「あたしの
厚い大きな唇がすばらしく早く動いて、調子の狂った楽器のような、ひどく
「······お馬脇といえば武士なら本陣の旗もとですからね、足軽としてはこれより名誉なことはありませんよ、なにしろ酒井さまから直にお声をかけて頂けるんですから、その刀を取れとか
「だってそういう軍令はお使番という役があって、お側の武士がつとめるのだと聞いていますよ」これもなかなか負けていない気質らしい、前の女を凌ぐ
「それは御本陣のことでしょう」さきの女は平然とやり返した、「······御本陣はそのとおりですよ、それはわたしも知っていますさ、けれどもお旗下の大将がたの陣にはお使番なんかありません。そんな役があるものですか、大将がみんなでそんなことをしたら、戦場がお使番だらけでごちゃごちゃになってしまうじゃありませんか、そんなことは決してありませんよ」
いちばん騒がしい女房たちとは別に、年頃の娘だけ十人ばかり集る仲間があった。ここでも蓆を編みながら、女房たちほどうちつけにではないが、許婚のこと兄弟のこと父のことなど、つつましさのなかに娘らしい
この三人だけは人々の雑談にも加わらず、黙って仕事をしているのが例だったけれど、その日は花世としんとが妙に浮きうきしたようすで、低い声ながら
「それが本当ならお祝いをしなくてはね」しんがそう云ってあきつにふり返った、「······ねえあきつさま、花世さまのお兄上がこんど足軽小がしらにご出世をなすったのですって、三河から昨日おたよりがあったのだそうですよ」
「まあそれは、それはおめでとうございますこと」
「あら、お祝いをしなければならないのはしんさまですよ」花世はいそいで云いかぶせた、「······しんさまはねえあきつさま、こんど沢倉孫兵衛さまとご縁談がまとまったのですと、わたくし母から聞きましたの」
「あらいけませんわ花世さま」しんはぱっと
「······お祝いなんてまるで違います、沢倉さまはいま三河のお
「そんなこと仰しゃって、ではもし討死でもなすったら、縁談はおやめになさるおつもりですの」
「いいえとんでもない」しんは
「それではもうお嫁入りあそばしたもおなじではございませんか、やっぱりお祝い申上げるのが本当ですわ、ねえあきつさま」
「祝って頂くのはともかく」としんは浮きたつ気持を抑えるように、たいそうしんみりとした調子で云った、「······あなたのお兄上も、沢倉さまも、いま三河のくにでいっしょに戦っておいでなさるのねえ、今ここにいる方たちみんなの父や兄弟やお子たちが、矢だまを浴びて、命を的にたたかっておいでなさる、······わたくしそう考えると、本当に自分が今こそ生きているように思えますの、わたくしの良人になる方はいま御馬前で戦っています、そう云うことのできる仕合せを身にしみて感じますわ」
「わたくしにもそのお気持はよくわかりますわ」あきつがうち返すように云った、「わたくしも今おなじように考えているところですの、ほんとうにそう思えることは仕合せですのね」
どうしてそんな云い方をしたのか、自分でもまるでわからなかった、これまで相い似て恵まれない境遇にいた三人のうち、二人がそのように幸福に温ためられている、それに対する
「まあそれは、あきつさま、あなたにもそういう方がおありでしたの」
「まあひどい方、わたしたちにまで内証にしていらっしゃるなんてあんまりですわ」花世はむきになって
「そうよ、ぜひ伺わせて頂かなくては」としんも
でもと云いながらあきつは身が震えた、なにも云うな、黙っていよう、けんめいにそう自分を抑えたが、どうしようもないちからにひきずられる感じで、震えながら、「ほんとうにあなた方だけですのよ」と云ってしまった。
「ええ大丈夫ですよ、決してひとには申しませんわ、ですから聞かせて下さいまし、それはどなたですの」
「······吉村、吉村大三郎さまですの」
「まあ吉村の大さま」花世がびっくりしたように眼を瞠った、「······あのあばれ者の大三郎さまですの」
「まあ花世さま失礼な」しんは軽く
「わたしだってそれはそう存じますわ、ただあの方はそのほかにも女ぎらいだなんて噂もありましたでしょう、それで思いがけなかっただけですわ、おめでとうあきつさま」
「ありがとう」あきつはおろおろした声で辛くもそう答えた、「でもどうぞ内証にね、うちあけて申上げると、大三郎さまがそうお約束して下さっただけで、まだ表向きにはなっていないのですから、ほんとうにお二人だけの内証にして下さいましね」
