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嫁取婿取

佐々木邦





「これ/\、しゅん一、二郎じろう、じゃあなかった。英彦ひでひこ、いや、雅男まさお一寸ちょっとその新聞を取っておくれ。そのお前の側にあるのを」

 と、山下さんはこれを能くやる。男の子を一人呼ぶのに、家中うちじゅうの名前を口に出す。細君も、

安子やすこ清子きよこ、じゃあない。春子はるこ、あらいやだ。芳子よしこ、一寸来ておくれよ」

 とつい四人前呼んでしまうことがある。

 山下家は四男四女、偏頗へんぱなく生んだ。元来山下さんはこの頃の人達と違って、全然子供を欲しがらないことはなかった。

「夫婦は自分の後継者として男の子を一人、女の子を一人育てなければ、国家に対して申訳が立たない」

 と定説ていせつらしいものを持っていた。この故に長男長女と揃った時は申分なかった。しかしその中に、

「女の子は何うせくれてしまうのだけれど、男の子は真正ほんとうの跡取だから、万一間違があると玉なしになる。用心の為めもう一人あってもいよ」

 と考え直す必要が起った。それから間もなく、生れたのは男の子でなくて女の子だった。当てがはずれたけれど、諦めは直ぐについた。兎に角一番上が男の子だ。早く楽が出来ると思った。しかし一年たゝない中に、

「女二人に男一人のところへもう一人男が生れゝば数が丁度好くなる」

 と期待しなければならないことになった。細君の徴候次第でドン/\説が変る。今度は年子で母体が弱っていた所為せいか、いつにない難産だった。細君は多大の心配をかけた後、又女の子を生んだ。

「拾いものだよ。一時は二人とも駄目かと思った」

 と山下さんは感謝した。それから男、男、女、男と続いた。もうその頃は説を考える余裕がなかった。唯この上うなることかと思った丈けだった。

 八人もあると兎角欠けたがるものだが、好い塩梅に皆育った。一番殿後しんがりが男の子で間もなく小学校と縁が切れる。先頭の長男俊一君は去年帝大を卒業して、もう勤め口にありついている。長女は三年前にお嫁に行った。二人片付いた勘定だが、未だこれからだ。お父さんもお母さんも骨が折れる。七八年前、山下さんが子供全体を引き連れて郊外散策に出掛けた時、電車の車掌が笑いながら、

「修学旅行でございますか?」

 と訊いた。恐らくからかったのだろうが、山下さんは何でも善意に解する。

「余り数が多いものだから学校だと思ったのさ。無理もないよ」

 と今もって一つ話にしている。

 会社の閑人ひまじん共が拵えた子福者番附によると、東の大関が社長の十人で、西の大関が山下さんの八人だ。しかし社長は子供の自慢をしない。尤も皆好くないそうだ。それに財産とか書画骨董とかとほかに誇るべきものがある。ところが山下さんは子供が唯一の所有物だから、口を開けば子供のことが出る。

「僕は子供のない夫婦に真正ほんとうの人生は分るまいと思うが、うだね?」

 と部下に話しかける。

「それはうですよ」

 と大抵は子供で苦労している。

「子供がなければ夫婦の情愛そのものも分るまいと思うが、何うだね?」

「それは少し御無理でしょうな」

 と中には子供のないものもある。

「何故?」

「夫婦の情愛は夫婦の情愛でしょう。子供のあるなしに関係ありますまい」

「いや、子供がなければ真正の夫婦とはいえない。まあ一生情婦と同棲しているような形だからね」

 と山下さんは極端なことを言う。

「おや/\」

遊冶郎ゆうやろうの楽しみはある」

「やれ/\」

 と部下だから一溜ひとたまりもない。

「課長さん、私もイヨ/\人生が分るようになりました」

 と若手が報告する。

「それはお芽出度う。何方どっちだね?」

「男です」

「それは益※(二の字点、1-2-22)結構だ。初めは男に限る」

「お蔭さまで」

「このお蔭さまはっと変だよ。ハッハヽヽヽ」

 とはたから弥次が入る。

「しかし一人ばかりじゃ真正のことは分らないよ」

 と山下さんは真面目だ。

「はゝあ」

「三人からさ」

 と、それは弥次った奴。

「いや、少くとも四人から上さ。六人は欲しいね。男の子もあり女の子もあり、大きいのもあり小さいのもありで、真正の人生が分るのさ」

 と山下さんは我が田へ水を引く。

「時に山下さん」

「何ですかね?」

「あなたみたいに無事平穏で過して来た人は共に語るに足りませんよ。私のように六人生んで三人も殺すと、人生の深刻味がシミ/″\分ります」

 と子供を失った経験のあるものが主張する。

「君には一目も二目も置く」

「好い方ばかりが人生じゃありませんからね」

「御高説の通りだ。しかし深刻味はフル/\だよ」

 と山下さんは平に御免蒙る。

「人生は長いです」

「無論」

「子供ばかりじゃ何人あっても未だ尋常科です。孫の顔を見なければ、真正のことは分りません」

 と言う老輩ろうはいが部下にある。

「同感ですな」

「しかし初孫じゃ駄目です」

「おや/\」

 と山下さんもこの人にはかなわない。

「まあ、私でしょうな、この会社で真正に人生の分るのは」

「それは然うでしょう。あなたが模範ですよ」

「そんなこともありませんが、昨今漸く重荷を下しました。かえりみると人生はまあ斯うしたものかと、その何ですな、茫漠ぼうばくながら、要領を得たような心持がします」

 とこの老人は五人の子供の教育を立派に果しているから鼻が高い。しかし間もなく停年に達して引退すると共に、気がゆるんだのか、コロリと死んでしまった。

「人生が真正に分ると死ぬよ」

「矢っ張り分らないで生きていることだよ」

「要するに斯うやって生きているのが人生さ」

「終点に達してしまったんじゃ分っても仕方がない」

 とその当座皆種々いろいろの感想があった。

 山下さんは古い法学士で、鬢髪びんぱつ既に霜を置いているのに、二流会社の一課長に過ぎない。五六年前までは平社員で通して来た。次官や局長になっている同期生に較べると、畑が違った為めか、出世がおそい。一向に帝大閥の恩恵に浴していない。而も大の官学崇拝者だ。男の子は皆帝大ということに独りで定めている。女の子も私立学校へは決して入れない。山下さんは教育にも定見ていけんらしいものを持っている。但しそれは甚だ堅い。子供の数の場合のようにグラ/\していない。

 山下さん夫婦の屈託は既に卒業した子供と目下修業中の子供の二種類に分れている。長女の春子さんはもう良縁を得たから、これ丈けは完全に片付いた。後は長男に嫁を貰い次女と三女を嫁にやることで、既に今までも度々縁談があった。長男の俊一君は二十七、次女の安子さんと三女の芳子さんは年子で、二十三と二十二だ。皆年頃だから、お客さんが見えて、

「実は今日上りましたのは余の儀でもございませんが······

 と切り出す時、山下さんも細君もの子の儀だろうと先ず考えなければならない。一人でも可なり頭を悩ますのに、三人分塊っているのだから察しられる。

 修業中の次男三男四女四男の中では次男の二郎君が一番の難物になっている。この春中学校を終ったが、未だ高等学校へ入れない。官学崇拝の結果私学の発達が晩かった為め、日本には中学生と高等学校生徒の間に受験生という変則な学生時代がある。所属学校がないものだから、鳥打帽なぞかぶってノラクラしている。これを二三年続けられると親が溜まらない。二郎君は今それだ。もう二度失策しくじって、来年はもう厭だと言っている。縁談の方が先頃から一時終熄しゅうそくしているのを幸い差当りこの難物から紹介する。

 受験生の境遇に真正ほんとうの同情が出来るのはつぶさに受験生の経験を嘗めた者ばかりだ。兄さんの俊一君は常に二郎君の為めに執成とりなし役を勤めている。

「お母さん、二郎は決して頭が悪いんじゃありません」

 と最近も何かのついでをもって主張した。

「来年は何うでしょうね? この頃は少し自暴気味やけぎみで余り勉強もしていないようですが」

 とお母さんは二郎君のことゝいうと顔が暗くなる。今までは皆成績が好くて褒められ続けて来たのに、二郎君が悪い記録を拵えた。

「駄目でしょう、大抵」

「困りますわね。お前からもっと厳しく言って下さいよ」

「いや、あれは矢っ張り本人の希望通りにしてやる方が宜いです」

「活動の監督ですか? そんなこととても問題にならないじゃありませんか?」

「いゝえ、あれはほんの気紛れに言うんです。小さい時に電車の監督になりたがったのも同じことでしょう」

「それじゃ何うすれば宜いの?」

「本人の希望の学校へやるんです」

「早稲田ですか?」

うです」

「私立ですよ」

「お母さん、この頃は私立も官立も同じことです。っとも差異かわりありません。しかし二郎は官立の型にまらない頭ですからね」

「同じことなら何方どっちへでも嵌まりそうなものじゃありませんの?」

「さあ、それが然う行かないんです」

 と俊一君は詰まった。

「私立が官立より好いってことはありませんよ」

 とお母さんも山下さんの感化を受けている。

「好いとは申しません。同じことです。二郎のは我儘な頭ですから、好きな学科は図抜けて出来る代りに、嫌いなものは全然いけません。しかし私立は官立と違いますから······

「それ御覧なさい」

「いゝえ、制度が違うんです」

「制度が違って同じってことはありませんよ」

「入学試験の制度です」

 と俊一君も苦しい。内容に於ては私学官学に甲乙ないことを力説した後、二郎君の性格に及んで、

「彼奴は型に嵌まりません。中学校で先生に睨まれて物理化学が悉皆すっかり嫌いになってしまったのです。ところが高等学校の入学試験には物理化学がありますからとても駄目です」

「学科のいをするってことを先生が仰有いましたが、矢っ張りそれが悪かったんですね」

「その先生ですよ、二郎にやり込められたのは」

「まあ」

「嫌いで下調をして行かないからいつも出来が悪いんでしょう。先生は或時小言を仰有って『しっかりし給え。ワットは君ぐらいの時もう蒸汽のことを考えていたぜ』と皮肉ったんです。二郎は負けていません。『ナポレオンは先生ぐらいの時もうフランス皇帝になっていましたよ』とやり返しました。先生悉皆すっかりおこってしまったのです。無理もありませんよ」

「困りものね。真正ほんとうに」

「口が達者ですからね。気心はそれほど悪くなくても誤解されます」

「お父さんもそれは承知よ。あの子は押えつけても駄目だと仰有っています」

「お母さん、あゝいうのを手放して田舎の高等学校へやるのは実際考え物ですよ。家で監督していてもその通りですからね」

「それは私も心配していますのよ」

 とお母さんは手放す問題になると弱い。俊一君はそこがつけ目だ。

「頭の押え手がなくなりますから何を仕出来しでかすかも知れません」

「京都だと叔父さんの家へ頼めますけれど、京都はとても難かしいんですってね」

「一高と大同小異です。やれば何うしたって高知か弘前でしょう。遠いですよ」

「考えものね」

「監督が必要です」

「家から通わせるに越したことはありませんが、私立ではねえ」

「私立も官立も同じことです」

「違いますよ。私が何も知らないと思って」

「多少違っても卒業して実社会へ立てば人間本位です。運もあります。斯う言っちゃ何ですが、お父さんなんか昔の帝大出にしては出世していません。社長さんは私立出ですよ」

 と俊一君は尚おしきりに説いた。

 山下さんも二郎君が目下の大屈託だ。三男の雅男君は中学の四年生だから、来年は高等学校を受ける。この方は今までのところ申分ない。

「お前も法科をやるかい?」

「はあ。しかし官吏になります」

 とハキ/\していて、お父さんの期待以上のことを言う。二人一緒に入学試験を受けて、弟が合格、兄貴が落第というようなことになっては困る。しかしその懸念の為め弟の方を一年待たせるのも馬鹿げている。それやこれやで思い悩んでいるのだが、二郎君は一向平気だ。

「二郎、一寸ちょっとお入り」

 と山下さんは或晩書斎から呼んだ。縁側を通る姿が見えたので、丁度考えていた折から一つ訓戒くんかいを加える気になったのである。

「はあ」

 と二郎君は命に従った。

うだね? この頃は勉強しているかい?」

「したりしなかったりです」

「もう間もなく此年ことしも暮れるが、決心がついたかい?」

「はあ」

「本気になってやるかな?」

「早稲田をやります」

「私立はいけないよ」

「しかし僕は田舎の高等学校へ行きたくないんです。東京にいないと人生が分りません」

えらいことを言うね」

 と山下さんは自分の口癖に思い当って、おぼえず相好そうごうを崩した。

「僕は物理や化学はもう厭です。とてもやる気になりません」

「それだから私立へ逃げるんだね?」

「違います。嫌いな学科が試験に出るからです」

「何うもお前は奮発心がなくていけない。楽な方へばかり行きたがる」

「いゝえ、お父さん、早稲田は田舎の高等学校よりもむずかしいんです」

「そんなことはないよ、私立だもの」

「いゝえ、お父さんはこの頃の学校のことはっとも御存知ないんです」

 と二郎君はテキパキはしている。しかしお父さんの意向に頓着とんじゃくしない。

「兎に角、わしは自分が帝大だから、子供も帝大へやりたい」

············

「お前は何うしても文科をやりたいのかい?」

「はい」

「それじゃ文科をやりなさい」

「はあ。有難うございます」

「しかし帝大の文科が好い。一生の損徳そんとくわかれ目だから、早稲田の方はもう一遍考え直して御覧。正月になってから返辞をしなさい」

「はあ」

「お前は石にかじりついてもという精神がないからいけない」

············

「お父さんなんか書生時代には随分やったものだよ」

············

「境遇が好過ぎるからだろう。お前に限ったことではないが、何うもこの頃の学生は堅忍不抜けんにんふばつの精神に乏しい。大きな弱点だよ」

············

「お前は螢雪けいせつこうということを知っているかい?」

「知っています」

「何ういう意味だい?」

「螢の光窓の雪です。小学校の唱歌にあります」

故事こじさ」

「それは存じません」

「参考の為めに話して聞かせようか。入学試験に出るかも知れないよ。車胤しゃいん、貧にして常に油を得ず。夏月かげつ練嚢れんのうに数十の螢火けいかを盛り、書をてらして読む。夜を以て日に継ぐ。うだね?」

「はあ」

「分るかい?」

「はあ」

孫康そんこう、家貧にして油なし。常に雪に映じて書を読む」

「二人ですか?」

うさ。何方どっちも豪い人だ」

「はあ」

「この精神がなければいけないよ」

「お父さん」

「何だね?」

「そんな豪い人が二人がかりでしたことを僕が一人でやるのは無理です」

「お前はそんな馬鹿な理窟を言うからいけない」

············

「車胤や孫康の勇猛心をもってすれば、高等学校の入学試験なんか難関でも何でもない。朝飯前に突破出来る」

 と山下さんは尚お懇々と且つ諭し且つ励ました。二郎君は黙々として聴いていたが、お許しを受けて書斎を出た時、

「今のは成っちょらん」

 と言った。

「困った奴だな」

 と山下さんは首を傾げた。

「成っちょらん」

 と縁側で又。

「実に心得違いな奴だ」

 と山下さんは考え込んだ。方針があるから決して高圧的に叱りつけない。斯ういうことは皆自分の徳が至らないのだと思っている。

「成っちょらん」

 と呟きながら、二郎君は兄さんの部屋へ入って行った。

「何うしたんだい?」

 と俊一君が訊いた。

「成っちょらんことをお父さんが仰有おっしゃるんですよ」

「何だ? 一体」

「僕に螢の光で本を読まなければいけないと仰有るんです」

「それはたとえだ。お前が怠けているからだ」

「譬にしても常識を欠いています。第一今頃螢はいません。夏でも螢は銀座あたりじゃ一疋五銭します。あれを五六十疋買った日には電球の何倍につくか知れません」

「そんな揚げ足を取っても駄目だよ。本気になって勉強しろ」

「ピンと来ないから成っちょらん」

 と二郎君は未だ不平だった。

「実はお前のことはお母さんにこの間お願いしてある」

「道理でお父さんは文科をやっても宜いと仰有いました」

「今かい?」

「えゝ」

「ふうむ。それは大成功だったよ」

「しかし帝大の文科が好いと仰有るんです」

「それはう来るにきまっている。しかしもう一息だよ。本気になって勉強していなさい」

「来年からやります」

「お母さんからももっと言って貰うし、高円寺の兄さんにも頼んで見る」

「あれは角張りだから駄目ですよ」

「何あに、学校の先生だから話が分る。それにお父さんに信用がある」

「角張りだから信用があるんです」

「まあ/\、おれに委して置け」

「兄さんは何故自分で言って下さらないんですか?」

「おれはいけない」

 と俊一君は諦めていた。

「何故です?」

「お父さんからアベコベに頼まれている。それだのにお前に同情するものだから、この頃信用がないんだ」

うまく言っていらあ」

「何だ?」

「ヘッヘヽヽヽ」

「何だい? 失敬な」

「そんな怖い顔をしても駄目です。僕は聞きましたよ」

「何を?」

「兄さんは早く貰いたいものだから、この頃は鼠のように猫をかぶって大人おとなしくしているんですって」

「誰がそんなことを言った?」

「芳子姉さんです」

「何と言ったか、もっと詳しく話して御覧」

「この間の縁談は先方むこうから断られたんですって。それは安子姉さんでしたよ」

「馬鹿を言やがる。それから?」

「兄さんが銀座のカッフェへ毎晩往くことが知れたものだから先方むこうで厭になったんですって」

「おれはカッフェへなんか滅多めったに行きやしない」

「表面然う軽く言って来たんでしょう。きずのつかないように」

「馬鹿!」

「兎に角、その為にお父さんの信用がなくなったんでしょう。真正ほんとうに些っともありませんよ。僕は怠けものだけれど、裏表がないからいんですって」

「それも安子かい?」

「えゝ」

「もう彼方あっちへ行け」

「はあ」

 と二郎君は立ち上った。

「一寸待て」

「何ですか?」

「これをやる」

 と俊一君は机の引出から祝儀袋を出して押しつけた。

「ボーナスですね」

「今日貰ったんだよ」

「大抵今日だろうと思って、実は探偵ながらやって来たんです」

ずるい奴だなあ」

「有難う」

「いつもの通り大きい順で来るように言っておくれ」

「はあ」

 と二郎君は大喜びをして立ち去った。

 俊一君はボーナスを貰った晩、弟妹に分けてやる。物々しく出頭させるけれど、沢山やると自分のお小遣がなくなるから、高は至ってすくない。

「厭ね。三円ばかりで呼び出して」

 と芳子さんが笑った。

「でも気は心よ」

 と安子さんが連れ立って俊一君の部屋へ入った。

「お前達はおれの悪口を言ったね」

 と俊一君は睨む真似をした。

「まあ!」

「何でしょう?」

 と安子さんと芳子さんは能く似た顔を見合せた。

「縁談のことなんか小さいものにしゃべっちゃ困るよ」

「私、そんな覚えっともないわ」

「私もよ」

「おれは早く貰いたくて猫のように鼠を被っているんだそうだよ」

 と俊一君が言い間違えた時、

「オホヽヽヽ」

 と二人は一度に笑い出して、

「兄さん、鼠のように猫じゃなくて?」

 と冷かした。

「それ見ろ。お前だ」

 と俊一君は芳子さんの手を捉えた。

「兄さん、御免なさい」

「お前達こそ早くお嫁に行きたいものだから、おれに早く貰わせたがるんだろう?」

「まあ! いやな兄さん!」

「厭な兄さん!」

 と二人はたくましい表情をした。

「ところでボーナスをやるぞ」

「恐れ入ります」

「オホヽ、お幾ら?」

「いつもの通りだ。もっとやろうと思ったが、悪口を言ったから止めた」

 と俊一君は机の中に用意して置いた祝儀袋を二人に渡して、

「三越へ持って行って、湯水のように使って来い」

 と言った。

「有難うございました」

 と二人がお礼を述べたのを切っかけに、

「兄さん、兄さん」

 と年下の連中が入って来た。



「お母さん、世界の労働階級で未だ曾つてストライキをしたことのないものがたった一つありますが、御存知ですか?」

 と長男の俊一君が訊いた。

「そんなむずかしいことが私に分るものですか」

 とお母さんは相手にならない。見ていた新聞を置いて立ちかけた。それに市電従業員怠業たいぎょうのことが出ていたので、ストライキの話になったのだった。

「お母さんですよ」

「何が?」

「ストライキをしない唯一の労働者ってのは母親だそうです」

「親を捉えて労働者だなんて、馬鹿ね、お前も」

「おや/\」

 と俊一君は頭を掻いた。

洒落しゃれ? それは」

「いや、譬えです。僕はお母さんやお父さんに同情しているんです」

うして?」

「随分大抵じゃなかったろうと思うんです」

「何がさ?」

「この人数でしょう? 僕は昨夜皆にボーナスを分けてやったんです」

うですってね。安子も芳子も沢山戴いたって、大喜びでしたよ」

「少し宛でも頭数は恐ろしいものです。これから洋服代を払うと、もうお正月の小遣が怪しくなります」

「厭ですよ」

 とお母さんは警戒した。

「ひどく信用がないんですな」

「お前のはいつも本当のお貸し下さいだからね」

「お返し致します。うも親から借りたものは忘れ易くていけません」

「あれはもう宜いのよ。催促じゃないのよ」

「それじゃこの際ですからお言葉に甘えましょう」

「矢っ張りずるいわね」

「ハッハヽヽヽ」

「オホヽヽヽヽ」

「これにつけても実際大抵じゃありますまいとツク/″\感じたんです」

うまいことばかり」

「いや。本当です」

「お世辞にも然う言われると、私も悪い気持はしませんよ」

「一人前になって自分でやって見ると能く分ります」

 と俊一君は本気だった。盆暮のボーナスを弟妹に分けてやるくらいの男だから、母親に思いやりがある。

「でもこの頃はこれで大分楽になったのよ」

「然うですかね」

「お前が一人卒業した丈けでも大変な違いよ」

「早くもっとお役に立ちたいものです」

「自分でやって行ってさえくれゝば何よりですわ。お父さんも何うせ当てには出来ないと仰有っています」

見括みくびられているんですな。しかし精々心掛けます。それから又一峠ですからね」

「三峠ですよ」

 とお母さんは縁談の意味だった。

 山下家は四男四女、今でこそ半数以上成人して大分手がかゝらなくなったが、以前は玩具箱を引っくりかえしたようだった。八人といえば生む丈けでも容易なことでない。育てる方が分業になっている金持の家庭とは違う。山下夫人はかたを顧みて能くしのぎをつけたものだと自分ながら感心するくらいだ。これが電車の運転手だったら、確かにストライキを何回もやっている。長男の俊一君は、そこを言ったのだった。しかし家庭の運転手は労働を労働と認めていない。車掌役の山下さんにしても同じことだ。早くから子供に縛られて、ついぞ一度大胆な骰子さいころを投げる決心がつかないでしまった。これ丈けの人数を抱えて失業をしては大変と、只管ひたすら消極的齧附主義かじりつきしゅぎを奉じて来たので、出世をしそこねた。夫婦の一生は全く子供の為めの一生だった。

 古い法学士で二流会社の課長は食い足らない。温厚な山下さんも時に腑甲斐なく感じる。しかし同窓には自分よりも悪いのが少数ある。上を見れば果しがない。それに成功した連中には妙に家庭の円満を欠くのや子供の好くないのが多い。然ういう旧友に会うと思いもかけない愚痴を聞かされる。山下さんはその都度つど

「金が出来ても子供が厄挫やくざものになっちゃ仕方がない。何あに、此方こっちだって生活に困るんじゃないからね」

 と自ら慰める。

「本当でございますよ。斯うして二人揃って子供を育てゝ行ければちっとも不足はございませんわ」

 と夫人も決して足掻あがかない。

 山下夫婦は子供を唯一の成功と心掛けている。大抵の家庭はうである。又然うであるのが本当だ。殊に子煩悩な山下さんは何かにつけて子供の自慢話をする。課員は心得たものだ。

「課長さんのところは皆御成績がおよろしいですが、何か秘伝がありますか? 参考の為めに承わらせて戴きたいものです」

 と御機嫌を取る。社長もずるい。昇給を半期延しても子供を褒めてやればいと思っている。

「山下君、一寸ちょっと

「何ですか?」

「君のところのお子さん達は実に優秀揃いだね」

う致しまして」

「僕のところは数でこそ負けないが、粗製濫造そせいらんぞうだから駄目だ」

「そんなこともありますまい」

「いや。君のところは実に敬服だよ。矢っ張り皆奥さんの遺伝だろう?」

「冗談仰有っちゃいけません」

 と山下さんは細君まで褒められた積りで嬉しがる。

 しかし他の有価物ゆうかぶつちがって子供は生身いきみである。苦労をかけることおびただしい。山下夫婦は心の休まる間がなかった。未だ皆小さかった頃は、風邪が流行はやると順繰りに引いて、結局戸籍面通りに枕が並んだ。痲疹はしかを三人一度にやったこともある。ジフテリヤもやった。何でも一人で済むことは滅多にない。夫人が末男ばつなん産褥中さんじょくちゅう長男長女がチブスで入院した時なぞは、山下さん、世の中が悉皆すっかり暗くなってしまった。

「あれは利いた。あの後白髪がポツ/\生えて来た」

 と未だに言っている。実に能くわずらったものである。季節々々の小児病に至っては決して流行に後れることがなかった。

「家の子は何でも屹度さきがけをするんでございますからね」

 と夫人がこぼした。

「いや。時稀ときたま殿後しんがりを勤めることもあるよ。しかし然ういう時は却って重いから、矢っ張り早くやって貰う方が宜い」

 と山下さんは免れ難い運命のように考えていた。かゝりつけのお医者さんは、

「又ですか? 今度は何方どなたです?」

 と訊きながら、気の毒そうな顔をして上り込んだものだった。子供が唯一の屈託だから騒ぎも大きい。熱が三日も続くと、山下さんは会社の仕事を其方退そっちのけにして、診察に立ち会う。

「何うでしょう? 大丈夫ですか?」

「流感ですよ」

「チブスや肺炎の徴候は見えませんか?」

 と悪い方ばかり考える。山下家の子供は病みつくのも早いが、手当が早いから直るのも早い。医者は斯ういう患家が書き入れだ。その都度命拾いだと思って有難がられる。

 或年の暮に山下夫人は、

「あなた、珍らしいことがございますのよ」

 と手柄顔に注進した。

「何だい?」

「いつにもないことでございます」

「さあ。何だろう?」

「薬価が唯七円五十銭で済みました」

「ふうむ。然ういえばこの頃は病人の苦労がなくなったね。もうソロ/\病み抜けるんだろう」

「皆大きくなったからですわ」

「それもある。何にしても有難いことだ」

 と山下さんは満足だった。薬価は家庭の暗さに正比例する。

 末男の英彦君ひでひこくんが尋常三年に進んだ頃から、お医者さんと※(二の字点、1-2-22)ほぼ縁が切れた。しかし同時に別口の心配が頭をもたげていた。苦労をして育て上げた女の子をとうの立たない中に手放さなければならない。その第一は長女の春子さんだった。女学校を出て専修科をやっていたから、未だ/\と思っている中に、もう二十二、捨てゝは置けない。同僚の娘さんが婚期を逸して二度目のところへ片付いたと聞いてから、お母さんは、

「春子や、もうウカ/\してはいられませんよ」

 と急に慌て始めた。

「何故? お母さん」

「お嫁に行かなければなりませんよ」

「私、参りませんわ。学校に残して戴いて、先生になりますわ」

 と女の子は大抵こんなことを言いながら、婦人雑誌で良人操縦法りょうじんそうじゅうほうを研究している。

 春子さんの下に二十はたちの安子さんと十九の芳子さんが控えていたから、世話好きの知合は既に仲人役を申出たことが度々あった。しかし山下夫婦がその都度体好く断るので、余程望みが高いと解されていた。

