天地の
闢けしはじめ、成り成れる不尽の
高嶺は白妙の奇しき高嶺、駿河甲斐
二国かけて
八面に裾張りひろげ、裾広に根ざし固めて、常久に雪かつぐ峰、かくそそり聳やきぬれば、
厳しくも
正しき
容、譬ふるに物なき姿、いにしへもかくや神さび神ながら今に古りけむ。たまたまに我や旅行き、行きなづみ振さけ見れば、妻と来てつつしみ仰げば、あなかしこ照る日もわかず、暮れゆけば雲巻き蔽ひ、
霹靂はためくさへに、稲光
青の火柱、火ばしらの飛ぶ火のただち、また、とどろ雹ぞ飛びたる。御殿場のここの
駅路、一夜寝て
午夜ふけぬれば、まだ深き
戸外の闇に、早や目ざめ
猟犬が群、
勢ひ起き鎖曳きわき、
跳り立ち啼き立ち
急くに、朝猟の公達か、あな、ひとしきり飛び連れ下りる
騒ぞきの、さて
出立つらむ。けたたましく自動車の鳴り
爆ぜる音、
咽喉太の唸り笛さへ
凝り霜の
夜凝りに冴えて、はた、ましぐらに
何処へか駈け去りぬ。
底冷えの戸の隙間風、さるにても明け近からし。目のさめて
明告鳥の息長に啼き呼ばふ声、そことなく
応ふる声の裾野原揺りどよもすに、おのづ覚め我は在りけり、目はさめて我もありけり。つくづくと首
延し見れば、こちごちの
濃霧のなびき、渓の森、端山の
小襞黒ぐろとまだ
気ぶかきに、びようびようと猛ける遠吠、をりからの
暁闇を続け射つ
速弾の音。たださへも益良夫ごころ溢れ揺り抑へもあへぬを、見透かせば渦巻く霧の瑠璃雲の漂ひが上、数かぎりなき糠星の瓔珞の
中、あなあはれ不尽の高嶺ぞ、白妙の不尽の高嶺ぞ、今し今、一きは清き紫の朝よそほひに出で立ち立てり。夢か、こは、まことなりけり。夢ならず、
現なりけり。起きよ起きよ。まことこれ日の本の不尽、木花咲耶姫の神、神しづまりに鎮まらす不尽の
御嶽ぞ、見よ目に見えて近ぢかと明け初むるなれ。起きよとて妻揺りたたき、目ざめよとまた呼び覚まし、口漱ぎ、さて、身をきよめ、さむざむと袂合はし、しみじみと二人い寄り、ひたすらにかくて見
恍れぬ。時ありぬ。やや時経れば、ほのぼのとして薄明る
山際の色、
黎明の薄樺いろに焼け明るその静けさに、日出づる前か、明鴉かをかをと二羽連れだちて羽風切る、その羽裏いよよ染みたり。はたはたと山鳩もまた二羽競ひ行く。観る人も妻とし見れば飛ぶ鳥も連るるものかも、うれしやと妻は見て云ふ、我もまた微笑みて見つ。さるからに、薄紅き蓮華の不尽の隈ぐまの澄み明りゆく立姿、
頂の
辺は更にも
紅く、つや紅く光り出でたれ。よく見ればその空高く、かすかにも靡くものあり。高うして吹雪すらしか、かすかにも雪煙立ち、その煙絶えずなびけり。いよいよに紅く紅く、ひようひようと立ちのぼる雪の焔の
天路さしいよよ尽きせね、消えてつづき、消えてつづけり。あなあはれ、かのいつくしさ、このかうかうしさ。眺むれば見れども飽かず、
言にさへ筆にさへ出ね。あなかしこ、不尽の高嶺は日の本の鎮めの高嶺、神ながら
奇しき高嶺、この高嶺まれに仰ぎてこの
朝新にぞ見て、この我や、ただこの妻と、ただ得も云へず涙しながる。
上つ毛の
加牟良の北に
天そそる妙義荒船、
遥ばろと眺めに
出れば、この日暮ふりさけ見れば、いや遠し、遠き
山脈、いや高し高き
