||仲井天青が死んだのを知ってるかい。知らないって、あの呑ん兵衛の仲井天青だぜ、きみが知らない
七日七夜 酒を飲まず
アポロンの奏 でる琴を聞かず
肉を啖 わず ニムフを抱かぬ
アポロンの
肉を
(天青よおまえの顔は)
おちぶれたバッカスのようだ
この||なんだ、こんどはかすとりか、
||ところで酔っちまわないうちに話すんだが、十八枚ばかしの短い小説の種はないかね、ライトモチイブの娯楽性のある筋が欲しいんだ、ある雑誌から頼まれたんだが、娯楽性のある小説なんておれには書けやしない。······おれはそんなものを書くために苦労してきやしないんだ。けれどもその雑誌社にはちょいとした義理みたいなものがあって、そこにはまたわけもあるんだが。······実はそれに金も多少は要るには要るのさ。と云ってみたところで
||きみとはそこは立場が違うんだ。
||おれとしてはそこまでは品性を下げたくはないんだ。······うん注いでくれ。
||どうやら少しばかり人間らしくなってきたね、久しぶりだもんだから胃袋のやつ
||本当に知らないかね仲井天青を。そうかなあそんな筈はないと思うんだがなあ。······本当に知らないとすればきみは不幸だ。仲井天青、······おれは涙が出てくる。
||
||おれの頭には学問はない、が、詩が詰っている。天青はよくこう云っていた、右手の指で額をこつこつ叩きながら、こんなふうに眼をすぼめてさ、······詩が詰ってる。そしてどこかへめりこんでしまった。うん、消えちまったのさね、詩のいっぱい詰った頭を持ってさ。······世間には生きてるうちはわいわい騒がれて、死ぬととたんに忘れられちまう人間がある。また生きてるうちは眼立たないで死ぬと急に偉くなる奴もあるさ。······彼はそのどっちでもないがね、と云うことはつまり彼は仲井天青だったわけさ。
||だがおれはその頃はまだ彼を直接には知らなかった。彼の戯曲を読んだり、彼に対する批評やゴシップをみたりした程度らしい、そうして彼の名がジャーナリズムから消えるのといっしょに、おれもすっかり忘れてしまった。······そうだ、すっかりだ、きれいに忘れてしまったものさ。くだらねえ、なんだ。アポロンの琴、ニムフの
||おれがあのとき東京を逃げだしたわけは云いたくないね。理由を云えばそこにはいろいろ複雑なこともあるが、恋愛問題などといっても単純に説明はつかない。······逃げだしたとも云えるし、放逐されたと云えば云えなくもないんだ。それで
「とにかくそこはお互いになんでございますもの、気楽にして遊んでらっしゃいませな」
夫人もこう云ってくれたんだ。
「あたくしもこんな性分なんでございますから、そこはまたなにかとあれでございますし、本当に自由なお気持で、文学の方面のことなどなさいませよ」
鼻にかかったような声で、片方の手でうしろ髪のところを触りながらこう云ってくれたもんなんだが、おれとしては気楽な気持なんていうわけのものじゃなかった、文学の方面なんぞというようなそんな問題じゃないんだ。······それで神戸夜話社という怪しげな雑誌社へはいった。怪しげというか、いかがわしいというか、どっちかといえばやけくそみたような雑誌であり、雑誌社であったものさ。
||その社は
||九月の二十日あたり入社したんだろう、社長はわりかたおれの立場というものに同情を感じたらしかった。彼は五尺あるかなしかの小男で、焦茶色にもなり
「せやよってに今月はもうなんやよってに月給は十月分からきちっとあげまっさ」
こう云って彼はちょび髭を
||田口詩楼氏は、······おれは敢えて今でも氏と呼ぶことを恥じない。美しい口髭の、おもながで色の白い美男子であった。ものを云うときに唇がちょっとばかり
「||では仲井さんお頼みします」
おっとりとこう云って、片方の手に
||福地総務はなに者でもなかった。ちょっと表へ出ればそこらで
||さて仲井語楼なんだが、これには驚いた。初めて社長に紹介されたとき、彼はねじり鉢巻をして椅子の上にあぐらをかいて、その椅子の右側に一
「ふん、君も東京の
そのとき彼はこう云ってにやっと笑った。いい顔なんだ、実にいい顔なんだ。ちかごろの

