「今日は、そんなものを着てゆくのか」
「はい」小間使の八重は、
「なにか今日は、式日だったのか」
「いいえ、お式日ではございません」
八重は礼服をきちんと揃える、それを脇へ直して
「その指はどうかしたのか」
「どれでございますか」
「その右手の小指さ」
「まあ」八重は慌てたように、片方の手でその指を隠す、「······これは生れつきでございますの、いつぞや申し上げましたのに」
それから、
「今日はお帰りに鹿島さまへお寄りなさるのですから、御下りのときこれをお召しあそばすのでございます」
「ああそうか」平三郎はにこっと笑う、「······あれは今日だったのか」
「お袴はいけませんですよ」八重は若い主人を見上げて戒めるような微笑をみせる、「······いつもとは違うのでございますからね」
そして
父の新五兵衛は、もう先に出仕していた。母親と家扶に送られて家を出た平三郎は、小馬場の西をまわってゆきながら、「袴はいけない」と
平三郎は、山瀬新五兵衛の一人息子である、父は川越藩秋元家の中老、彼は小姓組で書物番を勤めていた。父も挙措のしずかな温厚一方の人で、かつて怒ったり
彼は自分の放心癖は、十八歳で書物番を命ぜられてから始まったのだと信じている。······平和な家庭に温かい父母の愛を
||なに人間はあのくらいぬけたところのあるほうがいいのだ。
そういっていたが、母親のなお女には心痛の種だった。そして武家では不似合なことだったが、自分が愛していた小間使の八重を彼に付けることを定めたのであった。
その日、平三郎はむすめを見にゆくことになっていた。父の友人で阿部山城守の家臣に鹿島主税という人がある、その主税の仲だちで同じ阿部家中の芝方左内という者のむすめをどうかとすすめられていた。身分も年恰好も相応なので、母親がまず乗り気になり、父も平三郎もかくべつ異存はなかった。それで是非いちど当人を見に来るようにという先方の話から、訪ねてゆく約束ができたのであった。
平三郎は退出の
芝方左内は用人だと聞いていたが、一万六千石の家中にしては手広な建物で、庭も狭いながら
「これはむすめ早苗でござる」と、左内がひきあわせた、「······ふつつか者だが、お見知りおき下さい」
平三郎は、はあと答えたが、そちらへは向かなかった。娘は上気した面を伏せたまま、然しおちついた優雅な身ごなしで茶の給仕をし、一礼してしずかに去った。このあいだにかなりの時があったのだが、彼の注意が娘のほうに動いたようすはなかった。
家へ帰ると母親が待ち兼ねていて、気遣わしげに、「どうでした」と訊いた。
「たいへん馳走になりました」平三郎はそう答えたきりである。なお女は仕方なしにはっきり相手はどうだったのかと訊き返した。
「あなた見ておいでなのでしょう」
「ええ、お母さんという人をよく拝見して来ました」
「御当人はどうなすったんですか」
「もちろんいました、しかしこれはよく見ませんでしたよ」
「どうして御覧なさらなかったの、だってその娘さんを見にいらしったのでしょう」
「それはそうですが」平三郎はまじめに
この言葉は母親の心をうったとみえ、なお女の眼がふっと潤みを帯びた、父の新五兵衛は温和な笑いを眼にうかべながら、
「だがおまえ、母親を
「それはそうですが、しかし」彼は信じられぬというように父を見た、
「······私は母上が好きですし、この母上があって私の今日があるのだと思いますから、それで大丈夫だと考えたのですがね」
「母上」と、新五兵衛は妻に笑いかけた、「······なにか
なお女は微笑した。泣かされた人のような微笑だった。それでそれをまぎらかすように、わざと事務的な調子でいった。
「それではあなたは来て頂いてもよいとお考えなのですね」
「いいと思います」
「鹿島がよろこぶだろう」新五兵衛は頷きながらそういった、「······だいぶ熱心にすすめていたから、この家も
平三郎は、そんなものかしらという顔をしていた。
その明くる朝だった。出仕の支度をしているとき、小間使の八重が、「いよいよお定りになりましたそうで」と問いかけた。平三郎はうんと頷いた。八重の顔には若い主人の幸福をよろこぶ色が