山脈、いやが
上に空に続きて、いや寒く
襞を重ねて、幾重ね、幾
畳り、
末遂に雲居にぞ入る。かりそめの旅にはあれど、夕されば内にも堪へず、
外に出でてひとりありけり。向ひ吹く川の瀬の風、川風の吹きの
凍えに我が向ひ辿る高崖、遥か見る北の山脈。冬も早や絹のつや雲、巻雲の巻きのなびきに、
氷凝り雲
層雲の群、重ね雲、寂び金の雲、下
明り雲ともわかず、薄ぎらひ山ともわかず、たださへも
現ならぬを、たださへも果てしわかぬを、日の射すか末広の虹幾すぢか透きて落せり。かうがうしその薄光、寂び寂びしプラチナのすぢ、濃き淡き峰の畳みに、引きちがふ山の小襞に、また雨と
和み注げり、柔かき金色の霧。あな遠し遠き山脈、あな高し高き山脈、立ちとまり見れども消えず、目ふたぎて傷めど尽きず、
目翳げして遥けみ見れば、いや寂し薄き
陽の虹、また見ればさらに彼方に、いや高き
連山の雪、いや遠き
連山の雪、ひえびえと、つぎつぎと、続きつづきて
耀きいでぬ。
わが
門の竹の林に、曼珠沙華赤く咲きたり。竹の根の一つ一つに、この
華や六つ七つづつ、日に増しに数かさみゆく。怪しくも赤き巻髭、髭細の蓮華なす
華、咲き盛るその華見れば、おのづから秋も澄みけり、いよいよに風も
寂びけり。隣り寺、寺の古墓、日あたりは
未だも暑けど、墓掃くとかがむ影すら、阿閼汲むと寄るすらも無し。あなあはれ、摩訶曼珠沙華、出で入るとひとり眺めて、時をりは妻と眺めて、
昨日ゆかいよよ
殖えしと、まだ今日も赤しとぞ見る。孟宗のしだれ笹ゆゑ、
陽は
射せどいぶせき籔を常くぐり我は在りけり。わびしけど遊び馴れけり。山住の心安さは籔越しに浪の音聴き、里囃子うれしとも聴け、施餓鬼過ぎ流石さびしく、人訪はぬ今は堪へえね、また出でて竹の根見れば曼珠沙華赤く赤きに、ちらと向き、
釣眼野狐、うしろ向き尖り口して、小籔吹き、吹き吹く風に、日の暮に、あな、飛び飛びて消えつつ失せぬ。
雨あとの竹の林に、夕あかりかがよふ見れば、その竹の
湿る根ごとに、何か散り、深く光れり。その節のひとつひとつに、何かまた溜り光れり。其笹のさみどりの葉に、何かまた揺れて光れり。
金色のその光るもの、こまごまと目に
染みるもの、雨ふりてあかれるのちは、とりわけて揺れてうつくし、寂しくて見てゐるきははいよいよに消えてうつくし。揺るるともただ見て
居らむ、消ゆるともまた見て居らむ、堪へ堪へて日の暮るるまで、なほなほに寂しがりつつ。わが宿の竹の林の夕あかり、裏山松の松風も聴けば親しさ。
蜩の啼き連るるなり。二つなり。啼き連るるなり。その二つ啼きやめばまた、こなたより啼きしきるなり。ただ一つ啼きしきるなり。孟宗の片日射なり。山松の遠日射なり。かなたには輝りきらふ海、こなたにはわたる山霧、山ぎりに山の施餓鬼のほとほとに果つる頃なり。
金色に秋の日射の斜なし澄みとほる中、
蜩は啼きしきるなり。
急き
急きて啼き刻むなり。二つ啼き、一つ啼き、また、こもごもに啼き
速むなり。
蜩が二つ啼きまた一つがこもごもに
ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅の傍に
斑牛ひとり居りけり。安らかに繋がれてけり。山峡の湯どころの秋。
