その日は事が多かった。||午前十時ごろに北の病棟で老人が死に、それからまもなく、重傷を負った女人夫が担ぎこまれた。保本登は老人の死にも立会い、女人夫の傷の
狂女の出来事のあとでも、登の態度は変らなかった。どうしても見習医になる気持はなかったし、まだその施療所から出るつもりで、父に手紙をやったりした。けれども、心の奥のほうでは変化が起こっていたらしい。彼は
これらのことはあとでわかったので、そのときはまだ気がつかなかった。そんな狂女との恥ずかしい出来事にぶっつかったのも、自分を施療所などへ押込めた人たちの責任で、こっちの知ったことではない。要するにここから出してくれさえすればいいのだ、というふうに、心の中で居直っていた。||新出去定は相変らずにみえた。実際は登の心の底をみぬいて、辛抱づよく時機の来るのを待っていたのかもしれない。そう思い当るふしもあるが、表面は少しも変らず、登には話しかけることもなかった。
四月はじめのその朝、去定は彼を北の病棟へ呼びつけた。呼びに来たのは森半太夫だったが、登はすぐには立たなかった。
「もういちど云いますが北の一番です、すぐにいって下さい」
「命令ですか」
「新出さんが呼んでいるんです」と半太夫は冷たい調子で云った、「いやですか」
登はしぶしぶ立ちあがった。
「上衣を着たらいいでしょう」と半太夫ががまん強く云った、「着物がよごれますよ」
だが登はそのまま出ていった。
北の病棟の一番は重症者の部屋で、去定が病人の枕元に坐っており、登がはいってゆくと、見向きもせずに手で招き、そして、診察してみろと云った。部屋の中には不快な臭気がこもっていた。
「あと
そして彼は、病人の鼻の両側にあらわれている、紫色の斑点を指さした。
「これが病歴だ」と云って、去定は一枚の紙を渡した、「これを読んだうえで病気の診断をしてみろ」
登は受取って読んだ。
病人の名は六助、年は五十二歳。入所してから五十二日になる。初めは全身の衰弱と軽い腹痛を訴えるだけだったが、二十日ほど経ってから痛みの増大と
「違う、そうではない」と去定は首を振った、「これはおまえの筆記に書いてある病例の中の珍らしい一例だ、
登はそれを読んでから、べつの病名を云った。
「これは
「すると、治療法はないのですね」
「ない」と去定は
登はゆっくり去定を見た。
「医術がもっと進めば変ってくるかもしれない、だがそれでも、その個躰のもっている生命力を
去定は自嘲とかなしみを表白するように、
それは政治の問題ではないかと、登は心の中で思った。すると、まるで登がそう云うのを聞きでもしたように、去定は乱暴な口ぶりで云った。
「それは政治の問題だと云うだろう、誰でもそう云って済ましている、だがこれまでかつて政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままにして置いてはならない、という
去定はそこでぐっと唇をひき緊めた。自分の声が
「しかし先生」と彼は反問した、「この施薬院······養生所という設備は、そのために幕府の費用で設けられたものではありませんか」
去定は一方の肩をゆりあげた。
「養生所か」と去定は云った、その顔にはまた嘲笑とかなしみの色があらわれた、「ここにいてみればわかるだろう、ここで行われる施薬や施療もないよりはあったほうがいい、しかし問題はもっとまえにある、貧困と無知さえなんとかできれば、病気の大半は起こらずに済むんだ」
そのとき森半太夫が来て、いまけが人が担ぎこまれた、ということを告げた。
「若い女の人夫です、普請場でまちがいがあって、腰と腹に大きなけがをしています」と半太夫が云った、「牧野さんが診たんですが、自分だけでは手に負えないから、先生に来ていただきたいと云うんですが」
去定は疲れたような顔になった。牧野
「よし」と去定は云った、「いまゆくから、できるだけ手当てしておくように云ってくれ」