||おれは須磨の家から毎日その社へ通勤したさ。おまえなんぞは信じないだろうが、おれとすればそういうばあいには精勤なんだ、八時半には毎朝きちんと出社した。こういうことは文学精神とは根本的に違うんだ。······またたびと飾り文字を書いた喫茶店の両開きの扉をあけてはいる。卓子や椅子の並んでいるでこぼこの土間をつき当るとそこに広い階段がある。おれは靴を下駄箱へ入れてその階段を登ったりおりたりしたわけなんだが。
||階段をあがった廊下の左側、つまり表に面した側に編集室があり、それと対して廊下の右側が社長室になっていた。十帖くらいの日本間で、昼間のうちは彼はそこで社長事務をとり······たいがいは留守であるが、······夜はそこを寝室に使っていた。夫婦の居間は階下の奥にあって、妻君はそっちに寝る習慣であるらしい。社長はそれがお互いを尊重する文化的な寝方であり、同時に
||話はやっぱりその点に触れておかなければならないんだが、つまり社長と妻君の関係なんだけれども。······妻君というのは四十二三になる大女で、容積と重量ではあらまし社長の倍くらいはあった。額のぬけあがった、とがった頬骨の、口の大きな、眼のぎらぎらした、なんともいやらしい狐のような顔で、人間の
「
こんなことも云ったもんだろう。
「ひとつ自分と協力して文化的であり高級的であり、しかもぼろい事業である所の、雑誌社を経営なすってはどうでありますか、そうなれば
こういうようなことも云ったんだろう、いや慥かに云ったらしい証拠には。······ああいやらしい、おれはへどをつきたいみたような気持になってきた。おいぐっと注いでくれ。
||まえにも云ったように、おれは八時半には社へ出る。それからたった独りで、うす暗いじめじめした編集室の、脚のがたがたする椅子に掛け、これもがたがた揺れる机に向うわけなんだが、そのときのうらさびれた頼りない気持ときたら、なんともかとも。······だが今ここではなんとも云いようがない。またときにはそこに仲井主筆のいることもあった。主筆は酔いつぶれて自分の家へ帰れなくなるんだ、そこですっかりすり切れたような毛布にくるまってごろ寝をしているんだが、それだっておれの気持の救いになる道理はないさ。
||とにかく仲井主筆がそこにつぶれていようといなかろうと、おれは暫くはがたがたの椅子に掛けてしぼんだような顔をしているんだろう。すると、······社長室から妙な声が聞えることがある、そのときによっていろいろな声なんだ、一定しているようでありながら一定していないんだ。あるときは明らかに女性の声でいやんというふうなものが聞えたが、それはまちがいなしに鼻の中で発音された声であった。······きみ試しに舌を動かさないで鼻の中だけで云ってみろ。いやん、ごく短く「いやん」というんだ。そうかと思うとききっきっというみたような声だの、またそのほかの。······つまり各種の。
||社長室からなんの声も聞えないし物音もしないときがある。するときまってあのいやらしい妻君が編集室へやって来るんだ。
「あんたうちの社長知ってやないか」
上と下の歯がむきだしになって、そいつががちがちと鳴るんだ。白くなってかさかさに乾いた唇が
||云ってみれば社長はそのときすでにほかに女があったものさ。寝室を別にしたのも文化的であり同時に倦怠からお互いを防衛する手段である以上に、妻君の眼をのがれてその女のところへ泊りにゆく目的も多分に含まれていたらしい。······そこでおれの立場として実に当惑するようなことが始まった。と云うのが、ある朝のことなんだが、そして社長室で例の理解しがたい音声の聞えたあとのことなんだが。······そうだ、薄い絹かなんぞをきゅっと引裂くような声が三度ばかり聞えて、それから十分ばかし経った頃なんだったろう、とつぜんその部屋で妻君の叫び声がおこった。
「いやなら出てゆきなさい、出てゆきなさい、さあ出てゆきなさい」
こういう悲鳴のような叫びなんだ。
「ここはあての家や、あるもんもみんなあての銭で
社長の声は殆んど聞えない、なにか云ってることは云ってるらしいんだ。ぼそぼそ声はしているんだがなにを云ってるかは聞えなかった。妻君は激烈なヒステリイをおこしたとみえ、むしゃぶりついてひっ