たぶん、はしたないことを口にしたからであろう、そう思いながら、八重は急いで面を伏せ、平三郎の足許へすり寄って、いつものように袴の襞を揃え、下へ軽くとんとんと引いた。······そのとき平三郎は上から、自分の前に
若主人の動作が止まったまま動かなくなったので八重はふり仰いで見た。そしてまた例の放心癖が出たと思ったのだろう。「お袴でございますか」と、そっと笑いながらいった。平三郎は
それから三日めの朝、やはり出仕の支度をしている時のことだった。例のとおり八重が眼の前に跼んで、袴の襞を正し、とんと軽く下へ引く、その柔らかいちからを身に感じたとき、平三郎は夢から醒めたように、「ああこれはいけない」と呟いた、八重はふり仰いだ。
「いかがあそばしました」
「いけない、いけない」平三郎はなおそう呟いた、「······これは失策をした」
「どうあそばしました、なにか······」
「
「わたしが、どうか致しましたのでしょうか」
「この平三郎の妻さ」
「············」
「他から貰うことはなかった、平三郎の妻には八重がいちばんふさわしい、どうしてそれがわからなかったかふしぎだ、これも『袴』のうちだろうか」
八重は
「······失策はとり戻さなければならない。今日、帰ってから父上にお願いをしよう、おまえもそのつもりでいて
そしてしずかに出ていった。
平三郎は八重を娶ることが容易であろうとは信じなかった。しかしまた、それほど困難だとも考えなかった。ただ問題は芝方のほうへいちおう承認の旨を通じてしまったことである、武家同志のあいだで、一旦とり交わした約束を後から
彼は彼なりにこれだけの思案をした。そしてその後、父と母の前で正直に、「芝方との縁談を取消して下さい」といった。父は黙っていたが、母親の驚きは大きかった。そして彼がその代りに八重を娶りたいと云ったとき、なお女の顔色は
「芝方殿へは私がまいって事情を述べ、
ながい沈黙が続いた。息子には父母の心がわかるし、両親には息子の気持が手に取るようだった。親子の間に関する限りは、いささかも思慮考慮すべきものはない、しかしそれだけで済まぬものが多かった、いや
「一応これは困ったな」新五兵衛がやがてそういった、「······しかし、なんとか穏やかにおさめるように考えよう、鹿島や芝方はおまえがゆくことはない、おれから話しするが、八重を入れるということがな」
「わたくしが悪かったのでございます、八重を付けましたことが」なお女はふるえ声でそういった、「······あれを付けさえ致しませんでしたら、こんなことにはなりませんでしたろうに」
「誰が悪いかということはない、どちらかといえばみんなが善良だったからだ、八重もよい人間だし、平三郎の気持も濁りがなくていい、おまえが八重を付けたのも我子を信じたからだろう、誰も悪くはないのだ、ただ問題が芝方のほうへ承諾を与えた後に起ったことと、八重が召使だという点が不仕合せなのだ」
「しかし、それとても不可能なほど困難ではないだろう」けれど新五兵衛の眼には、明らかに困惑の色があった、「······そして平三郎、おまえ八重を娶るという気持に間違いはないだろうな」
「間違いはないと信じますが」
「八重のほうはどうなのだ」
「それはわたくしから訊きましょう」
なお女がそういった、「······あれにいなやはないでしょうけれど、でもそれは芝方さまのほうが済んでからで宜しいと存じますけれど······」
「八重には私が訊きます」平三郎はきっぱりそう云った、「······今朝ちょっとそう申してありますし私から訊ねるほうがよいと思いますから、そして父上、これはやっぱり、なにより先にたしかめるべきことではないでしょうか」
「そう、······万一ということがあるからな」
平三郎は立って廊下へ出た、母親は呼び止めようとしたが、彼の態度が余りきっぱりしているので声が出なかった。······彼は八重に声を掛けておいて、自分の居間へはいった、八重はすぐに来た。しかし障子の外に手をついたまま、部屋の中へはいろうとしない。平三郎はそのようすに不吉な予感を覚えた。