「何うです? 一つ御註文を仰有って下さい。御註文を」

 と特に仲人道楽の一知人はごうを煮やすくらいだった。

「あなた、衣笠きぬがささんにお頼み致しましょうか?」

 と或晩山下夫人はその人を思い出した。

「然うさね」

 と山下さんも考えていたところだった。

「あの方なら始終二つや三つ心当りがおありですよ」

「しかしその前に此方こっちの註文を具体的にめて置く必要がある。春子を呼んで訊いて見ようか?」

「訊いたって申しませんわ。私達で計らってやらなければ駄目でございますよ」

「それじゃ一つゆっくり相談しようか? 俺にも註文がある」

「私にもございます。春子はあゝいう我儘ものですから、しゅうとめのあるところなんかとても勤まりませんよ」

「それは俺も同感だ。しゅうともいけない。無係累むけいるいってことがわしの条件だ」

小姑こじゅうともないに越したことはありませんわ」

「無論さ。舅姑めがなければ、小姑はないにきまっている」

「身軽に限りますわ。子供が出来れば直ぐに苦労をするんですから」

「次男坊がい」

「次男で少し分けて貰えるようなのが宜しゅうございますわ」

「そんなに慾張る必要はないよ。本人さえしっかりしていれば」

「あなた、次男でも長男に間違があれば責任がかゝって参りますわ」

「三男なら大丈夫だろう」

「下ほど安心ですわ」

 と夫人は見上げた心掛だ。長男の俊一君へ来るお嫁さんは舅姑め小姑と有らゆる係累を持つことになるが、それは棚へ上げている。

「三男か四男で帝大出の秀才さ」

「帝大と限りますと範囲が狭くなりませんこと?」

「それは仕方がないさ。優秀な階級は何うせ広くはない」

「広く探す方がかないでしょうか? 商人あきんどでも大きくやっているところなら結構でございますよ」

「必ずしも官吏や会社員とは限らないが、俺も帝大だし、俊一も帝大だからね」

ほかの条件さえ揃っていれば、私立でも我慢致しましょうよ」

「いや、帝大のいところが矢っ張り間違なくて安心だよ」

「それは又その時の御相談に致しますわ」

「同じ秀才でも私立と官立は違う。末の見込は何うしても帝大出だよ」

 と山下さんは一向帝大えもしていないのに、無暗と愛校心が強い。斯ういうのがあるから、学校も持って行く。

 門戸を開放すると間もなく衣笠さんが同時に二口ふたくち持ち込んだ。しかし一つは私立出だった。もう一つは帝大出で可なりの秀才らしかったが、両親が揃っている上に、旧藩主から学資を借りて勉強したので十年間弁済べんさいの責務があった。

何方どっちか何うです?」

とても問題になりませんな」

「それじゃ今度は帝大出の無疵むきずものを持って参りましょう」

 と衣笠さんは品物扱いだった。

「彼奴はいけないよ。もう相手になるな」

 と山下さんは細君に命じた。

 次に全く別方面から来た縁談が大分長びいた。山下さんの註文通り帝大出だったが、席次はビリから数える方が早い。マラソンの選手だそうだけれど、そんなことは出世の足しにならない。しかし金持の次男坊で長男が極く丈夫な上に、世帯を持てば、可なり分けて貰う約束がある。妹は子爵家へ片付いている。山下夫人はこの辺がことごとくお気に召した。但し風采ふうさいは余り好くない。少し藪睨みだ。

「このお写真は光線の具合で少し変になっていますが、お見合をなされば、必ず御疑問が晴れます」

 と仲人は初めからその点を弁解していた。

う? 春子」

 とお母さんは時々促した。

「私、もう少時しばらく考えさせて戴きますわ」

「俸給もいじゃありませんか? 百二十円にボーナスがそれ丈けなら二百四十円よ」

「俸給にも私、疑問がございますわ」

「何うして?」

「卒業してから三年ばかりでそんなに取れる筈はありませんわ」

 と春子さんは用心深い。

「でも渋沢系しぶさわけいの会社よ。渋沢さんと御親類ですからね」

「もっと延す方が宜いよ。見合をすると責任になる」

 とお父さんは成績が気に入らない上に、仲人に疑問がある。年来の交際ではない。無論相応の身分らしいが、出入の呉服屋の得意先という丈けで、素性すじょうしかと分らない。

「斯う長引くと折角の機会を逸してしまいますわ」

 とお母さんは良縁と思い込んでいる。

「あの老人は渋沢に会ったの浅野が何と言ったのと、何うも話が大き過ぎる」

「それは縁談に関係ございませんわ」

「いや。わしはあゝいうのは嫌いだ」

「仲人の好き嫌いでお定めになっちゃ困りますよ」

「俺丈けの考えなら、もう初めから定っている。お前が進んでいるから打ち切らないのさ。仲人の言うことばかり聴いていないで、一つ念晴ねんばらしの為めにわしが直接調べて見よう」

 と山下さんは手っ取り早く片付ける積りだった。

 仲人なこうどの奥さんも度々訪ねて来て、山下夫人とかなり親しくなった。或晩のこと、夫人は、

「あなた、今日は藤田さんの奥さんから面白いお話を承わりましたよ」

 と思い出した。

「又来たのかい?」

「はあ、この間傘を貸して上げたものですから」

「あれは藤田さんに負けない。く喋る女だよ」

「奥さんの方がお若過ぎると思っていましたが、その次第わけが今日分りましたの」

「後妻だろう。無論」

「それまでは仰有いませんでしたが、兎に角二十四違うんですって」

「ふうむ」

「藤田さんも寅で、奥さんも寅ですって。仲人に寅だと聞かされて、寅なら十二違いだと思って貰われて来て見ましたら、二十四違っていたんですって。一廻りだまされたんですって。オホヽヽヽ」

「それ見ろ。その通り彼奴等あいつらは狸のだまし合いだ。もう断ってしまえ」

 と山下さんは厳しかった。

「はあ」

「そんな好い加減な奴等に仲人をされて溜まるものか」

「私もこの頃はうも時々お話に辻褄つじつまの合わないところがあると思っていました」

「会社の人から聞いたが、呉服屋や百貨店員の手引きで来る仲人は一切いけないようだ」

「何故でございましょう?」

「話が纒まれば義理にもその呉服屋なり百貨店へなり支度を註文する。あの爺は越前屋から日当でも貰っているんだろう」

「恐ろしいものでございますわね」

 と夫人は一つ学問をした。

「その他種々いろいろな仲人屋があるそうだから、うっかり出来ないぞ」

「気をつけましょう」

「身許の分った仲人の外は相手にしちゃいけない」

「して見ると衣笠さんの方が安心ね」

「うむ。又あの男に頼もう」

 と山下さんも初めてのことで定見ていけんがない。

「これでもう三つになりますわ」

「ナカ/\思うようなのはないものだね。何うせ来年だ。気を長く探すさ」

「来年は二十三でございますよ」

「来年中には片付ける」

「是非然うしたいものでございますわ」

 と夫人は期待を新年に繋いだ。

 正月の三日に山下さんは次席の斎藤さんのところへ年賀に行った。極く打ち解けた間柄で、家庭同志も往来ゆききしている。その折客間へ通ったら、モーニング姿でかしこまっている青年紳士に直面した。斎藤さんは挨拶を済ませると直ぐに、

「山下君、これは、長船おさふねろうくんといって、○○高等学校の先生です」

 と紹介した。

「私は山下と申します」

「課長ですよ。私の方の」

 と斎藤さんがつけ足した。

「はゝあ」

 とモーニングの先客は両手をついて這いつくばった。

「○○高等学校というと私立ですか?」

 と山下さんは官私の別が直ぐに気になる。

公立こうりつでございます」

「近頃出来たのですな?」

「はあ」

「長船君は帝大を二度卒業している秀才ですよ」

 と斎藤さんが推賞すいしょうした。

「はゝあ」

「文学士法学士です。長船君、山下さんも法科ですよ」

「これは/\。後輩としてうぞ特にお見知り置きを願い上げます」

 と長船君は又平伏した。

「高等学校は何処でした?」

「一高でございます」

「はゝあ。これも私が先輩です」

 と山下さんが言った時、奥さんが現れた。

「旧年中は種々いろいろとお世話になりまして······

 と婦人特有の長々しい挨拶が始まる。青年紳士はその終るのを待っていて、

「それでは先生」

 と鎌首かまくびを持ち上げた。山下さんは先輩という関係から、自分のことかと思ったが、斎藤さんが引き取って、

「まあいじゃないか? ゆっくり話して行き給え」

 と止めた。

「有難う存じますが、未だこれから廻る予定が三十軒からございます」

「それは大変だね」

然様さようなれば山下様」

「はあ」

 と山下さん、少し驚いた。

「先生、奥様、御機嫌宜しゅう」

 とモーニングの青年は礼儀正しくうやまって帰って行った。

「恐ろしく四角張った男だね」

 と山下さんは感心した。

「この頃の若いものには珍らしい堅人かたじんだよ」

 と斎藤さんは笑っていた。

「昔の武士さむらいって感じがある」

「確か士族だったろう」

「先生と言ったが、君は先生をしたことがあるのかい?」

「あるとも。一年ばかり田舎の中学校で英語を教えたよ」

「これは初耳だね。君の旧悪は随分聞いているけれど」

「オホヽヽヽ」

 と奥さんが存在を示した。

 それから続いた世間話の中に、山下さんは、

「奥さん、此年は是非一人縁づけようと思っていますから、何うぞ宜しく願いますよ」

 と頼むことを忘れなかった。

「及ばずながら精々お心掛け申上げましょう」

「山下君、何うだね? 先刻さっきの男は」

 と斎藤さんが思いついて持ち出した。

「独身かい?」

だ貰わないと言っていたよ」

「法学士文学士だね」

「帝大って註文ならこの上はない。それに感心な男だよ。十何年前にたった一年教えた丈けだけれど、毎年あの通り年賀に来る」

「親があるだろう?」

「親のない奴があるものか」

「今あるかってんだ」

「さあ。お母さんと二人でいるとか言ったぜ」

「それはっと困るね」

 と山下さんは首を傾げた。

 先頃から俊一君は妹の婿の候補者がある度毎に図書館へ廻って大学一覧を見る役になっている。お父さんは長船君の調査を斎藤さんに頼む一方、俊一君にも命を下した。帝大を二重に卒業した秀才ということが気に入ったのである。しかし俊一君は失望して帰って来た。

「法科を先に出ていますが、何方どっちも余り好くありませんよ」

 と気の毒そうだった。

「何番だい?」

「法科はビリから十番、文科は張出はりだしです」

「張出というと?」

追試験ついしけんです。番外です」

「おや/\」

「英語と心理ですが、とても秀才じゃありませんな」

「しかし両方出ているんだからね」

 とお父さんはそこに重きを置いている。

何方どっちか好さそうなものですが、怠けたんでしょうか?」

「怠けるような人物じゃない」

「何ならもっと調べて見ましょうか?」

うさね」

「法科は僕の友達の兄さんと同期ですから、何んな人物かぐらいは訊けば分ります」

「念の為め一つ頼もうか?」

「明日寄って見ましょう」

 と俊一君は再び調査を引き受けた。

 友人の兄さんはその候補者と可なり懇意の間柄で、

長船君おさふねくんですか? あれは堅人ですよ。当代稀に見る君子人です」

 という最高推薦だった。

「成績は何んな風でしたか?」

「困りましたな。屹度然うおいでになると思いました」

「一覧を見ると席次が悪いです」

「斯ういうことがあるだろうと思って、僕は始終忠告したんです」

「勉強しなかったんですか?」

「いや、ナカ/\の努力家ですが、道理わけがあるんです」

「はゝあ」

「聖人君子の心境を持って試験場に臨みますから、迚も好い点の取れる筈はありません」

「何ういう意味でしょう?」

「自己以上に見て貰おうという気がっともないんです。お互は試験となると、知らないことでも知っているように書きますが、長船君はそれが出来ません。完全に知っていることの外は決して答えませんから、口頭でも筆記でも損ばかりしていました」

融通ゆうずうが利かないんですね?」

「露骨に言えば馬鹿正直です。折角出来た答案の後へ『以上の如くノートにて読みたるやに思う』なぞと書き足しますから、教授の方で判断に苦しみます」

「少し何うかしているんじゃないでしょうか?」

「いや、謹直きんちょくですから、う思ったら然う断らないと気が済まないんです。しかし世渡りには損な性分しょうぶんです。就職の面会に行っても、この調子ですから、採用されっこありません。僕はもう駈引のらない方面へ向うと言って文科をやり直しましたが、確か心理学でしたろう?」

「然うです」

「要するに堅人のコチ/\です。石橋を叩いて渡ると言いますが、長船君は叩いて見て、この石橋は堅きやに思うと言う丈けです。ナカ/\渡りません」

「成績は兎に角、頭そのものはうでしょうか?」

「答案を半分しか書きませんから、奥底が分りませんが、無論普通以上ですよ」

「有難うございました」

「お婿さんとしてはこの上ない安全な人です。何分堅いですからな」

 と人格丈けは何処までも請合うけあいのようだった。

 俊一君は家へ帰って逐一報告した後、

「何うも要領を得ない人物です。堅いことは保証つきですが、余程えらいのか余程愚図でしょう」

 と疑問を残した。

「変人だと困りますわね」

 とお母さんも懸念して、長船君、一時不評判だったが、お父さんは、

「好い方へ変っているんだからね。学問は兎に角、道義上の秀才とも考えられる。帝大出という条件には二重に叶っているんだから、もう少し研究して見よう」

 と弁護の地位に立った。

「春子は何う?」

 とお母さんは一思いに首を横に振って貰いたかったが、春子さんは、

「私、お父さんお母さんのお考えにお委せ致しますわ」

 と丁度その日斎藤家から速達で手に入った写真がお気に召した。

 その後、斎藤さんの外に数箇所手蔓を辿たどって問合せた結果も皆堅人ということに一致した。

「余っ程堅いのね、この人は」

 とお母さんが先ず動かされた。

彼方あちらでも堅人と仰有る。此方でも堅人と仰有る。お母さん、これは案外目っけものですよ。しょうの知れない秀才よりも安心です」

 と次に俊一君が好意を持ち始めた。堅人で卒業成績を償ったのだから豪い。長船君は結局縁があった。



 山下家の長女春子さんと長船君の縁談はナカ/\念が入った。調査の結果、申分ない堅人と納得が行った頃、仲人の斎藤さんはソロ/\しびれを切らして、

「君、何方かに定め給え。長船君が又やって来たよ。僕は間に立って困る」

 と言い出した。

「失敬々々。改めて御返事に上ろうと思っていたところだ」

 と山下さんも自分の意向丈けは定っていた。

「長引いて厭気いやきがさすと困る」

「何んな具合だね?」

「矢っ張り進んでいる。写真で大抵分っていますが、何ういうお方でしょうかって、もっと具体的に知りたいのらしい」

「此方でも毎日同じようなことを言っているんだよ」

「それじゃ見合をすれば宜いじゃないか?」

「その相談中だが、註文がむつかしくて困るんだ」

「気に入らないのかい?」

「いや、見たいと言っているから、気には入っているようだ」

「それなら見合に異存はないんだね?」

「いや、見たいが、見られたくはないと言うんだ」

「要領を得ないね」

「見られると恥かしいのさ。娘としては無理もない話だろう? それで見られないで見合をする法はあるまいかと斯う言うんだ」

「そんな見合はないよ」

「一種の見合さ」

「いや、単に見だよ、片一方丈けだもの。合じゃない」

「見でも宜い。その見を一つ計らって貰えまいか?」

うするんだい?」

「君の家へ長船君をそれとなく招待して、次の間から春子が覗いて見るのさ」

「成程」

「少し無理な註文だけれども」

「宜しい。計らおう」

 と斎藤さんは引受けた。

「有難い」

「しかし下見丈けでお仕舞いにしたんじゃ残酷だぜ」

「そんなことは万一にもない積りだ。気に入れば直ぐに正式の見合をする」

「気に入るかしら?」

「大丈夫だ。何彼なにかと理窟をつけるのは悪く思っていない証拠さ」

「奴、試験下手だというから、落第しなければ宜いが」

「何あに、そんな危険があるようならうに打ち切ってしまう。充分見越しがついているから、こんな我儘なことを頼むのさ」

 と山下さんも手前勝手は承知の上だった。

 仲人がもとの先生と来ているので、お婿さん、一々自分の方から足を運ばなければならない。草鞋わらじ千足のたとえがアベコベになっている。長船君は或晩、召喚に応じて急遽斎藤家へ出頭した。

「先生、先日は意外の長座を致しまして、恐縮千万でございます。今日は又······

 と例によって堅い。

「いや、度々御足労をかけます。さあ、うぞ」

「はあ」

「さあ、何うぞ此方へ」

「はあ」

「お敷き下さい」

 と山下さんは斡旋する。隣室が茶の間で、そこには斎藤夫人と山下夫人と春子さんが長火鉢を囲んで控えている。

「春子さん」

 と斎藤夫人が囁いた。

「はあ」

「もう宜しいようでございますから、私、お茶を出します」

「はあ」

「その時あの隅を締め残して参りますから、ゆっくり御覧下さいませ」

「有難う存じます」

「見つからないようにね」

「大丈夫でございます」

 と春子さんはナカ/\もって恥かしいどころでない。至って事務的だった。

「奥さま」

 と山下夫人が声をひそめた。

「はあ」

「私達、お玄関へ履物を脱いで参りましたが、気取られはしませんでしたろうか?」

「手ぬかりはございません。直ぐに下駄箱へ仕舞わせました」

「恐れ入ります」

「唯今申上げました通り、お茶を持って参る時に······

「はあ」

「胸がドキ/\致しますわ」

「私も」

「こんなことじゃお泥棒なんか出来ませんわね」

 と斎藤夫人も緊張していた。

 客間では、

「例のお話ですが、余り長引くものですから、一寸経緯を申上げて置きたいと存じまして」

「はゝあ」

「手紙でも済んだのですが······

「いや、お伺い申上げようと存じていたところでした」

「山下という男はナカ/\の念使ねんつかいで、何をやっても急場の間には合いません」

「はゝあ」

「未だ当分手間がかゝりましょうよ」

「私も別に急ぐことはございませんが、母が大層気に入りまして、頻りに案じているものですから······

「君の方の調査はもう充分行き届いて、申分ないということになっています」

「はゝあ」

「君が堅いという話はソモ/\の初めからしてあるんですが、山下という男は馬鹿念を使います。石橋を叩いて見て、容易に渡りません。この石橋は堅きやに思うと言って、又考え直す口です」

「私が丁度その通りです」

「ハッハヽヽヽ」

「ハッハヽヽヽ」

いずれその中に見合ということになりましょうが、実は未だ叩いているらしいです」

「成程」

「そこへ持って来て、令嬢が又この頃の娘さんに似合わない内気な方ですからな」

「はゝあ」

「恥しがって、今までのところ単に『私、存じませんわ』と仰有る丈けで、一向らちが明きません」

「成程」

「それでいて君の写真を手放さないところを見ると、気に入っているには相違ありません。これはお母さんのお言葉ですから、確かなものです」

「はゝあ」

「要するに初心うぶなんですな」

淑女しゅくじょうあって欲しいです」

「この辺の事情を能く申上げて置かないと、長引く次第わけが分りませんので」

種々いろいろと御配慮恐れ入りました」

御領解ごりょうかいが願えれば、僕も安心していられます」

「いくらでもお待ち申上げます。然ういうお方ならこの上なしです。母は何方どっちかと申すと、頭の古い方ですから、この頃の出しゃばり娘は好みません」

「昨今は随分極端なのがありますからね」

「男性か女性か分らないようなモダン・ガールはブル/\ですよ」

「山下家は主人が堅造の上に奥さんが貞淑な方ですから、粗製濫造にも拘らず、お子さんは皆良いようです」

 と斎藤さんは宜しく応対している。

 夫人はお茶を入れて立った。しかし残して行った透間すきまが広過ぎたので、春子さんはうっかり覗くと見つかるおそれがあった。

「駄目よ」

「斯う廻って逆に見て御覧。そら/\」

 とお母さんが智恵をつけた。何うも具合が悪い。それでも二三回覗いた。

「お母さん」

 と春子さんは不安そうな顔をした。

「何あに」

「頭が禿げていてよ」

うね」

 とお母さんも首を傾げた。そこへ斎藤夫人が戻って来て、

如何いかがでございましたの?」

 とニコ/\しながら訊いた。

たった一目」

「ナカ/\御立派でございましょう?」

「けれども奥さま」

 と山下夫人は故障があった。

「はあ?」

「後姿丈けでございましたが、大分頭が禿げていますわね」

「あらまあ! オホヽヽヽ」

 と斎藤夫人は笑い出して、慌てゝ口を覆った。

············

············

「何でございますの?」

「あれは主人よ。オホヽ」

「まあ! オホヽ」

 と山下夫人も苦しい。

「奥さま」

「はあ」

「私、主人の頭の禿げていることをツケ/\言われたのはこれが初めてでございますよ」

「何うも相済みません」

「オホヽヽヽ」

「オホヽヽヽ」

 と二人、又笑い出す。芳紀としごろの春子さんに至ってはたもとくわえて突っ伏していた。

「賑かだね。お客さまかい?」

 と主人公が襖越しに注意した。

「はあ、一寸ちょっと

 と奥さんが取り繕って答えた。夫婦と女中以外に誰もいないことを長船君は知っている。感づかれては大変と思って、斎藤さんはわざと訊いたのだった。

 茶の間は再び静まり返った。

「奥さま、今度はもっと細目にお残しを願います」

 と山下夫人が註文した。

「かしこまりました」

「勝手で恐れ入りますが、何うぞお早く、オホヽ」

「まあ/\、御ゆっくり」

「いゝえ、足元の暗い中に、あら、明るい中に」

「オホヽ」

「この通り慌てゝいるんでございますから、何うぞ」

「そこに如才じょさいはございません」

 と斎藤夫人は第二回用にお菓子を残して置いた。間もなくそれを持って立ったが、今度は気をつけて、一寸ぐらいしか透間を余さなかった。隅っこだから、これでは頭がつかえて覗けない。

「お母さん、又駄目よ」

「何うして?」

「壁が見える丈けよ」

「まあ! これじゃ仕方がないわ」

「もう少し残して下さるとね」

 と春子さんは歯痒はがゆがった。

「如何でございました?」

「いけませんのよ、奥さま」

 と山下夫人は又故障だった。

「何故?」

「御用心が過ぎて、今度はなんにも見えませんでしたの」

「おや/\」

「もう一遍お願い申上げます」

「今度は果物を持って参りましょう」

 と斎藤夫人はそれからそれと手段がある。

 客間では主人公、

「学校は相変らずお忙しいでしょう?」

「はあ」

「授業は講義ですか?」

「はあ」

「準備に相応時間がかゝりましょう?」

「はあ」

「英語もお教えでしたね?」

「はあ。ほんの少し」

「厄介でしょう?」

「はあ」

 と長船君は何うやら様子を気取けどったらしく、相手にばかり喋らせて、急に口数をかなくなった。

 その折から果物を持って出た奥さんに、

「お客さまは何方どなただい?」

 と斎藤さんが何気なく尋ねた。

「さあ」

 と夫人はその辺の打ち合せをしてないから困った。

「山下君の奥さんと春子さんじゃないかい?」

············

「然うだろう?」

 と斎藤さんは用捨ようしゃない。既に方針を変えて、覚られた上からはその場を有効に利用する決心がついていたのである。

「はあ。けれども」

「丁度好いよ。こゝで見合をしちゃうだろう?」

「あなた」

「何だい?」

「でも」

「私はもう失礼致します」

 と長船君はモジ/\した。茶の間には山下夫人と春子さんが顔を見合せて棒立ちになっていた。

「宜いですよ。まあ/\、お待ち下さい」

 と斎藤さんは長船君を制して、

「奥さん、奥さん」

 と襖に手をかけた。山下さんと違って気が早い。

「あなた! あなた!」

「何だい?」

「私、困りますわ」

 と夫人は引き止めて、

「まあ/\、私におまかせ下さいな」

 と金切り声を立てた。

「長船君、君は異存あるまいね?」

 と斎藤さんが訊いた。

「先生」

「何だい?」

「私はその積りで上ったのでありませんから、何うぞ先方の御意向にお委せを願います」

 と長船君は真っ四角になっていた。

「奥さま」

 と斎藤夫人は茶の間へ戻った。

「何う致しましょう?」

 と山下夫人が摺り寄った。

れた以上、このまゝお帰りになっちゃ気まずいわ」

「それも然うね。春子や」

············

「一寸お目にかゝりましょうか?」

············

「それともこのまゝ帰って?」

············

「春子さん、私達にお委せ下さいませな。決してお悪いようには計らいませんから」

 と、斎藤夫人は沈黙を受諾と解した。

「兎に角、御挨拶を申上げて帰りましょう」

 と山下夫人も退きならない。

「さあ、奥さんも春子さんも何うぞ此方へ」

 と斎藤さんがしょうじた。下見が見合になった。春子さんは俯向いていた。長船君は角張っていた。

 帰り途に春子さんは、

「私、もう斎藤さんの御夫婦を信用致しませんよ」

 と憤慨した。

「何故?」

「初めから二人共謀ぐるになっていて見合にしたんですわ」

「そんなことはないでしょう?」

「いゝえ、うよ。失礼ですわ、本当に」

「でも宜いじゃありませんか? 何うせ見合をすることに定っていたんですから」

「見合なら見合で、私、お支度がありましたわ。こんな普段着で見合をするものはございませんよ」

先方むこうも背広だったじゃありませんか? お互っこよ」

 とお母さんはなだめた。

 春子さんは長船君が気に入ったようでもあり、気に入らないようでもあった。

「何うだったね? 如何にも堅苦しい感じのする男だったろう?」

 というお父さんの批評に対しては、

「然うでもございませんでしたわ。斎藤さんと能く打ち解けてお話しになっていましたもの」

 と答えた。

「文学士法学士丈けあって、ナカ/\分った人らしいのね」

 というお母さんの推薦は、

「私、仰有ることが気に入りませんのよ。あの方、余っ程頭が古いんですわ」

 と叩きつけた。

「何故?」

「母が気に入ったとか何とかと、まるでお母さんのお嫁さんを探しているようですわ」

「それは自分の気に入ったと言いにくいからでしょう」

「卑怯ね、それじゃ」

「お友達なら兎に角、斎藤さんは昔の先生でございますからね」

「先生にしても仲人じゃありませんか? 矢っ張りあれが本音でしょう。母はモダン・ガールが嫌いだなんて、何でも母ですわ」

「それじゃ何う言えば宜いの?」

「もっと自分本位の考えを発表して戴きとうございますわ」

「気むずかしい人ね」

 とお母さんは呆れたように言ったが、

「まあ/\、ゆっくり考えて御覧なさい」

 と差当り追究を控えた。

 春子さんは翌朝、

「お母さん、私、あんな圧迫的な見合で定めること出来ませんよ」

 と自発的に申出た。

「あれは自然あゝなったんですわ」

「横暴よ、仲人が」

「斎藤さんは兎に角、長船さんは何う?」

············

「お前の考え次第でお話を進めるなり打ち切るなり致します。能く訊いて置いておくれってお父さんが仰有いましたよ」

「私、分りませんわ」

「昨夜お目にかゝった時の心持丈けで宜いのよ」

「でも唯睨み合ったばかりですもの」

「見合って皆あんなものですよ」

「母が母がって、悉皆すっかりお母さん本位なんですもの、本人の気心がっとも分りませんわ」

「それじゃ何うすれば宜いの? お断りしますの?」

············

「それともこのまゝ続けて進めますの?」

············

「何方?」

「私、一生のことですから、もっと慎重に研究して見たいんです」

「それは無論然うですが、何うすれば宜いの?」

「私、お目にかゝってお話して見たいと思いますの」

「結構ね」

「もう一遍斎藤さんにお頼みして戴けませんでしょうか?」

「でもあの仲人は横暴よ」

「厭よ、お母さん」

「早速お頼み致しましょう」

「口を利いたこともない人のところへお嫁に行くなんて、野蛮人なら兎に角」

「分っていますわ」

 とお母さんは承知だった。教育のある娘さんは見識を重んじる。相手が気に入っていても、何とか色をつけて貰わないと、何うも納まりが好くない。

 その午後、丁度誂え向きに斎藤夫人が前夜のお詫びながら訪れた。

「私達、決して共謀ぐるじゃございませんのよ」

 と頻りに弁解した時、

「しかし退っ引きならない責任者が一人ございますわ」

 と山下夫人が興じた。

「誰?」

「御主人。オホヽ」

「いゝえ、主人は全くそんな考えじゃなかったんですけれど、覚られてしまったものですから、苦しまぎれよ」

「その覚らせたのは御主人よ」

「御無理ね。私達が笑ったからですわ」

「笑った次第わけが御主人よ」

「お間違えになったのはあなた方のお勝手じゃございませんか?」

「でも、オホヽ」

「何でございますの?」

「髪の毛が生えていたら」

「あらまあ!」

「オホヽヽヽ」

「いつまでもたたる禿頭ね」

 と斎藤夫人も笑い出した。

 次の日曜に春子さんと長船君は斎藤家の客間で再び顔を合せた。

わしがいると又間違が起るから」

 と言って、主人公は朝から出てしまった。奥さんが二人の間を然るべく斡旋あっせんする手筈だった。しかし長船君は有名な堅人だから、唯角張って控えている。春子さんも伏目になって、モジ/\している。奥さんは長いこと独りでお喋りをした後、これは席を外す方が宜いと思って、