「くやしいーっ、ああくやし、文化的事業のなんぞのとひとをはめやがって、あんな汚ならしい雑誌がなんや、なにがぼろい儲けや、うまいことぬかしくさって、初めからあての貯金ちょろまかす気いやったんやろ、出てゆけ、そしてあのぬすっと
「わいが悪いて、このとおりやこらえてくれえ、このとおりや」こんどは社長の声が聞えて来たんだ、「||あの女とはもう逢わん、こらえてくれ、このとおりや」
おれは椅子から立って、足音を忍ばせて階段をおりた。すると階段のいちばん下の段に仲井主筆が腰かけていて、こっちへ振返ってにやっと笑い、それから片手に小さな風呂敷包を抱えたまま立上がって、
「社長が聞いたら帰ったと云ってくれ」
こう脇のほうを見て云った。階段のすぐ脇のところに奥へ通ずる板敷がある。そこに花ちゃんと云う女中と喫茶部の女給のそえ子が立っていた。かれらもそこで二階の騒ぎを聞いていたものなんだろう、仲井はおれのほうへ「出よう」と云って、下駄をつっかけてさっさと外へ出ていった。痩せた肩の一方をつきあげ、古びた
||主筆はおれをすぐ近くの居酒屋のような家へ伴れこんだ。彼はなじみとみえて、まだ掃除もしてない時刻だったが、髪をつくねた色の黒い中年の女が出て来て酒のしたくをしてくれた。
「君とはいっぺん
「しかし社のほうはいいんですか」
「ああいう特別演出のあった日は休みと
そこでおれたちは飲みだしたのさ。主筆はコップであざやかにくっくっと飲む、乱暴なんだが少しも乱暴のようにはみえない。左手の
「うんそうか、文学をやるのか、よかろう」
「いやそんな、文学なんていう、そんなその」
「てれるなよみっともない、文学なんてそんなにてれるほどたいしたもんじゃない、おれは魚屋をやる、おれは八百屋になる、······おんなじこった、てれたり恥ずかしがったりする意味なんかちっともありやしない、さあ、きみの文学のために乾杯しよう」
その家を出て四五軒ばかりはしごをしたもんだろう。おれはかなり酔っちまっていた、そしてだいぶめそめそやったらしい。なんでも狭いごたごたした酒場で
「君はいつからおれだということを見ぬいていたんだ」
「貴方をですか、······それは、見ぬいたといったって」
「おれが仲井天青だということをさ、いつから見ぬいていたんだえ」
||おれは当惑にうたれた。わけがわからなかった。だって仲井天青などという名まえがなにを意味するか、全然まるっきり見当がつかなかったからだ。······人間が
「ぼくはうれしい、そうか、きみは覚えていてくれたんだな、そうか、ぼくはうれしい、ぼくもまだそれ程には忘れられてはいないんだな」
仲井主筆はこう云ってぽろぽろと、······本当にぽろぽろと涙をこぼした。その幾粒かがコップの中の飲みかけの
||その晩は西の場末のほうにある
||おれは少しは酔ってきたらしい。
||このかすとりは大丈夫なんだろうな。メチールのはいってるやつは臭くってこっちの精神さえ大丈夫なら本来が飲めたしろものじゃない筈なんだってな。······そうとすればこいつは大丈夫は大丈夫らしい、注いでくれ。
||それから四五日は仲井天青はひしゃげた様な顔をしていた。そうして例の一升壜から酒を湯呑み茶碗へ注いで、椅子の上にあぐらをかいてねじり鉢巻をして、がりがりとペンの音をさせながら原稿を書いていた。······それが、これは云いたくはないんだが、原稿といっても実は恥ずかしくて顔の赤らむのを誰だって拒絶することができやしない。そうじゃないか、······神戸夜話という誌名そのものでわかってる話さ。親は子に隠し、子は親に隠さなくちゃ読み得ない、つまりちょび髭社長が文化的ぼろ儲けと見当をつけたところさ。しかしあのいやらしいヒステリイ女房にまであんな汚ならしい雑誌と
