北海道の
おすぎの夫は、坑内の
二月のはじめであった。おすぎはトシを背負って身のまわりのものを入れた風呂敷包をさげて寮を出た。患者の順吉は二、三日まえに既に入院しているのである。寮長から附添いの話があったとき、おすぎは二つ返事で承知した。トシを寮に預けていくというわけには行かないが、また三つになるトシはそう手の焼ける子でもない。寮の炊事には若い娘がいくたりかいたが、それよりもおすぎが行く方が穏当のような気がした。弥生寮のある福住三区というところは山の中腹に当る。夕張は高原地帯なのである。おすぎは徒歩で山を下りようとして、ふと思い直した。履いているゴム長は底が減りすぎていて、雪の坂道を下るのは危い気がした。少し廻り道にはなるが、人車を利用した方が無事である。溜り場には三四人の人が人車の下りてくるのを待っていた。おすぎもそこに
そこはある寮の裏手に当っていて、ゴミ捨場の上の空間を、
「ああちゃん、カラス。」
背なかでトシが
夕張は鴉の多いところである。雪景のあちこちに、まるで一片の木炭のようなやつが、決して人とは視線を交えず、きょろきょろとぬからぬかおをしているのをよく見かける。鴉のことでは芳三の思い出がある。こんどの戦争で支那大陸に行った芳三は、鴉を生け捕って食った経験を話して、面白ずくか本気かわからなかったが、当時住んでいた長屋の窓下に
間もなく、車輪の音を響かせて人車が下りてきた。混みあう時刻ではないので、乗っている人はいくたりもいなかった。係りの年寄りは当時の芳三の同僚である。おすぎを見かけると声をかけた。
「町へいくのかい?」
「病院へいくの。」
「トシ坊が悪いのか?」
「いいえ。寮の人が入院したんでお手伝いにいくの。」
「そうか。病人の介抱か。」
年寄りはそれは御苦労なこったという顔をしてうなずいて、その
炭坑病院は町の入口のところにある。三
「どうもすみません。いま寮から電話がかかってきて、あんたが来てくれるって、知らせてくれた。」
「手術はまだなの?」
「今晩なんです。」
おすぎは背なかからトシを下した。大きな部屋で、ふたがわに二十ばかり寝台が並んでいて、みんなふさがっていた。それぞれ附添いがついていたが、殆んどが長屋の人たちのようであった。外科は毎日のように入院患者がある。坑内で怪我人が出ない日はないのだから。順吉は向いの窓際に並んでいる寝台の一つを
「あの人がすぐ退院するから、あとであそこへ引越しましょう。」
見ると、その人はもう退院の
「こんどはどうもすみません。とんだお世話になりますね。」
と順吉は改まって云った。
「いいえ。気がねをしないで、なんでも遠慮なく云いつけて下さいね。」
「ありがとう。」順吉は気の毒そうに笑いながら、「それでも、おすぎさんはたっしゃだなあ。」
「ええ。おかげさまであたしもこの子も丈夫ですわ。」
トシはふしぎそうに病室の中を見廻していたが、順吉の顔を見あげて、にこにこしながら、
「ああちゃん、ああちゃん。」と呼びかけた。
「まあ。この子は誰を見ても、ああちゃんの一点張りなんですの。おじちゃんですよ。おじちゃんと云ってごらん。」
順吉はトシを抱きとって、
「トシ坊は
そう云いながら、順吉はトシの頬に顔を寄せた。順吉はおあいそをしているのではない。トシの幼さに思わず心をそそられたのである。そういう順吉の顔を、おすぎはめずらしそうに見た。
順吉は寮ではおとなしい男で通っている。寮生は殆んどが内地から来た者である。東京者もいくたりかいる。順吉もその一人である。齢は三十五だが、齢よりはすこしふけて見える。夕張に来て二年目になるが、最初の冬は寒さと労働の