「それでは何うぞ御ゆっくり御話し下さい」

 と一礼した。

「奥さま」

 と春子さんが慌てゝ伸び上った。

「はあ」

············

「私、直ぐ参りますのよ」

············

「お庭で盆栽の手入をして居りますから、御用がおありでしたら、このお障子を開けてお呼び下さいませ」

 と断って、奥さんは出て行った。

だナカ/\お寒いですな」

 と長船君が先ず口を切った。

「はあ」

 と春子さんが受けて、話がポツ/\始まった。主に天気のことを論じたのだったが、少時しばらくあって奥さんが戻って来た頃には可なり寛いでいた。

「奥さん、この次の日曜にもう一度お邪魔をさせて戴きとうございますが······

 と長船君が言い出したので、奥さんは、

「何うぞ」

 と承知すると共に急いで又中座をして盆栽の手入を続けた。

 その次の日曜に第二回があった。

 斎藤さんは、

「寒いけれど仕方がない」

 と言って、又出掛けた。しかしこの度は奥さんも骨が折れなかった。二言三言お喋りをしている中に、

「奥さま、今日は盆栽のお手入は宜しゅうございますの?」

 と春子さんから催促を受けて、庭へ突き出されてしまった。御両人はもう意気投合したのだった。



 春子さんが斎藤家で長船君と第二回目の面会を果して帰った時、お母さんは待ち受けていて、

「何うでしたの?」

 と訊いた。

「私未だ定められませんわ」

「いゝえ、それは兎も角として、んな風な方?」

「人間の性格って、然う一ちょうせきに分るものじゃありませんわ」

「でも三度もお目にかゝって、何とか見当のつかないことはないでしょう?」

「三度じゃありませんわ。二度みたいなものよ」

 と春子さんはナカ/\本題に入らない。

「二度でもさ。黙って睨み合っていたんじゃございますまい?」

「はあ」

「お話申上げたんでしょう?」

「えゝ」

「それじゃ何う?」

「極く堅い方らしいのよ」

「それは保証つきですが、何んなお話をなすって?」

「これってことはございませんわ」

「斎藤さんも御一緒?」

「いゝえ」

「奥さんは?」

「お庭で盆栽のお手入れをしていなさいましたわ」

「それじゃ困ったでしょう?」

うでもございませんでしたわ」

「でもお話がなかったでしょう?」

「ございましたわ」

「世間話?」

「いゝえ、学問のお話よ」

「むずかしいのね」

「アダムとエバのお話もなさいましたわ」

「お伽噺とぎばなし?」

「えゝ。私が少し退屈したと思ったんでしょう」

「子供だましのようね」

「けれどもナカ/\面白いのよ。神さまがアダムの肋骨あばらぼねでエバを拵えたというのは、元来間違っているんですって」

「へゝえ」

「あれはユダヤ人の伝説ですが、アラビヤ人はう考えていないんですって。神さまがエバを拵えようと思ってアダムの肋骨を取ったところへ、犬が来て、それをくわえて行ったんですって。神さまは追っかけて、犬の尻尾を捉えたんですって。しかし犬が逃げたものですから、尻尾が手に残ったんですって。神さまは仕方なしに、その尻尾でエバを拵えたものですから、女ってものは直ぐに退屈するんですって」

「まあ、何故?」

「犬の尻尾は動き通しでしょう? 些っとも凝っとしていませんわ。その犬の尻尾で拵えたんですから、女ってものは余程修養をしないと、落ちつかないんですって」

「学者ってものは何でも遠廻しに言うものね。それからまだ何かありましたの?」

「お母さんにお分りになるようなお話はもうございませんわ」

「おや/\」

「哲学のお話ばかりですもの」

「それじゃ仕方ありませんわね。何れ斎藤さんへお礼に上って、御主人や奥さんのお考えを伺って見ましょう」

 とお母さんはもうその上追究しなかった。

 春子さんは長船君が気に入ったのだった。長船君が自分を貰いたがっている程度も悉皆すっかり分った。それで自然に委せて置けば都合通りに事が運ぶと思っているから、※(二の字点、1-2-22)わざわざ口に出して言う必要を認めない。

「何うだったい?」

 と兄さんの俊一君が訊いた時、

「存じませんよ」

 と答えた。妹の安子さんがチラリと顔を見て笑った時、凝っと睨みつけた。

「うっかり何か言うと叱られてよ」

 と安子さんは芳子さんに警戒した。それ以下の弟妹は物の数でない。縁談のあることを知らずにいた。

 お母さんは翌日早速斎藤夫人を訪れた。

「あらまあ、奥さま、これから伺おうと思っていたところでございました」

 と斎藤夫人は、成程、支度をしていた。

「何うも恐れ入ります」

「さ。何うぞ」

「は」

 と山下夫人は客間へ案内されて、

「先日は態※(二の字点、1-2-22)お出下さいまして、昨日は春子が又······

 とお礼を申述べた。

「奥さま、大分お話が合うようでございますよ」

 と斎藤夫人はつまんで報告した。縁談というものは関係して見ると妙に引き込まれて、無暗に纒めたくなる。人間の持っている建設的本能に強く訴える。殊に良縁と信じているから、奥さんは一意専心だった。

種々いろいろと有難うございました」

 と山下夫人は安心した。

「仲人って、ナカ/\大変なものね」

「お察し申上げますわ。春子は特別我儘ものでございますから」

「御恩に着せるにはだ早うございますけれど。オホヽヽヽ」

「オホヽヽヽ」

「お蔭さまで宅も私も風邪をひいてしまいましたの」

「あらまあ」

「私、お邪魔になっちゃいけないと思って、庭へ下りて二時間も盆栽の手入れをしていましたわ」

「まあ/\」

「未だお寒いんでございますからね。その中に、私、くしゃみが出て参りましたの。長船さんとお二人で私の悪口を仰有っていたのかも知れませんわ」

「まさか」

「主人は主人で、朝からはずしまして、お友達のところへ伺ったんですが、稀の日曜ですから何処もお留守で、三四軒歩く中に矢張り嚔が出始めたんですって」

「オホヽヽヽ」

「それでこの上は私達、もう御免蒙りたいんでございますの。オホヽヽヽ」

「奥さま、今手放されては困りますわ」

「お話には幾らでも乗りますが、あれぐらいお親しくなれば、もう大丈夫でしょうから、これからはお宅さまへ直接上るようにって、私、長船さんに申上げましたのよ」

「結構でございますわ」

「春子さんもそれに御異議はないようでございましたのよ。何とか仰有いませんでしたこと?」

「いゝえ、一向」

「お家へお帰りになると、矢張り含羞はにかんでいらっしゃいますのね」

「人間の性格は一朝一夕に分らないなんて、むずかしいことを申しますのよ」

「ナカ/\研究的ね」

「私達の頃とは違っていますわ」

「それはうでございますよ。学校の教育が進んでいますから自覚が出て参りました。主人も感心していますわ。成程、あれじゃこの頃の若いものは女房に頭が上らない筈ですって」

 と斎藤夫人も春子さんの態度に敬意を表していた。

 縁談は間もなく纒まって、春子さんはその夏から長船家おさふねけの人になった。入念に吟味した丈けあって、間違なかった。長船君は申分ないお婿さんである。実に堅い。月の第一日曜に相携えてお里へ遊びに来る。一日話した後、

「お父さん、お母さん、春子を三日間お預り下さい」

 と言って、自分丈け帰って行く。

「三郎さん、何うかしたんですか?」

 と山下さんは第一回の折、稍※(二の字点、1-2-22)不安を催した。

「いや、お約束です」

「はゝあ」

「挙式前のお話に、春子が百パーセントまで嫁入先の人にはなり切れないと申したのです。私も道理もっともと思って、九十パーセント丈けにお願い致しました」

「成程」

「必ず迎いに参ります」

 と長船君は三日目に又来て連れ戻る。

「春子や、三郎さんは何う?」

 とお母さんが訊く。

「コチ/\よ」

大切だいじにして下すって?」

「それはお約束よ」

「お母さんは?」

い人よ。御親切にして下さるわ」

 と春子さんも満足している証拠に、月々の三日が二日となり、一日となり、殊に子供が生れてからは百パーセントになり切ってしまって、一向姿を見せないこともある。

 長男の俊一君は春子さんの結婚と年を同うして帝大を出た。山下夫婦は一時重荷を下したような気がしたが、以来足かけ三年、次女の安子さんが二十三、三女の芳子さんが二十二、一寸油断している間に又縁談に追いつかれた。

「あなた」

 と山下夫人の督促は年が明けてから更に厳しくなった。

「春子も二十三で行ったんだから此年中に片付ければ宜いんだよ」

 と山下さんはもう聞かなくても分っている。

「私、今日安子と芳子をつれて銀座へ買物に参りましたのよ」

「ふうん」

「ツク/″\感じましたわ」

「何を?」

「電車の中で余所よその奥さん方が目引き袖引きしているじゃありませんか?」

「ふうん」

「ふうんじゃございませんわ」

「何だい? それじゃ」

「安子と芳子を双子と思ったんでございますよ」

「成程。ハッハヽヽ」

「笑いごとじゃございませんわ」

「年子で能く似ているからう見えるのさ。わしだって間違うことがあるよ」

「私、キマリが悪うございましたわ」

「それは仕方がないさ」

「ウカ/\しちゃいられませんわ」

「え? 一足飛びだね。っと話の筋が違うようじゃないかい?」

「あなたはそれだから駄目でございますよ」

 と夫人は有らゆる出来事を縁談に結びつけて、無暗に呉れ急ぐ。

 安子さんは姉さんの春子さん同様、高等女学校の本科を卒業した上に専修科を出ている。芳子さんも後一学期で姉さん達と同じ学歴になる。親の真剣な心持にも拘らず、この頃の娘さん達は呑気だ。早く嫁ぎたがらない。それでも一年に三人や四人、姉妹の同級生が夫れ/″\片付いて行く。

「木島さんがお定りになったそうよ」

 と安子さんはそれがお母さんの知った人の場合、話の中に出す。

「まあ/\、それはお芽出度うございましたね」

 とお母さんは祝った後が甚だたいらかでない。

「安子や、お前もウカ/\しちゃいられませんよ」

 と必ず来る。

「でも片付いた方は極く少いのよ」

「何人ぐらい?」

「さあ、未だ十人ぐらいのものでしょう」

 と安子さんは成るべく内輪に報告することを覚えた。

「本当?」

「御交際のない方は存じませんけれど」

「案外落ちついていますのね」

 とお母さんは稍※(二の字点、1-2-22)安堵の体だ。しかし次に芳子さんのお友達が結婚して、その噂が伝わって来るともういけない。

「安子や、本当にウカ/\しちゃいられませんよ」

「お母さん、芳子のお話よ」

「芳子のお話でもさ」

「芳子のお友達ですもの」

「芳子のお友達なら尚更のことじゃありませんか。ボンヤリしていちゃ困りますよ」

「私、何うしていればいんでしょう?」

 と安子さんは持て余す。

 二人分のお友達だから、縁談も二人分あるに相違ない。それをお母さんは如何にも頻繁ひんぱんのように感じて、その都度込み上げる。

 次女と三女を縁づける上に、長男の俊一君に貰ってやらなければならない。しかしこれは好いのがあるまで待たせて置けるとして、もう一つ当面の急務がある。それは次男坊の二郎君だ。高等学校を二度失策しくじって、今度は三度目になる。

 ||暮れ行くよ、受験生にてこの年も

 と雑記帳の表紙に自嘲をなぐり書いている通り、本人も辛かろうが、はたも気が気でない。元来受験生は健全な存在でないから、長くなると、慢性病者のような暗影を家庭へ投げる。殊に山下家は三男が特別優秀で、ズン/\追い迫って来る。後の烏が先になっては困るから、二郎君は昨今両親の胸中に可なり大きな屈託を占めている。

「二郎や」

 とお母さんが呼ぶ時は必ず受験のことだ。

「何ですか?」

「お前は一層のこと高円寺の兄さんの学校へ入れて戴いちゃ何う?」

「駄目ですよ」

「何故?」

「あすこもお父さんのお嫌いな私立です」

「私立でも、あすこなら高等学校ですから、帝大へ行けますよ」

「僕は帝大へは行きません」

「早稲田? 矢っ張り」

「はあ」

「お前は暮中考えてお父さんに申上げる筈じゃなかったの?」

「はあ」

「能く考えて見て?」

「はあ」

「仕方のない人ね」

「はあ」

 と二郎君は少し自暴やけになっている。

 その晩、お母さんから督促があったと見えて、お父さんは二郎君を書斎へ呼び入れた。

「二郎や」

「はあ」

「イヨ/\年も改まって、この頃は勉強しているだろうな?」

「はあ、やっています」

「高等学校は何処を受けることに決心がついたね?」

「何処も受けないことに決心しました」

「ふうむ」

············

「矢っ張り私立かい?」

「はあ」

「それもかろう」

 とお父さんは実際問題上、二郎君の勉強振りでは覚束おぼつかないことを承知している。しかし官学万能論者が見す/\自分の息子を私立へ入れるのは忌々いまいましくて仕方がない。

「お前のような我儘ものを地方へ手放すのも考えものだ」

 と、つい註解の中に愚痴が交った。

「それじゃ早稲田へやって戴けますか?」

 と二郎君は乗り出した。

「早稲田よりも○○は何うだい?」

「さあ」

「あすこなら兄さんに監督して貰える」

「角張りなんか駄目です」

「うむ?」

············

「高円寺の兄さんだよ」

「はあ」

「○○なら私立でも高等学校だから帝大へ行ける。同じ文科をやるにしても、帝大なら文学士だからね」

 とお父さんは駈け出しの文学士が中学校長になった時代を未だに頭に描いている。

「早稲田だって文学士です」

「文士さ、早稲田は。官途につけない。三郎兄さんのように公立高等学校の先生になれないよ」

「僕は文士になりたいんです。角張りを理想にしていません」

「角張りってのは何のことだい?」

「三郎兄さんのことです」

綽名あだなかい?」

「はあ」

 と二郎君は一寸頭を掻いて首を縮めた。

「お前は口が悪くていけない」

「僕がつけたんじゃありません。兄さんや姉さん達が然う言っているんです。お母さんまで時々仰有います」

「ふうむ。角張りってかい? 成程」

「角張り婿です」

「成程。ハッハヽヽヽ」

 とお父さんも可笑しくなった。

「四角張ったことばかり言うからです」

「俊一あたりがつけたんだろう。悪い奴だ」

「イワシカンてのもあります」

 と二郎君は御機嫌と見て取って、もう一つ紹介した。

「イワシカン?」

「はあ」

「英語かい?」

「いゝえ、いわしの鑵詰です」

「何ういう意味だい?」

方正堅実ほうせいけんじつの意味だそうです。あれは四角で堅いですからね。矢っ張り兄さんがつけたんです」

「成程」

 とお父さんは又自分が漠然と意識しているところを明快に言い現して貰ったような気持がしたが、感心していては宜しくないから、

「しかし人間は四角で堅いに限る。俊一なんかセルロイド製のモダン・ボーイで、少しもがっしりしたところがない」

 と当らず触らず警句を用いて戒めた積りだった。

「三郎兄さんだって、あれでナカ/\モダン・ボーイですよ」

「あれは謹厳そのものさ。古武士の面影がある」

「いゝえ、三郎兄さんは人前ばかりです。僕、知っています」

「そんなことがあるものか」

「僕は結婚前に遊びに来た時から知っているんです。皆がそばにいると、謹厳そのもので哲学の話ばかりしていますが、姉さんと二人きりだと、然うでもありません。僕は他の姉さん達に頼まれて、幾度も覗いてやりました」

「馬鹿だね」

「今でもうです。この間行った時は寒かったので、炬燵に当りながら話しました」

「お前の学校のことについて何か言いはしなかったかね?」

「仰有いました。創作家になるなら矢っ張り早稲田へ行って文科をやった方が宜いって仰有いました」

「ふうむ」

「お父さんは少し官僚だねって、首を傾げていました。『大官僚よ。公立じゃ駄目よ。官立へ転任なさらなければ信用がつきませんわ』って、姉さんが笑ったんです」

「ふうむ」

「そんな話をしながら炬燵に当っている中に僕の手をっとつねったものがありましたから、僕、姉さんだと思って、ウンと抓り返してやったんです。『痛い! 君だったのかい? おや/\』って、兄さん、変な顔をしていましたよ」

「それくらいな冗談はするだろうさ」

「姉さんの手と僕の手と間違えたんです。僕、やっちょるわいと思いました」

「馬鹿ばかり言うな。そんなことは何うでもい」

「はあ」

「学校は何うする?」

「早稲田へやって戴きます」

「高等学校は何うしても厭か?」

「はあ」

「それじゃ早稲田へ行きなさい。仕方がない」

「はあ」

「しかし勉強しなければ駄目だよ」

「はあ、方針さえ定めて戴けば、一生懸命にやります」

「到頭強情を張り通したね。宜しい」

「有難うございました」

 と二郎君は大喜びをして立ち去った。

 山下さんは一寸ちょっとの間考えた後、手を叩いて奥さんを呼んだ。

「何うでございましたの?」

「矢っ張りお前の言う通りだった」

「早稲田、早稲田って、今お茶の間の前を大元気で歌いながら通りましたよ」

「到頭やることにした。てこでも動く奴じゃない」

「それも宜しゅうございましょう」

「感心しないけれど、他に仕様がない。この間高円寺へやったのは懇々説きつけて貰う積りだったが、彼奴、三郎なんか眼中にないようだ」

「親の言うことさえ聴かないんですもの」

「それに俊一が又あれの顧問になって、新しがりを言うものだから益※(二の字点、1-2-22)いけない」

「でも、いつまでも受験生でクサ/\していられちゃ困りますからね」

「それも然うさ。本人の志望通りにしてやって、それで悪いようなら誰を恨むこともない」

「あなた」

「何だい?」

「二郎を早稲田へやるとお定めになったら、雅男に此年ことし受けさせても宜しいじゃございませんか?」

「それさ。それを相談しようと思って」

 と山下さんは三男の問題を考えていた。

「雅男は受けたいんですけれど、二郎と競争になると思って、あゝ申しているんですわ」

「呼んで御覧」

「はい」

 とお母さんは立って、雅男君をつれて来た。

「お坐り」

「はあ」

 と雅男君はニコ/\しながら着席した。山下さんは子供が親の前へ出て恐れるようではいけないという教育方針だ。

「何うだね? 此年受けて見るか?」

「さあ」

「兄さんは早稲田へ行くことにきまったよ」

「然うですってね。今大騒ぎをしています。俊一兄さんはインキだらけになりました」

「何うしたんだい?」

「二郎兄さんが、早稲田、早稲田、早稲田って入って行って、突如いきなり後ろから俊一兄さんに抱きついて引っくり返ったんです。兄さんは万年筆にインキを入れていましたから、浴びちゃったんです」

「インキをかい?」

「はあ」

「まあ!」

 とお母さんは又立って行った。大供おおどもが世話を焼かせる。

「それは然うと、雅男や、高等学校は何うだね? 受けて見るかい?」

「兄さんが早稲田へ行くようなら、やっても宜いです」

「兄さんは然う定ったんだよ」

「それじゃやります」

「支度は出来ているかい?」

「兎に角やっていますが、此年は場慣らしです」

「それで結構だよ。入れゝばこの上なしだけれど」

「地方なら大抵大丈夫です」

「出掛けるかい?」

「いや。一高をやります。逃げたなんて言われちゃ残念ですから」

 と雅男君は調子が好い。親の愛情に差別はないが、山下さんはこの三男が一番のお気に入りだ。

「何うなりました?」

 とそこへお母さんが入って来た。

「やるそうだよ、一高を」

「結構ですわ」

「しかしお母さん、余り期待して下すっちゃ困りますよ」

「試験は時の運で仕方ありませんけれど、成る丈けなら入って貰いたいものね」

「無論出来る丈けのことはします」

「英語丈けでも今から少し宛兄さんに見て貰っちゃ何う?」

「駄目ですよ、兄さんは。もう長くやらないものだから、辞書ばかり引いていて、面倒で仕方ありません」

「高円寺の兄さんよ」

「はゝあ」

「三郎兄さんなら学校で教えているんですから、お手のものでしょう?」

「しかし僕、三郎兄さんはいやです」

「何故?」

「痺れが切れます」

「厳格だから?」

「えゝ。角張りですもの」

「馬鹿ね」

「学校でやる丈けで沢山です」

「それじゃ受けることにして勉強しなさい。宜しい」

 とお父さんは雅男君を立たせた後、

「常子や、三郎のことを皆で角張りと言うようだが、何うしたものだね?」

 と訊いた。

「さあ」

「お前も言うそうじゃないか?」

「オホヽ。冗談に一二度申した丈けですわ」

「いけないね。俊一がつけたんだろう?」

「はあ。私、申上げたいと思っていましたが、俊一と三郎は何うもりが合いませんのよ」

「ふうむ」

「議論をしますの。俊一はあゝいう調子ですから、茶化すんです。三郎は真面目ですから、勃気むきになって憤るんです」

「それは困る」

「何方も何方ですからね」

「俊一を呼んで御覧」

「けれども俊一丈けにお小言を仰有っても駄目でございますよ」

「それは分っている」

「それなら呼んで参ります」

 とお母さんは又立った。ナカ/\忙しい。



 山下夫婦は妙な押し問答をしている。

「売れないよ、鉄瓶は」

「売れないことはありませんわ」

「売れない。他の品物とは性質が違う」

「性質が違っても必要品ですもの、売れないってことはありませんわ」

「家を御覧。世帯を持った時に買ったのを未だに使っている」

「いゝえ、あれから買いましたわ。これは人数が殖えてせんのじゃ間に合わなくなった時買ったんでございますよ。あなたは忘れていらっしゃるんです」

「それにしても、二つだろう? 後にも先にも」

「はあ」

「二人で二つというと、一人で一つだ。一生に一遍しか買わない」

「鉄瓶屋の方から言えば、一世帯に二つ売れていますわ。売れないってことはございませんよ」

「絶対に売れないとは言っていない。売れが遠いと言うんだ」

 と、鉄瓶が売れるか売れないかの争議である。

「分りましたよ。あなたのお心持が悉皆すっかり分りました」

うさ」

「私、未だ何とも申上げていませんわ」

「同じ商人あきんどでも魚屋なんかは品物が直ぐに消えてしまって後が利くから繁昌する。鉄瓶は一遍買えば子々孫々の代まである。その辺の道理が分れば宜いのさ」

「いゝえ、然うじゃございませんわ。帝大でないからお気に召さないんですわ」

「そんなことはないよ。帝大も商大も大学に変りはない」

「いゝえ、それを俊一と私とで無理に申上げたものですから、今度は商売にケチをおつけになるんですわ」

「然う曲解しちゃ困る。世の中には繁昌する性質の商売と身代限りをする性質の商売がある。安子の一生に関係することだから、そこを能く考えて見ろと言うんだ」

「鉄瓶屋だから身代限りするって理窟はございませんよ」

「今も話して聴かせた通り、品物の性質上、魚屋ほどは繁昌しないに定っている」

「それじゃあなたは魚屋から貰いに来れば、安子をお上げになりますか?」

「やるとも。帝大出の魚屋をつれて来なさい。喜んでやる」

 と山下さんは出来ない相談をする。

「それではあなたは京都へやることには御不同意でございますのね?」

「同意も不同意もない」

「何でございますの? それなら」

「未だ話が始まったばかりで考え中だ」

「又お手間がかゝりますのね」

 と夫人は山下さんの性分を知っている。差当りはそのまゝにした。

 この縁談は例の仲人道楽の衣笠さんが持ち込んだのである。つい先頃も一つあったが、思わしくないので直ぐお断りしてしまった。春子さんの時以来、衣笠さんはこれで四つ目だ。三度目の正直を通り越しているから一生懸命になっている。註文がむずかしい。帝大出身で成績優良のものというのだから、品払底を免れない。

「商大出なら可なりのがありますが、如何いかがでございましょうか?」

 と衣笠さんは大事を取って、予め電話で問合せた。

「結構でございましょう。官立なら文句は申させませんわ」

 と山下夫人が答えた。

「成績は中どころでございます」

「何処に勤めていらっしゃいますの?」

「使用人じゃありません。自家営業で素晴らしいんですよ」

「何御商売でいらっしゃいますか?」

「詳しいことはお目にかゝって申上げましょう。今晩御都合は如何でございましょうか?」

 と幾ら仲人屋でも電話で縁談でもあるまい。

「結構でございますが、何なら此方こちらから伺わせましょうか?」

「いや、それには及びませんよ。お二方に聴いて戴く方が早分りですから、是非私から伺います」

「それではお待ち申上げます。毎度恐れ入りますわね。我儘ばかり申上げて、本当に」

 と山下夫人は気の毒になった。

 帝大も商大も等しく官立だから、二者の間に上下の差別はない。衣笠さんは念の為めに問い合せたが、もとよりその積りだったから、劈頭へきとう第一に、

「学歴は御註文通りですよ。商科大学を可なりのところで出ています」

 と切り出した。

「はゝあ。帝大じゃないんですか?」

 と山下さんは既に夫人から聞いて知っているくせに、もう苦情めいた。斯ういう分らず屋を相手に、七重の膝を八重に折ってもお世話をしようというのだから、衣笠さんも一種の病気だ。

