「どうかしたのか、顔色がすこしわるいように思うが」
「お眼ざわりになって申しわけがございません、昨夜とうとう夜を明かしてしまったものでございますから」
「どうして、なにかあったのか」
「······はあ」
加代は
「そうか、歌か」
「はい、寒夜の梅という題をいただいているのですけれど、どう詠みましても古歌に似てしまいますので」
「一首もなしか」
「明けがたになりましてようやく」
「それはみたいな」
直輝は
「おはずかしいものでございます」
直輝は手にとって、くりかえしくちずさんでいたが、やがてしずかに
「一昨日であったが、横山が妻女のはなしだといって、お前にはもう間もなく
「はい、ついせんじつそういうご内談はございました、ですけれどまだわたくしは未熟者でございますから」
つつましく眼は伏せたけれど、そっと微笑する唇もとには確信の色があった。
「允可がさがったら歌会でも催すかな」
そう云って直輝は立った。隠居所へゆくと母のかな
「母上ただいま
「ご苦労でございます」
かな女はめがねをとり、会釈をかえしてから見送るために座を立った。
家扶、家士たちと共に、直輝を玄関に見送ったかな女は、嫁と廊下をもどりながらその顔色のすぐれないことに眼をとめた。加代は良人に問われたよりも心ぐるしそうに、
「つい
と低いこえで答えた。
「そういえば、あなたのお部屋の窓にいつまでもあかしがうつっているので、お消し忘れではないかと思いました」
そう云ってかな女はふと嫁の眼を見た。
「それで歌はおできになりましたの」
「······はい」
加代はどきっとした。夜更かしをしたといえば歌を詠んでいたということはすぐにわかる筈ではあるが、その時は妙にふいをつかれた感じだった。
「しばらくあなたのお歌を拝見しませんからご近作といっしょに、持って来て拝見させて下さらないか」
「御覧いただくようなものはございませんけれど」
予感というのであろう、加代の心はつよく

「昨夜お詠みなすったのはこの寒夜の梅というのですか」
十枚ほどある短冊をゆっくりみていたかな女が、さいごの一首をつくづく読んでから云った。
「······はい」
「みごとにお詠みなすったこと、本当に美しくみごとなお歌ですね」
「お恥ずかしゅうございます」
「僅かなあいだにたいそうなご上達です、これだけお詠めになればもうおんなのたしなみには過ぎたくらいでしょう」
かな女は短冊をしずかに置き、やさしく嫁の顔を見やりながら云った。
「もうお歌はこのくらいにして、またなにかほかの稽古ごとをおはじめなさるのですね。さあ、こんどはなにをなすったらよいかしら······」
加代はいっぺんにねむけから覚めた。歌稿をみたいと云われたときの不安な予感があたらしくよみがえり、おそれていたことがやはり事実となってあらわれたのを知った。
「お言葉をかえすようではございますけれど、もうすこしお稽古を続けさせて頂けませんでしょうか、まだ道のはしも
「それでも
「······はい」
加代はそれ以上なんと云うすべもなく、うなだれたままそっと歌稿をまとめて立った。
直輝がお城からさがって来たのはもうすっかり暮れてからのちだった。
四五日はなにごともなく過ぎたが、直輝はやがて妻のようすがいつまでも沈んでみえるのに気づいた。どこか悪いのではないかとたずねると、そんなことはないと答えてさびしげに
「どうしたのだ」
ふいにはいって来た良人をみて、加代はとりちらした
「お待ち、どうしてそんなことをするのだ」
加代はだまって悲しげな眼をあげ、すがるように良人を見あげた。直輝はその眼をみて事情を了解した。
「母上が
「······はい」
「云ってごらん、なんと仰しゃったのだ」
加代はなかなか云わなかったが、直輝にうながされてようやく先の日のことを告げた。
「わたくし、こんどこそやりとげてみたいと存じました。鼓のときも、茶の湯のときもそれほどではございませんでしたけれど、和歌の道だけは奥をきわめてみたいと存じておりました」
言葉が感情の
「加代はふつつか者でございますから、母上さまのお気に召すようには
「もうおやめ、それ以上はわかっている」
直輝はやさしくさえぎった。
「おまえがよい妻だということは母上もよくご存じだ。二千石の家政をとりしきってゆく苦心がどれほどのものか、わしにはわからないが母上にはおわかりになる、おまえほどの若さでよくやって
云いかけて直輝はふと口をつぐんだ。
彼は母のひとがらを尊敬している。世にまたとなき母だと信じている、かな女は身分の低い家にうまれ、十六のときこの多賀家へとついで来た、多賀は前田家の重職のいえがらで、父の三郎左衛門は若年寄をつとめていた。育ちが低いのでどうかとあやぶまれたが、かな女は二千石の家政をみごとにきりもりした。その点では賢夫人と名に立ったくらいである。彼はいまでも覚えている、父が臨終のとき、ふと母のほうをふりかえって、||おまえとは三十五年もひとつ家に住んで来たが、とうとう一度も叱るおりがなかったな。そう云ってかすかに笑った。本当に三郎左衛門はいちどもかな女に荒いこえをたてたことがなかった。そういう母であったが、ひとつだけどうにもならぬものがあった、それはものに飽きやすい気質だった。老職の妻として教養を身につけたいという気持であろう、家政をとるいとまに茶の湯、
加賀守綱紀はそのころ天下の名宰相といわれ、文治武治ともにすぐれた治績をあげたが、なかにも学芸には最もちからを注ぎ、名ある
こういうありさまなので、しぜん武家の婦人たちのあいだにも文学技芸がさかんだった。歌会、茶会、謡曲の集いなどがしばしば催され、ずいぶんすくれた