半太夫はすぐに去った。去定は病人の顔をじっと見まもっていて、それから眼をつむり、そっと頭を垂れた。低頭したようでもあるし、単にちょっと
「この六助は
去定は
そして去定は立ちあがり、森をよこすから臨終をみとってやれと云った。
「人間の一生で、臨終ほど荘厳なものはない、それをよく見ておけ」
登は黙って坐る位置を変えた。
彼は初めて病人の顔をつくづくと見た。それは醜悪なものであった。すでに死相があらわれているし、
「赤髯があんなに
病人の呼吸は短く切迫していて、ときどきかすかに
「醜悪というだけだ」と彼は口の中で云った、「||荘厳なものか、死は醜悪だ」
やがて森半太夫が来た。たぶんその老人の使っていたものだろう、飯茶碗と、
「ここは私がやります、新出先生のところへいって下さい」
登は半太夫を見た。
「表の三番です」と半太夫はやはりよそを見たままで云った、「傷の縫合をするそうですから、いそいでいって下さい」
登はそのとき、赤髯は夜も日もなく人をこき使う、と云った津川玄三の言葉を思いだし、どこかで玄三が皮肉な眼くばせをしているように感じられた。
表というのは、かよい療治に来る者たちを診察するところで、その三番は外科の専用になっていた。登がはいっていって、まず眼についたのは白い裸の肉躰であった。そこは八帖ばかりの広さで、光るほど拭きこんだ板敷の上に
二十四五歳と思えるその女の躯は、肉付きがよく、陽にやけた逞しい手足のほかは、おどろくほど白くなめらかで、美しくさえあった。豊かに張った双の
「足を押えろ」と去定が云った、「薬を与えてあるが暴れるかもしれない、はねとばされないように気をつけろ」
そのとき気がついたのだが、女の両手は左右にひろげられ、手首のところを縛った
「眼をそらすな」と去定が云った、「縫合のしかたをよく見るんだ」
そして、腹の一部を掩っていた、晒木綿の布を取りのけた。右手に持った針は尖端が少し
失神していたのはごく短い時間で、誰かに頬を叩かれると、すぐわれに返った。自分ではながいこと気を失っていたような感じだったが、われに返ってみると、そこはやはり表の三番で、自分は牧野昌朔に抱えられていた。頬を叩いたのは牧野であろう、向うに去定がおり、苦りきった顔つきで、部屋へ帰っていろ、と云った。||登は眼をそらしたまま立ちあがった。そこにある女の躯を見れば、また失神しそうだったし、たとえ意地にもせよ、そこにいるだけの勇気はなかった。
登は自分の部屋で寝ころがった。思いだすと嘔吐を催しそうになるので、なるべくほかのことを考えようとした。けれども、狂女おゆみの出来事に続く今日の失敗は、救いようのない屈辱感で彼自身を圧倒し、うちのめした。
「なんというだらしのないざまだ」登は寝ころんだまま腕で顔を掩った、「それでも長崎で修業して来たなどといえるのか」
彼は狂女の付添いのお杉に向かって、自分が蘭方を本式に学んで来たとか、去定などの知らない治療法を知っているなどと、いい気になって自慢したことを思いだし、ぞっとして、頭を振りながら呻き声をあげた。
登は
森半太夫が部屋を
「たべておくほうがいいんですがね」と半太夫は云った、「午後から新出先生が外診に伴れてゆくと云っておられましたよ」
「外診ですって」
「治療にまわることです」と半太夫が云った、「ことによると帰りは夜になりますよ」
登は黙った。
「六助という老人は死にました」と半太夫は云い障子を閉めて去った。
赤髯の外診には二つあった。一は招かれたもので、諸侯や富豪の患家が多く、他の一は貧しい人たちの施療であった。||俗に施薬院ともいわれた「小石川養生所」は、もとより貧しい病人を無料で診察し治療するのが目的であって、病状その他の事情によっては、かよいでなく、入所して治療を受けられることもすでに記したとおりである。それにもかかわらず、そういう施療を受けることを嫌って、町内の者や家主などがすすめても、どうしても養生所へ来ようとしない者が少なくなかった。赤髯はそういう人たちを訪ねて、うむを云わさず診察し、治療してまわるのであるが、しかも、かれらから感謝されたり、好意をもたれたりすることは少ない、という話を、登はしばしば耳にしていた。