「東京の商大ですよ。官立です」

「官立には官立ですが、あれは近頃成り上ったんですよ」

「兎に角、官立大学ですから、広い意味に於いて帝国の大学です」

 とは衣笠さんも苦しい。

うは行かない」

「あなた、そんなことを仰有っていたんじゃ仕方ありませんわ」

 と夫人が注意した。

「商大だからいけないと言うんじゃない。帝大と違うと言ったのさ」

「違っても官立なら宜しいじゃございませんか?」

「無論悪いとは言っていない。衣笠さん、承わりましょう」

「商大を可なりの成績で出て、当年二十八歳、自家営業です」

「そこまではさいから聞きましたが、何ういう商売ですか?」

「京鉄瓶の製造元です」

「鉄瓶屋ですか?」

「はあ、ナカ/\大きくやっている家で、一流だそうです」

「常子や、何うだろうね? 鉄瓶屋とは思いがけなかった」

 と山下さんは夫人を顧みた。

「堅い御商売でございますわね」

鉄物かなものだから堅いには相違ないが、何だか働きがないようだね」

「いゝえ、京鉄瓶はいんでございますよ」

 と夫人は執成とりなさざるを得ない。

南部なんぶが何と言っても、京都には敵いません。値段も倍から違います。鉄気かなけの出ないこと請合うけあいです」

 と衣笠さんも順序として京鉄瓶の推薦をした。

「会社組織ですか?」

「いや、昔風の手堅い商家だそうです。大番頭が妻の身寄のものですから、家の様子は能く分っているつもりですし、尚お幾らでも問い合せます」

「京都の商人というと旧弊きゅうへいでしょうな?」

「いや、商大を出ていますから、頭は新しいそうです。その男が褒めていました。現に京都の女は昔風で厭だと言って、東京を探しているんです」

「しかし永久に京都にいるんでしょう?」

「それは然うです」

「あなた、お尋ねは後のことにして、詳しくお話して戴きましょうよ」

 と夫人が又注意した。

「よし/\」

「父親が去年果てまして、後を継いだばかりです。昔からの老鋪しにせですから、財産は随分ありましょう。同業者中でも屈指だそうです。宇治うじに別荘があります。店丈けでも雇人が十何人とか申しました。工場の方は······

 と衣笠さんは順序を立てゝ語り出した。簡潔を貴ぶ為めに、これを新聞の求婚広告風に書き改めて次に紹介する。

「京都著名老鋪ろうほ財数十万戸主家系由緒身健品正風采紳士さけ不嗜たしなまず店雇人十数工場雇人数十ははろういもうとかす弟分家無係累むけいるい

 全く申分ない。

「衣笠さん、これは結構過ぎますよ」

 と山下さんが言った。何とか文句をつけないと気が済まない。相手の性質を呑み込んでいる仲人は、

「何あに、話半分にお聞き下されば宜しいです。今のは一応余所行よそゆきを申上げたのに過ぎません」

 と底をって、

「本当のところは二十万でしょうな。店の雇人が七八名、工場が二三十名」

「駈引があるんですね」

「その代り割引を致しました。斯ういうお話は間に立つものが景気をつけたがって、倍に申すものですから、一人の手を経たら半分、二人の手を経たら四半分と見当をおつけになれば間違ありません」

「二十万の半分というと十万ですな」

「いや、二十万はもう割引済みで決着のところです。何しろ製造元で工場を持っているんですからな。それぐらいなければ立ち行きません」

「有難うございました。何れ考えた上で御返事申上げましょう」

 と山下さんは何うせ右から左へ即答する人でない。

 衣笠さんが辞し去った後、

「あなた、俊一を呼んで相談致しましょう」

 と夫人が申出た。

「それには及ばん」

「何故でございますか?」

「あれは馬鹿野郎だ」

「俊一でございますか?」

「いや、衣笠さ。何うもあの男は変なものばかり持って来る」

「それじゃお気に召しませんの?」

「鉄瓶屋じゃ仕方がないよ。俊一を呼ぶなら呼んで話して御覧。笑われるばかりだよ」

 と山下さんは考える余地もないようだった。

 俊一君がやって来て、親子三人少時しばらくこうべあつめた。

「月給取よりも斯ういう手堅い商家の方が安心でございますよ」

 とお母さんは進んでいた。山下さんも月給取だが、決してそれへ当てつけたのでない。

「俊一は何うだね?」

「会社員にやるとすれば、何れ僕と似たり寄ったりのところでしょう。貧乏しなけりゃなりませんよ。可哀そうです」

「安子は大ざっぱですから、余り切り詰めたところへは向きませんわ」

「お前は黙っていなさい。俊一の意見を訊いているんだ」

 と山下さんは制した。

「お母さんの仰有る通り、矢張り商家がかないでしょうか? 殊に然ういう手堅いところならば」

 と俊一君はお父さんの期待を裏切った。

「然ういうにも斯ういうにも手堅いかうか分らん」

「それは無論調査して見るんです」

「お前は賛成かい?」

「はあ。先方が衣笠さんの仰有る通りなら、安子の為めには結構な縁談だろうと思います」

「姉は○○高等学校教授文学士法学士夫人、妹は鉄瓶屋のおかみさん、何んなものだろうね? 釣合は」

「さあ」

「でも製造元でございますよ。店に坐っていて小売をするんじゃありませんわ」

 とお母さんはもうひらこうと努めた。

「それにしてもさ」

「あなたは商家がお嫌いですからね」

「然うでもないが、高商出身で鉄瓶屋というと如何にも下司張げすばっている。俊一、お前は然う感じないかい?」

「さあ」

「金属以外に些っとも色彩がない」

「それは何うせ哲学者とは多少違いましょう」

 と俊一君は暗に長船君をふうした。

「高商と仰有いますけれど、商大でございますよ。商学士じゃありませんか?」

 とお母さんも然う/\文学士法学士ばかりに花を持たせたくない。

「今は商大でも昔は高商さ」

「しかしもうずっと以前に昇格しているんです」

 と俊一君も学閥問題になると常にお父さんを遺憾に思っている。

わしの学生時代には一段下に見ていたものだ」

「以前は専門学校でしたから、仕方ありませんが、昨今は帝大と対等です。お父さんの会社でも卒業生を採用する時、同待遇じゃありませんか?」

「縞のズボンなんか穿いて、軽薄な奴等ばかりいる学校だったよ」

 と山下さんの頭には商大がない。三十年昔の高商がいつまでもこびりついている。

 鉄瓶が売れるか売れないかの争論はこの引き続きだった。夫人は時々伺いを立てるけれど、要領を得ない。山下さんはその都度未だ考え中だと言う。

「あなた、安子も進まないようですから、いっそのこと早くお断りになったら如何でございましょう?」

 と夫人は到頭ごうを煮やした。

「本人が厭がるようじゃ仕方がないね」

「いゝえ、あなたが『安子や、鉄瓶屋のお上さんになるかい?』なんて仰有るからですわ。はたで力を入れなくて、何うして行く気になるものですか」

「まあ、待ちなさい。もう少し考えて見る」

「いつまでもらちが明きませんのね」

「急ぐことはないよ」

 と山下さんはそのまゝ握り潰す算段だった。商大も気に入らないが、商家へ縁づける意思は毛頭ない。しかしそれを言い立てると議論になるから、単に鉄瓶の売れないことを力説する。

 衣笠さんから安子さんの写真を要求して来た時、山下夫人は、

「あなた、もうお断り申上げましょうよ」

 と最後の決定を促した。

「安子は何と言っているね?」

「厭だと申していますわ」

「それじゃ問題にならない」

「明日あたりおいでになってお断り申上げて下さい」

「打っちゃって置けばやって来る」

「そんな失礼なことは出来ませんわ。あゝして御親切に足を運んで下さるんですもの」

「それじゃ行こう。これは矢っ張り縁がなかったんだよ」

 と山下さんは思う壺だった。

「あなた、私、ついでながら伺って置きたいことがございますのよ」

「何だい?」

「商大がお気に召さなかったことは分っていますが、商家までもお気に召さないんでございますか?」

「そんなことはないよ。何故だい?」

「これから先も何れ方々へお頼みするんですから、商家はいけないならいけないとハッキリ仰有って戴く方が早分りでございますわ」

「商家だから何うの斯うのってことはない」

「本当でございましょうね?」

「嘘を言うものか。今度の縁談だって、商家だから進まなかったんじゃない。繁昌する性質の商家と身代限りをする性質の商家がある。鉄瓶はこの間からも言っている通り売れないに定っている」

「繁昌する商家なら魚屋でも宜いんでございましたわね」

「うむ。帝大出をつれて来なさい」

「分りました」

 と夫人は納得した。

 主人が分らないことを言う家庭では、主婦は必要上計略を用いるようになる。山下夫人もよんどころなかった。仰せに従っていれば、娘達が見す/\良縁を失う。鉄瓶屋を断った時、別に商家から口がかゝっていたので、それとなく念を押したのだった。山下さんは言質げんしつを取られたとは気がつかない。却って商家の撃退法を発明した積りでいた。

 先頃長女の春子さんが久しぶりで顔を見せて、お母さんの愚痴を聴いた後、

「お母さん、実は私も安子のことで伺いましたのよ」

 と言った。

「心当りでもあって?」

「えゝ、妙な関係ですわ。けれどもそんな風じゃとても駄目でしょうね、矢っ張り商家ですから」

「何屋?」

「眼鏡屋さんよ。ナカ/\大きいのよ」

「へえゝ。妙な関係って何んな関係?」

 とお母さんは膝を進めた。

「少し縁起が悪いのよ」

「まあ」

「家の墓地の隣りに関口家代々ってのがあるでしょう」

「えゝ」

「オホヽヽヽ」

「何が可笑しいの?」

「でもお母さん、そんな真剣な顔をなさるんですもの」

「でも縁談に墓地のお話なんか禁物きんもつでしょう」

「あれよ。あれは本郷の眼鏡屋さんよ」

「然う言えば聞いたことがありますわ。測量の機械屋さんじゃないの?」

「眼鏡が主よ。お母さんはこの間お彼岸に彼処あすこの方をお見受けしたでしょう?」

「えゝ。丁度来合せていましたよ、大人数で」

「あの時長男の方が安子を見初みそめたらしいのよ」

「まあ! お墓詣りに来て、厭な人ね」

「けれども私、これは縁があるのじゃなかろうかと思いますわ」

「何故?」

「その方の弟さんというのが三郎の学校の生徒で、三郎の監督生よ」

「まあ」

「去年の暮にお母さんがお礼ながらおいでになりましたの。何処かで見かけたようなお方だと存じましたが、その時は気がつきませんでした」

先方むこうも?」

「えゝ。ところが、この間そのお子さんが家へ遊びに参りましたの。又見かけたような顔でしょう。私、訊いて見ましたの、『何処かでお目にかゝったようね』って。すると先方むこうは覚えが好いわ。『青山の墓地です』って、仰有いました。『然うでしたわね。まあ』って、大笑いを致しましたわ」

「妙なことがあるものね」

「それから間もなくお母さんが又お見えになって、今度は名乗り合いましたのよ。来世らいせはお隣り同志でしょうから何うぞ御別懇ごべっこんになんて御冗談を仰有いましたわ」

「まあ、厭ねえ」

「お子さんの御成績が好くないそうですから、そのお話かと思っていましたら、安子のことをしきりにお訊きになりましたの」

「何て?」

「それとなくよ。だお話はございませんかの何れ何処かへお片付きでしょうのって」

「お前何と言ったの?」

「好いところがございましたらお世話を願いますって、お頼み致しましたわ。するとたくの長男もソロ/\探しているのですがって、お彼岸の時のお話をなさいましたの。大分気があるらしいのよ、その長男の方が」

 と春子さんの使命は斯ういう要領だった。

「耳よりね。幾つ? お年は」

「二十七と仰有いました」

「丁度そんな方がいましたよ。妹さんがおありでしょう?」

「えゝ。大勢らしいのよ」

「去年一人亡くなったのよ。お芽出度い方は分りませんが、悪い方丈けはお墓で直ぐに分りますわ」

「厭なお附き合いね」

「本当にね」

「三郎が昨日大学へ行った序に寄って参りましたの」

「関口さんへ?」

「えゝ」

「気の早い人達ね。お前達で引受けてしまったの?」

「いゝえ、お子さんのことで度々お出下さるからよ。無論序に様子を見て来て戴いたんですけれど」

「何んな風?」

「大きくやっているそうですわ」

「奥さんは安子を欲しいとか貰いたいとかとハッキリ仰有ったの?」

「お芽出度いお話を墓地の関係で持って上ったんじゃ何うせ塩花しおばなものでございましょうなんて、それとなく私達に頼み込んだ積りらしいのよ。察して上げなければなりませんわ」

「それで三郎さんが見に行ったの?」

「まあうよ」

「学校は何処卒業?」

「あら、大切だいじなことを忘れていました。帝大よ。経済学士よ。あつらえ向きじゃございませんか?」

「然うね」

「お父さんに申上げて見ましょうか?」

「駄目よ」

「何故?」

「商家ですもの。悪くこじらせれば、それっきりですわ。お前や私から持ち出せば、文句をつけるにきまっていますよ」

「でも好いところで安子が行く気になればい筈じゃございませんか?」

「理窟じゃないのよ。意地ですからね」

「そんなに分りませんの?」

「お前のお父さんだけれど、私はもう呆れていますのよ」

「三郎から言わせましょうか?」

うね」

「三郎なら信用がありますわ」

「それも言い方一つよ。先方むこうにお金があるなんて言ったら、もう駄目よ」

「むずかしいのね」

「一つ相談しましょう」

 とお母さんは策をめぐらす時節が来た。

 三郎君が訪れたのはその次の日曜だった。尤もその間にお母さんは高円寺へ抜け駈けをしてつぶさに打ち合せたのである。

「お父さま、お母さま、存じながらつい/\御無沙汰申訳もございません。御健勝で何よりに存じます」

 と長船おさふね君は相変らず角張っている。

うだね?」

「お蔭さまで一同頑健に暮して居ります」

「この間春子が坊やを見せに来てくれたよ。大きくなったね」

「はあ、その節は種々いろいろと」

「さあ。崩しなさい。洋服は窮屈だ」

「はあ」

「今日は閑だ。ゆっくり話そう」

 と山下さんは模範を示して胡坐あぐらをかいた。しかし三郎君は、

「今日伺いましたのは余の儀でもございません」

 と更に改まった。これが名人だから仕方がない。

「何だね?」

「御縁談を持って上りました」

「はゝあ。誰のだい?」

「安子さんのです」

「これは有難い。常子や」

「それは/\」

 とお母さんは予定の行動だった。

「帝大出身の経済学士です」

「何処へ勤めている?」

「自家営業です」

「はゝあ。何屋だね?」

「眼鏡屋です」

「眼鏡?」

「はあ」

「眼鏡は売れまい」

 と山下さんは早速第一弾を発した。しかし三郎君は悉皆すっかり研究して来ていた。

「売れます。お父さんは現にかけていられます」

わしは若い時からだが、世間に然う/\近眼はないよ」

「いや、随分あります。独逸ドイツの大学生は八十パーセントまで近眼です」

「独逸は独逸、日本は日本さ」

「日本の大学生は六十パーセントです」

「統計を調べて来たのかい?」

「はあ」

「しかし世間一般を見給え。眼鏡をかけている人よりもかけていない人の方が多い」

「違います。それは近眼鏡の場合です。老眼鏡に至りましては四十を越せば一人残らずかけます。お父さんも近眼鏡と老眼鏡を両方お使いでしょう?」

「それは然うさ」

「お母さんは如何いかがですか?」

「三四年前から眼鏡がないとこまかいものが見えませんのよ」

「何うでございますか? お父さん。眼鏡が売れないってことはありませんよ」

「無論相対的の話さ。売れまいと言った丈けで、絶対に否定したんじゃない」

「相対的のお話にしても、眼鏡は大いに売れる方です。鉄瓶のように一度買った丈けで、一生間に合うものじゃありません」

「あなた、この間のを春子に話したんでございますよ」

 とお母さんは感づかれるのを恐れた。

「近眼でも老眼でも度が進みます。その都度玉を買い替えなければなりません。又時々破れます。お父さんは学生時代から今までに幾つお買いになりましたか?」

「さあ。十ぐらい買っているかも知れない」

「近眼の人はみんなうです。眼鏡屋に随分奉公します。しかしお父さん」

「もう分った。お前と議論を始めたら果しがない」

「近眼鏡と遠眼鏡を眼鏡の全般と思召しになったんじゃ大間違ですよ。望遠鏡と顕微鏡があります。前者は天文学を創造致しました。後者は細菌学によって医学に革命をもたらしました」

「分っているよ」

「それじゃ売れますか?」

「売れる/\」

「眼鏡が売れることにきまらないと、この縁談は決して纒りません」

 と三郎君は何処までも論理的にこなして行く。



「唯今」

 と言って、長船君は玄関の格子を開けた。小学生が学校から帰ったようだが、この唯今にはわれがある。以前は、

「唯今戻った」

 とやったものだ。しかし春子さんは嫁ぐと間もなく、

「あなた。唯、『帰ったよ』と仰有って戴けませんこと?」

 と註文した。

「何故?」

「お芝居の真似みたいで変じゃございませんか? この間郵便屋さんが来合せて笑っていましたわ」

「ふうむ」

「自分の家ですもの、そんなに改まらなくても宜しいじゃございませんか?」

「しかしお母さんに具合が悪い」

「何故でございますの?」

「お父さんも確か然う仰有ったようだから、家風を崩したくないのさ」

 と長船君は主張したが、結局、

「唯今」

 丈けに改めたのである。しかしお母さんの姿が見えると、

「唯今戻った」

 と完全にやり直す。

「あなた、さとへおいでになった時、『頼もう』と仰有るのはよして戴けませんこと?」

 と春子さんは又註文した。

「何故?」

「皆が後で笑うんですもの」

「むずかしいんだね、お前の里は」

「あなたがむずかしいことばかり仰有るからですわ」

「それじゃ何と言えば宜い?」

「唯、『御免』と仰有って戴きます。この間なんか二郎が、『はゝあい!』と言って出て来たでしょう」

「あれが正式だよ」

からかったんですわ」

「宜しくないね」

「あなたが改まり過ぎるからですわ」

「よし/\」

 と長船君は以来心掛けている。

「あなた」

「何だい?」

「それから成るべくおくつろぎ下さいよ。家も同じことですから、っとも御遠慮は要りませんわ」

 と春子さんは註文が多い。尤もその初め斎藤さんの客間で三回に亙る見合をした時、気のついたことはお互に腹蔵なく言って改め合おうという申合せだった。

「よし/\」

「あなたがお崩しにならないものですから、兄さんや二郎はお相伴しょうばんでいつもしびれが切れると言っていますわ」

「俺は坐っている方が楽だけれど、これからは成るべく寛ごう。何うもお前の里は流儀があって困る」

「あなたこそ流儀があるんですわ」

「兎に角、窮屈だ」

「あなたの方が余っ程窮屈がられていますのよ」

「然うかね。まあ/\、ローマに入ってはローマ人に従えさ。仕方がない。しかし家では坐らせて貰う」

 と長船君は行儀正しい。元来堅人かたじんというので縁談が成立したのだ。しかし多少融通の利かない憾みがある。春子さんが里へ帰ると、お父さんは必ず、

「何うだね? 三郎は」

 と訊く。

「カチン/\よ」

 と春子さんは答える。

「しかし堅いに越したことはない」

「それは然うですけれど」

「勉強だろう? 相変らず」

「えゝ。閑さえあれば、机に坐ったきりですわ」

く続くよ」

「私、この間見ましたら、御本に一々何年何月何日読破って書いてありましたのよ」

「几帳面だね」

「書斎の中がキチンとして、まるで書割かきわりのようですわ」

「家の俊一なぞは些っと三郎の爪垢つめあかを貰ってせんじて飲むといんだよ」

 とお父さんは長船君を推賞する。婿に花を持たせる積りで家のものをけなすのだが、度重なると、俊一君は面白くない。昨今は三郎君に反感を持って、

「お母さん、一体全体高円寺の角張りは僕の弟ですか? 兄さんですか?」

 なぞと時折お母さんにからみかゝる。

「弟のことは分っているじゃありませんか? お前の妹の春子の婿ですもの」

「しかし些っとも弟らしくしませんよ」

「兄さん/\と呼んでいるじゃないの?」

「表面は兄さんと呼んでも、自分の方が兄さんの積りですよ」

「そんなことはないでしょう」

「いゝえ。お父さんが角張りばかり褒めるからいけないんです」

「角張りはよして頂戴。私、この間お父さんに叱られたじゃありませんか?」

「僕はあの勿体ぶった態度が気に入りません。何かというと、僕や二郎に訓諭をする積りです」

「それは学校の先生だからつい癖が出るんですわ」

「女房の里を教室と間違えるようじゃ頭の好さも知れています」

「お前よりも年が上だから、親切ずくで世話を焼くんですよ。気にかけることはないわ」

「あれは堅人じゃないです」

「それなら何?」

変人へんじんですよ」

「可哀そうに」

洒落しゃれも皮肉も分らない。二郎にからかわれても知らないでいるんです」

「まあ/\、仲よくして下さいよ。私、その中に春子に言って置きますから」

 とお母さんはなだめる外なかった。

 長船君は決して出しゃばる積りでない。唯天真爛漫に角張っている尾鰭が俊一君の癇癪に障るのである。例えば話の中にモダン・ガールが出る場合、

「モダン・ボーイだのモダン・ガールだのってものは文化の上層に浮ぶ泡糟あわかすですよ。問題にするに足りません」

 と三郎君は思うまゝを述べる。

「しかし多少意義のある存在でしょう」

 とモダンをもって任じている俊一君は自分が罵られたような気になる。

「それは無論です」

「一概にけなすべきものじゃありますまい」

「しかし泡糟は泡糟としての存在に過ぎませんよ」

「元来泡糟と定めるのが独断的ドグマチックじゃないでしょうか?」

「さあ。何うもそれ以上の存在とは思えませんな。後十年もたてば消えてしまうんですから」

「モダン・ボーイとモダン・ガールがですか?」

「はあ」

「僕は消えないと思います」

「無論本体は文化の続く限り続きます。名称が消える丈です」

「それは何ういう意味ですか?」

「僕達の子供の頃、ハイカラさんて言葉が流行はやったでしょう? あれがあの時代の文化の泡糟です。モダン・ボーイとモダン・ガールは現代文化の泡糟です。それですから、以前のハイカラと昨今のモダンとの間には一脈相通じるところがあります。何方どっちも泡糟です。実は同名異人、いや、異名同人ですからな。次の時代の文化の泡糟には又別の名称がつくに相違ありません」

 と三郎君は生徒に教えるような口調を帯びる。俊一君は躍気になって駁撃ばくげきを加えるけれど、相手は斯ういうことが専門だから到底歯が立たない。口惜しまぎれにチクリ/\と皮肉を言う。しかしそれが即座に通じないから、結局骨折り損になる。

「角張りは洒落も皮肉も分らない」

 というのはこゝである。

 或る雨降りの日に、長船君は学校から帰って来て、

「唯今」

 と言うや否や、

「春子や、分ったよ。分った。ハッハヽヽ」

 と笑い出した。

「何でございますの?」

「道の深さだ」

「はあ」

 と春子さんは合点が行かなかった。三郎君は靴を脱ぎもあえず、

「実はこの間四谷へ行った時、兄さんにからかわれたんだよ。『高円寺も好いが、道が狭いですからなあ』って、例によって悪口を言うだろう?」

 と語り始めた。

「それで?」

「俺は今に八間道路が出来れば、四谷辺に負けなくなるって、一寸ちょっと法螺ほらを吹いてやったのさ。すると兄さんは『幅八間で深さは何れぐらいです?』って訊いた。『道の深さってことはありません』て答えたら、『高円寺道の深さ幾尺ぞ』って、急に詩吟をやり始めた。『兄さん、あれは本能寺溝の深さですよ』って、わしが訂正すると、ハッハヽヽって、実に痛快に笑ったよ。こゝさ。お前、道の深さって意味が分るかい?」

「さあ」

「分るまい? 俺は研究に研究を重ねて、唯今初めて分った」

「そんなにむずかしいこと?」

「駅からこゝまで帰る途中、泥の中へ幾度も踏み込んだ。ズブッと入る。五寸ぐらいある。兄さんの道の深さってのは、あれだよ。道の悪いことさ」

「あの人は皮肉ですからね」

「ナカ/\うまいことを言うよ」

「あなたは人が好いんですわ」

「高円寺道の深さ幾尺ぞか。これあるかな、これある哉」

「オホヽヽヽ。感心していらっしゃいますのね」

 と春子さんは気の毒になった。分らないのではないが、少くとも二三日かゝる。

「本能寺と高円寺だ」

「もう分りましたよ」

「溝の深さを道の深さにもじったところが面白い」

「お母さんが笑っていらっしゃいますよ」

「お母さん、うまい洒落でしょう?」

 と斯ういう人に限って、分ると鬼の首でも取ったように珍重する。

 さて、この三郎君が安子さんの縁談の件で四谷を訪れた日に戻る。

「唯今」

「お帰りなさいまし」

 と春子さんは出迎えて、

「如何でございましたの?」

 と訊いた。吉左右きっそうを待っていたのである。

「美事説きつけて来た」

「眼鏡が売れることになって?」

「うむ。お父さん、一言もない。ハッハヽヽヽ」

 と三郎君は着替えをする間も報告にせわしく、

「御覧」

 と得意そうに袱紗包ふくさづつみを突きつけた。

「何でございますの?」

「安子さんの写真さ。これを先方むこうへ渡して、先方からも取寄せてくれという御註文さ」

「まあ/\、大成功ね」

 と春子さんは包を解いて、妹の写真に見入る。

「案外早く事がはかどった」

「私、お父さんと議論になりはしまいかと思って、心配していましたのよ」

「お母さんがはたで加勢をして下すったからやり宜かった。お父さんも決して分らない人じゃない」

「それは然うですけれども」

「結局、納得が行って、この縁談はお前達に一任すると仰有ったよ」

「あなたと私?」

「うむ。うだね?」

「責任が重いわ」

「しかし引受けて来たよ」

「結構でございますわ」

「これは纒まる。良縁だもの」

「兄さんは何と仰有いましたの?」

「兄さんはお留守だった」

 と三郎君は一寸首を傾げた。

「無論御異存はございますまい」

「うむ」

「安子は?」

「お母さんからお話しになる」

「今日お会いになって?」

「うむ」

「知っていて?」

「さあ」

「早く先方むこうのお写真を拝見したいものね」

 と春子さんはそれ丈けが気がかりだった。余り風采が悪いと勧め兼ねる。

「それを送れば直ぐに送って来るよ」

「あのお子さんの兄さんなら屹度立派なお方ですわ」

わしも然う思っている。時にお母さんは何処かへおいでになったのかい」

「坊やが起きて泣いたものですから、お隣りの鶏を見せにいらっしゃいました」

「春子や」

 と三郎君は急に声を潜めた。

「はあ」

「俺は今しがた電車の中で兄さんに会ったよ」

「まあ。何処へいらしったんでしょう?」

「こんなことをお前に話したくはないんだが、若い女の人と二人づれだったよ」

「あらまあ!」

「俺も驚いた」

「あなたお言葉をお掛けになって?」

「いや。端から端で先方じゃ気がつかなかったが、俺は二人が新宿で乗るところから見ていた」

「あなた、詳しくお話し下さい。私、心配になりますわ」

 と春子さんは膝を進めた。

「二人、同じ吊革に捉って、仲好く話していた。周囲あたりの人の注目を惹くくらいさ。坐ってからは俺と同じ側だったから能く見えなかったが、何うも気になってね」

「それから何うなさいましたの?」

「俺は二時頃までに帰って来ると言ったが、晩かったろう?」

「えゝ。少し」

「実は駅で降りずに、つけて行ったんだよ。余り不思議だったからね」

「何処までいらしって?」

「吉祥寺で降りるところを見届けて、直ぐに引っ返して来た。二人で井の頭へ行ったんだろう」

「何んな人?」

「断髪に洋服さ。極端なモダン・ガールだよ」

「綺麗?」

「うむ。何処かの令嬢かも知れない」

「お友達の妹さんでしょうか?」

「さあ。電車の中の様子じゃ女給の類かとも考えられる」

「まあ」

「職業婦人とも見える。丸の内あたりには、あんなのが能くいる」

「一体幾つぐらい? 年は」

「二十一二、三四、五六かな」

「何ですねえ、あなた」

「実際それぐらいの見当だもの」

 と三郎君は益※(二の字点、1-2-22)要領を得ない。

「あなたに伺っても駄目ですわ」

「それはお前無理だよ。人の年が然う正確に分るものじゃない」

「大体の見当を仰有って戴けば宜いのよ」

「二十二三かな? 四五かな?」

「宜しゅうございますよ。井の頭なら、私、これから行って見て参ります」

「およし/\」

「でも心配じゃございませんか? そんな素性すじょうの知れない婦人と出歩きをなさるようじゃ」

「いや。善意に解釈すれば、友達の家へ行く途中、その妹さんに会ったとも考えられる」

「それなら宜しゅうございますけれど、あなたは本当に然う考えていらしって?」

「さあ。兄さんの人格次第さ」

「私、矢っ張り突き止めて来る方が宜いと思いますわ」

「およし/\」

「何故でございますの?」

「果して公園へ行ったか何うか分らない」

「でも大抵然うでございましょう」

「いや。兄さんの人格を信じよう。わしがつけて行ったのは悪かった」

「私、そんな意味で申上げたんじゃございませんわ」

「友達の妹さんなら随分親しいのもあるだろうからね」

「はあ」

「それにしても今度里へ行ったら、お母さんに御注意申上げて置く方が宜いね」

「然う致しましょう」

「ダンサーってものがあるそうだね?」

「はあ」

「あれかも知れない」

「厭ね」

 と春子さんは又心配になった。

「まあ/\、兄さんの人格を信じることだ」

「今日お帰りにお寄りになるようなら大丈夫ですわ」

「寄らないよ」

「そのダンサーと一緒だからですか?」

「然ういう意味じゃないけれど」

 と三郎君は余程疑問にしているようだった。

 それで次の日曜に里へ出掛けた春子さんは使命を二つ帯びていた。一つは無論妹の安子さんの縁談、もう一つは兄さんの俊一君についてそれとなくお母さんに注意することだった。縁談の方は打ち合せて置いたから、皆夫れ/″\の意味で待っていた。