ええ大丈夫、決してひとには云わない、そういう二人の誓いを聞きながら、あきつはなおからだが震えるのを止めかねていた。
吉村大三郎の名をあげたのは苦しまぎれだったが、それでもあきつとしては僅かに選択がなくはなかった。大三郎はやはり「御手の者」に属し、二十七歳で本陣さきて組の足軽小がしらを勤めている。酒飲みで酔うと暴れだし、平生でも傍若無人のおこないが多い、戦場での闘いぶりもめざましく、相貌もぬきんでていながら二十七という年まで独り身でいるのは、そういう性質が娘の親たちを
「三河からおたよりがありまして」二人に顔が会うとよくそう云われた、「近いうちに御荷駄がゆくそうですから、あなたからもお文をおあげにならなければね」
「ぜひそうなさいまし、わたしも沢倉さまへは御荷駄のたびに差上げますの、だってそれが留守の者のつとめですから」
「ええそう致しますわ」あきつは
「でもどうぞこのことは内証になすってね、知れたらほんとうに困るのですから、きっとお約束しましてよ」
そしてそう云うたびに、きまってぶるぶると怖ろしいほど身が震えるのだった。
長篠城の合戦が味方の大勝に終って、その知らせが浜松へ着いたのは、天正三年五月二十四日のことであった。留守城はよろこびのためにどよみあがり、城下町の隅ずみまで、活気のある賑わいに
「あなたは太田助七郎どのにいらっしゃるあきつさんという方ではございませんか」
「······はい」あきつは老婦人を見た、「わたくしあきつでございますが」
「そうだと思いました」婦人は微笑しながら
「······あなたに少しお話がありましてね、家まで来て頂きたいのだけれど、いまお使いのお帰りですか」
「はい、これから帰りませんければ」
「ではこう致しましょう、お帰りになったらお家へはよいように仰しゃって、ちょっとの間でよろしいから家まで来て下さい、内ないでお話し申したいことがありますから」
「······あなたさまは」とあきつは買物の包を抱き緊めた、「どなたさまでいらっしゃいますか」
「吉村大三郎の母です」老婦人はしずかに見かえしながら云った、「······ではお待ちしていますよ」
そして返辞は待たずに去っていった。
そうだ、吉村さまのお母上だった、時どきお見かけして覚えのある筈だのに、そう思ってうしろ姿を見送ったあきつは、やがて
幾ら考えてもだめだ、考えるだけでは解決はつかない、そこへつき当るまでにはずいぶん苦しんだ、けれどつき当ってしまうと気持はおちつきだした。||お勝ち軍ときまれば、大三郎さまもご凱陣であろう、いずれは知れることなのだ、今のうちにすべてをうちあけて謝罪するほうがよい、お母上ならこの気持もわかって下さるだろう。そう決心したあきつは、家へはさりげなく云い繕ろって、吉村の住居へとでかけていった。
「ああ来て下すったのね」吉村の母はあいそよく迎えて呉れた、「······さあ狭いところですがあがって下さい、遠慮な者は誰もいません、わたし独りですから」
吉村の母のより女は手ずから茶を
「誰から聞いたかということは申さぬことにしましょう」やがて、吉村の母はそういいだした、「······けれど聞いたままにはして置けないことなので、失礼ですが来て頂きました、あなたご自身のお考を伺がってから、太田どのへは改めて話すことにしたいと思いましてね、あきつさん、······あのはなしは本当なのですか」
いよいよそのときがきた、あきつは震えてくるからだをひき緊め、心をおちつけながら吉村の母を見あげた。正直に云わなければいけない、はっきりと、なにもかもあったとおりに云うのだ、そして
「まことに申しわけもございません、なんとお
「ああそんなに仰しゃるな」
吉村の母はどう思ってかにわかに
「······もうようございます、それでわかりました、あなたのそのごようすでよくわかります、こんなことが年頃のあなたにお答えできるものではない、それでたくさんですよあきつさん」
「でもわたくしお話し申さなくてはならないと存じます、そして赦すと仰しゃって頂かなくては······」
「赦すですって」より女はひたとこちらをみつめながら頬笑んだ、「······赦すどころですか、わたしはあなたに礼が云いたいくらいです、あのように世間では評判の悪い子でも、わたしにとっては身をいためた
