チューリッヒでのアインシュタイン教授のことを私は上の文に記しましたが、その後世界大戦が
勃発し、それが一九一八年にようやく
収まった後に、教授のその間に発表せられた一般相対性理論が世界的に著名となったので、わが国でも改造社の
山本実彦氏が京都帝国大学の西田教授と相談して教授
招聘のことを決定し、私にもこれを話されたので、私も大いに賛成したのでした。実はしかしこのころアインシュタイン教授は諸方からの同様な招聘に悩まされて、多くはそれを謝絶していられたということを後に親しく話されたのでしたが、それにもかかわらずわが国からの招聘を快諾されたということは、教授がいかに多く東洋への興味をもっていられたかを示すのでありました。改造社からは当時ベルリンに滞在していた社員
室伏氏を通じてこれをアインシュタイン教授に
謀るとともに、私からも一書を親しく同教授に送ったのでした。それは大正十年夏のことであり、その後十二月に招聘の契約書を送ったのでしたが、翌年五月にそれに対する承諾書が来ました。それには九月にドイツのライプチッヒで自然科学者大会が開かれるが、これは創立百年の記念会であるから、そこでの講演を終えて後に直ちに出発することにすると記してあり、その書信の終わりには、
「あなたとこの秋にお目にかかること、そして私たちにとってはお
伽噺の
幔幕で包まれている輝かしいあなたの国を知ることをよろこばしくもくろみながら
親しい挨拶をもって
あなたの親愛な
アルバート=アインシュタイン です」
という
懐かしい言葉が添えられてあったのでした。かくて十月八日マルセイユ出帆の北野丸に
塔乗して十一月十七日に
神戸に到着されたのです。私たちはそれを神戸で出迎えましたが、東京帝大の長岡教授、九州帝大の
桑木教授、東北帝大の愛知教授なども来合わせられました。天候のぐあいで船がやや遅れたので、その日は京都に着いたのも日ぐれになってしまい、
都ホテルで一泊の後、翌日直ちに東京に向かわれたのでした。それから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の各地で講演を行ない、十二月二十九日に
榛名丸に
門司で乗船して帰国の途に
就かれたのでしたが、それらの間に夫人とともに諸所の風光に接し、また東洋の芸術を見て驚異の感に打たれられたようでもありました。そのとき私が記した文をここに再録して記念としたいと思います。
(講演内容は『アインスタイン教授講演録』のなかに記してあるので、ここではそれは省きます。)「世界中のいろいろな
有様を見るのは自分にとってほんとうに望ましいことです。自分は夢のなかに見るような日本を知りたいので、ことさらにこの旅行に出かけて来ました。実際私には日本ほど特殊な興味を感ずるところはありません」と、教授はいつも私たちに話されました。「科学と芸術とは外見の上では異なっているけれども、それでも両者はこれらが湧き出る同じ精神力を通じて密接に相関連している」と、教授は筆をとって書かれたこともありました。「科学は一つの宗教である」という言葉も書かれました。教授は科学者ではあっても、芸術をも人間の永遠の尊い仕事として、同様に強く愛好されたのでした。それで科学の対象としての自然のほかに、芸術の対象としての自然をもよく
観ようと思われたのでした。そしてこの意味で遠く隔たった日本の
山河や田園や風俗や、さらにヨーロッパの芸術とはまるで異なっている東洋の固有の芸術に対して多大の興味を
抱かれたので、講演の
暇々にそれらのものに接することに大きな喜びを感ぜられたのでした。
柔らかな愛らしい自然のなかに、小さな木造の家を建てて簡素に住んでいる
穏やかな心の人たちとして、この国の生活をゆかしく印象されたのも、これによるのでした。ヨーロッパのような生存競争の
激しい深刻さのないことが、すべての人たちの感情をどれほどゆるやかに伸び伸びとさせ、美しい家族的親愛さを
湛えさせているのであろうと、これを
羨まれました。もとより近代の生活がそれを漸次薄らがせてゆくことにも気づかれはしたでしょうが、しかしヨーロッパに全く欠けているいろいろな美点をここに見出だして、そういう有様が現実に存在しているのを目撃したことをよろこばれました。教授のおだやかな性格には日本の人たちがどこか遠慮ぶかいつつましさをそなえていることをゆかしくも思われたのでした。なんというはにかましい