||仲井天青はばりばりがりがりと猛烈に原稿を書いた。あれから四五日はそんなふうで、おれには口もきかないし顔を見るのもいやだというようなぐあいだった。······あの晩おれとあんな風に感動したり、涙をこぼしたりしたことが、恥ずかしかったものなんだろう、おれとしてもかなりな程度には同じような心持だった、それだもんでこっちもなるべく当らず触らずという態度をとっていたことはいた。······けれども気持としては、なんと云いようもないんだ。仲井天青、······仲井天青。もちろん彼の才能にどれだけの価値があるかは知らない、そんなことは誰だってわかることじゃないんだ。······げんにも生きてるうちは文学の神様だなんて云われていた人間が、死ぬとたんに先輩や仲のいい友達からまで悪口を云われたじゃないか。······それだってその人間はその人間だったんだ、それだけは少しも変りはないんだ。······天青だってひところは中央の文壇で作品を認められ、小さいながら劇団を主宰したこともある。価値のいかんは別として仲井天青は仲井天青であったんだ。······それがきみ、それが、······そんな土地へめり込んで、うす暗いじめじめしたごみ
||福地総務はうつ伏しになって、机の上へ水溜りを
||田口氏は三日にいちどぐらいずつ来て、なにかかにかして、では仲井さんお頼みしますと云って、片手に手鞄と
||おれがなにをしたかということはひと言では云えない。ただ原稿を書くこと以外は、······なぜってさいわいおれにはまだそんな様なものを書く手腕も見識もなかったから、······それだけはしなかったがそれ以外のすべてのことをやったわけだろうさ。
||おれは印刷工場へも使いをした。その工場は阪急線の石屋川というところにあったんだが、そこへゆくと幾たびかしら近くの飯屋でひるめしを
「ひとつ、今夜いっぱい、やるか」
ある日の帰りがけに、がまんを切らしたというような顔つきで仲井天青がそう云った。子供が親になにかねだるときのような、こっちの顔色をうかがうような、顔色だった。
「ぼくは今日は小遣を持っていないんですが」
「なにぼくだって持ってやしないが、勘定のきくところがあるから大丈夫さ、その点はぼくが、これさ」
天青はこう云って右の手で胃袋のあたりを押してみせた。······そしてあれ以来はじめて二人はその晩いっしょに飲んだんだが、その晩のことだけを切離して紹介するわけにはいかない。
「ブルウタスよ、おん身もか」
こんなふうな気取ったようなせりふを彼は云うてみせたものだったが、それだって一度きりのことではなし、その後は殆んど毎晩のようにつながっては飲んだもんなんで、······彼はいつかしらおれにも勘定のきく家を拵えてくれた。
「文壇の大家だといったってなんだ、いったい谷崎潤一郎がなにものなんだ、笑わせるな、おれは日本の文壇なんぞ相手にしているんじゃねえんだぞ、エ ケ ホモ、おれはこうみえても仲井天青だ」
天青はぎらぎらと熱っぽく眼を光らせ、右とか左とかどっちか側の肩をつきあげながらこう云うんだった。意気
「おれは敗北した、それは認める、しかし、敗北にこそ真実のあるということを知っている者があるか、云ってみろ、われわれの文学精神は破滅を信ずるところに立脚しているんだ、気をつけろ、おれが敗北したままじっとしていると思ったら大まちがいだぞ」
それから天青はまたよく歌をうたった。
バッカスおまえはファウンのお供
||こんなことをいうと拵えたように思うかもしれないが、仲井天青のようすがしだいに風格を帯びてきたと云ってもおれは良心に恥じない。彼はめきめき彼らしくなっていった、熟すべきものが彼の内部において熟し始めたんだろう。彼は彼自身をとりもどしたばかりでなく、今やとりもどした彼自身の上へよじ登ろうとさえするように思われた。
「ぼくには学問はない」天青はこう云って右手の指先で額をこつこつと叩き、ごく秘密なことをうちあけるかのようににやっと笑いながら低い
彼はしきりに文芸雑誌の創刊をもくろみだした。そろそろカム・バックしても早すぎはしないと云った。彼には······その頭脳の中には······幾つかの大きな長篇小説と幾十篇かの戯曲の構想がすでに完結しているのであった。
「やろう、きみ。おれもライフ・ワークを始める時期には時期なのさ、
||これらのあいだにおれは彼について多くのことを知った。仲井天青はジャーナリズムから消えて以来、浅草のなにがし座で文芸部長をやったり、他の劇団のレパートリイ顧問になったり、また喜劇一座と旅まわりもしたものらしい。······その頃に細君とは別れて、浅草のなに太郎とかいう
