「
うしろからそう呼んで来るのを聞いてお
「見せてお呉れ」
とよびとめた。籠の中にはつぶの
「五十ばかり貰いましょう」
そう云ってから
「あの店で容れ物を求めますからいっしょに来てお呉れな」
「近くならお宅まで持ってゆきますよ」
少年は
新らしい目笊へ鰍を入れて帰るみちみち、お高はなんと云いようもなく仕合せで心ゆたかに浮き浮きしてくるのを抑えきれなかった。どうしてこんなに嬉しいのかしら、なぜこんなに心がはずむのかしら、なんどもそう自分に問いかけてみた。会所では褒めて頂いたし、久しぶりで父上のご好物の鰍があったし、空はこのように春めいて浅みどりに晴れあがっているし、それでこんなにたのしい気持になるのだろうか。そんな理由を色いろ集めてみたくなるほどだった。そして通りすがりの人の眼にも浮き浮きしてみえるのではないか、そう考えると恥ずかしくて顔が赤くなるようにさえ思った。······父は
「僅かなあいだにたいそう上手になられたな、こなたの糸は問屋でも評判になっているそうだ、ひとつには孝行の徳かも知れぬが」
少しでもよい仕事をしようとつとめている者にとって、その仕事を褒められるほど嬉しいことはない、殊にそれがあたりまえの内職ではなく、藩にとってたいせつな産物になるのだから、その意味でもお高のよろこびは大きかった。······もっともっとよい糸を繰ろう、そう思いながら帰る途中で鰍が買えた。卒中をわずらってからいちどやめたが、医者のすすめで三日にいちど五勺ずつ飲むようになった父の酒には、なにより好物の
「ただ今もどりました」
とっつきの二
「帰りに鰍を売っておりましたので少し求めてまいりました」
挨拶をするとすぐそう云って父に見せた、
「ごらん下さいまし、まだこんなに生きております」
「ほうこれは珍らしいみごとなものだな、もうこんなに鰍の
啓七郎は少しふるえのある手をさしのべて、目笊の中の魚を好ましそうにつついてみた。
「ずいぶん数があるではないか、まだ高価であろうに」
「いいえそれほどでもございませんでした、今晩のお酒に甘露煮と
「こんな心配ばかりさせて、どうも······」
「さあ早くおしたく致しましょう」と
父の口ぶりや態度がいつもとは違っている、お高はそれを感ずると同時に、弟のようすもふだんとはまるで変っていたことに気づいた。どうしたのだろう、なにか留守に悪いことでもあったのかしら、お高はにわかに不安になった、そしてそれをうち消したいために弟を呼んでみた、
「松之助さん来てごらんなさい、みごとな生きた鰍ですよ」
然し松之助の返辞はつきはなすようなものだった、
「いま勉強していますからあとで」
それだけだった。お高はつい今しがたまでの浮き浮きした気持が、かなしいほど重たく沈んでゆくのを感じながら、
夕食のあと片づけを済ませてから、お高が糸繰りの仕事をひろげると間もなく父に呼ばれた。
「少し肩を
父は床の上に起きなおってこちらへ背を向けていた。脇に置いてある行燈の光が、
「お寒くはございませんですか」
「まだ酒がきいているとみえてほかほかといい心もちだ、力をいれなくともよい、そうやって撫でていて呉れればよいから」
「はい、このくらいでございますね」
お高は父の背から肩へかけてしずかに撫ではじめた。松之助は少しまえに寝てしまい、ひっそりと静かになった組長屋のかなたから、なにか祝い事でもあるのだろう、
「おまえあした、松本へゆくのだがな」
父がふと思いだしたようにこう云った、
「松本ではお
「父上さま」
お高は思わずそう云った、
「手をやすめては困るな」
父は笑いながら肩を揺りあげた、どうにもかたい笑いだった、
「ご病気ということだし、せめて四五日、ながい滞在ではないのだから、こんどはおとなしくいってくるがいい、留守のことはもう石原のご内儀に頼んであるから」