出て見れば、下の小橋を杖つきて渡る子もあり。垂稲の黄ばむ田づらはをりふしに雀むれ立ち、道ぞひの茅屋の庭に白菊の盛り見せたる、胡麻と栗並べ干したる
暇ある心に見ればなかなかに今日は安けし。向つべに日のかげる山、なほ
明く温かき山、その空の白き綿雲、ちろちろと渡る
禽さへなかなかにあはれとも見れ。妻と来て、二人来て、七日まり住み馴れてのち、やうやうに
紅葉色づく
遠近のこの眺めなる。あなあはれ、ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅のかげに斑牛ひとり居りけり。繋がれてただねんねんと草
食みにけり。
秋山のなぞへの
薄ひとつらね揺りかがやけり。秋山の名も無き山の草山の山の
端薄、その穂の薄揺りかがやけり。この夕、
出でて見て、
岨ゆ見て、丸木橋妻と渡りて、また見ればまだかがやけり。その薄刈る人もあり。また負ひて下り来るもあり。下りて来て、行きすぎざまにさわさわと
背見せゆく、さわさわの
背の薄またかがやけり。雲白くうかべる峡の
日屯の
空間の中、こまごまと飛べる羽虫も、よく見れば一つ一つに命あり、舞ひ立ち光る。
閑かなり、ただ安らなり。まだ深き日のあたりなる。暑からず、寒くしもなく、まだ
温き日のかげりなる。湯どころのうしろの山の秋山のその柔かき草山のこのもかのもにさわさわと音する薄、穂薄の、今日来て見れば、揺りかがやけり。あなあはれ、我も見て、妻も出て、二人ながむるさわさわ薄、そのさわさわ薄。
わが宿の岡のなぞへに杉いくつ
屯せりけり、せうせうと
屯せりけり。鉾杉のひとむら木立鉾杉の鉾を並べて、この
朝明しぐるる見れば、霧ふかく時雨るる見れば、うち霧らひ、霧立つ空にいや黒くその
秀うかび、いや重く下べ
鎮もり、いや古く並び鎮もる、
凡てこれ墨の絵の杉、見るからに寒し
厳かし、かうがうし、
寂し
崇高し。あなあはれ、岡の鉾杉、をちこちの
小竹のむら笹、柿もみぢ、梅が
枝の蔦、とりどりに色に出づれど、神無月すゑの時雨に濡れ濡れてその葉枯れず、落葉せず、透かず、薄れず、ただ
上べわづか
赭みて
天鵞絨の焦茶いろすれ、
深ぶかと黒くか青く、常久に古び
鎮もる。寂しくも寂しき姿、堪へ堪へて常立つ心。あなあはれ冬の鉾杉、海ちかき岡の鉾杉、鉾杉の
渦成す霧に、
涯知れぬ海も見わかず、ひさかたの空もえわかね、時をりは渡りの鳥のはぐれ
鳥ちりぢりと落ち、
羽重の一羽鴉も飛びなづみややに来て揺る。あなあはれ、雨の鉾杉、見てあれば
幽かに揺れて、ふる雨に幽かに揺れて、ただせうせうと音たてにけり。
伝肇寺、
小さき古寺、此寺の山の墓場に、
榧と栗並び立ちたり。並び立ちともに老いたり。榧の木は栗の木のそば、栗の木は榧のかたへにさびさびて、すでに老いたり。その榧よいつよりか老い、この栗よいつよりか立つ。榧と栗さびにさびつれ、なほし
未だ花は咲きけり。年ごとに花はつけけり。榧の木はかすかなる花、栗の木は
露はなる花、その榧に
小さき榧の実、この栗に栗の青毬、風吹けば実さへ毬さへまたいつかこぼれこぼれぬ。枯れ枯れて土にかへりぬ。見る人も知る人もなし。寺まうで墓まうでびと、たまさかに