窓際の人が退院したので、順吉たちはそのあとに移った。その人はおかみさんと二人で病室の一人一人に挨拶して順吉たちにも「御大事に。」という言葉をかけていった。おかみさんは順吉たちを夫婦のように思い違いをした様子でトシに
看護婦の見習が二人連れ立って入ってきて、順吉の寝台のわきに立った。見ると一人は手に
「ひどい恰好をさせやがる。」
順吉は照れて苦笑いをした。
おすぎはまたトシを背負って、町へ出かけて、差当って必要なもの、洗面器、
「ごらんなさい。観音さまのお守りが割れちゃった。」
おすぎは無言で手に取って、ちょっと感慨深げに見守ってから順吉に返した。
日が暮れて燈火が
順吉の手術の結果は順調であった。痛いものらしいのだが、順吉はそう痛みを訴えるでもなかった。
「痛みますか?」と訊くと、柔らいだ表情で、「ええ、すこし。」と答えた。
その後四五日は
「もうすこしの辛抱よ。なんでも上れるようになったら順さんのお好きなものをつくってあげますわ。」
と云うと、順吉は照れたような表情をした。順吉はよくその浅黒い顔を赤くした。現場の先山が見舞いにきて夕張も悪くないだべ、こっちで所帯を持ったらどうかと云ったときにも。また、寮長が味噌を持ってきてしっかり養生してまた働いてくれと云ったときにも。夕張に来た最初の冬に躯を悪くして仕事を休んでいた頃、風呂で寮長と一緒になったとき内地へ帰れと云われて途方に暮れたことがある。病気になったからと云って帰れる身の上ならば、はじめから北海道くんだりまでやって来はしない。あのときは心細い思いをした。ここで
「北海道は寒くていやでしょ。」
「ええ。はじめの年は寒かったな。でもことしは慣れたせいか、それほど寒いとは思いませんよ。」
世の中はいやなことばかりではない。苦しいことのあとには楽しいことがある。諦める心は同時にまた期待する心である。順吉はそれを経験で知っていた。順吉がまだ十の年に母親に死別れて独りで世の中に投げ出されたとき以来、齢をとるにつれてまた境遇の変るたびごとにいわば肉体的な
母一人子一人の身の上であった。順吉には父親の記憶は少しもない。物心がついた頃には母親と自分だけしかいなかった。母親からは父親は順吉が
夕張にきてしばらくは殺風景な、ただ寒いばかりの処だと思った。いまは、住めば都だと思っている。
「順さんはいずれまた東京へ帰るんでしょ。」
と、おすぎが云った。トシに昼寝をさせて、洗濯した順吉のシャツのつくろいをしながら。順吉は寝台に
「ええ。こっちへ来るときはそのつもりだったんだけど。二年ばかり働いてすこしは残して帰ろうなんて思っていたんだけど。」
「それですこしは残りましたか?」
「いいえ、さっぱり。この分じゃいつ帰れるかわからない。」
「それでも東京には
「冗談じゃない。おすぎさんも口がうまいな。そんな人がいれば、なにも北海道までくるもんか。」
「隠しても駄目ですよ。それじゃ順さんはこれまでずっとお独りだったの? お家を持ったことはないんですか?」
「ええ。いい齢をして他人の台所をうろついてきたんですよ。」
母親に死別れてから、順吉は折にふれてわが家というものを想像したが、それは幼い身で独り世の中に投げ出されたときから変ることなく、いつもきまって母親と二人で暮す生活のことばかりが思われた。死んだ母親のいる家、順吉がゆっくり手足を伸すことの出来る家。北海道行はそれまで東京の外へ出たことのなかった順吉にとっては初めてする遠い旅であったが、途中汽車が青森の郊外に入って、雪の降る中に次第に数を増してくる燈火を寒さに震えながら眺めたときにも、また北海道に渡ってから、寂しい海岸べりを長時間も、そういう
「おすぎさんは内地へ行ったことはないの?」
「ええ。まだいちども。
「おすぎさんはずっと夕張ですか?」