「お母さん、お写真が参りましたよ。昨日の昼過に着きましたの。此方のが行ってから大急ぎで写したらしいのよ」

 と春子さんは能書のうがきを述べながら御覧に入れた。

「あなた」

 とお母さんが満足そうに渡すと、お父さんも、

「これはナカ/\立派な男だ」

 と褒めた。

「兄さんは?」

 と春子さんは俊一君に見て貰いたかった。

「俊一には見せてくれるなって註文だ」

「安子が?」

「うむ。悪口を言うからだろう。しかしこれは俊一以上だよ」

 とお父さんは未だ見入っていた。

「春子や、お前からの方が宜いよ」

「はあ」

「直ぐに見せてやっておくれ。私からもう悉皆すっかり話してあるんだから」

 とお母さんが促した。

 春子さんは安子さんの部屋へ行って、

「安子や」

 と呼んだ。

「姉さん、何うぞ」

 と安子さんが迎えた。

「芳子は?」

 と春子さんは見廻して念を押した。二人共同の部屋である。

「大丈夫よ」

「あら、お前待っていたの?」

「然ういう次第わけでもないんですけれど。オホヽ」

 と安子さんは一向臆しない。

「お母さんからお話がありましたろうね?」

「えゝ」

「私、お前が見かけたことのある人だろうと思いますのよ」

「さあ」

「この方よ」

 と春子さんは極く無造作に写真を拡げて渡した。

············

「覚えがあって?」

「えゝ。この方なら······

「お彼岸に墓地でお目にかゝったでしょう?」

「えゝ。去年のお盆にもお目にかゝりましたわ。私ぐらいの妹さんがおありでしょう?」

「能く知っているのね」

「あら!」

 と安子さんは突如いきなり立ち上った。

「何?」

「芳子よ。そこから覗いていましたわ」

いやな子ね」

「この間からうるさいってありませんのよ」

「もう宜いわよ」

「油断がなりませんわ」

「それ預けて置きますから、能く考えて見てお母さんに申上げたら宜いでしょう」

「えゝ」

「安子や、俸給取よりも商家よ」

「私、お金なんか何うでも宜いわ」

なんにも分らないのね」

「それは無論あるに越したことはありませんけれど」

「関口さんといえば本郷では大抵の人が知っている財産家だそうですよ。あの墓地でも分っていますわ。家のよりも余っ程大きいでしょう? 眼鏡屋ばかりでなくて、地所を持っているんですって」

 と春子さんは仲人口をきゝ始めた。

 隙見を見つかった芳子さんは二郎君のところへ逃げて行って、

「来てよ。あなたのお兄さんが来てよ」

 と囁いた。

「何んな奴?」

 と二郎君は乱暴だ。

「私、見つかっちゃったの」

「駄目だね。何処へ仕舞ったの?」

「未だ見ているのよ。もう一遍行って来るわ」

 と姉弟しめし合せている。芳子さんは間もなく戻って来て、大形おおぎょうに胸を叩きながら、

「お机の引出よ。あゝ、怖かった」

 と報告した。

「よし。僕が盗み出してやる」

「駄目よ。頑張っているわ」

「大きい姉さんは?」

「お座敷よ」

「斯うっと」

 と二郎君が腕を組んで考え込んだ処へ、俊一君が入って来て、

「何うしたんだい? 一体」

 と弟妹を見較べた。

「兄さん、参りましたのよ、お写真が」

 と芳子さんがニコ/\した。

「見たかい?」

「いゝえ。今追っ払われて来ましたの」

「早く見せて貰いなさい。屹度あの若旦那だよ」

「姉さんは金輪際誰にも見せないって仰有っていますわ」

「ふうむ」

「それでお父さんお母さんから直ぐに姉さんへ行ったのよ。斯うなると兄さんも信用がないのね」

「よし。僕、腕力でやって来る」

 と二郎君は決心がついた。

「馬鹿だなあ、お前は」

「何故ですか?」

「それだから叱られるんだ。俺が策を授けてやる」

 と俊一君は二郎君に何か耳打ちをした。

「姉さん」

 と二郎君が又それを伝える。

「けれども早くしないと、何処かへ仕舞ってしまうわ」

「直ぐ行って見よう」

「えゝ」

 と芳子さんは二郎君に従った。

 安子さんの部屋は廻り縁になっている。二郎君は一方から近づいて、

「好いお天気だなあ」

 と少時しばらく空を眺めていた後、

「姉さん、姉さん!」

 とけたたましく呼んだ。

「何?」

 と安子さんが出て来た。

「飛行機々々! あら、彼方あっちにも、あら此方こっちにも」

 と二郎君は彼方此方を指さした。

「馬鹿ね」

 と安子さんがかつがれたことを覚った時には、もう一方の縁側から忍び込んだ芳子さんが机の中の写真を盗み出していた。

「兄さん」

 と芳子さんは俊一君の部屋へ駈け込んだ。

「成功々々」

 と二郎君も戻って来た。

「若旦那々々。相変らず愛嬌が好いや。おい、今度は見つからないように返すのがむずかしいぞ」

 と俊一君が言った途端、

「芳子、芳子!」

 と呼ぶ安子さんの声が聞えた。

「これはいけない」

 と俊一君が慌てた。次の瞬間に、

「ひどいわ。兄さん、ひどいわ」

 と安子さんは俊一君にすがりついた。二郎君は遮ったけれど、声を立てられるのが恐ろしい。写真はほんの一目見た丈けで取り戻されてしまった。



 茶の間ではお母さんと春子さんがヒソ/\話し込んでいた。里はいつ来ても好い。鉄瓶の蔓にも茶箪笥の戸棚の木目もくめにも昔懐しい思出が動いて、春子さんは自然長座になる。お母さんも長男よりは長女が相談相手だ。

「先刻の様子ではお父さんも気に入ったようね?」

「えゝ」

「これは纒まりますよ」

「私も何だかそんな予感がありますわ」

「それに俊一が進んでいますのよ。大学が上なら反対してやるんだけれど、一年後だから都合が好いって」

「それもありますわね」

「年寄の弟ばかり出来ちゃ遣り切れないんですって、オホヽ」

 とお母さんは有りのまゝを伝えた。

「まあ」

「俊一は三郎さんが煙ったいのよ」

「そんなこともないでしょうけれど」

「兎に角、妹の婿ですから、年下の方が順当よ」

「すると三郎は変則ね」

「お前のところはもう仕方がないわ」

「まあ、ひどいわ」

「オホヽヽヽ」

「一級下ぐらいなら、兄さんは先方むこうを御存じじゃありませんの?」

「関口さんと同級の方が会社にいるんですって」

「訊いて見て? その方に」

「えゝ、申分ないんですって」

「お酒なんか召し上らないでしょうね? 安子はそれを条件にしていますのよ」

「大丈夫でしょう。三郎さんのお世話なら、もう散々石橋を叩いた後でしょうからって、俊一も安心していましたわ」

「お母さん、石橋って何?」

 と春子さんはこの形容が気に入らなかった。

「三郎さんは堅いということよ」

「堅くて悪いんですか?」

「結構よ。お父さんが始終褒めているじゃありませんか? その堅人のお世話だから、大丈夫ですって」

············

「間違ありませんわ」

············

「春子や」

············

「お前、憤ったの?」

「お母さん、私、三郎のことを冷かされると厭な心持になりますよ。兄さんのことを三郎から言われても腹が立ちますけれど」

「三郎さんが兄さんのことを何とか仰有ったの?」

············

「春子や、お前はこの間も私が三郎さんのことを話したら、黙って立ってしまったのね」

「でも、私、茶化されゝば、何うしたって心持が悪くなりますわ」

「茶化したってほどのこともなかったじゃないの?」

「いゝえ」

内々うちうちですもの」

「幾ら内々でも、聖人だの君子だのってのは反語ですわ。それをお母さんまで好い気になって仰有るんですもの」

「冗談よ」

「兄さんはあんまりですわ。本当に憎らしいわ」

「何故?」

「先刻も私に『先生は相変らず御機嫌ですか?』って訊きましたの。私、睨んでやったわ」

「お前の目は大きいからね」

「お母さん、直ぐその通りじゃございませんか?」

「オホヽヽヽ」

「厭よ。私、もう」

「むずかしいのね。それじゃこれから気をつけましょう」

 とお母さんはなだめる外なかった。

「議論に負けて口惜しいものだから、堅人だの何だのって」

「俊一も好くないんですよ」

「私、そのの字が気に入りませんわ」

「俊一が悪いのよ。いつまでも茶目でね」

「石部金吉だなんて、ほかっとも欠点がないものですから」

 と春子さんもこれぐらい三郎君に打ち込んでいれば間違ない。

「春子や」

「何でございますか?」

「実は私、この間から三郎さんのことでお前に話したいと思っていたんですが、機嫌を直して聞いてくれる?」

「悪口でなければ承わりますわ」

「私が三郎さんの悪口を言う次第わけもないじゃありませんか?」

「それじゃ何? お母さん」

「俊一も決して好いことはありませんが、三郎さんも少し遠慮がなさ過ぎはしませんの?」

「直ぐに然うじゃございませんか?」

「何が?」

「もう悪口ですもの」

「いゝえ、有りのまゝのお話よ」

「三郎こそ遠慮していますわ。四谷へ行くと皆が洒落を言って、それが分らないと笑うから、窮屈だってこぼしていますわ」

あんまり窮屈でもないようよ。お出になると、直ぐに俊一と議論ですからね」

「それは仕方がありませんわ。兄さんの思想が悪いんですもの」

「春子や、お前、それじゃお話も何も出来ないわ」

「でも、三郎は兄さんの身の上を心配して、種々いろいろと言い聴かせて上げるんですもの」

「それが少し過ぎやしませんの? 俊一は三郎さんより年が下でもお前の兄さんですからね。あゝ頭ごなしにお説法をされると、腹が立つんですよ。私、そばで聞いていてハラ/\することがありますわ」

「お母さんは身贔負が強いのね」

「何故さ?」

「公平じゃありませんわ」

「仕方のない人ね」

「お母さんに言わせると、お母さんの親類ばかり好くて、お父さんの親類は皆いけないんですもの」

「そんなこと何うでも宜いじゃないの? 話が違いますわ」

「いゝえ、同じことよ」

「何うして?」

「三郎も然うですわ。兄さんは御自分の子で三郎は他人ですから、分けへだてをなさるんですわ」

「春子や」

「三郎は正直ものですから、本当の兄弟の積りでいるんですわ」

「それにしても弟が兄さんを捉えてお説法をするって法はないでしょう?」

「御説法じゃありませんよ」

「それじゃ何?」

「忠告ですわ。忠告されるような悪いことをしていれば、仕方がないじゃありませんか?」

「春子や、俊一が何をそんなに悪いことをしていますの?」

 と身贔負の強い母親はもう堪忍出来なくなった。

「お母さん、私、今日はそれも申上げようと思っていたんですの」

「言って御覧なさいよ」

「そんなにお憤りになっちゃ困りますわ」

「何よ? 一体」

「私、この間の日曜から苦に病んでいますのよ」

「何さ? 早く仰有いよ」

「兄さんはこの前の日曜に何処へおいでになったか、お母さんは御存知?」

「郊外散歩でしょう?」

「井の頭公園へいらしったのよ。誰と御一緒だとお思いになって?」

「お友達でしょう?」

「男のお友達だとお思いになって?」

「当り前じゃありませんか?」

「お母さん、兄さんは断髪のモダン・ガールと一緒に行ったのよ」

「まあ!」

「それも手に手を取るようにしてよ」

「春子や」

「はあ?」

「好い加減になさいよ」

「お母さん、本当よ」

「それじゃお前、見たの?」

「いゝえ、三郎が見て来て申しましたの。この前の日曜に伺って、家へ帰る途中、省電の中だそうでございます。兄さんは新宿からその方と御一緒に乗って······

 と春子さんは三郎君から聞いた通りをつまんで話した後、

「私、何うしたものでしょうね? 兄さんに三郎の悪口を言われゝば兄さんが憎らしくても、三郎から兄さんのことを言われゝば矢っ張り腹が立って、晩に少し機嫌を悪くして上げましたの」

 とシミ/″\言った。兄弟は他人の始まりだが、同時に切っても切れない五本の指だ。春子さんは二つの諺を体験している。

「春子や、んな人なの? 一体」

 とお母さんはそれどころではなかった。

「それがハッキリしませんの。ダンサーらしいと申していましたけれど」

「厭ね、そんな人」

「令嬢でお友達の妹さんかも知れないんですって」

「それなら又考えようもありますけれど」

「職業婦人でしょうって仰有るんですよ」

「一体何れが本当?」

「三郎は然ういうことにうとい方ですから、見ても分らないんですわ。年も二十一から二十六までを順々に言っているんですもの」

「女には女でしょうね?」

「ひどいわ、お母さん」

 と春子さんは何処までも三郎君の堅人にたたられる。

「何にしても困ったことね」

 とお母さんは考え込んで、

「日曜には成る可く郊外へ出掛けるようにって、お父さんも私も奨励していたんですが、今までも矢っ張り井の頭だったのでしょうか?」

 と溜息をついた。

「井の頭ってのは先刻も申上げた通り、三郎の想像よ。けれども本当に井の頭だったら、大変ですわ」

「何故?」

「彼処はいけないところですもの」

「でも、英彦ひでひこなんか学校から遠足に行きましたわ」

「子供は宜いのよ。若い男と女はいけませんのよ」

「何故さ?」

鴛鴦公園おしどりこうえんって綽名あだながついていますわ」

············

彼処あすこへ二人きりで散歩に行くようになれば、もう御卒業なんですって」

「そんなに評判の悪いところ?」

「日比谷なんかと同日どうじつろんでないって、三郎も申していました」

「俊一に限って、そんな不心得はなかろうと思うんですけれどもね」

「私も兄さんの人格を疑うんじゃございませんわ。けれども念の為めに申上げて置く方が宜いと思いまして」

「これからも気のついたことは何でも遠慮なく言って下さいよ」

「えゝ」

「まさか間違はなかろうと思うんですけれどもね。若いものだから、何んな魔が差さないとも限りませんわ」

「渋川さんのお宅のようなこともございますからね」

「油断はなりませんよ」

「早く貰って上げないからですわ」

「安子や芳子の方へ気を取られているものですから、つい二の次になってしまって」

「兄さんは不平よ。それで私達にまで当り散らすんですわ」

「そんなこともないでしょうけれど」

「心配ね、本当に」

「私、俊一に訊いて見ますわ」

「お母さん」

「何?」

「私、困りますわ」

「大丈夫よ。それとなく訊きますから」

「私が帰ってからにして下さいよ。唯さえ三郎とスレ/\になっているんですから、私達の口から出たことが分ると、大騒ぎになりますよ」

 と春子さんが穏便おんびんの処置を悃願こんがんしているところへ、問題の俊一君が洋服姿で縁側から現れた。

「お母さん、夕方まで出て参ります」

「何処へ?」

 とお母さんの声は俊一君よりも春子さんの胸に強く響いた。

「郊外散歩です。春子は未だ帰らない?」

 と俊一君はお母さんに答えると同時に、春子さんに訊いた。

「まあ、御催促?」

 と春子さんは殊更奇警きけいに出て、兄さんの注意を独占しようと努めた。お母さんの方へ向かせると、この際危い。

「何あに、帰るなら新宿まで送ってやろうと思ってさ」

「私、もう少しお話がありますの」

「俊一や、お前もお昼を食べてからにしちゃ何う?」

 とお母さんが言った。

「僕は約束があるんです」

何方どなた?」

「友人です」

「兄さん、私、当てゝ見ましょうか?」

 と春子さんは急いで割り込む必要を認めた。

「うむ」

平塚ひらつかさんでしょう?」

「違うよ。平塚は大阪へ行ってしまった。それじゃお母さん」

 と俊一君は急いでいた。春子さんは立って玄関へ送って行った。お母さんが目くばせをして命じたのだった。

「兄さん」

「何だい?」

「この頃はっともおいで下さいませんのね」

「さあ。つい忙しいものだからね」

「私、一時頃に戻りますから、お帰りに一寸ちょっと如何いかが?」

「お帰りって、お前は俺の行く方面が分っているのかい?」

「いゝえ。でも郊外散歩なら、何うせ彼方あちらでしょう?」

「何あに、足の向いた方へ行くんだよ。兄さんに宜しく」

「兄さんは意地悪ね」

「それじゃ三郎に宜しく」

「申し伝えます」

「ハッハヽヽヽ」

「覚えていらっしゃいよ」

 と春子さんは又睨んだ。

 直ぐに茶の間へ戻ったが、お母さんはもういなかった。お父さんのところだろうと思って、書斎へ志すと、果して鳩首きゅうしゅ談合中だった。

「春子や、お入り」

 とお父さんが呼んだ。

「もう行ったの? 俊一は」

 とお母さんは玄関の方をあごでしゃくった。

「はあ」

「お前、探りを入れて見て?」

「いゝえ」

「駄目ねえ」

「でも」

「約束があるなんて、し然うなら、人を馬鹿にするにも程がありますわ」

「別でしょう。今日は」

「何か言って?」

「足の向く方へって」

さとったんじゃないでしょうね?」

「そんな御様子も見えませんでした」

 と春子さんはお父さんの手前言葉ずくなに答えた。

「春子や、今、お母さんから聞いたところだが、お前から詳しく話しておくれ」

 とお父さんもその屈託だった。

「三郎が見て来て余り心配そうに申したものですから······

「構わないよ。内々うちうちに遠慮はらない」

「私達の取越苦労かも知れませんけれど······

 と春子さんは申訳をして、再び要領を繰り返した。お父さんは、

「ふうん、ふうん」

 と一々頷きながら聴き終った後、

「成程。ふうん」

 と言って、腕をこまぬいた。そのまゝ少時しばらく無言だったので、お母さんは、

「あなた」

 と促した。

「ふうん」

「ふうん/\って、何うなさいましたのよ?」

「思い当ることがあるんだ」

「まあ!」

「この間の晩、俊一がヒソ/\声で電話をかけていたんだ。俺は便所の帰りに通り合せて『それじゃ絹子さん』と言うのを聞いた。ふうん」

 とお父さんは又溜息をついた。

「何うしたものでございましょうね?」

 とお母さんは泣声を出した。

············

「あなた、帰って来たら、厳しく訊いて下さいよ」

「いや」

「はあ?」

「これはうっかり訊くと藪蛇になるよ」

「何故でございましょう?」

「訊いて見て、何でもない交際ならば大仕合せだが、俊一だって子供じゃないから、気持を悪くするよ」

「それは仕方ありませんわ。一緒に歩いたり電話をかけたりしているんですもの」

「いや、親として子を疑ってかゝるようじゃ失敗だ」

「でも何んなことになっているかも知れないじゃありませんか?」

「その人と経緯いきさつでもあるようなら、尚更のことだ。訊いたって本当のことを言うものか。かくすにきまっている」

「それじゃ何うすれば宜いんでしょう?」

「そこさ」

 とお父さんは又考え込んだ。春子さんはお父さんとお母さんを代り/″\に見守っていた。

「打っちゃっては置けませんよ」

············

「あなた」

「まあ待ちなさい。無論打っちゃっては置けない。しかし『俊一や、お前はこれ/\だそうだがうだ?』と言って訊くよりも『お父さん、お母さん、実はこれ/\ですが、何うしましょう?』と本人から切り出させる法を考えているんだ」

「手間がかゝりますわ」

············

「そんな悠長なことを仰有っている間に何が起るか知れませんよ」

「いや。巧く行けば、今日中に目鼻がつく」

「まあ。何うなさいますの?」

「俺はこれから井の頭へ行く」

「現場を取押えますのね?」

「いや、偶然行き合うのさ。奴、吃驚するだろうが、黙っちゃいられまい。納得の行くように弁明してくれゝばこの上なしだが、経緯わけがあるにしても匿せない。赤裸々に来るよ」

「井の頭ってことが分っていましょうか?」

「確かだ。あれは打ち合せの電話だよ」

「それじゃ然うして戴きましょう。何なら、私もお供致しましょうか?」

「さあ」

「二人じゃ変でしょうか?」

「何うせ後から分ることだけれど」

「お母さん」

 と春子さんは慌て始めた。

「何?」

「実は三郎が電車の中で見つけたなんて仰有っちゃ困りますよ」

「大丈夫よ。お前達に迷惑はかけませんよ」

「常子は矢っ張りよしなさい。俺は三郎と一緒に行く」

 とお父さんは頓着ない。

「尚お困りますわ」

 と春子さんが訴えた。

「いや、お前のところへ行って郊外散歩に誘われたことにする」

「それが宜うございますわ。俊一もお父さんが安子の縁談のことで高円寺へ行くのは承知ですからね」

 とお母さんも同意だった。

「春子や、お前はもう間もなく帰るんだろう?」

「はあ」

「一緒に行こう。三郎に会って相談してからのことにしよう」

 とお父さんは兎に角、井の頭まで出掛けることになった。問題の俊一君はお父さんと堅人につけられているとも知らず、丁度その頃、新宿の駅で品川方面から来る絹子さんを待っていた。



「多くの電車が絹子さんなしに着き且つ去る」

 と俊一君は退屈の余り、英語で言って見た。もう三十分以上待った。慌てゝ早く来た分は自業自得じごうじとくだが、約束の正一時を十五分過ぎている。今度こそはと、目を皿のようにして見張っていたら思いもかけない奴が、

「やあ! 山下君」

 と声をかけた。同僚だ。

「やあ!」

「何処へ?」

一寸ちょっとそこまで」

 と嘘をついて、反対側の電車を待っているような風をする。始終込んでいるから人目を惹かないようなものゝ、内心甚だ具合が悪い。しかしその次の電車から洋装断髪のケバ/\しい絹子さんが現れた時、俊一君は何も彼も忘れた。

「大分待って?」

「えゝ。三十分ばかり」

「済みませんでしたわね」

「何あに」

「私、出るのが少し後れたものですから」

「僕は少し早く来過ぎたんです」

「その代り、私、今日はゆっくり出来てよ」

「何時まで?」

「さあ」

「夕方まで宜いんですか?」

「えゝ」

「この前は叱られやしませんでしたか?」

「いゝえ」

「今日も岩崎さんへお寄りになりますか?」

「えゝ。矢っ張り。その代り晩くなっても宜いのよ」

「何故?」

「お母さんはお芝居よ。お父さんも何か会がありますの」

「有難いですな。しかし火事泥をやっちゃ済まないです」

「まあ! オホヽ」

「五時か五時半頃までにお帰りになる方が宜いです」

「又送って戴けて?」

「えゝ」

「それなら日が暮れても構いませんわ」

「いけませんよ。僕も郊外散歩と言って出て来たんですから」

「あなたのところもナカ/\厳重ね」

「親父は僕を中学生と間違えているんです」

「まさか」

「斯う見えて、些っとも信用がないんです」

「あら、参りましたよ。早く」

「はあ」

 と二人は直ぐに国分寺行へ乗り込んだ。

 危いところだった。その電車には、つい一つ置いて後ろの車に、山下さんと春子さんが乗っていた。山下さんは窓からプラットホームを頻りに物色した。春子さんも気になると見えて、入って来る乗客に注目していた。電車が動き出した時、

「二時間も前に出たんだから」

 と山下さんが呟いた。

「はあ」

 と春子さんが答えた。

 俊一君と絹子さんは敏捷に席をめて、もう話し始めていた。

「絹子さん」

「はあ」

「僕は今日十一時に出て来たんですよ」

「何処かへお廻りになって?」

「いゝえ。妹の奴がその次の妹の縁談を持って来ていましたから、話し込んで晩くなるといけないと思って、早く逃げ出したんです」

「高円寺のお妹さん?」

「えゝ、うっかりすると、この電車に乗っているかも知れません」

「厭ね」

「実は僕、図星を指されて、ドキッとしたんです」

「まあ」

「約束があると言ったら、『当てゝ見ましょうか? 平塚さんでしょう?』と来ました」

「あらまあ」

「しかし考えて見ると、あなたの兄さんのことです。知っている筈ですよ。学校時代に始終一緒でしたから」

「あなた何と仰有って?」

「平塚君は大阪へ行ってしまったと言って、直ぐ逃げて来ました」

「それじゃ大丈夫ですわね」

「此方が神経過敏になっているんでしょう」

「実は私も今日ハッとしましたのよ」

「何かあったんですか?」

「この間から大阪の叔母が来て泊っていますの。お芝居が大好きよ。『絹子や、今月は帝劇と歌舞伎と何方どっちが好いの?』ってお訊きになりましたから、『何なら歌舞伎にしたいわ』って申上げました。『それじゃ今日つれて行って上げますよ』って、直ぐでしょう? 私、何うしようかと思いましたわ」

「分りました」

「はあ?」

「お芝居となると、僕なんか何うでも宜いんでしょう?」

「まさか」

「いゝえ、分っていますよ」

「それなら宜いわ、もう」

「絹子さん、冗談ですよ」

「厭な人ね」

「御免下さい」

「私、つい、『今日はお約束がありますから』って言ってしまって、ハッとしたのよ」

「はゝあ」

「何んなお約束ってお訊きになるんでしょう?」

「危い/\」

「又ハッとして、御返事を申上げない中に、叔母は『姉さん、気をつけなければいけませんよ』って、母に冗談を仰有いましたの」

「又ハッとしたでしょう?」

「えゝ」

「これでもう三度ハッとしていますね」

「宜いわ、もう」

「冗談ですよ」

「いゝえ」

「絹子さん」

「存じませんよ。人が本気でお話をしているのに」

「あやまりました」

「私、真赤になってしまったのよ。しかし母は笑いながら、『岩崎さんのところ?』って訊いて下さいましたのよ。『えゝ』って私、申上げてしまいましたから、今日も又寄らなければなりませんわ」