蹲み通れど、誰ひとり振りは仰がず、誰ひとり眼にもとめねば、ただ
二木立てるのみなる、榧と栗さびるのみなる。あなあはれ、榧と栗の木、落葉する栗も寒けど、常青く立てる榧の木、冬の日はことに高しよ。栗の木はいよよ透けれど、榧の木はいよよか黒く、薄日射函根の
入陽秀に
受けてひとり
尖れり。いや黒くひとり堪へたり。雨まじり霙ふる日も風まじり雪の飛ぶ夜も、こごしくも
凍え立ちたり。親しくも立ちて堪へたり。あなあはれ、老木の
二木、親しくも並ぶ姿の、寂しくも隣り合ふ木の頼り無き二木を見れば涙しながる。
さわさわと揺るるものあり。
午夜ふけて揺るるものあり。わが窓の硝子戸の
外、
真透せば月に影して
凍え雲絶えず走れり。円かなる望月ながら、
生蒼く
隈する月の、傾けばいよよ薄きを、あな
寒や揺るる竹あり。孟宗の重きしだれの
重なりのその
上に抜けて、ただひとり揺るる
秀のあり。目か醒めし、夜風か出でし、さわさわと揺れて遊べり。しだれつつ前にうしろに、照りかげり揺れて遊べり。
円かなる望月ながら
生蒼く
隈する月の飛び雲の
叢雲が
間、ふと洩れて時をり急に明るかと思ふ時なり。目に見えてさわさわさわと、照り浮ぶ孟宗の、あな、一きは強き、
狐光のその月に、さながら生きて踊るかに、
近明りして
勢ひ舞ふ、かと見れば、また、何か暗く薄かげりして、
揺らぎ止み、
揺らぎ
騒立つ。此
夜さや、夜鳥も啼かず、藪かげの
隣の寺もしんしんと雨戸
鎖したれ。時として川瀬の
音の浪の
音と響き添ふのみ。それもただ遠し、
気疎し。あなあはれ、この夜の山に、何しらず目のさめしもの、我のみか、揺れそよぐあり。揺れそよぎ、独り遊ぶと、揺れそよぎ、この目の
外に、また、さわさわと音立ててゐる。
玉くしげ函根の山は短か日のことに短かく、み冬さり霜
下り来れば、
午過ぎて日の目も知らず。向つべの山は明れど、こなたなる高山の
岨、風寒く木の葉ちるのみ。早や早やも土は
凝りて、岩角の犬羊歯が下、枯れ枯れの雑木の根ごと、そくそくと
氷柱さがれり。ほきほきと、氷柱掻き折り、かりかりと噛みもて行けば、あな
冷た、つめたかりけり。妻もまた
冷たよと云ふ。二人ゆく高崖の上、何の
枝ぞ透きてこまかにつや黒の
果をちらつかす。ふり仰ぎ透かし見すれば、高く澄む空の青きにひえびえといそぐ雲あり、また薄く消ゆるものあり。長尾鳥飛びて叫ぶに行きなづみ、
蹲みてあれば、あなさむや、
渓裾紅葉鉾杉の暗きを出でて、ひと
明り
紅く燃えたり。その紅葉淵に映れり。人知らぬ寂びと静けさ。その
下に飛び飛びの岩、岩もまた
幽けかりけり。冬はなほ幽けかりけり。あなあはれ、欅の枯木、行き行けば見る眼に聳え、滝落ちてかげり
陽迅し。あなあはれ、山の端
薄陽。
下見れば早や塔の沢、こちごちに湯の
香煙りて、ちらちらと揺るる
燈の見ゆ。海見えて
漁火つく見ゆ。この岨や馴れし山岨、遠く来し旅にもあらね、さは急ぐ道にもあらず。我がどちや
言にこそ
出ね、今さらの連れにもあらねば、ただ二人ほつりほつりと、日の暮はほつりほつりと、また家路さし
下るのみなり。下るのみなり。
丘窪の冬の