「今朝のことをいま両親に話したところだ、父上も母上も許して下さるようだが、おまえは承知して呉れるかどうか」
「······お返辞は」と、八重は低い震え声で云った、「ここで申上げますのでしょうか」
「うん、いま聞きたいと思う」
八重は面をあげなかった、両手を敷居の上に置いて深く顔を伏せたまま、しかしかなりしっかりした口調で答えた。
「若旦那さまの
「それは、いつ頃からの約束なんだ」
「こちらへ御奉公に上るとき、親たちの間で定ったのでございます」
平三郎は一種の胸苦しさを感じた。二十五歳の今日まで、かつて知らない感情である、怒りでも不満でもなく、悲しいとか口惜しいというのでもない、なにか
「どういいました」はいって来たなお女は、我子のようすを見て、およその事情を察した、「······いやだと云ったのですか」
「国のほうに約束した者があるそうです」
「わたくしからもういちど訊いてみましょう、もしかして独り思案の口実かも知れませんから、あの子にはそういうところがあるのです」
なお女はすぐに立っていった、平三郎はやはり部屋の一隅をじっと見まもっていた。
明くる日、彼が母親から聞いたのは、「八重のことはお
国からも急がれていたし、こういういきさつがあっては奉公しにくいからと八重はそういって、間もなく暇を取り、川越在にある自分の家へと帰っていった。······新五兵衛も平三郎も、それきり八重のことは口にしなかったが、なお女は可愛がっていた者だけに時どき思いだしては憎がった。たしかになお女は、八重を愛していた、針の持ち方、行儀作法はいうまでもないが、髪かたちから着付けの端まで自分で面倒をみた。読み書きも教えてみると筋がよいので、召使には不似合なところまで導いてやった。それほどにしてやったのにああした去り方をしたことが、事情はわかっていながらなにか裏切られたような気持がしてならないのである、しかし、そう憎がりながら、一方ではまた結果のこうなったことをよろこんでいる風もあった。
「なんといっても、召使を妻に入れては世間が済みませんからね、不幸が幸いになったようなものですよ」
「それなら、八重は褒めてやるがいい」
「それとこれとは、別でございますわ」
「おまえのいうことは、矛盾しているよ」
父と母との問答を聞きながら、平三郎は惘然と自分の右手の小指を見まもっていた。
芝方のほうは、格別むずかしくはならずに済んだ。非常に惜しがられたし、事情によっては少し待ってもよいからといわれたくらいである。両親には未練があったが、平三郎が承知しなかったので、結局は破約ということにきまった······。それからの日々、なお女が八重に代ろうというのを「これを機会に自分でやりますから」といって、彼は身のまわりの事すべてを独りでやりだした。長いあいだ人まかせにしていたし、性分というものがすぐ直るものでもないので、気持の張っているうちはよかったが、少し経つとまた「袴」のようなことがしばしば起った。そういうとき彼の面にうかぶ苦笑ほど寂しげなものはなかった。
||八重、またやったよ。
心のなかでそう呟きながら、彼はよく手を止めてぼんやり
という八重の顔がふと眼にうかぶ、そこで彼はこう呟く、
||おまえ、心配じゃないのか。
こうして日が過ぎ月が去った。明くる年の秋に、鹿島主税が別の縁談をもって来た。平三郎は笑っているだけだった。それまで息子のようすをそれとなく注意していたなお女は、その笑顔を見て堪らなくなったとみえ、「まだ忘れることができないのか」と訊ねた。彼はけげんそうに母を見やった。「あれのことですよ」なお女はいいにくそうにいった、「······八重のことをまだ考えておいでなんですか」「ああ八重ですか」平三郎はすなおに頷いた、「······あのときは困りました、約束の者があるなんて考えもしませんでしたからね」
なお女には彼の心を占めているものが八重その者であるか、それともあの時の不幸な「条件」であるか
翌々年の秋の末、新五兵衛がとつぜん
「そうですね」平三郎もすなおに頷いた、「······適当な者があったら貰ってもいいですね」