可憐な心のもち主であろうと、日本の女性を見られもしたのでした。
そしてこのような特殊な環境のなかにこそ特殊な芸術がおのずから育つのであるとも、教授は思われたのです。ことに
能楽のしっとりと落ちついたゆるやかさのなかに、象徴的な複雑さを含んだ緊張しきった
動作のあるのに、むしろ驚異の感を抱かれたのでした。
冥想的な哲学的なこころに
浸されて、教授はいつまでもそのまえに
座ろうとせられました。またそれとともに一方では古代的な要素を多く含んでいる
雅楽にも異常な興味を感ぜられました。東洋風な古画に接しては、陰影をもたないはっきりした
輪廓線の鋭さにいつも眼をつけられました。また写実や投射法を無視した構図に対しても、そのおのずからな感情に導かれて、それらが少しも観照を
妨げないことに注目されました。諸所の神社仏閣における彫刻や建築にも少なからぬ興味を
惹かれたのでした。しかしそれらのなかで最も深く教授を感激させたのは、京都の
仙洞御所のなかで
清涼殿の前庭をかこんだ一帯の風趣であったのです。そこにはきれいな
箒目を縦横にしるした白砂で埋まった四角な広い庭があり、それをとり囲んで二方にはすっきりとした
廊下の半ば白い
腰障子が並んでいたのでした。西側は清涼殿のおもてで、黄いろい
簾が紅の
紐で結ばれ、
黒瓦の下に平行に
懸っているのが見られます。南側には
紫宸殿の後ろ側の板戸がありました。「なんという
瀟洒なこころよい建築であろう。私は未だかつてこんな気もちの安らかなものを見たことはない」と、教授はほんとうに驚きの表情にみちてそこにたたずまれました。砂を敷いた庭の一隅に
一叢のわずかばかりな竹林が四角に囲われて立っており、そこからやや隔たって二、三本の竹があるだけで、他には静寂のほか何ものもないのでした。昔は朝になると、この竹林に小鳥が来て
囀るので、それで時刻を知ったのだという説明を、非常におもしろがって聞かれました。もうずっと先方へゆかれた夫人を呼び戻してこの話を繰り返して話されたほどでした、明け放しな宮廷の寒さを身に覚えながら、昔は火の気もおかれなかったことや、宮廷内では三十七歳をこえるまでは、冬
足袋もゆるされずに
素裸足でいなければならなかったことなどを聞かれて、ふしぎな夢もの語りのようにも思われたようでした。かような場所を中心にしてなだらかな美しい山々で囲まれた京都の一帯は、教授に最も深い印象を与えたので、そのあたりのいろいろな風光に接するのをこの上ない楽しみとせられたのでした。
概して教授は、どこに行っても人々のありのままの姿と、またその手になった芸術を観賞することを好まれたのでした。それで何でもないような
襖模様や金具にさえ感興を
惹かれて、それを注目されました。ですから床の間が
檜の一枚板であるとか、柱が
柾目の杉であるとかいうようなことは、教授にとってなんの価値もなかったのです。名古屋城の金の
鯱も教授にはさほど注目を惹かなかったので、むしろその形態の
趣きや、城の屋根瓦が波のような感じをもつことをよろこばれました。そこに尊ぶべきものは材料の値高さではなく、人間のこころのあらわれであると信ぜられていたからです。ごく平民的な教授は富豪の家でりっぱな装飾を眺めることよりも、むしろありのままの平俗な生活を知るために
田舎みちをみずから歩いてみたいとも言われました。しかしそういう機会はあまりなかったのですが、
須磨でちょっと町を歩いて、市の防火宣伝の
画の
建札が
辻に立っていたのに注目されたり、人形や菓子の並んでいる店や、魚屋や市場のまえに立ち止まってもの珍しそうにそれを眺められました。福岡で洋式旅館のないことを心配して、改造社では門司の
三井倶楽部を借りてそこに泊って福岡の講演におもむかれるようにしたところが、講演の翌日に再び九州帝大の
午餐会でそこにおもむかなくてはならなかったので、教授はそれを好機としてぜひとも一度は日本式の旅館へ泊ってみたいと申し出られ、自分ひとりでその夜を
蒲団の上に
寝ね、
味噌汁で朝食をとられました。そして「自分だけで日本を旅行するのならば、どこでもこういう宿屋で泊りたい」とも話されました。米食や日本料理はあまりにもその口に
不慣れであったに違いないのですが、それでも習俗を知ろうとする心からそう言われたのに違いありません。もし事情がゆるすならば、もっと静かにひとりでこのめずらしい国を