「よろこばれない施療のお供か」と登はくたびれたようにつぶやいた、「しかしあんな失敗のあとでは、断わるわけにもいかないだろう、もちろん断わって承知する赤髯でもないだろうが」
午飯から半刻ほど経って、半太夫がまた知らせに来、登は去定の供をしてでかけた。
去定は登の着替えたのが平服であって、やはり規定の服装をしていないのを見たが、ちょっと見ただけで、ふきげんな顔はしたが、なにも云わなかった。||供は登だけでなく、
養生所を出て四半刻あまり、伝通院の裏へ近づいたとき、かれらはうしろから呼びとめられた。五十歳くらいの男で、こちらへ走って来、去定に向かって、気ぜわしくおじぎをしながら、いま養生所へ訪ねてゆこうとしていたところだ、と云った。
「六助なら死んだぞ」と去定が云った。
男は「はあ」とあいまいな声をだした。
「
「へえ、それがその、なんです」と男はへどもどし、睡をのんだ、「ちょっとこみいっていまして、あの年寄の娘というのがわかったのですが、子供が病気でして、家主の藤助というのが伴れて来たんですが、母親がいまとんだことになっておりまして」
「話がわからない、要するにどういうことだ」
「その」と男は去定の顔色をうかがうように見た、「まことにあれですが、ちょっとてまえどもまで、お越し願えませんでしょうか」
「おれは中富坂までゆかなければならない、重い病人があるのだ」と云って、去定はふと登に振向いた、「保本、おまえこの
登は竹造を見た。吃竹は上わ眼づかいをしながら首を振った。しようがないでしょうな、という意味らしく、去定は彼を伴れて去っていった。
柏屋というのは、
「まったく話というものをしない人で」と金兵衛は登に云った、「二十年ちかくもお宿をしていて、おかみさんや子供があるかないかさえわからなかったんですからな、養生所へ入れて頂くときにもなんにもわからないので、私どもはずいぶん閉口いたしました」
柏屋には四人の子供が待っていた。
その子供たちは、六助の娘の子だそうで、十一になるともという長女が、高熱をだして寝かされていた。その下が助三という八歳の長男、次が六歳のおとみ、三歳の又次という順であるが、みんな継ぎはぎだらけのひどい
登はともの診察をしながら、金兵衛の話を聞いた。ともは風邪をこじらせたらしい、熱が高く、ときどき咳が出るほかには、これというほどの病兆はみられなかった。ただ、いかにも栄養が悪く、||これは弟や妹も同様であるが、このままでゆくと
「ごみは窪地に溜るとはよく云ったものですな」と金兵衛は溜息をついた、「もう何年もこっち、しょうばいが左前で、
「話のあとを聞こう」と登は云った。
金兵衛は話に戻って、続けた。
それはまさにこみいった話であった。六助には妻子も身寄りもない、と信じていたのであるが、その朝早く、一人の老人がその四人きょうだいを伴れて来て、「六助の孫である」と云った。金兵衛はすぐには信じられなかったが、ともかく老人の話すのを聞いた。||老人は京橋小田原町五郎兵衛
きちんとしたことの好きな性分なのだろう、彼の差配している長屋に、富三郎という男の一家が越して来たのは、まる五年と三
富三郎は
||おやじはしこたま溜めこんでるんだ、てめえは一人娘じゃねえか。
||てめえのおやじは血も涙もねえ畜生だ、一人娘や孫が食うにも困っているのに、知らん顔で自分だけ好きなことをしていやあがる、あいつは人間じゃあねえ。
おくには返辞をしない。殴られても蹴られても黙っていて、泣く声さえもらさず、亭主の怒りのおさまるまでじっと辛抱している、というぐあいであった。その「おやじ」というのがなに者であるか、どういう事情があるのか、長屋の人たちはもちろん、差配の松蔵にもわからなかった。松蔵はいちどおくにを呼んで訊いてみた。それは一昨年の十月九日のことだった、と松蔵は云ったそうであるが、おくには口を濁して、はっきりしたことは語らなかった。