「だがぼくは彼女を呼びよせる気はない、ぼくは今そんな安楽なことなんぞ考えちゃいないんだ」
天青はおれになんどもそう確言した。
「ぼくの野心はそんなちっぽけなものじゃないさ、この野心のために汚濁と絶望と貧困を耐えしのんで来たんだ、ぼくは人情的であるわけにはいかない、彼女は彼女として、······ぼくは雑誌の題を人間芸術ときめようと思う」
おれはひどく酔うとたびたび天青の家へ泊ったもんだった。電車がなくなって、兵庫辺りから夜更けの道を歩いていったことも珍しくはなかった。その途中に家並がとぎれて空地つづきになったところがある、右も左も荒れた草原で、いかにも場末らしくやたらに
||天青はだんだん深酔いをするようになっていった。
||おれの初めての月給、つまり十月分の月給は一枚の計算書だった。袋の中にはほかになにも入ってはいなかった、そうしてその計算書のいちばん下には赤い字でそくばくの金額が書いてあったものさ。······これを要するに飲屋と弁当屋が勘定を取っていったんだが、その結果として赤い数字だけおれの月給からはみ出たというわけなんだ。おれとしては失望でもあり不満なような気持だったが、よく世間で云う赤字なになにというのはこのことなんだと知って、少しは教訓も得たような感じだったと思う。
||天青はその点もっと状態がいけなかったらしい。会計······といっても社長の妻君なんだが······は飲屋その他の彼の勘定をみんな拒絶した、つまるところ天青にはそれらの勘定を支払うべき余り分がないばかりか、さらに多額の前借があって、会計としてはもはやそれらに対する責任が負えないというんだった。······しぜん飲屋その他の勘定取りは編集室へやって来た。そこでそういう際に多くの人々がする通り、彼もまた五日ばかりは社を休んで姿をみせなかった。
||おれはどうしたってもういちどは社長とその妻君のことを云わずにはいられない。
||あの特別演出のあった日から半月くらいは静穏な時が経過したろう。おれは精勤であることだけは守ったから依然として八時半には出社したが、しばしば社長室からあの
||人間がいつも自分自身によって欺かれ自分自身によって失策するということは悲しいことだと思う。社長は自分の
「あほらしい、あてが金持ってるとでも思ってたんかいな、冗談やあれへん、集金があんじょう集まらな今月はやってゆかれしまへんで、あほらしい、しっかりしとくなはれ」
こう宣告するのをおれはこの耳で聞いたんだが、その仮借のないせせら笑いにはまいった。おれにはなにも直接の関係はないんだが、それでもなんとなく世の中がならし平べったくなるような、たより薄い淋しさを感ぜずにはいられなかったものだった。
||十一月になってからだったが、社長は売れ残って返されて来た雑誌を、社会事業のためにといって市庁のその部へ寄付した。これは次期市議選挙に対する予備工作のひとつだったんだろう、せいぜい三千部ばかりの古雑誌だったが、これを妻君とのひと
「なあきみ、奥さんには内証やで」
社長はそのときおれを外へ伴れだして、たぶん
「きみもサラリが少のうて済まんけど、まあもうちっとのま辛抱してえや、わいもいつまでこんなやくたいもないことしていやへん、いずれ近いうちに、······まそれは云わん、今はまだ云わんけどやね、きみの将来はわいが承知したるね、いまにきっときみにもひと花咲かしたるよって······」
だがそこでもまた社長は足をすくわれた。市のほうでは寄付を受けたものの雑誌の内容には注意しなかったらしい、古雑誌ならまあ、養老院とか孤児院とかいった関係へ配ればいい位の感じだったらしいんだ。ところが受取った現物をみて
||おれが階段を登って編集室へはいったとき、社長室では妻君の
「いややいややいやや出ていけっ」
こういう叫びに続いてどたんばたんぴしゃぴしゃという物音が起こった。
||おれは幾らか微笑したかもしれない、かなりの痛快な気分を感じたことは白状してもいい。ちょび髭社長といっても男は男であるんだ、そこはやっぱり女とは違うんだ。こう思っていたんだが、······そう思う間もなく
「悪かった、堪忍して、このとおりや」