観てゆきたいし、どこか山登りでもしてその自然にも親しみたいとも言われました。しかしそういうことも、わずかの滞在日数で実現できなかったのは遺憾でもありました。
教授はいつも親しく接していた人たちに対して心おきない親しさを示されました。時には自分で
戯談ばなしや警句を発して笑い興ぜられたのです。ホテルでの食事にしきりに献立表から何かを選ぼうとしている人を見ると、「これはいくら研究したってわからないものの一つで
籤を引くようなものです。あんなにむだに頭をつかっては、おかげであの人の食事はうま味を失うでしょう。だから、自分はいつも妻に任せている」と言われ、私が同じものを注文すると、「講演で我々ふたりはいつも組になるのだから、食皿も同じにしてもいいですね」と笑われました。名古屋城内で
襖に描かれた虎の絵を見て、「経済学者の顔のようだ」と言われたり、
熱田神宮で手洗いの浄水溜めを見て、「神聖の水は危険だ」と
揶揄されたり、大阪で講演半ばの休憩時間に忙がしく食事をせられたとき、「もう少しいかがですか」と山本氏のすすめるのに対し、「歌う鳥はたくさんは食べません」と答えられたりしました。岡本一平氏が東京朝日に書いた漫画を見て、それに添えた文章をいつも附き添っていた稲垣氏に訳させてはいかにも無邪気な笑いに
耽られました。
真摯な一面にはそういう明るい上品な笑いが常にこもっていました。また機会があると、ヴァイオリンを手にして私たちにもそれを喜んで聞かされました。帝国ホテルでの歓迎会の席上でもこれを奏せられましたが、名古屋では医科大学にいられたミハエリス教授とともにホテルの一室で合奏して午後の半日を楽しまれました。夫人が「私の夫は物理学者にならないで音楽家になっても成功したにちがいありません」と言われ、また「あれがあまりうますぎるので、私はそれ以来楽器を手にするのをやめました」と言われたりしましたが、実際にそういうとき教授はほんとうの芸術家の気分に浸って演奏されるのでした。
教授は華美な歓迎会などはあまりによろこばれなかったので、それよりも静かな休息時間の方がはるかにいいとさえ言われました。アメリカ化された建築ややかましい音楽なども好まれないものに属していました。私がアメリカをまだ見ないことを話しましたら、「あんな国にゆくものでは決してない。あそこはすべて金銭ばかりの一次元の世界だから」と答えられました。「ただアメリカで
採るべきところはデモクラチッシュな点だけだ」とも言われました。人情的に見てスイスやオランダなどはよほど好まれていたようですが、ドイツはかなり嫌われていました。教授をドイツ人として歓迎したり、またドイツ人仲間の会合が催されたときには、私たちを省りみて「また黒赤黄いろだ」と苦笑されたりしました。世界大戦中にはスイスに行っていたことなどを話されたこともありました。
物理学上の研究問題については最も熱心に私たちとも論じ、かつ教えられました。量子論は困難な問題であるが、ボーアの理論は少しの疑いもなく信ぜられると言われました。電磁的質量と万有引力との関係については、私がいろいろ尋ねたのに対し、それはまだ想像をゆるされない全くわからない問題であるとなし、「神は想像をもってではなく、理性をもって仕事する」という言を引用されたりしました。私が以前から考えていた電磁的エネルギー・テンソルの対称性の問題について話したことに対し、大いに興味をもたれて、汽車旅行の折りやそのほかの暇のあるたびごとにそれについての意見をいろいろ話されました。そしていくらかの数学的の計算をも行ないましたが、これは完成には至らなかったのでした。
福岡での講演後に、教授は数日を
門司に送って関門海峡の美しい風光にも親しまれましたが、十二月二十九日に
榛名丸で出発されることになり、もはやうすら寒い風の吹くなかで、幾たびか別れの握手をかわしながら、名ごりを惜しんだのでした。夫人の眼にまず涙が流れ落ちるのを見ると、教授も赤く眼をはらせていられるので、私たちも船を去りかねたほどでした。船が出帆すると、教授夫妻はいつまでも寒い甲板に立って帽を振りハンケチを振られるのが望まれたのでした。教授のわが国における滞在はわずかに四十日あまりにすぎなかったのでしたが、しかしその特殊な印象は必ずいつまでもその
脳裡に深く残されていることを、私たちは信じています。日本への旅は教授にとって確かに最も特異なものであったにちがいないからです。
(一九二三年一月)