||父はいるが、わけがあって義絶同様になっている、どうしてもこっちから会いにゆくことはできない。
そう云うだけであった。
富三郎には悪いなかまができ、ぐれ始めて、仕事などまったくしなくなったし、三日、五日と家をあけるようなことが続いた。このあいだに又次が生れたので、生活はますます苦しくなった。すると七日まえ、夜の十時ころのことだったが、おくにが差配の家へ訪ねて来た。松蔵は寝ていたが、ぜひ話したいことがあるというので、おくにを入れ、話を聞いた。
||このあいだの
とおくにがまず訊いた。
それは盗賊を
||なにか思い当ることでもあるのか。
松蔵はそう問い返した。
おくには
||もし銀二十五枚が貰えるなら、窮迫した家計も凌ぎがつくし、富三郎のためにもいいと思う、このままでいったら悪事が重なって、やがては島流しか、獄門に
だから鬼になったつもりで、訴人しようと考えたのだがどうだろうか、という話であった。
松蔵はむろんそれがよかろうと答え、すぐにおくにといってその仏像を見、まさにそれと思われるので、持ち帰って自分が預かった。それから町役とも話したうえ、その仏像を持っておくにに駆込み訴えをさせた。町役や家主などの同伴でなく、自分の意志で訴え出た、ということにしたのである。松蔵は町役と打合せをし、町奉行から呼び出されたらこれこれと、おくにの利分になるように申立てるつもりであった。
呼び出しはすぐにあった。松蔵は町役といっしょに出頭し、自分たちはなにも知らぬこと、おくには貧しい中でよく働き、四人の子供を怠りなく養育していること、亭主の富三郎がやくざ者で、一家の生計はおくに一人で立てていること、などを申立てた。
「するとお奉行所では」と金兵衛が続けた、「今月は北のお係りで、島田
登は不審そうに金兵衛を見た。
「ええ」と金兵衛は登に向かって頷いた、「不届きであるって」と彼は力をこめて云った、「||よしんば盗みをはたらいたにもせよ、恩賞をめあてに、妻が
意外な結果なので、松蔵たちは言葉もなかったが、
||小石川の伝通院裏になぎ町という
そういう伝言であった。
「それでその、松蔵という差配は帰っちまいました、ええ」と金兵衛は云った、「私は六助さんのことを話し、いま養生所にはいっているような始末だからと云ったんですが、自分のほうではもうするだけのことをしたし、本人のおくにが望むのだから、子供たちのことはその人に任せる、というわけです、私にどうしようがありますか、おまけにこの子はひどい熱をだしている、しようがあるもんですか、かかあが文句を云うのを叱りつけてこの子を寝かし、とにかく新出先生に診ていただいたうえ、お知恵を借りようと思ってでかけたというわけなんです」
金兵衛の子供の一人が、晩飯の支度をどうするかと、「かあちゃんが訊いている」と伝えに来た。金兵衛は溜息をつき、
「どうしてこう厄介な事ばかり背負いこむのかわかりません」と金兵衛はなげいた、「いつか易者が十日ばかり泊りまして、その易者が云うのには、この家は
半刻あまり経って去定が来た。
彼がともを診察し始めるとすぐに、登は金兵衛から聞いた話を伝えた。去定は黙って診察を終り、金兵衛の持って来た茶を
「すると、なんですかな、その」金兵衛は当惑したように云った、「私どもでこの子供たちの面倒をみる、というわけですかな」
「どうなるかわからぬ」と去定が云った、「町奉行へいって話してみるが、小田原町の長屋で引取ればよし、さもなければ住居のきまるまで、ここで面倒をみることになるかもしれぬ、不承知か」
「その」金兵衛は音をさせて唾をのんだ、「いまもこちらの先生に話したところなんですが、私どもはしょうばいもずっと左前、一家の暮しもかつかつのところへ、絶えずこういう厄介を背負いこむので」
「六助は金を残していった」と去定が
「それはその、なんです、へえ」と云って金兵衛は急に顔をあげた、「その、六助さんが金を残していった、と仰しゃるんですか」