こう云って彼はその頭をむやみに上げ下げした。その運動の速さと回数については誇張と思われる危険があるから云うのはよそう、しかし妻君はきききと叫び、社長にとびかかり、髪をひき

「あての金もどせ、どあほ、ぬすとう、ええくやし、あんな小使なんぞに恥かかされて、なにが高級的や、金もどして出ていけ、ぬすとう、ええどうしたろ」
「済まん堪忍して、わいが悪かった、これからあんじょうするよってな、これや」
おれは
「出ましょう仲井さん、また特別演出ですよ」
おれはこう云って自分の醜いざまを立聞きされた者かなんぞのように、靴をつっかけざま外へと逃げだしたものだ。
||もちろんその日は社を休んで飲んだ。天青はどうにか都合をつけたとみえて、どこの飲屋でも断わられるようなことはなく、ある程度までは従前どおり飲ませてくれた。
「あのちょび髭を
天青はその夜しきりに社長を弁護した。
「人間があそこまで裸になるということは
「ああ男は哀しい、男は救われることがない」
天青はこうも云ったさ。
「ちょび髭は初めにあの鬼女をたらしこんだ、彼はあの鬼女を
天青は両手でおれの肩へ
「これはあのちょび髭だけじゃないんだぜ、多かれ少なかれ男はみんな同じなんだ、昔も、今も、これからもさ、······男はみんな女どもによって
おれは空腹のときみたように下腹からすっと力がぬけてゆくのを感じたと思う。やるせないじゃないか、きみ、······なんというからくりだ、もしこの世がそんなに手のこんだものだとするなら、いっそ海へでもとびこんだほうがいいようにも思われる。······おれはげっそりした。けれどもそれで酔いがさめるというほどごたいそうなわけでもなかったんだが。
||おれたちはまた毎晩のようにつながって飲みだした。知れたことさ。いやそうばかりでもない、天青は倍くらい元気になった、金もなかなか持っているらしい、勘定で飲めるところは勘定で飲んだが、これまではいったことのない鉄ちり屋だの
「こんなぐあいにやっていて大丈夫ですか仲井さん、あんまりなにしてまた······」
「びいさいれんす、きみはまだそんなちっぽけなことを心配しているのか、きみには仲井天青がそのくらいにしきゃみえないのか、······その
彼は文壇の流行作家をひと
「額をあげたまえ、きみ、眼には見えないがわれわれの頭には月桂樹の冠が巻かさっているんだ、かれらなにものぞ、われらの時代が近づきつつあるじゃないか、それはもうそこにあるじゃないか、えい、······こう手を伸ばせばそれはわれらのものだ、旗を掲げよう」
彼はおれをいちどは福原の
||仲井天青は昼間は原稿を書いた。······そして、社長はこんども妻君とうまく
||夕方になるとおれたちは飲みまわった。元町あたりから西の方角へはしごをやって兵庫あたりできりあげるんだが、これは万一のばあい板宿まで歩いて帰るのに備えたわけなんだった。
「のうめのめ、のうめのめ世界のまあるほうど、ああ愉快だ、きみ握手をしよう、われわれは生きるんだ、いいか、生きるんだ、生きるんだぞきみ、さあ進軍だ」
天青は情熱に燃えたわけなんだ。うす汚ない小さな酒場の隅で、土間を下駄で踏みにじり、
「諸君、脱帽したまえ、ここにぼくがいる、ぼくが仲井天青だ」
そして女給の頬ぺたへ吸いつき椅子ごとぶっ倒れてへどをついた。······冷静にみれば、多少は興ざめでなくはない、おれにしたってそこまでは断言しない。が、ともかくも天青は燃えていたんだ。
||なにを云うか、それが狂態だといって誰に嗤う権利があるか、人間が純粋になればなるだけ、俗人どもには滑稽にみえるだろう、それがなんだ、天青は燃えていたんだぞ、名声や利欲のためじゃない、なんのためというわけじゃない、彼は芸術への情熱に全身を燃やらかしていたんだ。なにを云うか、さあ云え、いったいきみたちに彼以上のなにがあるか。······人間には平和や家庭や健康で優秀な妻子や、きちんと貰える月給のほかにも大切なものがあるんだ、そのために身を削るほど苦しんでいる者だっているんだぞ、ばかにするな。
||十一月の月給日のことだった。
||神戸という土地は
||月給日のことだった。これだけは云わずにはおれないんだが、おれは社長からあっさり