棚田はねもごろにうれしき棚田。寂び寂びて明るき棚田。たまさかに鶸茶の刈田、小豆いろ、温かきいろ、うち
湿る珈琲の
土。
下田にはいくつ稲村
白金の笠めき
和め、
上畑は緑の縞目、わづかにも麦ぞ萠えたる。その畑に動く
群禽、つくづくと尾羽根振りては、また空へ飛び立ち
翔る。あな
冷た
群の
鶺鴒群れ飛べど目にもとまらず。いづこにか
鵯は叫べど、風騒ぐけはひも聴かず。ただ低き日あたりの中、茅屋根の物静かなる、紫に寂び沈みたる、人気なき庭にはあれど、背戸ごとに柿の実も見ゆ。裏丘へのぼる
小径は孟宗の林に見えて、その籔の上の日向に蜜柑もぐ人もよく見ゆ。声高にさては語りて
燧石切る
莨火も見ゆ。珍らかにいとど澄めばか、遠近の枯葉のくぬぎ、草もみぢ、耀く薄、おしなべてかくて
安けし。あなあはれ、ここの丘窪、明るけど古さび棚田、うれしけど冬の日棚田、その空に
翔る
群禽、鶺鴒の薄黄の尾羽のただ波うちて影もとまらず、影もとまらず。
磯長の
小ゆるぎの浜、この浜や荒浪高し。この夜ごろいよいよ高し。
時化つづき西風強く、夜は絶えて
漁火すら見ね、をりをりに雨さへ走り、稲妻の
青の
映りに、
鍵形の火の枝の
棘ひりひりと
鋭き光なす。其ただちとどろく
巻波。時として雹さへ飛ぶに、なにぞ
何ぞ乱るる鳥は。なにぞ
何ぞ散り散る鳥は。目に見れば数かぎりなく、声きけば
消なば
消ぬかに、へうへうと連れ啼く鳥の、百千鳥、荒浪千鳥。荒浪の
穂立の空を、とまるすべ、
寝るすべ知らに、ただ飛びて散り散る千鳥。此海や
涯し知られね、この荒れや測り知られね、
初夜過ぎて、また
後夜かけて、闇ふかく
翼ふる千鳥、この雨を、また稲妻を、ひた濡れて乱るる千鳥。ある声は遠くはぐれて、ある群は千鳥
型して、また
或るは
陸の方向き、また
或るはちりちりと散り、すれすれに
或るは落ちつつ、波の上驚きて飛び、時に消え、時に明り、いよいよに暗く恐れて、いよいよに
青に
染まりて、時わかず連れ啼く千鳥、へうへうと
凍ゆる千鳥。いつまでか
全く迷ふぞ、いつまでか飛びてやまぬぞ。
磯長の小ゆるぎの荒浪千鳥。荒浪の
天うつ波の逆まきのとどろきが上、あああはれ、また向き向きに、稲妻の
青の
脅えに連れ連れ乱る。啼き連れ乱る。
ひとりゆくこの
山岨は落葉のみ溜り
湿れり。落葉踏みつつ行けば、いづく飛び鵯高音うつ。かさこそり、
櫟の枯葉わがかたへまた声立てぬ。日おもての
草崖薄、その穂にも落葉かかれり。草紅葉まだ
温くけれど、その
上にも落葉うごけり。向ひ山、こなたの小丘、見るものはみな枯木のみ。空ぐるま軋るを見れば、
上岨を尻毛振る
赤馬、ひようひようと吹かれゆく馬子、みな寒き冬のものなり。渓の
上の小茶屋の椅子も紅葉積み、その渓かけて、はらはらと落葉ちりゆく。山窪の幾むら藁屋、水ぐるま
廻れる見れば、ほとほとに水も痩せたり。欅
原ただ目に寒く、入りゆけば
陽の目薄きに、雨のごとちる落葉あり。よく見ればいよいよ繁し。声立てていよいよ
寂し。ほうほうと立てる雑木の
岨路ゆき、別れ
径ゆき、
当処さへ果てはわかねど、風のまま歩みのままに、行き行けばただ落葉なり。前うしろただ落葉なり、かさこそと、また、はらはらと、空にも地にも声ばかりして。