加代が多賀家へ嫁して来て三年になる、実家にいたときから鼓をやっていた彼女は、多賀家へ来てからも良人のゆるしを得て稽古をつづけた、しかし半年ほどすると
こういう反面に、むろん彼女は多賀家の主婦としてりっぱにそのつとめをはたしていた。武家で二千石というと
母の気性がと云いかけたまま、ややしばらく黙っていた直輝は、やがて妻をはげますように云った。
「ほかの事とはちがって、おまえの和歌の才だけはかくべつだ、わたしからそれとなく母上におはなし申してみよう」
「でもそれでは、わたくしがお訴え申したようで、悪うございますから」
「それほど物のわからぬ母ではない、残った草稿は捨てずに置くがよいぞ」
加代は良人の温かい気持を胸いっぱいに感じながら、裂き残した歌稿をつつましく集めた。
その明くる夜、直輝は隠居所をおとずれた。数日まえから
「あの寝部屋は冷えますからね、それにあのひとはあまりお丈夫ではないから、······これを肩に当てて寝るといいとおもって」
「それはさぞ珍重に存じましょう」
云いながら直輝はふと微笑した。
「しかしなんだか話が逆でございますね」
「どうしてです」
「それは加代から母上にさしあげる品のように思われますよ」
「でもあたしは丈夫ですから」
そう云ってかな女も苦笑した。
愛している者でなければ、そういうこまかいところに気のつく筈はない、母は加代を愛している、直輝はいま眼のまえにそのあかしを見たと信じた、それで和歌のことを話しだした。もう間もなく奥義の允可がさがるというところまできているのだし、その才能にもめぐまれているようだから、家政に障りのない程度で稽古を続けさせてやりたい、そういう意味のことを、自分からたのむという調子で、しずかに話した。
かな女は黙って聴いていた、直輝がすっかり話し終るまで黙っていたが、べつに反対はしなかった。「それもいいでしょう」と云っただけで、すぐにほかの話をはじめた、なんのわだかまりもないさっぱりとした調子だった、直輝は安心して隠居所から出た。
あくる朝だった、直輝が登城すると間もなく、蒼竜がみごとに咲きはじめたから観に来るようにと呼ばれて、加代は隠居所へいった。暖かい日がつづいたためであろう、若枝や梢のほうにふくらんでいた蕾が、およそ四分がた、いっせいに咲きだしていた。「まあみごとでございますこと」思わず声をあげながら、濡れ縁に坐ろうとする加代を、かな女は部屋へ呼びいれて相対した、それで加代ははっとした、呼ばれたのは梅を観るためではない、姑の眼はいつものやさしいなかに
「きょうは、わたくしの思い出ばなしを聴いて
かな女はしずかに云った。
「年寄の愚痴ばなしです、これまで誰ひとりうちあけたことのない、恥ずかしいはなしなのです、聞いて呉れましょうか」
「はい、うかがわせて戴きます」
「かた苦しく考えないで、膝をらくにして聴いて下さいよ」
かすかな
「わたくしが多賀の家へとついで来たのは十六歳のときでした、実家の身分が低く、稽古ごとも思うままにはならなかったのでわたくしは本当になにも知らぬ愚かな嫁でした。とついで来てから十年というものは、まるで闇のなかを手さぐりであるくように、やっとその日その日を送っていたようなものです、ただお
かな女はそこで言葉をきった、そしてそっと眼を伏せ、ややながいことなにか思い出す風だったが、やがてまたしずかに話をつづけた。
「自分の口からこう云っては、さぞさかしらに聞えることでしょうけれど、わたくしは茶の湯の稽古でたいそう才を認められました、
「············」
加代はじっと姑を見あげた。
「良人も惜しんでくれました、しりびとのたれかれもしきりに続けるようにすすめてくれました、けれどもわたくしはそのときかぎりやめて、つぎに
かな女はしずかに嫁の眼を見やり、考える時間を与えるように、一句ずつ区切りながら続けて云った。
「武家のあるじは御しゅくんのために身命のご奉公をするのが本分です、そのご奉公に
「············」
「学問諸芸にはそれぞれ徳があり、ならい覚えて心の
「母上さま」
加代が、とつぜんそう云いながらひれ伏した、つきあげるような声だった、そしてひれ伏したその背がかすかに
「わたくし、あやまっておりました」
「······加代さん」
かな女は頷きながら云った。
「もう仰しゃるな、年寄の愚痴がいくらかでもお役にたてばなによりです、そして、そこの覚悟さえついておいでなら、歌をおつづけなすっても結構なのですよ」
しずかに微笑しながら云うかな女の、老をたたんだ顔には些かの
「こんなものを作りました」
やがてかな女は、端ぎれを継いで作った肩蒲団をとって、そっと嫁の前に押しやった。
「あなたのお寝間は冷えますから、これを肩に当てておやすみなさい、これでなかなか温かいものですよ」
その日お城から帰った直輝は、妻の顔色が見ちがえるように
「どうしたのだ、なにかたいそうよいことでもあったようではないか」
そう云うと、加代は胸に包みきれぬよろこびを訴えるように云った、「はは上さまから頂戴ものをいたしましたの」
「······なんだ」
知ってはいたが、わざと直輝はそう
「肩蒲団でございます、ご存じではございませんでしょう」
加代はむしろうきうきしたともいえる調子でそう云った、
「やすみますときに、枕と肩との間に当てるものでございますの、老人の使うものでしょうけれど、わたくしのからだを案じて、はは上さまがご自分で作って下すったのです」
「それがそんなに嬉しいのか」
「旦那さまにはおわかりあそばしませんでしょうけれど」
加代はそう云いかけ、ふと眼をあげておのれをかえりみるように云った、
「わたくしもはは上さまのように、やがては嫁に肩蒲団を作ってやれるような、よい姑になりたいと存じます」