少しはおまえの骨やすめにもなるであろう、そう云う父の言葉を聞きながら、お高は弟のつきはなすようなさっきの返辞を思いだしていた。やっぱりそういうことがあったのだ、松之助はそれを聞いて、幼ない頭でどれほどか悲しがったに違いない、お高はそう思いやるとするどく胸が痛みだした。
お高には実の親があった。信濃のくに松本藩に仕えて西村
「お梶どののご病気は、かなり重いようすなのだ」
と、父は暫くして言葉を継いだ、
「ひとめ会いたいという気持もおいたわしいし、おまえも実の子としていちどぐらいはご看病がしたいだろうと思う、意地を張らずにいって来るがよい、ほんの僅かな日数のことだから」
お高は殆んど聞きとれぬほどのこえで「はい」と答えた。そこまでことをわけて云われるのをむげにもできなかったし、重い病に
同じ組長屋でもごく近しくしている石原という家の妻女にあとの事をこまごまと頼んで、その明くる朝はやく、松本から迎えに来たという下婢と老僕にみちびかれながら、あとにもゆくさきにもおちつかぬ気持でお高は松代を立った。季節はすっかり春めいていた。遠いかなたの山なみにはまだ雪がみえるけれど、うちひらけた丘や野づらはやわらかな土の膚をぬくぬくと日に暖められ、
西村の家は
「まあまあ遠いところをようおいでになった、お疲れだったろうね、今すぐすすぎをとりますよ」
心もここにないというようすで、お高にはものを云う隙も与えず、手をとらぬばかりにして奥へ導いていった。お高は初め茫然としたが、これがお梶という方だと思い、ご病気だというのが
どんなたいせつな客ででもあるかのように、梶
「お好みがわからないものだから年ごろをたよりにわたしが選んだのだけれど」
梶女は着付けをたすけながらそう云った、
「どうやらあなたには少しじみすぎるようですね、あちらの小紋のほうがよかったかもしれない、でも今日はこれにしておきましょう」
独り言のようにそんなことを云いながら、撫でまわすような眼でお高の姿をと見こう見して飽きなかった。お高はやはり黙ってされるとおりになっていた、問いかけられると「ええ」とか「はい」とか答えるが、自分のほうからはなにも云わず、梶女のどこかしら熱をもったようなまなざしにも、できるだけ気づかぬ風を装っていた。
西村の父や兄弟たちは夕食のときひきあわせられた。父は思いのほか若かった。いちばん上の兄は結婚してもう男の子があり、二兄はまもなく分家するとか、むっつりしている三兄は顔もよく見なかったし、四番めの兄は江戸詰めで留守、弟はまだ前髪だちで名を
切り
明くる朝、起きてきたお高の眼がいたいたしいほど赤く
「どうおしだ」
と訊ねた。お高はさびしげに頬笑んだ、
「寝つかれたのでございましょう、少しやすみすごしましたから」
「それならいいけれど······」
梶女はたしかめるようにこちらを見ていたが、すぐ思いかえしたようすで、今日は
「ここから一里あまり山のほうへいったところで、湯もきれいだし美しい眺めもあり、疲れたときなどにはよい保養になります」
「有難うございますけれど」
お高は眼を伏せながらそっとこう云った、
「わたくし、今日はできますことなら
「ああそれなら山辺へゆく途中ですよ、少しまわりみちをするだけですから
「いいえ」
お高はかぶりを振った、
「わたくし今日はおまいりだけに致しとうございます、初めてのことでございますから」
初めて祖先の墓へまいるのに遊山を兼ねるのは不作法だと思う、そういう意がはっきり表われていた。梶女はさすがにおもはゆそうだった。
「それなら山辺は明日のことにしましょう」
こう云ってその日は墓参ということにきめた。
菩提寺から帰るみちで、お高は自分の生れた家が見たいと云った。梶女はすすまないようすだったが、いっしょにいった弟の保之丞がさきに立って案内した。
「私はこの家に五つまでいたのですよ」
保之丞はそう云ってなんの屈託もなく笑った。
「あの窓の下の地面に
そんなことを興ありげに云った。お高はふと、この弟もいまの屋敷よりはこの貧しい家のほうに心ひかれているのではないか、そんなことを考えながら間もなく