「それは仕方ありません。何うせ僕はピアノのつけたりです」

「そんなことありませんけれど、嘘はつけませんわ」

「宜いですよ。僕、門のところで待っています」

「公園の方が宜いわ」

「それじゃ然うしましょう」

「この前のところよ。池の中へ木が倒れ込んでいるところよ」

「えゝ」

「一時間足らずで済むんですけれど」

「成るべくお早く」

「いゝえ。私、いつまでもいて上げますから、お玉杓子の数でも勘定していらっしゃいよ」

「今の仇討ちですか?」

「えゝ」

「ハッハ」

「オホヽ」

「兄さんが行ってしまってから不便になりましたね」

「本当に困るわ」

「僕、一遍上りたいと思うんですけれど」

「いらっしゃいよ」

「しかし兄さんがいないのに変だと思われやしまいかと思って」

「あら、私、申上げる積りで忘れていましたが、今日あなたのお話が出ましたのよ」

「はゝあ」

「叔母が母に『その山下さんてんな方?』って突如いきなりお訊きになりましたの。私、ハッとしましたわ」

「成程」

「兄の家庭のことを話している最中でしょう? 叔母は頓狂ですからね、私、不意打ち食って、ハッとこんなになりましたの」

「五遍目」

············

「それから何うなさいました?」

············

「絹子さん」

············

「お母さんは何と仰有いましたの? 聞かせて下さいよ」

「猛が言い出した丈けで、未だこれって話はありませんのよって、私の顔を御覧になりましたの。私······

「又ハッと?」

············

「絹子さん」

「もう厭よ。何と仰有っても厭よ」

「分りました」

············

「平塚君は実にひどいです。急に自分の縁談が始まったものだから、僕のことはすっぽかしてしまったんです」

「然うよ、確かに。兄さんくらい手前勝手の人はありませんわ」

「僕、近い中にお宅へ伺います」

「本当?」

「えゝ」

「今度の日曜?」

「平塚君のところへお手紙を上げてからにします」

「未だ申上げて下さいませんでしたの?」

「えゝ」

「詰まらないわ」

「でも、返事をくれないにきまっているんですもの」

「何故?」

「東京駅で御一緒に見送った時、僕に斯う言ったんです。当分は手紙なんか寄越しても返事は出さないぞって」

「まあ! 何故でございましょう?」

「新婚早々ひとのことなんか考えていられないってんです」

「厭な兄さん!」

 絹子さんは、この会話でも分る通り、友人平塚君の妹だ。俊一君との間に黙契がある。兄貴も認めて、先頃母親へ持ち出した。直ぐにも纒めてくれそうだったが、その後縁談結婚栄転と自分の身の上に幸福が重なって、急遽大阪へ行ってしまったのである。

「ひどい奴だ」

 というのはこゝだ。実は早速手紙を出したのだが、返事を寄越さない。以来二月ふたつきに近い。俊一君は差当り可なり煩悶はんもんした。絹子さん丈けを目的として平塚家を訪れる次第わけに行かない。人を射る為めの馬がいなくなってしまったには困った。折から思い出したのは、絹子さんが吉祥寺のお友達のところへピアノの練習に行くことだった。何曜日かは定かでなかった。尤もそれが分っていても、勤めのある身体には日曜の外手が出ない。俊一君は或日曜の朝、泉岳寺前の停留所へ行って待ち始めた。来るか来ないかは分らないのだけれど、この外に分別がなかったのである。一時間ばかり待っていて、救世軍の婦人から、「ときこえ」を売りつけられた時、自分の悧巧でないことが少し分った。そこへ絹子さんのお父さんがやって来た。

「これはいけない」

 と気がついて、品川駅前へ河岸を替えた。高輪から吉祥寺へ行くのなら、市電をこゝで下りて省電に乗るのが順路だ。俊一君は又一時間ばかり立っていて、又「鬨の声」を一部買った。益※(二の字点、1-2-22)自分の愚かさを感じたが、ついでだと思って、尚お少時しばらく辛抱した。十一時半に、

「駄目だ。これは盥の中へ釣針を下しているようなものだ」

 と大悟一番して、諦めをつけた。

 しかし絹子さんに会わずにはいられない。俊一君は次の日曜にしょうりもなく、又試みる気になった。但し前週の失敗以来考えている。

「遊びながらのお稽古に朝から出掛ける筈はない。行けば昼からだ」

 と結論して、手段も更に適切に、吉祥寺へ一散に駈けつけた。必ずしも確信があったのではないが、偶然の成功は期待のすくない時に起る。絹子さんは次の電車で来た。

「あらまあ!」

「絹子さん!」

「何処へ?」

「何処へじゃありませんよ」

 と俊一君は興奮して、先週来の苦心を打ち明けた。

「私、嬉しいわ」

「吉祥寺の何処? いらっしゃるところは」

「公園のそばよ」

「何時間かゝって」

「宜いのよ、寄らなくても」

「はあ」

「散歩しましょうよ」

 と絹子さんも同じ思いだった。

 ピアノの先輩は美事利用された。これが第一回の井の頭公園散策だった。俊一君は大阪へ手紙を出しても返事の来ないことを訴えて、

あんまりです」

 と憤慨した。

「でも大丈夫よ」

「何故ですか?」

「お互にその積りでいれば宜いじゃありませんか?」

「それは然うですけれど」

「私、いつまでもお待ちしますわ」

「待つ必要なんかないですよ。平塚君が意地悪をしてわざと待たせるんです」

「態とってこともないでしょうけれど」

「それじゃ何故でしょう? 僕には道理わけが分りません」

「都合があるんでしょう」

「何んな都合?」

「自分都合よ。兄さんは何でも自分勝手ですもの」

「実際昔から我儘です。あなたの前で悪口を言っちゃ済みませんけれど」

「あんな兄さんでも家にいてくれる方が宜いと、私、この頃、ツク/″\思ってよ」

「何故?」

「兄さんがいないと、あなたに会えませんもの」

「僕もその意味で平塚君が懐かしい。返事を寄越さないのは憎らしいけれど」

「あなたは随分御遠慮なしね」

「失敬しました」

「宜いわよ」

「僕が憤っているって言ってやって下さい」

「えゝ」

「いけません/\」

「何故?」

「こゝで会ったことが分ってしまいます」

「然うね」

「憤っていると見えて一向おいでになりませんと仰有って下さい」

「えゝ」

「矢っ張りいけない」

「何故?」

「憤っている道理は外にないんです。返事の来ないこと丈けですから、それをあなたが知っていれば、矢っ張りお目にかゝったことが分ってしまいます」

「そこは私の想像で書きますわ。偶然銀座か何処かでお目にかゝったことにしても宜いじゃありませんの?」

「成程」

「何か憤っていらっしゃると見えて、ロク/\物も仰有いませんでしたから、私、悲しくなりましたと書いて上げますわ」

「成程、はゝあ」

「感心なすって?」

「えゝ。嘘は僕より余っ程お上手です」

「厭よ、私」

「ハッハヽヽ」

「オホヽ。漸く御機嫌が直りましたのね」

「先刻までは実際悲観していたんですよ」

「私もよ。今日は何うしようかと思ったんですが来て宜かったわ」

「日曜にはいつもお出でになりますの?」

「いゝえ、木曜がお稽古日で、今日は臨時よ」

「来週はお出でになりませんか?」

「来ても宜いわ」

「然うして下さい」

「えゝ」

「お稽古の済む頃、僕、こゝへ来て待っています」

「途中の方が宜かないこと? 御一緒の時間が長くて」

うですね。新宿で待ちましょうか?」

「えゝ」

「何時に?」

「一時よ」

「屹度ね?」

「えゝ」

 と二人の間に約束が成り立った。

 しかし次の日曜は大雨だった。その次も可なり降って、無論問題にならなかったが、以来天気都合が好い。三郎君に見つけられたのは第三回で現に山下さんが出動しているのは第四回だ。吉祥寺で下りた俊一君と絹子さんは公園の入口で分れた。絹子さんはピアノの先輩の家へ廻った。俊一君は公園へ入って、彼方此方あっちこっちブラ/\し始めた。幾度も腕時計を見る。三十分ばかりたってから、池の中へ木の倒れ込んでいる地点に立止まった。お玉杓子がウヨ/\している。とても勘定出来ない。しかし他に仕ようがないから、見るともなしに、その活躍を見守って差当りの退屈をしのぐ。

 丁度その頃、山下さんは信任篤いお婿さんの三郎君を伴って公園へ乗り込んだ。何方も洋服姿、杖を引いて郊外散策という出で立ちだった。

「お父さん、御胸中お察し申上げます。今回のことが私の見当違いなら、却って光栄至極ですけれど」

 と三郎君は例によって角張っている。

「笑いごとで済むようなら結構だがね」

「この粗忽者そこつものめがと、私は御勘気ごかんきを蒙りたいのですが······

「いや、大丈夫。この中にいるんだろうから情けない」

 と山下さんは最初から悪い予感があった。

「お父さん、万一お目にかゝっても、その場で御譴責ごけんせきなさるのは策の得たものと存じません」

「安心しておくれ。お前に迷惑をかけるようなことは決してしない」

「いや、その御心配は御無用に願います。私は無論後から兄さんに万事告白する積りです」

「そんなことしちゃ困る」

「私で悪ければ、春子から打ち明けさせます」

「まあ/\、そのことは一応わしの承諾を求めてからにしておくれ」

「はあ」

「何れお前に相談しなければなるまい。俺は今日は何も言わない積りだ」

「それに限ります」

「唯そばを通る。知らん顔をして通る。お前もその積りでな」

「はあ」

「俺の姿が俊一の目に映りさえすれば、それで今日の使命は足りる」

「充分利きましょう」

「晩に屹度自発的に打ち明けるよ。俺もそれぐらいの家庭教育は授けてある積りだ」

「結構です」

「何処までも郊外散歩に来て偶然会ったようにね」

「はあ。心得ました」

 と三郎君は異存なかった。

 井の頭公園は広い。しかし池が主体だ。二人は岸伝いに歩いた。間もなく山下さんは立止まって、

「三郎」

 と声をひそめた。

「はあ」

「いるよ」

「はゝあ。何処ですか?」

彼処あすこに。池の岸に」

「成程」

 と三郎君もお父さんにならって木の幹を楯に姿をかくした。

「一人だよ」

「煙草をすっています」

「池の鯉でも勘定しているのか、一心不乱だ」

彼方あっちを向きましたよ」

「待っているんだ。何うも呆れた奴だなあ」

 と山下さんは長歎息した。

 忽ち俊一君はステッキを挙げて、対岸へ合図をした。

「あれです」

 と三郎君が指さした。絹子さんは橋を渡って来るところだった。

「何者だろう?」

 と山下さんは目を見張った。

「ダンサーでしょうか?」

「さあ」

「令嬢でしょうか?」

「さあ」

「普通の職業婦人でしょうか?」

 と三郎君は相変らず定見ていけんがない。

 若い二人は相擁さないばかりに寄り添って話を始めた。山下さんは少時しばらく打目戍うちまもっていた後、三郎君を促して歩き出した。道筋が俊一君と絹子さんの足元に横たわっている。山下さんは池の面を眺めながら近づいた。

「好い景色だ」

 と念の為めに言った。俊一君は夢中になっていて見落すおそれがある。

「はあ」

 と三郎君が殊更大きく答えた。それでもう通過してしまった。後も振り向かない。

「あなた」

 と絹子さんは俊一君の言葉が急に途絶えたので注意した。

············

「何うかなさいましたの? お顔色がお悪いわ」

············

「山下さん」

「あゝ、眩暈めまいがする」

「帰りましょうか?」

「えゝ」

「彼方のお茶屋へ行って少時しばらく休みましょう」

「いゝえ」

「何うなさいましたのよ? 本当に」

「もう宜いんです」

「歩けて?」

「えゝ、兎に角出掛けましょう」

「あら、汗がタラ/\流れてよ」

「はあ」

 と俊一君は気がついて額を拭きながら、お父さんと反対の方角へ志した。



 俊一君は頻りに急いだ。気分が悪いと言った人とも見えない。半ば駈足で公園を出てしまった。

「あなた」

 とモダン・ガールの絹子さんも歩調を保つのに困難を感じた。

「早く」

「もうお宜しいんですか?」

「えゝ、急ぎましょう」

「暑いわ」

「早く電車に乗りましょう」

 と俊一君は驀地まっしぐらに駅へ向った。都合よく殆ど待たずに乗り込んでから、続けざまに溜息をついた。

「山下さん、あなたは何うなさいましたの?」

 と絹子さんは呆れて訊いた。挙動不審と認めたのである。

「驚いた。実に驚きました」

「何?」

「親父ですよ」

「まあ!」

「親父と義弟ブラザー・イン・ロウですよ。先刻私達のそばを摺れ/\に通ったのは」

「あらまあ!」

「好い景色だと言ったでしょう? あれが僕のファザーです」

「私、何う致しましょう?」

「宜いです、御心配は要りません」

「でも、あなた私のことだ申上げてないんでしょう?」

「えゝ」

っとも?」

「えゝ」

「困るわ、私」

「この間仰有った通り、ソロ/\におわせて置くと宜かったんですが」

「私の申上げることを聞いて下さらないからですわ」

「平塚君から返事があり次第と思っていたものですから」

 と俊一君は絹子さんの兄さんに責任を嫁した。

「お父さんは薄々御存じで、ついてお出でになったんじゃありますまいか?」

「さあ」

「私、お父さんの方は気がつきませんでしたが、弟さんの方は私を睨んでお通りになりましたわ」

「僕も親父は横顔丈けでしたが、角張かくばりとは目を見合せました」

「それでいて何とも仰有らなかったところを見ると、確かに予定の行動ですわ」

「角張りの畜生!」

「角張りって苗字みょうじ?」

「いや、綽名あだなです。僕は親父の次に彼奴が苦手なんです」

「山下さん」

「はあ」

「高円寺でしょう? お宅が」

「えゝ」

「私達、見られたのよ、この前かその前に、あの方かお妹さんに」

うかも知れませんね」

「それで※(二の字点、1-2-22)わざわざお出でになったのよ」

「実際、親父にしても三郎にしても、公園なんか全く用のないところです」

「私達、少し大胆過ぎましたわ」

「しかし公明正大です」

「でも」

「でも何ですか?」

「顔色を変えて逃げ出す公明正大がございましょうか?」

「思いがけなかったから、慌てたんですよ」

「私、ツク/″\情けなくなりました」

 と絹子さんは俊一君の態度が気に入らなかった。本当に公明正大なら、踏み止まって紹介すべきである。丁度好い機会だ。

「斯うなったら、もう仕方ありません。僕今夜直ぐに話します」

············

「絹子さん」

「はあ」

「電車の中じゃ充分話せませんから、何処かで下りませんか?」

「厭よ、私、もう」

「憤ったんですか?」

「いゝえ」

「それじゃこの次で下りましょう」

「又見つかりますよ。私、もうあんな醜態しゅうたいを演じたくありませんわ」

「大丈夫です。こゝで遣り過す方が安全です。この次ので来ましょうから、新宿の乗換に手間を取っていると、それこそ危いです」

「あなたはそんなにお父さんが怖くて?」

「少しも話してないんですから」

「私、もう帰らせて戴きますわ」

「それじゃ品川まで送りましょう」

「もう結構よ」

「お約束ですから、送らせて戴きます」

「それじゃ御随意に」

「しかし新宿で手間を取ると危いですよ」

「お父さんがお見えになったら、何うなさいますの?」

「その時はそれまでです」

「御決心がついて?」

「えゝ。僕は知らん顔をして駅を出てしまいますから、あなたはお独りでお帰り下さい」

············

「斯うなっちゃもう仕方がないです。僕は今夜の中に必ず話します」

············

「絹子さん」

············

「四谷まで乗り越して、彼処から銀座へ出ましょう?」

············

「僕、あなたと是非打ち合せをして置きたいことがあるんです」

「何の打ち合せ?」

「親父へ言訳の都合です。僕、イヨ/\度胸を据えます。斯うなったら、もう仕方がないんですから」

「山下さん」

「はあ」

「あなたはあんまりな方ね」

「何故ですか?」

「仕方がないからってのは何ういう理由わけでございますか?」

「さあ」

「今頃度胸をお据えになりますの?」

「いゝえ、発表丈けの問題です」

「私、仕方なしに仰有って戴くようなら、もう御免蒙りますよ」

「決してういう意味じゃないんです。しかし困るなあ。話がこんがらがっていて、こゝじゃ詳しく申上げられません」

「もう宜しゅうございますわ」

「絹子さん」

「あなたのお心持が分りました」

「絹子さん、誤解して下すっちゃ困ります。それですから、打ち合せの必要があるんです。それですから······

ひとさんに聞えますよ」

······このまゝ乗り越して、東京駅を廻ることにして下さい」

「存じません」

「絹子さん」

「存じませんよ」

「絹子さん」

 と俊一君は散々の不成績だった。父親に見つかった上に、絹子さんに嫌われてしまえば、虻蜂取あぶはちとらずになる。

「あなたは卑怯ね」

「はあ?」

「卑怯未練よ。男らしくもないわ」

「何故ですか?」

「お分りにならなければ、宜うございますよ」

 と絹子さんは突っ放した。俊一君は長いこと沈黙を続けた後、

「絹子さん、絹子さん」

 と又囁きかけた。

「何あに?」

「僕、仕方がないと言ったのは、あなたの御解釈とは意味が違います」

「何う違って?」

「僕、親父が無暗と怖いんです」

「それだから卑怯未練よ」

「しかし今更仕方がないから、勇気をします」

「御随意に」

「考えて見ると、僕、あの時、これは友人の妹さんですと言って、あなたを紹介するのが本当でした」

「然う気がついて下さればおそくとも結構よ。私、自尊心をきずつけられたような心持がしますわ」

「慌てゝしまって、全く済みませんでした」

「もう分ってよ」

「僕の卑怯でないことが?」

「卑怯は卑怯よ。しかし後悔なすったんですから、もう宜いわ」

「堪忍して下さい」

「えゝ」

 と絹子さんは漸くやわらぎ始めた。

「僕、あなたというものにもっと重きを置く必要があります」

「あなたは余っ程利己主義ね」

「然うでもない積りですけれど」

「もう宜いわよ」

「絹子さん、大丈夫でしょうね?」

「何が?」

「今までのお約束です」

「えゝ。何故そんなことをお訊きになりますの?」

「でもあなた憤っていらっしゃるんでしょう?」

「いゝえ」

「それじゃ僕、もう平塚君からの返事を待ちません。宜いでしょうね?」

「えゝ」

「早速然るべき人を介して、御両親へ申入れますが、その時あなたがハッキリして下さらないと、僕は立場を失います」

「大丈夫よ」

「それじゃ僕、新宿で失敬します」

「あら! 送って下さらないの?」

「宜しければお送りします」

「惜しいわ。これでお仕舞いじゃ」

「それじゃ品川までお供致しましょう」

「もっとよ」

「銀座?」

 と俊一君はトン/\拍子の積りだったが、然うは行かない。

「いゝえ」

「何処?」

「家まで」

「それは具合が悪いですよ」

「門までよ」

「思い切って参りましょう」

「品川から歩きましょう。矢っ張り打ち合せをして置く必要がありますわ」

「えゝ」

「私、家のものに見つかっても構いませんのよ」

「何故?」

「あなたが見つかったんですもの、同罪になって上げますわ」

 と絹子さんは頼もしい心意気を示してくれた。

 お父さんの山下さんはむずかしい顔をして家へ戻った。

「お帰りなさいまし」

 と出迎えた夫人は直ぐにそれとさとって、同じく出迎えた子供達が引き取ってから、

「あなた、如何でございましたの?」

 と訊いた。

············

「あなた」

「案の通りさ」

「まあ!」

「あゝ/\、落胆がっかりしてしまった」

 と山下さんは茶の間に坐り込んだ。

「矢っ張り公園でございましたか?」

「うむ」

「二人で?」

「うむ」

「あなたは何と仰有いましたの?」

「いゝや」

「唯見ていらしったの?」

「うむ」

「詳しく話して下さいよ」

 と夫人はヤキモキした。

「いたのさ、公園の池のはたに」

「二人で?」

「いや、俊一が待ち合わせているんだ。そこへやって来たのさ」

「何んな娘さん?」

「三郎の鑑定によると商売人だそうだが、矢っ張り親の欲目か知ら、俺には何うしても令嬢らしく見えた」

「それなら結構でございますけれど」

「断髪だけれど品がある。何うしても教育のある女だよ」

「幾つぐらい?」

「芳子ぐらいだろうね。器量も好いよ」

「それから何うなさいましたの?」

「俺達が見ているとも知らずに、俊一はステッキを振って大騒ぎをする。娘も駈けるようにして橋を渡る。二人が一緒になって話し始めたところへ、俺と三郎が知らん顔をして通りかゝったのさ。何ということだろうと思ったら、俺は情けなくなった」

「お察し申上げますわ」

「しかし三郎への手前があるから、表面うわべは少しも動じない積りだったが、争われないものさ。通り過ぎると間もなく、足がガクッとして、すんでのことに転ぶところだった」

「まあ!」

「これはいけないと思って、池の端の切株に腰を下した。『逃げましたよ』と三郎が言うから、振り向くと、二人は駈けるようにして行く。何というざまだろうと思ったよ。二十八まで手塩にかけた息子じゃないか? それが親を見て逃げ出すんだからね」

 と山下さんは沁み/″\言った。

「親不孝な子でございますわ」

「三郎が憤慨するのも無理はない」

「あれが何か申しましたの?」

「後をつけましょうかって目の色を変えていた。しかし騒ぎを大きくするばかりだから、そのまゝにして来た」

「何処へ行ったんでございましょうね?」

「さあ」

「何時頃でございましたの? 公園は」

「俺は直ぐに帰って来たから、三時頃だったろう。実は、ひょっとしたら、もう帰っているかも知れないと思って来たんだが、親の心ってものは子に通じない」

「うっちゃって置いても大丈夫でございましょうか?」

「帰って来るだろうさ」

「でも渋川さんのお家のようなことがございますからね」

「あれは相手が悪い。女給だ」

「女給なんかじゃございますまいね?」

「相応の家庭の娘さんだろうと思うんだけれども」

「私、春子のところへ行って参りましょうか?」

「何しに?」

「三郎に訊いて見ますわ」

「まあ/\慌てるには及ばない、晩までには帰って来て、逐一告白するよ」

「何て心配をかける子でしょうね」

 と山下夫人は胸に手を当てゝ目を閉じた。

 夕食の刻限になっても、俊一君は姿を見せなかった。山下さんは夫人に内証で二度まで門へ出て見た。家族一同食卓についた時、

「兄さんは何うなすったんでしょう?」

 とお給仕役の安子さんが疑問を起した。

「もう帰るだろう」

 と山下さんは保証するように言って、夫人の顔を見た。

「兄貴何うかしているぞ」

 と二郎君は皆を笑わせる積りだった。

「何故? 二郎」

「ハッハヽヽヽ」

「何故よ?」

 と時節柄お母さんは益※(二の字点、1-2-22)気になる。

「この前の日曜に僕が後れたら、『何故電話をかけない? 馬鹿な奴だ』って叱ったんですもの」

う/\、紳士は時間厳守パンクチュアルでなければいけないって」

 とその次の雅男君も口を出した。

「兄さんは理論家よ。自分の頭の蝿が追えないわ」

 と安子さんが笑った。俊一君、評判が好くない。

「何うしたんでしょうね?」

 とお母さんは覚えず柱時計を見上げる。

「もう帰って来るよ」

 と山下さんは再び保証した。

 食後、お父さんとお母さんはそのまゝ茶の間に残って、専念に俊一君を待ち始めた。

「何うしたんでございましょうね?」

············

「あなた」

「何だい?」

「俊一は今まで几帳面な子でございましたよ。後れる時は屹度電話で言って寄越すのに、少し変じゃありませんの?」

「それは無論変さ。大手を振って帰れない理由わけがある」

「矢っ張りあなたが連れて来て下さればかったわ」

「いや。もう子供じゃない。圧迫を加えると却って結果が悪かろうと思ったのさ」

············

············

「あなた」

「何だい?」

「うっちゃって置いても大丈夫でございましょうか?」

「大学を出ているよ」

「そんなこと当てになりませんわ。渋川さんのところを御覧なさい」

「あれは私立大学だ」

「私、心配でなりませんわ」

 というような会話が幾度も繰り返された。悪い実例が山下さんの同僚渋川さんのところにある。長男がカッフェの女給と家出をして、死ぬの生きるのと騒いだ。

「親不孝な奴だ」

 と山下さんは突如いきなり立ち上った。

「何うなさいますの?」

「一寸その辺まで出て見る」

「停留場まで?」

「うむ」

「私もお供致しましょうか?」

 と夫人は声を潜めた。

「二人で騒ぐと子供に覚られるよ」

「然うね」

「その辺まで来ていて、家へ入りにくいのかも知れない」

「それならこの上なしですけれど」

「厄介な奴だなあ、本当に」

「お叱りになっちゃ駄目よ」

「引きずって来てやる」

「まあ!」

「打ん撲ってやりたいくらいだ」

「あなた」

「何て親不孝な奴だろう」

 と山下さんはイラ/\しながら出て行った。夫人はその権幕に驚いたが、懸念にも及ばなかった。何となれば、山下さんは間もなく手ぶらで帰って来た。

「見えませんでしたの?」

「うむ」

「もうソロ/\九時ですわ」

············

「何処へ行ったんでございましょうね?」

「それが分っていれば探しに行く」

「あなた」

「うるさいよ」

「でも心配じゃございませんか?」

「帰って来ないようなら、もう宜いよ。勘当かんどうだ」

「そんな無責任なことが出来ますか?」

「あんな不孝もの」

「あなたは余りですわ」

「何だ?」

「あなたの態度が悪かったからでございますよ」

「何うして?」

「公園でお会いになった時、一寸お言葉をかけて下されば、素直すなおに帰って来ますわ」

「お前は見ていないから、そんなことを言うんだ。とても寄りつけたものじゃない」

「それにしても、二人で睨んで来るなんてことはありませんよ」

「睨みはしないよ」

「三郎が睨んだって仰有ったじゃありませんか?」

「三郎は睨んださ」

「余計なおせっかいじゃございませんか? 弟のくせに」

「三郎を恨むことはないよ。まあ/\、気を落ちつけて考えて見なさい」

「私、もう凝っとしちゃいられませんわ」

 と今度は夫人がスックと立ち上った。

「おい、何うするんだい!」

「私、俊一の部屋を見て参ります」

「何の為めに?」

「念の為めでございますよ」

「それじゃっと行っておいで

「はあ」

「二郎や雅男に覚られないように気をつけなさい」

 と山下さんは影響の及ぶところを恐れた。由来長男がお手本になっている。その失態を今更弟達の耳に入れたくない。

 夫人は俊一君の書斎へ行って机辺を検めたが、別に異状を認めなかった。

「あなた」

「何うだったい?」

「書置もなんにもございませんでしたわ」

「馬鹿なことを言うな」

「でも斯ういつまでも帰って来ないと、私暗い心持になってしまって悪いことばかり考えますわ」

「苦労をかけて気の毒だ」

「それはお互さまですけれど」

「矢っ張り連れて帰って此方から訊く方が宜かった」

「あなたは念を使い過ぎますのよ」

「九時だね、もう」

「はあ」

「帰りにくくて三郎のところへでも寄っているんじゃなかろうか?」

「高円寺へは参りませんよ」

「何故?」

「俊一だって万更馬鹿じゃありません。三郎が味方についてくれるかくれないかぐらい分っていましょう」

「お前は妙に三郎に反感を持っているんだね」

「私、俊一が可哀そうでなりません」

「俺は憎らしい」

「あなたにも憎まれ、三郎にも憎まれゝば、帰って参りませんよ」

「好い加減にしなさい」

「あなたは能く然う落ちつき払っていられますのね?」

「探す当てがないじゃないか?」

「私、まさかと思うんですけれど、悪い方から言えば、もう東京にはいませんよ」

「そんなことがあるものか。お前は気を廻し過ぎる」

「ですから、まさかと思っているんですよ」

「友達のところへでも寄って突っかゝっているのさ」

「机の上に平塚さんからお手紙が来ていましたよ」

「あれは一番仲が好いんだから、東京にいれば早速問合せて見るんだけれど、他に親友はないのかい?」

「さあ。平塚さんが大阪へ行ってしまって、落胆がっかりしているくらいですからね」

「当てさえあれば、俺は直ぐに出掛けるんだが、今頃まで公園にいる筈もなし、雲を掴むような話だからね」

「十時十一時になっても帰って来なかったら、何うなさいますの?」

「帰るだろう、それまでには」

「分りませんよ」

 と夫人は両手の人さし指で※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをグリ/\揉んでいた。

「兎に角、平塚さんへ問合せて見ようか? この間まで始終行っていたんだから」

「駄目でございましょう」

「大阪から帰ったところへでも寄って、つい話し込んでいるのかも知れないよ」

「でも手紙が来ていますもの。大阪からですわ」

「しかし行き違いってこともある。念の為めだ。無駄だと思って、かけて見なさい」

 と山下さんは電話帳をはぐった。無論仕ようことなしの気休めだった。煙草をふかして溜息をつく丈けでは家長としての分別がなさ過ぎる。夫人は勧められるまゝに電話にかゝった。