「いいえ、あたしは
おすぎも肉親の縁には薄い身の上であった。父親は岩見沢の警察の
「でも順さんもよくこんな炭坑なんかに来る気になりましたわね。」
「だってどうにもしようがなかったんですよ。あちこちに不義理だらけで。」
と順吉は吐き出すように云った。自分の過去に対して
「そうですわ。誰も好きで不義理をしたいわけじゃないですもの。仕方のないことがありますわ。」
おすぎは自分の心に問うようにうなずいて云った。こちらにも言い分があるような気はするものの、世話になった叔父の家を出たときのことを思うと、うしろめたい気にもなるのであった。芳三はいつも大きなことを云って輝かしい未来を描いて見せた。おすぎはそれを芳三の云うとおりに信じたわけではなかった。芳三はおすぎを
順吉はスチームのわきに片寄せた夜具の上にすやすや寝息を立てているトシを見て、
「トシ坊はいまがいちばん可愛いときだな。あんたによく似ている。色の白いところや額の感じなど。」
「ええ。みなさんがそう云いますわ。」
「おすぎさんはすこしおでこじゃないんですか。
「褒めているわけでもないんでしょ。お前は額が高くて鼻が低くてまるでおかめのようだって、おっかさんからよく云われましたわ。学校へ行っていた頃には、友達からでこでこって云われたものですわ。」
順吉はふと思い出したように笑いながら、
「おすぎさん。ちょっとここを触ってごらんなさい。」
そう云って、寝台からその短く刈った頭を伸して、おすぎの指を触れさせて、
「いやにでこぼこしているでしょ。こういうのを
「でもそとからはわからないですよ。」
おすぎはわからないままに気の毒そうに云った。
「いいえ。お袋の話だと縁起がいいらしいんだけど。」
「あら、それじゃ結構じゃありませんか。」
そう云ってから、おすぎはなんとつかず可笑しくなった。順吉も笑いながら、
「結構でもないがなあ。」
と云ったが、なにか楽しそうな眼つきをした。
順吉には母親に
「おすぎさんもたいへんだなあ。」
順吉はいまさらのように、おすぎ親子の境遇を思いやった。
順吉はおすぎの夫の芳三を知っていた。順吉が夕張にきた頃、ちょうど芳三は人車捲きの係りをしていた。奇禍に遭う二月ばかりまえのことである。順吉は仕事のかえりには、徒歩で山を登らずにそのつど人車の世話になっていたから、ときどき芳三を見かけていた。芳三は坑夫たちの間ではこわもてしているようであった。骨太の躯の大きい男で、額の感じなど如何にも喧嘩好きらしい気性を見せていた。口のきき方もひどく乱暴であった。
おすぎが寮にきてしばらくしてから、あれが死んだ芳三の女房だと聞かされたとき、順吉は意外な気がした。芳三のような一見粗暴な男の女房としては、卑屈なもっとおどおどした女を想像していたからである。「芳三は女房に
「順さんはいい身分だね。」
見舞いにきてくれた寮生や現場の同僚たちが、順吉とおすぎをかえりみて口々に云う。ただ
「おすぎさんはいいなあ。」
順吉はおすぎと話しながら、ときどきおすぎの顔を見つめている自分に気づくようになっていた。
順吉の隣りの寝台にいる親爺さんは長屋の人ではなくて、やはりほかの寮にいる人であった。息子かと思われた若者も同じ寮生で、手が足りないため附添いを頼まれたものらしかった。盲腸の手術をしたのだが、経過ははかばかしくないようであった。痩せこけて不精髯を生やしているのでひどくふけて見えたが、それほどの齢でもなかった。やはり東京者で深川に妻子を残してきたという。
「附添いに来ているんだか遊びに来ているんだかわかりゃあしねえ。」
と、大声で聞えよがしに云っては、寝台から不自由な躯を起して、便器の前に屈み込んだりした。ときには若者に面と向って、