吉村の母はそこまで云うと、なにか感慨がこみあげてきたかのように口を閉じ、暫らく自分の膝のあたりを見まもっていた。それから、どうして今そんな話をされるのか、まだわけがわからずにいるあきつの顔を、訴えるような眼で見あげながら続けた。
「わたしはずいぶん人にも頼み、自分でも足をはこんで、嫁になって呉れる方を捜してみました、でも世間の親御さん方には、大三郎がどんなにか末遂げぬ者にみえたのでしょう、とうとう今日まで思わしい縁がありませんでした、わたしはもう
「お待ち下さいまし」あきつは堪りかねてそう云った、「······それはお考え違いでございます、それではなおさら大三郎さまに申しわけのないことになりますわ、わたくしすっかり申上げなければ」
「これ以上なにを伺えばよろしいの、わたしはうれしいのですよ、今日ほどうれしく楽しいことはありませんでした、あきつさん、ほんとうにわたしはうれしいのですよ」
吉村の母はそう云いながら、手をあげてそっと眼がしらを抑えた。······あきつは
それからあわただしい日が続いた。吉村から人を介して太田の家へはなしがあり、折よく長篠から凱陣した兵といっしょに助七郎が帰って、あきつには殆んど相談もなく縁談がきめられた。そして大三郎はなお家康本陣にあり、次ぎの合戦に残ることになっていたので、帰るまでより女の看とりをするということにきまり、僅かな身のまわりの物を持っただけで、あきつは吉村の家へと移っていった。
「······狭い家のことだから覚えて頂くほどのこともないのだけれど」
そう云って、道具類のあり場所、置きどころ、手いれの仕方などから、近隣とのつきあいのことまで、手を取るように教えて呉れた。そのときより女はふと笑いながら、「そうそう、あれを見て頂きましょうね」
そう云って、納戸から萱の一文字笠を取りだして来た。「大三郎が自分で作ったのですよ」吉村の母はそれをあきつの手に渡した、「······あれは畑いじりが好きで
「まあさようでございますか、たいそうお上手にお作りなさいますこと······」
あきつはその笠をうち返し眺めながら、云いようもなく温かな、ゆかしい気持を感じさせられた。なんの奇もない一蓋の萱笠ではあるが、ほどよく枯らした萱の清らかな色といい、一文字にきっちりと編みあげたつくろわぬ形といい、いかにも素朴ですがすがしく、||頭に載せるものだから、と云ったその人の心がよくあらわれているように思えた。
そのときからあきつには新しい感情がめざめだした。大三郎その人の姿は垣間みたこともない、ひとの
||それが本当の大三郎さまなのだ、あきつはそっと心のなかで
長篠の合戦に勝った徳川家康は、この機会に武田氏の勢力を駆逐すべく、軍をめぐらして
「あの子らしいこと」より女はそう云って、読み終った文の、末のほうをあきつに示した、「······ここのところを読んでごらんなさい、相変らず強がりを云っていますから」
あきつとやら申すむすめのこと、さきごろのお文にて拝見、わたくしには覚え御ざなく。······いきなりそういう文字が眼にはいって、あきつは心臓が止るかと思うほど息ぐるしく、くらくらと
「きまりの悪いのをわざと強がっているのがよく出ているでしょう」
より女は手紙を巻きながらそう云った。
「······すなおに知っていると云えないのですね、そのくせ側に置けと書いたり、知らないということはあなたに内証だなどと虫のよいことを云って、これで本心がよくわかるではないの、わたしにはよろこんでいるあれの顔が見えるようですよ」
そのときあきつはどんなに自分とたたかったことだろう、大三郎の文ははっきりとかの女の罪を指摘している、||もう耐えられない、みんな申上げてしまおう、そう思って口まで言葉が出た、さあと心をきめて見あげさえしたが、より女の信じきっている気持と、あきつを嫁と呼ぶことのいかにもうれしげな日頃を考え、それはむざんだ、という気がして舌が硬ばり、
||云ってしまいたい、そうすればこの苦しみから

「畑へ少しものを作ってみたいのですけれどいけませんでしょうか」
「あれは自分の畑をひとに触られるのが嫌いで、わたしにも手をつけさせないのですよ、こんど出陣するときにも、植えてあった菜や人参を、みんな抜いてご近所へ配ってゆきました、帰るまで誰も手をつけないように、
「でもそれではお畑が荒れてしまいましょう」
「どんなに荒れても、自分が帰って手をつければすぐ元どおりになる、あれはそのように申しますの、土というものは耕やす者の心をうつす、自分はものを作るというより、その土に映る自分の心をみるのが目的だ、······よくそんなことを申しますよ」