「平塚さまでございますか?」

「はい」

「手前は四谷の山下でございますが······

「一寸お待ち下さい」

 とほん少時しばらく間を置いて、

「山下さん!」

 と呼ぶ陽気な声が夫人の耳に響いた。

「はあ。山下の母でございます。お呼び立てして失礼でございますが、山下は唯今お宅さまへお邪魔申上げて居りませんでしょうか? もし/\」

············

「もし/\」

「何うしたんだい?」

 と山下さんは長火鉢の側から伸び上った。

「切れてしまいましたのよ」

 と夫人は考え込んだ。果してもう音沙汰がなかったから、又かけ直すと、今度は最初出た取次の声だった。当方の問合せに対して、

「はい/\。山下さんは一向お見えになりません。はい/\」

 とあった。

「あなた、変でございますよ」

 と夫人は席に戻った。

「何が?」

「平塚さんには妹さんがある筈です。丁度芳子ぐらいのが」

「俺は知らん」

「その妹さんらしいわ、慌てゝ引っ込んだのは」

「ふうむ」

「山下の母ですと申しましたら、ハッとしたように切ってしまいましたの」

「ふうむ」

「あの方じゃございませんでしょうか?」

「今日のがかい?」

「はあ」

「さあ」

「慌て方が唯じゃございませんでしたわ」

「それなら問題が簡単だけれど、三郎はダンサーだろうって言うんだ」

「でもあなたは令嬢だろうと仰有ったでしょう?」

「それがさ。断髪だからね」

「断髪の令嬢だって幾らもありますよ、この頃は」

「平塚さんのところは軍人だろう?」

「はあ。もう予備だそうですが、陸軍の少将とか中将とか申しました」

「軍人の娘にあんな服装をさせる筈はない。違うよ、矢っ張り」

「別口でございましょうか?」

「そんなに変だったのかい?」

「はあ、確かに俊一と思って出たらしいのよ」

「俊一がそんなに彼方此方へ手を伸ばしている筈もないね。矢っ張りその令嬢かな、この間の晩電話をかけていたところを見ると」

「それで私も思い当りましたのよ」

「あゝ、何が何だか分らなくなった」

 と山下さんは思案に余した。明治も三十年ソコ/\の法学士だ。現代娘の判別は元来むずかしい。

 それから間もなくのことだった。

「あなた」

 と夫人が聞き耳を立てた。

「帰ったようだ。何か言っている」

「叱らないで穏やかに仰有って下さい」

「分っているよ」

 と山下さんは頷いた。夫人は急いで茶の間を出るや否や、

「あらまあ!」

 と驚いた。

「御無沙汰致しました」

 と思いがけない斎藤さんが挨拶した。

おそくなりました」

 と俊一君が悄然として後に伴っていた。しかし隅には置けない。要領が好い。適任者を頼んで来たのである。斎藤さんは山下さんの同僚で、春子さんと三郎君の媒妁をした親しい間柄だ。



「やあ。これは/\」

 と斎藤さんを迎えた山下さんはその後に俊一君の姿を認めて、何ともいえない安心を感じた。

「ようこそ。さあ、何うぞ」

 と夫人も斎藤さんをしょうじながら、俊一君に目まぜをした。心配しなくても宜いよという意味だった。

 俊一君は丁度好い刻限に帰って来た。晩からず早からず、見計らったようだ。その午後、井の頭で父親と三郎君に見つかった時、倉皇そうこうとして直ぐ帰って来たら何うだったろう? 山下さんは俊一君の心掛を買ってくれたろうか? いや、興奮しきっていたから、青筋を立てゝ、不都合をなじったに相違ない。夕刻、飄然ひょうぜんとして帰っても危い。山下さんは二度まで門へ出て見て、イラ/\していた。食後には、

「打ん撲ってやりたいくらいだ」

 とさえ言った。苦労をかける息子が憎くて仕方がない。しかし日が暮れてからとみに気が弱くなった。このまゝ戻って来なかったらうしようかと思った。母親は俊一君の書斎へ行って、念の為めとはいえ、書置の有無を検めた。待ち佗びるにつれて、悪いという悪いことばかり考える。むなしく九時が過ぎて十時近くになった時、両親は不安のドン底に沈んだ。もう註文も何もない。無事で帰って来てさえくれゝば、万事大目に見て、堪忍することに、言わず語らず、一致していた。俊一君はそこへ斎藤さんを伴って現われたのである。但しこれは絹子さんの入れ智恵だった。

「誰かお父さんに特別信用のある方はない?」

「さあ」

「ありましょう?」

「あります」

「誰?」

「斎藤さんといって、同僚です。春子の仲人をしてくれた人です」

「その方が宜いわ。その方をつれてお帰りになって、仰有って戴けば宜いわ。然うして頂戴。ねえ、あなた」

 と絹子さんが悃願こんがんした。

············

「駄目?」

「いや、しかし······

「いけませんの?」

一寸ちょっと切り出しにくいんです」

「あなたが仰有るんじゃないのよ。その方に仰有って戴くのよ」

「いや、斎藤さんに切り出し悪いんです」

············

「僕は普段謹厳をもって鳴っているんですからね」

「見栄坊ね、あなたは、余っ程」

············

「御自分ばかり好い子になろうったって、駄目よ」

ういう意味じゃないんですけれど」

「それじゃ何ういう意味?」

「別に意味はないんです」

「もう宜いわ」

「絹子さん」

「宜いわよ、もう」

「御命令通りに致します」

············

「善は急げです。僕はこれで失敬して、直ぐに斎藤さんへ廻ります」

「本当?」

「えゝ」

「私、しかしてあなたがお延しになるようなら、もうこれっきりよ」

「大丈夫です」

 と俊一君は堅く誓った。絹子さんはこれで悉皆すっかり御機嫌を直して、

「それじゃもういらっしゃいよ」

 と促した。

「はあ」

「あら!」

「何ですか?」

「本当にもういらっしゃるの?」

「えゝ」

「あなた冷淡ね」

「そんなことはありません」

「私、惜しいわ、だ」

「でも、もう直ぐお家ですよ。見つかると困ります」

「然うね」

「それでは······

「私、品川までお送り致しましょう」

「何うぞ」

 と二人は又引き返した。※(二の字点、1-2-22)わざわざ送って来た人が唯々諾々いいだくだくとして送られて行く。高輪から品川までは大分話しでがある。しかし二人は未だ飽き足らない。駅前に辿りついた時、俊一君は腕時計に見入って、

「四時少し過ぎたばかりです。惜しいですなあ」

 と歎息した。

「又送って戴けない?」

「お供しましょう」

「オホヽヽヽ」

「何ですか?」

「嘘よ。果しがないわ」

「それじゃお別れにしますか?」

「えゝ」

「さよなら」

「さよなら」

 と絹子さんは駈け出すようにして行ってしまった。

 家では長男として弟妹達に号令している俊一君も余所よそへ行くとカラ意気地がない。殊に用件が用件だから具合が悪い。小一時間の後斎藤家の門前へ差しかゝった時、二三回行ったり来たりして、

「留守かも知れない。日曜だから、屹度」

 と決心がにぶった。

「帰ろうか? 留守じゃ仕方がない」

 と何うも敷居が高い。折から、

「若しかしてあなたがお延しになるようなら······

 という絹子さんの声が響いた。

「御免」

 と俊一君はもう退きならない。奥さんが出て来て、

「まあ/\、ようこそ。あなた、山下さんの坊ちゃんでございますよ」

 と早速取次いだ。俊一君は当てがはずれたような、又安心したような気持だった。註文通り留守では尚お困る。客間へ通って、

「御無沙汰申上げて居ります」

 と挨拶をしているところへ、

「やあ、珍らしいね」

 と主人公の斎藤さんが現われた。

「お暑いところお変りはございませんか?」

「お蔭で皆元気です」

「御無沙汰申上げました」

「私こそ。皆さん御丈夫でしょうね?」

「はあ。お蔭さまで」

「さあ。何うぞお平らに」

「はあ」

「洋服は窮屈です。崩し給え。私も失敬します」

「はあ」

「さあ。御遠慮なく」

「はあ」

 と俊一君は心持ち崩した。遠慮もあるが、切っかけを考えていたのだった。

「暫くお目にかゝりませんでしたね」

「はあ」

「私もお宅へは正月伺ったきりです」

うでございましたか」

「君のお父さんも出不精だね。さあ、去年の秋でしたろう、お見えになったのは」

「会社で始終御一緒だからでしょう」

「それは然うですけれど」

「お噂丈けは時折承っています」

「お互にこれで宜いんです。私が度々お宅へ呼びつけられるようになっちゃ大変です」

「何故でございますか?」

「春子さんと長船君の仲人をしていますからね。兎角世間に事勿れです」

「ハッハヽヽ」

「相変らず御円満でしょうな?」

「はあ。お蔭さまで」

「あれは成功でした」

 と斎藤さんは得意だった。俊一君は好機逸すべからずと思って身構えをしたが、斎藤さんは直ぐに、

「しかし仲人って奴はうっかりやるものじゃありませんよ」

 と附け足した。

············

「長船君と春子さんのようにうまく行けばこの上なしですが、罷り間違うと、一生恨まれます」

············

「会社の堺さんを御存知でしょう?」

「はあ」

「あの人が先年矢張り会社の堀川さんの娘さんを或るところへお世話しました。無論好い積りでしたが、人間てものは興信所の調査ぐらいじゃ分りません。詳しいことは聞きませんが、余っ程悪い奴らしいです。可哀そうに、この春離婚になって戻って来ました」

「はゝあ」

「以来堺君と堀川君は何うも折り合いが悪いです」

「成程」

「堺君はもう懲りたって言っていますよ。いや、仲人口なんてものはうっかりきくものじゃありません」

御道理ごもっともです」

 と俊一君は相槌を打つ外仕方がなかった。

 斎藤さんは能く話す。それからそれと弁じるものだから、俊一君は用件を切り出す機会がなかった。斎藤さんはそれを傾聴と解して益※(二の字点、1-2-22)調子に乗った。

「何もございませんが、お支度が出来ましたから」

 と奥さんが夕食を運んで来た。

「これは/\」

 と俊一君は尠からず狼狽した。屈託の余り、時分時に推参したことを全く忘れていたのだった。

「何もないんですよ。御遠慮なく」

 と斎藤さんは寛がせるのに大骨を折った。

 食後、奥さんが、

「あなた」

 と斎藤さんを招いて行った。夫婦の間に次のような内証話があった。

「あなた」

「何だい?」

「俊一さんは何うかしているんじゃなくて?」

「え?」

「私、先刻からチョイ/\御様子を拝見していましたが、変よ、少し」

「然うか知ら?」

「お顔色も悪いわ」

「然う言えば少し悪い。妙にハキ/\しないと思ったけれど」

「何か心配事があっておいでになったのよ。それをあなたがお察しなく、独りで法螺ほらばかり吹いていらっしゃるから、言い出し悪いんですわ」

「別に法螺を吹きはしないよ」

「でも先刻から立て続けじゃありませんか?」

「よし。分った」

「お話しのしいように仕向けてお上げなさいよ。屹度仰有いますわ」

 斎藤さんは客間へ戻って、煙草を吸いながら、二言三言無駄口をきいた後、

「時に俊一君」

 と切り出した。

「はあ」

「立ち入ったことを伺うようで失敬ですが、あなたは何か心配事があるんじゃありませんか?」

············

「私で力になるなら、何でもしますから、御遠慮なく仰有って下さい」

「実は······

「はあ?」

「困ったことが出来たんです」

「会社の方ですか?」

「いや」

「何です?」

「縁談ですけれど······

「はゝあ」

「申出ない中に、今日親父と三郎に見つかってしまったんです」

「はゝあ」

「万事公明正大の積りですけれど······

 と俊一君は思いの外度胸が据って、一部始終を物語った。

「成程」

「その友人から手紙が来次第、両親へ申出る筈でしたが、機先を制されたものですから、実は当惑して、御相談に上ったのです」

「よくお出下さいました。及ばずながら、お力になりましょう」

 と斎藤さんも乗りかけた舟だ。もう一遍仲人をする気になって快く引受けた。

「何とも面目ございません」

「そんなことはありませんよ。しかし御相談に乗る上からは、充分消息に通じていないといけませんから、失敬ですが、要所々々を訊問的に伺いますよ」

「はあ」

「宜いですかな? 突っ込みますよ」

「今更かくしても仕方ありません」

 と俊一君は覚悟した。

「第一、先方の家庭とあなたの関係ですが、その兄さんと別懇べっこんのことは御両親も御存知でしょうな?」

「はあ、高等学校時代からの同窓で、遊びに来たことが幾度もあります。父も母も僕の親友といえば平塚君だと思っています」

「平塚君にその妹さんのあることを御両親は御承知ですか?」

「さあ。知っていましょう、多分」

「あなたは話したことがないんですか?」

「以前は兎に角、近頃は特に控えていました」

「何故ですか?」

「別に意味はありません」

「少し口が短かかったですな」

「余り頻繁に平塚君のところへ行くものですから、変に思われはしまいかという懸念があったんです」

「成程」

「独りで煩悶していたのが悪かったんです」

「しかしそれがあなたの純なところでしょう」

「いや、考えて見ると決して純じゃありません。随分計略を用いました」

「多少は仕方ありません。黙っていたんじゃ意思が通じませんからな」

「はあ」

「しかしそんな大きな体をして独りで家へ帰れないところが純の証拠です」

 と斎藤さんは買い被っている。

「さあ」

 と俊一君は頭を掻いた。純どころか、矢張り計略で坐っているのだと思った。

「先方はその兄さんの平塚君が万事呑み込んでいる上に、両親も充分理解を持っている。斯う定めてかゝって差支ないでしょうな?」

「お父さんの方は存じませんが、お母さんに丈けは平塚君から話してある筈です。尤も彼処あすこはお母さんさえ承知すれば宜い家庭ですけれど」

「何ういう意味ですか?」

「お父さんは陸軍少将です」

「それで?」

「世の中のことは全く分らないんです」

「はゝあ」

「もう予備ですけれど、大砲を打つことばかり考えています。『山下さん、こゝからあのお台場なら何サンチでいけますか?』って訊きます。高輪ですから、二階からお台場が見えるんです。飛行機が飛んで来ても、直ぐに打つことを考えます。そばにいると、一々距離を測定させるそうです。大砲の話ばかりですから、平塚君もお母さんも相手にしません」

「それじゃお母さんが采配を振っているんですね」

「はあ、叔母さんも御主人が軍人ですから、勢力があるらしいです。現にお母さんと叔母さんの間に僕の話が出たと絹子さんが言っていました」

「いつのことですか?」

「今日です」

「何んな風の話でしたか?」

此方こっちの申出を待っているのらしいです」

「それじゃもう何も問題はないじゃありませんか?」

「何うも然うらしいんですけれど、平塚君から些っとも手紙が来ないものですから」

「何方も何方ですね。少し呑気過ぎる」

「絹子さんは然う言って、今日憤慨していました」

「それは当り前でしょう。君は兎に角、先方は女です。大変な危険を冒しているんですからね」

「しかし申込んで差支えないことは今日初めて聞いたんです」

「一体いつ頃からですか? 井の頭公園で会うようになったのは」

「平塚君が大阪へ行ってからですけれど、直ぐじゃなかったですから、こゝつい一月ばかりのことです」

「無論約束はそれ以前に成立していたんでしょうな?」

「はあ」

「いつ頃でしたか?」

「この正月です」

「あなたの方から申入れたんですか?」

「いや、自然のうちに理解が出来たんです」

「しかし何か切っかけがあったでしょう?」

「さあ」

「言わず語らずですか?」

「いや、言ったんです」

「何と言いましたか?」

 と斎藤さんは用捨なく問い詰める。

「正月遊びに行って、平塚君と絹子さんと僕と三人でトランプをしている時でした」

「絹子さんはあなたが平塚君のところへ上ると、いつも出て来るんですか?」

「はあ、実は平塚君よりも絹子さんが目的で行ったんです」

「成程」

「それが後から分ったものですから、平塚君は旋毛つむじを曲げて、わざと手紙をくれないのかとも思っています」

「その正月のトランプの時、何うしたんですか?」

「三人殆ど互角ですから、勝ち負けの開きが極く小さいんです。平塚君が感心して『人間てものは黙っていても似たり寄ったりのことを考えているものだね』と言いました。すると······

「すると?」

「絹子さんがチラッと僕の顔を見たんです」

「成程」

「その瞬間、僕も直感的に絹子さんの顔を見たんです。視線が衝突して、双方妙にハッとしました」

「以心伝心ですな」

「確かに然うです。人間の心の働きは霊妙れいみょうなものですよ」

 と俊一君は少々図に乗った。

「それから?」

「平塚君も機敏です。直ぐに僕達の様子を見て取りました。『トランプはもうやめよう』と言い出したのです。『何うして?』と訊いたら、『僕は人に利用されることは嫌いだ』と言って、寝転んでしまいました。その刹那、絹子さんの視線と僕の視線が期せずして又行き当りました」

「成程」

「尤も平塚君には少し見られています」

「何を?」

「トランプの勝負中、僕の手が卓子の上で絹子さんの手に触ったんです。絹子さんが手を引くかと思って、そのまゝにしていましたが、知らん顔をしていて一向引きません」

「チョッカイを掛けたんですな」

「はあ、有望だと思って、幾度もやって見ました」

「案外やるんですな。ハッハヽヽ」

 と斎藤さんが感心した。

「その次に行った時、平塚君は『君は妹が欲しいのか?』と訊きました。『うむ。是非貰いたい』僕は正直に答えました。『彼奴も君のところへ行きたいんだ。この間の晩、あれから取っ占めて白状させてやった』と平塚君は笑っていました」

「それじゃもう正式に申込む丈けのことですな?」

「その積りですけれど、平塚君から手紙が参りません。余り馬鹿にしたものですから憤っているんでしょう」

「しかし今更兄さんから苦情の出るようなことはありますまい」

「大丈夫です。それにお母さんが悉皆すっかり承知のようですから」

「先方は心配ないとして、俊一君」

「はあ」

「難物はあなたのお父さんですよ」

「実はそれでお伺いしたんです」

「何う考えて見ても、見つかったのは拙かったですな」

「カン/\ですよ、今頃は」

「お父さんの気質じゃ一も二もありません。てんでお取り合いになりますまい」

「纒まるものもこわれてしまいます」

長船君おさふねくんも一寸買収出来る男じゃありません」

「あれは焚きつける方です。堅人同志ですから、妙に肝胆相照らしています」

「お父さんの頭には今日のことが強く響いていますから、あなたが何う弁解しても、差当り耳には入りますまい」

「絶望でしょうか?」

「いや、そこには又方便がありますよ」

「何ういう具合にして打ち明けたものでしょう?」

「あなたから直接じゃ駄目です」

「お出を願えますか?」

 と俊一君は膝を進めた。念使ねんつかいを説き落すのだから、対策に手間がかゝる。

 斯ういう経緯で山下家へ出頭した斎藤さんは夫婦の様子を仔細に観察しながら、

「実は取急いで御相談申上げたいことがございまして、こんな刻限外こくげんはずれに伺いました」

 と鹿爪らしく客間へ通った。俊一君も影のように伴って、斎藤さんの側に席を占めた。山下さん夫婦は俊一君が斎藤さんを引っ張って来たとは気がつかない。門の辺で一緒になったものと信じていた。

「未だ十時前です。何うぞ御ゆっくり」

 と山下さんは俊一君の無事な顔を見たので、早い晩いの標準が変っていた。

「俊一や、お前はまだ御飯前じゃないの?」

 とお母さんが訊いた。

「いゝえ」

此方こっちはもう宜いのよ。お前は彼方あっちへ行って寛ぎなさい」

「はあ。しかし······

「御遠慮には及びませんよ」

「はあ」

「然う/\。平塚さんからお手紙が来ています」

「平塚君?」

 と俊一君は覚えず声を筒抜けさせて、立ち上ると共に、書斎へ駈けて行った。

「早速ですが、山下君」

 と斎藤さんが口を切った。

「はあ」

「実は今晩は御令息の御縁談で上りました」

「はゝあ」

 と山下さんはもう感づいて、夫人を見返った。

「いつか御依頼がありましたから、それとなく心掛けていましたところ······

「恐れ入ります」

「丁度好い候補者があるんです。私に一任して下さいませんか?」

う藪から棒じゃ困る」

「私を信用しませんか?」

「信用しないということもないが······

「御不服ですな?」

「まあ、その辺さ」

「それじゃ此方にも文句がある」

「何だね?」

「長船君を返して貰う」

「馬鹿ばかり言っている」

「ハッハヽヽヽ」

「その候補者なら今日見て来た」

「矢っ張り乗らんかな? ハッハヽヽヽ」

 と斎藤さんは山下さんの性質を知っている。正面から持ち込めばねるにきまっているから、先ず冗談で皮切りをして、おもむろに俊一君の申開きをする段取りだった。



 書斎へ駈け込んだ俊一君は直ぐに机の上の手紙を開封して一読した。

山下君

御無沙汰申訳ない。返事を出し損なって、その中/\と思いながら、つい/\横着おうちゃくを極めていたら、今日母から少々不機嫌の音信いんしんに接した。けいと妹の件の催促だ。話を進める積りなら兎に角、あのまゝ延して置かれては困る。実は余所よそからも申込があるから、君の意向を至急確めてくれというのだ。然るべき人を介して直ぐに申入れてくれ給え。君もあれっきり寄りつかないとはひどい。絹子も不安を感じているに相違ない。僕は君が時折留守見舞ぐらいしてくれているのだろうと思って、全く安心していたんだ。冷静は結構だが、少し冷淡じゃないか? 僕がズベって返辞を書かなかったから、憤っているのか? それならあやまる。忌々いまいましいけれど、妹の為めだ。仕方がない。家へは僕から折返し言ってやったから、君も安心して至急取計らってくれ給え。御両親には無論もう打ち明けてあるんだろう? 云々うんぬん

「何て野郎だろう? この手紙がもう一日早く来れば、こんな心配はしない」

 と俊一君は呟いたが、多大の安心を感じて、客間の方へ引き返した。しかし入っていく度胸はない。少時しばらく行きつ戻りつした後、再び書斎に納って、絹子さんのことを考えていた。

 客間では、

「斎藤さん、あなたはその娘さんを御存知でいらっしゃいますの?」

 と山下夫人が待ちもどかしがって口を切った。

「さあ」

············

「何うしたものでしょうかな?」

 と斎藤さんは尚お図々しくらし続ける。

「実は今日はそのことが心配になりまして······

「まあ/\、お前は黙っていなさい」

 と山下さんが制した。

「山下君」

「何だね?」

「取繕って話そうか? 正直に打ちまけようか?」

「お互の間だから、駈引きは抜きにして貰おう」

「よし」

「俊一があれから君のところへ行って泣きついたんだろう?」

図星ずぼし!」

「お世話になりついでだ。相手によってはこの上とも御尽力を頼みたいんだから、ザックバランに話してくれ給え」

「御立腹だろうと思って来たら、流石さすがに君は頭が好い」

「冗談ばかり言っている」

「本当だよ」

「御苦労千万さ。これでも肚の中じゃ拝んでいる」

「それじゃ安心して打ちまけるよ」

 と斎藤さんは俊一君から聴き取った一部始終に多少加減を加えて、若い二人の間柄を説明した。

 俊一君は再三客間の縁側近くまで来て引き返したが、何うも落ちつかない。ついに用件を拵えて茶の間へ入った。それは火鉢の側に坐ってお茶を飲むことだった。見つかっても申訳が立つ。客間とは襖一重だから、斎藤さんの声が洩れて来る。

「何しろ若い者同志です······この際······それは当り前でしょう······しかし······

 と断片的に聞き取れる。俊一君は耳をそばだて始めたが、折から頭の上で電話が鳴り出したので、飛び立ち上った。よんどころない。

「もし/\」

 と受けると、

「山下さんですか?」

「はあ、あなたは?」

「三郎です。俊一さんはもうお帰りですか?」

「僕、俊一です」

「あゝ、うですか? お帰りでしたか?」

「何か御用ですか?」

「いや、別に、それではもうこれで。さよなら」

 と三郎君は如何にも慌てたように切ってしまった。

「畜生!」

 と俊一君が唇をんだところへ、

「今の電話は何処から?」

 と母親が客間から入って来た。

「三郎からです」

「何て?」

「私が帰ったか何うかって訊いたんです」

「心配しているのよ」

············

「お前は先刻からこゝにいたの?」

「いゝえ、お茶を飲みに来たんです」

彼方あっちへ行っていらっしゃいよ」

「はあ」

 と俊一君、甚だ器量が好くなかった。

 客間の斎藤さんはそれから間もなく、

「斯ういう次第ですから、俊一君の立場には充分同情の余地があります。その兄さんの理解があると思って、双方安心の余りつい※(二の字点、1-2-22)ややのりを越え始めたのです。いや、早くお気づきになって結構でしたよ」

 と物語の終りに達した。

「委細分りました」

「一寸見ると如何にも不都合のようですが、事情を訊いて見ると又至極道理もっともで、私もそれじゃ頼まれ序に一つお父さんお母さんに弁解して上げようと、あんましょげているので独り帰すこともならず、ノコ/\ついて来たような次第わけです」

「御厄介ばかりかけます」

「何あに、一向構いませんが、矢っ張り純な好いところがありますよ。直ぐ家へ帰れなくて私のところへ寄るってのが可愛いと思いました」

「何時頃でしたか?」

「さあ、五時頃でしたろう」

「それまで何処にいたんでしょう?」

「その令嬢を品川まで送って、直ぐに私のところへ駈けつけたのです。『斎藤さん、両親に何とも申訳のないことが出来ました』と斯うかしこまって、頭を持ち上げません。奥さん」

「はあ」

「流石にお宅の家庭教育は行き届いたものです。私は感心しました」

「何う致しまして」

「家内も山下さんのところは矢張り違うとツク/″\申して、余程参考になったようです」

種々いろいろと御親切に有難うございます」

「態度が実に天真爛漫でした。手落は手落として、若いものは皆あゝあって欲しいと思いました」

「常子や、俊一を呼んで来なさい」

 と山下さんが命じた。斯う褒め立てられては文句を言う隙がない。

 時を移さず、俊一君が現われて、

「お父さんにもお母さんにも何とも申訳ございません」

 と平伏した。

「心配したよ」

 と山下さんは流石に怖い顔をした。

「もっと早く申上げる筈でしたが、この手紙を待っていたものですから」

「はゝあ」

「何うぞ御覧下さい」

 と俊一君は平塚君から来た手紙を封筒のまゝ渡した。

「来たんですか?」

 と斎藤さんが訊いた。

「はあ。御心配をかけました」

「しかし丁度好い都合でしたな」

「この手紙丈けには手品もなかろう。お前の留守中に着いたんだから」

 と山下さんは一寸皮肉を言った。口上手の斎藤さんに丸められたのが口惜しかったのである。斎藤さんも形勢を察した。即ち時計を出して見て、

「やあ。もう十一時過ぎている。山下君、僕はもう失敬する」

 と慌て出したのである。

「まあ、宜いでしょう」

「いや、もうおそい」

「この上勝手を言って、お引き止めも出来ない義理だが、何うだね? もう少時しばらく

「足元の明るい中に。ハッハヽヽヽ」

「それも然うだろうて。ハッハヽヽヽ」

「兎に角、御令息をお渡し申上げましたよ」

「有難う。御好意は忘れない。何れ改めてお礼に上りましょう」

 と念使いの山下さんは尚お慎重の調査を必要と認めた。

 しかし斎藤さんの口添えは充分の効果があった。山下さんは俊一君の無事な顔を見てから急に気が強くなって、その夜深更まで詮議せんぎを続けたが、縁談としてはの点からも申分なかった。