翌日は梶女につれられて山辺の温泉へいった。それは城からひがし北に当る山ふところにあり、清らかな流れと、
「依田どのからあなたにあてた手紙です、とにかくこれを読んでごらんなさい」
こう云ってそれをわたした。うけとってみると正しく依田の父から彼女にあてたものだった。||こんど松本へおまえを帰すに当っては色いろ考えたが、西村からこれまでの養育料としてかなり多額なだいもつを呉れるはなしがあり、それだけあれば自分は田地でも買って、松之助とふたり安穏にくらしてゆけるし、おまえも西村のむすめとして仕合せな生涯にはいれるであろう、自分のためにもおまえのためにもこうするのがいちばんよいと思う、じかにこのゆくたてを話したうえ、こころよく別れを惜しみたかったが、顔をみていてはおまえの気持がきまるまいと考え、むじひなようだがいつわりを云って立たせた、どうかこんどはわがままを云わずに承知してもらいたい、西村へいったら両親に孝行をつくすよう、兄弟と仲よう仕合せなゆくすえを祈っている。そういう意味のことが、依田の父らしく篤実な筆つきで書いてあった。
「よくわかったでしょう」
梶女はお高の読み終るのを待ってしみじみとこう云った。
「いまになっておまえをとり戻そうというのは勝手かもしれない、けれど父上やこの母の気持も察してお呉れ、おまえの生れたじぶんは父上のご身分も軽く、子供を多くかかえて、恥ずかしいはなしだけれどその日のものにもさしつかえるようなことさえある、貧しく苦しい暮しでした。人の親として、乳ばなれしたばかりの子をよそへ遣らなければならない、それがどんなに辛い悲しいことか、やがておまえが子をもったらわかって呉れることでしょう、身を切られるようなと云う、そんな言葉では云いあらわせない、辛い悲しいおもいでした」
「それほどのおもいをしても、おまえを遣らなければならなかった、もう耐えきれない、一家が飢え死をしてもいいからとり戻しにゆこう、なんどそう思ったかしれません、暑さ寒さ、朝に晩に、泣いていはしないか病気ではないかと、心にかからぬときはありませんでしたよ」
梶女は袖口で眼を押えながら暫く声をとぎらせていた、
「父上のご運がひらけて、どうやら不自由のない明け
「おぼしめしはよくわかりました、ほんとうに有難う存じますけれど、わたくしやはり松代へ帰らせて頂きます」
抑揚のない声でそう云った。梶女の頬のあたりが
「でも依田どのとはもうはなしがついているのです、どちらのためにもこれがいちばんよいと依田どのも云っておいでなのですよ」
「それをご本心だとおぼしめしますか」
お高はそっとかぶりを振り梶女の眼を見あげた、
「依田の父がそう
お高はそう云いながら、松本へゆけと云われた夜のことを思いうかべた。あのとき依田の父はこちらへ背を向けて、お高に肩を
「依田の家は貧しゅうございます、わたくしが糸繰りをしてかつかつの暮しをたてているのもほんとうです、けれどもそれはあなたがお考えなさるほどの苦労ではございません、こう申上げては言葉がすぎるかもしれませんけれど、こんどのことさえなければ、わたくし仕合せ者だとさえ思っておりました、依田の父はもったいないくらいよい父でございます、弟もしん身によくなついていて母のようにたよっていて呉れます、わたくしにはあの家を忘れることはできません、いまになって父や弟と別れることはわたくしにはできません」
「それだけの深いおもいやりを、わたしたちにはしてお呉れでないの」
梶女はすがりつくような口ぶりでこう云った、
「ここをおまえのお部屋にと思って、襖を張りかえたり、調度を飾ったり、新らしく窓を切ったりした、着物や帯を織らせたり染めさせたりして、こんどこそ親子きょうだい揃って暮せるとたのしみにしていた、これでこそ父上もご出世の