「あんた厭なら寮へ帰って、誰かほかの人を代りに寄こして下さい。」
と、つけつけ云うこともある。たとえどんなに行届かないにしろ、世話をしてもらっている人にひどいことを云うと思われるのだが、そんなに云われても、若者は腹を立てるでもなく云い返しもしなかった。この若者は病院に携帯用の蓄音器を持ち込んでいて、あちこちの病室に持参してはかけているようであった。おすぎも乾燥室で若者が同室の附添いの娘と二人で、蓄音器をかけているのを見かけたこともある。親爺さんが怒るのも無理のないところもあるし、若者としてはまたいまの境遇が気に入っているようなところもあった。坑内に入って真黒になるよりは、この方がまんざらでもないのかも知れなかった。順吉は親爺さんがあまり口汚く云うので、聞き辛い気もしたし若者が気の毒にも思えたが、病室の人は誰もこの二人のことをことさら気にするふうでもなかった。おすぎも隣り同士のよしみで、なにかと親爺さんの面倒を見たり、また若者にも親切に振舞っていた。おすぎの気軽なこだわりのない様子を見ていると、順吉は柔らいだ気持をひきだされた。
隣りの親爺さんはふだんは
「齢はとりたくないものですね。気ばかりで躯がいうことをききません。そろそろ東京へ帰ろうかと思っているんです。」
と、親爺さんは云った。
ある晩、病院の隣りの芝居小屋にめずらしく地方廻りの歌舞伎芝居がかかった。順吉はおすぎに気晴らしに行ってくるようにすすめた。
「あたしは田舎者ですから。それにもったいないですわ。」
と、おすぎは云った。おすぎは若者を誘ったが、若者は映画を見に行くと云った。おすぎはトシを連れて出かけた。
帰ると、若者はまだ帰ってきていなかった。
「あの芝居は泣かせるでしょう。」
と、親爺さんが云った。おすぎは買ってきた
「トシ坊はお芝居を見てきてよかったね。おとなしく見ていた?」
「ええ、お利口さんでしたね。きれいなお姫さまがいたでしょ。」
おすぎはトシの顔を見つめている順吉の眼差しを見てこの人は子供が好きらしいと思った。眼は心の窓と云うが、その人の心の奥が覗かれるような気のすることがあるものである。死んだ芳三も子供好きであった。芳三は仕事から帰ってきてから、よく町の
「なんだ、迎えに来たのか? すぐ終るから待ってろ。」
と、
「どうでした?」
と訊くと、
「負けた。」
と、云って闊達に笑う。おすぎにおぶさっているトシの顔を覗き込んで、指でかるくその頬をはじいたりする。ふいに道ばたに屈み込むので、どうしたのかと思うと、そこに咲いている名もない花を摘んでトシの掌に握らせるのである。芳三が負けた結果は直接生活にひびいてくる。おすぎは困ったと思いながら、それでいて芳三の顔を見ていると、何か心丈夫な気がしてくるのであった。見かけはただ荒っぽいばかりの人であったが、そのやさしい実意をおすぎはいちども疑ったことはなかった。家計は苦しかったが、おすぎには楽しい生活であった。順吉を見ていると、まるきり違った人柄のようでいてどこか芳三に似てるようなところがある。そう云えば、芳三があけすけであったように順吉にも自分の過去を飾るようなところがない。内地から来た人の中にはどうかすると自分の来歴を修飾して話す人があるが、順吉にはそんなところは少しもなかった。世の中というすり
おすぎは病院へ来た最初の日に、順吉が観音さまのお守りを見せてくれたときのことを、このときもまたふと思い浮かべた。
「山村さんが明日退院するそうですよ。」
「ああ、あの六号室の
「ええ。おもしろい人ですわね。あたしがあの人の死んだおかみさんに似ているんですって。」
やがて若者が帰ってきた。しばらくしてみんな寝仕度をした。