「高等学校時代からの親友ですから、平塚君の家のことなら何でも分っている積りです」

 と俊一君も大いに努めた。

「お父さんは陸軍の人だと言ったね?」

「はあ。少将です。軍縮で、もう予備になっていますけれど」

「財産程度はうだね?」

「金持ってほどでもありませんが、裕福らしいです」

「無論円満な家庭だろうね?」

「はあ、お父さんは専門以外何も分らない人で、万事お母さん委せですから」

「奥さんが采配さいはいを振っているんだね?」

「振るってほどでもありませんが、主人が大砲のことばかり考えていますから、他に仕方がないんです」

「大砲かね?」

「はあ、砲兵科出身です」

「娘を断髪になんかして置くところを見ると、奥さんが全権を握っているに相違ない」

 と山下さんは変な結論をつけた。

「多少その傾向があります」

「家系は分るまい?」

「代々家老を勤めた家柄だそうですから、安心でしょう。その点は僕も初めから考えていました」

 と俊一君は嘘を言った。家柄は本当だけれど、そんなことは決して考えなかった。

「平塚さんには私も度々お目にかゝっていますが、他の御兄弟はんな風?」

 と母親が訊いた。

「後は女ばかりです」

「もう片付いていますの?」

「はあ、一番上の姉さんは医学博士のところです。帝大の助教授です」

「それから?」

「次は工学士のところへ片付いて、名古屋へ行っています。これは去年、いや、一昨年でした」

「その次は?」

「その次が絹子さんです」

「それじゃ四人兄妹ね?」

「はあ。僕は一人残らず知っているんです」

「皆相応のところへ片付いて、好いお子持ちですわ」

「平塚君は何ういうところから貰ったね」

 と山下さんは男親として男の子を問題にした。

「理科の教授の娘さんです」

「無論帝大だね?」

「はあ」

「成程」

「帝大揃いってところはあなたのお気に召しますわね」

 と母親は山下さんの気色を覗った。

 山下夫婦は翌晩も翌々晩も談合を重ねた。親友の妹で悉皆身許が分っているから、この上調査の必要もない。俊一君は願いが叶って、平塚家へ絹子さん懇望の旨を正式に申入れることになった。

「しかし俊一や」

「はあ」

わしはお前の我儘を通してやるんだから、お前も一つ俺の我儘を通してくれないか?」

「何でございますか?」

「家の嫁になるからには髪丈けは長く伸して貰いたい。それが不承諾のような娘なら、俺は何処までも反対だよ」

「分りました」

「大丈夫かい?」

「はあ。あれは先方むこうのお父さんも反対なのですから」

「それじゃそれで宜しい」

 と山下さんは漸く納得した。厳格な人だから、井の頭の印象が先入主になっていて、ナカ/\むずかしかった。

 俊一君は早速大阪の平塚君へ飛行便に托して経過を報告した。お蔭で豪い目に会ったと苦情を交えたものゝ、恋をする身は弱い。

「父の親友斎藤道太郎という人に委せるから、御尊父宛に同氏御紹介の名刺一葉、至急頼む。尚お同時に御母堂へ事情お伝えを頼む。同氏は日曜にお宅へ伺う筈ゆえ、名刺は金曜までに着くよう頼む。若し金曜に着かないと、土曜には一時間毎に電報を打つぞ。何卒万事宜しく頼む」

 と本音を吹いた。

 次は絹子さんへの報告だった。これは定った翌晩、会社の帰りに公衆電話で試みた。家のや会社のははばかるところがあるからいつもこれを利用する。しかしナカ/\うまく行かない。

「もし/\、何方様どなたさま?」

 と出て来たのはお母さんだった。都合上一番困ると思っていた人だから、俊一君は考えた。

············

「何方様でいらっしゃいますか?」

「高輪の千八百五十番でございますか?」

 と俊一君は口から出委でまかせを訊いた。

「違いますよ」

 と注文通りに来た。

「これは失礼」

 と切って、

「いけねえ/\」

 と呟いた。小半時ブラ/\歩いて再び公衆電話を見つけたら、人が入っていた。成るべく間を置くほど安全だと思ったので、ゆっくり待った後、

「もし/\」

 と又やる段取りになった。

「はい/\。何方様でございますか?」

 と今度は女中だった。彼奴なら斯うと道々作戦計画をめぐらして来たからもう驚かない。

「ピアノ屋です」

「ピアノ屋さん?」

「へえ。ピアノを直すものです。久しく御無沙汰致して居りますが狂いはございませんでしょうか? 一寸お嬢さんにお尋ねを願います」

「お待ち下さい」

············

「もし/\」

 と絹子さんが出て来た。

「はあ/\」

「ピアノ屋さんでございますか?」

「絹子さん、僕ですよ」

「あら! もし/\、ピアノ屋さん」

「この間は失礼申上げました。あのこと悉皆すっかりうまく参りました。もう一切御心配はいりません」

「はあ」

「この間お話申上げました斎藤さんて方が今度の日曜にお宅へ上ります」

「何うぞ」

「兄さんからあの日手紙が来ていました。もう一日早かったらあんなことにはならなかったんですけれど」

············

「絹子さん、もっと申上げて宜いですか?」

「いゝえ」

「それじゃもう切りますよ」

「もし/\、今直ぐってこともありませんわ」

「はあ?」

調律ちょうりつよ」

「困りました。分りません」

「又御都合の時でも宜いわ」

「今度の日曜、駄目?」

············

「もし/\」

「それではさよなら。有難うございました」

「さよなら」

 と俊一君は目的を達した。時計を出して見て、帰宅がいつもより一時間おくれることに気がつくと、今度はその口実を考えて、

「へゝ、純ないところのある青年か?」

 と覚えず微笑んだ。

 山下さんはお礼かた/″\早速斎藤家を訪れた。乗りかけた舟で、斎藤さんは快く仲人役を引受けてくれた。同僚として毎日顔を合せるから事の運びが早い。俊一君は多少懸念して平塚君からの返事を待っていたが、今度はズベらずに、直ぐ寄越した。いつにない長文で祝意を表した上に、

「追白、し斎藤さんに勲位記があるなら、勲位記つきのお名刺お用いのことに願う。大砲は単純だ。まさか苦情も言うまいが、勲位記が何よりの推薦で、あるなしでは待遇が違う」

 と注意してあった。山下さんがこれを伝えた時、

「困ったね。会社員に勲位記はない」

 と斎藤さんは頭を掻いた。

「家々によって妙な流儀があるものさ」

「帝大々々か?」

「何を言っているんだ」

 と山下さんはもう悉皆御機嫌が直っていた。

 俊一君は安心すると共に一つ思い出した疑惑があった。それはその折直感したことだったが、申開きの立つまでは訊いて見る次第わけにも行かなかった。しかし今や自分の立場の説明がついたので、

「お母さん、お父さんに僕を井の頭へつけさせたのは三郎でしょう?」

 とその問題に移った。

「そんなことはないでしょう」

「いゝえ。お父さんが※(二の字点、1-2-22)わざわざあんなところへ行く筈はありません」

「郊外散歩にいらしったのよ、あの日はお天気が好かったものですから」

「それじゃ何うして三郎と一緒だったんですか?」

「三郎のところへ寄ったら、誘われたんですって」

「へん」

「何?」

「三郎は実に失敬な奴だ」

「それはお前が無理でしょう」

「人をつけるなんて、まるで探偵だ」

「でも斯う早く事が運ぶのも三郎のお蔭じゃなくて?」

 と母親はつい口をすべらせた。

 日曜の朝、俊一君はもう斎藤さんが平塚家へ乗り込む刻限だと思って、ソワ/\し始めた。斎藤さんに言わせると純だろうが、実はその後の打ち合せで、斎藤さんが見え次第絹子さんから電話がかゝることになっていた。都合によっては自分が出られる。母か妹だったら間違にすれば宜い。兎に角かゝってさえくれば斎藤氏到着と認めて安心するというのだった。しかし一向音沙汰がない。尚お待ち構えているところへ、妹の春子さんが訪ねて来た。

「兄さん、イヨ/\お芽出度いんですってね」

 という挨拶だった。井の頭事件以来、実は昼間二度まで様子を訊きに来ている。最初三郎君が見つけたのを母親へ取次いだ丈けに責任を感じているのだった。俊一君は妹の祝意に対して、

「知らん」

 と答えた。

「憤っていて?」

「うむ」

「兄さん、私達、心配していたのよ」

 と春子さんは訴えるように言った。

「余計なお世話だ」

「兄さん」

「三郎には恨み骨髄に徹している」

「それは御無理よ、兄さん」

「白状しろ」

「何よ? 兄さん」

「自分の心に訊いて見ろって三郎に言ってくれ」

 と俊一君が益※(二の字点、1-2-22)激した時、電話がチリン/\鳴り出した。飛びつくようにして、

「はあ/\/\/\」

 とやる。斎藤さん到着の知らせだった。

「兄さん」

「ハッハヽヽヽ」

「変な人! 憤ったり笑ったり」

 と春子さんが呆れた。

 斎藤さんは平塚家の玄関に立って案内を請うた時、取次に出て来た断髪の令嬢を絹子さんと認めた。紹介状と共に刺を通じてから、

「斯う立ち働いているところを見ると、家庭教育が相応行き届いている」

 と思った。好人物だから誤解ばかりしている。絹子さんは時刻を計って待っていたのだった。

「何うぞ此方へ」

 と再び絹子さんが出て来て、西洋間へ案内した。

 待つ間もなく、御主人の平塚さんが現われた。でっぷりと太った禿頭の老人だった。

「これは/\」

「初めてお目にかゝります」

「さあ、何うぞ」

 と平塚さんは範を示す為めか椅子に深くかけた。

「突然お邪魔申上げまして······

 と斎藤さんも席についた。

「よくこそ」

 と平塚さんは相手の名刺と顔を見較べて、紹介状を拡げた。これから読むのだった。

············

「何か新武器の御発明ですかな?」

「いや」

「重大な問題と書いてあります」

「さあ。御子息から別にお手紙で申上げてある筈ですが······

「一向参りませんよ」

「実は御令嬢の御縁談のことで伺いました」

 と斎藤さんは直ぐに切り出す必要を認めた。

「はゝあ」

 と平塚さんは案外のように又名刺を取り上げて見て、

「こら/\!」

 と大喝した。何分号令で鍛えた声だから、斎藤さんは吃驚した。これはテッキリ勲位記がないから問題にしないのだと思ったが、然うではなく、奥さんを呼ぶのだった。

「こら/\! こら/\! こら!」

「はい/\」

 と奥さんが駈けるようにして入って来た。斎藤さんは立ち上って、

「斎藤でございます」

 と自ら紹介した。

「ようこそお越し下さいました」

 と奥さんは目に物を言わせた。

「絹子の縁談だよ」

「まあ、それは/\」

「斎藤さん、これと宜しく御相談を願います。では失礼」

 と平塚少将は出て行ってしまった。



「憤っても笑っても、おれの勝手だよ」

 と俊一君は再び怖い顔に戻った。

「兄さん」

 と春子さんは訴えるようだった。

「何だ? うるさい」

「そんなにお憤りにならなくても宜いじゃございませんか?」

「おれは探偵は嫌いだ」

「誰が探偵?」

「三郎さ」

············

「親の代は兎に角、おれの代になれば、探偵なんかもう寄せつけない」

············

「家へ帰ったら、う言ってくれ」

「兄さん、三郎は何故探偵でございますの?」

「自分の胸に訊いて見れば分る。お前だって少しは覚えのある筈だ」

「ございませんわ、っとも」

「白を切るなら、もう宜いよ」

············

「三郎ばかりだと思っていたら、お前まで嘘をつく。似たもの夫婦だ」

 と俊一君は睨みつけて立ち上った。尤も待っていた電話が来てしまったから、茶の間にはもう用がない。

「あら、何うしたの?」

 とそこへ母親が入って来た。

「春子や、春子」

 と寄り添った。春子さんは顔を掩って、シク/\泣いていた。

············

「俊一」

「何ですか?」

「そこへお坐り」

············

「まあお坐り」

「はあ」

 と俊一君は命に従った。

「お前は何を言ったの?」

「三郎が不都合だから、一寸責めてやったんです」

「我儘な人ね。お前は自分で心配をかけて置いて、ひとを恨むの?」

「お母さんもお父さんも心配しなくて宜いことを心配したんです」

「その口をお慎みなさいよ」

············

「お父さんに申上げますよ」

 と母親はこれを最後の武器とする。

「宜いのよ、もう、お母さん」

 と春子さんは涙を納めた。

「俊一や」

「何ですか?」

「春子も三郎もこの間から安子の縁談で大骨折りですよ」

「知っています」

「それならお礼を言うのが当り前でしょう」

「春子殿、有難う存じます」

 と俊一君は三郎君のように改まって見せた。

「厭な兄さん」

「仕方のない人ね」

 と母親も持て余す。

「この上とも何分宜しくお願い申上げます」

「俊一や、好い加減になさいよ」

「はあ、はゝあ、はあ」

 と俊一君は平伏して、続けさまにお辞儀をした。矢張り角張り婿三郎君の真似だ。父親の姿が見えないと、態度が全く違う。

 春子さんはもう相手にならず、

「お母さん、三郎は念入りですから先輩だの友人だのと手蔓を頼って問合せばかりしていますの」

 と問題に移った。

「御苦労さまね」

「今日も朝から出て参りました。あれじゃ果しがございませんわ」

「一々出掛けますの?」

「えゝ。手紙じゃ通り一片のことしか申しませんからって」

「それはうでしょうが、大変ね」

「同じ好いと言っても、本当は感心していて言うのか、義理で言うのか、手紙じゃ分らないんですって。それですから、一々面談よ。その時受けた印象を点数で現して、成績表みたいなものを拵えていますわ。矢っ張り先生ね」

「然う手堅くやって下されば、間違ありませんわ」

 と母親はその労を多とした。

「今迄の所では七人から伺った平均が七十何点ですって、八十点にならなければ、御推薦は出来ないと言って、一生懸命よ」

「して見ると余りよくないのね」

「いゝえ。点が辛いんですわ。根掘り葉掘り訊いて、御返事がアヤフヤだと、悪い方にしてしまうんですもの」

「その方が間違なくて宜いわ。何方どっちかといえば」

「例えばお酒の問題でしょう。飲みませんと断言すれば好いんですけれど、『さあ、何うでしたかな』と仰有れば、飲む方と見てしまいますの」

「探偵だよ、矢っ張り」

 と俊一君がけなした時、又電話が鳴り出した。母親が立った。

「はあ。はあ/\」

············

「はあ?」

············

「違いますよ」

 とあった。俊一君は我を忘れて伸び上っていた。無論絹子さんからだったろう。

 その頃、平塚家の西洋間では斎藤さんが平塚夫人と対坐していた。

「この春、猛からもその話がございまして、私共としては誠に願ってもない結構な御縁と存じていますが、本人が未だ何分あの通り子供同様で、一向弁えがございませんから」

 と夫人は一息に長文句を続けて、随時にポツリと切るのが癖だ。

「成程」

 と斎藤さんはその都度簡単に受け答えて先を促す。

「そのまゝ差控えていましたところへ、つい先頃猛から又勧めて参りましたし、他にもお話がございますので、それとなく意向を訊いて見ましたが」

「何んな具合でございますか?」

「それが可笑しいんでございますのよ」

「はゝあ」

っとも要領を得ませんの。第一、お嫁に行くという意味が分っていないらしいんでございます。家庭教育も余り厳重過ぎるのは考えものと、私、ツク/″\」

「成程」

「感心致しました。主人があの通り謹厳そのものゝような軍人でございますから、自然女の子まで感化を受けまして、世間普通の娘さんとはとてくらべものになりません。万事につけて、何と申しましょうか?」

「さあ」

晩智恵おくぢえなんでございましょうね。申すことが全くトンチンカンで」

「はゝあ」

「私、何故山下さんへ参らなければなりませんのと訊きますから、それはお前の考え次第でいのと申しますと、自分考えってものが全然ございませんので」

「成程」

「然う/\長く家にいられないと道理を説いて聞かせました。すると、何うせ貰われて行くものなら、見ず知らずの人のところよりも、山下さんのところへ行って上げましょうかって、呑気なものでございますよ。私······

「はあ」

「呆れてしまって、返す言葉もございませんでしたが、考えて見れば、それも無理はございません。主人が主人、家庭教育が家庭教育でございますから」

「却って結構でございます」

「学校を卒業してからは一週に一度ピアノのお稽古に出る丈けで」

「成程」

「人様とお附き合いを致しませんから、身体こそ大きくても、未だほんの赤ん坊で、無邪気なものでございますよ。この間も」

 と夫人は切る度に継続権を保留して置くから、斎藤さんは話す機会がない。長いこと聴き役を勤めた後、

「それでは山下家へは大体何ういう具合にお話し致しましょうか?」

 と漸く切り出した。

「何れ主人と談合の上、本人の意向を確めまして」

「はあ」

「改めて御返事申上げたいと存じますから」

「はあ」

「私としても猛としても、まことに良縁と存じまして、実は進んでいるのでございますが、何分本人があの通り自分料簡のない子供でございまして」

 と夫人が又始めたところへ、

「御免下さい」

 とその絹子さんが入って来て、

「お母さん、山本さんが見えましたから、一寸ちょっとお出で下さいとお父さんが申します」

 と取次いだ。

「それでは一寸失礼させて戴いて、主人が代りますから」

 と夫人は急いで出て行った。入り違いに主人が現われて、

「やあ」

 という挨拶諸共、席についた。

「未だお邪魔申上げて居ります」

 と斎藤さんは会釈した。

「何うぞ御ゆっくり」

「恐れ入ります」

少時しばらく手間が取れるかも知れません。建築屋です。設計の相談でしょう」

「御増築でもなさいますか?」

「いや、折を見て郊外へ移るんでしょう」

「お宅でございますか?」

「はあ、市内はもういけないそうですな」

 と平塚さんは平気なものだ。斎藤さんは、成程、これでは覚束ないと思ったが、念の為め、

「御令息にはお目にかゝったことがございませんが、御親友の山下さんから依頼を受けて、飛んだ御無理なお願いに上りました」

 と探りを入れた。

「山下君は好い青年です」

「私はあの人のお父さんと同僚で年来御懇意に願っています」

「然ういう御関係ですか? 成程」

「如何でございますかな?」

「至極結構でしょう。山下君なら間違ありません」

「先方では非常な御懇望です」

「有難いことです」

「お互の間に多少理解もあるように存じていますが······

「仲は好いです」

「はゝあ」

「もうお話がきまりましたか?」

 と平塚さんは矢張り奥さん委せだ。

「さあ」

「宜しく御相談を願います」

「これからは度々お邪魔に上るかも知れません」

「何うぞ」

「右から左ということは困難でございましょうから、何うぞ宜しくお考え置きを願います」

 と斎藤さんは見極めをつけた。斯ういう人を相手にしていても仕方がない。

「承知しました」

「私はもうこれで失礼致します」

「まあ、宜いでしょう」

「いや、初めてお伺いして、余り長座になりますから」

「構いません」

「いや、これから山下家へ廻らなければなりませんから、又改めて上ります」

「然うですか? 一向お愛想がなかったですな」

「何う致しまして」

「こら/\」

 と平塚さんは又大きな声を出した。

 斎藤さんは山下家へ寄って、委細を報告した。

「一体下さるんでしょうか? 下さらないんでしょうか?」

 と山下夫人は合点に苦しんだ。

「要領を得たような、得ないような、子供の使いのようなことになってしまいましたが、結局下さるんでしょう」

「俊一の話とは大分違っていますな」

 と山下さんは首を傾げた。

「いや、勿体をつけているんです」

「それにしても人を馬鹿にしている」

「いや、あゝいう口上は何処の家庭でも申します。お宅でも春子さんの時に奥さんが仰有いました」

「まあ。オホヽヽ」

 と山下夫人が笑った。

「此方は事情を知ってかゝっているんですが、先方むこうでは初耳ですからな。取繕っているんですよ」

「それにしても極端だよ」

 と山下さんは不足らしかった。

「いや。絹子さんが名優だからです」

「名?」

「役者です」

「確かに猫をかぶっています」

「俊一君も骨が折れましょう」

「そんなに表裏ひょうりのある娘なら考えものだ」

「いや、この頃の人は男でも女でも複雑ですよ。お互と違います。何処を当って見ても大同小異です」

「それじゃ矢っ張りこのまゝ御一任して待ちますかな」

「御挨拶です」

「いや、ハッハヽヽ」

「然う単純じゃ世の中は駄目ですよ」

 と斎藤さんも得るところがあった。

「兎に角、御苦労でした」

「仲人って奴は割が悪いです」

「何故?」

「兎に角とは何です?」

「これは失礼。ハッハヽヽ。実は俊一から聞いたような関係なら二つ返辞だろうと思っていたところへ、君が悪く勿体もったいをつけられて来たものだから、つい」

「癪に障ったのかい?」

「うむ」

 と山下さんは正直だ。

 斎藤さんは家へ帰った。縁談というものは妙に人気がある。奥さんが待っていて、

「あなた、何うでございましたの?」

 と訊いた。

「懲りた/\」

「いけませんでしたの?」

「俊一君は何うして/\純どころでない」

「まあ」

「それに絹子さんてのが名優と来ている」

「お話がこわれましたの?」

「いや、纒まるには纒まるだろうが、この頃の若い人達はナカ/\進んでいる。実に駈引がうまい。うっかり侠気おとこぎを出して口をきくと、好い馬鹿になる」

 と斎藤さんは純な青年男女に利用されたことが分った。

 それから十日たったが、斎藤さんから何等の沙汰もなかった。俊一君は待ちあぐんで、

「お母さん、何うしたんでしょうね?」

 と小首を傾げた。

「さあ。問合せでもしているんでしょう」

「でもお互に身許が分っているんですもの」

「それでも念は入れますよ。家でも頼んであるじゃありませんか?」

「もう一遍斎藤さんに行って貰えないでしょうか?」

「いけませんよ」

「何故ですか?」

見識けんしきってものがありますよ」

 と母親は受けつけなかった。

 斯うなると、俊一君、凝っとしてはいられない。或日のこと、又ピアノ屋さんの資格で公衆電話を利用した。

「絹子さん?」

「はあ。ピアノ屋さん?」

「僕です」

「調子は好いんでございますよ」

「でも、御返事がないので、僕心配しています」

「大丈夫よ」

「もう十日余りになります」

「大きいけんの方が駄目なのよ」

「はあ?」

「もし/\」

「はあ/\」

「大きい鍵が動きませんの」

「反対?」

「いゝえ」

「何? 絹子さん」

「お目にかゝって申上げる方が早いわ。ピアノ屋さん、いつ来て戴けて」

「この日曜は何う?」

「はあ」

「一時に新宿で」

「はあ」

「屹度ですよ」

············

「絹子さん」

············

 俊一君は智恵がなかったと後から思った。実はその前の日曜に三郎君を取っ占めて溜飲を下げたばかりだった。三郎君が安子さんの縁談でやって来た時、

「三郎さん、一寸」

 と自分の部屋へ呼び込んで、

「僕は君に訊きたいことがあります。君は僕の義弟ですか? それとも探偵ですか?」

 と血相を変えて切り出した。それに対して、三郎君は、

「兄さん、申訳ありません」

 と先ずあやまってかゝった。

············

「この間のことは全く僕の誤解でした。以来煩悶しています。何れ御縁談が纒まった上でお詫び申上げたいと思っていました」

「春子からの言伝が届きましたか?」

「はあ」

「これからは悪いことがあったら、直接僕に注意してくれ給え」

「はあ」

「僕は君のお蔭で大変な親不孝をした」

「考えの足らなかった為め、皆さんへ一方ならぬ御迷惑をかけました」

「お互に公明正大にやろう。修身の先生とは思想が違うけれど、誤解をされちゃ詰まらないから、僕もこれから気をつける。安心してくれ給え」

 と俊一君は大威張りだった。

 その直ぐ次の日曜だから、甚だ具合が悪かった。河岸かしを更えるのだったと思ったが、今更仕方がない。この際絹子さんにお冠を曲げられると、大変なことになる。それで定刻に新宿駅のプラットホームで待ち受けた。好い塩梅に誰にも見つからなかったが、公言の手前がある。吉祥寺まで態※(二の字点、1-2-22)別の箱に乗って、駅を出てから初めて一緒になった。

「ピアノ屋さん。オホヽ」

 と絹子さんは大胆不敵だった。

············

「ピアノ屋さんはかったわ」

だいけませんよ」

 と俊一君はズン/\歩く。

「山下さん」

「何ですか?」

「お待ちなさいよ」

「人が通ります」

「厭よ、私」

「何故?」

「些っとも熱がないわ」

 と絹子さんは追うようにして従う。

 公園へ入って、稍※(二の字点、1-2-22)人目から離れた時、

「絹子さん」

「はあ」

「お父さんが反対なさるんですか?」

 と俊一君は三日間思い悩んでいたところを先ず訊いた。

「いゝえ」

「大きい鍵てお父さんでしょう?」

「えゝ」

「動かないってのは何ういう意味ですか?」

「山下さん、あなた何故そんなにキョロ/\なさるの?」

「三郎が怖いんです」

「弱い人」

「もう懲りました」

「もう誰に見られても構いませんのよ」

「宜いんですか?」

うにきまったのよ。オホヽ」

「でも御返事が来ないんですもの」

「お父さんが動かないんです」

「何ういう意味ですか?」

「斎藤さんへ御返事に上るようにと母が申しても、厭だと仰有って受けつけませんの」

「何故でしょう?」

「貰うなら兎に角、くれるのに※(二の字点、1-2-22)わざわざ行く法はないって。私が惜しいのよ」

「はゝあ」

「私、気が気でなくて、この間中二度も電話をかけたのですけれど」

「母が出ましたか?」

「えゝ」

「晩はいつでも電話の下に頑張っていますから」

「私、ピアノ屋さんほど智恵がないから駄目よ」

「お母さんに行って戴けませんか?」

「母は顔へお腫物できが出来ましたの」

「おや/\」

「直り次第伺う積りですけれど、もう一週間ぐらいかゝりましょう」

「しかし大丈夫なら、僕、安心しています」

「直ぐに定ったのよ。あの晩とその次の晩で」

かったです。絹子さん」

「何?」

「妹も昨夜定りました」

「まあ。お芽出度う。日外いつかのお話?」

「はあ。僕達のが今日あたり分ると、皆喜ぶんですが、惜しいですな」

「私から父に頼みましょうか?」

「何うぞ」

「でも、大砲はお尻が重いのよ」

「ハッハヽヽ」

「あら、こゝよ」

 と絹子さんは池の中へ倒れ込んでいる大木を指さした。

「相変らずお玉杓子がいる」

「いるわ/\。ウヨ/\しているわ」

「こゝで話しましょう」

 と俊一君は腰を下した。絹子さんも側にかけて、少時しばらくお玉杓子を見つめていた。

「あなた勘定している?」

「馬鹿な」

「オホヽヽヽ」

「ハッハヽヽ」






底本:「佐々木邦全集7 求婚三銃士 嫁取婿取 家庭三代記 村の成功者」講談社

   1975(昭和50)年4月20日第1刷

初出:「婦人倶楽部」

   1929(昭和4)年1月〜12月

※「註文」と「注文」、「引き受けた」と「引受けた」、「取り繕って」と「取繕って」の混在は、底本通りです。

入力:橋本泰平

校正:芝裕久

2021年10月27日作成

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