「そうでなくともおまえに損はさせない」と去定は云った、「しかし不承知なら子供はほかへ預ける」
金兵衛は面倒をみると答えた。
「亭主のほうはどうした」と去定が訊いた、「その富三郎とかいう男だ、まだ
「さあて、どういうことでしたかな、お縄になったと聞いたように思いますが、まだお縄にはならないということだったかもしれません、つまりこっちはそれどころではなかったわけでして」
去定は子供たちのほうを見、一人ずつ名と年を訊いた。哀れさといじらしさとで、かれらをまともに見られないらしい。子供たちはまた容貌いかめしい髯だらけの去定に怖れたようで、幼ない三人は固く身を寄せあったまま、満足には返辞もできなかった。
「大丈夫だ、心配するな」と去定は怒っているような声で云った、「おっ
気分をほぐすために云ったらしいが、唐突でもあるしまのぬけた質問である。子供たちは口をつぐんだまま去定を眺めており、去定はその問いのまぬけさかげんに自分ではらを立てたのだろう、心配するなおっ母さんはすぐに帰るぞと云って、顔を赤くしながら立ちあがった。
竹造を養生所へ帰らせた去定は、登を伴れて伝通院の前まで歩き、そこで
「なにを始めるんだ」と駕籠の中で登はつぶやいた、「いったいどうするつもりなんだ」
小伝馬町の牢屋へ着くと、去定は奉行に面会を求めた。ここでもよく知られているようすで、取次の者も極めて
「その女の診察をしたい」と去定は云った、「むろん島田越後どのには話してある、珍らしい病気をもっているので治療ちゅうだったが、与えた薬の効果をしらべたいのだ」
岡野は去定の顔をみつめた、「よほど暇どりますか」
「半刻はかかるまいと思う」
「一存でははからいかねますが、新出先生のことですから」岡野はちょっと考えてから云った、「よろしゅうございます、では薬部屋へおいで下さい」
そして彼は自分で案内に立った。
廊下を曲っていくと、中庭に面して幾つかの部屋が並んでい、岡野はその端にある一と間へ二人をみちびいた。それは六帖ほどの広さで、片方は造り付けの
「係りが島田越後だったのは幸いだ」と去定は口の中で独り言を云った、「これがもし津々井だったら、||あの石頭は
「いや」と登は頭を振った。
去定はいま夢からさめたような眼つきで、しげしげと登の顔を見まもり、なにか云いそうにしたが、憤然とした表情で口をつぐんだ、||まもなく岡野がおくにを伴れて来、終ったら知らせてくれと云って、おくにを置いて去っていった。
「こっちへ寄れ」と去定はおくにに云った、「おれは新出去定という医者で、おまえの父だという六助の治療をしていた者だ、おまえをここから出してやろうと思ってきたのだ、こっちへ寄って事情を話してくれ」
おくには三十二だといったが、どうしても四十以下にはみえなかった。ひと束ねにして
去定のいきごみにもかかわらず、おくにはただぼうとした顔で、返辞もせずに坐っていた。底の抜けた徳利のようだな、と登は思った。
「おまえ代れ、保本」と去定はやがて
そして彼は出ていった。
登は死んだ六助のことを考えた。それから柏屋にいる子供たち。祖父と孫。祖父は施療所で一人で死に、子供たちは見知らぬ木賃旅籠でふるえている。登はそのことを思い、子供たちの話から始めた。すると、おくには急に身ぶるいをし、眼を大きくみひらいた。
「あの子たちは無事ですか」とおくには吃りながら訊いた、「お
登は六助の死と子供たちのことを告げた。六助は金を残して死んだし、去定は必ずおくにを助けるであろう。また将来のことも面倒をみる筈だから、詳しい事情を話すがいいと云った。
「お
登は首を振った、「いや、安楽な死にかただった」
おくには焦点のきまらない眼で、ぼんやりと登を眺めていたが、やがて力のない、気のぬけたような調子で語りだした。登に話すというよりも、自分だけで独り言を云っているような口ぶりだったし、そこに登がいることも、意識から遠のいてゆくらしい。ちょうど去定が戻って来たので、登が眼くばせをし、去定は黙って坐ったが、おくにはそれさえ気がつかないようすだった。