「本当にそう思ってお呉れですか」
「ええ本当です、但し私はもう見にゆくのはいやですよ」彼は笑いながらいった、「······母上にお任せ致しますから、お気にいった者を貰ってください、こんどは変なことのないようにしたいですからね」
久方ぶりで、なお女も明るくなった。
こっちから捜すとなると、さて良縁と思うものはなかなか無かった。平三郎の年が年だし、長いこと縁談を断わり続けて来たので、頼むにも色いろ差障りがあったから、······それでもその年の秋、亡き新五兵衛の七年忌ま近になって、やや似合と思える相手が二三みつかった。
「七年忌の
なお女はそういって、楽しげに候補者をあれかこれかと選び悩んでいるようすだった。
法要は、川越にある
家は、すぐにわかった。そこは三十軒ほどの部落の端にある、北側に
「いいえ、八重はまだ家におります」といった。「お屋敷から下りました当時、ずいぶん縁談もあったのですが、どうしても嫁ぐと申しませんで、とうとう
「でもあのとき約束した人があると聞きましたがね、あれは破談にでもなったのですか」
「約束した者······」吾八は
「だって八重が暇を取るとき」そういいかけて、なお女の顔に激しい動揺の色が現われた、そして改めて吾八を見た、「······八重はいま此処にいますか」
「はい、隠居所におります」吾八はいくらか自慢げにそういった、「······あれから間もなく村の娘たちに読み書きや縫い物などを教えるようになりまして、まあ申してみれば寺小屋のまねごとのようなものを好きでやっております、これもお屋敷で御奉公したおかげでございますが」
「いまいるのですね」なお
「私が御案内を致しましょう」
「いいえ独りでいきましょう、どこですか」
「その横を右へおいでになると、すぐこの西側でございますが」
なお女はもう歩きだしていた。家の前を西へまわり、桑畑の畔を横へぬけると、若杉の袖垣の向うにその一棟があった。······なお女は縁先へ歩み寄った、まだ朝のことで、稽古に来ている者もなく、八重が独り、部屋の一隅で炉の火を
「······まあ」八重は縁先に近づいた人のけはいにふと眼をあげ、それがなお女だと知ると、よろこびの声をあげた。
「まあ奥さま」
そして縁先へ走り出て来たが、なお女の強く覓める双眸に気づくと、打たれでもしたようにはっと息をひき、額のあたりを蒼くした。······なお女はなにも云わずに暫くそのようすを見まもっていた。それから八重が崩れるようにそこへ坐り、両手をついて深くうなだれると、まるで惹きつけられるように縁の上へあがった。そして、八重の膝へつきかけるほども近ぢかと坐りながら、「八重」と呼びかけた。
「おまえ、なぜ······あのときどうして約束した者があるなどとおいいだった。聞かせてお呉れ、おまえは平三郎が嫌いだったの」
「もったいない」八重は激しく頭を振った。「······もったいないことを仰しゃいます」
「ではなぜあんな偽りを云ったの、平三郎は縁談を断わってまで、おまえを望んだではないの、わたくし達が承知することもわかっていた筈ではないの、······あの子はまだ独り身でいるのですよ」
「申しわけございません奥さま」八重はひたと両手で
なお女はじっと八重の
「若旦那さまのお心も······」と、八重は
「では、おまえも平三郎は嫌いではなかったのね、少しは好いておいでだったのね」
「······奥さま」
八重は耐え兼ねたように、声をあげて泣き伏した。······なお女は手を伸ばして八重の肩を押えた。
「八重、······おまえさぞ、苦しかったろうね」
そして、自分も片手で面を
その年の霜月の中旬に、平三郎は妻を娶った。同藩の田辺重左衛門の三女で、名は「八重」といった。彼は母親からそう告げられたときも、祝言をしてからも、格別なにも気づかなかったようだ。そして二十日ほど経ったある朝のこと、出仕の支度をしていたとき、脱ぎすてた衣服を畳んでいる妻の手許を見て、なにかひどく
なお女は彼のために、出仕まえの茶を
「······八重はあの八重だったのですね」