻として、恥ずかしくない者になれますでしょうか」
「平三郎は松子を愛している。男らしい清明な深い愛だ。それがすべてを生かしてくれる。かれの愛を信じていれば、松子は、しあわせなよい妻になれるよ」
煙がなびいて来たので、かれは目たたきをしながらせきいり、立ってわきのほうへ位置を移した。
「······ああけむい。すっかり目にしみてしまった」
すべてが灰になってしまうと、かれはその穴を埋めた。松子は、夕げの菜をとるのだといって、菜圃のほうへまわったが、そこから、にわかに声をあげて、かれを呼んだ。蘭が咲いたというのである。行ってみると、そのとおりだった。寒蘭が一輪、ひっそりと、花を咲かせていた。濃い紫色の五弁の花で、結い根に近く、あざやかな朱の点がある。||きょうという日に、そう思いながら、かれはかがみこんだ。かこってあるわらの中は、高雅な香りに満ちていた。||きょうという日に咲いた。目に見えぬえにしの糸でもつながれてあるような、かなしい愛着の情にそそられながら、いつまでも、かれはその花をながめつづけた。
その翌朝まだ暗いうちに、生之助は家をぬけだして長山の丘へ向かった。家々の屋根も、道の上も、雪のように白い霜でおおわれ、足にしたがってさくさくと砕ける音が聞えた。長山は城下を東へ出はずれた丘陵で、マツ、スギ、ナラなどの深い林に包まれているが、うしろに講武台のできた背のところには、平らな草地がある。生之助はそこを目あてにして登っていった。······乳白の朝もやが薄くはいたように、枯草のしがみついた地表に垂れ、条をなしてたなびいていた。腰から下を、その朝もやに消されて、草地の一隅に脇屋藤六の姿が見えた。かれにつき添って三人の若侍がいる。生之助はそのようすをながめながら、しずかな足どりで近づいていった。
「よう、来たな」藤六が、しゃがれた声でそういった。「······黒沢はいっしょか」
「おれひとりだ。黒沢は江戸へ立った」
「逃げたか」藤六はひきゆがんだあざけりの笑いをうかべ、ずかずかとこっちへ踏みよって来た。
「······それで、つまり貴公は申しわけの使者というわけか」
「そうではない。黒沢のかわりだ」
「なに、かわりだと······では貴公がおれと果し合いをするつもりか」
「そのとおりだ」生之助は身じたくをしながらうなずいた。「······黒沢は勝山藩に欠けてならぬ人間だ。おれは、かれと幼少のころからいっしょに成長して来て、かれがどのような人物か、だれより、よく知っている。どちらかが死ぬとすれば、かれではなくて、このおれだ。これは友情ではない。勝山藩百年のためだ」
「おれは平三郎に果し状をつけたのだ。貴公との立ち合いはことわると云ったら、どうする」
「そんなことは、ありえないさ」
生之助はすでにはかまのももだちをとり、覆い物をぬいでいた。
「······なぜなら、そこもとが承知するしないにはかかわらない。おれは脇屋藤六を切る」
「と、と、と」こう叫んで藤六は二三間うしろへとびすさった。かれの面上には火がついたように闘志が燃え、
生之助は右足のつま先でとんとんと地面をたたき、しずかに刀を抜いた。そのとき向うにいた三人の若侍たちが、こっちへ近づいて来た。
× × × ×
小笠原家の江戸屋敷は下谷池の端にある。平三郎は着いて三日休息し、四日めの朝、召しをうけて城へ登った。そして主君能登守正陟につれられて、雁の間にはいると間もなく、屋敷から
「十月十七日早朝」と、使役は、口ばやに云った。「······城外長山の丘におきまして、須川生之助、脇屋藤六の両名、わたくしの遺恨をもって決闘におよび、生之助こと藤六を討ちはたしましたるうえ、その場を去らず自害つかまつったとのお届にございます」
「生之助が、生之助が······」声を放って、うめくように正陟が叫んだ。
しかし、平三郎の驚きはたとえようもなかった。必ず穏便におさめてみせる、そう云った生之助の声はまだ耳にある。静かな確信ありげな表情も目に残っている。それにもかかわらず······それにもかかわらず、かれは藤六を切って自害した。では、やはり、あのことばはおれを安心させるためだったのか。あの時すでに、こうする覚悟をきめていたのか。それほどの思慮がおれにはわからなかったのだろうか。平三郎はわれ知らず、こぶしをひざにつきたてた。その時、使役が、会釈してこちらへすり寄った。
「殿中でははばかりであるが、殿のおゆるしがござったのでお渡し申す」そう云った使役は、ふくさに包んだ文ばこをさしだした。「国もとからの急使が持参したもので、須川生之助よりそこもとへの文でござる」
平三郎は主君を見た。正陟はうなずいた。それで、かれは座をすべり、しずかにふくさをときひろげた。須川の家紋を散らした文ばこのふたをあけると、こもっていた高雅な香りが、かれの面をうった。······中には一輪の蘭花が、しんとおさめてあった。