おくには六助の一人娘だったが、三つの年から十歳になるまで、多摩川在の農家へ里子にやられた。十のとき父親に引取られ、二年ばかりいっしょに暮したが、そこへ生みの母があらわれて、おくにを
「あたしは母親の味を知らなかったし、ちょうど母親の欲しい年ごろでした」とおくには云った、「あたしがおまえの生みの母だと云われ、いっしょに来ておくれと云われたときには、||ええ、あたしには
母は富三郎を親類の者だといった。
おくにはむろんそれを信じた。かれらは京橋の炭屋河岸に住んでいたが、六助の店が日本橋
母と富三郎の関係を、おくにはまったく知らなかった。単純に親類の者だと思い、それにしてもなぜ働かないのか、どうしてぶらぶら遊んでいるのか、なぜ母はそれを黙って見ているのか。そんなことが
「お父っさんはあたしに、うちへ帰ろうと云いました、いまでも覚えています、お父っさんは
彼女の眼から涙がこぼれ落ちた。だが、おくにはそれを拭こうともせず、こぼれ落ちるままにして語り続けた。
父親のようすを見て、おくにの恐怖は去った。彼女はもう十三になっていたのだ。三つの年から里子にやられて、いっしょに暮したのは二年ほどである。親子という愛情も、まだはっきりとは感じていなかった。
||いやです、あたしおっ母さんといっしょにいます。
おくにははっきりそう云った。
六助は暫くおくにを見まもっていたが、ではなにか困ったことがあったらおいで、おまえのためならどんなことでもしてやるから、そう云ってたち去った。おくにはそのことを母にも富三郎にも黙っていた。父はもう二度と来ないだろうと思ったから、||事実、それから十年も、六助は姿をみせなかった。そしておくには十六の夏、母にしいられて富三郎と夫婦になった。自分ではいやでたまらなかったが、母に泣いてくどかれた。
||そうしなければおっ母さんといっしょにいられなくなるんだから。
おっ母さんのためだと思って承知しておくれ、そう繰り返して説き伏せられた。おくには気持がよほどおくてだったのだろう、夫婦とはどういうものか、よく知らないままで富三郎の妻になった。
そうして、うちの中が荒れだした。
もちろん珍らしい話ではない。母親はおくにと夫婦にすることで、富三郎を
おくにはそのことを語った。
富三郎と夫婦になってから、まる二年経った冬の或る夜、||おくには彼と母親との仲を初めて知った。
神谷町のその家は、店の奥に六帖が一と間あるだけで、夫婦と母親とは枕屏風を隔てて寝ていた。そのころになっても、おくには寝屋ごとがまだわからず、ただ
おくにはやはり息をころしたまま、夜具の中で身をちぢめていた。そしてまもなく、おくには気がついたのだ。母の
そこまで話すと、おくには「う」といって、両手で固く口を押えた。おそらくそのときの記憶がよみがえって、また吐きけを催したものであろう、しっかりと口を押えたまま、かなり長いことじっとしていた。
「その話はもういい」と去定が云った、「母親はどうしたのだ」
おくには口から手をはなして、ぼんやりと去定を見た。
「死にました」おくにはけだるそうに答えた、「そのことがあってからすぐに、うちを出て、住込みの茶屋奉公にはいったんです」
おくには二十三歳でともを産んだ。その半年まえに母は死んだのであるが、死に目には会わなかった。危篤だと知らせた富三郎は、母がおくにには会いたくない、来ても会わないと云っている、と告げた。おくにはそうかと思った。||うちを出ていってから五年ちかいあいだ、母はいちども帰って来ず、どこにいるかもわからなかった。だが富三郎との仲は続いていたらしい、彼はしばしばよそで泊るようになり、三日もうちをあけることさえあった。荒物の小あきないでは暮しもたたないので、おくには十七八のころから賃仕事をするようになったし、母の稼ぎと合わせてかつかつにやって来た。||したがって、母が去ったあとは家計が詰まる一方であるのに、富三郎はかくべつ不平も云わないし、ときには幾らかの銭をよこすこともあった。