「きみにも不満はあるかしらんけど、こっちゃにも云いたいことはあるねんけど、わいはよう云わんとくさかい、きみもおとなしく引取っとくなはれ」
「おかしいですね、それはどういう意味ですか」
おれとすればかなり馘にはなりたくない気持だった。社長はなにか誤解しているらしい口ぶりだもんだから、誤解がとけて首がつながるものならと考えたわけなんだ。······だが、ちょび髭はついと月給袋をつき出し、一種の中途はんぱな表情でにやにや笑った。
「もうええわいや、もうなにも云うことあれへん、だが口は禍いのもとちゅことがあるよってな、これからは気いつけなはれや」
まるで不正乗車をして伴れて来られた乗客に対するどこかの私鉄の駅長みたような口ぶりであった。彼は初めから終りまでおれを見ようとしなかった。焦茶色のようでもあり
||おれがおれの所有物を片付け終ったとき、廊下をこっちへ来る人の足音がした。すると社長が仲井はんと呼び止めた、つまり仲井天青なんだった。······たぶん月給を貰うんだろう。おれは椅子に掛けて、幾らか悲観めいた気分になりながら待っていたんだが、とにかく天青には訳を話さなければならないと思った。······彼はなかなか来なかった。低い声でしきりになにかぼそぼそ云っているらしいんだ。なかなか済みやしないさ、······おれは廊下のところまで立っていってみた。
||仲井天青は社長の前にかしこまっていた。両手を
「月給だって減らしてもいいんです。酒を節することは断じて約束します、なんだったら禁酒しようかと思っていました、じっさいこれでは自分ながらあいそがつきますから」
「そらあんたの好きにしなはれ、こっちゃはいんで貰いさえしたら酒を飲もうと飲むまいと知ったこっちゃあれへん」
ああなんと、天青も馘になったんだ。
「ぼくは雑誌を今の倍くらい売れるプランを持っているんですが、ぼくはもっと書きます、雑誌一冊ぜんぶぼくが書いてもいいんです、いま面白い記事があるんで、こいつはあっと読者にうけることまちがいなしですが、······社長、お願いです、お願いします、どうかもう少し面倒をみてやって下さい、お願いします」
ああいたましいおれは胸が
「もうやめときなはれ、ほして今日のうち引取って貰わなあきまへんで」
「待って下さい社長、もうひと言、ぼくはこれまで御厄介になった恩義からしても、このままお別れするには忍びない気持です、まだ御恩返しもしてはいませんですし、社長、お願いします、このとおり」
それ以上おれとしては眺めている訳にはいかなかった。おれはそっちへいった。そして仲井さんいきましょうと云いながら彼の腕を
「礼が少のうてお気の毒やなあ」
その言葉と一種のにやにや笑いとがおれを
「礼はこっちからくれてやる」こう云ってちょび髭の頬ぺたをいやというほどはり倒してやった。······おれとしては今でも悪くないせりふだったと思うがどうだろうか。そういうばあい尋常なことではなかなか思うようなせりふは出ないものさ。しかし、すると天青がはね起きた。おれのはり倒す音がこんどは彼を唆しかけたんだろう、いきなり社長にとびかかり、押し倒して馬乗りになった。
「この野郎、なんだ、なんだ、この野郎」
「なにさらす、このばらけつめ、ぬすとう」
彼女はかなきり声で叫びたてたさ。
「誰ぞ来てえ、ぬすとうやぬすとうや、誰ぞ来てえ、巡査呼んでえ」
おれは彼女をつきとばした。これはうかうかしていては損害になるように思えたんだ。おれはヒステリイ女の妻君をつきとばし、天青を社長から

「はあ、はあ、きみ、やったなあ」こう云ったもんだった。
「やりましたねえ」
「やったなあ。きみ、やったなあ」
それから彼はけらけら笑いだした。おれも笑いはしたようだが、彼は笑いが止らないくらいで、しまいには
「結局はこのほうがいいんだよ、きみ、人間はふんぎりをつける時が大切だ、ふんぎるんだよきみ、あんな
「飲もうきみ、こんな汚ならしい金は一銭も残らず遣い捨ててやるんだ」
「飲みましょう、仲井さんの新しい出発を祝いましょう」
おれたちは飲みまわった。といったところでおれの月給はいろいろな勘定を差引かれているからたいしてはない、天青のも
||兵庫の「安楽」という小さな酒場を