それは哀願ともいうべき響きをもっていた。心をひき裂かれるようなおもいで、これが親の愛情だと思いつつお高は聞いた。子のためには、子を愛する情のためにはなにも押し切ろうとする、それが親というものの心であろう、かなしいほどまっすぐな愛、お高はよろよろとなり、母の温かい愛のなかへ崩れかかりそうになった。自分のために模様がえをしたというその部屋、新らしい調度や衣装、どの一つにもまことの親の温かい愛情がこもっている。その一つ一つが手をひろげて迎えているのだ。けれども、お高はけんめいに崩れかかる心を支えた、自分はその愛を受けてはならない、依田の家を出てその愛を受けることは人の道にはずれるのだ。こう自分を叱りつけながら、お高はやはり松代へ帰ると繰返した、
「みなさまのお仕合せなごようすも拝見しました、もう一生おめにかかれなくともこころ残りはございません、どうぞお高はこの世にない者だとおぼしめして、これかぎり忘れて頂きとうございます」
梶女はしずかに立っていった。すぐに弟の保之丞が来、あとから金太夫と長兄とが来た、みんな言葉をつくしてここにとどまるようにとくどいた。お高はもうなにも答えなかった。喪心したように眼をつむり、肩つきの堅い姿勢でしんと坐っていた。それはまさしく問罪のように苦しい瞬間であった。
明くる朝まだほの暗いうちにお高は松本を立った。来るときの老僕と下婢が供について、梶女と保之丞とが城下から一里あまりの中原という
道をいそいだので松代へは三日めの
「ただいま戻りました」
お高は簡単にそう挨拶をすると、すぐ裏へまわって自分のすすぎをし、供の二人にもあがってひと晩泊ってゆくようにと云った。然しかれらは玄関で西村からの口上を述べ、手みやげなどを置いてあがらずにたち去った。
「どういうわけで帰った」
さし向いになって坐ると、啓七郎は煎じていた薬湯を湯のみにつぎながらそう云った、
「持たせてやった手紙は読まなかったのか」
「拝見いたしました」
「それなら事情はわかっているはずだ、おれも安穏な余生がおくれるし、おまえの一生も仕合せになる、そう考えてしたことなのに、眼さきの情に
「おゆるし下さいまし、父上さま」
お高はひしと父を見あげ、そこへ手をついた、
「わたくしもっと働きます、お薬にもご不自由はかけません、お好きなものはどんなにしても調えます、もっとお身まわりもきれいにして、お住みごこちのよいように致します、ですからどうぞお高をこの家に置いて下さいまし」
「おまえにはおれの気持がわからないのか、おれがそんなことを不足に思っているようにみえるか、おれがおまえを西村へかえす決心をしたのは」
「わかっております、わたくしにはわかっておりますの、父上さま」
お高は父にそのあとを続けさせまいとしてさえぎった、
「わかっておりますけれど、お高はいちどよそへ遣られた子でございます、乳ばなれをしたばかりで、母のふところからよそへ遣られたお高を、父上さまは
「だが西村はおまえにとって実の親だ、西村へもどればおまえは仕合せになれるのだ」
「いいえ仕合せとは親と子がそろって、たとえ貧しくて一椀の
「父上」
と、叫びながら松之助が
「どうぞ姉上を家に置いてあげて下さい、父上、こんなに仰しゃっているのですもの、どうかよそへは遣らないで下さい、おねがいです」
啓七郎は眼をつむり、
「······では家にいるがよい」
啓七郎がやがて
「西村どのへは父から手紙を書く、もう松本へは遣らぬから」
松之助は姉の膝へとびつき、涙に濡れた頬をすりつけながら声をあげて泣きだすのだった。
爽やかな朝の日光が、明り障子いっぱいにさしつけている、いかにも春らしく、心を温められるような明るさだ。お高の繰る糸車の音が、ぶんぶんと、そのうららかな朝の空気をふるわせて聞えてくる、
「おまえ成人したら姉上をずいぶん仕合せにしてあげなければいけないぞ」
と、松之助に云うのだった。
「大きくなればわかるだろうが、姉上はこの父やおまえのためにせっかく仕合せになれる運を捨てて呉れたのだ、自分のためではない、父とおまえのためにだ、······忘れては済まないぞ」
松之助は父の眼を見あげて、少年らしくはっきりと