||取っておきな、ゆうべ友達といたずらをして、少しばかり勝ったんだ。
彼はそんなふうに云うが、おくには彼が母と逢ったこと、それは母の稼いだものだということを察していた。母にはそれほど彼が大事だったのだ。だから死ぬときも彼だけにみとってもらいたいのであろう、おくにに会えば、みれんと嫉妬とで、死にきれない思いをする。それが自分でわかっているのだ、とおくには思った。
「あたしは葬式にもいきませんでした、いまでも、お墓がどこにあるのかさえ知りません」とおくには云った、「供養してもおっ母さんはよろこばないでしょうから、仏壇も
登はうしろ首が寒くなるように感じた、死んでから十年も経つ母が、いまでも自分を憎んでいると思うという、登には理解しがたい情痴の罪の根深さ、
「そこからあとのことは知っている」と去定は云った、「六助はおまえに便りをしていたのだな」
「ええ、おっ母さんが死んでからまもなく、神谷町のうちへ来ました」とおくにが答えた。
「そのとき初めて、あの人がお父っさんの弟子で、おっ母さんと悪いことをして逃げた、ということを聞いたんです、お父っさんはおれといっしょに来い、と云ってくれました、あんな男といると必ず泣くようになる、いまのうちにここを出て、おれといっしょに暮そうって、||あたしは、わざと
おくには身ごもっていたが、富三郎に愛情をもってはいなかった。彼女はただ、父の世話にはなれない、世話になっては済まない、それでは神ほとけも
「あたしはそう思いました、おっ母さんがあの人と逃げたとき、そして、あたしがおっ母さんに伴れだされ、呼び戻しに来られて断わったとき、||お父っさんはどんな気持だったろうかって、どんなに悲しい、辛いおもいをしたろうかって、思いました」
おくには富三郎に云って、金杉のほうへ引越した。そこでともを産み、助三を産んだ。するとまた父が捜し当てて来、幾らかの銀を置いて去った。そのとき父は、槇町の店をたたんだこと、もしなにかあったら、伝通院裏の柏屋という旅籠へ知らせろ、ということを告げたのだという。
||おれはもう仕事をする張りもない、なにもかもつまらない、おれの一生はつまらないもんだった。
六助はそう云い残して行った。
登は柏屋で聞いた話を思いだした。二十年ほどまえからときどきあらわれ、なにをするともなく泊ってゆき、またときをおいて泊りに来たという。それは六助が神谷町の家で、おくにからすげなく拒絶されたころと符合する。||彼には世間からも、自分からさえも隠れたくなることがあったのだろう。あの場末のさびれた町の、古くて暗い木賃旅籠は、そういうときの彼にとっても恰好だったのだ。登にはそれが眼にうかぶように思えた。蒔絵師として江戸じゅうに知られた名も忘れ、作った品を御三家に買いあげられるほどの腕も捨て、見知らぬ一人の老人として安宿に泊り、うらぶれた客たちの中で、かれらの話を聞きながら黙って酒を飲む。||そうだ、と登は心の中でつぶやいた。そういうところでしか慰められないほど、六助の悲嘆や苦しみは深かったのだ。もっとも苦しいといわれる病気にかかりながら、臨終まで、苦痛の呻きすらもらさなかったのも、それまでにもっと深く、もっと根づよい苦痛を経験したためかもしれない。登はそう思い、眼をつむりながら溜息をついた。
「いいえ」とおくにが云っていた、「あたしはそうは思いません」
声が高かったので、登は驚いてわれに返った。
「訴人したことが悪いとか、あの人が哀れだなんて、あたしこれっぽっちも思ってやしません」とおくには強い調子で続けた、「あの人は人でなしです、自分は稼ぎらしい稼ぎもせず、あたしや子供たちが食うに困っていても、平気で遊びまわったり悪い事をしたり、そうして、お父っさんのところへ金を貰いにゆけなんて、畜生だって口には出せないようなことを云いつづけました、||それだけは云ってはいけないんです、お父っさんをあんなひどいめにあわせた当人なんですから、それだけは口にしてはならないことだったんです」