かうかうと照る月ながら、雨のごと飛ぶ落葉かな。ああ落葉、その影見れば、秋も早や老いにたるらし。ああ落葉、その声きけば、おのづから冬か待たるる。身の
老といふにはあらね、おのれまた若しともなし。さやけさはかかる夜ながら、見の
恍れむ光にあらず。杉木立青きはあれど、
隣山早やも痩せたり。枯れ枯れの木の
枝を透きて、月はただ遠くあらはに、落葉また風に吹かれて、へうへうとかぎりも知らず。いつの日かまたと還らむ、いつの世か久しかりちふ。これやこの常なかる世に年月の移らふまにま、我はあり、我はあれども、いつ知らず
後べのみ見る。なほなほも先きぞ気遠き。而かもなほ過ちにけり。つくづくと耻ぢ泣きにけり。さりとては
諦めも得ず、また
和の悟りをも見ね、ただすこしおのれ知るからただ堪へて
遜るのみ。ややややにかくてあるまで。寂しがり寂しがるなる。ほとほとに堪へは得ぬとも、この寂びや、身もて得し寂び、せめて者まだ頼りなる、ただたのみただ守るべき。ただひとり物も思はむ。さてひとり歩み歩まむ。あはれなる末の末かも、飛びちらふ落葉なるべき。落葉なら風のまかせよ。照る月に、北山風に、夜あらしに、影は影とし、はらはらと、ただ、はらはらと声ばかりせよ。
おらもまたあなたまかせぞ一茶坊

掛の
絹寒冷紗、硝子
扉の
外の短か日、短か日の斜の陽ざし。

掛の絹寒冷紗、其蔭の水仙と菊、鉢台の薄玻璃の壺。今朝咲きし一重水仙、いつの日か挿しし寒菊。冷たくて白き水仙、やや
温く黄なる寒菊。水仙の
青の葉は張り、寒菊の葉は半ば枯る。水仙は水仙の影、寒菊は寒菊の影、その壺も玻璃の影して、栗色の砂壁に在り。硝子透き、

掛を透き、斜め
陽の
明るみぎりは冬もなほいつくしく見ゆ、
頼無き影としもなし、柔かく親しかりけり。薄玻璃の影もゆらげり。妻とゐる二階の書斎、
午過ぎはただ
閑かなり。湯沸のふき立つる湯気、わがふかす煙草のけむり、また揺れてその壁にあり。妻の影、わが影もあり。水仙と寒菊の花、現身に
正眼に見れば、まこと今あはれなりけり。水仙と寒菊の影、現なく
映らふ観れば現なし、
寂しかりけり。近々と啼き翔る鵯、遠々とひびく浪の
音。誰か世を常なしと云ふ、久しとも
愛しとも
思へ。山に住み世に
離るとも、
全く世を厭ふにあらず、
五月蠅やと
切に思へど、人来ねばたづきも知らず、妻と我、二人居れども、かくてあれども、時をりはただ寂しくて眼を見合せぬ。
わが庵の竹の林にこぬか雨今朝も
湿れり。春さきのこぬか雨なり。ふるとしも見えぬ雨なり。こぬか雨笹にこもりて、
香焼けば
香もしめりて、事もなし、ただ明るけし。こまごまと濡れかかるのみ、漂渺と煙曳くのみ。しづかなり、唯安らなり。顔出してつくづく
居れば、笹子啼き、目白寄り来る、笹葉揺り揺りて又去る。散りたる
去年の枯葉も寂しけど寒しとも無み、何かしら萠ゆる緑の春は早や竹の根にあり。よき
湿りかくて湿らば、竹煮草、葛、蕗の薹ややややにすずろき出でむ。髭長の籔の菎蒻、菫など、やがて咲くべし。松風の声は沈めど、常ならぬわびしさならず。
裏岨ののぼりくだりに、ほつほつと通る馬さへ時をりは青きつけつつ、
声高の人の話も濡れながら行けば親しき。静こころ