||思う存分に飲んだわけさ。
||おれたちは星あかりの暗い道を歩いていた。ときどき歌もうたった。天青はよろけてばかりいた。二度ばかりへどをついたように思う······おれは彼を抱くようにして、彼といっしょによろけよろけ歩いた。おそろしく寒い風がうしろから吹きつけてきた。電線がひゅうひゅう鳴りアスファルトの道の上を紙屑がころげて来て、そうしておれたちを追い越して、向うのほうまでころげていったりした。
「きみちょっと、ちょっと休ませてくれ」
天青はこう云って、もう家がまぢかになったところで立停り、道の脇の枯草の上へ腰をおろしてしまった。
「もうすぐですよ仲井さん、そこがもう四つ角ですよ」
「いやだめだ、帰れない」天青はぐらっと頭を垂れて
「ぼくが負ってってあげましょう、こんなところでなにしていては風邪をひきますから、ねえ仲井さん立って下さい」
「きみは構わずいってくれたまえ、ぼくは帰れないんだ、家へは帰れないんだよ、きみ」
「どうしてです、なぜ帰れないんですか」
「||女房が来ている筈なんだよ」
「||奥さんがですって」
「そうなんだ、あれが来ている筈なんだよ」
おれは天青が酔っぱらってうわごとを云っているのかとも思った。だが彼はぐっぐっと喉で妙な音をさせ、どうやら泣きだしたようなぐあいだった。
「社長のやつ、ぼくに、今月から月給を二割増してくれると云ったんだ、あいつのために秘密出版の原稿も書いたし、その金は貰って飲んだけれども、ぼくは信用したんだ、······それだけあれば生活ができるどうやら夫婦で食うくらいは食ってゆける、······それで女房を呼んだわけなんだ」
しきりに風がわたり、すると波の寄せるように、枯草が遠くのほうからさあさあとこっちへ鳴り騒いで来て、二人のまわりを向うの暗がりへと鳴り騒いでいった。
「女房にはずいぶん苦労や心配をさせて来た、こんどこそ二人で
「それじゃあぼくたちが飲んでいたじぶん」
「そうなんだ、ぼくたちが飲んでいたじぶんあれは神戸へ着いたんだ······誰も迎えに出ていやしない、独りぽっちで、初めての土地なんだ······あれは自分で荷物を持って、ところ番地をたよりに、こんな寒い夜道を······」
彼はまた喉をぐっと詰らせた。それから暫く頭をぐらぐらさせ、手を振りまわし、苦しそうに身を
「君はさっきぼくが社長の前にへいつく這って、くどくど憐れみを乞っているのを見たろう、そしてたぶん軽蔑したことだろう、······しかしおれは、もし社長がそうしろと云えば、犬のようにちんちんでもおまわりでもなんでもしたと思う、······おれは馘になりたくはなかった、なんとしても勤めていたかったんだよ」
なにを云うことができよう、おれは
「ぼくはきみに対しても恥ずかしい、冷汗が出てならない」
「||||」
「芸術だとか野心だとか、ひとの作品を
おれとしては慰めようがないわけなんだ。けれどもそれ以上は聞いているには耐えられないさ。おれは彼を抱き起こした、まあともかくもと云うよりほかにかくべつの思案もなかったもんだろう。······おれは彼を彼の家のある路次口まで送っていった。そして路次の中を
「きみはこれを機会に東京へ帰ってくれたまえ、そして、しっかりやってくれたまえ」
天青は別れるときおれの手をぐっと握った。
「決して安きについたり投げた気持になっちゃいけない、どっちにしたって人生は苦しいもんだ、苦しむんなら自分のほんもので苦しむべきなんだよ、······じゃあさよなら、さよなら、頼むからぼくのことは忘れてくれたまえ」
そしておれは天青と別れたわけさ。
||仲井天青が死んだことは一週間ばかりまえわかった。あのおひとがらな田口詩楼氏から手紙で知らせて来てくれたんだが、······なんだ、もうかすとりもおしまいか、ちえっ。······おれとしては周五郎のごちになんぞなる気持はないんだ。人生はどっちにしても苦しい、苦しむなら自分のほんもので、······天青としてはきざな教訓みたようなことを云っちまったものさ。
||ところで十八枚くらいのライトモチイブの娯楽性のある小説の種はないかね。女房のお産もお産なんだが、それはそれとして、まあそれもあるが、······ちえっ、もう酒もなしか。