「しかしおまえは云った筈だ、いや、捉まって牢屋の苦しみを味わえば、改心するかもしれないからと、差配に云ったそうではないか」
「云いません」おくには首を振った、「差配さんにそう云えと教えられたんです、けれどあたしはそんなこと思いもしないし、お白洲でも云いはしませんでした、||正直なことを云っていいでしょうか」
「云ってごらん」と去定は頷いた。
「もしできるなら」とおくには唇をきつく
そしておくには初めて眼をぬぐった。さっきの涙はもう乾いていたが、手でぬぐうと、その涙の跡がひろがって、
「よくわかった」とやがて去定が云った、「よくわかったが、それは胸にしまっておけ、いいか、明日は間違いなくここから出してやれると思うが、いまのようなことを役人に云うとぶち
おくには口の中ではいと答え、頭が膝へ届くほど低く、ゆっくりとおじぎをした。
牢屋から外へ出ると、去定は黙って北のほうへ歩きだした。柏屋では「晩飯の支度をどうするか」などというのを聞いたし、朝からいろいろな事を経験したので、もう日が
「あの女の云ったことをどう思う」
登は返答に困った、「||
「いや、云ったことの全部だ」去定はまた頭を振った、「間違いだ」と去定は云った、「富三郎だけを責めるのは間違いだ、岡野に訊いたら、彼はもうお縄になったそうだが、おそらく気の弱い、ぐうたらな人間、というだけだろう、しかも、そうなった原因の一つは六助の妻にある、十七という年で誘惑され、出奔してからは女に食わせてもらう習慣がついた、いちどのらくらして食う習慣がついてしまうと、そこからぬけだすことはひじょうに困難だし、やがては道を踏み外すことになるだろう、そういう例は幾らもあるし、彼はその哀れな一例にすぎない」
登はなにか云いかけて、急に口をつぐみ、顔を赤らめた。母親と通じながら、平気でその娘を妻にしたという、その男のけがらわしさを指摘したかったのだが、口を切るまえに自分のあやまちを思いだしたのだ。狂女おゆみとの、屈辱にまみれたあやまちを。||去定はそれには気づかなかったろう、また少しずつ足を早めながら、同じ調子で続けていた。
「人生は教訓に満ちている、しかし万人にあてはまる教訓は一つもない、殺すな、盗むなという原則でさえ絶対ではないのだ」それから声を低くして云った、「おれはこのことを島田越後に云ってやる、そうしたくはない、それは卑劣な行為に条件はないが、そうしなければならないときにはやむを得ない、いまは教訓にそっぽを向いてもらうときだ」石町の堀端へ出たとき、去定は登に向かって先に養生所へ帰れと云った。
「おれはこれから町奉行に会って来る、
登は承知して去定と別れた。
その翌日、おくには牢から出された。褒賞の銀は貰わなかった。むろん去定がそうさせたのだろうが、元の町内にも構いなしということで、そのまま柏屋にいる子供たちといっしょになった。
次の日、登は去定に命じられて、柏屋へともを診にいったのであるが、そのとき去定は銀を五両包んで登に渡した。
「これをおくにに
「しかしそんなに」と登が訊いた、「そんなに六助は金を遺していったんですか」
「五両と少しは遺したものだ、あとの十両は違う」と去定はきげんのいい眼つきで登を見た、「これは島田越後からめしあげたものだ」
登はけげんそうな眼をした。
「越後守は婿で、家付きの
登はまだけげんそうな顔で、黙って去定を見ていた。
「黙っていると卑劣が二重になるようだから云うが、越後守は下屋敷に側室を隠している」と去定は
だが去定の顔はやはりいいきげんそうで、自責の色などは少しもなかった。
「おくにが放免されたのは当然であるし、十両は奥方の治療代だ、しかも、おれが卑劣だったことに変りはない」と去定は云った、「これからもしおれがえらそうな顔をしたら、遠慮なしにこのことを云ってくれ、||これだけだ、柏屋へいってやるがいい」