あきつは聞いていて頭がさがった。またひとつ大三郎の新らしい面を知らされた、そういう慎ましい気持、土からさえ教えられようとする謙虚な心がまえ、これがほんとうのあの方だ、世評はうわべだけしか見ていない、ここにあの方の本当のお姿があるのだ、あきつは感動しながらそう思った。
「そのお心にあやかりたいと存じますけれど」とあきつは面をあげて云った、「でもやはり、いけませんでしょうか」
「そうですね、あなたなら別だから」より女はふと眼で笑った、「······そう、あなたは別なのだから、思い切ってやってごらんなさるか」
「わたくし一所けんめいに致しますわ、ものを作るなどと思わずに」
そして自分の心を土にうつしてみたい、もしそれがあの方のお心に
「たいそう日にお焦けなすったこと」或日より女はつくづくあきつを見てそう云った、「······いいことがあります、ちょっとお待ちなさい」
小走りに奥へいったより女は、すぐにあの萱笠を持って戻った。「秋の日は肌をいためるといいます、今日から畑へはこれを冠っていらっしゃい」
「いいえ」あきつはさっと色を変えた、「······いいえそれは、それはいけません、わたくしそれだけは」
「どうしてです、あの子の畑を作るのですもの、あの子の笠を冠ってもよいでしょう」
「でもそれだけは、いいえお笠はおつむりへのるものですから、お許しもなしに戴くわけにはまいりません、それにわたくし、日に当ることは慣れておりますもの、お笠は
そしてまるで逃げるように家を出てしまった。
畑の土を踏むのでさえ心のどこかが痛む、大切にしている手作りの笠がどうして借りられよう、||それにあの笠は大三郎さまが幾たびかお冠りなすっている、そう思うとその人に触れるような
「唯今もどりました」と云って
「お話がありますから、そのまますぐ来て下さい、用事はあとになすって······」
「はい」あきつは
あのことが知れたのだ、あきつはそう直覚した。ごようすが常ではない、きっとそうだ、それに違いないと思うと頭がかっとして、暫らくは物がはっきりと見えなくなった。
「もっとこちらへお寄りなさい」
はいってゆくとより女はそう云って自分の膝の前をさし示した、
「······あきつさん、大三郎が帰って来ましたよ」
いきなりだったのて、あきつはこくりと喉を鳴らした、より女はしずかに眼をあげて仏壇を見やった、そこには燈明がまたたき、香の煙が揺れている、より女の眼を追ってその仏壇を見あげたとき、あきつはわれ知らずああと叫んだ。
「そうです」
より女はその叫びに答えるように頷ずいた。
「······大三郎はお仏壇へ帰って来たのです、
「母上さま」あきつは
「お泣きではないでしょうね」
より女はつと手を伸ばしてあきつの肩を押えた。
「······大三郎はさむらいの道を全うしたのです、さぞ本望なことでしょう、あなたが大三郎の妻なら泣く筈はありませんね、さあ、いって香をあげて下さい、あれもさぞ待っていたことでしょうから」
あきつはよろめく足を踏みしめながら立った、涙を押しぬぐい、衣紋をかいつくろって、気を鎮めるようにやや暫く
ゆるしてやろう、そう云うこえが聞えるかと思うほど、あきつには堅い信念が湧いてきた。これで誤りはない、と思った、もうこれからはより女を欺くことにはならない、たましいとなった大三郎さまが見ていて下さるのだから、自分は今からほんとうにこの家の嫁になったのだ。心をこめて合掌祈念したのち、仏壇の前をはなれたあきつは、そのまましずかに納戸のほうへ去ったが、間もなくあの萱笠を持って戻って来た。そして、今は心から姑と呼べる気持でより女の前に坐った。
「今そんな笠などを出して」より女は
「おねだり申しましたの」あきつは笠の表をそっと
「まあ······あきつさん」
「これから畑へまいるときはわたくしこれを冠らせて頂きます、そうしたらいつもお側にいるようでございましょうから······」
お泣きではないと云い、自分でも泣かなかったより女は、そのとき
「ええ、きっとそうだと存じます」
あきつはなおひとり言のようにこう云った。
「······この笠はお手作りで、旦那さまのお心が籠っているのですもの、そうではございませんでしょうか、母上さま」
より女は頷ずいた、両手で眼を掩いながら頷ずいた、あきつはいつまでも、懐かしげに笠をかい撫でていた。