香をつぎつつ、さて、今日もうら安くこそ。こぬか雨ふるがごとくに、こまごまといつくしみてむ、春さきの我の思を。
あな
踈忽、
吐息いでたり。気にかけそ、何といふ事もあらぬを。また妻よ、
焙じてむ玄米の茶を。来む春の話、水仙の話、やがて生れむ子のことなども話してむ。元旦のこの夜の深さ。山住の我らなるゆゑ、いついつとかはりは無けど、今日はまたとりわけて、とりわけてよろしかりけり。全く今しづかなりけり。今さらに何をかや云ふ。この夜さのこの安けさは神ぞただ守りますべき。心ゆくうれしさの中、我は唯詩を思ふなる、
汝また差しのぞくなる。しづかなり、ただあはれなり。筆動く音のみぞする。身じろきの、息のみぞする。さてあらば夜も明けぬべし。あれ聴けよ、
鶏啼くらしき。また聴けよ浪の音なる。二人ただかくて起きゐて、まこと今ただ二人なる。二人なるいのちの息のおのづから触れかよふかな。親しくもゆき通ふかな。蜜柑なと一つむきてむ。近々と火にむかひゐむ。またすこし炭つぎ足して、さて待たむ。二日の朝の海原の紅き日の出を。
新らしき蕗の薹かな。珍らしき
苦き
香ぞする。その蕗の薹一つ刺し、二つ刺し、竹の小串に三つ刺して、さて味噌つけて、火に焼きて、あな苦さよと一つ食べ、あなうまさよと二つ食べ、あないつくしと三つ食べて、さてさびしやと我ゐたり。春さきの夜のあは雪の
消なば
消ぬかの声聴きてけり。そのしばらくは。
聴けよ、妻、ふるもののあり。かすかにもふるもののあり。初夜過ぎて夜の
幽けさとやなりけらし、ふりいでにけり。何かしらふりいでにけり。声のして、ふりまさるなり。雨ならし。いな、雪ならし。雪なりし。雪ならば
初の雪なる。よくふりぬ。さてもめづらにふる雪のよくこそはふれ、ふりいでにけれ。さらさらとまた音たてて、しづかなり。ただ深むなり。聴けよ、妻、そのふる雪の満ち満ちて、ただこの闇に舞ひ深むなり、ふりつもるなり。
たまさかに浪の音する夜の雪なり
春さきのころころ蛙、一つ鳴き二つ鳴き、ころころと
後続け鳴き、ふと鳴き止み、くぐみ鳴き、また急に
湧きかへり鳴く。いよいよに声
合せ鳴く。近き田のころころ蛙、よく聴けば声変り鳴く。声変り一つ一つに、あなをかし、鳴けるさま見ゆ。あちら向きこちら向き、飛び飛びて、また水くぐり、うちひそみ、頬をふくらかし、鳴き鳴ける咽喉のさま見ゆ。あなをかし近田の蛙。さみどりの根芹が
湿る、
塗畔かまだ新らしき。雨もよい雨よぶ声の寒けども寒しともなし、寂しけどなにか笑へり。友よびてまた鳴く蛙遠田にも遥かどよもす。あなあはれ遠田の蛙、また聴けば遠く隔てて、夜の闇の瀬の
音隔てて、いや
離りうち霞み鳴く。また寄せて近まさり鳴く。遠つ浪
辺に寄するごと、遠つ風吹き寄するごと、その声は夜空つたひて、いよいよ近く響きて、さて絶えて、また続け鳴く。近き田もまた競ひ湧く。初夜過ぎてまた後夜ふけて、なほなほにどよもす声の、おそらくは夜の明くるまで。萠黄月、月の
円暈、遠近の薄き飛び雲、濡れ濡れてちらめく星の糠星のかげ白むまで。ころころとまたころころと、夜もすがら、夜をただ一夜、春さきのをさな蛙が、声かぎり、また声かぎりここだく鳴くも。